2019年1月31日木曜日

変革する力


「変革する力」

今ね、世界中で、私はクリスチャンですって言う人が、194338千人もいるんですって。ずいぶん細かく調べたなって思いますが、世界のおおよそ1/3、つまり、3人に一人は、何らかの形で、キリスト教を信じているってことになります。

日本では、クリスチャンってあまり見かけませんから、そんなに多くないように思うでしょ。でも、世界に目を広げると、本当に多くの人が、クリスチャンだって思っているですね。

もちろん、この数字は世界一です。でも、今では、世界一信じられているキリスト教も、最初は本当に小さい群れでした。しかもね、当時のローマ帝国や、ユダヤ教から、様々な迫害を受けていたんです。今で言えばいじめですね。

そんないじめをキリスト教会が受けるようになったのは、当時のユダヤ教やローマ帝国の社会制度を根底から変えてしまうようなものだと、思われたからなんです。

新約聖書の使徒の働きというところには、当時の人が、クリスチャンに対して、「彼らは世界中を騒がせている人たちである」といっているところがあります。これは、天下をひっくり返すようなことをしているってことなんです。

もちろん、天下をひっくり返すって言ったって、武力で政権を打ち倒すとか、デモを行って、政治を変えていこうとしたわけじゃありません。むしろ、キリストを信じる時に、その人の生き方や、物の見方が変わっていく。そんなクリスチャンの姿を見て、みんながキリスト教を信じるようになると、世の中の制度や価値観、生き方まで変わってしまうぞと、そう思ったんでしょうね。

たとえばね、先ほどの「使徒の働き」の5章には、当時のクリスチャンが受けた迫害のことが記されています。彼らはキリスト教のことを人々に教え、知らせていたために、ユダヤ教の指導者達から、ムチを打たれたんです。そのとき、弟子たちは、そのような迫害に大して、「人に聞き従うよりも、神に聞き従うべきです。」って言って、断固として屈っしなかった。

そんあ弟子たちの中に、ペテロと人もいました。彼は、キリストの一番弟子言われる人です。なのに、キリストが裁判にかけられている時に、自分もキリストと同じ目にあっちゃ大変だと思い、「自分はキリストなんか知らない」って言ってしまった人です。そう言った意味では、迫害を恐れて一度はキリストを裏切った人だっていえます。

でも、そのペテロが、迫害の中でいじめられ、ムチを打たれた弟子達の中の一人にいたんです。更には、その後にかれは、牢屋に入れられたり、最後には殺されてしまったとさえ言われています。
あの弱々しく気の小さいペテロの心が、勇敢で大胆な心に変わっていった。まさに、ペテロが本気で、キリストが自分の罪を赦してくれる救い主であると信じた時、彼の心に変化がおきたんですね。そして、死から復活したキリストと出会った時に、死の恐怖を乗り越える天国への希望をもった。それがペテロに力を与えたんだろうって思います。

もちろん、みんながみんなペテロのように急激に変わるってことではありません。ゆっくりと変わっていく人だっています。むしろその方が多いのかもしれません。でも、確かに、キリストを信じ、クリスチャンになって神に従う人は、その心の中が変わっていくんです。そして心の中が変わることで、生き方や生活が少しずつ変わっていく。

キリストを信じる信仰は、私を、そして、あなたを変えてくれる力になるんですね

2019年1月5日土曜日

「見なけりゃ信じない」

            「見なけりゃ信じられない。」

子供と話をしていて、どうも気になってしかたがない言葉があります。それは、あいづちなんですが、私が何か言うと、「ほんと!」「ウソー」「マジ!」って「あいづち」をいれる。

まぁ、あいづち自体は、話を聞いて入れてくれている証拠ですから、悪いことではないのですけが、いちいち、「ほんと」「ウソー」「マジ」とやられると、「人の話が信じられないんだったら、もう聞っかなくっていい」てな感じになってしまいます。古い人間なのかもしれませんが、まぁそんなわけで、何度か子供をしかりとばしたことがありました。それでも、直りません。
でも、世の中には、本当に信じられないような話は確かにあって、そう言う私自身が「ほんとかよー。」って言うことも、時々あります。

以前、「よみがえり」って映画がありました?日本映画で、死んだ人が生き返るって話。ホラーではなく、むしろ感動するような話。あれは映画だから、まあ作り話だと思ってみてられますが、実は本当にあった話だって言われたら、やっぱり「ウソー」って言いたくなります。

実は聖書の中には、キリストが死んだあと、3日目によみがえって弟子達と出会ったって話がでています。でも、そのときにたったひとり、トマスって言う弟子だけは、その場に居合わせなくて、後から他の弟子達から「おいおい、俺たちは生き返ったキリスト様と、さっきお会いしたんだ」って聞かされたんです。
それこそ、そんな話聞かされたって「ほんとかよー。そんなことあるわけないじゃん」って信じられないわけですよ。だからトマスは、「私は、生き返ったキリストの手と脇にあるはすずの、十字架に貼り付けられた時の傷跡に、さわってみないと信じられない。」って言うんです。いわば「本当だっていう証拠がなければしんじられるか」ってことなんでしょうね。そりゃそうだと思います。

ところが、そのトマスに、よみがえったキリストは姿を現し、「トマス。私の手にある十字架の傷跡にふれてごらんよって」そう言われたのです。よみがえったキリスト本人が目の前に現れちゃね、トマスだってどうしようもありません。
このときに、トマスは心から「我が主、我が神よ」と言っています。それはトマスにとって「心の底からキリストが神であり、自分の救い主であると信じられた一瞬だったのでしょう。
そのトマスに、キリストは「トマス、あなたは目で見て、自分の手で傷にさわって、確かめて初めて信じることができた。でも、見ないで信じることができるものはもっと幸いなのだよ。」とそう言われたのです。

残念ながら、私たちは十字架にかかられた前のキリストにも、十字架にかけられた後のキリストにも出会ったことがありません。ですから、キリストの声も顔も知らないのです。
そんな私たちの前に、「我こそはキリストなり」という人が現れても、本物かどうか確かめることなどできません。結局、キリストの復活は、見ないで信じるしかない出来事なんですね。
でもね、神様は良くしたもので、聖書という書物を、残して下さった。その聖書を読んでいくと、キリストというお方がだんだんとわかってくる。そして、あったこともないキリストというお方の存在が心の中に広がってきて、本当にあって話をし、声を聞いたようなそんな思いになってくることがあるんです。

トマスが、復活したキリストと出会い、「我が主我が神、」っていったのと同じような経験を、聖書を通してすることがあるんです。ですから、どうかあなたも、聖書をお読みになって頂きたいと思います。そして、聖書の中に表されているキリストと出会い、見ないで信じる人になってほしいと思うんですね。