2024年1月30日火曜日

お母さんのお財布

  ある時のことです、教会のインターフォンがなりましたので、玄関に出てみますと、一人の男の子が、お母さんと一緒に立っていました。実は、その男の子がボールをけっていて、誤って教会のガラスを割ってしまったのです。私は、その時、ガラスが割れたことを知りませんでした。ましてやその男のがガラスを割ったことなど知りようがありませんでした。けれども、その男の子は、自分がガラスを割ってしまったことを正直にお母さんに話したのだろうと思います。それで、お詫びにきたのです。そして、その子も、そのお母さんも、心から「ごめんなさい」と謝ってくれました。

 あいにくと、割れたガラスは特殊なもので、安いものではありませんでした。でも、そのお母さんは、「子どもがしたことですから」と言って、新しいガラスを入れて下さったんですね。もちろん、その代金は、お母さんのお財布から支払われました。私は、わざとではないにしろ、高いガラスを割って、しょんぼりしている子供をかばい、一緒に謝って弁証をして下さったお母さんを、本当に優しい良い親御さんだなと思いました。そして、その二人の姿に人間と神との関係を見たような気がしたのです。

 キリスト教会では、神さまのことを、親のような存在として表現することが多くあります。つまり私たち人間にとって、神はまさに、親のような存在として描くのですが、その際に思い描いている親は、決して子供を虐待する親ではなく、このときの男の子と一緒に謝りに来てくださったお母さんのような親の姿なのです。
 神さまは、あの母さんのような存在であり、だからいつでも、どんなときでも神さまは「わたしたち」をかばい、守って下さるのです。そし私たちの過ちや失敗を補ってくれるのです。

 先程のお母さんは、割れたガラスの代償を、自分の財布の中からお金を支払って弁証しました。結構高価なガラスでしたので、お母さんのお財布的にはとても痛かったのではないかと思います。しかし、そのようなお母さんの姿を見て、あの男の子は、もう同じ過ちや失敗はしないだろうなと思います。どんなに失敗し、過ちを犯しても、その過ちや失敗に対して負うべき責任は全部負って、守ってくださる親のような神さまが「わたしたち」の神なのです。

 あの男の子は、ガラスを割ってしまったときに、知らん顔して逃げることもできたのだろうと思います。でも、割ってしまったことを正直にお母さんに話、お母さんはよその家のガラスを割ってしまったときにはどのようにしなければならないかを、ちゃんと子どもに示したのです。私は、このようなお母さんに育てられているあの男の子は、きっと立派に成長したのだろうと思います。
 そのことを思う時、わたしたちを見つめる神様のまなざしを思います。「わたしたち」は神さまと人との前に、様々な過ちを犯しながら生きています。けれども神は、私たちをあのお母さんのような親としての温かい心と愛で見つめ、やさしく包んでくださっています。だからこそ、神さまのお財布を痛めるようなことをしても、なお私たちが正しく歩み生きていくことができるようにと、どんな損出も惜しむことなく、私たちに愛を注いで気ださいます。その神様が、「わたしたち」が、神さまを信頼し、神さまを信じて生きていくことを心から願っておられるのです。
 新約聖書ヨハネによる福音書三章十六節、「神は、実にその一人子をお与えになったほどに、この世を愛された。それは御子を信じる者が。一人も滅びることなく、永遠のいのちをもつためである。」これは、私たちを大きな親の愛で包む神の約束の言葉なのです。

2024年1月26日金曜日

信じる者の幸い

 旧約聖書詩篇十六篇二節にこんな言葉があります。

「あなたこそ。私の主、私の幸いは、あなたの他はありません。」

この主というのは神のことです。ですから、この詩を書いた人は、「神を信じ生きているわたしの人生は幸せです。」とそう言っているんですね。でも、神を信じて生きる人生が幸せだといわれても、それは一体どんな人生なのでしょうか。そもそも、神を信じて生きるとどうして幸せなのでしょうか。

 先日、ある方のお話を聞きました。それは、一人のキリスト教の伝道をしている牧師さんの話でした。その牧師さんは、キリスト教の伝道をしようと、教会をたて、一生懸命伝道して歩いたようです。にもかかわらず、誰も教会に来こないのです。それで、毎週、毎週たった一人で日曜日に礼拝をするということがずっと続いたようです。普通に考えるならば、その人は、誰一人教会に導けなかったのですから、その人の伝道は、失敗したといえます。

 わたしも牧師ですからわかるのですが、牧師が伝道するのは、強い使命感の押し出されてのものです。普通、強い使命感にたってやっていることがうまくいかないとがっかりしたり、強い挫折感に襲われるものです。ところが、その牧師は誰もが失敗したと思える中で、その牧師さんは、決してあきらめることなく毎週毎週、ずっと礼拝を続けていったそうなのです。

 その様子を見ていた人が、何も結果が得られずに失敗したと思われるような中で、いったいどうして投げ出さないのだろうかと不思議に思ったようです。そして、この人は何に支えられているのだろうかとそう思ったというのです。そこで、その牧師に訪ねてみた。そして、わかったことは、この牧師さんは神に支えられているのだと言うことでした。

 私たちは、物事がうまくいかず、自分の人生は失敗したまでいわなくても、もうダメだと思うようなことがあるのではないか思うのですがどうでしょうか。そんながっかりして挫折を感じるような時でも、だれか支えてくれる人がたならば、私たちは、その困難な状況を乗り越えていくことが出来のではないかと思うのですが、どうしょうか。
 神を信じる人生が幸せなのは、そのような人生の困難なとき、苦しみや悩みのときに神が私たちの支えになってくれるからです。

旧約聖書詩篇十六篇二節「あなたこそ。私の主、私の幸いは、あなたの他はありません。」

神は、「あなた」の人生のパートナーとなって、「あなた」を支えたいと思っておられるのです。

2024年1月25日木曜日

希望に輝く人生

  先日、小学校六年生の子が、お母さんにこんな質問をしました。「お母さんは、自分を人生の成功者だと思う」。

 なかなか答えにくい質問ですよね。そのお母さんも、どう答えて良いか分からなくて、答えられなかったっていっていました。そもそも何をもって人生の成功者と考えたらいいんでしょか。今の時代ですと、ひょっとしたら、お金や名声を得ることが成功、不成功を計る尺度になっているのかもしれませんね。
 もちろん、それも一つの尺度かも知れません。そして、もし、本当に、たくさんお金を稼いだとか有名になったということが、成功の尺度なら、私の人生は成功だといえる人はそれほど多くはないだろうと思います。そして、私も、その人生の成功者の仲間には入ることはできません。ところが聖書は、こんな事を言うんですね新約聖書。ルカによる福音書六章二十節から二十一節にある言葉なのですが、このように言っています。

「貧しい人は、幸いです。神の国はあなたがたのものだから。いま飢えている者は幸いです。やがて満ち足りるから。いな泣くものは幸いです。やがてあなたがたは笑うから。」

 貧しさとか飢えといったものは、おおよそ人生の成功者とは縁遠い者のように思われます。なのに聖書は、その成功とは縁遠いことが、幸いだというのです。それは、今、どんな悲しみや苦しみがあっても、神が確かな希望を与えてくれているからです。どんなに貧しくても、苦難の中を通っていても、神を信じて生きる人には、確かな神の国で苦しみや悲しみから解放してくださるというんですね。そんな神の国のようすを、聖書は、新約聖書黙示録七章十六節でこう言っています。

彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。なぜなら、正面の御座におられる小羊(この小羊とはキリストのことです「が、そのキリスト)が、彼らの牧者となり、命の泉に導いて下さるからです。また、神が彼らの目の涙をすっかりぬぐいとってくださるのです。」

 私たちの人生に希望があるならば、その人の人生は希望に輝きます。そして希望に輝いている人生は、決して失敗した人生とは言えません。神は、神を信じて生きる者の人生に、神の国という希望を与えて下さるのです。では、その神の国はどこにあるのでしょうか。
 聖書が言う神の国とは、ここにある、あそこにあるというような物理的場所を指すものではありません。それは、神様の愛と恵みが支配している領域です。しかし、あえて言うならば、神を信じる者たちが、肩を寄せ合って生きているところ、すなわち教会だということができるでしょう。それば、建物のとしての教会堂ではありません。教会堂は、神様の愛と恵みの中で生かされている人々の交わりの場であり、教会というこの世にあらわれた神の国を入れる器のようなものです、

 教会には、私たちが生きる希望があります。どんなに苦しい思いの中で生きていても、神を信じ生きる希望がある。そして、その希望がある限り、「わたしたち」の人生は、そして「あなた」の人生は、輝くことができるのです。この希望に輝く人生は、「あなた」のためにも用意されています。神は、「あなたに、神が与える神の国がもたらす希望をもって、どんなに苦しいことがあっても、悲しいことがあっても、しっかりと頑張って生きて欲しいとそう語っておられるのです。

2024年1月24日水曜日

父の声と母の微笑み

 私の本棚に「私にとって聖書とは」というタイトルの本があります。この本は、大学教授や精神科医や、ジャーナリストなど、様々な分野で活躍しておられる方が、自分にとって聖書とは、一体どのような書物なのかについて書いたものです。

 その本の背表紙を見ながら、私にとって一体聖書とは何なのだろうかと、考えてみました。ある人は、私に「聖書には確かに良いことが書いてあるとおもうよ」とそう言っていました。それは、聖書には倫理道徳的な善い教えが書いてあるという意味で、善いことが書いてあるとそう言うのです。

そう言われてみれば、私にとっても聖書は、私が人生を正しく歩んでいくための導きとなる書物であると言うことができます。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」とか、「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしないさい」といった聖書の言葉は、私自身にとっても、どのようにして生きていけばいいかと行った道徳的な導きを与えてくれものです。

そういった意味では、私にとって聖書は、私の人生を如何に生きていくべきかを教え導いてくれる父親の声のようなものだと言えます。けれども、それだけではないんですね。旧約聖書エレミヤ書三十一章三節にはこのような神の言葉が書いてあります。[永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに誠実を尽くし続けた」

ここに書いてあることは、神様が私たちを愛して下さっていると言うことです。そして、愛するが故に、誠実を尽くし続けたというのです。この神の誠実は、神が、神に背き罪を犯したものであっても、赦し受け入れけてきたと言うことです。

ちょうど、母親が、過ちを犯し、悪いことをした子供であっても、赦し愛し続けるように、神が私たちを温かいまなざしをもって見つめ、愛して下さっているというのです。そういった意味では、聖書は、私たちを温かいまなざしで微笑みながら見つめている神のまなざしのようなものだと言えます。
 私たちが生きていく時、如何に生きていくかを教え導いてくれる父の声となり確かな導きが必要です。けれどの、どんなに何が正しく、間違っているかを教えられ導かれても、私たちは、温かい愛に包まれていなければ、生きていくことは出来ません。
 そんな私たちにとって、聖書は、神と言うお方の父としての導きの声と、母としての温かい微笑みの中にある愛のまなざしを注いでくれるのです。

2024年1月23日火曜日

命の主権者

 親の遺産を相続するというのは、なかなか厄介なことのようです。それまで仲の良かった家族が遺産相続をめぐって骨肉の争いをするというようなことだってありようです。そして実際に、そのような話を聞いたこともあります。それは、財産やお金というものが、豊かな生活がもたらす安心を与えてくれ、将来の不安を取り除いてくれるように思うからでしょうね。

新約聖書ルカによる福音書十二章十三節以降に、その遺産相続をめぐる争いをめぐるこんな話があります。

 ある時一人の人が、キリストに相談を持ちかけました。その人は、兄弟が自分に、遺産を分けてくれないので、キリストに遺産相続の調停をしてもらおうと思っていたようです。
 キリストは、この人の相談を聞きながら、この人が、自分に遺産が入ってくれば、自分の将来は安心だと思っていることを見抜き、こんなことを言われたんです。「どんな貪欲にも注意しなさい。いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」
 そして、こんな例え話をしました。「ある金持ちが、豊作で何年分もの食料を、蔵一杯に蓄え、心の中で、こう言いました。『これから先何年分もの食料が、たくわえられたから、もう大丈夫。安心して暮していける。』 その時神がその金持ちに語りかけます。『愚かな人だ。あなたは自分のために、これからのために、何年分もの食料を用意したが、お前の命は今日、取り去られる。そうしたら、お前が蓄えた食べ物は誰のものになるのか』」

 この例え話は、将来のために蓄えをすることが愚かなことだと言っているのではありません。将来のために、計画的な準備をすることは決して悪いことではないのです。けれども、キリストは、それだけでは十分ではない、もっと大切なことがあるのだということを教えているのです。それは、神を信じ、神により頼みながら生きると言うことです。

 もともと、この話は、一人の人が自分に遺産が入ってくれば、自分の将来は安心だと思い、キリストに遺産相続の調停を願い求めたところから始まっています。きっと、彼が受け取ることの出来る財産は、膨大なものだったんでしょうね。
 もし私たちが、この人と同じように、膨大な遺産を受け取ることが出来るとしたら、私たちだって、きっと同じように思っただろうと思います。人間は、今も昔も、お金や財産が人の幸せや将来を決めてしまうかのように、思ってしまうものなんですね。
 でも、実際はどんなにお金を積んでも、明日の命が保証されるわけではありません。私たちの命の主権者、お金でもなく、私たち自身でもなく、ただ神だけなのです。だからこそ私たちは、神を信じ、自分の人生を、命の主権者である神に委ねていくことが大切なんですね。

 この命の主権者である神は、私たちの罪を赦すためには、一人子であるキリストを、私たちの代わりに十字架で死なせるほどに、私たちを愛しておられます。だから、生きるにしても死ぬにしても、安心して私たち自身を委ねることが出来るのです。この神を信じ、あなたにも本当の平安を手に入れて欲しいと心からそう願います。

2024年1月20日土曜日

「いけにえ」とは何か

  キリスト教の正典は聖書です。正典とは正しい規範ということです。ですから、聖書がキリスト教の正典であるということは、キリスト教の教えと生き方の正しい規範を聖書がわたしたちに示しているというになります。そしてそれは、神様が「わたしたち」人間を、正しい道を正しく歩むことができるようにと導くためなのです。

 ところが、その聖書は、様々な文学形式をもって書かれています。一見すると、福音書のような伝記的な書物もあれば、歴史書のような書物もあり、手紙や詩と言ったものも含まれている。そのような、さまざまな方法で、聖書はわたしたちを導いているのです。その聖書の中に、詩篇と呼ばれる箇所があります。そこには150ばかりの古代イスラエルにおいて造られた詩が集められています。この詩篇の詩に、わかりやすいようい、後代のひとが、それぞれ1篇、2篇といったナンバリングがつけています。そのナンバリングされた詩篇の50篇には、私たち人間の生き方に対する重要な原則が語られています。その一つが感謝です。この詩篇50篇を記した詩人は、14 節で「感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き者に果せ。」と述べています。

 いけにえとは、神に捧げる極めて宗教的行為ではありますが、なぜ「いけにえ」を献げるのかというと、それは神に対する感謝として捧げるのだというのです。つまり、「いけにえ」というと、何かおぞましい感じがしますし、なにかしら自分の罪に対する神の怒りをなだめる犠牲のような感じがします。しかし、この場合の「いけにえ」とは、神に喜んでいただける捧げものといった感じに受け止めていただければよいでしょう。
 ですから、この「いけにえ」という宗教的行為の背後に、神に対する感謝がなければ「いけにえ」は「いけにえ」として意味をなさないことになります。日々、私たちが生来ていることの背後には多くの人の支えがあります。その究極的な支えが神の存在であるとこの詩の作者は考えているのです。だからこそ、神に感謝としての「いけにえ」を捧げるのです。

 聖書には「なだめの供え物」(口語訳では「贖いの供え物」:ex.1ヨハ2:2)といった概念があます。その「なだめの供え物」はイエス・キリスト様の十字架の一点に集約されて行きます。このような、「なだめ」とか「贖い」といった言葉が持つ響きの背後には、神に対する恐れがあります。そこには、私たちの罪を怒り、裁く神がおり、その裁きをおそれるがゆえに、神を「なだめ」、罪を「購い」神の怒りを静めるという響きがつきまとうのです。
 ところが、この詩人は、「そうではない」というのであす「いえにえ」の本質は、恐れからなされるものではなく、感謝からなされるべきものなのだというのです。「贖い」や「なだめ」は、私たちから何か「贖いしろ」として、私たちの持っているものを奪っていく感じがします。神の怒りを鎮め、償うために、何かを差し出すと言った感じです。

もちろん、神は、私たちから何かしらの金品を求めているわけではありません。神には、何か金品の必要があるわけではありません。だから、「贖いしろ」として差し出される何かの大きさや価値によって。神は決して満足はしません。むしろ神が満足させるものは、私たちの神に対する「感謝」だけなのです。いえ、その「感謝」の気持ちさえ、神の恵みをいただくために必要としていないでしょう。むしろ、ただただ、私たちが神に感謝をする心を神は喜び嬉しく思ってくださっているのです。
 だから、私たちはイエス・キリスト様の十字架を見上げるとき、そこに「感謝」の気持ちがあってこそ、はじめてイエス・キリスト様の十字架は神に対して真の意味を持ちます。また、私たちの宗教的行為、すなわち礼拝も献金も奉仕も、神に対する「感謝」なくしては何の意味も持たないのです。このことを心に留めたいと思います。

 さらに、この詩に込められたもう一つの行動原理、それは神の教えに従って生きると言うことです。

 17節に「 あなたは教を憎み、わたしの言葉を捨て去った。」とあります。更に神の教えを憎み、神の言葉に聞き従わないとき、人は罪に陥るのです。神の教えと言葉は、聖なるものです。ですから、その教えに背を向けて生きるならば、必然的に人は罪に向かって歩むことになってしまします。それでも、そのような神に背を向けて生きる自分の生き方を是とするならば、それはもはや自分自身が自分の神となっていると言わざるを得ません。
 自分自身が自分自身の神になってしまうとき、私たちは自分のしていることの善悪を判断することができなるなり、自分のしていることが絶対に正しいと思うようになり、自分を客観的にみることができなるなります。客観とは、物事を外側から眺め、批判的にみることだからです。ですから、私たちは、絶えず私たちの外側にある目から見た私たちの姿に耳を傾け、その声に聞くということをしなければ自己中心的な生き方に陥らざるを得ないのです。
 その意味で、聖書は私たち人間を外側から見る神の視点で語られた神の言葉です。つまり聖書は、人間が神について語った書ではななく、神が神の目から見た人間の姿を描いた書なのです。

2024年1月19日金曜日

あなたしか持たない名前


ある時イエス・キリスト様は、ピリポ・カイザリアと言うところに出かけて生きました。そのピリポ・カイザリアでの出来事です。それは、イエス・キリスト様が弟子たちに尋ねます。

イエス・キリスト:なあ、お前たち、人々は、私のことを何といっているか」
   
と尋ねられたことから始まります。イエス・キリスト様に「人々は、私のことを何といっているか」と尋ねられて弟子たちは

  弟子A:そうですねー。バプテスマのヨハネと同じような立派な先生だという者がいます。
  弟子B: いえいえイエス様、エリヤの再来だと言っている人達も多くいますよ。
  弟子C: いやー私の周りの人たちはエレミヤだとかモーセに匹敵する預言者だと
      言っていました。

という具合に、弟子たちは口々に世間の人々のイエス・キリスト様に対する評判を告げます。弟子たちが伝える世間の評判を聞いて、イエス・キリスト様は「フッ」とため息をつき、一瞬、「わかっていないなー」と言うような表情を見せ、弟子たちの方を見て

  イエス: そうかい、世間の人はそんな風に言っているんだね。
      それじゃ―、あなた方は、私は誰だと言うんだい。

と尋ねます。そう尋ねられて、弟子たちは戸惑います。

  弟子A: おいおい、なんて答えたらいい、世間の連中がバプテスマのヨハネだとか
      「エリヤだとかエレミヤだモーセだ」と言っているとお答えしたときに、
      イエス様はちょっと不満げ見えたぞ。
  弟子B: お前もそう思ったか。エリヤもエレミヤも我々イスラエルの民にとっては
      大預言者だ。モーセに至っては神様の次ぐらいにえらい預言者なのに、
      それに匹敵する人だと言われても納得いかないとなると、
      誰だといえばいいんだ。

弟子たちは、互いにひそひそと話し合っています。そんな弟子たちの会話を耳にして、師たちの中ではリーダー格だったペテロが言います。

 ペテロ: 何だおまえたち、わかっていないな。大丈夫だ。ここは俺に任せろ

そう言ってペテロは、「イエス様、あなたは生ける神の子、キリストです」と答えます。
そのペテロの答えを聞いて、イエス・キリスト様は、「おっ」というようなちょっと驚いたような顔をしたあと、笑顔になり、満足げに

  イエス: パルヨナの子シモンよ。よく気が付いた。あなたは幸いな人だ。
       あなたの答えは正しい。
       ふつうは、そのことになかなか気づけないものだ。
       おまえも、そのことを自分の力で分かったなどと思ってはいけないよ。
       それじゃ父なる神様が、そのことをお前に教えてくれたから、
       気付くことができたのだ」

と言われたのです。イエス・キリスト様が神の子であるということは、人間の頭では理解することはできません。確かにそれは、神様が私たちの心に教えてくださることなのです。だからこそパウロは、コリント人への手紙第一の12章3節で、誰も聖霊なる神様の助けを借りなければ、イエス様こそが、私たちの王であり主なるおかただ」と言うことはできないというのです。

しかし、この話の大切なことは、ここからです。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、天におられる私の父である」と言われたイエス・キリスト様は、ペテロに向かって。「バルヨナ・シモン、あなたはペテロだ」と言われるのです。

バルヨナ・シモンというのは、ペテロの本名です。しかし、ここでイエス・キリスト様はそのバルヨナ・シモンを「ペテロ」と言う名で呼ぶのです。これが大切なことだ。それは、このバルヨナ・シモンと言う人の本来あるべき姿、あるいは目指すべき姿が「ペテロ」と言う名で呼ばれるべき存在だからです。

名は体を表すと言いますが、イスラエルの国では、名前は、その人がどんな人であるかと言うことと深く結びついています。そして、その人がどんな人にならなければならないか、どんな働きをしなければならないかと言うことを示している。

そして、ペテロと言う名前は「岩」と言う意味です。バルヨナ・シモンにむかって、イエス・キリスト様が「バルヨナ・シモン、あなたはペテロだ」と言われたのは、ペテロが、後に建てあげられる教会の中心的な人物として基盤となる岩となる存在だからです。

ですから、バルヨナ・シモンという名の男は、ペテロという名前の人物にならなければならないのです。おなじように、神様は、私たちの名前を読んでいます。それは、私と言う名前は「濱和弘」と言う名ですが、実は、この日本では他にも「濱和弘」という人がいるのです。ですから「濱和弘」という名前でだけでは、その人と私との区別はつきません。しかし私の名前は、ただの「濱和弘」ではなく、「神を信じる濱和弘」であり、「牧師である濱和弘」です。神様はそのような神様が与えてくださった使命と思いを込もった新しい意味での「濱和弘」という名前を呼んでくださっている。

同じように、神様は、みなさんの名前を読んでおられる。その名前には、神様が与えてくださっているあなたしかできない神の使命を負った名前なのです。それは、世間の人々が、みなさんをどんなふうに言おうと、みなさんに対してどのような評判をたてようと、そんなことは関係ない。神様が、みなさん一人一人を、神の子としてくださり、神様がみなさんにあたえてくださる使命を生きる者となるようにと、みなさんの名前を呼んでいるのです。

だから、私たちは人の評価など気にすることはありません。人の評判も気にすることはない。「あなた」が、イエス・キリスト様を「イエス様、あなたは生ける神の子、キリストです」と告白するならば、神様が、「あなた」の名を呼び、「あなたを」貴いものだと言ってくださっているのです。そして「あなた」しかできない、大切な使命を与えてくださるのです。だから、私たちは自信をもって、胸をはって生きて行きたいと思います。

2024年1月17日水曜日

2024年元旦礼拝説教「神の逆対応」

 

2024年元旦礼拝説教「神の逆対応」                 202411

旧約書:ヨブ記16節から12
福音書;マタイによる福音書51節から10
使徒書:コリント人への第二の手紙121節から10

 

 新しい年を迎え2024年の歩みが始まりました。今年は、先ほどお読みしました。新約聖書コリント人への第二の手紙121節から10節の言葉の中にある9節の「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」と言う言葉を、今年の指針の言葉として掲げたいと思います。

 

 この言葉は、この9節の言葉は、パウロが自分の肉体に何か弱さを感じていた時に、神様がパウロに語り掛けてくださった言葉だと言っています。パウロが感じていた肉体の弱さというものが何であったのかは定かではありません。目のが悪くなっていたのではないかとか、伝道旅行中にかかかったマラリアの後遺症により発作ではないかといろいろと言われますが、実際のところはよくわかりません。

 

 しかし、パウロはその肉体的な弱さのために「三度、神に願った」というのですから、それはパウロにとって悩みの種の一つであったことはまず間違いないと思われます。そしてそれは、パウロが多くの啓示を受けたため、思い上がらないようにサタンがパウロを打ったためだというのです。

 

 この表現は、私にとってはとても奇異な感じがします。パウロが神様からの多くの啓示を受けたため、パウロ自信が思い上がって高慢にならないように、神様がパウロに肉体のとげ、すなわち弱さを与えたというのでしたら、しっくりくるのですが、サタンの使いが、パウロが高慢にならないようにパウロを打ったというのは、どうもしっくりこないのです。むしろ思い上がって高慢になった方が、サタンにとっては望ましいように思えるのです。

 

 そこで、注解書をいろいろと調べてみましたがなかなか納得できるような説明をしているものはありませんでした。そこで、新約聖書のもともとの原語であるギリシャをあたりました。そうすると、7節は、他の可能性があることがわかりました。

 

その科の生のある別訳と言うのは、「そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた」とありますところが、「私はあまりに多くの啓示を受けたので、私が大喜びしないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた」と訳することができる可能性や、「私はあまりに多くの啓示を受けたので、私が賛美しないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた」がある可能性です。

 

 そうすると、ここの部分がわかるような気がする。というのも、「私が大喜びしないよう」と言う訳や、「私が賛美しないように」と言う訳は、神様がパウロに多くのことをあらわし、お示しになった。それはとても喜ばしいことであるので、喜び神様を賛美し、神様が啓示してくださったことを人々に伝え、証するということがないように、私に肉体に、神様に敵対するサタンが、パウロの肉体に棘を与えたというニュアンスが読み取れるからです。

 

 そこには、先ほどお読みした旧約聖書のヨブ記の1章で、神様に語ったサタンの言葉に通じるものがあります。それは、神様が「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」と言う言葉に対して、

 

「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられたではありませんか。あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです。しかし今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」

 

と言う言葉です。神様が恵みを多く与えたならば、人は神を神を賛美し、ほめたたえることは当たり前だ。だか、災いが襲ってきたら、人は神を敬うどころが呪うだろう。人間とはそんなものだとサタンは言うのです。

 

 そうかもしれません。確かに人間にはそのような弱さがある。だからサタンはヨブを打ち、災いと苦難を与え苦しめるのです。しかしヨブは、災いが自分に襲ってきたときに、「なぜなのだ」と神の党ことはあり、「神様に何か間違いがあるのではないか」という苦悩はありましたが、神様を恨んだり、呪ったりはしませんでした。

 

 同じように、神様から多くの恵みを与えられているパウロの肉体に、棘と言われる何らかの病気かあるいは不自由さを与えたのです。それによって、パウロが神様をほめた耐え、賛美し、神様を証ししないようにするためであった。そう考えると、このコリント人への第二の手紙127節の言葉がすっきりとわかるような気がします。

 じっさい、パウロはこのサタンが与えた肉体の棘のゆえに、神様に三度願ったと聖書は記しています。そこには、ヨブが「神様、なぜですか。神様が何か間違っていませんか」と問いかけたような思いが読み取れます。

 

 しかし、そのようなパウロに神様は、「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ」と言われるのです。確かにパウロには弱さがある。苦しみ悩む部分もある。だからこそ、「私に頼りなさい。私が弱さを持つあなたを、その弱さの中にあるあなたと共に歩み、あなたを慰め、支えるから」と神様は言われるのです。

 

 パウロが、弱さを克服して自分自身の力で生きていくならば、それこそ高慢なものになっていく。だからこそ神様は、サタンがパウロが神様を喜び、賛美しないようにと与えた肉体の棘を逆に、パウロが高慢にならないように用いて、パウロが神様を頼り、神様に支えながら生きていくようにと、教え導かれるのです。

 

 なぜならば、私たちが生きていく中で、自分自身の力ではどうしようもない壁にぶつかることがあるからです。その時に、自分自身の力に頼って生きていくならば、私たちは挫折をするだけで、それを乗り越えることができないのです。

 

 けれども、神様により頼み生きる生き方をするものは、そのような自分自身ではどうしようもない出来事にぶつかったときにも、神様に助けの道を見いだすことができる、神様の支えをいただいて生きていくことができるのです。

いやむしろ、そのような弱さの中にある時こそ、1210節の「それゆえ、私は、弱さ、侮辱、困窮、迫害、行き詰まりの中にあっても、キリストのために喜んでいます。なぜなら、私は、弱いときにこそ強いからです」と言うことを経験することができるのです。

 

 みなさん、弱い時にこそ神様の恵みを感じ、神様の力と支えを知る、喜び神を賛美できるということがは、サタンが「あなたが恵みを与え、祝福を与えるから神を信じ、神を誉めた讃えるのです」と神様に主張した主張とは全く逆のものです。

 

 そして、そのような逆説をイエス・キリスト様が、マタイによる福音書5章にある有名な山上の垂訓で語られるのです。

 

こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。悲しんでい る人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。(10節)義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。

 

 これは全くの逆説です。まさに「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ」と言うことであり、「私は、弱いときにこそ強いからです」と言うことが、このイエス・キリスト様の山上の垂訓の言葉の中に現れ出ています。

 

 みなさん、今、日本のキリスト教は逆風の中にあります。本当に宣教も苦しく、教会も大変な中にある。でもね、私たちには神様の支えがある。私たちと共に歩んでくださる神様がおられるのです。

そのことを、しっかりと心に覚えつつ、今年一年もみなさんと共に歩んでいきたいと思います。しばらく静まりの時を持ちましょう。私たちが弱さの中にあっても、共に歩み、支え、力づけてくださる神様が、教会と共に、またあなたの今年一年の歩みにいてくださるのです。そのことを、心静めて思い廻らしたいと思います。静まりの時を持ちます。

2024年1月16日火曜日

心の欠けを満たしてくれる友

 新約聖書マタイによる福音書の十六章十六節~二十四節に、こんな話があります。ある時、一人の青年がイエス・キリスト様のところにやって来てこんな質問をしました。「永遠の命をえるために、私はどんなと良いことをしたらよいのでしょう」

 その質問に対してイエス・キリスト様は、「殺してはならない」とか「父母を敬え」「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」といった戒めを守りなさいと答えます。するとその青年はさらにこう尋ねます。「それははみんな守っています。何か欠けているのでしょうか」

 するとイエス・キリスト様は「あなたが完全になりたいなら、あなたの持ち物を売り払って、貧しい人に与え、私について来なさい。」この言葉を聞いた青年は、イエス・キリスト様のもとから悲しんで去っていったと言うのです、そして聖書は、この青年が去っていった理由は、彼が多くの財産を持っていたからだ説明しています。

 この青年が求めていたものは、永遠の命です。聖書で永遠の命と言うとき、それは神から与えられる。神の恵みであり祝福です。神様は、私たちを常に愛し、受け入れ、恵みを与えたいと思い、私たちに神の恵みと祝福とを差し出しておられます、ただ、そのことに「わたしたち」は気付かないでいるのです。なぜならば、「わたしたち」は、富や財産がわたしたちを幸せにしてくれると思っているからです。

けれども、人は、神から愛され、受け入れられているということに気付くときに始めて、神の恵みや祝福といったものを得ることができるのです。

キリストの時代の人々もまた、この神の恵みや祝福といったものは豊かな冨はであると考えていました。ですから、この青年が多くの財産を持っていたと言うことは、彼自身が神さまからの祝福をいただいていると言う証であり、幸福のしるしのはずでした。しかし、それでもなお、この青年は何か満たされていないものを感じているのです。どんなに、多くの冨を手に入れても、心のどこかに、何か満たされない気持ちがある。だから「何か欠けているのでしょうか」とイエス・キリスト様のところに訪ねてくるのです。

 結局、お金や財産といったものが、神の祝福なのではなく、どんなときでもキリストを頼り、キリストが人生の様々な場面で私たちを慰め励まし、そして支えてくださる神の愛が、神の祝福であり、恵みなのです。

 この青年は、イエス・キリスト様に「永遠の命をえるために、私はどんなと良いことをしたらよいのでしょう」と問うています。永遠の命とは、神の命です。神様は、「わたしたち」に自分の命を与えるほどに、「わたしたち」を愛してくださっています。それほどまでに「わたしたち」を愛しておられるからこそ「永遠」と呼ばれるほど、いつでも、どのような時にでも、わたしたちと共にいてくださり、わ「たしたち」を慰め励ましてくださるのです。だからイエス・キリスト様は、「あなたが完全になりたいなら、あなたの持ち物を売り払って、貧しい人に与え、私について来なさい」というのです。それは、「何をおいても、私と一緒にいて、私と共に生きてなさい」ということです。

 普通に考えても、苦しい時に、慰め励ましてくれる友達や家族というものは、お金や財産以上にかけがえのないものですよね。そう言った友達や家族は、何よりも大切にしなければなりません。そういった存在が、私たちの心の賭けを満たしてくれるのです。でも、そんな友達や家族でもあっても、人間は弱さを持っています。ですからどんなに支えたくても支えきれなくなってしまうこともあります。また、時には仲違いをしてしまうことだってありますし、裏切られてしまうことだってある。
 けれどもイエス・キリスト様は、どんなときでも決してあなたを見捨てず裏切らないで、私たちと共に歩み、支え慰めて下さる永遠の友となって下さるお方です。だから、キリストについて行く、一緒に人生の歩みを歩んでいくということが大切なのです。

 次の言葉は新約聖書ヘブル人への手紙十三章五節にあるキリストの約束です。「金銭を愛する生活を生活をしてはいけません。今持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない。』

イエス・キリスト様は、今日、いつでも、どんなときでも、「あなた」を決して見捨てることのない「あなた」の永遠の友になろうと言って下さっています。ですから、どうか、このお方を心に受け入れて欲しいと思います。

2024年1月13日土曜日

やり直しの人生(弟子ペテロの場合)

 イエス・キリスト様には、12使徒と呼ばれる、有名な12人の直弟子がいました。この12弟子の中のひとりのイスカリオテのユダの裏切りによって、イエス・キリスト様は捕らえられ、十字架に貼り付けられて死んだんです。でも、聖書は、イスカリオテのユダだけでなく、他の弟子たちも、さまざまな形でイエス・キリスト様を裏切った事を記しています。その中のひとりに、ペテロと言われる人がいるのですが、そのペテロは、熱血漢で、イエス・キリスト様の弟子の中ではリーダー的な存在です。ところが、こともあろうに、そのペテロが、いざイエス・キリスト様が捕らえられると、「私はイエスという男なんか知らない。」と、嘘をついてしまうのです。

 しかも、ご丁寧に3度にわたって、「私はイエスという男なんか知らない」とそう言ってしまうんですね。もっとも、ペテロにも良心の痛みというものがありますから、自分がイエス・キリスト様を裏切ってしまったことを、激しく後悔します。そして、自分の裏切りの行為を、泣いてキリストにお詫びをするんですね。そうこうしていると、十字架に付けられたイエス・キリスト様が死んで3日後に、よみがえります。そのよみがえったイエス・キリストが、ペテロ達弟子の所に現われたのです。

 私は、その時にペテロ退き持ちを想像しますとね、きっとバツが悪かったと思いますよ。自分が3度も裏切ったイエス・キリスト様が目の前にいるんですから。居心地が悪かったでしょうね。そんなペテロに対して、イエス・キリスト様は、「あなたは私を愛しますか」とそう訊ねました。もちろん、そのイエス・キリスト様の問いかけに対して、ペテロは「はい、私があなたを愛することをは、あなたがよくご存知です。」とそう答えました。
 ところが、その答えを聞いたイエス・キリスト様は、もう一度「あなたは私を愛しますか」と訊ねるのです。当然ペテロは「ハイ、愛しています」と同じ答えをする。そうすると、更にもう一度イエス・キリスト様は「あなたは私を愛しますか」とそう訊ねられたのです。
 3度も同じ質問をするなんて、キリストってなんて疑い深いんだろうって、そう思われるかも知れませんね。でもそうじゃないんです。イエス・キリスト様は、ペテロが3度「私はイエスという男なんか知らない」と言ってしまった過ちを、完全に赦していると言うことをペテロの知らせるために、わざわざ3度も「あなたは私を愛しますか。」とそう訊ねたのです。それは、過ちを犯したペテロがその過ちから立ち上がり、人生を新しくやり直していくためだったのです。

 人間は誰でも過ちを犯します。もう二度としないと思っていても、同じ過ちや失敗を繰り返すことがあります。けれども、私たちが、私たちの犯した過ちを、本当に悔い、神様にお詫びをするならば、神様は、私たちの罪や過ちのすべてを完全に赦してくれるんですね。そしてそこから、立ち上がり、人生をやり直していくことを願っておられるのです。そして願うだけでなく、そのやり直しに人生を共に歩んでくださるのです。」
 神のひとり子なる神キリストは、ペテロに3度、「あなたは私を愛しますか」と訊ねることで、そのことを私たちに教えておられるのです。すなわち、神様も神の御子であるイエス・キリスト様も、「あなた」が「あなた」の人生をやり直せるように、「あなた」を完全に受け入れておられるのです。

2024年1月11日木曜日

あなたがいてくれるだけで

  実は、孫の誕生日がちかづいてきており、どんなお祝いの誕生日プレゼントを買おうかと頭を悩ましています。誕生日のお祝いをするというのは、祝われる側はもちろんのこと、祝う側にとっても嬉しいものです。本当に生まれてくれてありがとうと思うからです。ところが、ある人がこんなことをいっていました。

『「お誕生日おめでとう」という言葉には、「あなたが生まれてくれたことも嬉しいけど、今、あなたがいてくれることが、本当に嬉しい」。そう言う思いが込められているんだ』って言うのです。良い言葉ですよね。そしてそのような思いで、「お誕生日おめでとう」と言われたら、言われた側も、本当に嬉しくなるんじゃないかなって思うんですが、どうでしょうか。それは、誕生日を祝ってくれる人の温かい愛が、伝わってくるからなんでしょうね。そんなわけで、今日は、そのような思いをこめて、私も、孫に「お誕生日おめでとう」って言ってやろうと思います。

 ところで、旧約聖書イザヤ書四十三章四節には、神が、先程のお誕生日をお祝いする言葉とおなじように、「あなたがいてくれることが本当に嬉しい。」という思いで、私たちに語りかけている言葉があります。それは、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」という言葉です。神が、私たちを高価で尊いと言って下さるとき、私たちが神に何か役立つものだから、価値があると言っているのではありません。神は、まさに全知全能の神です。ですから、私たちから何かお世話してもらわなければこまるとか、何かをしてもらわなければならない存在ではありません。

その神が、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」とそう言って下さるのは、神が、あなたを愛しておられるからです。だから、あなたがいてくれるというだけで、神の心は喜びに満たされるのです。
 ところが、「何も出来なくても、何もしなくてもいい。ただいてくれるだけで、本当に嬉しい」と思うほどの深い愛で愛されているのに、私たちは、その神の目から逃れて生きて行こうとしてはいないしょうか。「神なんかいない。」「神なんか信じない」と、私たちの心から神の存在を締め出してしまっているならば、「あなたがいてくれるだけで、私はとっても嬉しい」という温かい神の愛の言葉を聞くことができません。

 今の時代は、本当に殺伐とした時代です。人間関係にも、本当に神経を使わなければならないと入った状況です。だからこそ、今の私たちに本当に必要なものは、「あなたがいてくれるだけで嬉しい」といった愛の言葉なのではないかと思うのです。その愛の言葉を、神は今日もあなたに語りかけておられます。ですから、あなたも、この神を心に信じ、神があなたに語りかける愛の言葉を聞きながら生きていって欲しいと思います。

2024年1月10日水曜日

詩篇49篇の黙想

 詩篇49篇の黙想

 この詩篇49篇には、この詩人(それは、表題に従えばコラと言うこと似なるのだが)の死生観がにじみ出ている。しかも、その死生観は旧約聖書においては極めて特異な死生観である。

 一般に旧約聖書は、人間の死後に関心を寄せていない。むしろ生きているその生において如何に神の祝福を得て生きるかに関心が向けられている。そしてその神の祝福とは、長寿であったり、多くの子供であったり、財産と言った寝に見える形で表される。

 ところがこの詩人は、それらのものがいっさい空しいと言う。そして、死んだなら人は等しく地の下にある陰府に下るのだと言うのである(11節12節)。もちろん、死んだ後、人は皆等しく陰府に下るというのは旧約的発想である。だからこそ、この地上で得る神の祝福に目が向けられているのである。だが、この詩人は、魂の救いに目を向けているのである(8節9節)。そしてこの魂の救いには贖い代が求められるのであるが、その贖い代を人は払いきることが出来ない。だれも払いきることが出来ないのである。

 もしここで、この詩が終わっていたとしたならば、人の一生とはなんと空しいことだろうか。東方教会の伝統は、罪と死の関係をわれわれ西方教会と逆転させ、死と罪の現実を、この死の空しさのゆえに、人は罪を犯す者となるという風に捉える。人間の死という現実があるがゆえに、人間は刹那的この世の快楽を求め、そこに罪が入り込むというのである。このような見方の神学的是非はあるかも知れないが、極めて卓越した人間観察だと言える。

 しかし、この詩人は、魂の贖いに目を向ける。それは、陰府から我々を贖い出す神の御業なのであり、キリストの十字架によって完成された神の救いの業なのである。

 この人は死んだなら皆等しく陰府に下るという旧約的思想に立ちながら、その陰府から神は魂をあがないだして下さるということを、コラの子たちが詠うということは、何とも皮肉な出来事である。というのもコラという人物は、モーセとアロンに逆らい、この世の栄誉を求めて生きたまま地に呑まれ、陰府下った人物だからである(民16:1-35)。その子孫が、陰府から贖い出す神の御業をたたえる者となっていると言うことにも、我々は神の救いの歴史の不思議さ見ることが出来る。

 旧約聖書全般を見れば、そこには確かに、神の前に如何に生きるかが問題とされ、その結果が生きている中に現れることが切に願われている。しかし、死後にも神の祝福があることが、所々に垣間見られている。この詩篇に先立つ48篇の最後の言葉は、「この神は代々限りなく私たちの神、死を越えて私たちを導く、と」となっている。この死を越えてと言う言葉は、死という事態を越えて死後まで導くと言う意味と捉えるのか、死線を越えてと捉えるのかによって意味は違ってくる。また、個人的な死を意味し死後の世界を導くと捉えるのか、個人的な死の現実があってもその子孫を世々代々に渡って神が、神の民を導くと言う意味にも捉えられる。おそらく、文脈から言うならば、それがもっとも適切であろう。

しかし、黙想の世界においては、この「この神は代々限りなく私たちの神、死を越えて私たちを導く、と」と言う言葉の後に、詩篇49篇が置かれているのはなんとも味わい深い事象である。

2024年1月9日火曜日

23年1月第一主日礼拝説教「マルタの信仰告白」

 23年1月第一主日礼拝説教「マルタの信仰告白」                2023.1.7

旧約書:申命記18章13節から21節
福音書:ヨハネによる福音書11章17節から28節
使徒書:ヘブル人への手紙11章1節2節

 今日の礼拝説教の中心となる箇所は、先週の礼拝説教に続くヨハネによる福音書11章17節から28節です。イエス・キリスト様が親しくしていたマルタとマリヤの姉妹の兄弟ラザロが病気になっているとの知らせを聞き、そのラザロのところへ行こうとして、旅立たれます。今日の箇所は、そのマリヤとマルタそしてラザロの家に、イエス・キリスト様が到着したときの出来事が記されています。

 イエス・キリスト様が到着したとき、既にラザロが死んで墓に葬られ四日が過ぎていたとあります。また、イエス・キリスト様はラザロが病気であるという知らせを聞いて、二日ほどたってベタニヤにあるラザロに家に向かっています、またその旅程は二日ほどかかっています。だとすれば、マリヤとマルタの家から使者がイエス・キリスト様に所にたどり着くまで、最低で二日、そして仮にイエス・キリスト様が知らせを聞いすぐに旅立ったとしても往復で二日かかるのです。だとすればイエス・キリスト様がラザロの病気の話を聞いた時にはラザロは亡くなっていたことになります。
 このラザロの家があったベタニヤというのは、エルサレムから25丁はなれたところにあったといいますので、距離にして約⒉7㎞というまさにエルサレムの近郊です。ですから、11章7節にありますようにイエス・キリスト様がラザロのもとに行こうと言ったときに、弟子たちが「先生、ユダヤ人たちが、先ほどもあなたを石で打ち殺そうとしていましたのに、またそこうに行かれるのですか」と心配したのもうなずけます。ユダヤ人がイエス・キリスト様を石で打ち殺そうとしたのは、まさにエルサレムでの出来事だったからです。
 しかしそれでもなお、イエス・キリスト様はエルサレムの郊外のラザロの家に行かれるのです。イエス・キリスト様が来られたと聞いて、マルタはイエス・キリスト様を出迎えに行きます。そこで、マルタがイエス・キリスト様に発した言葉が 

主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう。しかし、あなたがどんなことをお願いになっても、神はかなえて下さることを、わたしは今でも存じています

というものです。ウィリアム・バークレーや榊原康夫をはじめとする多くの聖書注解者が、このマルタの言葉に、「ラザロが病気であることをお知らせしたのに、どうしてもっと早く来てくださらなかったのですか」という非難の響きと同時に、それでもなお、イエス・キリスト様を信頼する心が読み取れると言っています。

 この、「ラザロが病気であることをお知らせしたのに、どうしてもっと早く来てくださらなかったのですか」という非難の響きというのは、おそらくはイエス・キリスト様が、ラザロが病気であるという知らせを聞いて、なお二日滞在していた地にとどまっていたということを念頭に置いてのことであろうと思います。
 しかし、イエス・キリスト様が知らせを聞いた時点で、ラザロはすでに亡くなっていたのです。たとえ、イエス・キリスト様が知らせを聞いてすぐの駆け付けたとしても、ラザロが亡くなって二日が過ぎています。そういった点を考慮すると、マルタの言葉に非難めいた響きを読み取るのは、少々読み込みすぎかもしれません。
 しかし、彼女がイエス・キリスト様に信頼を寄せていたことは確かです。「彼女のあなたがどんなことをお願いになっても、神はかなえて下さることを、わたしは今でも存じています」という言葉は、真実な心から出た言葉なのです。ところが、その信頼は十分なものではありませんでした。そのことをイエス・キリスト様は明らかにし、ただ信頼するだけではなく、イエス・キリスト様を神の御子として信じ受け入れる信仰告白へと導くのです。ではどうやって、イエス・キリスト様はマルタを導かれたのでしょうか。
 まずイエス・キリスト様は、マルタに「あなたの兄弟はよみがえるであろう」と語りかけます。その語りかけにマルタは、「終りの日のよみがえりの時よみがえることは、存じています」と答えます。このマルタの答えは、当時のユダヤ教の終末論的希望と一致します。
 当時にユダヤ人たちの間に死者の復活があるという人たちと、復活はないと否定する人たちがいたことは使徒行伝23章8節を見れば明らかです。そこには「元来、サドカイ人は、復活とか天使とか霊とかは、いっさい存在しないと言い、パリサイ人は、それらは、みな存在すると主張している」と記されています。
 またN.T.ライトというイギリス国教会の司祭で新約学者は、当時のユダヤの民衆の名Kには、当時のローマ帝国の支配下にある状況にあって、彼らは、その支配から解放され、新しい聖地と神殿が回復され、その地で自由に律法を全うして生きていくという希望を持っていたと言います。そして、その時に命に甦るという希望を持っていた人たちがいたと述べています。まさに、パリサイ派の人々はそのような人だったと言えるでしょう。ですから、マルタが「終りの日のよみがえりの時よみがえることは、存じています」と答えは、そのような人々の希望を言い表す言葉であったと言えます。

 しかし、その答えに対してイエス・キリスト様はさらに、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」と追いかけるのです。
 みなさん、マルタは21節22節で

   「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう。しかし、あなたがどんなことをお願いになっても、神はかなえて下さることを、わたしは今でも存じています」

と言っています。つまり彼女は、イエス・キリスト様が願うならば、神様はラザロに命を与え死から救ってくださっただろうと言っているのです。確かに、神様は命を与えるお方です。ですから、彼女の答えは間違っていない。しかし、このときにマルタにとって、イエス・キリスト様は、神と人をとりなす存在ではあっても命を与える存在ではないのです。おそらくマルタはイエス・キリスト様を偉大な預言者と捉えていたのだろうと思います。
 みなさん、私たちは先ほど、申命記18章の13節から21節までをお読みしました。そこにはモーセが語った言葉が記されていますが、そこでモーセは「あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞のうちから、わたしのようなひとりの預言者をあなたのために起されるであろう。あなたがたは彼に聞き従わなければならない」と言っています。
 モーセは、イスラエルの民がエジプトで奴隷となっていた時、その支配から解放し、人々を救いした預言者です。そのモーセのような救いをもたらす預言者が起こされると旧約聖書は語るのです。また、マラキ書4章5節には

見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす」

 とあります。つまり、やがて、イスラエルの民が救われる救いの時にはエリヤのような預言者やモーセのような預言者がやがて現れるというのです。そのことを受けるようにして、ヨハネによる福音書の1章19節から21節で人々がバプテスマのヨハネに、「あなたはエリヤの再来ですか、それともあの預言者ですか」と尋ねている箇所があります。このあの預言者というのが、モーセが言った私のような預言者が起こされると言ったその預言者なのです。

 そして、バプテスマのヨハネにしたように、イエス・キリスト様を、そのエリヤの再来であるとか、モーセのような預言者であると考えていたのではないかと思われます。そこには、彼らが待ち望んできた救い主であり、イスラエルの王となるお方が来る前に、預言者エリヤとモーセのような預言者再来するという期待があったからです。

そしてマルタもまた、イエス・キリスト様をそのような預言者であると捉えていたと思われるのです。だからこそ、そのマルタに、イエス・キリスト様は、「私が死者をよみがえらせ、命を与えるものなのだ、あなたはそれを信じるか」と迫るのです。それは、イエス・キリスト様は、エリヤでもなく、モーセのような預言者でもなく、まさこの世界に王として来られたお方であり救い主メシアだからです。
 イスラエルの民にとって、イスラエルの王は神自身です。ですから、「私が死者をよみがえさせ、命を与えるものなのだ、あなたはそれを信じるか」と迫るイエス・キリスト様の言葉は、私こそがイスラエルを抑える王であるということを信じるかということを迫る言葉でもあります。しかし、イエス・キリスト様は、ただイスラエルの民を救う王として来られたわけではありません。それにまさる神の王国を治める王として来られたお方です。そしてその神の王国は、単にイスラエルの民だけに開かれているのではなく、世界中のすべての人に対して開かれているものです。
 もっとも、マルタ自身がそこまで理解できていたかどうかはわかりませんが、しかし、それでも、彼女はイエス・キリスト様を信頼していたその信頼は確かなものであったようです。イエス・キリスト様に「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」と問われ、素直に「主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子であると信じております」と応えるのです、

 来るべきキリスト、それは油注がれた王でということです。そしてイスラエルの民にとってイスラエルの王は、神ご自身なのです。だから、マルタは。イエス・キリスト様は神の御子であるというのです。そして、この言葉はマルタにとっての信仰告白の言葉となった。
 みなさん、マルタはまだ、ラザロのよみがえりを見たわけでもありません。また、具体的に神の王国がこの世界の中に広がっていくのも見ていない。けれども、まだ見ていないのに、イエス・キリスト様の言葉を聴き、その言葉をそのまま受け止めて信じるのです。もちろん、マルタとてやみくもに信じたわけではないでしょう。ここに至るまでにあるイエス・キリスト様との様々な交流や、それまでイエス・キリスト様がなされたことを見て来たことを通して築き上げられた信頼関係もあったでしょう。しかし、それでもなお彼女は、まだ見ていない信仰の事実を信じ受け入れたのです。

みなさん、私は、このマルタの姿に、先ほどお富舌ヘブル人への手紙11章1節のある「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することであるという新を見る思いがします。そしてその信仰の大切さを思うのです。それと同時に、信じる決断、信仰告白に至るまでに、いかに、イエス。キリスト様に対する信頼が大切かということを教えられるます。
 それは、今日、イエス・キリスト様を伝える伝道の業が困難な日本の現状における教会に対するとても重要な事だと思うのです。みなさん。教会はキリストの体であり、キリストの業を行う共同体です。そのキリストの体である教会が、人々に信頼されていなければ、教会が語る宣教の言葉が人々に受け入れられ、信仰告白に導くことができないからです。

 私たちはイエス・キリスト様に信頼されたように、人々に信頼されるキリストの業を行うものとなる必要があるです。そして、そのキリストの業とは、神を愛して礼拝をし、隣人を愛するという愛を実践していくことだと思うのです。このことを覚えながら、今年一年の歩みをしていきたいと思います。しばらく静まりまりましょう。心を静めて、神の御子であるイエス・キリスト様のことを思いましょう。

神様の不思議な名前

 

聖書の中で、神様がご自分の名前について語っているところがあります。その箇所は旧約聖書の出エジプト記という箇所の3章13節、14節です。そこにはこうあります。

モーセは神に言った。「御覧ください。今、私はイスラエルの人々のところに行って、『あなたがたの先祖の神が私をあなたがたに遣わされました』と言うつもりです。すると彼らは、『その名は何か』と私に問うでしょう。私は何と彼らに言いましょう。」神はモーセに言われた。「私はいる、という者である。」そして言われた。「このようにイスラエルの人々に言いなさい。『私はいる』という方が、私をあなたがたに遣わされたのだと。」

ここのは、神様の名乗りがあります。この神の名乗りは、エジプトで奴隷として苦しんでいたイスラエルの民に向かってなされるのですが、そこで表された神様の名は「私はいる」というものです。この「私はいる」という言葉は、旧約聖書が書かれたもともとの原語であるヘブライ語ではאֶהְ יֶ(エヒィエー)という一つの単語です。これはヘブライ語の動詞は、動詞が人称を含みながら活用するからです。このエヒィエーは「私はある」との訳されますので、以下では「私はある」とします。

神様は、私の名は「私はある」であると言われます。実に奇妙な名前です。しかし、この名前は、とても大切なのです。というのも「ある」という動詞は、英語のbeであり、要は「存在する」ということを意味しています。つまり、神は、この世界に存在するすべてのものを存在させている存在の根源であるということなのです。ですから「あなた」が「今、ここに存在している」のは、あなたが自身の力や頑張りによって「あなた」が存在しているのではなく、神様が「あなた」という人を「存在」させているのです。

この「わたしはある」という言葉の「わたし」一人称単数うの代名詞です。ですから「わたしはある」という言葉の「わたし」の部分に、、だれもが、「Aはある」というように、「わたし」の部分に自分の固有名詞を入れることが可能です。そのときまさに「わたしはある」いう言葉には、その言葉を発した人自身の、「わたしはわたしである」という自認が生まれてきます。

 この自認する「わたし」は絶対的「わたし」ではありません。それは極めて相対的です。たとえば、ある高校で成績がトップの子がいます。その子の「わたし」は「自分は優秀だ」と自認する「わたし」です。そして周囲もこの子に期待を寄せています。しかし世の中には優秀な人間が数多くいます。そのような中に置かれると「自分は優秀だ」と自認する「わたし」は崩壊し、「自分は普通だ」あるいはばあいのよっては、「自分は劣っている」という自認をもって「わたし」を見ることすらあるのです。つまり、通常わたしたちが自覚する「わたし」という自分は、極めて相対的であり、他人の目から見た自分の姿なのです。

 そのようなわたしたちが、『は「わたしはある』というものである」と名乗る神様にむかい、「わたしはある」という名を呼び求める時、周囲に左右されない真の自己が現れ出ます。それは、神のよって存在させられている「わたし」の姿であり、神の目からみた「わたし」の姿なのです。神様は人間や世界を超越する絶対他者です。ですからその絶対者である神様の前に立つときに、そこにゆるぎのない真の自己の姿が立ち現れるのです。それこそが、まさに神の目からみた「わたし」の姿なのです。

 その神様の前に立ち現れた真の自己としての「わたし」と現実の自分自身の自我が自認する「わたし」との間には差異があります。自我とは、この世界の中で様々な経験をし、その経験を通して自分が自分自身の意識の中に思い描く自分の姿だからです。そしてこの世界で生きるわたしたちが経験することの中には、様々な試練や苦しみや悩みを経験があります。その経験の中で苦しみ、悩み、悲しみ、傷つき痛む「わたし」が、神様に向かい「わたしはある」という神様の名を叫び呼び求めるとき、その叫びはただ神様の名を呼ぶということに留まらず、ここに苦しみ、悩み、悲しみ、傷つき痛む「わたしがいる」という声にもなります。つまり「わたしはある」という名によって、痛みを通して神と人とが不可分に結びつくのです。そのような「わたしはある」という名前で神様は自らをエジプトで奴隷として苦しんできたイスラエルの民に現わしたのです。
 神様が「私はある」という名のものであるというとき、奴隷として苦しんでいたイスラエルの民を生かし、存在させているのは私(神)であるという宣言でもあります。それは、「私はあなたを大切に思っているよ。だから私は、あなたを生かし存在させているのだ」という神様の前言でもあり「私は、いつでもあなたと共にいる(エヒィエー)よ」という神様の語り掛けでもあるので。。

 これらのことを思うとき、神様が自らの名を「わたしはある」として名乗られたことは、実に深みがあることだと言えます。そして、神様は、私たちに「私はある/いる」という神様の名を呼び

2024年1月8日月曜日

アイム・オッケー

 「アイム オッケー」

 旧約聖書イザヤ書43章1節、2節にこういう言葉があります。

「恐れるな。私はあなたを贖ったのだ。あなたは私の名を呼んだ。あなたはわたしのもの。あなたが、水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中をあるいても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」

 この聖書の言葉は、「恐れるな」と語りかけていますが、それは、「大丈夫だよ。心配しなくてもいいよ。」という神様からの語りかけの言葉です。
 私たちの人生には、様々な試練や試みと言ったことが起こります。どんなに順調で、人から順風満帆だと思われるように人生にだって、苦しみ悩むことは、何度かあるように思うのですが、どうでしょうか。まさしく、人生に、川の中を過ぎるときや、火の中を歩くような時があるんですよね。そんなときにも、神は、「大丈夫。心配しなくてもいいよ。」とそう語りかけてくださっているのです。
 私が、会社勤めをしているときの事です。仕事で問題を抱え込んで、悩んだり落ち込んだりしているときに、よく先輩が「大丈夫、命まで取られることはないから」と声をかけてくれました。そう言われると、少しだけ気が楽になる感じがしました。けれども、神が「大丈夫」は、「命まで取られることはないから大丈夫だ」と言うことではありません。「私が、あなたと共にいて挙げるから大丈夫だよ」とそういわれるのです。

 人生には、本当に本当に苦しいことや悩ましいこと、あるいは心配事を抱え込んで過ごすときがあります。私もそういう時を何度も過ぎしてきました。ある時は、母の死から始まって、娘たちの受験や、教会の様々な問題と、本当にいろんな事があった一年素図五しました。その時は心配なことや不安なこと、あるいは頭を悩ませることが一杯あって、正直なところ、心身共に疲れ切ってしまっていました。その時だけではありません、そういうことが何度もあったのです。
 そんなときにはね、静かに部屋にこもって、心を静めて祈るなんて事はできません。そんな時は、「ただ神に向って、『どうしてですか』と問いかけ、心の不満を神に語りかけるしかできなかったのです。しかし、ある意味それは、神に向かってなされる呻きような祈りであったということができます。
 試練の中で、神に不満をぶちまけ、「なぜこんなことの成っているのか」とつぶやく声ですら、神は耳を傾けて聴いてくださっているのです。そのことに気づいてから、私は、よくお風呂で、「神よ、どうしてですか。」と、自分の不満を神に語りかけていました。ひどいときには、祈りの言葉さえ出てこなくて、ふてくされて過ごすことさえありました。でも、それはそれで、私の神への意思表示だったのです。
 けれども、そんな私に、神はいつも寄り添ってくださっていました。そして、心の中に、「大丈夫」だと語りかけてくださっていたのです。もちろんそれは、言葉としてではありません。けれども確かに、神は私と共にいて、私を慰め、励ましてくださっていたのです。だからこそ、様々な試練やいろいろあった事を乗り越えてこられたのだろうと思います。
 この神が、私と共にいてくださるならば、これからもきっと、いろいろと思い悩み、落ち込むことがあっても、きっと「I’m OK、私は大丈夫」だと思える時がくるのだろうと思います。そして、あなたもこの神を信じ心に受け入れるならば「You are Ok、あなたも大丈夫」だと思えるようになると思うのです。

2024年1月4日木曜日

神様は決して監視しない

 



 夫婦がクリスチャンである家庭をクリスチャンホームというような呼び方をします。そのような家庭に生まれてきた子供は、自然とキリスト教的な環境で育ちますが、そのクリスチャンホームに生まれ育った子どもたちに中の比較的多くの子供が、とても嫌だっだということがあります。それは、親が「神様は隠れたところもみているからね」と言われることだったと言います。
 この「神様は隠れたところも見ているからね」という言葉は、新約聖書マタイによる福音書6章の5節6節に書かれて入り言葉に基づいているのだろうと思います。その言葉は次のようなものにです。

 また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。

 親としては、「神様は私たちが隠れてこそこそとしている悪いこともお見通しなのだから、人が見ていないからと言って悪いことなんかしてはダメだよ」という教育的な意味で言っているのでしょうが、言われた側は、神様から何もかも監視されていて、見ていないところでした悪いことをしたら罰せられる」という感じがして、嫌だったというのです。私は、そのような話を聞いていて、なるほどなあと思いながら、ここには、今までのキリスト教(特にプロテスタントやカトリック)の悪い面、誤った面がいくつか出ているなと思いました。
 一つ目は、今までキリリスト教は、人間に関して、人間の罪を強調し、罪と神の裁きとを結びつけそれを裁きを強調してきという過ちです。神様は人間の悪い所を見つけて裁き罰する怖い存在のようなイメージを与えてきたといえるでしょう。これは、決して正しい神理解ではないということです。神様は確かに、人間の過ちを正し、正しい歩みをすることができるようにと導かれるお方です。そのために人を戒めるようなこともありますがが、しかし裁き罰するようなお方ではありません。むしろ神様は、どこまでも人間を愛し、慈しまれるお方なのです。
 二つ目は、罪と悪とを同じものとして扱ってきたということです。罪が悪を産み出すというような構造があり、それゆえに罪と悪とは非常に結びつきやすい性質があります。しかし、厳密な意味において、罪とは神から離れ、神を意識することなく、神に背を向けて生きていくことであり、それは、私たちの良心の声に耳を傾けない人間の傾向性といった性質の問題であり、悪とは具体的に行う人間の行動の結果だからです。つまり、悪とは倫理的事柄に反する行為であると言えます。
 神様は、そのような罪と悪とを同じように扱い、人間は罪びとであるという否定的な人間観をもって人間を見、語る時に、まるでその罪しか犯さないような罪と裁きとをちらつかせながら、人間を監視しているようお方ではないですし、先ほど挙げた聖書の言葉は、決してそのような意味で語られたものではありません。むしろ、先ほどの聖書の言葉をよく読むと、神様はむしろ逆のお方であることがわかります。

 先の聖書の言葉は、「あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう」と言っています。それは、祈りという信仰的行為は、人に見せるものではなく、信仰という信じる心は、神に知っていただくものなのだということです。信仰は、決して人に見せびらかし誇るものではありません。先の聖書の言葉はそのことを戒める言葉です。
 さらに少し読み込むならば、祈りというのは、人に見られたくないこと、隠しておきたいことを神様に祈るということでもあります。人にはどうしようもない、人では解決できない問題を神様に祈るのです。人に頼って解決できる問題なら、人に頼ればよいのです。でも人に頼っても解決しないからこそ、神に祈り神により頼む。だから祈るという行為がそこに起こってくるのです。
 人に頼っても解決できない問題というのは、隠れたところにあります。それは「わたしたち」人間の、深い心の奥という隠れた部屋にあるものです。そこには、誰にも話せない心の痛みや悲しみがあります。そして、その心の奥底にある痛みや悲しみで「わたしたち」は悩み苦しむのです。その誰にも話せない、また話したくない悩みや苦しみを神様は知ってくださっている。その心の奥底にある痛みや悲しみの苦しむ「わたしたち」姿を知ってくださっているのです。
 神様は、「わたしたち」が隠れてこそこそと割ることをしないかと監視するようなお方ではありません。むしろ、深く傷つき、痛み、苦しみ私たちを知って下さり、手を差し伸べておられるお方なのです。

2024年1月3日水曜日

いつもあなたとともにいる

 元旦早々、大きな地震があり、被災された方のことを思うと心痛む思いで一日を過ごしたのですが、その翌日には羽田で大きな飛行機事故があり、大変な一年の始まりとなりました。令和6年能登半島地震の被災者の方も、一夜を大変不安で心細い思い出過ごされたでしょうし、羽田の飛行機事故で自己にあったJALの飛行機に乗っておられた乗客の方とその家族の方々や、海上保安庁で不幸にも亡くなられた乗員の方のご家族は、どんなに不安で心配であっただろうかと思います。その思いというのは、「わたしたち」には、とても想像しきれないものであろうと思います。

 ですから、私の経験など、それらの方々が経験したものと比べると、とても小さな取るに足りないものだろうと思いますが、被災された方の気持ちや事故にあわれた方々やそのご家族の方の思いに思いをはせているときに、私の幼い日のことを思い出していました。それは小学生の頃の話ですが、そのことに触れる前に、新約聖書マタイの福音書二十八章二十節にある言葉に目を身けたいと思います。それは、次のような言葉です。

「みよ、わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

 これは、キリストが、いつでも私たちと一緒にいてくれるという約束です。キリストは、私たちの目で見ることはできませんが、いつも私たちの側にいて、私たちを見守って下さっているというのです。
 私が子どもの頃は、決して豊かではなく、父は遠くに働きに行き、妹達は祖母の所に預けられいました。ですから、家には私と母の二人しかいませんでした。その母も仕事で帰ってくるのは夜中。そんなわけで、私は、一人で夕食をし、一人で夜を過ごし、自分で布団を引いて寝ると言った生活でした。
 夜を一人で過ごすというのは、子どもにとっては寂しいものです。寝るときなんか、恐くて心細くて、電気を消すことができなくて電気をつけたままで寝るってこともありました。時には、電気をつけていても恐くて、テレビもつけっぱなしにして頭から布団をかぶって、寝ようとしたこともありました。
 やがて、父が小さな店でした自分でちょっとした小料理の店を開き、商売をはじめて、家族みんなで暮すようになりました。私は、そのとき、誰かがいつも側にいるってことは、本当に有り難いことだなって、心からそう思いました。
 今、私は、当時の自分のことを思い返しながら、「ああ、あのとき、『いつもあなたと一緒にいます』というキリストのことを知っていたら、あんなに寂しくて、恐い気持ちにはならなかっただろうな」ってそう思います。そう思うと、タイムマシンで、当時の私のところにいって、キリストのことを伝えてあげたい衝動に駆られます。「大丈夫だよ、キリストが君と一緒にいてくれるんだ。だから寂しくないし、怖がらなくていいんだよ」って教えてあげたい、そんな気持ちになるのです。
 今、子供の頃の私と同じように、独りぼっちの寂しさを感じている人はいませんか。孤独の中で、言いようのない恐れを感じている人はいないでしょうか。それのような、寂しさや、孤独感は、単に、物理的に独りぼっちだということだけに限りません。多くの人に囲まれていても、誰も助けてくれない孤独感や、誰も理解してくれない寂しさを感じることだってあります。そんな、孤独感や寂しさの中にある人の側に、キリストはいつも一緒にいてくれるのです。
 ですから、もし、あなたが寂しさを感じ、孤独を感じているならば、どうか心にキリストを信じ受け入れて下さい。キリストは、いつもあなたと共にいると言って下さっているのです。また、今は、そんな寂しさや孤独感を感じていない人も、将来、もしそう言ったことを心に感じるときがあったら、その時はどうか、あなたと共にいるというキリストのことを思い出して欲しいのです。
この悲しみや苦しみ、そして孤独感の中にいる人と共におられる神様、共におられる御子イエス・キリスト様について、この記事に類するなう内容を、私の友人の岩本遠億牧師が、「キリストのあって喪中なし」という短い説教を語っています。その岩本牧師の説教は、以下のアドレスをクリックし新しく開かれた『366日元気の出る聖書の言葉』にホームページにある「キリストのあって喪中なし」のタイトルのところにある▶マークをクリック指摘だれ場聴くことができます。岩本牧師の許可を得てリンクを張りますので、下のアドレスをクリックして、この記事の内容と合わせてお聴きください。

https://podcasters.spotify.com/pod/genki-seisho/episodes/ep-e2dsvhg

2024年1月2日火曜日

揺らぐことのない土台

「新年明けましておめでとうございます」の挨拶を交わしたばかりなのに、大きな地震が私たちの国を襲いました。被災地の方々の不安や恐れ、そして悲しみを思うと、本当に胸が痛みます。そして北陸の寒い気候の中で、どのようにして一夜を過ごされたのだろうかと心配です。食料や水は足りているのだろうか、暖をが取れているのだろうか、救援や救助が一刻も早くなされるように祈って止みません。

 私たちの国は、自信が頻繁に起こりますので、ある程度、地が揺れ動くということに慣れていますが、それでも阪神・淡路大地震や中越大地震、東日本大震災、そして今回の能登半島地震といった大きな地震に直面しますと、さすがに同様してしまいます。ですから、あまり地震を経験したことのない国の人々にとって大地が揺れるということは、とても大きな恐怖をもたらすようです。
 実際、昔、アメリカから来られたの方々と会議をしているときに地震が起こった際、私の体感では震度1か2の小さな揺れででしたが、彼らの驚き用と怯えようはびっくりするほどでした。彼らにとって大地とは決して揺らぐことのないしっかりとした基盤であったようです。その揺らぐことのないものが揺れるということに不安を感じ、怖れを感じてしまったようなのです。
 私たちは、どことなく、当たり前のようにして今ある生活が、毎日当たり前のように訪れるように思っています。しかし、変わらないものなどなく、絶対に揺るぎのない土台など、私たちを取り巻く世界の中にはないのです。
 聖書の中に、イエス・キリスト様がお話になった砂の上に家を建てた人と、岩の上に家を建てた人のたとえ話があります。砂の上に家を建てた人は土台がしっかりしていませんので、雨が降り、川があふれ、強風が来るとすぐに倒れてしまいます。しかし岩の上に家を建てた人は、そのような災害が来ても大丈夫だというのです。
 これはたとえ話ですので、このたとえ話を使って、イエス・キリスト様は伝えたいメッセージがあったのです。それは、この世界にあるものにより頼んでいても、この世界のものに絶対的に信頼し、絶対的な信頼を寄せて寄り縋ることができる物などないのだ。しかし、神は絶対に変わらないお方であり、揺るぎのないお方だ。だから神の言葉に信頼し、絶対に変わらない神の約束を信じ、それに寄り縋って生きていくことの大切さを伝えるために、このたとえ話をなさったのです。
 この世界に絶対に安心だとよりすがることができないということは、今回の令和6年能登半島地震でも思い知らされる思いがします。元旦という、私たちが一年で最も幸多かれと願い求める日に、あのような大災害が起こるなどと誰が考えたでしょう。しかし、それが起こったのです。そのような何が起こってもおかしくない私たちの世界の中で、ただ神様と神の御子イエス・キリスト様のみが、揺るぎのない土台として、私たちの心を支え、私たちを導いてくださるのです。そして、決して変わらない神の約束を私たちに与えてくださっています。それは、やがて再び、イエス・キリスト様が私たちのもとに来られるとき、それこそ決して揺らぐことのない新天新地が作られ、世界が神の前に一新され、神の愛と恵みに満ちた世界が建設され、死んだ者も蘇り、不安や恐れや悲しみの涙もない世界において、神と共に生きることができるのだという約束です。
 その約束こそが、決して揺らぐことのない、私たちの存在の土台であり、私たちが、この移り行きゆる動かされているこの世界の中で生きていく土台であり、よりすがって生きていく土台なのです。