2019年6月20日木曜日

アッハバの愛


 「アッハバの愛」

私は牧師と言う仕事柄、今まで何組もの結婚式の司式を行なわさせてもらいました。その際必ずキリスト教で結婚式を挙げるということはどういうことかについて何回かに分けて、説明させていただくんですが、仲むつまじく愛し合っているカップルを見るというのは、なかなかいいものです。
もっとも、結婚式の説明をしている時から、険悪な雰囲気なら、これはもう困ったものなのですが…。

 その準備のための説明をさせていただくときに、私の話を聞いておられるお二人に、「どうしてこの人と結婚しようと思ったんですか?」て聞くんです。そうすると、「この人は優しいから」とか、あるいは「価値観が一緒だったから」と言った答えが返ってくる。
 そしたらね、ちょっと意地悪いんですが、「ほかにも優しい人はいませんでしたか?」って聞くんです。そしてら、「えー。確かかに居るには居ましたが」ってな感じでね、とまどったような答えが返ってきます。「だったら、どうしてほかにも居る優しい人の中で、わざわざこの人なんですか。」って問い詰めていくと、みんな答えに窮し始めてしまうんですね。
 なにも、せっかく中むつまじいいカップルを仲たがいさせようと思ってそんな質問しているんじゃなくて、答えに窮してしまった二人を見て、「それでいいんだよ。」って言うんです。

 日本語の聖書で愛するって訳されている言葉は、聖書のもともとの言葉であるへブル語とギリシャ語には何種類か愛という言葉があるんですが、その一つにへブル語のアッハバという言葉があります。

このへブル語のアッハァバという愛は、不条理な愛とでも訳される言葉です。相手に対して何ら愛するに値するような理由を見出すことが出来ないけれども、それでもいい、何だかわけがわからないけれど、この人がいとおしくていとおしくてたまらないと言う愛がアッハァバの愛で、神様が人間を愛する時に使われる愛です。
つまり人間は、神様に愛されるような理由や資格は何もないのですが、神様が人間の方をいとおしくていとおしくてしかたがなく、それで人間を愛してやまないと言う熱情的な愛なんです。

 私たち一人一人は、神様に愛されるような、理由や価値、愛される資格といったものを問われるとしたら、決して愛されるに値するものではないのかもしれません。でも神様の方は、私たちを、あなたをいとおしくていとおしくてたまらないから、いつもあなたと一緒にいたいんだって、そうおっしゃってくださっているんですね。
 まさに、神様があなたを愛しておられる愛は、理屈ではない、まさに不条理な情熱的な愛なんですね。