2023年12月31日日曜日

2023年12月第5週主日礼拝説教「二つの死の物語」  

 2023年12月第5週主日礼拝説教「二つの死の物語」   2023.12.31

旧約書:詩篇16編8節から11節
福音書:ヨハネによる福音書11章1節から16節
使徒書:テサロニケ人への第1の手紙4章13節から18節

 ヨハネによる福音書は11章は、それまでエルサレムを舞台として描かれていたイエス・キリスト様の物語が、場面を換えてエルサレムから離れてベタニヤというエルサレム近郊の地方に移ります。
 このベタニヤに、「イエスは、マルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた」と言われるほどイエス・キリスト様と親しい関係にあったマルタとマリヤ、そしてその兄弟ラザロが住んでいました。そのマリヤとマルタとラザロの家族に大変な問題が起こって来ました。それは、ラザロが病気になり重篤な状態に陥ってしまっていたのです。そこで、マリヤとマルタはイエス・キリスト様に、そのことを知らせるために使いを送ります。
 その知らせを聞いたイエス・キリスト様は、ラザロのところへ出かけようとします。そのことが記されているのが、今日の説教の箇所の11章1節から16節です。

 ラザロが、思い病の床に伏し死にそうである。そのことを、マリヤとマルタはイエス・キリスト様にしらせるのですが、そこには、ラザロの病気を癒してほしいという願いがあったことは間違いありません。その願いが詰まった「主よ、ただ今、あなたが愛しておられる者が病気をしています」という知らせを聞いたイエス・キリスト様は、「この病気は死ぬほどのものではない。それは神の栄光のため、また、神の子がそれによって栄光を受けるためのものである」と言われ、なおそこに二日滞在されたのちに、ラザロのもとに出かけたと聖書は記しています。
 この記述だけをみますと、イエス・キリスト様は、ラザロの病気はあまり重い病気ではないかのように思っておられたかのように受け取られます。しかし、必ずしもそうではなかった。むしろ、かなり重大なものであると考えておられたようです。ですから、先ほどの「この病気は死ぬほどのものではない」というイエス・キリスト様の言葉を、聖書協会共同訳は、「この病気は死で終わるものではない」と訳しています。少し、微妙ではありますがニュアンスが違います。そこで、新約聖書が書かれたもともとの言葉であるギリシャ語本文を直訳してみますと、「この病気は死と共にあるものではない」あるいは「この病気は死に向かうようなものではない」という感じになりますので、訳としては口語訳聖書の方がギリシャ語本文には近いようです。

 しかし、11節から14節のイエス・キリスト様とその弟子たちにやり取りを見てみますと、イエス・キリスト様は、このラザロの病気が死に関わる病気であったとしても、死で終わる者ではないということと思っておられたことがわかります。そこには、「わたしたちの友ラザロが眠っている。わたしは彼を起しに行く」と言われイエス・キリスト様に、「主よ、眠っているのでしたら、助かるでしょう」と弟子たちは答える。するとイエス・キリスト様は、「ラザロは死んだのだ」とあからさまに言われたというやりとりがある。
 このやり取りにおいて、イエス・キリスト様は、明らかにラザロの死というものを意識しています。いえ認知しているとさえ言って良いでしょう。にもかかわらず、イエス・キリスト様は、「この病気は死に向かうようなものではない」とか「ラザロは眠っているのだ」と言われるのです。
 そこには、二つの死の理解があります。一つは肉体の死です。みなさん、私たちは、この体においては、必ず死を経験する。あたりませのことですが、人は生まれたならば必ず死ぬのです。

 実は、つい数週間前、私は私より一回り若い友人を失いました。その時私は、私の今年一年を感じ一文字で表すとすれば、それは「死」だなと思わされた。今年になって、その枝牧師の父が死に、教会の大切な神の家族である黒岩昭生さんが死に、私よりも若い友人が死んでしまった。それだけではない学恩がある二人の教授やお世話になった恩ある先輩牧師も亡くなった。それは寂しいものです。そして、イエス・キリスト様もまた愛する友人のラザロが死んだ。
 なのに、イエス・キリスト様は、ラザロの病を、「死に至る病である」とは言わず「死には至らない病であり」と言い、死んでいるラザロを「眠っているだけだ」と言う。そこには、二つ目の死が見据えられている。それは、神様との関係における死です。イエス・キリスト様は、その神様との関係において、ラザロは死ぬことはない。いや生きるのだというのです。

 ラザロの肉体は病によって確かに死にました。しかし、その病は、神様との関係において、ラザロを、そして神を信じる私たちを死に至らせることはできないのです。そういった意味で、確かに、ラザロの病気は死に至るものでありません。むしろ、ラザロの体を肉体の死に至らせたとしても、その肉体の死は、肉体の死で終るものではないのです。そう、死で終わるのではなく、その死の出来事から希望が始まっていく。この病気は死で終わるものではなく、そこから希望の出来事が始まっていく。それは死から再び起き上がる復活の希望が始まるのです。
 いや、だからと言って、私たちは肉体の死というものを軽んじては善いわけがありません。基本的に聖書は、私たちの命を「生きる」ということを大切にしています。ですから、命を軽んじてはいけません。イエス・キリスト様自身、ラザロのところに行くという決心をするまでに二日の日を要しているのです。

 このイエス・キリスト様が、ラザロが病気だと聞いてなお二日間滞在していたということについては、イエス・キリスト様は、ラザロが死んで四日目に到着するためにあえて二日間、同じ場所に滞在していたのだという解釈がなされることがあります。
 確かに、結果から遡ってそのように解釈することの可能性もあります。しかし、文脈から、イエス・キリスト様がユダヤのベタニヤに行くことは、イエス・キリスト様に敵対する者たちに捕らえられ石打ちの刑で殺される危険があるのです。だから二日間もそこに大差在していた。それは、その危険を押し切ってラザロのもとに行こうという決心をするための時間であったと考えられる。ひょっとしたら、弟子たちの中に、ラザロのところに行くことを反対している者がいたのかもしれません。
 しかし、それでもイエス・キリスト様はラザロのもとに行くのです。しかし、慎重に万全の注意を払ってです。その万全の注意を払う意図が「一日には十二時間あるではないか。昼間あるけば、人はつまずくことはない。この世の光を見ているからである。しかし、夜あるけば、つまずく。その人のうちに、光がないからである」という言葉に見ることができます。そこには、夜という危険な時間帯ではなく、安全な時間帯を選んでいくのだという意図がくみ取れる。

 もちろん、このイエス・キリスト様の言葉についても、イエス・キリスト様が十字架の受難という苦しみの時が来るまでは、神様の守りがあるのだという意味であるという解釈があることも知っています。しかし、デドモと呼ばれているトマスが、16節で仲間の弟子たちに「わたしたちも行って、先生と一緒に死のうではないか」というほど危険な旅なのです。
 そのような中で、危険を冒さずに、気をつけて昼間の間だけ歩けば大丈夫だというのです。それは、信仰があれば大丈夫なんてことは言わず、決して無茶をしない、命を危険にさらすようなことはしないという決意でもあります。

 確かに、肉体の死は神と神を信じる者とに間にある関係を立つことはできません。仮に肉体の死を迎えることがあっても、神を信じて生きた者は、復活の希望の内に置かれている。だからこそ先ほどお読みしたテサロニケ人への第一手紙4章13節から18節で、パウロは

 兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互に慰め合いなさい。

というのです。ここには命の希望がある。

 みなさん、イエス・キリスト様が十字架に架けられ、三日目に死人の内からよみがえり、天に昇られた後の教会は、すぐにでもイエス・キリスト様が再び天から戻ってこられ、この世界に神の王国を完成させてくださると信じ待ち望んでいました。
 しかし、イエス・キリスト様が再び来られるその時は、彼らが期待していたよりもずっと後であり、神を信じる仲間たちの中でも死んでいく者も出てくるようになった。そのような中で、いったい死んでしまった人たちはどうなるのだろうかという不安が神の民の中に起こってきたのです。このテサロニケ人への第一の手紙は、そのような背景のもとで書かれたものです

 その時にパウロは、「心配するな。イエス・キリスト様が死から蘇られたように、神を信じ生きたものは、たとえ肉体が死んだとしても、命を与える神との関係が途絶えてしまったわけではないのだから、イエス・キリスト様が再びこの世界に来られるときに、彼らもまた甦るのだ」と言って、テサロニケにいるキリスト者を励ましたのです。

 まさに、「肉体の死は、死で終わるものではない。神の命が与えられている者は、死んでも生きるのだ。だから、恐れることなく、今の時を大切に生きろ」とパウロは言うのです。ここにも、「生きよ」という聖書のメッセージがある。また先ほどお読みした詩篇16編もそうです。そこでは

 あなたはわたしを陰府に捨ておかれず、あなたの聖者に墓を見させられないからである。あなたはいのちの道をわたしに示される。あなたの前には満ちあふれる喜びがあり、あなたの右には、とこしえにもろもろの楽しみがある。

と言われている。この詩篇の言葉には、肉体においては死ぬべき運命にある人間の現実が見据えられています。けれども、神を信じる神の民は、その肉体の死という現実を超えて、神の民として生きる者とされているのです。だから神は、神を信じる者に命の道を示される。そしてその命の道を生きて行きなさいというのです。

 みなさん、私たちは神の前に行かされている者です。生かされているから、生きるのです。今をしっかりと生きるのです。イエス・キリスト様は、私たちに神の命を与えてくださっているのです。確かに現実には、私たちの肉体は死というものを経験します。その意味で、私たちの肉体は、肉体の死に向かう病の中にあります。
 しかし、その病は決して死で終わる病ではない。イエス・キリストがもたらす命が私たちに与えられているのです。そのことを覚え、私たちに命を与えるイエス・キリスト様のことを、静かに思い廻らしたいと思います。静まりの時を持ちます。

2023年12月30日土曜日

神の慰め

  私の知り合いに、将来はお医者さんになりたいと一生懸命頑張っている中学校一年生の女の子がいました。その後、その子と会う機会がなくなりましたが、無事に医学部に進学した医学生となったと聞きました。それも数年前のことですので、今では医師として働いているのではないかと思います。

 実は、彼女のお父さんは、仕事中の事故で、いわゆる植物状態になってしまいました。きっと、お父さんを直してあげたいという気持ちから、医者を志したのだろうと思います。ですから私は、彼女はきっといい医者になっているだろうなと思っています。彼女は、病や怪我が、どんなに深く人を悲しませ、心に痛みを与えるかをよく知っているからです。ですから、彼女も、患者さんだけではなく、その家族の方の悲しみや苦しみを汲み取って治療できるお医者さんになっているだろうと思うのです。

 「わたしたち」人間は、そうやって慰め合ったり励まし合ったりすることができる生き物なんですね。人間って素晴らしいと思います。そのように、慰め合ったり励まし合ったりすることができるのは、神様が、「わたしたち」人間を神様に似たものとして作って下さったからです。神様の内には、「わたしたち」を慰め励ます深い愛が満ちあふれています。その愛を、人間を創造なされたときに、神様は私たちの心の中に注ぎ込んで下さったのです。だから「わたしたち」は、互いに慰め合い励まし合うことができるのです。慰めと励ましの源は神様の愛にあるのです。

 ところが、そんな「わたしたち」であったとしても、人間の慰めや励ましには限界があります。いえ限界があるだけではありません。本来は慰め合い励まし合うべき人間が、逆に激しく憎しみ合ったり傷つけ合ったりするのも現実です。そのように、せっかく神様によって素晴らしい存在に創られたはずの「わたしたち」なのに、その素晴らしさとは全く正反対の醜い生き方をしてしまっていることもあるのです。それは、神様が素晴らしい存在に創って下さったのに、「わたしたち」の内側にある欲望が、神様に背を向けさせ、自分の欲に従って生きるようにさせているからです。
 本来、人間は神様が導く導きに従って生きる者として創造されています。人間の理性というものは、本当は「わたしたち」がより善い人格を形成し、慰め合ったり励まし合ったりする愛に満ちた生き方に至らせるために機能するべきものでした。その理性は、しばしば良心となって「わたしたち」の心に働きかけます。しかし、「わたしたち」が、「わたしたち」の内に在る理性の声に耳を傾けず、「わたしたち」の欲望の従い生きる時に、神様が与えてくださった「わたしたち」に内に在るその素晴らしさとは全く正反対の醜い生き方へと「わたしたち」人間を導き、神様とは無関係な生き方をするものとしてしまうのです

2023年12月29日金曜日

詩篇に学ぼう/詩篇46篇

詩篇46篇

1:指揮者によって。コラの子の詩。アラモト調。歌。
2:神は我らの逃れ場、我らの力。苦難の時の傍らの助け。
3:それゆえ私たちは恐れない 地が揺らぎ 山々が崩れ落ち、海の中に移るとも。
4:その水が騒ぎ、沸き返り その高ぶる様に山々が震えるとも。〔セラ
5:川とその流れは神の都に いと高き方の聖なる住まいに喜びを与える。
6:神はその中におられ、都が揺らぐことはない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。
7:すべての民は騒ぎ、もろもろの王国は揺らぐ。神が声を出されると、地は溶け去る。
8:万軍の主は私たちと共に。ヤコブの神は我らの砦。〔セラ
9:来て、主の業を仰ぎ見よ。主は驚くべきことをこの地に行われる。
10:地の果てまで、戦いをやめさせ 弓を砕き、槍を折り、戦車を焼き払われる。
11:「静まれ、私こそが神であると知れ。国々に崇められ、全地において崇められる。」
12:万軍の主は私たちと共に。ヤコブの神は我らの砦。〔セラ

この詩の基調は信頼。その奏でるメロディーは平和です。
2節の「神は我らの逃れ場」と言う言葉が、神に対する信頼のベースラインとなっていると言えるでしょう。しかし、考えてみると「逃れの場」、口語訳聖書ですと「避け所」となっていますが、この言葉が口に上ってくると言うことは、「逃れの場」に逃げ込まなければならない状況が意識されていると言うことです。それは決して心安らかな状況ではありません。しかし、ひとたび「逃れの場」である神様の懐に飛び込むやいなや、たとい「地が揺らぎ 山々が崩れ落ち、海の中に移るとも」恐れないという揺るがない平安が心に満ちてくるというのです。つまりそれは、神という「逃れの場」には、もはや逃げ込まなければならない状況を意識する必要がないということです。なぜならば神の平和が魂を覆っているかららなのです。

しかし、我々は「この世」にある限り神の懐の中に身を潜め続けるわけにはいきません。我々は「この世」に実在する実在者だからです。そして、「この世」は神に敵対する存在として「わたしたち」の前に立っています。もちろん、神様はこの世界の創造者であり主権者であることに間違いはありません。しかし、この神の世界を支配する支配の原理である「この世」は神に敵対しているのです。だから、この世界に起こる様々な人の営みの中にすべからく神の支配が及んでいるというのは幻想であると言わざるを得ません。むしろ現実は、神に敵対する「この世」の世界の中に、教会というささやかな神の支配する世界が存在していると言うのが、実際であると言えるでしょう。かつて、キリスト教一体化社会と呼ばれたヨーロッパ社会であったとしても、地球的な規模で見れば、未だささやかな神の支配でしかなく、そのキリスト教一体化社会の中ですら「この世」が、根深く入り込んでいたのです。

だとすれば、この神の平和に心安んじていられる魂の平安は、「この世」と戦う者にあってひとときの休息の時にすぎないのでしょうか。否、断じて否です。なぜならば、この「この世」との戦いは、確実に勝利に終わり、神の平和が魂を覆うだけでなく、我々が実在する世界を覆うときが来るからです。

詩人が5節6節で詠う「川とその流れは神の都に いと高き方の聖なる住まいに喜びを与える。神はその中におられ、都が揺らぐことはない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる」という言葉は、どこか終末論的響きがあります。今、この世界を治める都は、「この世」によって支配されています。そこには、命の清水はありません。あるのは死への恐れです。しかし、そこに、神の聖なるすまい、神の神殿が建てられるならば、命を潤す清水が川となって注ぎ込み、死と言う現実に向き合い絶望の中で生きている者に希望の喜びがもたらされるのです。まさにそのような勝利の出来事が訪れるという、そんな終末的な響きが、この言葉の中にあります。

その終末的な喜びの出来事が必ず来るのです。主なる神が「驚くべきことをこの地に行われる」からです。この神が地になされた「驚くべきこと」を新共同訳は「地を圧倒した」と訳し、新改訳は「地に荒廃をもたらした」と訳しますが、要はこの地を支配する支配原理である「この世」を完全に打ち破ったと言うことです。そしてその勝利は10節の「地の果てまで、戦いをやめさせ 弓を砕き、槍を折り、戦車を焼き払われる」という言葉が担保するのです。

このとき、神の平和は我々の魂だけを覆うのではありません。我々がこの世にあって存在する全存在を覆うのです。だからこそ、「わたしたち」は「わたしたち」が実在するこの世界にあって、静まって神の神たるを知ることが出来るのです。この神の完全な勝利が、既にイエス・キリストによってもたらされていまづ。だから、神の平和は、神の懐に中にある一時的に魂を覆うものではありません。キリストの完全な勝利の故に、希望の内に私達の全存在を覆っているのです。

2023年12月26日火曜日

貧しくなられた神

 イエス・キリスト様というお方は、キリスト教のど真ん中におられるお方です。このイエス・キリスト様というお方を、神が私たちの遣わされた私たちの救い主として信じる信仰がキリスト教という宗教だからです。ですから、キリスト教と言う宗教にとってこのイエス・キリスト様という存在は最も重要な存在であり、このお方を救い主として信じ、このお方に倣って生きることを求めるものが、キリスト教なのです。

 そのイエス・キリストの誕生は、実際にキリストがお生まれになる何百年も前から旧約聖書に神によって預言されていたことです。それだけではありません。キリストはどのような方で、どんなことをするのかと言ったことまで、旧約聖書はかなり詳しく伝えています。
 その代表的な箇所が、イザヤ書の五十三章と言うところですが、そこにはこう書いてあります。少し長いので、拾い読みします。

「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。…中略…真に、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」

 イエス・キリスト様は、神の独り子であり、真の神です。その神であるお方か救い主として人となりこの世界に来てくださいました。なのにその人となった救い主イエス・キリストは、神のひとり子であり神であるにもかかわらず、けっして神々しく、人に尊っとばれるような優れた人間の姿ではなく、むしろ、みすぼらしくて見ばえもなく、人に蔑まれるような存在になられるのだと言うのです。そして、実際にイエス・キリスト様は、家畜小屋で生れ、飼い葉桶にねかされるというところから、その人としての人生を歩み始めるのです。
 そのように、神であられるお方が、それほどまでに貧しく卑しい姿までに身をやつされたのは、神なるお方が私たち人間の、いえ、その人間の中でも、苦しみや悲しみを共に背負って生きている者とと共に生きてくださり、その背負っている苦しみや悲しみと共に担って歩んで下さるためなのです。

 人が立派な存在だと崇められるようになり、富がまし裕福になっていく時、その人はだんだん、現実の世界で苦しみや悲しみの中で生きている私たちと縁遠い人となっていきます。そういった意味では、浮き世離れしていくのです。けれども、実際に私たちの罪がもたらす様々な問題は現実の世界、まさしく浮き世の中で起こっています。その浮き世の中で、苦しみ悲しんでいる私たち一人一人に、救いの手をさしのべ、慰め励まし癒すために、キリストは人となってこの世に飛び込んできて下さったのです。

 今日、もしあなたの心に苦しみがあり、悲しみがあるならば、キリストはあなたのその悲しみや苦しみの心に無関心ではいられません。何とか、あなたの悩み悲しむ心に希望を与えたいと願っておられます。そのためには、人から神として崇められる立場から、私たち人間の姿まで駆け下りてでも、私たちを助け救いたいとそう思っておられるのです。
 だからこそ、神のひとり子であるイエス・キリストがこの世界にお生まれなった。それほどまでに父なる神とその神のひとり子であるキリストは、にあなたを愛しておられるのです。

2023年12月25日月曜日

クリスマスのちょっと変わった習慣

 昨日は、クリスマス・イヴでした。クリスマスの過ごし方と言うのは、それぞれの家庭で違うとは思いますが、一般的には、ケーキにごちそうに、プレゼント。特にプレゼントは、クリスマスには絶対に欠かせないですよね。

 私のような年齢になると、クリスマスプレゼントをもらうということは、ほとんどと言ってなく、むしろプレゼントをあげる方になってしまいます。昨夜も、プレゼントを抱えて孫の家に、プレゼントを届けるサンタクロースになっていました。いまやプレゼントはクリスマスの花形的存在になっています。それこそ、どんなにおいしいごちそうやケーキがあっても、プレゼントがなければ、クリスマスの楽しさは、それこそ半分以下になっちゃいます。
 ですから、親やジジ・ババとしてはクリスマスプレゼントには、特別に気を遣います。もちろん、欲しい物を買ってあげれば、それだけで十分に喜ぶ。でも、それは欲しい物を買ってもらったっていう喜びですよね。ですから、我が家では、子供たちががそれ以上の喜びを味わえるようにって、工夫をしていました。その工夫とは、私たち親からからのプレゼントとは別に、内緒でサンタクロースからのプレゼントを用意すしていました。そして子供たちが寝静まったあと、子供たちの枕元に、そのもう一つサンタさんのプレゼントを置くのです。

 子供たちが、朝起きたら枕元に、サンタクロースからのプレゼントがある。それを見つけたら、もう大変です。それこそ、「うわぁー、」って叫びながら、私たちの部屋に駆け込んできて、「サンタさんが来た」「サンタさんが来た」って大騒ぎ。枕元にある、プレゼントは、決して彼らが一番欲しいものや高値なものじゃない。でも、本当に嬉しそうでした。
 これは、「プレゼントが何か」が問題じゃなくて、サンタさんが、今年も自分のことを忘れずに、プレゼントを届けてくれたってことが嬉しいんでしょうね。でも、ある時期になると子供たちも、今では枕元のプレゼントのからくりを知るようになる。でも、我が家のその習慣は、彼らばサンタのプレゼントのからくりを知った後でもずっと続きました。そして、からくりがわかっていても、子供たちは、今のその枕元のプレゼントを喜び楽しみにしてくれていました。
 それは、きっと、サンタクロースの存在を信じていた、そんな子供の頃の夢や純真な心を忘れないで、心豊かに育って欲しいって願い、子供を思う、妻と私の心を喜んでくれていたんじゃないかなって、そう思っています。最近、子供たちの中の一人が、その我が家の習慣を友達に話したところ、そんなことをしている家庭は他にはなかったと聞いて驚いていました。そして、我が家にあったもう一つのプレゼントの習慣についても聞いたそうです。
 我が家にあったもう一つのプレゼントの習慣、それはお誕生日のプレゼントの習慣です。我が家はお誕生日を迎えた子供に、予算を決めて、その予算内で欲しいプレゼントを本人が決めそてそれを買ってあげることにしていました。同時に、お誕生日ではない子供には、お誕生日の子が買ってもらったプレゼントより安い金額のものをおすそ分けプレゼントとして買ってもらえたのです。それも、我が家にしかない習慣だったようで、とても驚いていました。
 我が家は決して裕福な家庭ではありませんでした。ですから今も昔も決して高価なプレゼントを買ってやるということはできませんでした。それでも、いえだからこそ子供たちを喜ばせ、自分も大切にされているということを心に残してあげたいと思い、色々と工夫していたのです。それは、子供たちにとって良い思い出として心に刻まれているようです。そこには、自分のことを忘れずに思い、愛してくれている相手の心を知り、その贈る心を知る喜びがある。物ではない。物から立ち現れる子を思う親の愛があり、それが伝わっている。いわば愛することそれ自体が、一番のプレゼントだったのです。

 昨日のクリスマスに、みなさんはどんなプレゼントを手にしたでしょうか。私のように上げるばかりで何とプレゼントもなかったという人もいるでしょう。でも、クリスマスには、誰一人としてもれることなく神様が与えてくださるプレゼントがあります。というのもクリスマスは神様が、神の御子キリストを、私たちに対するプレゼントとして、この世に送り出してくれた日です。それは、キリストが、私たち罪深い人間の、罪の身代わりとなって、十字架の上で死に、人間を罪とその裁きから救う救い主として、この世に生まれてきたからです。そして、そのように、神の御子キリストが、神からの私たちへのプレゼントとして贈られてきたのは、キリストが私たちのことを、そしてあなたのことをいつも心に留め、決して忘れていないからなんです。
 そのように、神はあなたを愛しておられる。だからこそ、その愛しているという一番の贈り物をキリストに託して、あなたに贈られたのです。ですからどうかそのことを知って、今年のクリスマスには、あなたの心が神の愛で一杯になるようにって、そう願います。昨夜、あなた枕もとに神様のプレゼントが届いています。朝になって、そのプレゼントにおきづきになられなかったかたもいるかもしれませんが、たしかにそのプレゼントはあなたの心の枕元に置かれているのです。

 「神は、実にそのひとり子をお与えになったほどにこの世を愛された。」聖書ヨハネの福音書3:16節の言葉です。

2023年12月23日土曜日

下向する神

私たちの国、日本では何か優れた人、特別な能力を持つ人を神として崇めるという感覚がどこかにあるようです。たとえば天満宮は菅原道真を神として祭っている神社ですし、日光東照宮は徳川家康を神として祭っています。現代において、何かカリスマ的な存在の人を神と呼んだりするのも、それに近い感覚があるのかもしれません。
 人は努力し頑張ることで、より高い能力や実力を身に着けることができます。その意味で努力は私たちを裏切りません。そして、私たちはより高い高みを目指して頑張るのです。しかし、聖書の神は、全く逆の方向性を示しています。それは高みから夜低い所を目指す神の姿です。神が神であられるのに、人となるという下向する神の姿です。
 イエス・キリスト様は神のひとり子であられたのに、あえて人となってこの地上にお生まれ下さいました。しかも、初めから大人の人間の姿をして顕われたので絵はなく、処女マリヤを母として、赤ん坊として生まれ、子供の時期を生き、そして成長して大人になるという人間の成長の過程を一つ一つ経験為されたのです。それは、「わたしたち」人間が経験する様々な苦悩や悲しみ、そして心の痛みを「わたしたち」と同じように経験をなさるためです。
 その最初がクリスマスの出来事です。クリスマスの出来事は、飼い葉おけの中で始まります。神であられたお方の人としての人生の出発が飼い葉桶から始まる。なんともみじめな始まりなのかと思います。そして、その人生の最後は、イエス・キリスト様が苦楽を共にした弟子の一人であった者の裏切りにより、処刑されるような罪など何もないのに、ムチで皮膚が引き裂かれるほどに打たれ、茨の冠をかぶせられ十字架刑という当時もっとも残酷で苦しんで死んで行かなければならないような処刑方法によって死ななければならなかったのです。
 神の御子が、そのような悲惨な人生を生きられたのは、「この世」という世界の中で、苦しみ、苦悩し、心を痛め、悲しんでいる人の苦しみや悲しみを神の御子自身が経験し、その苦しみや、悲しみや痛みというものを身をもって知るためです。知らなければ、人々の苦悩や、悲しみ、そして心の痛みに寄り添えないからです。神様は、天という高みから、私たちを見下ろし、憐れんでやろうというのではなく、神であるのに天から下向し、人として共に苦しみ、共に悲しみ、共に深い心の痛みを感じながら、共に生き、私たちと共に神の国という高みを目指し、そして共に歩んで下さるのです。そうやって神様は、そして神のひとり子である御子イエス・キリスト様は私たちの存在を掬い(すくい)取ってくださるのです。
 クリスマスは、その神の掬いの業が始まる第一歩が踏み出されたことを私たちに伝える日です。飼い葉おけに寝かされた神の御子を指し示す日です。そして、「あなた」の心の中にある、深い悲しみや痛み、そして悲しみを飼い葉桶として、神の御子イエス・キリスト様があなたの心の中にお生まれ下さったことを、「わたしたち」に告げ知らせる日なのです。
 その日組に降って下さった神について、私の友人の岩本遠億牧師が、ご自身のホームページ『366日元気の出る聖書の言葉』で「低められたひとりとして」という短いメッセージを述べています。3分にも満たない短いメッセージですが、同名の自分の著書『366日元気の出る聖書の言葉』の中にある者を、岩本牧師自身が音声で語ったものです。岩本牧師のご許可をいただいてそのホームページのアドレスを下記に掲載します。そのアドレスをクリックして下さり、新しく開かれたページにある「低められたひとりとして」というタイトルのところにある▶をクリックして下されば、そのメッセージをきくことができますので、ぜひ合わせてお聞きください。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2dj3ck?fbclid=IwAR0l3U0b4B0ZC3VtPRQEs8s7hNIEL66th1555shNQfn6Su8seQo46DRzJ6w 

2023年12月22日金曜日

クリスマスの必需品

  クリスマスにとってプレゼントは欠かせないアイテムの一つになっています。私たちも、毎年子どもたちにどんなプレゼントをするか頭を痛めたものです。子育てが終わって、子供へのプレゼントは考えなくてよくなったのですが、今度は孫へのプレゼントで悩んでしまっています。でも、どうせプレゼントをするなら、本当に喜んでもらえるもの、本当に欲しいと思っている者を挙げたいと思います。そんなプレゼントに関する話が聖書の中にあります。それは、新約聖書の使徒言行録3三章1節から11節書かれている話しです。

 ある時、イエス・キリストの12人の弟子の中のペテロとヨハネという人に、生まれつき足が悪くて歩けない男が、物乞いをして来ました。二人は、その様子をじっとながめていましたが、やがて「金銀は私にはないが、あるものをあげよう。キリストの名によって歩きなさい。」と言って、その男の手を取って立たせたのです。
 すると、その足が悪くて歩けなかった男が立ち上がり、歩き回ったり、飛び跳ねたりすることができるようになったのです。もちろん、その男の喜びは言うまでもありません。それで神を賛美しながら、ペテロとヨハネについていったというのです。この男は物乞いをしていたのですから、欲しかった者は、お金ではありません。なのに、「金銀は私にはないが、あるものをあげよう。キリストの名によって歩きなさい」というペテロとヨハネの言葉は、この男の願いとは違う的外れのように、思われます。しかし、そうではなかったのです。この男が、物乞いをして金品を求めたのは、足が悪くて歩けなくて、それで生きていくために仕方なく物乞いをするしかなかったからです。そして、ペテロとヨハネは、この物乞いをしている男の様子をじっと見つめ、この男が本当に求めているものは何であり、本当に必要なものは何なのかに気が付いたのです。
 しかしこの話は、単に信仰を持つと病気が良くなるというようなことを言おうとしているのでありません。「いやいやそんなことはないだろう、この男は、ペテロとヨハネに『金銀は私にはないが、あるものをあげよう。キリストの名によって歩きなさい。』と言われ、足が癒され立上がり、喜んで踊り題したじゃないか。だとしたら、この男が本当に求めていたものは、足が歩けることだったのではないか」と反論されるかもしれませんが、必ずしもそうではないのです。

 聖書の時代のユダヤでは、足が悪くて歩けないとか、手が悪くて動かないということは、罪を犯した結果、神の裁きでそうなったのだと考えられていました。もちろん、それは全くの迷信で、そんなことはないのですが、当時は、そう思っていたのです。ですから、この男の、何か罪を犯したから神の罰を受けて歩けなくなったのだと軽蔑され、卑しい者だと見られていたのです。
 ペテロとヨハネは、物乞いをする男の様子に、そのように人に蔑まれながら生きている人の悲しみやみじめさを感じ取ったのだろうと思うのです。だからこそ、もう誰からも蔑まれなくて言いように、歩くことが出来るようにしてあげたのです。そうやって、人から蔑まれながら生きている悲しさやみじめさから解放し、人としての尊厳を回復したのです。

 この話は、私自身の姿にも重なります。私には、音痴という大きなコンプレックスがありました。私が歌を唱うと、「へたくそ」と軽蔑されるように思えてしかたがありませんでした。ですから、音楽の歌のテストは、恥ずかしいやらみじめやらで、結局最後まで唱わずに通したこともあったんですよ。人にダメなやつと、軽蔑されるのが恐かったんですね。
 それは、あの足の悪い男と比べると、些細なことですが、でも私にとっては、大きなコンプレックスとなって、私の心を縛り付けていたのです。けれども、キリストを信じてからは、そんなコンプレックスから解放されました。歌がうまかろうとへただろうと、そんなことは神様の前では関係ありません。神様は、私を一人の人間として尊び、大切に思ってくださっているのです。ですから今では教会では大きな声で賛美歌を歌います。同じように、神の御子であるイエス・キリスト様も決して私を蔑むことをなさいません。むしろ、私を高価で尊い価値ある者として、愛し受け入れて下さっています。
 そして、その神様と神の御子であるイエス・キリスト様は、「あなた」も価値ある大切な人として、愛し受け止めて下さっているのです。ですから、あなたにも、是非この神様を信じ、イエス・キリストを信じ、心に受け入れてしいと思います。

2023年12月21日木曜日

布にくるまれ飼い葉おけに寝かされた赤子

  クリスマスはイエス・キリスト様がお生まれになったことを覚え、それを記念する日です。

 イエス・キリスト様がお生まれになった場所は、通説では馬小屋、家畜小屋だと言われますが、聖書のは直接的に馬小屋であったとか家畜小屋であったとは書かれていません。ただ、生まれて間もない赤子のイエス・キリスト様は布にくるまれ飼い葉おけに寝かされていたと記されており、またその理由が客間には彼らがいる余地がなかったからだとだけ記されています。しかし、これらの情報を総合して推論すると、イエス・キリスト様は馬小屋あるいは家畜小屋で生れたという通説は、あながち間違ってはいない、つまり蓋然性が高いと言えるでしょう。
 イエス・キリスト様が、馬小屋あるいは家畜小屋で生れたということを、いろいろ考えながら思い廻らしていると、様々な思いが心に湧き上がってきます。いったいなぜ、イエス・キリスト様は馬小屋、家畜小屋でお生まれになったのか。いやいや、聖書には「客間に彼らがいる余地がなかったからだと書いてあるではないか」といわれれば、真にその通りでありますが、それは状況的意味であって、では神学的にはどう読み取れるのかというと、そこには様々なことが読み取れていくのです。
 飼い葉おけに布でくるまれ寝かされていた。私は「布でくるまれていた」と言う言葉に、母マリアと父ヨセフの生まれたばかりのイエス・キリスト様に対する深い愛情を感じます。そう、イエス・キリスト様は両親の深い愛情に包まれて生を受けたのです。しかし、寝かされた場所は、飼い葉桶です。日本では飼い葉おけは木でつくられます。ですから、日本の絵本では、イエス・キリスト様やが寝かされている飼い葉おけは、木で描かれているものがほとんどです。けれども、その当時のパレスティナ地方の飼い葉桶は、石をくりぬいて作られたものなのです。石の飼い葉桶、それは冷たく硬いものです。そしてそれは、飼い葉桶ですから動物が餌を食む場所です。ですからきたなく汚れた場所です。
 イエス・キリスト様がいつ生まれたかはわかりませんが、それがいつであっても、飼い葉おけは、きたなく汚れた冷たく硬い、決して居心地が良い場所ではないのです。そのような場所でイエス・キリスト様はお生まれになられた。それは、客間と言う、人々が憩い、安らぎ、安心して過ごせる場所に、居場所がなかったからです。そういった場所から追い出されたところ、つまり宿屋の片隅に追いやられたところにイエス・キリスト様はお生まれになられたとのです。
 そう思うと、イエス・キリスト様という方がこの世界にお生まれくださった意味が見えてくるように思います。それは、この世界の中で様々生きづらさを感じている人の心の中にお生まれくださったのだと思えてくるのです。いやまさにそこに、イエス・キリスト様が、客間に入り場所がなく、飼い葉桶に寝かされていたという神学的な意味があるのではないかと思うのです。けれども布にくるまれ、両親の愛に包まれて寝かされているのです。まるで、生きづらさを感じ、辛い思いをし、悲しい思いをしている人の心も、父なる神様の大きな愛に包まれているのだというかのようにして、布にくるまれ眠っておられるのです。
 クリスマスを目の前に控えた、今というときに、冷たく硬い、きたなく汚れた飼い葉桶に中に、布にくるまれ寝かされらイエス・キリスト様が、無邪気な赤子の笑顔の中で「あなた」にそう語りかけているように、私には思えて仕方がないのです。・・・クリスマスの霊想

2023年12月20日水曜日

昔はどんちゃん騒ぎのクリスマス。そして今は

新型コロナの感染拡大で、ここ数年はあまり見られなくなりましたが、以前はmクリスマスの頃に、夜、繁華街を歩いていると、ほろ酔いかげんの方や酔っぱらってしまっている方と出会うことがよくありました。そんなとき、私は自分自身の昔の姿をを思い出していました。それは、私が高校生の頃のことです。

 その当時、私はクリスチャンではありませんでした。ですから、クリスマスがやってきても、クリスマスの意味なんか考えずに、とにかく、クリスマスは楽しく騒いで過ごすもの程度にしか思っていませんでした。そんな中で。高校3年のクリスマスに、仲間と集まってクリスマスパーティーを行ないました。その時のパーティは、まさに私にとっては「どんちゃん騒ぎのクリスマス」でした。
 高校3年生ですから、当然、お酒など飲んではならないのですが、そのころは若い頃の勢いで、仲間が集まるとそこでお酒を飲むということが時々ありました。しかし、私は、もともといわゆる下戸でお酒は体が全く受け付けません。お酒を美味しいと感じることはなく、むしろまずいとさえ思っていましたので、お酒を口にするということは、ほとんどありませんでした。
 しかし、クリスマスパーティーで、私もはじめて、ぐでんぐでんになるまで酔っぱらってしまいました。あんまり酔っぱらいすぎて、腰が抜けてしまって歩けなくなってしまって、友達にオブられて家に帰らなければならないほどでした。当然のことですが、翌日は二日酔いで頭が痛いやら、気持ち悪いやら、もう最低の気分でした。それも今にしてみれば、実に苦い思い出です。もちろん、クリスマスは楽しい喜び日です。でも、その喜び楽しさが、ただのどんちゃんで終わってしまったら、ちょっと寂しいですよね。
 ほら、「祭りの後の寂しさ」って言葉があるじゃないですか。祭りをただ楽しく過ごしただけなら、楽しかっただけに、後には寂しさが残る。ましてや二日酔いが残ったら、寂しさに気持ち悪さが加わるわけですから、もうどうしようもありません。

 意外なことですが、キリスト教があまり盛んでは日本では、クリスマスがキリスト教の三大祝祭の一つであるということを知らない人が多くいます。けれども、クリスマスは、教会が神と信じ崇めるキリストが、人となってこの世にお生まれになったことを祝う日です。なぜ、神であるキリストが、人となってこの世に生まれたのか。聖書は、その理由を、神が、この世界の中で苦しみ生きる私たち人間の救うためであったと教えています。それほどまでに、神は私たちを愛して下さったのです。

 私たちが「この世」と言う世界で苦しんでいるといっても、世界の中では、比較的物資に恵まれ、経済的には裕福な国とされる日本では、なかなかぴんと来ないかもしれません。しかし、現実には、人間関係や家族問題、また病気や差別などの様々な苦しみや悲しみが私たちの周りには溢れています。国としては経済的に恵まれているとしても、実際には格差が大きく、経済的な苦しみを経験している人も多くいるのです。

 そのような苦しみや悲しみから、神は「わたしたち」を救うために、神の独り子であるイエス・キリスト様をこの世界に送り出し、人として生まれさせたことを記念して祝うのがクリスマスなのです。しかし、だからといって、この世界から病気がなくなり、貧困がなくなり、戦争や争いがなくなったかと言うと、そんなことはないことは火を見るより明らかです。人間関係や家族問題だっていつの時代にもある。そのいみでは、イエス・キリスト様が、この世界にお生まれになってから二千年以上たっていますが、この世界の中から苦しみは相変わらず、私たちの世界にはびこっているのです。
 それは、この世界の中にある苦しみの多くは、「わたしたち」人間の過剰な欲望がもたらしているからです。欲望というのは、人間にとって必要なものです。欲望があるから人間は向上することができるからです。しかし、過剰な欲望は人の心から大切なものを奪い去っていきます。過剰な欲望が奪い去っていく「わたしたち」の心の中の大切なもの、それは愛です。人を思いやり、人の尊厳を重んじる愛です。そして、人の心から愛が奪われていくところに、自己中心な思いという罪が入り込むのです。

 一口に人間の自己中心な思いと言う罪といっても、それは、様々な姿をとって現われます。時には、犯罪という法律を犯す形で現われたり、嘘や不道徳といった倫理的過ちの姿を採る時もあります。あるいは、嫉妬や妬みといった心の醜さとして現われたりと様々です。場合によっては正義感が行き過ぎて、過剰な報復行為といった形で現れることさえある。このように、罪というものを法律上の犯罪、倫理道徳上の過ち、そして、心に中の醜さや汚れ、更には過剰な正義感がもたらす報復と言ったところまで深めていきますと、私自身も罪とは無関係とは言えないなぁと思わされます。

 私が、牧師となるために神学校と言うところで学んでいたときのことです。私が学んでいた神学校は、ごくまれに例外もありましたが、基本的には全寮制でした。家族を持っている人も家族寮に入り学ぶのです。その神学校で学ぶ神学生は、毎朝6時から、聖書を読み、そして聖書からの短いメッセージを聴き、そして祈りのときを持つという朝の祈りと時をもつのですが、クリスマスを控えたある朝に、いつものように朝の祈りの時間に、お祈りをしていました。
 そのとき私は、お祈りしながら自分の様々な罪が心に思い出されてきました。それは、私の過剰な欲望がもたらした自己中心的な思いh式起した罪であり、加害者としての罪です。同時に、私の周りの人の過剰な欲望がもたらす罪で苦しんできた罪の被害者としての自分もいる。そのような私を神はそのまま受け止め、愛して下さり、私の心に慰めと愛とを注ぎ、生きる力と希望を与えてくださっているのだと思うと有り難いやら嬉しいやらで、涙が溢れて仕方ありませんでした。

 私たちが救われるためには、お金が必要かもしれません。問題の解決も必要でしょう。しかし、根源的に必要なことは、愛されることであり、希望がもたらされることなのです。愛されるって、嬉しいことですよね。希望があるということは本当にありがたうことです。イエス・キリスト様が、この世界にお生まれくださったのは、「わたしたち」が苦しみ悩むときにも、寄り添い共に生きてくださる神の愛を示し、神様がわたしたちを愛しておられと言うことを告げ知らせるためです。そして、イエス・キリスト様が十字架の上で死に、復活なさることで、死と言う人間の最大の苦しみと悲しみですら乗り越えていくことができるという希望を綿日立に告げ知らせるためなのです。
 クリスマスが、そのような神の愛で私が愛されていると言うことを知り、私たちには希望があるということを告げしらせるその愛と希望を記念する日として過ごせたら、クリスマスは、決して寂しさや気持ち悪さが残るような楽しさではなく、あなたの人生にいつまでもの楽しさが残る喜びの日になると思います。
 多くの教会では、クリスマスには、クリスマス礼拝といって特別な礼拝を持ちます。クリスマスイブの深夜に礼拝を持つところもあります。ですから、あなたも教会のクリスマス礼拝で、神の愛にふれ、いつまでも残る喜びの日としてのクリスマスをお過ごしていただければと思います。

2023年12月19日火曜日

悪いのはお前ではない

 私の友人の岩本遠億牧師が、自分のホームページに、音声で「みかんのカビはみかんではない」という2分弱の短いメッセージを載せていました。私はそのメッセージを聴きながら、私の母のことを思い出していました、

 私の母は、私がまだ幼い頃、私が何か悪いことをすると、「お前が悪いのではない、お前のこの手が悪いのだ」と言って、私の手を叩き叱りました。私が生意気な事や悪態をついたり嘘を言いったるすると「お前が悪いのではない、お前のこの口が悪いのだ」といって私の口をつねって叱ったのです。手を叩くとか、口をつねるという行為は、今日では体罰だと言われ非難されるかもしれません。しかし、私は母は手を叩かれたということや口をつねられたということ事情に「お前が悪いのではない、この手が、この口が悪いのだ」といった母の言葉の方が、強く心に残っています。それは、悪いことをした私を叱ってはいるのですが、私と言う存在を深く愛する愛情がそこに感じられるからです。
 悪いことをした私を叱る。それは息子がより良い人間に育ってほしいと願うからです。そのとき「お前が悪いのではない」と言って叱る言葉の背後には、「あなた」は「本当は良い子なのだ」と言う思いがあります。その「本当は良い子」の「あなた」に悪いことさせたものがいる。それは「あなた」ではない「あなた」の手であり、「あなた」の口なのだ。そういって母は私を叱ったのです。
 「お前は、本当は悪い子ではない」。この思いは、神様が私たちに対して抱いておられる思いです。そして、実際に「わたしたち」は神様によって良いものとして造られている。「わたしたち」は神の子供として造られているのです。なのに、現実には、「わたしたち」は、良いことをするだけではなく悪いこともする。嘘や悪態をついたりするのです。そんな時、神様は「お前が悪いのではない。お前に悪いことをさせる罪が悪いのだ」といって、「わたしたち」を「あなた」を、そして私を責め、裁くのではなく、「わたしたち」を支配し、「わたしたち」に悪いことをさせる罪を裁かれるのです。
 私の母が「お前が悪いのではない、お前のこの手が悪いのだ」と言い私の手を叩き、口をつねって締まりました。しかし実際には、私の手と私自身とを切り離すことはできません。同じように、「お前が悪いのではない、お前のこの口が悪いのだ」と言って叱った時も、私の口と私自身とは決して切り離すことができません。だから、叩かれ、つねられ痛い思いをしました。でも、それを通して、自分が悪いことをしたということを学んでいったのです。 同じように神様が、「お前が悪いのではない。お前に悪いことをさせる罪が悪いのだ」といっても、その罪はべったりと「わたしたち」自身に絡みつき、「わたしたち」と切り離すことができないのです。
 私の母が、「お前が悪いのではない、お前のこの手が悪いのだ」、「お前が悪いのではない、お前のこの口が悪いのだ」と言ってと叱る時、どんなに悪い手を持ち、悪い口を持った私であっても、母は私自身を受け入れ、大切の思い愛情を注いで叱っていたのです。同じように、私たちの父なる神様は、どんなにべっとりと罪が「わたしたち」に絡みついていたとしても、その罪が絡みついたままの「わたしたち」を愛し、正しいものとなるように、「わたしたち」を教え、導き、時には厳しく叱りながら私たちを導いておられるのです。
 そのことを思い起させた、岩本遠億牧師のみかんとみかんに生じたカビに譬えて神の愛を語った「みはんのカビはみかんではない」というショートメッセージは、下記のアドレスをクリックし『366日元気の出る聖書の言葉』に行き、そこで「みかんのカビはみかんではない」よ言うタイトルのところにある▶マークをクリックするときくことができますので、このブログの記事と共に、ぜひ一緒にお聴きくださればと思います。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2ddie5?fbclid=IwAR3iR7FZCLq6FOUowS4PQ9JWqaBFF1omv-REkJCs6q8mvZGDxkWh2Ok8xPI

この岩本牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものですが、岩本牧師の御許可をいただいて転載したものです。

2023年12月18日月曜日

星の導き

  さあ、いよいよ今度の日曜日は、クリスマスですね。キリストがお生まれになった時には、色んな出来事がありました。その中の一つに、東の方から博士たちが、高価な贈り物を持ってやってきたというものがあります。

 聖書を読みます、この東の博士たちは、星をみていて、キリストがお生まれになったことを知ったと書かれています。どうやら、この東の博士たちは、占星術などを研究していた人たちだったようです。もっとも、占星術と言っても、いわゆる星占いのようなものではありません。それこそ、詳しく天体の動きを観測し、その天体の微妙な変化が、自分たちの生活に関わりを持っていないかをまじめに研究した、いわば大昔の天文学者のような人たちだったのです。その博士たちが、空にそれまでにはみられなかった不思議な星が上るの見つけたのです。それで、色々と調べてみました。すると、その不思議な星は、どうやらユダヤの国、今のイスラエルですね、そこに新しい王が生まれたしるしらしいことが分かってきました。

 そんなわけで、新しく生まれたユダヤの王を拝むために、わざわざ何百㎞も離れたところまで、旅を続けてやってきたのです。ところが、彼らは、ユダヤに新しい王がお生まれになったと言うことまでは分かっていましたが、ユダヤの何という町のどの家で生まれたかまでは分かりません。途方にくれた博士たちが、空を見上げると、あの不思議な星が、光り輝きながら、こっちだよ。こっちだよ。」と彼らを導いているのです。それでその星の導きに従って、ついて行きました。そしてその星がとどまったところに、まだ幼子のキリストがおられたのです。
 こうして、キリストに会いたいと思って、遠くからわざわざ尋ねてきた博士たちは、無事にキリストとお会いし、用意した宝物を捧げることが出来たのです。

 この話は、大切なことを私たちに教えてくれているように思います。それは、神を求め、キリストを求める人に対しては、神は必ず導きを与えて下さると言うことです。どんなに途方にくれるようなことがあっても、必ずキリストは、私たちを導いて下さるお方なんですね。そんな風に考えると、あの博士たちが、星に導かれたっていうことも、実に象徴的なことのように思えるんですね。

 真っ暗な暗闇の中で、どこに行けばいいのか、どうすればいいのか分からないときに、たった一つの星が輝きながら導いてくれた。それは私たちの人生が、どんな暗闇の中に陥ってしまったときにも、キリストというお方が、暗闇の中で光り輝いて私たちを導いてくださるということを教えてくれているように思うのです。そして、その導きは、必ず私たちを、神と出会わせて下さるのです。

 私たちは、私たちが置かれている環境や状況に振り回されてしまうようなことがあります。それこそ、日々起こってくる様々な出来事に支配されて、自分自身を見失ってしまう床があります。まさに、状況が「わたしたち」を支配し、「わたしたち」は状況に支配され、もはや状況の奴隷のようになって、状況が命じるままに右往左往してしまっている

 しかし、「わたしたち」は状況に支配され、状況の奴隷となって働かされるものではありません。状況の沿って「わたしたち」の人生を導くのではないのです。そのことを、私の友人の岩本牧師が、まさにそのものずばりのタイトルの「私たちは状況の奴隷ではない」という短いメッセージの中で語っています。そのメッセージは下記のアドレスをクリックし、『366日元気の出る聖書の言葉』というページに行き、タイトルのところにある▶マークをクリックすれば聴くことができますので、是非合わせてお聴きください。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2dca46?fbclid=IwAR0meTbNP-6IepClePV8rI71ffC6wnrYanYnyV5AL4LqwN9NlgqJc7iiSco

この岩本牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものですが、岩本牧師の御許可をいただいて転載したものです。

2023年12月17日日曜日

神の言の到来

 待降節第三主日礼拝説教

旧約書:箴言16章1節から3節
福音書:ヨハネによる福音書1章1節から18節
使徒書:ペテロ第一の手紙5章8節

 

 待降節第三週になり、来週はいよいよクリスマス礼拝になります。その待降節第三週の礼拝説教の中心となります聖書箇所はヨハネによる福音書1章1節から18節です。
 この箇所は、神の言(ことば)であるイエス・キリスト様が人となってお生まれくださったということを示しています。この「言(ことば)」はいわゆる言葉ではなくギリシャ語のλόγος(ロゴス)で、論理とか論証といったニュアンスを持つ言葉です。つまりλόγος(ロゴス)とは、物事を秩序正しく論理立て明らかにしていく言(ことば)がのです。
 そのλόγος(ロゴス)という言葉を用いながら、イエス・キリスト様が神のλόγος(ロゴス)であるというのは、それまで預言者たちを通して物語られていた旧約聖書の物語が、単に絵空事のおとぎ話や空想話でも神話でもなく、まぎれもなく神様が物語られた真実の神の救いの物語なのだということ、イエス・キリスト様のご生涯によって明らかにされたのだということなのです。

 では、その神の救いの物語とは何かというと、暗闇に光がもたらされ闇の包まれた世界に照らされるということなのです。だから、クリスマスには蝋燭の光が灯される。キリスマスは暗闇の中にあるこの世界に、イエス・キリスト様という光がお見えになったのだ。そのことを象徴的に表すために、蝋燭の明かりを用いるのです。
 それは、イスラエルの民にとっては、過去において、エジプトやアッシリア、バビロンといった外国の強大な力によって支配されて奴隷として過ごした暗闇のような世界に生きたイスラエルの民を、神がその支配からの解放してくださったという救いの物語が、単に伝説や神話の中の物語ではなく、たしかに神の救いの物語として事実であったということを明らかに論証する出来事なのだというのです。、今まさに、暗闇に支配されている人々を解放する光である救い主キリストの到来の出来事なのだというのです。
 それだけではない、その神の救いの物語は、今、まさにこの暗闇に覆われた世界に起こっている。確かに暗闇に光がもたらされ、この世界の闇が払われ、この世界に救いがもたらされ、神の恵みと愛が支配する神の王国が到来したのだ。この福音のメッセージがイエス・キリスト様のご生涯の物語によって論証されると、このヨハネによる福音書の著者は、この福音書を読む読者に、そう語るのです。
 では、その読者とはいったい誰なのでしょうか。もちろん、私たちもその読者のひとりなのですが、このヨハネの福音書の著者が思い描いていた読者は、この福音書が書かれた時代の人たちです。
 ヨハネによる福音書が書かれた年代というのは、定かではありませんが、紀元50年事から90年頃ではないかと言われます。1世紀前半のアンテオケのイグナティウスという人の書いた手紙にはヨハネによる福音書の繁栄が見れますので、その当時には、この福音書が存在していたこと間違いはありません。ですから、この福音書の著者が想定した読者は、1世紀後半の人々です。ですから、イエス・キリスト様を直接は知らない人々です。
 しかも、あえてλόγος(ロゴス)というようなギリシャ哲学的な言葉遣いをして読者の関心を引き寄せようとしている。このギリシャ哲学的な言葉使いから、読者は異邦人ではないかとかんがえられたりもしますが。ヨハネによる福音書のメッセージは、支配されている人々がその支配から解放されるというものであり事を考えると、ギリシャ文化の中で生きているユダヤ人と言った感じかなと思いますし、近年の研究では、そのようなギリシャ的な素養を身に着けたユダヤ人がパレスティナ地方にも数多くいたことがわかっています。

 いずれにせよ、ヨハネによる福音書の著書は、ギリシャ的素養は身に付けてはいるけれども、ローマ帝国の支配のもとにあるユダヤ人のような人々に、「確かに暗闇に光がもたらされ、この世界の闇が払われ、この世界に救いがもたらされ、神の恵みと愛が支配する神の王国が到来したのだ。この神の救いの物語がイエス・キリスト様のご生涯の物語によって論証される」と語りかけるのは、現実には紀元50年から90年頃に社会情勢では、ローマ帝国の支配は続いており、その支配はまだまだ長く続き、終わることがないように思われるからです。

 しかしこのヨハネによる福音書の著者は、それでもなお、確かにイエス・キリスト様によって光はもたらされ、暗闇は取り去られるという神の救いの物語は明らかですというのです。では、どこにある暗闇が取り払われたというのでしょうか。依然、世界は闇に覆われているかのような状態なのです。

 それは、私たちの心の内にある闇です。間違えられてはいけませんの申しあげますが、イエス・キリスト様は、この世界を覆う闇をもたらす罪と死の支配に対しても、完全に勝利なさっています。確かに、依然としてこの世界に闇が覆われている状況があるのは、事実です。それは、依然、私たちの心の中に闇が残されているからです。
 ヨハネによる福音書10節,11節には

   彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。
   彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。

とあります。
 口語訳聖書は「世は彼を知らずにいた」ですが、聖書協会共同訳では「世は言(ことば)を認めなかった」となっています。イエス・キリスト様が神のひとり子であることを認めず、救いの主であることが知られていないというのです。それだけでなく、拒絶する人さえいるというのです。

 しかし、今、私が申し上げた心の暗闇というのは、そのような人々の心の内にある暗闇というだけではなく、神を信じる者の中にもあるのです。そしてそれは、私たちの心の執着がもたらす闇だと言っても良い。私たちがギュっと握りしめているもの、もちろんそれはひとり一人違っているとは思いますが、その握りしめている思いが、私たちの心を暗闇に包ませてしまうのです。

 私は、先日まで入院していましたが、そこで学んだことは、諦めるということです。病気になると、どんなに頑張っても、自分で自分の体をどうすることもできません。それこそ、今まであったこともない、どんな人かもわからないけど、そこに医師がおられるというそのことを信頼して、自分の体を、自分自身の手から手放して医師に委ねなければならない。自分自身で何とかするということを諦めて、医師に委ねる。医師の力量や能力を信じて、自分自身をゆだねなければならないのです。

 このヨハネによる福音書には、「世は言(ことば)を認めなかった」とあります。人々がイエス・キリスト様が私を救う救いの主であるとは認めていない。いえ、救い主として認めていても委ね切れているかというとゆだねきれないでいるのです。それは手放すことができないからです。

 私たちは、小さい時から何かを獲得することで喜びを手にしてきました。また何かができることで、人にも喜ばれ、賞賛を得てきました。ハイハイができるようになり、立ち上がり歩けるようになり、言葉が話せるようになる。そうやって、何かができること、何かを得ることに喜びを見いだし、何かを手に入れることを大切にしてきたのです。

 そしてテストや競争で良い成績を収めることを目標にしてきた。でも、自分のちからでではもうどうしようもない壁にぶつかる時がある。どのときに、その思いを握りしめて手放すことが出来なければ、そこには絶望の闇しかないのです。そして、その闇を振り払うためには、誤った方法で、その願い求める者を手に入れるしかなくなるのです。
 それがどんなに大切な思いや願いであっても、それを握りしめていた手を開き、それを手放し、自分自身を救い主である神の御子イエス・キリスト様に委ねる。このお方こそ、神の御子であり、救い主であると信頼し、このお方に自分自身の身をゆだねる。それが人々にできなかったとこのヨハネによる福音書の記者は、言うのです。

だから、人々の心の、そして「あなた」の心にはまだ暗い闇が覆っている。また世界のまだ暗闇に覆われている。欲しいものが手に入らない悲しみで心がやむにおおわれている。でも、イエス・キリスト様はその闇に既に勝利しているのだから、この方を神の御子であり救い主とて信頼しきって、あなたの人生を、このお方にゆだねようよ。神の救いの物語は、間違いなく、イエス・キリスト様によって明らかに論証されているのだからと、このヨハネによる福音書の記者は、読者たちに語りかけているのだと言えるでしょう。

 実際、「初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。言(ことば)は神であった。この言(ことば)は、初めに神と共にあった」と言われた、またイエス・キリスト様は、「言(ことば)の内に成ったものは、命であった。この命は人の光であった.光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった」と言われた、イエス・キリスト様のご生涯において、このお方に関わった人たちに何が起こったのかを書き記しています。そこには病からの解放があり、社会的な抑圧や偏見からの買う方があり、支配者に対する明らかにな否が突きつけられ、その支配者たちがイエス・キリスト様に対して下した十字架に死に対して、死からの復活ということを通して、支配に対する勝利と解放を示しているのです。だから、イエス・キリスト様を信頼して、あなたの人生をすべてイエス・キリスト様に委ねてごらん。このお方を、救い主とてあなたの心に迎え入れようよと、この福音書の著者は呼び掛けているのだといっても良いでしょう。

 みなさん、私たち先ほど旧約聖書の箴言16章1節から3節のお言葉に耳を傾けました。そこには、

心にはかることは人に属し、舌の答は主から出る。人の道は自分の目にことごとく潔しと見える、しかし主は人の魂をはかられる。あなたのなすべき事を主にゆだねよ、そうすれば、あなたの計るところは必ず成る。

「舌の答は主から出る」とは、神が私たちに心に思い描く計画や願いがあり、それを実現しようとしてあれこれ口に出してその計画を話したとしても、それが実現するか否かは、神様の手の中にあるのだということを意味するでしょう。だから、「あなたのなすべき事を主にゆだねよ、そうすれば、あなたの計るところは必ず成る」というのです。

 この箴言は、父が子に、幸せに生きるためにはどうしたらいいのかということを、教訓をもって教え諭すものです。その父の教えとして「あなたのなすべき事を主にゆだねよ、そうすれば、あなたの計るところは必ず成る」というのです。その箴言の言葉に呼応するように、あなたの人生を、このお方にゆだねようよ。神の救いの物語は、間違いなく、イエス・キリスト様によって明らかに論証されているのだからと、このヨハネによる福音書の記者は、私たちに語りかけるのです。
 それはヨハネによる福音書の著者だけはありません。ペテロ第一に手紙の著者も、「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい」というのです。

 みなさん、「思い煩い」は、私たちの執着する心が生まれるものです。その執着する心は、神を信頼し、私たちの救い主であるイエス・キリスト様を信じ、信頼し、そのお方に自分自身をゆだねることなのです。そして、神様は、そしてイエス・キリスト様というお方は、私たちの思いと願い、そして私たちの人生を負委ねするに十分に信頼できるお方なのです。

 来週は、そのイエス・キリスト様がお生まれくださったクリスマスです。そのことを覚えつつ、しばらく心を静め、自分の心を見つめ、私たちは何に執着しているのか、静かに自分自身を見つめたいと思います。静まりの時を持ちます。

2023年12月16日土曜日

人間関係って難しいよね

 


「わたしたち」にとって、とても厄介な問題の一つが人間関係かもしれません。じっさい、人間関係の悩みは数多く、なかなか根深いもので難しいものであったりします。この人間関係が難しいのは、実は「わたしたち」ひとり一人が尊く大切にされるべき存在だからです。
 「わたしたち」のひとり一人が尊っとばれ、大切になれなければならないということは、至極と当然のことであり、とても大事なことです。それはひとり一人の個性異なる個性を持っているということが大前提にあります。そしてそこには、そのひとり一人の異なる個性が大切にされるということでにあるのです。ひとり一人が異なる個性を持つ言うことは、言うまでもなく、ひとり一人の価値観や考えも違うということです。当然、主張も違ってくる。もちろん、時には、それが一致することもありますが、一致しないこともある。そこに、人間関係の問題が生まれてくるのです。
 アリストテレスという古代ギリシャの哲学者は「人間は社会的動物だ」と言いましたが、確かに仙人のようになって山奥に身を潜め、たった一人で生活するというようなことをしない限り、私たちは誰かと関わりを持って生きて行く存在です。そこに意見や考え方、主義主張の違いあって、それをぶつけ合えば、人間関係の中に軋轢が生まれてくるのは必然だと言えます。だから、序列を造って軋轢が怒らないようにしたり、そもそも、多くの人が「大人」になって、人間関係がギスギスしないように、気配りをして調整したり、自分の意見をぐっと飲みこんで、問題が怒らないようにします。しかし、そのような関係は、結局、力関係を産み出し、そこにストレスを産み出しますので、結果としてそこにある人間関係の問題は、覆いを隠されて見えないようにっされていますが、しかし確かに存在はしているのです。だとすれば、私たちはあきらめるしかないのでしょうか。
 私は、そのことを考えるとき、フランスの小説家で「星の王子様」を書いたサン・ディグジュベリが結婚について述べた「結婚とは、互いに見つめ合うことではなく、同じ方向を見つめることである」という言葉を思い出します。
 結婚というのは、最も親密な人間関係の一つです。ですから、人間のエゴが最もストレートに出ることがしばしば見られます。もっともサン・ディグジュベリはフランス人ですから、彼が思い描いていた結婚は、それこそ熱い愛情によって結ばれた結婚かもしれません。だからこそ、そこに互いに向き合い、見つめ合うという姿を見ていたのかもしれません。そのような互いに熱い愛情に結ばれているならば、結婚当初は、そのような互いの考え方の違いや価値間の違いとそこから生み出される意見の違いや主張の違いは、乗り越えられるのかもしれません。
 そんな時に、サン・ディグジュベリベリ「わたしたち」は、自分の持つ価値観や思い、そして考えに目を向けるのではなく、また相手に価値観や考えに目を向けるのではなく、互いが一つの方向に目を向けてごらんというのです。そして二人がその方向をみながらともにあうきはじめてならば、互いに協力し合い、支え合っていけるといけのです。
  私は、そのサン・ディグジュベリベリの言葉を聞いた時に、「なんだかいい言葉をきいたなー」と思いました。「そして、その通りだ」と納得もしました。しかし、現実には、なかなかそれもうまくいきません。理想としてはわかるのですが、なかなか難しいことなのです。たとえ同じ方向を向いたとしても、それでもやっぱり、どこかで自分のエゴが顔を出すのです。それほど人間のエゴは根深いのです。そうなると、どこに目を向けるが大切のなります。
 「わたしたち」が目を向けるべきところ、それは、「わたしたち」神様なのではないでしょうか。なぜならば、神様は人間を超越している存在だからです。「わたしたち」が意見や考えを衝突させるのは、自分の考えの方が、「相手よりも秀れている」とか「ほかの人よりも良い考えだ」と思うからです。しかし「わたしたち」を超えた存在である神様が思い描き、考えるおられることは、「わたしたち」の思いや願いをはるかに優ったものだからです。ですから、私たちが人間関係の中に軋轢が生じたときは、まず、神様の方向に目を向けるのです。その神様の方向とは、聖書です。聖書の言葉に目を向け、心を静めて、神様が語りかけてくださる言葉に耳を傾けるのです。
 もちろん、それだけではないでしょう。一度、心の中にわだかまりができてしまうと、それはなかなか回復できるものではありません。その回復のためには、互いの心が擦れ合い摩擦が生じる部分に緩衝材となり、摩耗材となるものが必要です。その緩衝材となり摩耗材となってくださるお方がイエス・キリスト様はです。イエス・キリスト様は、私たちに「愛」という緩衝材となり摩耗材となる者を豊かに注いでくださいます。そして、私たちの心の傷を癒してくださると同時に、相手を思いやり、慈しむ心を与えてくださいます。ですから、イエス・キリスト様という存在が、私たちに人間関係の中に介在してくださるとき、私たちの抱える人間関係の問題は、確かに解決に向かって進みだすのです。
 そのこと、私の友人の岩本遠億牧師は、「歯車」という短いジョーとメッセージで伝えてくれています。その岩本牧師のメッセージは、岩本牧師のご了解をえてリンクした下記のアドレスで聴くことができます。下記のアドレスをクリックして、『366日元気の出る聖書の言葉』というホームおエージに行き「歯車」というタイトルにある▶マークをクリックしてください。そうすれば聴くことができます。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2da96m?fbclid=IwAR3UVjgL2bn1tjt9EKYw1Gs3QSIkd4PwTcAWc0j35qVQ10EWyPrqsHwpOgg

2023年12月15日金曜日

神秘と神秘的なもの

 「神秘と神秘的なもの」


昔、神学校の学生の頃、臨死体験ということについていろいろと考えることがありました。臨死体験というのは、事故や病気で死線をさまよった後に、命が救われた人が、その死線にある最中に見た幻影です。そしてその幻影はかなり似通った共通性が見られます。ところが共通性があるのですが、その共通性は、ある特定の集団にかぎられているのです。具体的に言うならば、日本人の経験する臨死体験と西洋人が経験する臨死体験は全く違っています。つまり、臨死体験はある種の集合体を形成しているのです。
 神学校で神学生として学ぶということは、将来は牧師になるという志のもとで学んでいるということです。あるいは牧師にならなくても、何らかの形で教会や宣教の場で働くということを意識していると言えます。私の場合は牧師になるという明確な思いがありましたので、このような死という問題にきちんと向き合い考えなければならないと感じていましたので、臨死体験ということにも関心を持ったのです。
 そこで私は、医師の方に臨死体験について医学的な面ではどのようにとらえているのかを聴きました。するとその医師の方の答えは、「医学では、臨死体験ということが、脳のどの部分で起こるのかということは明らかにすることができる。しかし、またどうしてそのような現象が起こるのか、またおこるようになったのかについては、医学でえkはわからない」というものでした。とても真摯なお答えだと思います。
 私たちの世界は、神秘的な事柄と神秘があふれています。科学は、神秘的な事柄を明らかにしてくれます。たとえば、月が満ち欠けをするなどと言うことは太古の人にしてみれば神秘な出来事だったであろうと思いますし、日食なども不思議な事だったろうと思います。ですから、そのようなことが基になった神話や宗教的儀礼が行われるようになったりしてきたのです。しかし、科学は、月が満ち欠けする理由や、日食がなぜ起こるかについてを明らかにしてきました。そうすると、それまで神秘的であった出来事は神秘ではなくなってしまうのです。それは、神秘そのものがなくなってしまったということではありません。神秘的な事柄と神秘とは非常に似通ってはいますが、全く同じではないのです。
 科学は神秘的な事柄を神秘的にしているベールをはがすことができます。しかし、神秘そのものに分け入ることができません。神秘的な事柄は神秘を指し示す神秘の類比ではあっても神秘そのものではないのです。
 科学は、「わたしたち」により多くの知識を与えてくれますが、科学では得ることのできない知識、すなわち神秘が、「わたしたち」の周りにはあるのです。科学では得ることのできない知識は、言葉で言い表すことができません。ですから、絵や音楽といった芸術的表現にならざるを得ません。あるいは言葉で伝えるとしても、それは詩や物語と言った文学的表現にならざるを得ないのです。だからこそ、宗教には宗教儀礼と言った儀式が伴い、そこの神話が生まれるのです。
 キリスト教におけるイエス・キリスト様というお方。このお方の生涯は神話ではなく歴史的事実です。しかし、そこには神話的がまとわりついています。その中のあるものは、神秘的な事柄で、今の科学的知識から見れば、こういうことなのだろうと推測できるものもあります。しかし、それはイエス・キリスト様というお方が神秘そのものであるということを指し示す類比であって、イエス・キリスト様という存在そのものが神秘なのです。たしかに、イエス・キリスト様というお方を社会学や心理学という化額は、分析的に語ることはできるでしょう。しかし、神の御子が人とのなったこの世界にお生まれくださったというクリスマスの出来事は神秘です。そしてイエス・キリスト様という存在そのものは神秘そのものなのです。
 神秘は頭で理解できる範疇のものではありません。心で感じ取るものです。そして、神という存在も、神の御子であるイエス・キリスト様の存在もまた神秘であった、頭で理解するのではなく心で感じ取ることなのです。この科学が明らかにする神秘的事柄が神秘そのものを指し示すということを私の友人の岩本遠億牧師が「光合成の神秘」という短いメッセージの中で分かりやすい光合成という科学的事柄を通して話してくれています。この岩本牧師のショートメッセージは、下記のアドレスをクリックし、新しく開かれた『366日元気の出る聖書の言葉』の頁にある「光合成の神秘」というタイトルのところにある▶マークをクリックすると聞くことができますので、併せてお聴きください。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2d8qf6?fbclid=IwAR0uCZ2BvR3F9600bXxqnssntR_Ltb2YIzvD1YCtiNB2KPmFL6KsGz1CuN0

この岩本牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものですが、岩本牧師の御許可をいただいて転載したものです。

2023年12月14日木曜日

神の熱い情熱的な愛と冷静な真実の愛


昔、神学校の学生だったときに、教授の一人が愛について教えてくださいました。その教授が言うには、愛には二つの愛があるというのです。一つは、なぜ愛するのかその理由や分けなどわからない。ただ、愛おしくて、愛おしくてたまらないから愛するという愛です。そしてもう一つは、その教授は、これおを不条理な愛と呼んでおられました。
 そしてもう一つの愛は、「あなたを愛する」と決断し、愛すると約束したからこそ、何があっても愛し続けるという意志的・決断的な愛です。それを先の教授は「契約の愛」と呼び、神様の愛は、この不条理な愛と契約の愛と両方を持っておられるというのです。どういうことかというと、「わたしたち」人間は、神様から愛されるような理由や愛されるにふさわしい資格など持ち合わせていない。だけども、神様はたとえそうではあっても、「わたしたち」人間を愛さずにはいられないというのです。そこには、神様の中に湧き上がるような熱い情熱的な愛があるのです。おそらく神様も、なぜ「わたしたち」愛するかわからないのではないでしょうか。ただひたすら、情熱的に「わたしたち」を愛し、ご自分の民となさろうとしておられる。だからこそ、神様は、「わたしたち」を神の民とし、神の子とする約束(契約)を与えるのです。そして、神様は、ひとたび「わたしたち」を神の民とし神の子とする契約を結ばれたならば、「わたしたち」の側に何があっても、私たちを神の民として取り扱われ、神の子として教え育まれるのです。そこには、どこまでも約束に忠実であって、真実を貫く忍耐強い神様の愛があります。
 旧約聖書を見ていますと、神様から「あなた方を神の民とする」と約束された(契約を結んだ)イスラエルの民の歴史を見ることができます。そこには、賞賛されて当然と思えるような人も若干は出てきますが、そのほとんどが、神に背を向け生きるイスラエルの民の歴史であり、そのつど神が、イスラエルの民を懲らしめながら、イスラエルの民を導こうとする、どこまでも約束に忠実で真実な神様の愛を見ることができます。それだけに、一生懸命イスラエルの民を神を信じる信仰の故に、正しい道へ導き、神の民として夜相応しく整えようとする神様と対照的に、自分勝手に生き、困った時だけに神様を求めるイスラエルの民の姿に、自分勝手な「わたしたち」人間の姿を見、その「わたしたち」の中のひとりである「わたし」の姿を見て、そこに、愛する理由、愛される理由などなく「わたしたち」を愛する熱い情熱的な神様の愛を感じずにはいられないのです。そして、その熱い情熱的な愛があるからこそ、どこまでも約束に忠実で真実な「契約の愛」に生きる神様の姿があるのです。
 その神様の熱い情熱的な愛が、神の独り子であるイエス・キリスト様を人としてこの世界に送り出すというクリスマスの出来事を起しました。それは、イエス・キリスト様というお方を通して、イスラエルの民だけでなく、すべての人を神の民とし神の子とする新しい契約を私たちに与えるためです。そして、その約束(契約)のゆえに、神様は、何があっても「わたしたち」を裏切ることなく、「わたしたち」を教え、導き、神の民、神の子として整えて行ってくださるのです。
 こうしてみますと、神様の内には「熱い情熱的な愛」と「何処までも冷静に真実を尽くす愛」があることがわかります。この神様の二つの愛の中で、愛する理由や愛される資格を求めない、熱い情熱的な「不条理な愛」について、私の友人の岩本遠億牧師が「愛に理由はない」という2分ちょっと(音楽を含むと4分)の短いメッセージで語っています。その岩本牧師のショートメッセージは、神のアドレスをクリックし、新しく開かれたページで「愛に理由はない」というタイトルのところにある▶マークをクリックすれば聴くことができますので、併せてお聴きくださればと思います。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2d7921?fbclid=IwAR0X7fuj5KEEz3cJSs-b4jSHyqTmUo3xbhDStqgGCLR38xMbBr8fBz99FY0


このメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものですが、岩本牧師の御許可をいただいて転載したものです

2023年12月13日水曜日

イエス・キリスト様は、ワンダフルカウンセラー

 旧約聖書イザヤ書9章6節にこういう言葉があります。「ひとりのみどりごが、私たちのためにうまれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその方にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。

 この聖書の言葉は、そのキリストの誕生を預言している言葉です。ですから、私たちのために生まれる、ひとりのみどりごというのは、キリストのことなんですね。この預言が書かれているイザヤ書は、キリストが生まれる700年以上前に書かれました。つまり、キリストの誕生は、700年も前から預言されていたって事になります。すごいですよね。

 このイザヤ書によれば、キリストは「『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」というのです。今日は、その中で説くに、「不思議な助言者」という言葉に注目してみたいと思うんですが、この「不思議な助言者」っていうのは、英語ではワンダフル カウンセラー」というそうです。

 最近、カウンセラーというのをね、辞書で調べてみますと、「臨床心理学などを修め,個人の各種の悩みや心理的問題について相談に応じ,解決のための援助・助言をする専門家。」となっていました。つまり、私たちの抱えている問題に対して、心理学の方面から、相談に乗り、助言をしてくれる人がカウンセラーと呼ばれる人たちなのです。そういった意味で、カウンセラーという人たちの働きはとても尊く、大切な働きだと言えます。

 そして、イエス・キリスト様は聖書の中で、「ワンダフル カウンセラー」だといわれている。「ワンダフル」というのは「びっくりするほど素晴らしい」ってことです。それは、いわゆる普通のカウンセラーと呼ばれる人が解決できないような問題を解決してくれるカウンセラーだというのです。

 では、普通のカウンセラーの人が解決できないような問題って何でしょうか。それは、私たち人間を取りまく多くの悪と、その悪によって苦しめられ悩み、子ことを痛め、悲しみ苦悩する私たちの現実に起こり得るに関する問題です。それは、まさに不条理な苦しみであり、それが、私たちの内に憎しみや像を掻き立てるという負の連鎖を巻き起こす。そして、最悪の場合は、このような不条理な苦しみや心の痛み、そして悲しみの中で自ら死を選ぶ人さえ出てきてしまうという悲しい現実がある。このような現実は、どんなに優秀なカウンセラーの人でも、完全に解決することが出来ません。

ところが、イエス。キリスト様は、そのような問題にまで立ち入って下さることができるカウンセラーなのです。もちろん、キリストはマジシャンじゃありませんから、手品のように、ぱっと私たちの目の前から、私たちを取りまく悪がもたらす問題やそれが引き起こす苦悩を消してしまうのではありません。

私たちを取り巻く様々の問題や苦悩には必ず不安が伴います。実は、私たちが感じる悩みや苦しみの原因の中心にあるのは、この不安な気分なのです。でも私たちがイエス・キリストを「あなた」の救い主と信じ、心に受け入れるならば、イエス・キリスト様は、その不安な気分を取り除いてくださり希望を与えてくださいます。そして、悲しみ、心が傷つき痛む心を癒してくださいます。なぜならば、イエス・キリスト様は、無実であるのにもかかわらず、イエス・キリスト様が多くの人に慕われ、名声を得ていく中で、それに嫉妬し、また自分の持っている立場をイエス・キリスト様の奪われるかもしれないと感じた人々の保身のために、何の罪もないのに訴えられ、そのために十字架に架かり死ななければならないという不条理な苦しみと悲しみ、そして心の痛みをご自身で経験なさっているからです。しかも、その十字架刑にかかり処刑され今にも死のうとする中で、「父よ彼らをおゆるし下さい。彼らは何をしているのかわからないでいるのです」と言って、憎しみと憎悪という負の連鎖をも乗り越え、それを断ち切られたのです。だからこそ、キリストは「ワンダフル カウンセラー」「不思議な助言者」って呼ばれるのです。

クリスマスは、その「ワンダフル カウンセラー」があなたのためにお生まれになって下さった日なのです。そしてその出来事は二千年前の現在のイスラエルという国がある中近東のパレスティナ地区で起こった出来事です。ですから、今日の日本に生きる私たちは、このイエス・キリスト様とお出会いし、イエス・キリスト様から直接カウンセリングを受けることはできません。
しかし、イエス・キリスト様は、そのお弟子たちを中心にして、イエス・キリスト様の体となって働く教会をお建てになり、イエス・キリスト様の御生涯とその教えを知ることができる聖書という書物を残されました。そして、このキリストの体である教会と聖書を通して、「ワンダフル カウンセラー」であるイエス・キリスト様と出会えるようにと、聖霊をこの世界に送ってくださっているのです。それは、今、ここにおいて、あなたが私たちを取り巻く悪の力と、不条理な苦しみがあるならば、是非、聖書を通し、また教会を通して働く聖霊なる神の助けを得て、イエス・キリスト様と出会い、イエス・キリスト様にある慰めと平安を手に入れていただきたいと思います。

2023年12月12日火曜日

クリスマスは神様の独り子が人となった出来事

 神様は人間ではありませんし、人間は神様ではありません。人間の中には神のような人はいるかもしれませんが、それでも神様と人間との間には絶対的な差異があります。しかし、その神様と絶対的に差異がある「わたしたち」人間とが神様とは一つになる事が出来ます。少なくとも聖書はそう言います。

 いえ、「わたしたち」人間は、もともと神と一つに結ばれた存在として神様から創造されているのです。この神と人とが一つに結ばれていることをヘブライ語では「インマヌエル」と言います。日本語では「神われらと共にいます」と訳されます。神様と人間との間には決して超えることができない溝があります。しかし、その深い溝を乗り越えて、神様の方が人間に歩み寄ってくださっり、人間と共にいて下ることが、「インマヌエル」ということなのです。

 そのように、「わたしたち」は元々神様を信じ、神様と共に生きる者として造られているのです。J.L.バレットというアメリカの学者が書いた『なぜ子どもは神を信じるのか?』という本に、大変興味深いことが書いてありました。このJ.L.バレットという人は、宗教認知科学や主教心理学と言った分野の研究者ですが、最近の研究では、「人間は生まれた後、教え込まれたり布教されることで神を信じるようになるのではなく、もともと生まれたときに神を信じる心の構造あるいは、神を信じる能力といったものをもって生まれてくるのだ」ということが明らかになっているというのです。

 このことは、別段、驚くことではありません。というのも、このことと類比されることが、言語学という学問の世界では、ずいぶん言われていることだからです。そしてチョムスキーという学者によってもたらされた「生成文法」という考え方です。チョムスキーは、一般的に子供は、生まれて3~4歳になると、母国語を、教えられることなく、ほぼ完ぺきな形で話し出すことに着目します。それは日本語のような、非常に難しい言葉であっても同じです。そこでチョムスキーは、人間は生まれながらして、自分自身の中に文法を形成するもととなるものあるいは能力を持っており、それによって母国語の文法を自分自身の中に生成していくのだと考えたのです。そしてそれは、今日の言語学ではほぼ常識のこととなっています。
 それと同じように、人間は、神を信じる者として、神を信じる能力をもってこの世界に生まれてくると認知学上は言えるのだというのです。そしてそれは、人が神と共に生きる「インマヌエル」ということなのです。ところが、人間は、だんだんと成長していくとその神から離れ、神とと共に生きるのではなく、自分自身の力で、自分一人で生きようとするのです。
 しかし、実際は、それは自分自身の力で一人で生きているのではないのです。神様と共に生きるのではなく、神様から離れて、むしろ神様に背を向けて罪と悪にそまった「この世」という世界と共に生きているのです。

 そのような世界に神様は、神の独り子であるイエス・キリスト様を人として、人の肉体を持つ者としてお生まれになられたのです。ですから、イエス・キリスト様がお生まれになったことを、神学用語では受肉というのです。この受肉なさったイエス・キリスト様を、神様は「インマヌエル」と呼ばれました。まさにイエス・キリスト様という存在の中に、完全な神と完全な人とが一つに結び合わされているからです。まさにイエス・キリスト様という存在の内に、またそのご人格の中に「インマヌエル」ということが現れ出ており、イエス・キリスト様のご生涯の歩みが、神様と共にいきる「わたしたち」人間のあるべき姿があるのです。

 最も原初の教会にあって、後の時代のキリスト教、特にカトリック教会やプロテスタントの諸教会に大きく影響を与えた人物の一人のパウロという人は、しばしば、「エン キリストゥー」という言葉を用います。この言葉は日本語では、「キリストにあって」とか「キリストの内に」と訳されていますが、この言葉の真意は、私たちがイエス・キリスト様と一つに結ばれるということです。私たちはイエス・キリスト様と一つに結ばれることで、神様の救いの業に与ることができ、私たちはイエス・キリスト様と一つに結ばれることによって、神の業を行うことができるのです。

 この神の業を行うということは、イエス・キリスト様のように奇跡を行ったり、不思議な業を行うといったことでもなければ、イエス・キリスト様のように病気を治すといったことではありません。神の業とは、私たちが、私たちの周りにいる人を愛し、慈しみ、たがいに赦しあうことです。神様から離れ、神に背を向けて生きて行くとき、「わたしたち」は自分自身が好きな人、自分自身が尊敬できる人を愛するということはあっても、自分自身が嫌いな人や、自分自身に敵対するような人は、憎んだり蔑んだり、嫉妬したりします。それが、神様と共に生きることから離れ、この世という世界と一体になって生きる「わたしたち」の現実の姿です。

 そんな「わたしたち」に、神様は問いかけておられます。「あなた」はそのような現実の姿のままで良いのですか?「あなた」はそんな現実の姿から、変わりたくありませんか?と。

 先ほどのパウロという人は、二千前のローマ帝国下の支配にある地中海世界の中に生きる教会の人々に「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」と呼びかけています。それは、イエス・キリスト様が、私たちに対してお示しになったお姿であり、神様が私たちにお示しくださったお姿です。神様は、「わたしたち」と共に歩んでくださるお方です。「わたしたち」が喜ぶ時「わたしたち」と共に喜び、「わたしたち」がなくときに共にないてくださるお方です。だからこそ、パウロが呼びかける「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」という生き方、その根底には、私たちの周りにいる人々、それは敵味方、好き嫌い、尊敬できる出来ないに関わらず、愛し慈しみ、互いにゆるしあうという精神があるのですが、そのような精神に生きる生き方は、神の業なのです。

 パウロが二千前にの教会に呼び掛けた生き方は、2千年たった今の教会にも呼びかけられている言葉です。そして、その言葉は、今日のキリスト教会の目標でもあります。キリストにある(エン クリスト―)の教会はそのような教会を目指して歩んでいます。まだまだ府観戦ではありますが、イエス・キリスト様と共に、そしてイエス・キリスト様のように生きようとする人々の共同体が教会というところなのです。

 「神われらと共にいます」というインマヌエルであるイエス・キリスト様が受肉なさったこと記念するのがクリスマスです。そのクリスマスの時に、よろしければ、是非、教会をお訪ねなさることをお勧めします。

 この神様が私たちと一つになり、私たちが神様と一つになるということを、別の角度から捕らえて語った三分弱の短いメッセージがあります。それは、私の友人の岩本遠億牧師の「一つになる祈り」というメッセージです。岩本牧師からご許可をいただいて、そのメッセージが聴くことができるページのアドレス下記に記しておきます。そのアドレスをクリックし、岩本遠億牧師の『366日元気の出る聖書の言葉』の頁に行き、「一つになる祈り」というタイトルのところにある▶マークをクリックしてしてください。そうすればそのメッセージを聴くことができます。

2023年12月11日月曜日

天国はどこ?

 聖書の中に「神の国は、観察できるようなしかたでは来ない。『ここにある』とか、『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの中にあるからだ」(ルカによる福音書17章20節、21節)という言葉があります。この「神の国」と訳されたいう聖書のもとものの言語であるギリシャ語は、しばしば天国という語に訳されたりもします。

 天国というと、なんだか死んだ後に行く世界のようですが、聖書が言う「神の国(天国)」は死んだら行く場所ではないのです。そもその死んだあと行く場所であるとしたら「実に、神の国(天国)はあなたがたの中にあるからだ」という言葉は意味を持ちません。生きている「あなた方の中にある」からです。
 この「神の国(天国)はあなた方の中にあるからだ」という言葉は、二つの意味に解釈が分かれます。それは「中」と訳されるギリシャ語が、「中に」という意味と「間に」という、両方の意味を持つからです。「中に」という風に訳すと、「神の国(天国)」が、極めて精神化されたものとなります。つまり、あなた方の心の中に天国のような平安と慰めがあるという感じです。
 もちろん、「神の国(天国)」を単純に「心の平安や慰め」に置き換えていいのかという問題もありますが、私は、その可能性は十分にあると思います。なぜならば、「神の国(天国)」というのは、神の恵みと愛が支配する「神の支配」を表すからです。神様が王となり、神の国の民を神の愛によって支配し、神の恵みが神の民を包みこむのです。だから、恐れもなく、傷ついた心も体も、神の愛によって癒され回復されるのです。だから、「神の国(天国)はあなた方の中にあるからだ」という言葉という意味は、「神の国(天国)はあなた方の心の中にある」、「あなた方の心に、神の恵みとして心の平安が広がり、あなた方は神の愛の中で憩い、癒されるのだ」と言われると、なるほどなと思えるのです。
 しかし、それでも私は、この「神の国(天国)はあなた方の中にあるからだ」という言葉は、「あなた方の間に」と訳した方が良いと考えています。その理由を説明していますと長くなりますのでここでは割愛しますが、要は文脈の流れを考える時、「間に」と訳した方が、文脈がしっくりと流れるということが一番の理由です。同時に「神の国」という性質を考える時、「神の国(天国)はあなた方の間にある」と訳した方が意味的にもしっくりとくるように思うのです。なぜならば、ここでいう神の国は神の愛と恵みによって神が王として支配する領域だからです。つまり、神の国(天国)は王であり神と神の民となった者の間だにある関係概念でもあるのです。そして、それは神と「わたし」あるいは神と「あなた」という神と個人の代打を結ぶ関係だけでなく、「神の国(天国)」の民の間を結ぶ関係にも及ぶからです。
 「わたしたち」人間は、人間関係の中で傷つき、悲しみや痛みを感じます。同時に、その人間関係が互いに支え合い慰め合いながら共同体を築き上げていくのです。そして、その共同体がキリストの体なる教会となって顕れ出てくる。だから、キリストの体である教会は、傷つけあるのではなく、慰め合い、励まし合いながら生きて行く力が与えられる場でなければならないのです。キリストの体なる教会では、神の愛が支配し神の慰めや、憩いがある場所なのです。
 もちろん、そのような場に置かれ、生かされるからこそ、私たちの心に、「神の国(天国)」は広がっていき、「心の中に平安が広がり、あなた方は神の愛の中で憩い、癒される」という神の国が広がっていくという意味で「神の国はあなたの心の中にある」という事態が起こってくることができるのです。
 これをお読みくださっているみなさん。教会は、「今、ここで」の現実の世界の中に現れ出た「神の国」です。もちろん、その教会という共同体を築き上げている一人一人は、様々な問題を抱えたひとり一人であり、欠けを抱えたひとり一人ですから、完全な、完成された「神の国」ではありません、しかし教会が「キリストの体なる教会」を目指し、神の恵みと愛が支配する場所としての教会を目指しているならば、あなたがそのような教会に足を置き、身を置くならば、あなたの心の中に神の国が広がっていきます。
 ですから、このクリスマスを迎えようとする降誕節に、よろしければ是非教会を訪ねられてみてはいかがでしょうか。
 この神の恵みと愛が支配する神の国について、私の友人の岩本遠億牧師が「天国は今、ここに」という2分半程度の短いメッセージの中で話しています。岩本牧師の御許可をいただいて、そのメッセージを聴くことができるアドレスを下記に掲載します。そのアドレスをクリックし、新しく開かれたページの▶マークをクリックしてください。そうすれば聴くことができます。
https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2d2ueq?fbclid=IwAR3QJDZPYsSHjiA70dYYdHhHGuwUl5LzwtjJdfRUxp9Qf3ZifzqyCGGGNuI


この岩本牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものですが、岩本牧師の御許可をいただいて転載したものです。

2023年12月10日日曜日

なぜクリスマスにヒイラギ?

 クリスマスの時に飾る植物と言えばヒイラギです。しかし、なぜクリスマスにヒイラギを用いるのでしょうか。不思議に思って調べてみますと、ヒイラギの赤い実が、イエス・キリスト様が十字架に磔になられた時に流された赤い血の色を象徴し、ヒイラギの葉のとげが、同じくイエス・キリスト様が十字架に架けられた時にかぶせられた荊(いばら)の冠を象徴しているのだそうです。宗教は、その宗教の内容をしばしば象徴をもって示しますが、まさにクリスマスの時期にヒイラギを用いるのは、そのような象徴的な意味からなんですね。

 しかし、十字架に磔になって流されら赤い血も荊の冠も、それは「わたしたち」の目には苦しみであり苦痛であり、それが強いられてなされるとしたら苦難そのもでしかありません。なにに、クリスマスというとても楽しい時期に、あえてそのような苦しみや苦痛を象徴するヒイラギを用いるのでしょうか。それは、イエス・キリスト様の十字架の死という苦しみや苦痛の出来事が、「わたしたち」に喜びをもたらす出来事となるからです。それは、普通なら十字架の上で殺される、あるいは荊の冠を頭にかぶせられるという苦難や苦痛は、嫌なものであり避けたいと考えるのが順当な感覚だからです。昔、メル・ギブソン監督が『パッション』という映画で、イエス・キリスト様のご生涯を描きましたが、イエス・キリスト様が荊の冠をかぶせられ、十字架に磔になるシーンは、あまりに辛く、とても正視するのは、とてもつらい思いがしたほどでした。
 しかし、神様は、そしてその神の独り子であるイエス・キリストは、その辛い出来事をも喜びの出来事へと変えてくださるというのです。そこには、様々な苦しみや悲しみに満ち溢れ、私たちの外側にある罪によって心が傷つき、もう生きて行くことなどできなと思うほどまでに心が追い詰められていしまう、私たちのこの世界での現実の生(せい)に、死に別れ、新しい命に生きるという希望のメッセージがあるのです。
 それは、実際に「わたしたち」が死ぬということではありません。神様は、どんなに辛くても、また苦しくても「わたしたち」が自分で自分の命を絶って死ぬなどと言うことを願ってはいません。むしろ神様は、私たちに「生きよ」と言っておられます。神様は「わたしたち」が「生きる」ということを願っておられるのです。
 だからこそ、父なる神様は、その愛する御子イエス・キリスト様をこの世界に送り、あえてイエス・キリスト様が荊の冠をが撫せられ、十字架に架けられて死ぬという苦痛の出来事を、だまって見守られたのです。そして、その死を見守られた父なる神様は、イエス・キリスト様を死から蘇らせたのです。そうやって、死と再生の物語を、具体的にイエス・キリスト様のご生涯を通して描き出されたのです。それは、私たちが、どんなに辛く、苦しい出来事の中に置かれ、理不尽だという思いになるほど、外側の罪がもたらす苦難の中に置かれていても、必ずあなたの生涯は喜びの生涯に変えられていく。神を信じるならば、あなたの生涯は新しくなり、その辛く、苦しい出来事も、新しい物語として物語れれるようになる。だから、あなたは「生きよ!」。「生きて神を信じる新しい命をいきるものとなれ!」と語っているのです。
 ですから、もし、あなたがクリスマスの時期にヒイラギを目にしたならば、どうぞ、そのヒイラギの木を通して、神様が「あなた」に、どんなに辛いことや苦しいことがあっても、「あなた」は「生きよ!」を私が「あなた」と共に歩み、「あなた」の人生をまるで生まれ変わったような新しい人生に変えて行ってあげるから、だから「あなた」は神を信じて、新しい人生を生きよ!という神のメッセージを聞き取って欲しいと心から願います。
 本来なら苦難と苦しみに満ちた死は、私たちにとって喜ばしいものではありません。それは全く順当な対応関係にあるごく普通の当り前の感情です。しかし、神様は、あえてイエス・キリスト様が荊の冠をかぶらされ、十字架の上に張り付けられるという苦しみの出来事を、喜びの出来事として物語るという逆対応の物語として描き出したのは、私たちに「生きよ!」。「神を信じて、この世という世界の中にあって新しい人生を生きよ!」という神のメッセージを、その死と再生の物語に託されたのです。
 そのことを、私の友人の岩本遠億牧師は、下記に記したアドレスをクリックして出てくる『366日元気の出る聖書の言葉』というホームページにある「死を打ち破る命に」という3分ちょっとの短いメッセージで語っています。よろしければ、その『366日元気の出る聖書の言葉』のg-無メージに行き「死を打ち破る命に」というタイトルのところにある▶マークをクリックしてくだされり。岩本牧師の短いメッセージもあわせてお聴きくだい。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2d1pvm?fbclid=IwAR3W7qrpwrNyyBnZPatAw8qUsuGA-WDegazzwJ5mfz9eH9Tnu1zoleSQnFw

 この岩本牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものですが、岩本牧師の御許可をいただいて転載したものです。

2023年12月9日土曜日

神の像(かたち)が導く生き方

 マズローという心理学者が、欲求段階説という学説を唱えています。このマズローの欲求段階説は、色々な所で引用されることがありますし、このブログでも何回か取り上げたのでご存じの方も少なくないのではないでしょうか。この欲求段階説では、人間の心が満足するのは、わたしたちの欲求が満たされることにnよってであり、その欲求には段階があって、より下位の欲求が満たされたから、徐々に上位の欲求が満たされていくというものです。当然、その都度その都度、心は満足し満たされて行きます。

 マズローは。最初は、飲み食いが満たされる。つまり生命を維持するために必要な食べ物や飲料水を求めるような、生理的欲求から始まると言います。そしてその生理的欲求に突き動かされて人間は、行動するのだというのです。そうやって生理的欲求が満たされると、外的や危険、それは時には寒さや暑さと言った気候的要因によるものであっても、それが身体的な不快を与えるものであれば、そのようなもの肩守られる安全の欲求に至ると言います。そしてそれがまた人間の行動の動機づけになる。そうすると、人間の欲求は、ー帰属に対する欲求が起こるというのです。どこかの社会やグループといった仲間と共にいたいという欲求です。そうすると、人間は、その欲求が気遣いの行動になったり、空気を読んだり、忖度したりと、仲間と一緒にいるための行動になってきます。そして心が満足する。けれどもその満足はさらには、その仲間から認められたいという承認欲求になり、頑張って勉強したり、スポーツや音楽で練習をするといった行動になっていきます。この承認欲求は、愛されたいという願望にもつながるものかもしれません。この承認欲求が満たされると、心は満足し、さらなる欲求へと進みます。それは、「わたし」がやりたいことがやれる。「わたし」がなりたり「わたし」になれるという自己実現の欲求です。
 こうしてみると、マズローの欲求段階説は、人間の欲求と心の満足と行動というものを見事に言い表しているように思います。しかし、本当にマズローの欲求段階説は、人間の心と欲求と行動とを言い表せているのでしょうか。
 動物は、お腹がすき生理的欲求が満たされないと、目の前に食べ物があれば、それに飛びつきます。それこそ、肉食動物であるならば、目の前に餌があるならば、すぐさま襲いたべてしましますし、野良猫や野良犬は、軒先に並んでいるもでも、人が見ていようが見ていまいが、それに飛びつきます。そしてそれを食べ満足します。けれども、私たち人間は、どんなにいお腹がすいても、人が見ていようが見ていまいがに関わらず、それを食べるようなことはしません。仮に、本当に死にそうなほど飢えていて、それを盗んで食べることがあっても、盗んで食べたということで心が痛み、両親の呵責を受けるのです。
 また、誰かが危険な場所で困っていたら、自らの危険を顧みずに助けようとします。それを見捨ててしまおう事なら、そのことで、心が痛み、自分自身を責め、心が傷つくのです。また、どんなに仲間はずれにされても、貫かなければならない正義がある時には、人はたとえ孤独になっても、その正義のために社会的疎外を受けることを引き受けることもあるのです。
 そのように、人間の心と行動とは、必ずしも人間の欲求に従ってはいませんし、むしろ、心は人間の欲求を抑えてでも、欲求とは異なる道を「選びとる」のです。
 それは、私たちの心には「神の像(かたち)」が刻み込まれているからです。その「神の像(かたち)」がより義しい、より真実な、そしてより善い愛に満ちた生き方へと私たちを導くのです。それは、この「神の(かたち)」が「わたしたち」の心を神と結びつけるものだからです。神は、義しく、真実で、愛に満ちたお方です。「神の像(かたち)」は、その神様と私たちを結び付けているのです。だから、「わたしたち」は、私たちの欲求が願望を超えて、より高い生き方を求めるのです。
 もっとも、私たちの心は、しばしば「わたしたち」の内にある欲求に負けてしまします。だからこそ、マズローの欲求段階説になるほどとうなづいてしまうのです。しかし、その用によっっ急に屈してしまったとき、私たちの心と良心とは激しい痛みを感じます。またこの「神の像(かたち)」に従って生きようとするとき、この世界の中にある罪、それはわたしたちの外側にある罪が、私たちの心を激しく攻撃し、私たちの心が激しく痛み傷つくことがあります。しかし、神様は、そんな「わたしたち」を決して見捨ててはおられません。私たちを孤独にせず、私たちの傍らにあって、私たちを慰め、癒し、支えてくださるのです。
 私の友人の岩本遠億牧師は、この「神の像(かたち)」を「心の窓」といって、傷つき、痛み、苦しむ私たちの心を癒す神様について2分ちょっとの短いメッセージを語っています。その岩本牧師のメッセージは、岩本も牧師の承認を得て下記に記したアドレスをクリックして『366日元気の出る聖書の言葉』というページに行き、「心の窓」というタイトルに所にある▶マークをクリックしてくだされば聴くことができますので、是非合わせてお聴きください。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2d0t5j?fbclid=IwAR1qQ5jLOi3-1lf44SyiRTMJuF_C_f22tLTyV1Fe2yxW9H9WAUNj0u5Ygpw

2023年12月8日金曜日

救われるといったって・・・いったい何から

 クリスマスは救い主イエス・キリスト様がお生まれになったことを記念して祝うときです。救いといいますが、イエス・キリスト様はいったい「わたしたち」を何から救ってくださるというのでしょうか。

 教会に行くと、「わたしたちは罪びとです」とか、「イエス・キリスト様はわたしたちの罪を赦し、罪の裁きから救ってくださいました」などと言う表現を聴くことがあります。またいきなり「『あなた』は罪びとです」と言われ、ぎょっとしたり嫌な気持ちになった方もおられるかもしれません。私は、個人的には、この「罪びと」や「罪」という表現は適切ではないと思っています。というのも、そもそもキリスト教は、現在のパレスティナ地方にあったユダヤ教から派生したものであり、それがヨーロッパに広がりやヨーロッパやアメリカを仲介して日本に伝えられたものです。
 この「罪びと」や「罪」という言葉は、その際に、宣教師たちが用いていた言葉を日本語に訳した際に起こった問題です。しかし、この「罪」と訳された聖書のもともとの原語であるへブライ語のアッターやギリシャ語のハマルティアという言葉がもつニュアンスは、現代日本語の持つ「罪」というとは、若干違っています。
 日本語で罪と言いますと、「犯罪を犯す」とか、「道徳的過ちを犯す」とか、「宗教的戒律を破る」と言った意味になります。確かに、「同時的過ちを犯す」とか「宗教的戒律を破る」というニュアンスは、ヘブライ語のアッターやギリシャ語のハマルティアという言葉がもつニュアンスと重なる感じがしないわけでもありませんが、それでも全く同じではありません。
 このヘブライ語のアッターやギリシャ語のハマルティアという言葉は、「的を外す」とか「目標を見失う」と言った意味を持つ言葉です。要は、どこに行ったらいいのかわからない、人間として目指すべき目標を見失ってしまい道に迷ってしまったような状態なのです。ですから、「わたしたちは罪びとです」という言葉は、「わたしたちは、人間として本来あるべき姿を見失っています」ということであり、「イエス・キリスト様はわたしたちの罪を赦し、罪の裁きから救ってくださいました」ということは「イエス・キリスト様は、道を見失って迷子になって帰るべき家を見失っている私たちを助けてくださり、私たちが帰るべき家に連れて帰ってくださるのだ」ということなのです。もちろん、この場合の「変えるべき家」とは神様のもとです。
 子どもが道に迷うというのは、とても危険なことです。それこそ、誘拐にあったり、事故にあう危険性があります。ですから、外国では子供を一人で出歩かせると虐待として罰せられる国すらあるのです。それがたとえ大人であっても、たとえば山で道を見失ってしまい迷子になってしまうと、即、命の危険にさらされることさえあります。聖書は、まさに人間はそのような状態にあるのだというのです。人間は、神様と共に歩み、神の前に生きる者として、その人格と人間性を成長させていく歩みを歩んでいくものであるのに、自分勝手に歩き始めてしまったために、本来歩むべき道を見失ってしまい、命の危険にさらされているというのです。
 そのように道に迷ってしまっている「わたしたち」をイエス・キリスト様は、助け、導きき、神のみもとへ導いてくださる救い主だというのです。その救い主イエス・キリスト様がお生まれになったことを覚え、記念し祝うのがクリスマスなのです。
 けれども、そのイエス・キリスト様がお生まれになり、この世界で生きられたのは2000年前のパレスティナ地域です。だとすれば、どうすれば現代の日本に生きる「わたしたち」がイエス・キリスト様のお助けをいただけるのでしょうか。大丈夫、イエス・キリスト様は、そのために世界中に教会というものを残していかれたのです。教会はキリストの体だと言われます。教会という場に身を置き、そこで語られるイエス・キリスト様のお話を聞く中で、私たちは神様のもとへと導かれていくのです。
 私は、イエス・キリスト様の救いを「迷子」という視点からお話をしましたが、私の友人の岩本遠億牧師は、その救いを壊れたパソコンの修理に譬えながら2分半程度の短いメッセージでお話ししています。岩本牧師の話も、とても分かりやすい譬えです。その岩本牧師のメッセージは、下記のアドレスをクリックして『366日元気の出る聖書の言葉』というページに行き「神様の修理工場」というタイトルのところにある▶マークをクリックしてくだされば聴くことができますので、併せて是非おききください。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2culhu?fbclid=IwAR3copYRQ06GyC0HjJx4-onkFjEd_k_1Nf_f_gr-L6a89GO9czQyCkB_U6U

この岩本牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを、岩本牧師自身が音声にしてお伝えしているものですが、岩本牧師の御許可をいただいて転載したものです。

2023年12月7日木曜日

23年12月第一主日待降節第主日礼拝「神は決して諦めない」

 23年12月第一主日待降節第主日礼拝「神は決して諦めない」 

旧約書:マラキ書4章から5節
福音書:ルカによる福音書2章8節から20節
使徒書:へブル人への手紙13章1節から6節

 12月に入り、今年のクリスマスの時を持ち望むアドベントに入りました。そのアドベントの第一主日の礼拝の説教の中心となります箇所は、旧約聖書のマラキ書第四章、聖書協会共同訳ですと3章になります箇所です。そして、その中心となりますのは口語訳聖書では2節、聖書協会共同訳では20節になります

しかしわが名を恐れるあなたがたには、義の太陽がのぼり、その翼には、いやす力 を備えている。あなたがたは牛舎から出る子牛のように外に出て、とびはねる。

というお言葉です。その中でも着目すべき言葉は「義の太陽がのぼり」という言葉です。
 この言葉が記されているマラキ書というのは、一見してわかるように旧約聖書の最後の書です。そしてその旧約聖書最後の書であるマラキ書の最後の章が、口語訳聖書では4章、聖書協会共同訳聖書ですと3章なのです。
 もっとも、旧約聖書のもともとの原語であるヘブライ語で聖書では、順番が、わたしたちが手にしている旧約聖書とは違っていて、歴代誌が最後の書となっています。というのは、ユダヤ教では旧約聖書を律法、預言書、諸書という順番で区分するからです。

 ちなみに、余談になりますがユダヤ教では旧約聖書をタナハあるいはタナクと呼びます。それは、この律法(トーラー)、預言書(ネビーム)、諸書(ケスビーム)の頭文字をならべているからです。そのタナハにおいては、そしてマラキ書は預言書に属し、歴代誌は詩篇やダニエル書やネヘミヤ書などと一緒に諸書に属するのでマラキ書は諸書の前にある、歴代誌は諸書の最後の書として旧約聖書の最後に置かれているので。
 にもかかわらず、私たちキリスト教徒が手にしている聖書はマラキ書が最後になっている。それは、私たちキリスト教徒が手にしている聖書の順番が70人訳聖書という旧約聖書をギリシャ語に訳した聖書の順番に基づいているからです。
 70人訳聖書というのは紀元前3世紀にプトレマイオス朝エジプトの王プトレマイオス2世フィラデルフォスがパレスティナから72人のユダヤ人の長老を呼び寄せ72日間でヘブライ語をギリシャ語に訳させたという伝説を持つ聖書です。しかし、それはあくまでも伝説の話でして、実際には紀元前3世紀から1世紀にかけて編纂されていったものだと考えられています。
 その70人訳聖書の各書の順番は、タナハの順番と異なっているのは、イスラエルの民の過去の歴史として創世記からエステル書までがあり、イスラエルの民の現在の苦悩の姿をヨブ記から雅歌までに読み取り、イザヤ書からマラキ書までで、その苦悩の中に置かれているイスラエルの民に救いがもたらされるという未来の希望が語られているという構造で、それぞれの書物が配列されていると考えられます。

 つまり、イスラエルの民に対する神の壮大な救いの歴史が70人訳聖書には構想されている。そしてその最後の部分に、口語訳聖書ではマラキ書の4章、聖書協会共同訳では3章が置かれている。そのイスラエルの民の希望というのが

しかしわが名を恐れるあなたがたには、義の太陽がのぼり、その翼には、いやす力 を備えている。あなたがたは牛舎から出る子牛のように外に出て、とびはねる。

という事なのです。そして、この「義の太陽が昇る」という言葉が、クリスマスの原点にある。もう毎年のことになりますので、みなさん、またかと思われるかもしれませんが、イエス・キリスト様がお生まれになったのは、史実上は、いつであったかはわからない。ただ、12月ではことは確かです。12月に羊飼いが夜に羊の番をすることはないからです。
 それが12月25日に祝われるようになったのは、キリスト教が古代ローマ帝国に広まっていく中で、当時ローマ帝国で行われていた冬至の祭りの日に、教会がイエス・キリスト様の誕生を祝うようになったからです。その背景には、この当時の祭りは、陽がだんだんと短くなっていく中で、冬至を境にまた日が長くなっていくという自然現象から、そこに死と再生の物語を見て、不滅の太陽神ミトラの復活を祝祭りを祝うという事がありました。
 その当時の祭りの日に、キリスト者も真の義の太陽であるキリストの誕生を祝うようになったのです。それがクリスマスの由来であると言えます。つまり、この「義の太陽が昇る」という聖書の言葉によって旧約聖書と新約聖書が結び合わされるのです。

 イスラエルの民が待ち望んだ救い主の到来という希望の出来事が、「今日、ダビデの街にあなた方の救い主がお生まれになった、その方こそ主キリストです」というメッセージと共に契機に始まったのです。それは、イスラエルの民の希望でもあり、また私たちキリスト者の希望でもあります。

 先日、私の友人が、自分が語った説教を聴いてその内容について感想や批評をしてくれないかとご自分の説教の動画を送ってこられました。そこに流れている神学的な内容について意見を聴きたいという事でした。聴くと私などが批評するなんてことはとても恥ずかしく手出来ないと思えるような、とても良い説教でしたが、その友人が意見を聞きたいと言われた神学的なことがらというのは、神はイスラエルの民を今も見捨てておられないというものでした。
 その友人の牧師は、「神はイスラエルの民を見捨てておられない」ということを丁寧に聖書を解き明かしながら話し説明しているのですが、その説明が神学的にはどうかという意見を私の求めてこられたというのは、それなりに理由がありました。

 その理由とは、キリスト教界の中にある一つの神学的主張があるからです。それは、イエス・キリスト様の到来によって、旧約聖書の時代から新約聖書の時代に移り変わり、旧約聖書を担っていたユダヤ人は古い肉のイスラエルとして神から見捨てられ、イエス・キリストを様を信じる教会が新しい霊のイスラエルが神の救いを担う新しい時代になったのだという主張です。
 この主張は、教会が神の救いの歴史を担うものとなったという点においては間違っていません。しかし、神がユダヤ人たちを古き肉のイスラエルとして捨てられたのだという主張には問題があります。

 確かに、聖書には古いと新しいの二つの要素の対立があり、肉と霊の対立構造があります。しかしそれは、イスラエルとキリスト者という対立構造というよりもむしろ、私たちの内にある肉の性質つまり、欲望と霊の性質、すなわち神に向かったより善いものになろうとする思いとの対立構造として言われているものです。
 ですから、古いものをユダヤ人とし、新しいものをキリスト者あるいは教会とする者ではありません。むしろ、ユダヤ人とキリスト者は共に神の救いを担う者として、やがて完成する神の王国の完成という将来の希望を待ち望む者なのです。

 私の友人の説教は、そのことを実に丁寧な聖書の読みと論理構成で指し示しつつ、最後に、神に信頼することの大切さに聴いている人々を導く言葉で締めくくられていました。それの背後には、あのイエス・キリスト様を十字架につけたイスラエルの民ですら、決して見捨てないお方である。だからこそ、私たちもまた、神に信頼することができる。何があっても、神様は私たちを見捨てないのだ。という説教者の神への絶大な信頼がうかがえました。

 そうなのです、みなさん。神様は、私たちを決して見捨てることも見放すこともなさらないお方なのです。だからこそ、先ほどお読みしたヘブル人への手紙を書いた著者も、へブル書全体を通してイスラエルの民の歴史を語りつつ、その書の最後の章である13章5節で、旧約聖書のヨシュア記1章5節の言葉を引用し、「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言い、さらには詩篇118篇8節の言葉を引用しつつ「主はわたしの助け主である。わたしには恐れはない。人は、わたしに何ができようか」とまで言うことができるのです。

 ここには、決して見捨てない神に対する、絶対的な信頼があります。そしてその絶対的な信頼が、イエス・キリスト様というお方に集中していくのです。しかもそれを、旧約聖書のイスラエルの民の歴史を紐解きながら語るのです。しかし、そのユダヤ人の歴史というと、神から「決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言われているのも関わらず、繰り返し神から離れ偶像礼拝に走るという過ちを犯してきた歴史です。そして、何度も神の怒りを引き起こし、神からその誤りに対して厳しくただされるという事を繰り返しきた歴史なのです。にもかかわらす、何度失敗しても、神はヨシュアに約束したように、決してイスラエルの民を見捨てず、イスラエルの民と共におられたのです。だからこそ、怒り、彼らを正しい道に立ち帰らせるのです。だかこそ、「主はわたしの助け主である。わたしには恐れはない。人は、わたしに何ができようか」という事ができるのです。

 そのようなイスラエルの民の歴史を背負いながら、異邦人に支配される苦しに満ちたくらい闇夜の中で、マラキはやがて、「義の太陽が昇る」、「救い主が来られる」、希望の光が差し込むのだというのです。そして、その「義の太陽」、「救い主」が、「今日ダビデの街に救い主お生まれになった。」それがクリスマスの出来事です。そして、そのお生まれになった救い主こそが、イエス・キリスト様なのです。

 その救い主の誕生を、イスラエルの民、すなわちユダヤ人は決して認めてはいません。それは今日においても同じです。彼らは、イエス・キリスト様が救い主キリストであるとして受け入れてはいないのです。神が、ご自分の独り子を、私たちを愛するがゆえに、救い主キリストとするために人として生まれさせてくださったのにもかかわらず、それを認めず、事もあろうに十字架で死なせてしまった。なにに、そんなイスラエルの民を神は、今日でも神は決して見捨てず、また見捨てもいません。そしてやがて回復され、神の救いの中に入れてくださるのです。
 どこまで行っても、神は、神の約束に対して真実なお方なのです。決して私たちを諦めない深い愛がそこにあります。だからこそ、私たちは、神を信頼することができる。私たちがどんなものであろうと、神は神の約束に忠実であり、神の愛は決して変わらないのです。

そして、今日でも変わらず、私たちに「今日、ダビデの街にあなた方の救い主がお生まれになった、その方こそ主キリストです」というメッセージが語られている。その背後には、決して裏切らない神の真実な約束があり、決して変わらない神の愛があるのです。

その神の約束と愛が現れているクリスマスの出来事を祝うときを、この礼拝から一か月間のアドベントの間に喜びをもって待ち望むのです。この決して裏切らない神の真実な約束があり、決して変わらない神の愛を思いつつ、しばらく静まりの時を持ちましょう。

特別にされる喜び

 「『あなた』だけの特別ですよ」と言われて嫌な気がする人などいないのではないでしょうか。「『あなた』だけ特別」と言われると、なにか大切に扱われたような気がして、嬉しく思ってしまうものです。もちろん、私もその一人です。

 私の知人は兄弟が多くいるのですが、その知人が小さい時、その知人の親が、「あなただけの特別よ」といって、飴玉や小さなチョコレートをくれたそうですが、とてもうれしかったそうです。もっとも、後で分かったことですが、その親は他の兄弟にもおなじようにしていたそうです。でも、とても賢い親御さんだなと思います。そうやって、子どもたちひとり一人に、「わたしは『あなた』を大切にに思っているよ」という思いを伝えていたのだと思います。そしてそのように親から「大切にされている」という思いをもって育てられた人は、本当に幸せだと思います。
 聖書の中には、神様が「私はあなたの名を呼んだ」(旧約聖書イザヤ書43章1節)と言われている箇所があります。神様を信じる民は数多くいます。現在のクリスチャン人口は世界で24億人弱、日本でも100万人弱の人がキリスト教を信じています。このイザヤ書が書かれた時代でも、聖書の神を信じるユダヤの民は数百万人はいただろうと思います。そのような中で、名前を呼ばれるというのです。その特別感は、それはもう「半端ない」者だったろうと思います。
 しかし神様は、あの私の知人の賢い親のように「わたしたち」のひとり一人に「わたしは『あなた』の名前を呼んだよ」といって、本当に名前を呼んでくださるのです。そうやって神様は、「わたしは『あなた』を大切に思っているよ、大事にしているよ」という神様の思いを私たちに伝えてくださろうとしているのです。私自身も「ああ、神様が私の名を呼んで語りかけてくださったな」と思う経験が何度かありました。もちろん、私の心がそう感じたということなのですが、でも私は、本当に私の名を呼んでくださったのだと、そう思ったのです。
 神様は、「わたしたち」ひとり一人を大切に思っておられます。そして、「わたしたち」ひとり一人、そう「あなた」が、神と人に喜ばれる人になって欲しいと願っておられるのです。それは、神様が「わたしたち」ひとり一人を、そして「あなた」を、「あなた」の名前を呼ぶほどに大切に思っておられるように、「あなた」も「あなた」の周りにいる誰か一人でもいい、その一人を大切にする優しい心を持って接するような「隣人を愛する」人になって欲しいと願っているのです。
 その神様の思いを、私の友人の岩本遠億牧師は「一人を大切にする」という3分ちょっとの短いメッセージの中で語っています。その岩本牧師のショートメッセージは、岩野と牧師の許可を得て掲載しています下記のアドレスをクリックして『366日元気の出る聖書の言葉』というホームページに行き同名のタイトルにある▶マークをクリックしてくだされば聴くことができます。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2ctmad?fbclid=IwAR1YNYsJIqtwR7HG4uXR9rM9B3_ytckpU4kQwJcP4ljyFRkefpTghz2ubD0

2023年12月5日火曜日

委ねるよろこび

病院のベッドに横たわり眠っていると、自分自身の力ではどうにもできないことを思い知ります。私のような昭和世代の人間で、部活動でスポーツをやって来た人間は、「病気などは気力で何とでもなるもんだ」などと言いがちですが、そんなことは大ウソで、病気になるとやはり自分以外の助けが必要になります。

 病気そのものへのケアは、医師や看護師の助けが必要ですし、心のケアはカウンセラーと言った人の助けが有益です。それ以外にも、どうしてこんな病気になったのだろうかとか、病気によって多くのことを失ってしまうかもしれもしれない喪失感への漠然とし不安を感じることに対するケアというものがあります。このような喪失感の最も大きなものが、自分の存在そのものが喪失してしまう喪失感、つまり死に対する不安です。
 このような喪失感を医学の世界ではスピリチャルペインと言います。スピリチャルペインとは霊的痛みとでも訳されるものです。霊的痛みというのですから、このスピリチャルペインの問題に関わるのは、多くの場合、宗教関係者であるケースが見られます。アメリカなどでは、すでに医師とカウンセラーとチャプレンと呼ばれる病院専属の牧師がチームになって治療に当たるシステムが広く行われているようです。
 喪失感というものは、失うということですから、自分が持っているもの、手に握りしめているものへの執着が引く起すものです。自分の手に握りしめておかなければならない執着は、それが自分の心のよりどころとなっているからです。だから、それを手放すことができない。けれども、それを一つ一つ手放して、人に頼る、誰かに頼るということを「わたしたち」は学んでいく必要があるのではないでしょうか。「わたしたち」は生まれてきて、色々なことを学び、身に着け、できるようになっていくその一つ一つの過程で喜びを感じてきました。周りも、一つ一つできるようになっていく「わたしたち」の姿を喜び、またほめてくれて来たのです。
 しかし、私たちはそうやって成長してきたのですが、しかし、どうじに、人に頼り、自分を誰かに委ねるということの大切さと、ゆだねることの喜びを忘れてしまって言っていたのです。自分自身で頑張って何とか手に入れることができる喜びも大切ですが、頑張ってもどうにもならなないことを、自分自身の手から手放して人に委ねることによって得られる安堵感や喜びも大切なのです。
 病気になって、自分の健康を医師や看護師の方に委ねる、「気力では何とかなる」の気力の部分を観セラーの方に委ね、自分の存在の意義と意味、つまり命の問題までも、牧師を通して神様に委ねる中で、私たちは手放すことの大切さと喜びを知っていくのです。
 しかし、牧師を含め宗教関係者の中で、祈りで病気を治すということを強く言われる方々がおられます。そういった方の中には、医師にかかることよりも「祈れば癒される」的なことが言われる方があることを知っています。私自身、祈りを通して病気が治られたという事例を見ていますし、そのようなことがあることも知っていますので「病の癒しのために祈ります」ですから、「病の癒しのための祈り」を否定はしませんが、医師の治療を否定し、「祈れば必ず治る」というような指導をするような方々は、正直あまりおすすめできません。それは、自分自身の存在をも委ねる喜ぶを阻害し、むしろ執着を助長するからです。
 この委ねることの大切さを、私の友人の岩本遠億牧師が「全てに勝る喜び」という三分ちょっとの短いメッセージの中で話しています。その岩本牧師のショートメッセージは、下記のアドレスをクリックして『366日元気の出る聖書の言葉』というページに行き、そこで▶マークをクリックしてくだされば聴くことができます。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2cqbnb?fbclid=IwAR2gR2DmpAvkNcQS7r4E2IMu5mK7ZqHHe3pk6f5kfT3LoQ5zWXWs6RYfbr0

2023年12月2日土曜日

牧師だって病気になるんだ

 一昨日、全身を締め付けるような痛みが襲ってきて、体がガタガタと震え出しました。今週末から大切な仕事が立て続けにあるので、しまったと思い、すぐに別途に横たわりました。一応、コロナの抗体検査をしましたら陰性だったの、そちらの方は意図安心。でも、今もまだ38度5分をほどあります。それでも一昨日よりずいぶんとましになりました。そんなわけで、昨日はブログの更新ができずにもうしわけありませんでした。

 とても大事な時期に神様、「いったい神様どうしてですか」と思わず口をついてでそうですが、でも、わたしは「だからこそ神様じゃ公平なお方なのだ」「愛なる神様なのだ」と思うのです。「牧師だから風邪をひかないように守ってあげよう、でも他の人間はクリスチャンじゃないから守ってあげない」というのであれば、何と冷たい、不公平な神様なのでしょう。
 私が体調を崩したのは、色々と無理を重ねてきた結果で、その原因はわたしにあります。なのに「神様どうしてですか」などと言われても、神様もお困りになられるだろうと思います。このように、「わたしたち」は自分に原因があるのに、「神様どうしてですか」と神様に責任転嫁をすることがしばしばあります。それは、「わたしたち」が、自分たちの都合のいいように神様を利用しようとしているからです。そんな風に神様を都合よく利用しようとして、その思う道理に行かなかったから、「神様なんかいない」「神様なんか信じても意味がない」と言われてしまっては、神様も立つ瀬がなく困ってしまうでしょう。
 私が具合が悪くなると、妻がとても優しくしてくれます。いえ、普段も優しいのですが、いつもの優って優しくしてくれるのです。妻が易しくしてくれても病気が良くなるわけではありません。でも優しくしてくれることで、よりうれしくなるのです。それと同じように、病気の中で、「わたしたち」は、「わたしたち」と共にいてくださる神様の愛を感じ取ることができます。それは、たとえ「わたしたち」がどんなmのであろうと、公平に、変わらず「わたしたち」に愛を注いでくださる神の愛なのです。
 その神の愛について、私の友人の岩本遠億牧師が「私たちの天の父」という2分ちょっとの短いメッセージで「みなさん」に伝えています。そのメッセージは下記のアドレスをクリックして岩本牧師の「366日元気の出る聖書の言葉」というページに行き「私たちの天の父」問うタイトルにある▶マークをクリックしてくだされば聴くことができます。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2cm3d8?fbclid=IwAR1jgOMigfutvDpdrTfDl-DOS-pA8cRQa-qB4SOY3CIegbpwhxkm9-vOxLA