2020年11月25日水曜日

学生街の喫茶店(振り返ってわかる愛)

 

学生街の喫茶店(振り返ってわかる愛)

 私の中学生の頃のガロというグループの「学生街の喫茶店」といううたがありました。ずいぶんヒットした歌で、私も、よくラジオやテレビで聞ききました。ラジオのリクエスト番組なんかに、はがき出したような記憶もあります。

 その歌の歌詞の中にでも、「あの頃は愛だとは知らなくて、さよならも言わないで別れたよ。って歌詞って歌詞がありますが、今にして思えばなんて、「中学生の私は、どんな思いで聞いてたのかな?」って思います。きっと分けもわかんないくせに、わかったような顔をして聞いていたんじゃないのかな?

 でも今は、ちょっとはわかるような気がします。恋愛経験ということに限っていえばからっきしでしたけれたけど、でも、恋愛経験以外でも、それなりに経験するところもありましたからね。

 たとえば、自分が親になって振り返ってみて、「あのときの親の気持ちはこうなんだったんだろうな。」ってわかるじゃないですか。たとえば、わが家は三人の子供の受験を経験しまた。だから、子供たちには口がすっぱくなるほど勉強しろだの、頑張れなどとハッパをかけてたんですよね。子供のことを心配するからです。

 もちろん、私が受験生の時には、私も同じように親からハッパをかけられていた。そのときは、ちょっとうるさい感じがしていましたが、やっぱり私の親も、私のことをずいぶんと心配してくれていたんですよね。

自分が親になり、振り返ってみて初めて、そのときには十分にわかりきれなかった親が子供を思う気持ちや愛がどんなものであるかということを、本当に理解しわかることができました。

 実はね、私がクリスチャンになろう、聖書の神様を信じようと思ったのは、神様の愛は振り返ってみて初めてわかるんだってことを知ったからなんです。

 私は、中学・高校時代は、映画が好きでね。将来は映画製作の現場で働きたいって思っていました。それで、そういった関係の学校に行きたいと思ってたんです。それこそ、そういった仕事ができれば、食えなくてもいいぐらいに思ってました。

でも、もちろん親からは猛烈に反対されましてた。食べて行けるのか。才能はあるのか。心配の種は山ほどあったと思います。もっとも今にしてみれば、その気持ちもよくわかります。結局、私の場合は道がことごとく閉ざされていったんですね。それこそ、大学はすべって浪人するは、やることなすことことごとく道が閉ざされる。 

そんな時ですよ、教会に行ったのは、そしてその教会で話される聖書の話の中に、神様の愛は、そのときはわからないけれど、振り返ってみてはじめてわかるんだって事を聞いたんです。

そこで、ふと我に返って、そのことを自分のことに振る変えて考えてみたんです。そして「あれも、これも道が閉ざされていった。そんな中で今こうして、ここそのことをふりかえって見ると、今、こうしてここにいるのは、神様が、そのように道を閉ざしながら、自分を導いているのかもしれない。だとしたら、神様の愛が、振り返ってみてわかる愛ならば、その神の愛に賭けてみよう」ってそう思って、クリスチャンになったんです。

クリスチャンになってからも、経済的に苦しいことや、子供の病気、自分の病気、人間関係のもつれや、など挫折やしんどいことは山とありました。もちろん、そのような困難な問題を、「 神が試練としてお与えになった」なんて事はないと思いますし、そのように考えたこともありません。

でも、そのような困難や大変さ中であっても、振り返ってわかる神様の愛を信じ、それにかけて生きてきました。そうやって生きて来て、いま振り返ってみると、そういったさまざまな問題があって、自分の今がある。

 聖書の中で、パウロという人が、「キリストによって、今の自分があるんだ」っていっているところがありますが、まさに「神を信じ、キリストを信じる信仰によって、今の自分がある。本当に神様は、私の人生を導いてくれているんだな」ってそう思えるのです。

 困難や問題の中にいるときは、そこに神様の愛があるなんてわかりもしなければ、感じられるものではありません。でも、神を信じて歩んでいくならば、人生のある時点で振り返ってみるときに、その困難や問題の中でも、私たちを支え、私たちを導いてくださる神様の愛に気付く事ができる。 

 聖書のローマ人への手紙828節には、「神を愛する人々、すなわち神のご計画に従って召された人々のためには、神はすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」とあります。

 どんな困難な問題や、大変な出来事に出会っても、そこには、私たちを支え、導いてくださる神の愛がある。そして、人生のある時点で、そのときのことを振り返ってみると、問題や困難の最中には、気づかなかった神の愛がそこにある。

その神の愛は、あなたにも注がれているのです。