2024年2月22日木曜日

神の家族になる

 「神の家族になる」

新約聖書マルコによる福音書三章三十一節から三十五節にこんな話があります。ある時、多くの人に話をしていたイエス・キリスト様の所に、イエス・キリスト様のお母さんと兄弟たちが尋ねてきました。そこで、弟子たちは、「お母さんと、兄弟たちが、尋ねてきていますよ」と告げました。するとイエス・キリスト様はこう言ったんです。「わたしの母とは、だれのことですか。わたしの兄弟とはだれのことですか。」

 そして、イエス・キリストの語る言葉を聞こうとして、集まっている多くの人たちを指して、更にこう言われたのです。「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。神のみこころを行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」

 このとき、イエス・キリストは、決して家族のことをないがしろにしたわけではありません。むしろイエス・キリスト様は家族のことを大事に思い、心配なさるお方です。事実、ご自分が十字架にかけられ殺されようとするときに、イエス・キリスト様は、ご自分の弟子であるヨハネに、ご自分の母親のことをよろしく面倒を見てあげて欲しいと委ねているのです。そこには母を思う息子の気持ちが表れています。

 ですから、ここでイエス・キリスト様が「わたしの母とは、だれのことですか。わたしの兄弟とはだれのことですか。ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。神のみこころを行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです」と言われた意図は、イエス・キリスト様の言葉に耳を傾け効いている人々に、私たちは神と家族になれるんだよと言うことを伝え、教えようというところのにあっのです。

私たちが、神のみこころを行う者となるならば、私たちはみんな神の家族になることが出来るのです。しかし、神のみこころを行う人と言いますが、それは、いったいどのような人のことを言うのでしょうか。ひとことで言うならば、神さまの言葉、イエス・キリストの言葉に耳を傾けて聴く人のことです。イエス・キリスト様の語る言葉、なされる業、その一つ一つが神さまの御心を表しているのです。だからこそ、イエス・キリスト様は、御自分の話を聴きに集まっている人たちをさして、「ご覧なさい、わたしの母、わたしの兄弟たちです。」と言われたのです。

 今の私たちは、直接キリストの語る言葉や神の言葉を自分の耳で聴く事はできません。けれども、聖書を通して、イエス・キリスト様というお方を知り、私たちの心に語りかける神の言葉を聴くことが出来ます。聖書は神の言葉だからです。その聖書を読んでいますと、わたしたちを愛して下さっている神のお心が分かってきます。新約聖書ヨハネによる福音書三章十六節にはこう書いてあります。「神は、実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された、それは御子を信じるものが、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。」

 この言葉にある「世」とは、わたしたち人間社会のことであり、この世界です。もちろん、「あなた」も「わたし」もこの人間社会の中で生き、この世界の内に存在しています。ですから、「あなた」も「わたし」も含まれます。ですから、その「世」を深く愛しているということは、神が「あなた」を深く愛しておられるというのでもあるのです。そして、確かに神は「あなた」を深く愛しておられます。

 先程わたしは、神の家族になれると書きましたが、家族を深く結びつけているのは愛です。わたしの知り合いは、三人の子供を養子として迎え入れ家族として暮しています。彼らを家族として結びつけているのは、三人を我が子として迎え愛している、その愛です。それと同じように、いえ、それに優る大きな愛で、神は私たちを「神の家族として迎えよう」と、聖書を通して、私たちに語りかけておられるのです。この神の語りかける言葉に耳を傾けて聞き、あなたが神を信じ受け入れるならば、あなたは神の家族となることが出来るのです。

2024年2月21日水曜日

神さまが思い描く世

私は、牧師になって以来、長く中世のキリスト者であったエラスムスという人物の研究をしてきました。そのエラスムスの書いた書物の中に『知遇神礼賛』という本があります。日本語にも訳され岩波文庫や中公文庫などから出版されています。

この『知遇神礼賛』は、知遇の神モリスが、自分自身を礼賛するという一人語りで語られているものですが、当時のヨーロッパ社会を見事に風刺した作品として、ヨーロッパ中を笑いに包んだと言われています。知遇というのは、愚かな人のことを言います。エラスムスは、この作品を通して、手、本当にまじめで、知恵ある人が用いられることなく、愚かで傲慢な人間が人の上に立ち威張っている世界を風刺して見せたのです。それを知遇神モリスが、世の中こぞって愚かさのなかにいる。そしてその愚かさをもってわたしを礼賛していると自画自賛しているのです。だからこそ、ヨーロッパ中が、その姿に笑い転げたのです。それは、その当時の現実を見事に、そしてコミカルに描き切ったからです。

エラスムスが描こうとした世界は倒錯です。それは本来ある姿が逆転してしまっている世界です。エラスムスの目には中世の世界は、まさに倒錯した世界に映っていたのです。
しかし、そのような倒錯した世界は、なにも中世だけのことではありません。現代の社会もまた倒錯した社会なのかもしれません。すくなくとも聖書が伝えるイエス・キリスト様が思い描く神の王国の世界から見れば、倒錯した世界であるということができるでしょう。

 例えば、お金は、私たちが物を売り買いすることを仲介するため手段として用いられるものです。ですから、本来ならば、物を買うときの買うものに価値があるのであって、お金そのものに価値があるわけではありません。しかし、現実の私たちの世界では、お金に価値があるかのようになってしまい、お金そのものを手に入れようとしているような倒錯が起こっています。そして、お金を持っている人に価値があるかのようになってしまっています。本来、お金は人間と人間の社会に仕えるものであるのにもかかわらず、人間と社会がお金に仕えるような世界になってしまっているのではないかと思うのです。

 神の王国は、私たちが見ている世界とは正反対の世界です。この世界では強い者弱いものを支配するという構造が多く見られますが、神の王国では強いものが弱いものに仕えると世界です。聖書がしばしば「先の者が後になり後のものが先になる」という表現がありますが、それは、まずもって弱い者、力のないものが、小さいものが優先されるべきであるということなのです。

 神の目から見たとき、私たち人間の世界は神の王国とは正反対の倒錯した世界です。そして倒錯した世界には、憎しみや争いがあり、それが苦しみや悲しみや痛みを産み出します。けれども、その正反対にある神の王国には、憎しみの正反対の愛があり、争いの反対の支え合いがあるのです。もちろん、そういったものが今の現実の私たちの世界に全くないというような暴論を言うつもりはありません。そういったものを私たちの世界の中に見ることができます。それは、私たち人間の心の中に、神に似た「神のかたち」があるからです。

その神に似た「神のかたち」が発動するところに「神の王国」がこの世界の中に細々と顕れています。けれども、神さまは、細々と顕れることで良しとはされていません。それが全世界を覆うほどに広がっていくことを望んでおられるのです。そのために、神さまは、神様を信じ、神さまと一緒に神の王国をこの世界に広げていく人たちを求めておられるのです。「あなた」も、私と一緒に、愛に満ち、互いに支え合いながら弱い者、小さい者、力のないものが優先され、大切にされる世界を築いてくれないかと、神さまは「あなた」に呼び掛けておられるのです。

2024年2月20日火曜日

剣の時代の終焉

マタイのよる福音書の26章47節から57節には、時の権力者たちが、イエス・キリスト様を裁判にかけ、処刑するために、イエス・キリスト様を捕まえに来たときの様子が書かれています。このキリストを捕らえるために集まった人たちは、剣や棒を持っていました。抵抗したら、力ずくで捕らえるつもりだったようです。

 その時、キリストの弟子の一人が、剣を抜いてイエス・キリスト様を捕まえに来た人たちに斬りかかって行きました。彼もまた、力には力で対抗しようとしたのです。その様子を見ていたイエス・キリスト様は、ペテロを諫めてその剣を納めさせます。そして、こう言われました。「剣を取る者はみなつるぎで滅びます」と。

 キリストの時代の権力者たち、イエス・キリスト様を捕えようと企てた人たちは、パリサイ人と呼ばれる人や律法学者と呼ばれる人、あるいは、神殿に仕える祭司たちでした。つまり、宗教的指導者たちがイエス・キリスト様逮捕の首謀者だったんですね。彼らは、キリストを捕らえ、十字架につけたので、とても悪い人間のように思いますが、しかし、実際は、自分たちが信じるユダヤ教の伝統を、自分たちに一生懸命守り行って生きようとしていた人たちでもあったのです。そして、それが絶対に正しいと信じていた。

 ところが、イエス・キリスト様は、そのような生き方とは、全く違った生き方を人々に示したのです。それは、この指導者層の人たちが絶対に正しいと思っていたことを否定していることになります。実際、キリストは、パリサイ人や律法学者たちを厳しく非難しています。そんなわけで、パリサイ人、律法学者、祭司たちは、共謀してイエス・キリスト様を捕らえ、殺そうとしたのです。それは、自分たちが、絶対に正しいと思うからです。そう思うからこそ、剣、つまり、力に訴えてでも、イエス・キリスト様を捕らえ罰しようとしたのです。

 人間、この自分は絶対に正しいと思うことほど恐いものはありません。自分が絶対に正しいと思えば、相譲ることも出来ませんし、相手を裁き赦すこともできません。最後は力と力でぶつかるか、絶交状態になったりもします。そういった意味では、イエス・キリスト様の弟子も、自分たちの方が、絶対に正しいと思っていたんだろうと思います。だから、剣を抜いて斬りかかっていた。

そう言った人たちを見て、イエス・キリスト様は。「剣を納めなさい。剣を取る者はみなつるぎで滅びます。」とそう言われるのです。それは、自分が絶対に正しいと思うことの愚かさ、そして恐ろしさを私たちに、教えてくれる言葉でもあります。

 人間は、だれも完全な人はいませんよね。過ちや間違いを犯すものです。なのに、人と接するときには、そのことを忘れ、自分の正当性ばかりを主張してしまいがちです。それは、相手と自分を比べて、自分の方が正しいとそう思うからです。けれども、そんなときに、相手と自分を見比べるのではなく、神と言う存在を心に思いめぐらしてみたらどうでしょうかね。聖書の神は聖く義しいお方で、平和を愛する神です。その神の前に立って、自分自身を顧みるならば、私たちは、自分の至らなさや愚かさ、あるいは、心の醜さといったものを、認めざるを得ないように思うのですが、どうでしょうか。それは、まさに罪人としての私たちの姿なのです。

 私たちは、人を見て自分が正しいと思うとき、相手を裁き場合によっては、拳を振り上げ、心の中で剣を抜いて、自分の正しさを押し通そうとします。それは、力と権力によって支配するこの世界の中に生きる私たちの姿です。「この世」という世界が、力ある者、権力あるものが弱く小さいものの上にたち、この世界を治め支配するからなのです。だから、私たち人間は、力を欲し、権力を求めるのです。それが、より高見に登ることだと思い込んでいるのです。

 しかし、それは誤った生き方です。神が、ご自身に似たものとなるために神の像(かたち)を与え創造された人間本来の姿ではなく、過った姿なのです。そのような私たちを神は、欠けだらけの「わたしたち」の愛し、神の子として生きるものとするために、ご自分の一人子を十字架で死なせたのです。
 この深い愛で、私たちは愛されている。もちろん「あなた」も愛されています。この神の罪を赦す愛で愛されていると思うと、「わたしたち」は、振り上げていた拳を降し、抜いた剣を鞘に納めざる得なくなるのではないかと思うのです。

もし「あなた」が、まず「あなた」から人を裁くのを止め、拳を振り上げる止め、剣を抜かなくなったら、きっとあなたの周りの世界は少しずつ変わっていくだろうと思います。それは力と剣の時代が終わりをつげ、謙遜と愛の世界の始まりなのです。ですから、どうか、この「わたしたち」の愛する愛の神を、「あな」がこころに信じ、受け入れ、この神を心に想いながら生きて欲しいのです。

2024年2月18日日曜日

24年2月第三主日礼拝説教「王の就任」

 24年2月第三主日礼拝説教「王の就任」                

旧約書:イザヤ書53章1節から10節
新約書:ヨハネによる福音書12章1節から20節
使徒書:ヘブル人への手紙4章14節から16節

 前回の礼拝説教で、マリアが、イエス・キリスト様の足に高価なナルドの香油を塗り、自分の髪でその油をふき取ったという出来事に対して、イスカリオテのユダがとった態度から、私たちの心の中にある良心の問題について考えさせていただきました。
そして今週は、同じマリアの出来事をイエス・キリスト様がどう捉えたか、またこのヨハネによる福音書を書いた聖書記者がどのように、受け止めたかということから考えてみたいと思います。そのためには、このヨハネによる福音書の12章1節から20節までを一つの物語の単位として読む必要があります。ですので、1節から20節までをお読みしました。

 みなさん、聖書を解釈するということは、聖書に書かれていることを今の時代の、この日本という文脈の中で、どのように聖書の物語を読み解き、関係づけていくかという作業です。そして様々な聖書解釈の方法が議論されてきました。そのような中で、近年言われるようになってきたのが、物語神学と呼ばれる聖書の解釈方法です。この物語神学というのは、宗教的真理というのは物語を通して語られてきたので、聖書もまた、一つの物語として読み解く必要があるというものです。

 確かに、そうなのかもしれません。実際、前回の主日礼拝の説教で、私たちが着目したマリアがご自分の足に高価な香油を塗ったという出来事を、イエス・キリスト様は、神の御子であるご自身が受肉し、「この世」という世界の中で生き、そしてイスラエルの指導者たちから憎まれ殺されるであろうという、イエス・キリスト様のご生涯の物語の一部として理解し受け止められています。それが

「この女のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それをとっておいたのだから。貧しい人たちはいつもあなたがたと共にいるが、わたしはいつも共にいるわけではない」

という言葉だったのです。
 みなさん、イエス・キリスト様は、このマリアの行為をイエス・キリスト様の葬りのための行為であるとして受け止めています。つまり、マリアの行為をイエス・キリスト様の十字架の死に結び付けて理解しているのです。それは、今、ここでの苦しみです。そして、その苦しみは、イエスらエルの民を治めている指導者層のパリサイ派や祭司長の人々や、ローマ帝国の総督ピラトから加えられる苦しみであり、いわば、「この世」の支配者から与えられる苦しみなのです。

 だとすれば、イエス・キリスト様は、「今、ここで」、「この世」を支配するものから与えられる「苦しみ」によって「苦しめられ、殺され、葬られる人と」として、ご自分を見ており、その出来事を、マリアが香油を注がれた出来事の中に見ておられるのです。ところが、このヨハネによる福音書を記した聖書記者は、このマリアがイエス・キリスト様の足に香油を注ぐという出来事に別の意味を見出しています。そもそも、ヨハネによる福音者は、そこに書かれている言葉に二重の意味を持たせることがあると言われます。そして、確かに、この足に香油を塗るという行為にもその二重の意味を見ることができます。それは、イエス・キリスト様が自覚していた「葬りのための塗油」であると同時に「メシアに対する油注ぎ」ということです。

 みなさん、メシアという言葉は、油注がれた者という意味があります。この油を注ぐという行為は、イスラエルの王が王に就任する時に行われるものであり、また、大祭司が大祭司として就任する時に行われるものです。ですから、たとえばスローヤンやシュラッターという聖書註解者は、このヨハネによる福音書の著者は、マリアのイエス・キリスト様が足に高価な香油を塗り、自分の髪でそれを拭いたという行為は、イエス・キリスト様がメシア(油注がれた王)であることを指し示しているというのです。
 そして、ヨハネによる福音書の著者もまた、このマリアがイエス・キリスト様の足に香油を塗ったという出来事を、まさにイエス・キリスト様が神を信じるものの王として就任したのだという、その王の就任の際に行われる油注ぎの行為であると受け止めたのです。

 それは、このマリアの行為が告げられた直後に、イエス・キリスト様がエルサレムに子ロバに乗って入城するという出来事が記されていることからわかります。というのも、名前こそ出てはきませんが、この女性がイエス・キリスト様の足に香油を塗り、自分の神でぬぐい取るという行為は、他の福音書にも出てきています。しかし、その出来事をイエス・キリスト様のエルサレム入城の直前に起こった出来事として記すのは、このヨハネによる福音書だけなのです。
 おそらくこのヨハネによる福音書の著者は、この福音書を書こうとする際に、イエス・キリスト様の受肉から十字架の死と復活の出来事を振り返りながら、「ああ、あのマリアがイエス・キリスト様の足に高価な香油を注いだ出来事は、イエス・キリスト様が、神の民が集う、神の王国の王として就任なさる油注ぎの儀式の役割を果たしていたのだなあ。そして確かにイエス・キリスト様は王としてエルサレムに入城なさったのだ」と回顧しながら、このヨハネによる福音書を書き記して行ったのだろうと思われます。

 みなさん、「今、ここで」、「この世」の支配者によって苦しめられ、十字架の上で殺され、墓に葬られる」お方こそが、神の民の王として、神の都であるエルサレムに入城するのです。それは、「この世」を支配する者から「苦しめられ、虐げられ、抑圧されて痛み苦しむ者の王となるためなのです。
 そうなのです。イエス・キリスト様は、「この世」という世界の支配の中で虐げられ、痛む、苦しみや悲しむ私たちの心に、王として入城してくださるお方なのです。そして、共に苦しみ、痛み、悲しみをご自分の身に負われるのです。それは、神様というお方が、そのように、私たちの痛みや苦しみや悲しみに心を向け、共感してくださるお方だからであり、その神のひとり子だからです。

 そのことが、もっともよく表れているのが、先ほどお読みしました旧約聖書イザヤ書53章1節から10節です。この箇所は、4節の「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。」という言葉や5節の「しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ」とか8節の「彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと」という言葉から、私たちの罪の身代わりとなって死んできださるお方が預言されているのだとして刑罰代償説というイエス・キリスト様のと呼ばれる救いに関する理論の根拠だとされてきました。
 しかし、わたしは、この箇所は、そのような身代わりと言うことが言われているところではないと考えています。なぜならば、この時、イスラエルの民は、バビロン帝国の支配のもとで奴隷として抑圧され虐げられて、苦しみと痛みと悲しみの最中に置かれていたからです。そして、その痛みと苦しみと悲しみを、メシアは共に負って苦しみ、痛み、悲しむ姿がこのイザヤ書53章の1節から10節に描かれている。そして、その痛みや苦しみや悲しみを知っているからこそ、バビロン帝国という「この世」の支配者の支配のもとで苦しみ、痛み、悲しむ人を慰め、励まし、支えることで、その苦しみや痛みや悲しみから解放することができるのです、

 みなさん、救い主とはその様なお方なのです。神を信じる神の民の油注がれた王として「この世」に来られたイエス・キリスト様というお方は、そのようなお方なのです。この、今も、このともに苦しき、共に痛み、共に悲しむお方が、油注がれた王となられた出来事は、それは2千年前のパレスチナの地で起こった出来事です。しかし、このお方は今も、この世界の王であられるのです。そして私たちの王として、わたしたちと共にいてくださるのです。

 にもかかわらず、私たちの周りには、悲しみや苦しみや、痛みというものが未だ満ち溢れています。それはヨハネによる福音書の冒頭の1章10節11節で「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は自分のところへ来たが、民は言を受け入れなかった」とあるように、このお方を「この世」という世界が、そしてこの世を治めている者が拒絶しているからです。
 しかし、このお方を信じ受け入れて生きるならば、この方は、必ず「あなた」の慰めとなり、支えとなり、癒しとなってくださるのです。先ほどお読みしたヘブル人への手紙4章14節から16節にあるように「私たちの弱さに同情できない方ではなく、罪は犯されなかったが、あらゆる点で同じように試練に遭われた」お方だからです。だからこそ、私たちは、神を信じ、イエス・キリスト様をいつも心の中が見上げながら生きていこうではありませんか。

 マリアに十字架の死に対する葬りの油を注がれたイエス・キリスト様は、その死の葬りの出来事と共に、栄光の王となる王の就任のために油注ぎを受け、ご自身が、十字架につけられ殺される場所となるエルサレムに入場するのです。その入場の様子が、12節から20節に描かれている
だとすれば、このヨハネによる福音書12章1節から20節は、神様が、罪と死の力が支配するこの世界から私たちを解放し、神の王国をこの世界に広げるために、油注がれた王、すなわちメシアの到来を物語る物語なのです。なぜならば、聖書は一貫して、私たちを罪と死をもって支配する「この世」の支配者から解放する物語を語っているからです。

 出エジプト記の物語、しかりバビロン捕囚から解放する物語然りです。そして、その神の救いの物語の中で、イエス・キリスト様は。この時代にあっても、私たちを、慰め励まし、支えてくださる王として、私たちと共にいてくださり、私たちを救ってくださるのです。そのことを覚えつつ、このイエス・キリスト様のことを静かに思い廻らしたいと思います、しばらく静まりの時を持ちましょう。

2024年2月17日土曜日

休むことの大切さ―身も心も安らぐときー

 つい先日は建国記念日の振替休日があり、土、日、月の3連休がありました。休みっていうのは、いくつになっても嬉しいもんですよね。人間にとって、休息の時というのは、絶対に必要です。

 そんなわけでしょうか、聖書には、週に一日、「必ず休みの時を持つように」って、安息日という日が決められています。もともとは、金曜日の夕方から、土曜日の夕方だったんですけれど、今では日曜日が、その日の役割を果たしています。

この安息日は、生きるために。一週間働いてきた者が、ゆっくりと体を休ませ、疲れを取るためのものです。でも、私たちが疲れを感じるのは、何も体の疲れといった肉体的な疲れだけではありませんよね。体だけではなく心だって疲れることがある。むしろ、この心の疲れのほうが問題です。

 仕事や人間関係、あるいは健康のことなどで悩みや心配があるときには、体を休めても、それだけでは、心が平安に過ごせるとはかぎりません。身も心も休めることが出来てこそ、本当の安息日っていえるんですよね。

 そんなわけでしょうか、聖書には、安息日について、こんな事を書いています。旧約聖書申命記五章十四節です。途中を一部省略しますが、このようなことが書いてあります。

 「安息日を守って、これを聖なる日とせよ。あなたの神、主が命じたとおりに。六日のあいだ働いて、あなたのすべてのわざをしなければならない。(中略)あなたはかつてエジプトの地で奴隷であったが、あなたの神、主が強い手と、伸ばした腕とをもって、そこから導き出されたことを覚えなければならない。それゆえに、あなたの神、主は安息日を守ることを命じられるのである。」

これは、神が、イスラエルの民が、祖国から遠く離れたエジプトの地で奴隷となり苦しみ悩んでいるところから救い出し、イスラエルの民と共に歩んでくれる。だからそのことを心にしっかりと覚えるために安息日を守りなさいということです。

つまり、安息日に私たちを守り、苦しみや不安、悩みから救い出して下さる神を、心に覚え忘れないために安息日を守りなさいというのです。それは体の休息のためでなく、子心の休息、魂の休息のためなんですね。

今の時代は「心の時代」だと言われます。それは心が、どうしようもない程に、疲れ切りすり減ってしまっているからです。あなたの心は、疲れてはいませんか。すり減ってはいませんか。

神は、そんなあなたに、心の平安を与えてくださるお方です。あなたの心が神をこころに信じ受け入れるならば、神は、その人の心の中にいつも共にいて下さり、慰め励まして下さって、その悩み苦しむ心に平安を与えて下さいます。

そんなわけで、神を信じるクリスチャンは、日曜日に礼拝に集い、私たちの心に休息を与えて下さる神を心に覚え、新しい一週間を生きていく力をいただきながら生きているのです。

この、体と心に与えられる本当の安息日をあなたのものにしていただきたいと思います。

2024年2月15日木曜日

パンとワイン

 最初に聖書の言葉を記します。

「すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝を捧げで後、それを裂き、こう言われました。『これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。』夕食の後、杯を同じようにして、言われました。『この杯をは、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。』

この言葉は、新約聖書コリント人への手紙第一、十一章二十三節、二十四節の言葉ですが、これは、主イエス・キリスト様の私たちに対する約束、すなわち契約の言葉です。
 イエス・キリスト様は、聖書の神を信じ、イエス・キリスト様を自分の主であり、救い主あると信じ、神の子である身分を回復してくださる救い主として信じるものは、「この世」という世界の中生きてきたその人生が、どのようなものであっても、必ず受け入れて下さると約束して下さいました。
 というのも、私たち人間は、神さまからもともと神の子と言う特別な身分を与えられて創造された特別な存在なのです。けれども、私たち人間は、神さまを見失ってしまっています。また私たちが生きる「この世」と呼ばれるこの世界そのものも、神さまを見失っています。そして神さまに代わって罪と死が支配する「この世」という世界の中に生きるものとなっているがために、神の子であるという特別な立場が損なわれてしまったのです。

 けれども、神さまは、私たちのことを決して見捨ててはいません。だから、必ず回復する約束くださったのです。その約束を果たすために、イエス・キリスト様は、は十字架の上で命を投げ出し、罪と死の支配から私たちを解放して下さったのです。この解放の業を教会では贖いと言います。

教会では、礼拝の時に聖餐式と呼ばれる、パンとぶどう酒、もしくは葡萄ジュースをいただく儀式があります。その時に先程の聖書の言葉が読まれるんですね。それは、聖餐式で食べるパンは、キリスト様が十字架で釘打たれた体を表わし、ぶどう酒は、その時流された血潮を表わしているからです。ですから、パンとぶどう酒は、キリストが、私たちの贖ってくださり、神の子としての身分を証なのです。回復宇して下さったということの証なのです。

 もう何年も前に、一人のお婆ちゃんが天に召されました。亡くなるちょっと前に、わたしは、そのおばあちゃんに、イエス・キリスト様が、お婆ちゃんを救い、神さまのこどもにして下さって、やがてよみがえり、神さまの御国でいることができるものとして下さるんだよとお話ししました。
 すると、お婆ちゃんは、素直にそのことを受け入れ、神を信じイエス・キリスト様を自分の救い主として受け入たのです。それから一ヶ月、そのお婆ちゃんは家族と楽しく賛美歌を歌ったり、聖書の話をしたりと、心温まるような時を過ごし、天に召されていきました。
 葬儀の後、そのお婆ちゃんのご主人が礼拝にこられ、聖餐式に出席なさいました。実は、ご主人は、昔、教会で洗礼を受けクリスチャンになったのですが、その後教会に行かなくなっていたのですね。でも、お婆ちゃんがイエス・キリスト様を信じ、神の子された平安の中で天に召されていく姿を見て、自分もイエス・キリスト様の約束の中にあることを思い出されたのです。

 キリストは、私たちと結ばれた約束を決して忘れません。神を信じたことを忘れ、何十年も教会に行かなくなっていたとしても、神さまとイエス・キリスト様は、約束を守って下さっています。神さまとイエス・キリスト様は、それほどまでに私たちとの約束に対して真実なお方なのです。だからこそ、その約束は信じる価値があります。そのお方が、あなたと約束をしようと言っておられるのです。そのための準備は、イエス・キリスト様の側では十字架の上でもう出来ています。あとは、あなたが信じるだけなのです。

2024年2月14日水曜日

なぜ人には宗教が必要か

  以前、数人の中学生が「なぜ、人には宗教が必要か」ということについて教えて欲しいと訪ねてきました。学校の宿題だったようです。そこで私は、彼らに、自分が生きている意味と価値は何なのかと言うことを知るために宗教は必要なんだよとお話ししました

 科学は人間の体の構造や、脳の働き、あるいは心についても。多くのことを解明してきました。でもそれは、人間がどんな生き物かを明らかにしただけで、人間が生きる意味と価値ついては教えてくれていません。それを教えてくれるのが宗教なんですね。ではキリスト教は、そのことについて何と教えているのでしょうか。
 それは「神の栄光を表わすためだ」というのです。要は、神の素晴らしさを示し、神の喜ばれることをすると言うことです。でも、神の素晴らしさとか、神に喜ばれることって何なんでしょう。

 今の世の中は、環境汚染といった地球的な規模の問題から、戦争や犯罪、あるいは経済問題と言った社会的問題まで、様々な問題が山積みになっています。また、私たち個人の生活にもいろんな問題があって、将来はどうなるんだろうかと、不安にこそなれ、希望などなかなか持ちにくい世の中なんじゃないでしょうかね。そんな世の中でも、神が私たちの抱える問題に解決を与えてくれると信じ、希望を持って生きているならば、神はそのような生き方を喜んで下さるのです。なぜなら、そのような生き方は、神は私たちに希望をもたらして下さる素晴らしいお方だと言うことを指し示しているからです。だからこそ、神はそのような生き方を喜んで下さるのです。

 もちろん、神を信じたからと言って、全てが、私たちの願うように解決するとは限りません。私たちが生きている間に解決しないような問題もあるだろうと思います。けれども、たとえこの世では解決がつかないようなことがあったとしても、神を信じ、キリストを自分の罪の救い主と信じる者には、天国という大きな希望が与えられるのです。そこは、慰めと憩いの場が与えられ、大きな喜びに満ちあふれた世界です。その天国という希望を持って生きていくならば、神はその人のことを本当に喜んで下さるのです。

 それだけではありません。問題の多い暗い世の中だからこそ、天国の希望を持って喜んで生きていくならば、それは、自分だけではない、周りの人々にも、神にある希望を指し示します。だとすれば、それこそまさに、神の栄光を表わす生き方だと言えますよね。神は、そのように、神に喜ばれ、人々にも希望を指し示す、意味とか価値ある人生に、あなたを招いておられます。あなたは、そのために神に愛される尊い存在として、この世に生まれてきました。あなたの人生には大きな意味と価値があるのです。