2024年3月30日土曜日

3月30日(土)復活祭前日の祈り「未だ属さない羊」

復活祭を前日になりました。

高津イムマヌエル教会の藤本満牧師が復活祭を待ち望むの祈りを公開してくださいましたので
相模原キリスト教会でも、その藤本牧師の祈りをシェアいたします。
この祈りの言葉に心を合わせ、イエス・キリスト様の十字架の死を想い過ごしましょう。

今日の聖句


 わたしにはまた、この囲いに属さない他の羊たちがいます。
それらも、わたしは導かなければなりません。
その羊たちはわたしの声に聞き従います。
そして一つの群れ、ひとり人の牧者になるのです」(ヨハネ10:16)

羊の大牧者であるイエスさま。
あなたは私の羊飼いであるだけでなく、
紛争地の教会も、被災地の教会も、
まだ教会としてかたちをつくっていない群れの牧者でもいらっしゃいます。
やがて、それらの諸教会が一つの群れとなるためには、
あなたが導いているとおっしゃいました。
私たちは4月に入れば、新年度です。
小さなチェレンジかもしれませんが、乗り越えて行きます。
どうか羊飼いなる主よ。
この世界の労苦あるひとびとだけでなく、小さな格闘をも助けてくださる主よ、
私たちに復活の力をください。

2024年3月29日金曜日

3月29日(金)受苦日の祈り「わたしは知っている」

受苦日です。

主イエス・キリスト様が十字架に架けられ死なれたことを覚える日です。
高津イムマヌエル教会の藤本満牧師が、その受苦日の祈りを公開してくださいましたので
わたしたち小金井福音キリスト教会でも、その藤本牧師の祈りをシェアいたします。
この祈りの言葉に心を合わせ、イエス・キリスト様の十字架の死を想い過ごしましょう。

今日の聖句

「わたしは良い牧者です。わたしはわたしの者を知っており、わたしのものはわたしを知っています。(ヨハネ10:14)

イエスさま、わたしはもちろんあなたを知っています。
そのぶん、あなたもわたしを知っていてください。
でも、その程度のことで留まりたくないのです。
今日は聖十字架の金曜日です。私の心の隅から隅まで知ってください。
偽善者である自分、人を妬む自分、身勝手な自分、正当化する自分、
もしそれがあなたに知られているのなら、
そんな罪もあなたの恵みの御手の中です。
私にはあなたを深く知る方法が今ひとつわかりません。
ですから、ふと瞬間に御言葉を読んだり、
讃美歌を聴いたり、あなたの名を呼ぶ機会を一日の中で無数にあたえてださい。
そうすることで、あなたの御そばに私をおいてください。

2024年3月28日木曜日

3月28日(木)受難週の祈り4「いのちを捨てます」

 受難週になりました。

高津イムマヌエル教会の藤本満牧師が受難週の祈りを公開してくださいましたので
わたしたち小金井福音キリスト教会でも、その藤本牧師の祈りをシェアいたします。
この祈りの言葉に心を合わせ、イエス・キリスト様の十字架の死を想い過ごしましょう。

今日の聖句

「わたしは良い牧師です。良い牧師は羊たちのためにいのちを捨てます」
                        (ヨハネ10:11)

いったいだれがわたしのために命を捨てるほど、
大事に思っていてくださるのでしょう。
いったいだれがそれほどまでに愛してくださるのでしょう。
「わたし以外にいない。わたしはあなたのためにいのちをすてた」
イエスさま、この偉大な真理が、あなたがいのちをかけたものであったにもかかわらず、
しばしばわたしを通り過ぎていきます。
「あなたのためにいのちを捨てた」とおっしゃる、
その愛の大きさにきちんと応えていないと申し訳なく思います。
それでも主よ、
こんなに小さな存在であるわたしのことを真実に思ってくださっている偉大な主がおられることを、
毎日忘れない者とさせてください。

2024年3月27日水曜日

3月27日(水)受難週の祈り3「私は門です」

受難週になりました。

高津イムマヌエル教会の藤本満牧師が受難週の祈りを公開してくださいましたので
わたしたち小金井福音キリスト教会でも、その藤本牧師の祈りをシェアいたします。
この祈りの言葉に心を合わせ、イエス・キリスト様の十字架の死を想い過ごしましょう。

今日の聖句

「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら救われ、また出たり入ったりして、牧草を見つけます」(ヨハネ10:9)

イエスさま、あなたの十字架と復活こそが、
いのちの門、神の国の門であって他に門はないことを、私は心に銘じてます。
知らないうちに他の門を探してみたり、
他に方法があるのではないかとうろついてみたり、
しかし、正規の門はあなたの十字架と復活だけです。
その大きな門が私の前にしっかりと立っているのに、
ついつい、地面を見、羊の柵を見ては、狭い牧場に失望したりします。
「安心をしてわたしという門を通って、活躍してきてご覧。
誠心誠意頑張ってきてご覧、
でも、ここに戻っておいで。するとさらに豊かな草を食べるこ
とができるから」 「もう一つ覚えておきなさい。
なにもこの場だけが牧草地ではない。
わたしを門とする牧草地はあなたのゆくところどこにでもある。
あなたが十字架と復活を慕い求めて、神のところに来るのなら、
どんな場所でも、そこが牧草地だ」。

2024年3月26日火曜日

3月26日(火)受難週の祈り2「声を知っている」

受難週になりました。

高津イムマヌエル教会の藤本満牧師が受難週の祈りを公開してくださいましたので
わたしたち小金井キリスト教会でも、その藤本牧師の祈りをシェアいたします。
この祈りの言葉に心を合わせ、イエス・キリスト様の十字架の死を想い過ごしましょう。

今日の聖句

「牧者は自分の羊たちを、それぞれの名を呼んで連れ出すます。…羊たちはついていきます。彼の声を知っているからです」(ヨハネ10・3~4)

私たちがあなたの名を知っている以前からあなたは、
私たちの名を一人ひとり知っておられ、
連れ出すおっしゃってくださいました。
羊飼いが羊を追い立てるのではなく、
追い込むのでもなく、名前を呼んで連れ出すと。
名前が呼ばれたら前に出るような従順さが私にあるのでしょうか。
主よ、どうかあなたに呼ばれたら、返事をしてついて行くことができますようにしてください。
また私たちが連れて行かれる環境がどのようなところでも、
それは羊飼いであるあなたが導いてくださること頃ですから、
いつでも、共におられることを覚えておくことができますようにしてください。
私は罪深い者です。
そんな私の名前を呼んで祝福に招いてくださることを感謝します。
どうか、あなたの愛の大きさを心に刻むことで、
あなたの愛に応える者とさせてください。
応える道を教えてください。応える力を与えてください。

2024年3月25日月曜日

受難週の祈り 3月25日

受難週になりました。

高津イムマヌエル教会の藤本満牧師が受難週の祈りを公開してくださいましたので
わたしたち小金井福音キリスト教会でも藤本牧師の祈りをシェアいたします。
この祈りの言葉に心を合わせ、イエス・キリスト様の十字架の死を想い過ごしましょう。

25(月)門から入る

「しかし、門から入るのは羊たちの牧者です」(ヨハネ10:1)

強盗は門からではなく他のところから侵入する
とあなたはおっしゃいました。門にはあなたが番を
してくださると安心して、他に気を配らないと、強
盗は脇か忍び寄るものですね。
牧場にいるつもりが、これまでにも強盗にさらわ
れたような気がします。不注意の故でした。
あなたに守っていただくたけでなく、自分にしの
びよる怪しき陰にも気を付けることができますよ
うに、私たちに見分ける力を与えてください。まど
ろみから醒めさせ、サタンの巧妙な罠、また易につ
まらないものに捕らわれてしまうわたしの愚かさ
を教えてください。
間違っても、雇い人の羊飼いや強盗を、あなたと
見間違うことがないようにしっかりとあなたの御
顔を見せてください。

2024年3月24日日曜日

24年3月第四主日(棕櫚の日曜日/受難週)礼拝「完成された使命」

 

243月第四主日(棕櫚の日曜日/受難週)礼拝「完成された使命」   2024.3.24

旧約書:出エジプト記の24章1節から11
福音書:ルカによる福音書2344節から49
使徒書:ヘブル人への手紙923節から28 

今日は、教会暦でいうならば棕櫚に日曜日になります。棕櫚の日曜日は、イエス・キリスト様が、棕櫚の葉が敷き詰められた道を子ロバにのって、エルサレムに登って行かれたというエルサレム入城と呼ばれる出来事を記念する日です

 ですから、本来ですと、そのエルサレム入城の記事から説教をするところですが、私たちは、今、毎週の礼拝でヨハネによる福音書を最初から順序に従って読み、説教の言葉に耳を傾けています。その関係で、2月の後半の礼拝で、このエルサレム入城の出来事から説教がなされました。
 ですので、今日は、からイエス・キリスト様の受難の物語が記された記事から説教をしたいと思います。棕櫚の日曜日から受難週に入るからです。ですので、329日のイエス・キリスト様が十字架にかけられた日である聖金曜日を思いつつ、ルカによる福音書2344節から49節を通して神の言葉をお取次ぎしたいと思います。

この箇所は、イエス・キリスト様が、十字架刑に架けられ亡くなられた場面を描いた箇所です。そこにおいて、このルカによる福音書の著者は、イエス・キリスト様が十字架に磔になったのは、昼の12時頃であり、その時に全地が暗くなり、3時に及んだと述べています。この記述が、イエス・キリスト様を太陽に見立てて、その死を比喩的に表現したのか、あるいは、実際にそのような現象が起こったのかは、定かではありません。 

仮に、実際の自然現象として昼の12時ごろから、3時ごろまで暗くなったというと、ちょうどその時に皆既日食でもあったのかと思いたくなりますが、ユダヤ人の過ぎ越しの祭りは太陰暦、つまり月の満ち欠けによってきまりますので、過ぎ越しの祭りの時に起こったイエス・キリスト様が十字架に架けられた時に、タイミングよく日食が起こったということは、考えられません

もしかしたならば、厚い雲に覆われてしまって、真っ暗とは言えないまでも、相当暗く感じるような出来事があったのかもしれませんし、神さまがなされた奇跡の業として、「昼の12時ごろであったが、太陽は光を失い、全地は暗くなって、3時に及んだ」のかもしれません。
 しかし、確かなことは、この「昼の12時ごろであったが、太陽は光を失い、全地は暗くなって、3時に及んだ」という表現が、イエス・キリスト様の死を現す象徴的な表現で用いられているということです。
  イエス・キリスト様は「義の太陽」としてこの世界に来てくださったお方です。そのお方が今まさに十字架の上で死なれようとしている。そのことを表現「太陽は光を失い、全地は暗くなる」というこの言葉は、見事に視覚的に表していると言えます。 

みなさん、私たちは「太陽は光を失い、全地は暗くなる」といった表現を聞きますと、何か不吉な、悪いことが起こっているような感じを持ちます。ですから、この言葉から神の裁きと言ったことを想像するかもしれません。
 しかし、私は決してそのような事ではないと思っています。なぜならば、この「太陽は光を失い、全地は暗くなる」という言葉に引き続いて、「そして聖所の幕がまん中から裂けた」というからです。

この聖所の幕というのは、おそらく至聖書所といわれる神殿の中にあっても、特に神の臨在が顕される場所で大祭司が年に一度だけ、イスラエルの民を執成すために入ることができる聖なる場所と、聖所という、通常の時に祭司たちが祭儀を行う場所を隔てていた幕のことであろうと思われます。
 この幕は、文献によると20mもの大きさがあり厚さも10㎝もあったといわれますので、そうそう簡単に破れるものではありません。それが真っ二つに裂かれたのです。それが何を意味するのか。 

それについては、いくつかの解釈がありますが、この神殿の幕屋が裂けたということは、聖所と至聖所を隔てるものがその働きを終えたいうことでもあるということです。それは旧約聖書の律法に定められているの祭儀、まさに年に一度、犠牲の動物の血をもって大祭司がその幕を通って至聖所に入り、民の執り成しと贖いのための祭儀をするという神殿祭儀が終わったというのです。

と言うのも、先ほどお読みしたヘブル人への手紙923節から28節において、特に25節において 

大祭司は、年ごとに、自分以外のものの血をたずさえて聖所にはいるが、キリストは、そのように、たびたびご自身をささげられるのではなかった。もしそうだとすれば、世の初めから、たびたび苦難を受けねばならなかったであろう。しかし事実、ご自身をいけにえとしてささげて罪を取り除くために、世の終りに、一度だけ現れたのである。 

と言われているように、イエス・キリスト様の十字架の死において、律法に定められている年の一度の贖罪の日に、大祭司によって行われていた犠牲の供え物を捧げる必要がなくなったからです。

そこにおいて、神を信じる者を神の民、神の子として回復する神の救いの御業が、イエス・キリスト様によって完全に成し遂げられたのです。だから、もはや犠牲を捧げるという必要はないと、ヘブル人への手紙を記した聖書記者は言うのです。 

それは、イエス・キリスト様の救い主としての使命が終わったということを意味します。神の御子であるイエス・キリスト様が、神であられるのに人となる、これを神学の言葉で言いますと受肉と言いますが、神の御子が人として生まれ、人として生き、人として死んでいくという受肉によってなすべき業をすべてない終えられたのです。

その死の最後が、十字架の死であった。それは人として最後まで神に従順に従い抜いた姿なのです。

みなさん、私たちは、さきほど出エジプト記の24章1節から11節の言葉に耳を傾けましました。そこに記されている記事は、神さまがモーセに律法を付与し、イスラエルの民にその内容が知らされた後に、その律法が神様とイスラエルの民の間を結ぶ契約として結ばれたたときの出来事が記されています。 

神さまは、ご自身がイスラエルの民の神となり、イスラエルの民に祝福と恵みをもたらしてくださることとを約束してくださいました。それに対して、イスラエルの民は、「わたしたちは主が仰せられたことを皆、従順に行います」と言って、祝福と恵みを約束してくださる神さまに応答します。

こうして神の約束に対して、自分たちが負う神への約束をもって、神とイスラエルの民との間に契約が結ばれるのです。そしてその契約の徴として燔祭と酬恩祭のために捧げられた犠牲の動物の血を、モーセは「見よ、これは主がこれらのすべての言葉に基いて、あなたがたと結ばれる契約の血である」といって、民に注ぎかけるのです。

 みなさん、イスラエルの民は、「わたしたちは主が仰せられたことを皆、従順に行います」と言って神様に約束します。彼らは、その時、本気でそう思っていたのだと思いますし、私もそう信じたい。けれども、その後のイスラエルの民の歴史をみると、彼らが、「わたしたちは主が仰せられたことを皆、従順に行います」と言った言葉を、ちゃんと実行できているかというと、とてもそうとは思えない歴史を彼らは歩むのです。

 これは憶測にしかすぎません。ひょっとしたら神様も、彼らが自分が語った言葉を守れないだろうということは、最初から分かっていたかもしれません。私たち人間は、完全に何かをやりこなすことなどできない弱さや欠点を持っているからです。そのようなイスラエルの民を、いえ、イスラエルの民に代表されるところの人間すべてを神さまは信じ、神の民としてくださるというのです。

 みなさん、神さまは、イスラエルの民が神様を信じたから、イスラエルの民を信じたのではありません。まず、神さまがイスラエルの民を信じ、信頼して彼らと約束をしよう、神の子とする契約を結ぼうと言ってくださったのです。その神の信頼に応じて、イスラエルの民は、神を信じ神の民となったのです。

 信仰は、私たちが神を信じることから始まるのでありません。神が私たちのことを信じてくださったということから始まるのです。あとは、その神さまの信頼に私たちがどうこたえていくかが問われていると言えるでしょう。
 しかし、その私たちは、欠けの多い存在なのです。だからこそ、イエス・キリスト様という受肉した神が必要なのです。私たちが完全になることができないからこそ、十字架の死に至るまで、完全に神様に従い抜いた完全な人としてのイエス・キリスト様というお方が必要だったのです。

 そのお方の十字架の死によって、「わたしたちは主が仰せられたことを皆、従順に行います」という神の民の約束が、完全に成就したのです、イエス・キリスト様によって。だからこそ、イエス・キリスト様は「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と言って息を引きとられたのです。

 その様子を見ていた百人隊長が「神をあがめ、『ほんとうに、この人は正しい人であった』と言った」というのです。聖書には「その様子を見て」としか書かれていませんので、あたりが暗くなった様子なのか、神殿の幕がさせたことなのか、イエス・キリスト様が「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と言って息を引きとられた様子なのかは定かではありませんが、文脈からすれば、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と言って息を引きとられた様子であると考えるのが妥当だと思います。
 そしてその様子は、穏やかな平安に満ちたものであっただろう、私は思うのです。もちろん、十字架に磔られていますから、肉体的な苦痛はあったでしょう。しかし、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と言う言葉は、自分がこの地上でなすべきことはすべてやり終えたので、あとは父なる神様におゆだねしますという、平安に満ちた響きを感じるのです。

当時のエルサレムでは、それなりに噂となり、話題となっていたと思われますから、この百人隊長も、イエス・キリスト様のことについては知っていたでしょう。そのイエス・キリスト様の最後が、なすべき業を成し遂げ、神さまにすべてをゆだねる、平安に満ちたものであった、だからこそ、「神をあがめ、『ほんとうに、この人は正しい人であった』」と言いうのです。そこには、神の栄光が現れ出ています。

 みなさん、この神の栄光に、私たちも招かれています。そして、「神をあがめ、『ほんとうに、この人は正しい人であった』と言うイエス・キリスト様の平安に私たちを招かれているのです。

 私たちが、神を信じ、イエス・キリスト様を信じて、このお方と日等に結び付けられるならば、神の栄光と死に直面してもなお、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と言うことができる主イエス・キリスト様の平安に、わたしたちも生きることができるのです。
 そのことを覚えながら、十字架の上で「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と言って息を引きとられたイエス・キリスト様のお姿を想い廻らしたいと思います。静まりの時を持ちます。

2024年3月23日土曜日

和合する生き方

 昔、14世紀の枢機卿にニコラス・クザーヌスという人がいました。このクザーヌスはさまざまな礼拝の形式が違う諸宗教が礼拝形式を持ち、それぞれがそれぞれの神認識を持ち、神礼拝を行っていても、それが一つになることができると、かなり強い確信をもって考えていたようです。それは、様々な複数のものが存在するのは、その前提に一つという存在があるからです。複数は一つから成り立つ、一つがなければ複数は成り立たないのです。だから、複数の様々な宗教があっても、それらの諸宗教は一つに向かうことができるはずだとクザーヌスは言うのです。

 この世界は神によって創造されたものです。そして私たち人間も神の創造の業なのです。ですから、一つの神から創造された私たち人類が、一つに向かって歩めないわけがない。ではどうやって一つになることができるのでしょうか。それは、神の御子でありイエス・キリスト様のご生涯を見つめ、この御方に倣って生きることです。この方に倣って生きるとき私たちは一つになれるのです。

 そこで、私たちが目指すべき主イエス・キリスト様の生き様でありますが、そのイエス・キリストのご生涯が描かれているのが福音書です。その福音書の中で、イエス・キリスト様がどのようにしてこの地上での公生涯を過ごされたのかということが、もっとも短い端的に集約して記されている箇所が、先ほどお読みいただいたマルコによる福音書の10章45節です。そこにはこう書かれている。「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。

 みなさん。イエス・キリスト様は、人から仕えられるためではなく、人に仕えるためにこの世にお生まれになってくださったのだというのです。人に仕える、それは奉仕するということです。しかも「多くの人の贖いとしてして、自分の命を与えるため」であったとも言われる。これは、イエス・キリスト様の十字架の死を指しているということは、間違いがないでしょう。そしてそれは、私たちを救い、私たちに永遠の命を与えるための、イエス・キリスト様の私たちに対する最大の奉仕の業なのです。そうやってイエス・キリスト様は、多くの人に、そして私たちに仕える者となってくださったのです。

 そのような、イエス・キリスト様の生き様が土台としてあって、その上で、イエス・キリスト様は、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない」と言われるのです。

 このイエス・キリスト様の言葉の背景には、イエス・キリスト様の弟子であるゼベタイの子ヤコブとヨハネが、イエス・キリスト様に」あなたが「この世」の王となって「栄光をお受けになるとき、ひとりをあなたの右に、ひとりを左にすわるようにしてください」と願い出たということがあります。
 イエス・キリスト様が生きていた時代のイスラエルの民の民族的な願いは、イスラエルの王国が再興されるということです。ですから、ヤコブとヨハネが「栄光をおうけになるとき」というとき、それはイエス・キリスト様がイスラエルの民の民族的な願いであるイスラエルの民の王国が再興され、イエス・キリスト様が、その再興された王国の王となられるときということです。そして、その王となられたとき、私たちをその王の右と左に座らせ、その国を支配する権力者の中に加えて欲しいと願っているのです。
 

 それは、きわめて個人的な、自分のための願いです。考えてみれば、イスラエルの民の民族的な願いである、イスラエルの王国の再興という民訴苦的願いも、イスラエルの民一人一人が、その再興された国の民として生きるという自分のため願いが束ね合わされたものです。
 そのように、自分のための願いを語るヤコブとヨハネの言葉に対して、イエス・キリスト様は、彼らの願いとは全く逆のことを言われる。それは、「仕えられるものになるのではなく、仕える者になるのだ」ということです。言葉を変えて言うならば、「自分のために生きる者になるのではなく、他者のために生きる者となるのだ」ということです。

 確かに、イエス・キリスト様は神の王国の王となられ、神の国を納めるお方です。しかし、その神の国の民は、自分のため生きるのではなく、他者のために生きるのです。なぜならば、王であるイエス・キリスト様ご自身が、ご自分の命を与えるほどに、人々のために仕え、奉仕をなさるお方だからです。

 このイエス・キリスト様の奉仕の業は、具体的にはマタイによる福音書4章23節にある「イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国は福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった」ということに現れていると言えるでしょう。

 ここの三つのことがある。ひとつは教えるということ、二つ目は御国の福音を伝えるということ、三つめは癒しをなさるということです。そして、この三つは、新約聖書にあるエペソ人への手紙の記述と対応しています。エペソ人への手紙4章においては、教会をたて上げるためには、使徒や預言者、そして伝道者という福音を宣べ伝える働きをする人と、牧師や教師といった教えを伝える人と、聖徒と呼ばれるキリストを信じる信徒一人一人の奉仕という三つの業が挙げられています。

 ここでは、イエス・キリスト様のなされた三つの業の内、癒しの業が奉仕の業に置き換えられている。それは癒しという業は単に病を癒すということではなく、回復する、修復するということを含むものだからです。つまり、肉体の癒しだけではなく、壊れてしまった神と人との関係、人と人との関係を回復するものなのです。そのような関係の回復をするためには奉仕の業によらなければならない。

 ただ自分のために、ただ自分の願いを実現することを求めていたならば、関係は壊れることはあっても回復することはありません。相手のことを思い、相手のために生きるとき、はじめて関係が回復していく。だから奉仕は癒しの業なのです。教会が、教会の中で相手のことを思い互いに仕えあって生きて行くならば、教会は癒しの場になっていくのです。

 みなさん、残念なことですが現実の教会は多くの教派に分かれてしまっています。それは、それぞれの教会が語る教えと福音理解の中に微妙な違いがあるからです。そしてその違いがそれぞれの教派・教会の伝統を生み出している。もちろん、大同小異で、そのような違いがあっても私たちはキリスト者として互いを受け入れることができますし、そのような違いがあるからこそ、良い広く福音が伝えら得ていくという良い面もあります。

 ですから、か鳴らす死もそのような違いを否定的に捉える必要はない。そして、教派の違いや教会の違いを積極的に受け止めて行って良いうのです。しかしそれでもなお、そのような違いを持ちつつも、それぞれの教会が「教会の一致」を生み出していくとするならば、それは、互いに仕えあい、教会の中で、また「この世」に向かってなされる奉仕の業によってなのです。

 みなさん、詩篇133篇には「見よ、兄弟が和合して共におるのはいかに麗しく楽しいことであろう」という言葉があります。この詩篇133篇は、都のぼりの歌という範疇に収められている歌ですが、イスラエルの民が、祭りの際にエルサレムを目指して一緒に旅する時に歌われた歌だと言われます。

 当時の旅は、今とは違って決して楽なものではなく、様々な危険が伴うものでした。そのような旅を、ともに道行き旅する者たちが、互いに支え合い助け合いながらエルサレムを目指して旅して歩く中で「見よ、兄弟が和合して共におるのはいかに麗しく楽しいことであろう」と歌うのです。
 それだけではない。その歌は、「見よ、兄弟が和合して共におるのはいかに麗しく楽しいことであろう」と歌った後、「それはこうべに注がれた尊い油がひげに流れ、アロンのひげに流れ、その衣のえりにまで流れくだるようだ」と続きます。

 アロンとは、モーセの兄でイスラエルの民の中で最初に大祭司となった人物です。そのアロンの頭に油が注がれるというのは、まさにアロンが大祭司としての務めに任職された場面を表している。祭司の務めは、神と人との間のとりなしをすることであり、和解と回復の務めです。ですから、私たちが、互いの仕えあい、互いに相和合して生きるとき、そこには神と人とを執成すキリストの奉仕の業が表され、そのキリストの業を指し示す私たちの奉仕の業が表されて行くのです。

 みなさん、祈りは、個人的な願いを願う場でもありますが、それ以上に、私たちを取りまく世界やそこに住む人々のことを思い、その人々のために祈るとりなしの業であり、奉仕の業です。そして、私たちは一つになってその奉仕の場に私たち招かれ、呼び集められています。和合し、平和を産み出すために、私たちは召されているのです

2024年3月21日木曜日

神さまなぜ?

 

テサロニケの信徒への手紙一5章14-18節

14:きょうだいたち、あなたがたに勧めます。秩序を乱す者を戒めなさい。気落ちしている者を励ましなさい。弱い者を助けなさい。すべての人に対して寛大でありなさい。15:誰も、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。互いに、またすべての人に対して、いつも善を行うよう努めなさい。16:いつも喜んでいなさい。17:絶えず祈りなさい。18:どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて 神があなたがたに望んでおられることです。

ペトロの手紙一1章13-16節

13:それゆえ、あなたがたは心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。14:従順な子として、かつて無知であった頃のさまざまな欲望に従わず、15:あなたがたを召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のあらゆる面で聖なる者となりなさい。16:「聖なる者となりなさい。私が聖なる者だからである」と書いてあるからです。

 私たちは、「神様なぜですか」と問わざるを得ないような悲しい出来事や、辛く苦しいできごとに出会うことがあります。そして、誰もがそのような思いを経験することがあるのです。
 新約聖書の中にあるテサロニケの第一の手紙5章14節から18節やペテロ第一の手紙1章13節から16節をお読みしました。この二つの手紙は、書かれた時期も、手紙を書いた人も違っていますが、しかし共通することがあります。それは、この二つの手紙が書かれた背景には、最も原初の教会が経験した迫害という出来事があったということです。おおよそ2千年前、ユダヤ教からキリスト教が湧かれ出て、キリスト教会が産声を上げました。

教会は、その当時の地中海世界に、瞬く間に広がっていったのですが、同時にあちらこちらで迫害が起こって来た。神を信じ、イエス・キリスト様を救い主と信じ、その信仰に忠実に生きる者に、なぜこのような迫害という苦しみが訪れるのか。
 この「神様、なぜですか」という問いは、キリスト教界の歴史に刻み込まれた問いなのかもしれません。そのような歴史的な問いの中あるテサロニケの教会にパウロという人物から手紙が届いた。それが、テサロニケ人への第一の手紙だったのです。
 パウロは、その手紙の締めくくりの部分で、迫害の下にある人々に、「いつも喜び。絶えず祈り、すべてのことを感謝しなさい」と言います。迫害の苦しみの中で、喜ぶことなどできない。祈ろうにも先ほどの「なぜ、神を信じる者にこのような苦しみが訪れるのかという問いが湧き上がり祈ることなどできない。ましてや、感謝するなんてとんでもない。そんな状況の中にあるテサロニケの教会の人々にパウロは、それでもなお、「いつも喜び。絶えず祈り、すべてのことを感謝しなさい」というのです。

 いえ、「神様なぜですか」というような、魂の奥底から出てくるような問いをもたらす苦しみに対する答えは、いつも神を信じる者となったことを喜び、神の祈りつつ、小さなことでもいい感謝できること見つけ出して、感謝しながら生きて行く」ことこそが、その「神さまなぜ」という問いに対するパウロの答えだったのです。

 私たちの「神様なぜですか?」という問いに対して、新約聖書のローマ人への手紙8章28節には「神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」と言っています。 なるほど、「神はすべてのことをあい働かせて益としてくださる」ということが、たしかに、「いつも喜び。絶えず祈り、すべてのことを感謝しなさい」という生き方を生み出していくのかもしれない。いえ、確かにそうなのでしょう。

 私たちは、「神様なぜですか」と問わざるを得ないような悲しい出来事や、辛く苦しいできごとに出会う私たちの人生に、益をもたらしてくださる神を信じ生きることが、、「いつも喜び。絶えず祈り、すべてのことを感謝しなさい」という生き方をする者に、私たちを変えて行ってくださるのです。

2024年3月7日木曜日

言葉や口先ではない愛を


新約聖書のヨハネ第一の手紙3章18節に

子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか。

という言葉があります。この言葉は、愛すると言うことが主題です。しかも、「言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか」と言うのですから、具体的に愛すると言うことが形となって現れてくると言うことです。

 ある方のお宅を訪ねて時のことです。その方は、車いすでの生活を余儀なくされておりますが、ほとんど毎日、福祉ボランティアの方が身の回りのお手伝いをしてくださっています。
 私は、そのボランティアの方の働いている姿を見ながら、「言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛する」ということは、「ああこういうことなんだな」とそう思いつつ、その方のなさることを這う件しながら、私はそのように、お世話をしてあげる力の源は何だろうかと考えてみましたが、結局、その力は、私たちの内に在る愛から湧き出てくるのだとしか考えられないのです。相手の方を想い、相手の方の気持ちになって、その方が喜んでくれることをしようとする。それは、私たち人間の内に与えられた愛というものからしか出てこない思いであり、行動なのです。

 このお世話をしてくださっている方は、それこそ、言葉や口先で愛するのではなく、行いと真実をもって、愛すると言うことを実践しているのです。それは、私たち人間は、すべからく、心の中に愛というものが与えられているからです。聖書は、私たち人間は、神の像に造られたと言います。それはまさに、私たち人間が愛する者として造らいるということだと言ってもいいだろうと思います。
 なぜなら神の像というのは、互いに愛し合う心なのです。考えてみますと、聖書は愛すると言う主題が一貫してつらぬかれている書物だと言えます。例えばマルコによる福音書12章28節から34節では、イエス・キリストは、聖書が言っている内容を要約して言うと

「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」

となると言っています。

興味深いことですが、旧約聖書には、雅歌と呼ばれるものが含まれています。この雅歌は、男女の赤裸々な愛の告白が綴られている書物です。それはまさに、男と女が愛し合うような愛の関係の中に神の像が顕さてくるからです。その雅歌の2章16節には「わが愛する者はわたしのもの、わたしは彼のもの」と言う言葉が記されています。
 この「わが愛する者はわたしのもの、わたしは彼のもの」と言う言葉は、この言葉祖通りに受け止めるとするならば、互いが互いに与え合うところの麗しい愛し合う者の姿を現しています。つまり、愛とは、自分の持てる者を与える行為であると言うことです。時間を与え、労力を与え、自分の持てる者のすべてを相手に与える。そのような愛で愛し合う姿がそこにある。

 人間とは、そのような愛で愛し合うものだ。そのような愛で愛し合うものとして神が人間をお造りになって下さっている。だからこそ、先ほどお話しをした車いすの方をお世話くださっている方のお姿に、愛が顕れ出ていると感じるのです。それは、人間の本性に神が神の像として与えてくださった愛があるからです。
 しかし、同時に、神はイエス・キリスト様と言うお方のご生涯を通して、その私たち人間に与えられてるより深い可能性を私たちに見せてくださっている。そしてそれは、敵をも愛し、迫害する者のために祈る、そんな愛です。マタイによる福音書5章43せつ44節には次のようなイエス・キリスト様の言葉があります。

43:『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 44:しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。

 本来なら、敵は憎むべき相手です。そして迫害し危害を与える相手は、愛するどころか顔も見たくない存在です。呪うことはあったとしても、その人のために祈るということなど考えられないことです。けれども、イエス・キリスト様は、そのような敵や、迫害する者でも愛しなさいと言われる。そして言われるだけではない。それこそ、ご自分を十字架に架けて張り付けた人々に対して、「父よ彼らをおゆるし下さい。彼らは何をしているのかわからないでいるのです」といって、執成しの祈りをささげる。ルカによる福音書23章34節に記されている出来事です。
 そこには、まさに「言葉や口先で愛するのではなく、行いと真実とをもって愛そうではなうか」と言われる愛を生きるイエス・キリスト様のお姿がある。そのお姿を、弟子たちは後の時代の人に語り伝え、そして書き記していったのです。

 この聖書の言葉を書き記しているのは、イエス・キリスト様弟子であるヨハネです。ヨハネは、本当に行いと真実をもって敵を、そして迫害し、危害を加え、ご自分の命を奪おうとする者までをも愛されたイエス・キリスト様のお姿を、すぐそばで見ていた人です。そのヨハネが、彼の周りにいた人々に「子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか」と言うのです。
 このヨハネという人は、かつてはボアネルゲ、すなわち雷の子と言われるぐらい怒りやすい人でした。それこそイエス・キリスト様を受け入れない人たちを、天から火を呼び寄せて焼き払ってしまいましょう(ルカ9:54)なんてことを平気で言うような人でした。
 そのヨハネが、行いと真実をもって敵をも愛し抜かれたイエス・キリスト様のご生涯を、すぐそばで見ていく中で「愛の使徒」と呼ばれるように変わっていた。そして、こんどはヨハネ自身が、自分の弟子たちに「子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか」と教え諭すものとなっていったのです。

 伝説では、ヨハネはイエス・キリスト様を信じる者たちの集まりに顔を出した時に、最初に口を開く言葉は「兄弟たちよ、互いに愛し合いましょう」と言う言葉であったと言われます。それは、互いに愛し合うところに神の愛が顕われ出てくるからであり、イエス・キリスト様のお姿が顕われ出るからなのです。そして私たちも、ヨハネにように変わることができます。神を信じ、イエス・キリスト様の生き方に倣って生きるならば、わたしたちも愛の使徒になれるのです。

2024年3月6日水曜日

十字架の二人

ルカによる福音書23章32節から43節までは、キリストが十字架に架けられて時の出来事が書かれてありま

 キリストは、他に二人の犯罪者と一緒に三人で十字架に架けられましたが、その内の一人が、キリストに向ってののしりながら「あなたが救い主ならば、自分も十字架から降りてきて、私たちを救え」とそう言いました。それを聞いたもう一人は、その男をたしなめながらこう言うのです。「われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だが、この方は、何の悪いことをしなかったのだ。」そして、キリストにこう願うのです。「キリスト様、あなたが神の国の位お着きになるときには、私を思い出して下さい。」

 その言葉を聞いたキリストは、その男にこう約束しまた。「あなたは、今日、私とともにパラダイスにいるであろう」。パラダイスにいるということは、神から罪が赦され。神の国にいると言うことです。キリストは、「私を思い出して下さい」と言った男の願いを聞いて下さったのです。一人は、十字架刑の苦しみと激しい痛みの中で、そこから救い出してくれないキリストをののしり、もう一人は、同じ十字架の苦しみの中で、自分の犯した罪を悔い、キリストに憐れみを求めている。このふたりの罪人は本当に好対照です。

 この話を読みながら、私は自分だったらどうだろうかって考えてしまいました。あのキリストをののしった男のように、ののしることはないかも知れません。でも、きっと、今目の前にある苦しみから助けて欲しいって願うんじゃないかなって思いました。苦しみの中、悩みの中に置かれるとき、私たちは目の前の問題ばかりに目がいって、何とか問題を解決して、今の苦しみや悩みから逃れたいと思いますよね。

 けれども、今日の聖書の箇所は、目の前の苦しさを通して、自分自身を顧みて、イエス・キリスト様にすがり求めることの大切さを教えています。そして、キリストを自分の救い主として信じなければならないよ」と言うことを教えるのです。

 先日、一人のご婦人が訪ねてきました。話を聴きますと、最近、友人関係がうまくいかなくて困っているというのです。それで何か良い方法はないかというのです。それで、しばらくお話しをしていますと、しばらくは相手の不満を言ったり非難したりしていましたが、途中で、その方は自分の問題点に気づかれたようです。それで、その方と二人一緒に、その悪かったことを神にお詫びをし、その自分の問題点を赦して下さるようにお祈りしたのです。すると、その方は、少しホッとした表情になり、もう一度やり直してみますと言って帰っていきました。

 まだ問題は解決はしていませんが神に罪をお詫びし、赦して頂いたことで、心に平安と問題に向き合う力が与えられたんですね。あなたも、神を求め、神を信じ、神を心に受け入れるならば、神は必ずその人を救うって下さいます。そして、心に平安と、問題に向き合う力を与えて下さるのです。

2024年3月4日月曜日

「命の主権者」

 新約聖書ルカによる福音書12章13節以降にこんな話があります。


ある時一人の人が、キリストに相談を持ちかけました。その人は、兄弟が自分に、遺産を分けてくれないので、キリストに遺産相続の調停をしてもらおうと思っていたようです。
 キリストは、この人の相談を聞きながら、この人が、自分に遺産が入ってくれば、自分の将来は安心だと思っていることを見抜き、こんなことを言われたんです。「どんな貪欲にも注意しなさい。いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです」。」そして、こんな例え話をしました。

「ある金持ちが、豊作で何年分もの食料を、蔵一杯に蓄え、心の中で、こう言いました。『これから先何年分もの食料が、たくわえられたから、もう大丈夫。安心して暮していける。』 その時神がその金持ちに語りかけます。『愚かな人だ。あなたは自分のために、これからのために、何年分もの食料を用意したが、お前の命は今日、取り去られる。そうしたら、お前が蓄えた食べ物は誰のものになるのか』」

 この例え話は、将来のために蓄えをすることが愚かなことだと言っているのではありません。将来のために、計画的な準備をすることは決して悪いことではないのです。けれども、キリストは、それだけでは十分ではない、もっと大切なことがあるのだということを教えているのです。それは、神を信じ、神により頼みながら生きると言うことです。

 もともと、この話は、一人の人が自分に遺産が入ってくれば、自分の将来は安心だと思い、キリストに遺産相続の調停を願い求めたところから始まっています。きっと、彼が受け取ることの出来る財産は、膨大なものだったんでしょうね。もし私たちが、この人と同じように、膨大な遺産を受け取ることが出来るとしたら、私たちだって、きっと同じように思っただろうと思います。人間は、今も昔も、お金や財産が人の幸せや将来を決めてしまうかのように、思ってしまうものなんですね。

 でも、実際はどんなにお金を積んでも、明日の命が保証されるわけではありません。私たちの命の主権者、お金でもなく、私たち自身でもなく、ただ神さまだけなのです。だからこそ私たちは、神さまを信じ、自分の人生を、命の主権者である神さまに委ねていくことが大切なんですね。
 この命の主権者である神さまは、私たちを神の子とし、神の命である永遠の命を与えるためには、一人子であるイエス・キリスト様を、十字架で死なせました。それは、死そのものに打ち勝ち、死から甦らせるためです。そして、確かにイエス・キリスト様は、死から甦られたのです。そのために、イエス・キリスト様を十字架に死という苦難の中をあえて通らさせたのです。それほどまでに、神さまは、私たちを愛しておられます。だから、生きるにしても死ぬにしても、安心して私たち自身を委ねることが出来るのです。この神さまを信じ、あなたにも本当の平安を手に入れて欲しいと、そう思います。

2024年3月3日日曜日

 「愛のプレゼント」

新約聖書のヨハネの手紙第一4章10節にこういう言葉があります。

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物として御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」

 この言葉は、実に不思議な言葉です。普通ならば、私たちが神に喜ばれるような事をしたならば、それに応じて神が何か良く事をして下さるといったふうに考えるんじゃないでしょうかね。例えば、多くの浄罪を積めば、多くの祝福をいただけるといった具合です。

ところが、先程の聖書の言葉は、私たちが神に対して何もしていないのに、神のほうが私たちが罪と死に支配されているこの世界の中から掬いだし神の子なることができるようにと、イエス・キリスト様を十字架につけて死なせてくださったというのです。

私たちが、神を愛したから、神が私たちの罪を赦すためにキリストを十字架につけたというのならば、それは私たちの愛に対する神の報酬です。けれども、神は、私たちが何もしていないのに、私たちのためにキリストを十字架で死なせて下さっているのです。そうやって、私たちが罪と死の支配のもとで、過ちを犯し、私たちの心に醜さや汚れを掻き立てられるといった状況から救い出し、神の子として神と人を愛する者なるようと教え導いてくださるというのです。

 イエス・キリスト様の十字架の死と復活、それはもはや報酬ではありません。神が私たちを愛するがゆえに下さったプレゼントなのです。イエス・キリスト様は、あらかじめ、罪と死の支配からの解放というプレゼントを用意し、それを私たちの前に差し出してくださっているのです。それは、本当に神の心からの愛が込められたプレゼントです。

 でも、どんなに愛が込められたプレゼントであっても、それを受け取らなければ、プレゼントはプレゼントとしての意味をなしません。ただ感謝して受け取ってこそプレゼントなのです。ですから、あなたにも、この神が心からの愛を込めて送ってくれたプレゼントを受け取って欲しいのです。それは、具体的には、神を信じ、神が私たちの罪の身代わりとして十字架で死なせたキリストが、私の罪の救い主であるということを、心に受け入れ信じると言うことです。

 ただそれだけで、私たちは神から罪を赦され、神に受け入れられるのです。そして、どんなに人が、私たちの犯した罪や過ちを責めたとしても、神は決して私たちを責めることをなさらないのです。いま、この素晴らしいプレゼントがあなたの前に差し出されています。ですからぜひ、この神の愛のプレゼント受け取って頂きたいと思います。

2024年3月2日土曜日

そんなあなたでも

  新約聖書ルカによる福音書15章11節から32節にこんな話があります。

 「ある人に二人の息子がいましたが、その弟が、父親に「お父さん、私に財産の分け前を私に下さいと申し出ました。そこでお父さんは、財産を二人息子に分けてあげました。
 弟は、財産を分けてもらうと、荷物をまとめて、遠い国に旅立って、ぜいたくに遊び歩いて、財産の全てを使い果たしてしまいました。ところが間の悪いことに、財産を使い果たした後に、大飢饉がおこり、彼は食べるのにも困り果ててしまうようになりました。結局、彼は、社会の隅っこに追いやられ、社会の底辺で、家畜の食べる餌でお腹を満たしたいと思うほどまでになってしまいました。でも食べ物をくれる人などありません。貧しさと、人々の冷たい視線の中で、本当にみじめで悲しい思いで過ごしていたのです。

 ある時、自分のみじめな姿を見ながら、ふと我に帰ったとき「そうだ、お父さんのところに帰ろう」とそう思いました。けれどの、自分勝手に「財産を分けてくれ」と申し出て、飛び出してきた家です。帰ろうと思ってもそうそう簡単に帰れるはずはありません。けれども、彼はお父さんに心からお詫びして、「息子としてではなく、使用人の一人としてでもいいから、迎え入れてもらいたい」とそう思って、家に帰るのです。

 ところが、彼が家の近くまで来ると、お父さんの方が、彼を見つけて走り寄ってきました。どうやら、お父さんは、息子が遠い国で、お金に困りみじめな生活をしていたことを風の便りに聞いてたようです。それで、いつ帰ってくるかいつ帰って来るかと、待っていたようです。その息子がようやく帰ってきた。それで、お父さんは、本当に喜んで、息子に一番に衣服を着させ、人々を集め、最高の食事を用意して、祝宴を開いたのです。」

 この話は、キリストが語った例え話です。そして、この例え話は、神が私たちを愛する愛を教えてくれます。というもの、神は天地を作られたお方であり、私たち一人一人は、みんな神から命が与えられた、いわば神から生まれた神の子供だからです。
 今、社会の隅に追いやられ、悲しい思いをしている人はいないでしょうか。あるいは周囲の人々の冷たい視線の中で、みじめで悲しい思いをしている人いませんでしょうか。社会や周りがどんなに冷たくても、神はあなたを暖かく迎えてくれます。神はあなたの創造者だからです。ですから、ぜひあなたにも神を信じ、神のもとに帰っていただきたいのです。
 このあなたを暖かく迎え入れて下さる神と出会うために、教会を訪ねていただきたいと思います。

2024年3月1日金曜日

いのちの言葉を握って

 最初に聖書の言葉をお伝えします。新約聖書ピリピ人への手紙二章十五節、十六節の言葉です。


「あなたがたが、非難されることのない純心な者となり、曲がった邪悪な世代の中にあって、傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。」

 この言葉は、不正や曲がったことが横行している闇のような時代の中で、翻弄されることがあっても、神の言葉に聞き従って生きる人は、光輝く生涯を送ることが出来ることを教えています。そして、それは、その人自身だけではなく、世の中の人に希望を与えるような光を放つ、意味ある人生だというのです。

 先日、ある人が、このようなことを言っていました。その方は、奥さんや子供を抱えた働き盛りの時に、突然会社から解雇を言い渡されたそうです。余りのも突然に「明日から会社に来なくて良いよ」と言われて、呆然としてしまったと言います。そして、就職活動を始めたのですが、結局四ヶ月間、失業生活を送ったそうです。
 それまでは、毎日、会社で頑張って働いてきたのです。それが、突然何もすることが無くなったのです。当然のように、何もすることがなく、家にいる時間が多くなりました。それで、毎日、奥さんとゆっくりと時間を取って、祈り聖書を読むようになったそうです。

 けれども、聖書を読み、お祈りしていても、「神は、どうして、私から仕事を取り上げたのか」というつぶやきと、将来に対する不安で心が一杯になってしまいます。けれども、それでもお祈りをし、聖書を読む毎日が続けていく内に、その人の心に変化が生まれたそうです。それははじめは、「神様どうして仕事を取り上げていたのですかという」不満と、将来に対する不安や焦りで一杯だった心が、神様はこれからの私の人生にどんな計画を持って導いて下さるのだろうかという期待に代わっていったと言うのです。