2019年1月5日土曜日

「見なけりゃ信じない」

            「見なけりゃ信じられない。」

子供と話をしていて、どうも気になってしかたがない言葉があります。それは、あいづちなんですが、私が何か言うと、「ほんと!」「ウソー」「マジ!」って「あいづち」をいれる。

まぁ、あいづち自体は、話を聞いて入れてくれている証拠ですから、悪いことではないのですけが、いちいち、「ほんと」「ウソー」「マジ」とやられると、「人の話が信じられないんだったら、もう聞っかなくっていい」てな感じになってしまいます。古い人間なのかもしれませんが、まぁそんなわけで、何度か子供をしかりとばしたことがありました。それでも、直りません。
でも、世の中には、本当に信じられないような話は確かにあって、そう言う私自身が「ほんとかよー。」って言うことも、時々あります。

以前、「よみがえり」って映画がありました?日本映画で、死んだ人が生き返るって話。ホラーではなく、むしろ感動するような話。あれは映画だから、まあ作り話だと思ってみてられますが、実は本当にあった話だって言われたら、やっぱり「ウソー」って言いたくなります。

実は聖書の中には、キリストが死んだあと、3日目によみがえって弟子達と出会ったって話がでています。でも、そのときにたったひとり、トマスって言う弟子だけは、その場に居合わせなくて、後から他の弟子達から「おいおい、俺たちは生き返ったキリスト様と、さっきお会いしたんだ」って聞かされたんです。
それこそ、そんな話聞かされたって「ほんとかよー。そんなことあるわけないじゃん」って信じられないわけですよ。だからトマスは、「私は、生き返ったキリストの手と脇にあるはすずの、十字架に貼り付けられた時の傷跡に、さわってみないと信じられない。」って言うんです。いわば「本当だっていう証拠がなければしんじられるか」ってことなんでしょうね。そりゃそうだと思います。

ところが、そのトマスに、よみがえったキリストは姿を現し、「トマス。私の手にある十字架の傷跡にふれてごらんよって」そう言われたのです。よみがえったキリスト本人が目の前に現れちゃね、トマスだってどうしようもありません。
このときに、トマスは心から「我が主、我が神よ」と言っています。それはトマスにとって「心の底からキリストが神であり、自分の救い主であると信じられた一瞬だったのでしょう。
そのトマスに、キリストは「トマス、あなたは目で見て、自分の手で傷にさわって、確かめて初めて信じることができた。でも、見ないで信じることができるものはもっと幸いなのだよ。」とそう言われたのです。

残念ながら、私たちは十字架にかかられた前のキリストにも、十字架にかけられた後のキリストにも出会ったことがありません。ですから、キリストの声も顔も知らないのです。
そんな私たちの前に、「我こそはキリストなり」という人が現れても、本物かどうか確かめることなどできません。結局、キリストの復活は、見ないで信じるしかない出来事なんですね。
でもね、神様は良くしたもので、聖書という書物を、残して下さった。その聖書を読んでいくと、キリストというお方がだんだんとわかってくる。そして、あったこともないキリストというお方の存在が心の中に広がってきて、本当にあって話をし、声を聞いたようなそんな思いになってくることがあるんです。

トマスが、復活したキリストと出会い、「我が主我が神、」っていったのと同じような経験を、聖書を通してすることがあるんです。ですから、どうかあなたも、聖書をお読みになって頂きたいと思います。そして、聖書の中に表されているキリストと出会い、見ないで信じる人になってほしいと思うんですね。

2018年12月26日水曜日

嫌な気持ちをおもいだしちゃった。

 昨日、注文していた『学歴詐称』という本が届く。キリスト教関係の本でもなく、また学術書でもないので、一・二時間で読み終えられ、その内容も把握できたが、実に嫌な感情を思い出した。
 本の内容は、ある大学教授が、某団体Aがディグリーミル(正式な学位の認定ではない偽学位を販売している自称大学)の疑いあるという報告がなされていると言う記述をご自身のホームぺージで引用したところ、その問題があるとされた某団体Aからクレームがつけられ、暗に訴えるという言わば脅しのような行為を受けたと言うことで、そのことの顛末を記したものであった。
 実は、私がこの本を注文したのは、その大学学教授と某団体Aのごたごたの顛末を知りたかったわけではなく、各国で異なる学位認証制度と国家間相互でそれぞれ他の国の学位をどのように受容しているかと言った情報を期待して買ったのだが、届いてみるとその内容は期待したものとは異なっていた。それだけでも、わずかではあるが余分な出費となってしまった上に、嫌な思い出を思い出した分、ずいぶんと損をしてしまった気分になった。

 その思い出と言うのは、今はあまり見かけなくなったが、昔ネット上で、個人や団体が無料で借りられる掲示板(個人運用のSNSみたいなもので、FBが近いかな)なるものがあり、私もその掲示板を個人的なホームページで借りて運用し利用していた。そこには、運営に関して参加規定をもうけて、それを掲示し、それに沿って書き込んでもらうようにお願いしていたのだが、その規定の中に企業等団体の投稿はお断りする旨を定め、それはちゃんと明記していた。

 ところが、某団体Bが、知ってか知らずかわからないが、その利用規定を無視する形で投稿してきた。しかも、その団体はしかるべき某団体Cが、問題があるとの情報を発信していた団体であった。当然、規定に企業および団体の投稿は出来ないと言う利用規定をもうけ、それを提示していたのでその規則に基づいて削除したのだが、その際、削除理由と共に、某団体Bは問題があるということが言われている団体であるという旨も合わせて削除の報告をした。すると数日して、その問題があると言われている旨を消せ、削除しなければ訴えるとのメールが某団体Bから入ってきた。

 その時、私はその要請に応じるつもりは全くなかった。だが、家人や教会の方が、ややこしいことになり、牧師としての働きや伝道活動に支障をきたしてはいけないし、これから先も変な人間がほかに書き込んできてもいけないので、その部分を削除するだけでなく、掲示板自体を辞めてくれと言われ、しぶしぶ伝道の窓口になればと考えていた掲示板自体を削除することになった。

 伝道の窓口に開いた掲示板であり、それなりにいろんな人との交流ができていたものであったので、残念だったか家人や教会員の言葉に従った。後にも記すが、ネットの掲示板とは言え、私にとっては、無料とは言え自分が申し込んで借り、利用規定を定めて始めたものである。そしてその使用規規定に基づき、それによって管理・運営していたものである。そこに人の家に勝手に土足で上がり込んで来るかのようにして投稿してきたのである。しかも、問題があると言われていると書き込まれると、いきなり訴えると訴訟をちらつかせながらその書き込みを消せと言う。そんな連中である。そんな連中だから家人、とりわけ子供に危害がおよぶかもしれないという恐れが一瞬頭をよぎり、それを危惧した。そういうこともあって、掲示板を辞めることになったのだ。そのことを思い出した。

 そのやり取りの中で、某団体Bには、「あなたがたは、明記してある利用規定を無視して書き込んだではないか」と指摘したが、その件については、掲示板を開いていることは、それは公に開かれていることだから書き込みをするのは問題がない(つまり管理者が設けた利用規定など関係ないと言うことだろう)と、彼らの論理で謝罪の言葉もなく、削除しなければ法的対処をするの一点張りだった。

 私にしてみれば、今日のFBのような利用者を限定する設定もない時代なので、だからこそ利用規定を設け、それを明記し、その枠の中で運営していた言わば内輪のサークルに、その利用規定を無視し、勝手に土足で上がり込んできて、掲示板を設けていることは、公に開いているのだから誰でも、何でも書き込んでもいいのだという自分の論理を振り廻す。いわば「玄関が開いていたのだから入ってきて何が悪いか」と言っているようなものだ。そんな論理をもって、勝手に書き込んできたことには何の謝罪もしない団体である。家人に危害が及ぶのではと思ったのは、こんな理屈を振り回すからである。その態度を見て、到底そんな某団体Bを信頼出来ようはずはなく、なるほど、某団体Cの報告は信頼性があるなと思った次第である。

 ちなみに、その某団体Bが問題があると言われているという私の記述の元となった某所某団体Cに対し、某団体Bが訴えたという話は聞いていない。つまり、個人には、いきなり訴えるといってくるが、その私の情報源となった大きな組織体であり、私の知る限り公に某団体Bは問題があると公に述べている某団体Cに対しては、未だに訴えを起こしてはいないようであるし、そもそも訴えるぞとすら言っていない可能性もある。どうやら、バックボーンのない個人には訴えるといって脅すが、バックボーンのある組織体には訴えると言ったことは言わないようだ。

 もうずいぶん昔のことがだ、今回買い求めた本を読み、それに似たような内容が書かれており、当時のことを思い出し、実に嫌な気持ちがよみがえってきた。

2018年12月19日水曜日

ペテロの裏切り


              「ペテロの裏切り」
私には、何人かの、いわゆる恩師というべき人がいるんですよ。それらに方には、いや、本当にお世話になり可愛がってもらった。だから、その方々には「いわゆる足を向けて眠れない」ですよ。もちろん、私が、それらの先生方を裏切ったりしたら、その先生方は本当に悲しまれるでしょうし、一生赦してもらえなくても仕方がないような気がします。

ところが、キリストはご自分の可愛がっておられた12人の弟子、その中でも、一番弟子といわれるようなペテロという人から、ものの見事に裏切られてしまうのです。 
もうすぐ、ご自分が、エルサレムという町で、人々を救いのため命を投げ出すというその直前に、キリストはこのペテロに対して、「あなたは鶏がなく前に、わたしを三度知らないと言うだろう。」とそうおっしゃれました。

もちろん、ペテロは、このときにキリストを裏切るつもりなんかさらさないですから、「そんなことはありません。死ぬまであなたについて行きます」とそう大見得を切ります。ところが、その夜、キリストがとらえられ、すぐさま裁判がはじまりました。そのとき、このペテロは、こっそりとキリストのあとについて、裁判が行われているところまでいったんです。さすがに大見得を切っただけのことはありますね。

でもそこでね、見つかっちゃたんですよ。そして、「あなたは、今裁判にかけられているキリストの弟子でしょ」ってそう問いつめられたのです。

それは、大変なことですよ。自分がキリストの弟子だってわかったら、自分も捕まって裁判にかけられ殺されてしまうかもしれない。そんなわけで、ペテロは「いやいや、私はあんな人なんか知らない」って言ってしまった。

そんなことが三度続いたとき、朝を告げる鶏が威勢良く「コケコッコー」と、鳴いたのです。このときペテロは、キリストが「ペテロ、おまえは鶏が鳴く前に、三度私を知らないというよ」といわれた言葉を思い出した。

ふっと見ると、鶏の声を聞いたキリストが、振り返ってじっとペテロを見つめているではありませんか、ペテロはたまらなくなって、外に飛び出して、激しく鳴いたって聖書には書いてあります。

私は、このときのペテロの涙は、自分を可愛がり愛してくれたキリストに、「私は死ぬまであなたについて行きます。」と大見得を切ったのに、自分可愛さに、そのキリストを裏切って仕舞ったという後悔の涙じゃなかったかなってそう思います。
でも、反面、心のどこかで、自分の命までも危ない場面です。いくら大見得を切ったとはいえ「嘘も方便」じゃないって気がしないわけでもありません。

ですから、激しく鳴くほど、ペテロの心を突き上げきたものは、単に後悔の思いだけではないように思うんです。
というのはね。キリストは、ペテロに、「三度私を知らない」といわれるまえに、ペテロに対して「ペテロ、あなたはこれから、とても大きな試練に会い、うちひしがれるような出来事にあうけれども、私は、あなたの信仰がなくならないように祈ったから、立ち直ったら、他の仲間たちを励ましてやりなさい。」ってそういわれていたんです。

まさに、ペテロがキリストを裏切るような大失態を犯す前に、キリストは、そのようなペテロの弱さ、いえ人間の弱さを知って、私はお前を赦しているよとそうおっしゃっておられんですね。

振り返ってペテロを見つめられたキリストの瞳の中に、「ほら、ペテロ、お前は私知らないといっただろ。でも、私はお前のために祈り、そして赦しているよ。」という愛のまなざしをペテロは感じ取ったんじゃないのかと、そう思うんです。だからこみ上げて激しく鳴いた。 
この、キリストの愛のまなざしは、実はあなたにも注がれているのです。

2018年12月18日火曜日

ラグビーの話でラグビーの話ではない、事故の話で事故の話でない。聖書解釈の話でない聖書の話

ラグビーの話でラグビーの話ではない、事故の話で事故の話でない。聖書解釈の話でない聖書の話


 ラグビーにはコラプシングと言う反則があります。それは、故意にスクラムやモール(スクラムとモールの説明をすると長くなるので省略)を崩すと取られる反則で、相手にペナルティ・キックが与えられる重い反則です。この反則を繰り返すと、繰り返した選手は一時退場になったり、スクラムトライといって相手に得点が与えられたりします。なぜ、コラプシングには、このような罰則が科せられるのか。それは、スクラムやモールが崩れてしまうと、重大な怪我につながる危険性があるからです。
 先日、明治大学と早稲田大学のラグビーの試合がありましたが、このコラプシングの反則が、その勝敗を分けたと言われます。明治大学ののプロップ(ポジションの名前)の選手が、このスクラムを汲んでいる中でコラプシングを犯したと判断されたのです。レフリー(審判のこと)がコラプシングと判断する際、いくつかの目安となる行為があります。その中の一つにスクラム中に膝をつくというものがありします。試合の映像をみますと、たしかに、明治大学の選手が、ほんの一瞬ではあるが両ひざをついている。審判は、それを見逃さず読む見ていたのです。しかし、スクラムが崩れたわけで在りませんでした。
 これはスクラムで圧倒的に劣勢だった早稲田大学のプロップの選手が、体を低く当て、しかも自分の体が崩れないようにしながら、明治大学のプロップの選手にスクラムを崩させようとしているかなり技術的に高度プレーです。それで、明治大学の選手が一瞬膝をついてしまったのですが、彼は、スクラムを崩さず維持しようとして、すぐに持ち直し、結果としてスクラムが落ちる(崩れる)ことなく、スクラムを押し始めたのですが、それでも膝をついたと言うことでコラプシングの反則を取られることになりました。これで、動揺した明治大学の選手たちはここから崩れ始めました。その意味では、早稲田大学のプロップに選手の作戦勝ちであり、技術勝ちだと言えます。。
 私は、出身が明治大学でもあり、明治大学の熱狂的なファンの一人です。ですが、レフリーのジャッジが出た以上、この試合においては、それはそれで受け止めなければなりません。レフリーのジャッジはラグビーにおいては絶対だからです。しかし、今後のことを考えると、一考すべきジャッジであったことは間違いがありません。というのもともとコラプシングは、スクラムが崩れると危険なので、故意にスクラムを崩さないようにするために、重い罰則を科してまで、ルール上、やってはならない反則として定めてあるからです。
 今回のケースは、スクラムが弱い早稲田大学の選手が、その弱さをカバーするために、故意の相手にスクラムを崩させるようなスクラムの組み方をし、実際、明治大学の選手はスクラムを一瞬膝をつきコラプシングを取られたのですが、しかし彼は、壊さないように頑張って持ち直し、実際、スクラムは崩れなかったのです。この場合、コラプシングと言うルールの精神からすれば、コラプシングを取るべき事案であなかったと言えます。もし、仮にコラプシングの反則を適用するとするならば、適用する相手は、早稲田の選手に適用するほうが、ルールの精神には則ていたでしょう。しかし、レフリーは膝をついたという目安の方を優先したのです。
 同様のことが、ここ数日大きな話題となっていた先日の東名高速でおこった棄権運転致死罪を巡っての裁判でも争われました。この事件は、二人のドライバーの間で、ちょっとした言葉のやり取りのトラブルあり、その結果、一方がもう一方に対して高速道路であおり運転をし、最後には高速道路の追い越し車線で相手の車を停車させ、それがもとで追突事故が起こり、相手方に死者が出たという事件でした。この事案に値して、検察側は危険運転致死罪という重い求刑を求めました。
 この求刑に対して、被告・弁護側が争点にしようとしたのが、棄権運転致死傷罪の条文にある運転と言う言葉です。棄権運転致死傷罪は、運転中に危険な運転をしてる事に対する罪なのだから、車が停車している状態は運転ではない。この事故は、車が停止しているときに起こった自己だから危険運転ではないので無罪だというのが弁護側の主張です。これは、まさに棄権運転致死罪の条文の背後にある、法の精神や法哲学とは何かが問われる問題です。つまり、危険運転致死障在の条文をどのような精神で読み、理解し解釈するかが問われた裁判であると言えるでしょう。この裁判では、棄権運転致死罪が適用されたました。その意味では条文の文言そのものよりも、その法が定められた法の精神や、法哲学の方が重んじられたと言えます。

 じつは、この二つは、聖書を読むと言うことにも通じる事例です。聖書を読み、解釈する。そこには、聖書がいかなる精神で書かれているかが深く関わっているのです。それを無視して、字ずらの問題だけを追求するとすれば、あの明治大学と早稲田大学のコラプシングの判定や東名の危険運転致死罪の求刑に対して無罪を主張するのと同じになってしまうのではないでしょか。。
 聖書の読みと解釈についてはいろいろと意見や主張があります。聖書に書かれている処女降誕や死者の蘇り、はたまた海が二つに分かれてそこ渡るとか、太陽が少し後戻りをするといった様々な奇跡を巡っての議論や、聖書をどう解釈するかを巡っては、いろいろと議論があるのです。また、聖書の歴史的記述の正確性や科学的な誤りと思われる事柄についても、いろいろな主張があります。しかし、忘れてはならないのは、問題としなければならないのは、聖書の字ずらの問題ではなく、聖書の精神そのものなのです。聖書はどういった目的で書かれたのか、何を伝えたいのか。それが、一番大事なことなのです。
 私は、聖書に書かれている奇跡を決して信じていないわけではありません。むしろ信じていると言っても良いでしょう。しかし、聖書がいかなる精神の下で書かれているのかを忘れて、奇跡があったのかなかったのかなどを論じるとするならば、それは愚の骨頂です。
 聖書は、神が神の言葉として、神の精神と心を伝えるために書かれた神の言葉です。これは長らく、そして今も受け継がれているキリスト教会の主張であります。もっとも、聖書が神の言葉であるということを証明することも科学的に実証することもできません。だから、聖書が神の言葉であると言うのは、信仰です。信じている信仰の内容です。そして、その神の言葉である聖書を書き記したのは人間であり、その意味では聖書は人間の言葉でもあるのです。つまり、人間の言葉で書かれた聖書は神の言葉であるというのが、聖書の精神だと言えます。そして、この「人間の言葉」と言う主語を「神の言葉」いう相反する述語に「である」という繋辞をもちいて繋ぎ一つに結び合わせるのが聖霊なのです。
 先ほど申しましたように、これは、科学的に証明できるものではあいません。だから科学ではなく、信仰なのです。そして、その信仰の下にあって、神の言葉がどのような精神で書かれているかが問題となる。その精神とは、神が、この世界を愛し、この世界を神の恵みに満ちた世界へと導こうとしているということであり、この現実の世界で、悩み苦しんでいる人に救いをもたらそうとしていると言うところにあるのです。この精神を抜きに聖書を読むとき、聖書は全く分からないものとなるし、意味のない単なる古代の文献の一つでしかなくなってしまいます。
 しかし、それは聖書を聖書として書き記し、編纂した人々の精神をくみとった読み方ではありません。聖書は、あくまでも神の言葉として読まれ、解釈されるべきものなのです。

2018年12月4日火曜日

あなたは私と共にパラダイスにいる(1)

「あなたは私と共にパラダイスにいる」

今週は、イエス・キリスト様が十字架の上で語られた言葉について、お届けしています。その言葉のひとつに、「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、私と共に、パラダイスにいます。」という言葉があります。
パラダイスって聞くと、なんだか南の楽園ってイメージがあるじゃないですか。確かに、パラダイスって言葉には、常夏の島で、なんだかの~んびりと過ごしている、そんな響きとイメージがありますよね

 このパラダイスって言葉は、塀にかもまれた庭園のことなんです。わざわざ塀に囲まれるているわけですから、それは特別な庭であり、憩いの場ですから、南の楽園とイメージ的には重なりますよね。
この特別な庭園であるパラダイスを、キリストは天国と言うことの譬えで使ったんですね。ですからキリストが、きょう「あなたは私と共にパラダイスにいます。」ってことは、きょう、あなたは私と一緒に天国にいますよ。」ってことなんです。

ところが、キリストが、この「あなたも私と一緒に天国にいますよ。」と言った相手は、なんとキリストと共に十字架にはりつけられていた犯罪人、それも強盗だったんです。
十字架にはりつけになっているということは、死刑になっているということですから、キリストは、強盗を働いて死刑に処せられている人に向かって、あなたはきょう天国にいるよって、そう言うんです。

十字架にはりつけになるわけですから、手足を太いくぎで十字架に打ち付けられる。当然痛いですし、そりゃもう苦しい。おまけに、死刑ですから、近づいてくる死の恐怖で、苦しみのたうちまわっている。
そんな中で、強盗はイエス・キリストに「神のひとり子であるキリスト様、あなたが天国に生き、天国に王になられたら、私のことを思い出してください、そして憐れみを掛けてください。っと」そう願い求めたんですね。

その願いに、答えて、「きょうあなたは、十字架について死ぬだろうけど、安心しなさい、あなたは私と一緒に、間違いなく天国にいけるよ」って、キリストはそうおっしゃったんです。
これは、今、死の苦しみの中にある人に対して、気休めとして語られた言葉なんかじゃない。だって、キリストもまた、この強盗と同じ用に、十字架にはりつけられ、苦しみのきわみのなかにあるんですもの。本来なら人のことなど、かまって入られないようなじょうこうにあるんです。

でも、キリストは、体が傷つけられる苦しみを味わい、近づいている苦しみを、あの強盗と同じように味あわれた。ですから、彼の痛みや苦しみや苦悩をしっているんですね。だからこそ、その痛みや苦しみ、苦悩の中から、救いを求める彼の声を聞き、憐れみの手を差し伸べられたんです。
そして、あなたの苦しみを私が一緒に味わったように、今度はあなたが私と一緒に、憩いの楽園の喜びを味合うのだよ。ッてそういわれるんです。

痛みや苦しみそして苦悩、それは何も十字架にはりつけになるってことだけじゃないですよね。普段生きていく中でも、様々な痛みや苦しみに合う、そして体に受ける傷の苦痛だけでなく、心がきづつけられて激しい痛みを感じることがあるんじゃないでしょうか。
そのような中から、私たちが、イエス・キリストに救いを求めるならば、あの強盗と同じように、キリストは私たちに「あなたも、私と一緒に、天国という楽園の喜びを味わうことが出来るよ」とそうおっしゃってくださるんですね。

キリストは、天国の王様ですから、王様が「私と一緒に天国に連れて行ってあげる」と言う以上、強盗であろうと誰であろうと、天国に行くことが出来ます。もちろん、あなたもです。
本当なら、パラダイスである天国は、誰も入ることの出来ない特別な場所です。でも、自分の犯した罪や、心の汚れ、醜い心などを悔い、キリストに罪の許しの憐れみを求める者は、みんな天国に行くことが出来るんですね。

2018年11月21日水曜日

狭い門より入れ!


 「狭い門より入れ!」

マタイによる福音書7章13

狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。


「狭い門」と聞いて、ジイドの小説を思い出した人は、ちょっとした文学通。入学願書と受験票を思い出した人は、受験生かその受験生をかかえた家族の方ではないかとお察しします。もっとも、最近は入学試験だけではなく、就職も厳しい時代のようで、入る時だけでなく、出るときにもこの「狭い門」を意識しなければならないのが、当世の学生さんたちのようで、学生稼業は昔ほど気楽ではなくなったようですが、ともかく、毎年多くの学生さんがこの「狭い門」を目指します。

 入学試験で「狭い門」という場合、当然それは試験に合格するのが難しい場合に用いられる言葉です。従って、この狭い門を通過するためには、一生懸命頑張り努力して、様々な知識や学力を身につけなければなりません。百の英単語を覚えている人間より1万の英単語を覚えている者の方が、より合格に近いことは間違いがないことなのです。

 つまり、受験における「狭い門」は、その門の存在を誰もが知っているほど有名で、多くの人がその門を目指して殺到してくるのに対して、その人々をふるい落とすために「狭い門」となり、やってくる人が通りにくいようになっているものを指しているのです。ですから、人々がその門を通過するためには、何とか自分が努力し頑張って習得した優秀さを見せなければなりません。

 ところが、もともと「狭い門」という言葉の発祥である聖書の言う「狭い門」は、いわゆる受験戦争で言われる「狭い門」とはチョッとばかり趣が違っています。聖書が言うところの「狭い門」とは、もともとは「天国の門」のことを指しており、この「天国の門」のもつ狭さは、受験戦争の狭さとは全く正反対の性質をもつ狭さなのです。

聖書は、「人はどうやって天国の門をくぐりぬけるか」という問題に対して、「それはどんな努力や頑張りによってもくぐり抜けられるものではない。」と答えます。そして、「自分は罪人であり、神の前に誇れるようなものは何も持たないものであり、神の恵みと憐れみなしでは、神の前では生きていけないものなのであり、天国になど行けようはずもない人間なのだ。」と身をかがめて謙虚になって生きていく人間こそ、実は天国の門をくぐることができるのだというのです。

 逆を言うと、自分の優秀さやすばらしさを人に見せ,神の誇示しようとしていては、とうてい天国に入ることなど出来ないということになります。まさに天国の狭い門は、胸を張って堂々と通っていこうとするにはあまりにも狭すぎるのです。

 入学試験に代表されるようなこの世の狭い門を数多く通り抜けてきた人々が、いろんな問題を引き起こしたりするのを見聞きすることが、昨今冨に増えたような気がする。もちろん、みんながみんなそうと言う訳ではないし、一生懸命頑張ってこの世の狭い門をくぐりぬけることも決して悪いことではないと思います。それはそれですばらしい事に違いがないのです。

 しかし、それがいかに通るに狭く難しいこの世の門であり、その難関を通り抜けたからといって肩で風を切りながら歩いていく生き方ではなく、むしろこの世の狭い門を通ろうと通り抜けまいと、ただ神の前に身を小さくし、かがめながら生きていくようなものこそ、天国の入り口にある狭い門を入っていくものなのですと、聖書は私たちに教えているのです。

2018年9月18日火曜日

昨年の宗教改革記念日の説教


 個人的にfacebookをしている。facebookには、一年前にどんなことを書き込んだのかを知らせてくれる機能があるようで、時々、一年前に書き込んだ内容がrepeatされてくる。
そんなわけで、最近も一年前に自分が投降した書き込みがおくられてくるのだが、去年の今頃は、宗教改革500周年という時期でもあったので、宗教改革の足跡をたどる旅を企画して20名弱の人を連れて(もちろん妻も)、ルターの足取りをたどる旅でドイツに行っていた。
 ドイツは本当に良かった。食べ物はまずかったが、それを割り引いてもおつりがくるぐらい良かった。ルターの足跡をたどりながらいろいろと思い巡らすたびは、本当に有意義だった(このあたりの内容は雑誌『舟の右側』にかいてある)。また行きたいなー。ほんとまた行きたい。
 先日教会のある方が、その年の宗教改革記念日の説教をもう一度聞きたいと言ってくださったので、いかにその時の説教原稿を載せることにする。


17年宗教改革記念主日聖餐式礼拝「神の義の発見」            2017.11.4
旧約書;詩篇7113
福音書;マタイによる福音書6
使徒書;ローマ人への手紙1

 愛する兄弟姉妹のみなさん。今日の礼拝は宗教改革記念礼拝です。今から500年前の15171031日付けで、ドイツの戒律厳守派アウグスティヌス会隠修士黒修道院の修道士であり、当時まだ新設の大学であったウィッテンベルグ大学の旧約聖書の教授であったマルティン・ルターが「贖宥の効力に関する討論」という95ヶ条の提題を発表したことから、当時のキリスト教社会を揺るがす「宗教改革」という歴史的大事件が起こりました。

 この歴史的大事件をきっかけにして、当時の西方ヨーロッパ世界全体に浸透していたカトリック教会教会と別れてプロテスタントとよばれる諸グループが起こってきたのです。そのようなわけで、いわゆるプロテスタントの教会の中で、多くの教団や教派で10月の最後の主日礼拝もしくは11月の第一主日を、宗教改革を記念する宗教改革記念礼拝を行ってきました。

 もちろん、プロテスタントの教会だからと言って、もろ手を挙げて「宗教改革万歳」といって良いというと、必ずしもそうではありません。宗教改革にはさまざまな問題点もありますし、考え直さなければならない点も数多くある。また、その根幹を揺るがすような神学的理解における問題も挙げられています。

 しかし、それでもなお、宗教改革には評価すべき点も多くあり、また大切にしなければならない点も多くあるのです。その中のひとつに、ルターにより「福音的義の発見」というものが挙げられます。

 この「福音的義の発見」というのは、人が神の救いに与り、神の国に招き入れられるのは、人間が行った功徳、つまり善き業に対する神の報酬ではなく、神を信じ、神に寄り縋るものに対して、神が人の行いに寄らす、神の恵みによって与えてくださるというものです。つまり、人間の義なる行い、正しい行いといった人間の義が人間を義とするのではなく、神の恵みによって神の義が私たちに与えられることで、私たちが義と認められるのだということです。

 このようなことは、こんにちのプロテスタントの教会では当たり前のように受け入れられている考えかたですが、ルターの時代は必ずしもそうではありませんでした。とりわけルターを取り囲んでいた環境では、人間は自分が死後、神の国に入るためには、、一生懸命努力して善い業を行い、自分が犯した罪の償いを神に対してしなければならないと考えられていました。そうやって神に対する罪の償いを一生懸命努力していたならば、その努力を見て神の憐れみが発動し、神にふさわしくない者も、神の国に入れてくださるのだと考えられていたのです。

 ですから、ルターは善き業と言われるようなことは一生懸命頑張って行っていました。けれども、どれほど頑張っても、神に赦されている、神の国に受け入れられているという確信が持てなかったのです。むしろ、自分の様々な罪が思い出されて、その償っても償い切れない現実に押しつぶされそうになっていたのです。

 ルターを評する人たちは、ルターの人間の罪深さに対する深い洞察をあげます。確かにその通りかもしれません。ルターほど人間は罪深い存在だと言うことを捕らえていた人はいないと言ってもよいでしょう。ルターが理解した罪深さは、人間が神に受け入れられたいと思って善い業をしたとしても、善い業をして受け入れたいと持っているその思いこそが、善い業をしている自分を正しいこと、義なることをしていると思っている自己義認の罪であり、それこそが人間の罪深さの表れなのだというのです。

 このように言われてしまいますと、身も蓋もありません。神の前に正しいものでありたい、良いことを行いたいと言う思いまでもが罪となるならば、もはや人間は救いようがないのです。だからこそルターは、人間はどのようにしたら自分が救われていると言うことを知り、確信できるのかもしれません。ということがルターの問題意識となり、その問題意識の中で自分の救いの確信を探求していったのです。

そのような中でルターは、人間は人間の行いによって救われるのではない。ただ神の恵みと憐みによって救われるのだと言う結論に至ります。つまり、人間はどんなに頑張っても自分自身を自分自身で救うことなどできないのだから、恵みと憐みを与えてくださる神を信頼し、寄り縋り、自分自身を神にゆだねるしかないのです。

 ルターはそれを医者と病人の関係に譬えて言います。つまり、病気の人が自分の病気を治そうと患者自身が頑張るのではなく、医者が必ず治してあげると言っているのだから、直すと言っている医者の自分自身を委ねなさいと言うようなものだというのです。つまり、自分で何とかしようとしていると、いろいろと心を煩わし気分も重くこことも暗くなるが、医者が「治す」と言っている言葉を信じて希望を持っていたならば心も明るくなって生きていけるだろう。それと同じだと言うわけです。

 もちろん、人間、なかなかこのような境地に行けないわけで、ルターもこのように言えるまでには相当悩み苦しんだだろうと思います。このような悩みの苦しみの中で、光を見出す一つのきっかけとなったのが、先ほど司式の方に読んでいただいた詩篇71篇の1節から3節までです。その箇所をもう一度お読みします。

1.主よ、わたしはあなたに寄り頼む。とこしえにわたしをはずかしめないでください。2.あなたの義をもってわたしを助け、わたしを救い出してください。あなたの耳を傾けて、わたしをお救いください。3.わたしのためにのがれの岩となり、わたしを救う堅固な城となってください。あなたはわが岩、わが城だからです。

 ルターは、この2節の「あなたの義をもってわたしを助け、わたしを救い出してください」という言葉がひっかかった。あなたの義、この場合「あなた」というのは神のことですから、あなたの義とは神の義ということです。つまり、「あなたの義をもってわたしを助け、わたしを救い出してください」ということは「神の義をもってわたしを助け、わたしを救い出してください」ということになります。この「神の義が私を救う」ということにルターは疑問を持ったのです。「それはいったいどういうことだろう」。

というのも、ルターの時代には、「神の義」というものは、人間が正しい行いをしているかどうかを図る尺度だと考えられていたからです。人間がどんなに正しいことを積み重ねてきていても神の前で、神の義という神の正しさと比べて測ってみたら人間の正しさなど取るに足らないものだ。だから神の義という基準にふさわしくなるように頑張らなければならないと教えられていたのです。つまり、ルターの時代、「神の義」は人間の行いを量り裁く基準だったのです。

 その「神の義」が「人間を救うとはいったいどうゆうことなのか」ルターはいろいろと考えあぐねた末に至った結果が、「神の義は、私たちを裁くためあるのではなく、私たちに与えられるものだ。神は、どんなに頑張っても神の前に義となることができない私たちに対して、私たちが神に寄り縋るならば、ご自分の中にある義を神の恵みと憐みの心によってその神の義を与えてくださり、本当ならとうてい義人とはいえない私たちに神の義を与え神の子としてくださり、義人とみなしてくださるのだ」というものだったのです。

 その時ルターは、先ほどお読みいただいたローマ人への手紙617節の「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、『信仰による義人は生きる』と書いてあるとおりである」という言葉が、そのことを言っているのだと受け止めた。

 神が、イエス・キリスト様をこの世に贈り、私たちの罪のために十字架につけて死なせてくださった。それが福音であり、その福音の中に、罪びとの私たちを義人とする神の義がある。だから、それを信頼して生きる者は、神の前に義人として生きることができるのだ」というのです。この箇所に対するルターの理解と福音理解は、今日、聖書の研究が進んでいる中で、神学的には問題を多く含んでいますが、しかし、神は恵み深い方であり、神は神に憐れみを求めるものを憐み慈しんでくださるお方であると言うところに思いがいたっていることにおいて十分に評価してよいと思います。

 実際、イエス・キリスト様ご自身が、マタイによる福音書631節で「だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。」とおっしゃった後、33節で「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」と言っておられるのです。

 この言葉をイエス・キリスト様が語られたのは、食べることや着ることと言った毎日の生活を心配し、思い煩っている人たちに対して、神に寄りすがり、神により頼んで生きるならば、神は憐み深いお方であるから、何も思い煩うことはない」ということを教え諭すためでした。だから、「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」と言われたその言葉に続いて、だから、「あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である」と言われるのです。

 みなさん。確かに私たちの周りには、様々な心配事や悩み事があり、心を煩わさせます。その中には、心配し「どうしようか」と思い煩ってもどうしようもないことが多くあります。だからといって心配するなと言っても、それは無理な話かもしれません。しかし、少なくとも、神を信頼し、神により頼んで生きるならば、神は私たちを憐んで下さるお方なのです。それは、ルターが心を悩ませ苦しんだ「私たちの罪」の問題でも同じです。

 私たちが犯した罪や過ちは、どんなほかの善い行いをもってしても償えるものではありません。しかし、その罪を含んで、悩み思い煩う私たちの存在そのものを神は救いとってくださるお方なのです。

 イエス・キリスト様は「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは全て添えて与えられる」と言っておられます。「まず、神の国と神の義をもとめなさい」というのですから、最初に求めるのは「神の国と神の義」です。その「神の国」とは、神の憐れみと恵みが支配する世界です。どんなことがあっても、神は私たちを顧み、憐れみ、恵みをもって私たちを導いてくださる。それが神の国です。

 それは、神を信じ、神を信頼する心を持つものに与えられる神の恵みです。そしてそのように神を信頼し神に寄りすがって来るものに、思い煩いから解放し、苦しみや悩みの中にあっても、希望と平安とを与えてくれる、それが神の義です、

 これが与えられると、私たちが自分の力や頑張りでどうしようもない現実の中にあっても、希望を持ち、慰めと平安を得て生きていくことができるのです。ルターは、その神の義を、自分の罪からの救いという問題の中で見出したのです。

 みなさん。私たちはさまざまなことで、心を痛め、心を悩ませ、心配し、不安を感じます。それは、ルターのように必ずしも自分の罪の問題ということ同じでなく、違っているかもしれません。ですから、神の義というものを単純に「罪の赦し」ということに特化して言うことはできないだろうと思います。神の義は、私たちの罪の問題も含め、私たち人間が、思い煩い苦しんでいる現状の中で、神により頼むものに希望と平安と慰めを与えてくれるものだからです。

 そしてその神の義は、ただ神を信じ、神に寄るものに与えられる神の恵みの業なのです。あの500年前の宗教改革は、そのことが私たちの前に明らかにされていくための一つの神の業であったと言えます。だからこそみなさん、今、私たちは神を信じ、神を信頼し、神に寄り縋って生きることの大切さに目をとどめたいと思うのです。それは、私たちが生きる今という時代は、ルターの時代以上に悩みと苦しみが多い時代だからです。しかも、その悩みはとても深く、複雑だからです。そしてそのような時代だからこそ、より一層、神を信じ、神に信頼することで在られる希望と平安と慰めが必要なのではないでしょうか。

お祈りいたします。