2018年12月26日水曜日

嫌な気持ちをおもいだしちゃった。

 昨日、注文していた『学歴詐称』という本が届く。キリスト教関係の本でもなく、また学術書でもないので、一・二時間で読み終えられ、その内容も把握できたが、実に嫌な感情を思い出した。
 本の内容は、ある大学教授が、某団体Aがディグリーミル(正式な学位の認定ではない偽学位を販売している自称大学)の疑いあるという報告がなされていると言う記述をご自身のホームぺージで引用したところ、その問題があるとされた某団体Aからクレームがつけられ、暗に訴えるという言わば脅しのような行為を受けたと言うことで、そのことの顛末を記したものであった。
 実は、私がこの本を注文したのは、その大学学教授と某団体Aのごたごたの顛末を知りたかったわけではなく、各国で異なる学位認証制度と国家間相互でそれぞれ他の国の学位をどのように受容しているかと言った情報を期待して買ったのだが、届いてみるとその内容は期待したものとは異なっていた。それだけでも、わずかではあるが余分な出費となってしまった上に、嫌な思い出を思い出した分、ずいぶんと損をしてしまった気分になった。

 その思い出と言うのは、今はあまり見かけなくなったが、昔ネット上で、個人や団体が無料で借りられる掲示板(個人運用のSNSみたいなもので、FBが近いかな)なるものがあり、私もその掲示板を個人的なホームページで借りて運用し利用していた。そこには、運営に関して参加規定をもうけて、それを掲示し、それに沿って書き込んでもらうようにお願いしていたのだが、その規定の中に企業等団体の投稿はお断りする旨を定め、それはちゃんと明記していた。

 ところが、某団体Bが、知ってか知らずかわからないが、その利用規定を無視する形で投稿してきた。しかも、その団体はしかるべき某団体Cが、問題があるとの情報を発信していた団体であった。当然、規定に企業および団体の投稿は出来ないと言う利用規定をもうけ、それを提示していたのでその規則に基づいて削除したのだが、その際、削除理由と共に、某団体Bは問題があるということが言われている団体であるという旨も合わせて削除の報告をした。すると数日して、その問題があると言われている旨を消せ、削除しなければ訴えるとのメールが某団体Bから入ってきた。

 その時、私はその要請に応じるつもりは全くなかった。だが、家人や教会の方が、ややこしいことになり、牧師としての働きや伝道活動に支障をきたしてはいけないし、これから先も変な人間がほかに書き込んできてもいけないので、その部分を削除するだけでなく、掲示板自体を辞めてくれと言われ、しぶしぶ伝道の窓口になればと考えていた掲示板自体を削除することになった。

 伝道の窓口に開いた掲示板であり、それなりにいろんな人との交流ができていたものであったので、残念だったか家人や教会員の言葉に従った。後にも記すが、ネットの掲示板とは言え、私にとっては、無料とは言え自分が申し込んで借り、利用規定を定めて始めたものである。そしてその使用規規定に基づき、それによって管理・運営していたものである。そこに人の家に勝手に土足で上がり込んで来るかのようにして投稿してきたのである。しかも、問題があると言われていると書き込まれると、いきなり訴えると訴訟をちらつかせながらその書き込みを消せと言う。そんな連中である。そんな連中だから家人、とりわけ子供に危害がおよぶかもしれないという恐れが一瞬頭をよぎり、それを危惧した。そういうこともあって、掲示板を辞めることになったのだ。そのことを思い出した。

 そのやり取りの中で、某団体Bには、「あなたがたは、明記してある利用規定を無視して書き込んだではないか」と指摘したが、その件については、掲示板を開いていることは、それは公に開かれていることだから書き込みをするのは問題がない(つまり管理者が設けた利用規定など関係ないと言うことだろう)と、彼らの論理で謝罪の言葉もなく、削除しなければ法的対処をするの一点張りだった。

 私にしてみれば、今日のFBのような利用者を限定する設定もない時代なので、だからこそ利用規定を設け、それを明記し、その枠の中で運営していた言わば内輪のサークルに、その利用規定を無視し、勝手に土足で上がり込んできて、掲示板を設けていることは、公に開いているのだから誰でも、何でも書き込んでもいいのだという自分の論理を振り廻す。いわば「玄関が開いていたのだから入ってきて何が悪いか」と言っているようなものだ。そんな論理をもって、勝手に書き込んできたことには何の謝罪もしない団体である。家人に危害が及ぶのではと思ったのは、こんな理屈を振り回すからである。その態度を見て、到底そんな某団体Bを信頼出来ようはずはなく、なるほど、某団体Cの報告は信頼性があるなと思った次第である。

 ちなみに、その某団体Bが問題があると言われているという私の記述の元となった某所某団体Cに対し、某団体Bが訴えたという話は聞いていない。つまり、個人には、いきなり訴えるといってくるが、その私の情報源となった大きな組織体であり、私の知る限り公に某団体Bは問題があると公に述べている某団体Cに対しては、未だに訴えを起こしてはいないようであるし、そもそも訴えるぞとすら言っていない可能性もある。どうやら、バックボーンのない個人には訴えるといって脅すが、バックボーンのある組織体には訴えると言ったことは言わないようだ。

 もうずいぶん昔のことがだ、今回買い求めた本を読み、それに似たような内容が書かれており、当時のことを思い出し、実に嫌な気持ちがよみがえってきた。

2018年12月19日水曜日

ペテロの裏切り


              「ペテロの裏切り」
私には、何人かの、いわゆる恩師というべき人がいるんですよ。それらに方には、いや、本当にお世話になり可愛がってもらった。だから、その方々には「いわゆる足を向けて眠れない」ですよ。もちろん、私が、それらの先生方を裏切ったりしたら、その先生方は本当に悲しまれるでしょうし、一生赦してもらえなくても仕方がないような気がします。

ところが、キリストはご自分の可愛がっておられた12人の弟子、その中でも、一番弟子といわれるようなペテロという人から、ものの見事に裏切られてしまうのです。 
もうすぐ、ご自分が、エルサレムという町で、人々を救いのため命を投げ出すというその直前に、キリストはこのペテロに対して、「あなたは鶏がなく前に、わたしを三度知らないと言うだろう。」とそうおっしゃれました。

もちろん、ペテロは、このときにキリストを裏切るつもりなんかさらさないですから、「そんなことはありません。死ぬまであなたについて行きます」とそう大見得を切ります。ところが、その夜、キリストがとらえられ、すぐさま裁判がはじまりました。そのとき、このペテロは、こっそりとキリストのあとについて、裁判が行われているところまでいったんです。さすがに大見得を切っただけのことはありますね。

でもそこでね、見つかっちゃたんですよ。そして、「あなたは、今裁判にかけられているキリストの弟子でしょ」ってそう問いつめられたのです。

それは、大変なことですよ。自分がキリストの弟子だってわかったら、自分も捕まって裁判にかけられ殺されてしまうかもしれない。そんなわけで、ペテロは「いやいや、私はあんな人なんか知らない」って言ってしまった。

そんなことが三度続いたとき、朝を告げる鶏が威勢良く「コケコッコー」と、鳴いたのです。このときペテロは、キリストが「ペテロ、おまえは鶏が鳴く前に、三度私を知らないというよ」といわれた言葉を思い出した。

ふっと見ると、鶏の声を聞いたキリストが、振り返ってじっとペテロを見つめているではありませんか、ペテロはたまらなくなって、外に飛び出して、激しく鳴いたって聖書には書いてあります。

私は、このときのペテロの涙は、自分を可愛がり愛してくれたキリストに、「私は死ぬまであなたについて行きます。」と大見得を切ったのに、自分可愛さに、そのキリストを裏切って仕舞ったという後悔の涙じゃなかったかなってそう思います。
でも、反面、心のどこかで、自分の命までも危ない場面です。いくら大見得を切ったとはいえ「嘘も方便」じゃないって気がしないわけでもありません。

ですから、激しく鳴くほど、ペテロの心を突き上げきたものは、単に後悔の思いだけではないように思うんです。
というのはね。キリストは、ペテロに、「三度私を知らない」といわれるまえに、ペテロに対して「ペテロ、あなたはこれから、とても大きな試練に会い、うちひしがれるような出来事にあうけれども、私は、あなたの信仰がなくならないように祈ったから、立ち直ったら、他の仲間たちを励ましてやりなさい。」ってそういわれていたんです。

まさに、ペテロがキリストを裏切るような大失態を犯す前に、キリストは、そのようなペテロの弱さ、いえ人間の弱さを知って、私はお前を赦しているよとそうおっしゃっておられんですね。

振り返ってペテロを見つめられたキリストの瞳の中に、「ほら、ペテロ、お前は私知らないといっただろ。でも、私はお前のために祈り、そして赦しているよ。」という愛のまなざしをペテロは感じ取ったんじゃないのかと、そう思うんです。だからこみ上げて激しく鳴いた。 
この、キリストの愛のまなざしは、実はあなたにも注がれているのです。

2018年12月18日火曜日

ラグビーの話でラグビーの話ではない、事故の話で事故の話でない。聖書解釈の話でない聖書解釈の話

ラグビーの話でラグビーの話ではない、事故の話で事故の話でない。聖書解釈の話でない聖書解釈の話


 ラグビーにはコラプシングと言う反則があります。それは、故意にスクラムやモール(スクラムとモールの説明をすると長くなるので省略)を崩すと取られる反則で、相手にペナルティ・キックが与えられる重い反則です。この反則を繰り返すと、繰り返した選手は一時退場になったり、スクラムトライといって相手に得点が与えられたりします。なぜ、コラプシングには、このような罰則が科せられるのか。それは、スクラムやモールが崩れてしまうと、重大な怪我につながる危険性があるからです。
 先日、明治大学と早稲田大学のラグビーの試合がありましたが、このコラプシングの反則が、その勝敗を分けたと言われます。明治大学ののプロップ(ポジションの名前)の選手が、このスクラムを汲んでいる中でコラプシングを犯したと判断されたのです。レフリー(審判のこと)がコラプシングと判断する際、いくつかの目安となる行為があります。その中の一つにスクラム中に膝をつくというものがありします。試合の映像をみますと、たしかに、明治大学の選手が、ほんの一瞬ではあるが両ひざをついている。審判は、それを見逃さず読む見ていたのです。しかし、スクラムが崩れたわけで在りませんでした。
 これはスクラムで圧倒的に劣勢だった早稲田大学のプロップの選手が、体を低く当て、しかも自分の体が崩れないようにしながら、明治大学のプロップの選手にスクラムを崩させようとしているかなり技術的に高度プレーです。それで、明治大学の選手が一瞬膝をついてしまったのですが、彼は、スクラムを崩さず維持しようとして、すぐに持ち直し、結果としてスクラムが落ちる(崩れる)ことなく、スクラムを押し始めたのですが、それでも膝をついたと言うことでコラプシングの反則を取られることになりました。これで、動揺した明治大学の選手たちはここから崩れ始めました。その意味では、早稲田大学のプロップに選手の作戦勝ちであり、技術勝ちだと言えます。。
 私は、出身が明治大学でもあり、明治大学の熱狂的なファンの一人です。ですが、レフリーのジャッジが出た以上、この試合においては、それはそれで受け止めなければなりません。レフリーのジャッジはラグビーにおいては絶対だからです。しかし、今後のことを考えると、一考すべきジャッジであったことは間違いがありません。というのもともとコラプシングは、スクラムが崩れると危険なので、故意にスクラムを崩さないようにするために、重い罰則を科してまで、ルール上、やってはならない反則として定めてあるからです。
 今回のケースは、スクラムが弱い早稲田大学の選手が、その弱さをカバーするために、故意の相手にスクラムを崩させるようなスクラムの組み方をし、実際、明治大学の選手はスクラムを一瞬膝をつきコラプシングを取られたのですが、しかし彼は、壊さないように頑張って持ち直し、実際、スクラムは崩れなかったのです。この場合、コラプシングと言うルールの精神からすれば、コラプシングを取るべき事案であなかったと言えます。もし、仮にコラプシングの反則を適用するとするならば、適用する相手は、早稲田の選手に適用するほうが、ルールの精神には則ていたでしょう。しかし、レフリーは膝をついたという目安の方を優先したのです。
 同様のことが、ここ数日大きな話題となっていた先日の東名高速でおこった棄権運転致死罪を巡っての裁判でも争われました。この事件は、二人のドライバーの間で、ちょっとした言葉のやり取りのトラブルあり、その結果、一方がもう一方に対して高速道路であおり運転をし、最後には高速道路の追い越し車線で相手の車を停車させ、それがもとで追突事故が起こり、相手方に死者が出たという事件でした。この事案に値して、検察側は危険運転致死罪という重い求刑を求めました。
 この求刑に対して、被告・弁護側が争点にしようとしたのが、棄権運転致死傷罪の条文にある運転と言う言葉です。棄権運転致死傷罪は、運転中に危険な運転をしてる事に対する罪なのだから、車が停車している状態は運転ではない。この事故は、車が停止しているときに起こった自己だから危険運転ではないので無罪だというのが弁護側の主張です。これは、まさに棄権運転致死罪の条文の背後にある、法の精神や法哲学とは何かが問われる問題です。つまり、危険運転致死障在の条文をどのような精神で読み、理解し解釈するかが問われた裁判であると言えるでしょう。この裁判では、棄権運転致死罪が適用されたました。その意味では条文の文言そのものよりも、その法が定められた法の精神や、法哲学の方が重んじられたと言えます。

 じつは、この二つは、聖書を読むと言うことにも通じる事例です。聖書を読み、解釈する。そこには、聖書がいかなる精神で書かれているかが深く関わっているのです。それを無視して、字ずらの問題だけを追求するとすれば、あの明治大学と早稲田大学のコラプシングの判定や東名の危険運転致死罪の求刑に対して無罪を主張するのと同じになってしまうのではないでしょか。。
 聖書の読みと解釈についてはいろいろと意見や主張があります。聖書に書かれている処女降誕や死者の蘇り、はたまた海が二つに分かれてそこ渡るとか、太陽が少し後戻りをするといった様々な奇跡を巡っての議論や、聖書をどう解釈するかを巡っては、いろいろと議論があるのです。また、聖書の歴史的記述の正確性や科学的な誤りと思われる事柄についても、いろいろな主張があります。しかし、忘れてはならないのは、問題としなければならないのは、聖書の字ずらの問題ではなく、聖書の精神そのものなのです。聖書はどういった目的で書かれたのか、何を伝えたいのか。それが、一番大事なことなのです。
 私は、聖書に書かれている奇跡を決して信じていないわけではありません。むしろ信じていると言っても良いでしょう。しかし、聖書がいかなる精神の下で書かれているのかを忘れて、奇跡があったのかなかったのかなどを論じるとするならば、それは愚の骨頂です。
 聖書は、神が神の言葉として、神の精神と心を伝えるために書かれた神の言葉です。これは長らく、そして今も受け継がれているキリスト教会の主張であります。もっとも、聖書が神の言葉であるということを証明することも科学的に実証することもできません。だから、聖書が神の言葉であると言うのは、信仰です。信じている信仰の内容です。そして、その神の言葉である聖書を書き記したのは人間であり、その意味では聖書は人間の言葉でもあるのです。つまり、人間の言葉で書かれた聖書は神の言葉であるというのが、聖書の精神だと言えます。そして、この「人間の言葉」と言う主語を「神の言葉」いう相反する述語に「である」という繋辞をもちいて繋ぎ一つに結び合わせるのが聖霊なのです。
 先ほど申しましたように、これは、科学的に証明できるものではあいません。だから科学ではなく、信仰なのです。そして、その信仰の下にあって、神の言葉がどのような精神で書かれているかが問題となる。その精神とは、神が、この世界を愛し、この世界を神の恵みに満ちた世界へと導こうとしているということであり、この現実の世界で、悩み苦しんでいる人に救いをもたらそうとしていると言うところにあるのです。この精神を抜きに聖書を読むとき、聖書は全く分からないものとなるし、意味のない単なる古代の文献の一つでしかなくなってしまいます。
 しかし、それは聖書を聖書として書き記し、編纂した人々の精神をくみとった読み方ではありません。聖書は、あくまでも神の言葉として読まれ、解釈されるべきものなのです。

2018年12月4日火曜日

あなたは私と共にパラダイスにいる(1)

「あなたは私と共にパラダイスにいる」

今週は、イエス・キリスト様が十字架の上で語られた言葉について、お届けしています。その言葉のひとつに、「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、私と共に、パラダイスにいます。」という言葉があります。
パラダイスって聞くと、なんだか南の楽園ってイメージがあるじゃないですか。確かに、パラダイスって言葉には、常夏の島で、なんだかの~んびりと過ごしている、そんな響きとイメージがありますよね

 このパラダイスって言葉は、塀にかもまれた庭園のことなんです。わざわざ塀に囲まれるているわけですから、それは特別な庭であり、憩いの場ですから、南の楽園とイメージ的には重なりますよね。
この特別な庭園であるパラダイスを、キリストは天国と言うことの譬えで使ったんですね。ですからキリストが、きょう「あなたは私と共にパラダイスにいます。」ってことは、きょう、あなたは私と一緒に天国にいますよ。」ってことなんです。

ところが、キリストが、この「あなたも私と一緒に天国にいますよ。」と言った相手は、なんとキリストと共に十字架にはりつけられていた犯罪人、それも強盗だったんです。
十字架にはりつけになっているということは、死刑になっているということですから、キリストは、強盗を働いて死刑に処せられている人に向かって、あなたはきょう天国にいるよって、そう言うんです。

十字架にはりつけになるわけですから、手足を太いくぎで十字架に打ち付けられる。当然痛いですし、そりゃもう苦しい。おまけに、死刑ですから、近づいてくる死の恐怖で、苦しみのたうちまわっている。
そんな中で、強盗はイエス・キリストに「神のひとり子であるキリスト様、あなたが天国に生き、天国に王になられたら、私のことを思い出してください、そして憐れみを掛けてください。っと」そう願い求めたんですね。

その願いに、答えて、「きょうあなたは、十字架について死ぬだろうけど、安心しなさい、あなたは私と一緒に、間違いなく天国にいけるよ」って、キリストはそうおっしゃったんです。
これは、今、死の苦しみの中にある人に対して、気休めとして語られた言葉なんかじゃない。だって、キリストもまた、この強盗と同じ用に、十字架にはりつけられ、苦しみのきわみのなかにあるんですもの。本来なら人のことなど、かまって入られないようなじょうこうにあるんです。

でも、キリストは、体が傷つけられる苦しみを味わい、近づいている苦しみを、あの強盗と同じように味あわれた。ですから、彼の痛みや苦しみや苦悩をしっているんですね。だからこそ、その痛みや苦しみ、苦悩の中から、救いを求める彼の声を聞き、憐れみの手を差し伸べられたんです。
そして、あなたの苦しみを私が一緒に味わったように、今度はあなたが私と一緒に、憩いの楽園の喜びを味合うのだよ。ッてそういわれるんです。

痛みや苦しみそして苦悩、それは何も十字架にはりつけになるってことだけじゃないですよね。普段生きていく中でも、様々な痛みや苦しみに合う、そして体に受ける傷の苦痛だけでなく、心がきづつけられて激しい痛みを感じることがあるんじゃないでしょうか。
そのような中から、私たちが、イエス・キリストに救いを求めるならば、あの強盗と同じように、キリストは私たちに「あなたも、私と一緒に、天国という楽園の喜びを味わうことが出来るよ」とそうおっしゃってくださるんですね。

キリストは、天国の王様ですから、王様が「私と一緒に天国に連れて行ってあげる」と言う以上、強盗であろうと誰であろうと、天国に行くことが出来ます。もちろん、あなたもです。
本当なら、パラダイスである天国は、誰も入ることの出来ない特別な場所です。でも、自分の犯した罪や、心の汚れ、醜い心などを悔い、キリストに罪の許しの憐れみを求める者は、みんな天国に行くことが出来るんですね。