2022年5月29日日曜日

礼拝説教「謙遜な心の物語」

 礼拝説教「謙遜な心の物語」                       2022.5.29

旧約書:詩篇8
福音書:ヨハネによる福音書322節から36
使徒書:使徒行伝の2017節から20

 今日の礼拝の説教の箇所はヨハネによる福音書322節から30節です。この個所は、22節から30節です。この個所に記されている物語は、イエス・キリスト様とその弟子たちがユダヤの地で洗礼を授けていた時のことを伝えています。

 バプテスマのヨハネの弟子たちが、イエス・キリスト様とその弟子たちが洗礼をしているのを知って、自分たちの師匠のところにやって来て、そのことを報告します。

 「先生、あなたが洗礼を授けた、あのナザレのイエスが、先生に断りもなくヨルダン川の向こう側で、勝手に自分たちで洗礼を施しています。しもですよ、しかも。こともあろうか、あっちの方に送の人が行ってしまっているんです。これって、おかしく思いませんか。ねえ先生、そう思いませんか。」

 バプテスマのヨハネの弟子たちは、悔しかったんでしょうね。こと洗礼に関しては、自分たちの先生の方が本家本元なのです。それが、気が付いたら、そのバプテスマのヨハネから洗礼を受けたナザレのイエスという男が、自分たちで勝手に洗礼を施すようになり、しかも自分たちよりも多くの人たちを集めている。

 だから本家本元の弟子としては、悔しくて仕方がないと思ってもやむを得ないことなのかもしれません。折しも、そのような時に、そのバプテスマの弟子たちとユダヤ人の間に、清めのことで論争があった。

 この論争で主題となったのは清めのことです。この清めというのは、私たち日本ホーリネス教団が言う聖めというものとは、言葉は同じですが、内容は少し違います、

 私たちの教団が言う聖めというのは、いわゆる聖化というもので、私たちの内に聖なる神の聖なる御性質あずかり、それよって神に似た者となっていくということで、ギリシャ語ではハギアスモス(άγιασμος)という言葉で表される聖めです。それに対して、今日の聖書の箇所の清めは、ギリシャ語ではカサリスモスκαθαρισμοςという言葉で、罪に汚れたその人間の罪や汚れを洗い流しきれいにするという意味での清めということです。

 その罪と汚れを洗いきよめるカサリスモスκαθαρισμος)としての「清め」に関して、ユダヤ人とバプテスマのヨハネの弟子たちの間に論争があったというのです。

 ユダヤ人:おい、お前さんバプテスマのヨハネ弟子だってな。知ってるか。あのナザレのイエスって男が、最近、お前さんたちみたいに清めの洗礼を施しているらしいがが、あちらさんは、たいそう人が集まっているみたいだぜ」

 バプテスマのヨハネの弟子:そうみたいですね。でも、あのナザレのイエスも、うちの先生から洗礼を受けたんですよ。ですからあのナザレのイエスよりも、うちの先生の方が偉いにきまってます。

 ユダヤ人;確かに順番から言えば、そうだろうが、しかし、あれだけナザレのイエスの方に人が集まっているんだ。だとしたら、ナザレのイエスは、お前の先生を超えてしまったんじゃないか。だからナザレのイエスの施す洗礼の方が霊験あらたかで、ナザレのイエスの方で洗礼を受けた方が、神様の前にしっかりと罪が洗い流されるじゃないのかい。バプテスマのヨハネの洗礼は、ナザレのイエスほど、効果が見られない。だからみんななされのイエスの方にいってしまうんじゃないかね

バプテスマのヨハネの弟子。なんてこと言うんですが。洗礼運動はもともとといえば、うちの先生が始めたことです。うちが本家本元なんだ。うちの先生の洗礼に罪を洗い清める力がナザレのイエスにおよばないなんて、そんなことはありっこない。

ユダヤ人:そんなこといったって、数はあっちの方が多いんだ。民衆ってものは正直なもんだよ。

きっと、こんな会話がされていたのではないかと思います。だからこそ、バプテスマのヨハネの弟子たちは、「先生、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼(バプテスマ)を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」とバプテスマのヨハネにご注進するのです。そしてその言葉の背後には、「先生、この際ですから、先生からあのナザレのイエスに、ガツンと一言いってやってください」という思いがある、

私はなんだかそんな思いで、この場面が目の前に浮かんでくるのです。そしてその弟子たちの言葉を聞いたバプテスマのヨハネは

 「お前たちよく聞きなさい。神の業というのは、神の権威を神から与えられた者がするものだ。私はそのような権威を神から与えられているわけでない。だから私は、神が羅油注がれた王でもなければ祭司でない。また預言者でもない。私はメシアではないのだ。

ただ私は、自分自身の姿を見、人々の姿を見て、私たちがどんなに神様から離れて生きている罪深い汚れた者であるかということだけはわかる。そうだろう、私たちがこの世でしていることを見ていたら、おまえたちだってそう思わざるを得ないだろう。だから、その私たちの罪や汚れを洗い流してくださいと願いながら、人々に洗礼を授けているのだ。


 だが、私が、洗礼を授けたあのナザレのイエスというお方は違う。あの方は、この世の罪を取り除くお方だ。あの人のなさっていることを見てごらん。あの方は神がつかわされたお方だ。神の権威で洗礼を授けている。
 だから、私が人間の思いや願いから洗礼を授けているのとはわけが違う。神の権威で洗礼をさずけているのだ。私の洗礼は、罪を洗い流すために水で洗いの清めκαθαρισμος)るためのものが、あの方は、私たちを聖なる神の聖なるご性質に与らせ、私たちを聖なる神の命を与えるために聖霊によって洗礼を授けているのだ。 

 私は花嫁が花婿を待つように、あのナザレのイエスというお方が来るのを待ち望んでいたのだ。その方が来られ、神の業を行っていることを、どうして喜ばないでいられようか。
 お前たちは、あのお方のもとに人々が多く集まっているのを見て、悔しがり、心配しているのだろう。だが、それでいいのだ。大切なのは、人々があのお方のもとに集まり、神の命をいただき、神の命を生きる真の神の民になることだろう。だから、私は滅び、あの方が栄えるということが大切なことなのだ」。

 まさに、バプテスマのヨハネの

27:人は、天から与えられなければ、何も受けることはできない。28:『私はメシアではなく、あの方の前に遣わされた者だ』と私が言ったことを、まさにあなたがたが証ししてくれる。29:花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人は立って耳を傾け、花婿の声を聞いて大いに喜ぶ。だから、私は喜びで満たされている。30:あの方は必ず栄え、私は衰える。

という言葉には、そのようのバプテスマのヨハネの思いが込められているように、私には思えるのです。そう思えて仕方がないのです。そしてそこに、バプテスマのヨハネの謙虚な姿を見るような思いがします。

 バプテスマのヨハネという人は、本当に面白い人で、聖書のある個所を読むととても変人だというイメージがあがり、ある個所ではとても激しい気性の人であるイメージがあったり、また別の箇所では、頑固で生真面目な一本気の男のイメージがあったりと、様々な印象を与えてくれる人です。そしてここでは、謙虚な人だなというイメージがわいてくる。

 バプテスマのヨハネは、イエス・キリスト様が世に出てくる以前は、ユダヤの民の中で洗礼運動をおこし、それなりに知られた人物であり、バプテスマのヨハネのところに多くの人がやって来て、洗礼を受けていました。ですから、それなりに隆盛を極めたと思われます。それがイエス・キリスト様に取って代わられそうになっているのですから、バプテスマの弟子たちの悔しい気持ちはわからないわけではありません。

 しかし、バプテスマのヨハネ自身は「あの方は必ず栄え、私は衰える」といって、その事実を受け止めているのです。それは、彼自身がちゃんと自分自身の役割を知り、自分が何者であるかを知っているからです。

 ふつうは、自分が有名になり、成功をおさめ、周りから賞賛の言葉を浴びせられるようになりますと、なんだか自分が偉くなったような気持になるものです。もちろんそうでない方もいらっしゃるだろうと思いますが、しかし、多くの場合、高慢になり、傲慢な振る舞いをするようになってくる傾向の方が多いのです。

 しかし、バプテスマのヨハネは、ちゃんと自分は『私はメシアではなく、あの方の前に遣わされた者だ』という自覚を持ち、それを忘れないでいるのです。私が主役ではなく、主役はイエス・キリスト様で、私は露払いに過ぎない者にすぎないのだということがちゃんとわかっている。

 自分自身を知るということは、私たちが謙遜になることのためには、とても大切なことです。それは、人と比べて自分を見ることによっては本当の自分自身の姿を見ることはできません。比べる相手によって、自分はだめなものだとか、自分はなかなか大したもんだとか、自己評価は変わってきます。

 しかし、神の前に自分を言う存在を置き、イエス・キリスト様というお方を仰ぎ見ながら生きるとき、どんなに成功をおさめ、名声を得、財産を築いた者であっても、謙虚になり、謙遜なものにならざるを得ないのではないかと思います。しかし、それでもなお、神は私たちを愛してくださっています。いやむしろ、そのような謙虚な人を神は喜んでくださっている。だからこそ神は、バプテスマのヨハネを、イエス・キリスト様を証する者としてお選びになったのです。

 先ほどお読みしました旧約聖書の詩篇8篇では、まさに神の創造した自然の中に立つとき、大空をも創造された神の前では、いかにちっぽけな存在であるかという、自己に対する築きがあります。その気づきは、同時に神がいかにその小さな者に、神がその大自然を治めるという大きな働きを与えてくださっているかに気づくのです。

それは、謙遜なものだからこそ気付く気づきです。それは、神の独り子であるイエス・キリスト様の前に立ったバプテスマのヨハネの『私はメシアではなく、あの方の前に遣わされた者だ』という気付きでもあるのです。そして、その気づきがあるからこそ、「あの方は必ず栄え、私は衰える」ということを、心から喜ぶことができる

そして、そのような思いは、パウロが使徒行伝の2017節から20節で、ミレトスにエペソの強化の長老と立を呼び寄せた際に、長老たちに語った「「アジア州に足を踏み入れた最初の日以来、いつも私があなたがたとどのように過ごしてきたかは、よくご存じです。19:すなわち、謙遜の限りを尽くし、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身に降りかかって来た試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました」という言葉の中にも読み取れるものです。 

みなさん、私たちは、神の前に、また神の独り子なるイエス・キリスト様の前には、どんなに優れた能力のある人でも、力のある人でも、ただの小さな人間にすぎません。しかし、そのことを知って、心から神に仕えていく者を、神は尊び、喜んでくださり、用いてくださるのです。 

それは、神が、私たちを愛してくださっているからなのです。その神の愛を覚え、しばらくの間静まりの時を持ちます。静まりましょう。

2022年5月18日水曜日

おお、神対応!!

               「おお、神対応!!」

 最近、若い人の会話のなかで「神」という言葉をよく聞きます。どうやら、とてもすごい能力を持つ人や、とても素晴らしいことをしたときに、「~って神だよね」とか「神対応」というような言い方をするようです。
 このような言葉の使い方は、ある意味スラング(俗語)であって、本来の神と言葉が指し示す意味とは違っています。しかし、全く間違っていると言って否定することもないかなと思います。いやむしろ、なかなかセンスある使い方ではないかとさえ思います。
なぜならば、私たち人間は、神に似た者となるために、神の像(かたち)を持つ者として造られているからです。

 聖書は旧約聖書と新約聖書の二つから成り立っています。旧約聖書はキリスト教会で神の独り子と信じられているイエス・キリスト様が誕生する以前のユダヤ人の歴史を通して表された神の物語が記されています。それに対して新約聖書はイエス・キリスト様の誕生以後の教会の歴史を通して表された神の物語が書かれているのです。
 その旧約聖書の一番最初の項目、つまり聖書の一番最初の項目は、創世記と呼ばれるものです。その創世記の1章には、神様が人間をお造りになったという物語が書かれています。そこには、「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう」と書かれています。つまり、人間は神に似た者になるようにと造られているというのです。

 もちろん、私たち一人一人が神の像(像)であるといわれても、とても私たち一人一人が神を表す者となっているかというと、必ずしもそうだとは言えません。むしろ、私自身を振り返ってみると神の名を汚すようなことを行ってしまっている現実がそこにあります。そのような現実をみると、私たちは罪びとだといわれても仕方がないような気持になってきます。それでも、聖書はあなた方には神の像(かたち)が与えられている言うのです。

 古代ギリシャの哲学者の一人であるアリストテレスという人は、存在する物の全てのものの中には可能態と呼ばれるものがあると言います。可能態というのは種のようなものです。種は小さな粒にすぎませんが、その種を土に植え、水をやり育てていくと、小さな種が大きな木に育っていきます。小さな種の中に大きな木に育て行く基となるものがあるのだというのです。

 このアリストテレスの言葉を借りるならば、今、とても神に似た者とは言えないような私たちであっても、神に似た者となる可能態をもっている。それは神の像(かたち)だ。その神の像(かたち)が、土に植えられ、栄養を与えられ、水を与えられるならば、神に似た姿の大きな大樹のごとき存在へと育っていくということなのでしょう。


 キリスト教会には、神のかたちをあらわした木像や銅像や絵画というものはありません。たしかに、カトリック教会や正教会といった教会に行くと、イエス・キリスト様の像(ぞう)やマリヤ様の像(ぞう)があります。しかし、それらは、人となられた神の独り子の像ぞう)であって、父なる神の姿かたちを表す(像)ではありません。イエス・キリスト様の像(ぞう)は、あくまでも人間の姿となって現れたお姿であって、神そのものの姿は、人間の姿の背後に隠されています。
 このようにキリスト教会で、神の姿かたちを像(ぞう)や絵画用いて表さないのは、旧約聖書の中に記された十戒という十の戒めの中に、「あなたは自分のために(神の)あなたは自分のために彫像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水にあるものの、いかなる形も造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水にあるものの、いかなる形も造ってはならない」と書かれているからです。

あるとき、アブラハム。ヘッシェルという人が、ヘッシェルは聖書を学ぶための学校の教授でしたが、そこで聖書を学ぶ学生に、「なぜ神は、神の彫像を造ってはならない」と言われたのかと尋ねました。
 学生は「目に見えない神は、目に見えるもので表すことができないからです」と答えます。この答えは、一般的な理解として受け入れらていた答えでした。ところがヘッシェルは「それは違う」というのです。そして、「神の像は、既に私たちの中に刻まれ、私たち自身が、つまり、あなたが神の像としてあるのだ。だから、人の手で偶像として神の像を造る必要などないのだ」と答えたというのです。

 神様は私たち人間が神に似た者になるようにと神の像(かたち)を私たちにお与えになってくださっています。この神の像(かたち)という種がちゃんと大きな木に育っていくためには、土に埋められ、水や栄養を与えられる必要があります。そのために、教会という土があり、聖書という栄養があり、礼拝という水があるのです。

 「~って神だよね」とか「神対応」と言われるときの「神」は、普通の人にはできないとおもえるほどにすごいという形容詞的な意味です。しかし、その「神」に私たちはなれるのです。その「神」になる種が私たちの内にあるからです。あとは、その種がちゃんと育っていくように、その種を良い土壌にまき、水と栄養を与えてやればよいのです。