2019年9月27日金曜日

あなたにあげたい


「あなたにあげたい」

もう、夏の風物詩の一つ、夏の甲子園。高校野球の球児たちの熱い戦いが繰り広げられますが、夏はプロ野球も真っ盛りです 
このプロ野球で、不世出の名ピッチャーって言えば、昔は沢村忠、スタルヒン、金田や稲生、最近では、江川卓や松坂大輔など、たくさん名前が挙げられますが、その中の一人に、ロッテ・オリオンズの村田兆治もあげられるだろうと思いますが、ご存じですか。

この、村田兆治投手は、マサカリ投法と呼ばれるその独特な投球フォームから、ものすごい剛速球を投げていたんですけれど、ピッチャーの命とも言える肘を故障してしまったんですね。 
ピッチャーにとって、肘の故障は選手生命に関わる一大事です。村田投手自身、ご自身が書かれた「剛球直言」って本で、その時期は、「まさに人生のどん底だった。」って言っています。 
でも悪いことは、重なるもんでね。その肘の治療をしている最中にお父さんが亡くなってしまったんですね。そのお父さんが、なくなる直前に、お父さんをお見舞いにったら、それまで、意識が混濁状態だったお父さんが、突然、意識をもどし、彼の手を握って「兆治、おまえに、この右腕をやりたい。」ってのどの奥から絞り出すような声で、そう言ったって言うんです。まさに、子を思う、親の思い、親の愛。ここに極めって言葉ですよね。

私も、まだ長女が小さかった頃、寝息を立てている娘の、胸元をぽんぽんとたたいてやっていると、娘の胸のところになにやらしこりができているのに気づいたんです。小さい子供とはいえ、はっきりとわかるしこりでしょ。なんだか心配になって、夜中に娘の枕元で、神様に一生懸命お祈りしました。 
その時の祈りは、今でも覚えていますが「神様、この子の命守られるなら、自分の命が失われてもいいですから、この子を守って下さい。」ってそう祈ってました。この子のためなら、命もいらない。そう思えるのは、それが自分の愛する子供だから何ですね。 
幸い、娘は何もなく、何事もなく成長し成人しましたが、聖書には次のように書かれている言葉がある。「キリストは私たちのために命を捨ててくださった。私たちはそれによって愛と言うことを知った。」って書かれています。

この言葉は、キリストの弟子のヨハネという人がかいているんですが、このは、ヨハネキリストが、自分の為に命を捨てて下さったということをしって、キリストがどんなに深く、自分を愛してくださっていたかと言うことを思い知ったんでしょうね。  
 キリストが、ヨハネのために命を捨ててくださったのは、ヨハネが生きることができるようになるためでした。生きるっていっても、ただ病気が治るとか、怪我が治るってことだけでなく、天国で生きる為の、神の命が、与えられるためだったんです。

 聖書には、人間の中に罪があるならば、人は天国に行くことができないと言われています。この罪というのは、単に犯罪を犯したと言うことでなく、心の中の汚れや、醜い思い、嫉妬心やねたみなども、その罪の中に数えられています。
 そうすると、あのヨハネも私を、そして誰もがみんな罪人だってことになってしまいます。だって、早々心が全く清く綺麗な人なんていないからです。その意味では、人間は誰でもすべからく罪びとだということになります。

 でも、その罪人が、神様に罪を赦されて天国に行くことができるようにって、十字架の上で命を投げ出し、罪の赦しを神に願い求めた。その姿を見て、ヨハネは、神様がどんなに深く、自分を愛しているかを知ったって言うんですね。
 愛されている自覚、それは、私たちに生きる力と勇気と励ましを与えてくれます。村田投手は「兆治、おまえに、この右腕をやりたい」と言った、お父さんの言葉が耳の奥底にのこって、強い励ましとなったっていっています。同じように、「おまえに、私の命をあげよう」といわれるキリストの言葉は、ヨハネに大きな生きる力と勇気と励ましを与ただろうと思います。

 でも、忘れないでください。キリストはあなたのためも十字架にかかられたのです。ですから、キリストは、今でも、聖書を通して、私たちに、あなたに、「私は、おまえが天国で永遠に生きられるよう、私の命をあなたにあげよう。」とそうおっしゃって下さっているのです。

2019年8月20日火曜日

全部忘れちゃった・・・健忘症の話じゃないですよ。


      全部忘れちゃった・・・健忘症の話じゃないですよ。


 実はね、私はこの年になっても、おもちゃ屋が大好きで、町でおもちゃ屋を見かけるとふらふらっと入って言っちゃうんですよ。そこでね、この前も、やっぱりおもちゃ屋を前を通り過ごすことができないで、誘い込まれてしまいました。

 そこは、かなり大きなおもちゃ屋でしたが、そこで、おばあちゃんが、孫娘を連れてきていました。かわいい孫に何か買ってあげようっていうんでしょうね。ほほえましい風景です。

 ところが、そのとき、その4,5歳ぐらいの女の子が、しっかりとおもちゃを握りしめて、おばあちゃんに、「この前もらったお金は、いちっばん欲しいものを買うために大切に取ってあるの」てそう言っているんです。

 用は、「自分のお金は、いっちっばん欲しいものを買うために取ってあるから、このおもちゃはおばあちゃん買って」っていいたいんでしょうね。そんな孫娘に、そのおばあちゃんは微笑を絶やさずに、「でもおまえ、この前も、そんなこと言っていたけど、その大切に取ってあるお金って、もうとっくに使っちゃたじゃない」ってそう言ってました。

 どうやら、その子は、自分がすでにお金を使い切っていることを忘れてしまっていたようです。まぁ、こんな年端の行かない子供ですから、仕方がないといえば言えないのですが、でも、子供であろうと、大人であろうと、人間、都合の悪いことは決して忘れないものですよね。借りたお金なんてけろっと忘れてしまっていたりして。

 反面、人のした悪や自分に対してされたひどい仕打ち、あるいは恨み言などは決して忘れないものです。だからこそ、そろそろこの時期になってきますと、毎年のごとく、怪談話がテレビや映画に登場してくる。「このあの世でも決して忘れず、末代までたたってやる」ってね、決して忘れない。

 ところが、聖書には、神様は、神様の心を痛め、悩ませた「私たちの犯した罪」をみんな忘れてくれるっていうんです。もちろん、私たちが、神様の心を痛め、悩ませたんだって言いたい気持ちはわらないわけではありません。

 でも、私たち人間が、人を憎んだり、恨んだり、ねたんだりするといった心。どんなに表面上は取り繕っていても、そうった心が、私たちの中にあるならば、そのことに神様は「心を痛め、悩み、悲しんでおられるのです。聖書は、そう言った心を含んで「私たちの犯した罪」って言うんですね。

 もちろん、心の中だけでなく、実際に何か犯罪を犯したり、人と激しく争ったりするようなことがあるならば、それは言うまでもないことです。

2019年8月8日木曜日


大切な失くし「者」

先日ね、私の家にあるゴジラの人形の背びれの一部分が、抜け落ちてなくなってしまったんですよ。ほんの1センチ程度の部品なんですけど、大切にしているものでしょ。だから妻と私で捜し回りました。 
妻なんて、掃除機を空けて、吸ったごみの中まで捜しまわりました。結局、カーペットの下からみつかったんですけど、大事にしているゴジラですから大騒ぎでした。もし見つからなかったら、製造元のおもちゃ屋に電話して、頼み込んででも、代わりの部品を送ってもらうことも覚悟してたぐらいですからね。 
でもこれは人形の部品ですから、仮になくなってしまっても代わりの部品で済まされます。でも、人間だとそうはいきませんよね。

私の子供がまだ小さかった頃、それこそ2歳か3歳いかない頃に、家内が着替えをさせている時に、電話は何かで、ちょっと目を離したスキに、いなくなっちゃったんですよ。 
それで、家中捜したんだけれどみつからない。どうやら外にでていってしまったらしいんです。それど、家の周りを、それこそ声をあげながら名前を呼びながら捜しまわったんです。でも見つからない。そのときの家内の顔はね、もう青ざめてましたよ。 
 それで、警察に子供がいなくなったって電話したんです。そしたら、「どんな特徴の子ですか」って聞くわけです。どんな特徴ったって、裸ですよ。これほどの特徴はないでしょだから、裸の子ですっていったら、「ああ、裸の子ね、保護してますよ」ってね。もうほっとするやら嬉しいやら。

 大切な、かけがえのない子供です。確かに私には3人子供がいます。だから、ゴジラの部品のように、代わりのものとはいきません。たとえ、他に二人子供がいたとしても、その子の代わりになるような子なんていないじゃないですか。一人一人がかけがえのない、大事な愛する「私の子供」なんです。

 あのね、聖書は、キリストを、良い羊飼いのようなものだといっています。どんな良い羊飼いかって言うと、1匹でも、羊がいなくなったら、残りの99匹をおいてでも捜し回るような羊飼いが良い羊飼いだっていうんです。
 でもおかしいでしょ。99匹を残して1匹を探し回っている内に、残りの99匹に何かあったら大損害じゃないですか。ですから、損得勘定を考えれば、本当に良い羊飼いかどうかは疑問ですよね。

 じゃぁ、どこが「良い」羊飼いなのかのかっていうと、結局、たとえ1匹でもいなくなったら、後のことも考えずに捜しに飛び出すほど、1匹1匹の羊を大事に思い、大切に思っている。そのような羊を大切に思い慈しんでいるからこそ良い羊飼いだって言うことなんでしょうね。 
つまり、キリストは、私たち一人一人を、つまりはあなたを、かけがえのない「ひとり」として大切に思い、慈しんでおられるお方だと、聖書はそういいたいんですね。キリストにとって、あなたは、かけがえのない大事な愛する「私の子」なんです。

キリストは、今日もあなたの名前を呼びながら、あなたを捜し歩いています。そういった意味では、聖書は、あなたを呼び求めるキリストの声であるといっても良いだろうと思います。
ですから、どうか聖書を通して、あなたを呼び求めるキリストの愛のこもった声を聞いて欲しいなってそう思います。









2019年7月20日土曜日

アガペーの愛


「アガペーの愛」

聖書にはこういう言葉があります。「妻たちよ、あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。教会がキリストに従うように、妻も、すべての事において、夫に従うべきです。」

なんだかこう言いうと、聖書っていうのは、時代錯誤の男尊女卑のように見えますよね。でも、そうじゃないんですよ。
というのも、夫には「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をささげられたように、あなたも自分の妻を愛しなさい。」ともいっているからなんです。
この「妻を愛しなさい」の「愛」という言葉は、新約聖書のもともとの言葉であるギリシャ語をみると、アガペーという言葉が使われています。

 アガペーという愛は、無償の愛と訳される言葉で、相手のことを思い、相手の為には何の報いも求めないで、自分の命までも与えてしまうような愛のこと。イエス・キリストが、人々の罪のために命を投げ出して死なれたその根底にあったのが、このアガペーと言う愛です。ですから、このアガペーの愛は、神様が人を愛する愛であると言えます。

キリストは、私たちが、神と人の前で、生き生きと生きて行けるようにと、十字架の上でご自身を捧げ、そして死んでいかれました。
それと同じように、「夫は、『自分の妻が生き生きと生きていけるようになるためには、自分の命を投げ出してもかまわない』というぐらいに、妻を愛さなければならないよ。」と聖書はそう言うのです。

そして、「夫から、そんなふうに愛されたら、妻たるあなたは、夫の言葉に耳を傾け、その言葉を聞いて従うことが出来るだろう?」って聖書はそう言うんですね。
それは、夫が一方的に妻を支配していた2000年前の時代に、「夫婦が愛しあうということは、どちらかが相手を支配することではない。本当に愛するとは、相手の事を思い、相手が生き生き生きられるようにしてあげることなんだよ」と教えるためだったのです。
でも、そう教えられたって、そう簡単にできることじゃないですよね。不可能って言ってもいい感じさえします。

ところが、この不可能に思われるようなことをキリストはして下さったんです。たとえば、人々から、蔑まれ、罪人といわれていたような人々の所に行って「子よ、あなたの罪は赦された」って、そういって一緒に寄り添い、食事をなさられたのが、キリストというお方です。
 そのような愛で、キリストはあなたを愛しておられるのです。そのキリストの愛にふれたなら、私のような者でも、キリストのようにまでは行かなくとも、少しづつでも人を愛せる者に変えられていく。そんな希望を持っているんです。

 ですから、この、あなたを愛しているというキリストの愛を、あなたにも知って欲しいってそうおもいます。そして、あなたの人生を実りある豊かなものにして欲しいってそう思うんです。

2019年7月11日木曜日

ヘセドの愛

「へセドの愛」

最近は、教会で結婚式を挙げる人が多いようですが、キリスト教式の結婚式のクライマックスは、なんと言っても「あなたは、相手の人が病気の時でも、健康な時でも、変わらない愛でこの人を愛することを約束しますか?」という互いに愛しあう約束を交わす場面ではないでしょうか。

 教会の結婚式で交わす愛の約束ですから、当然、その愛とは、聖書に書かれている愛ということになります。でもね、日本語の聖書で愛って訳されている言葉は、もともとの言葉ではいくつかあるということは前回もお話しました。
その中の一つは、先週お話したアッハァバという愛。なんだか良くわからないけど、でも「この人が好き」と言う理屈抜きの愛で、結婚するまではこのアッハァバの愛でもいいわけです。
 ところが、いざ結婚するとそれだけじゃ困る。そこでヘブル語のへセドという愛が登場するわけですが、このヘセドって愛は、契約の愛、約束の愛と訳されるような言葉です。
 契約の愛っていいますと、なにやら不純な感じがしますが、実はそうじゃない。へセドって愛は、「私はあなたを愛すると約束したから、どんなことがあってもその約束に忠実にあなたを愛し続けます。」という愛なのです。

神様は、人間がいとおしくていとおしくて仕方がない。だから、あなたが私の子となり、私の民となるという約束を結ぶならば、私もあなたを私の子、神の民として迎えることを約束しよう。そして、約束した以上は、何があっても、私はあなたを愛し続けるよというのがヘセドの愛で、これもまた、神様が人に注がれる愛なのです。

 結婚式で、牧師が「あなたは、この人が病気の時でも、健康な時でも、変わらない愛で愛することを約束しますか?」とたずねる時、それは、あなたは、この人がいとおしくていとおしくてたまらなくて結婚しようとしていますが、この人を伴侶とすると約束する以上、何が起ころうと、どんなことがあっても、この人を妻あるいは夫として、この人意外に妻や夫としての愛は与えません。」と言うことを約束しますかと訊ねているわけです。

 聖書には、神様とその神様を信じる人間の関係を結婚にたとえています。それは、神様は私たち人間がいとおしくていとおしくてたまらず、それゆえに、人間と永遠に何があっても変わらない愛で愛しあうような間柄になりたいと願っておられるからです。そして、「自分の命を投げ出すほどにあなたを愛するよ。いや、すでに、もう十字架にかかって命を投げ出している。だから、あなたは、私を信じ、私を愛する者になりませんか、さぁ、その約束をしましょう」と私たちに問い掛けておられるのです。そして、今、私たちがその問い掛けに答えるならば、神様は私たちに永遠に変わらない愛を注いでくださるのです。   

2019年6月20日木曜日

アッハバの愛


 「アッハバの愛」

私は牧師と言う仕事柄、今まで何組もの結婚式の司式を行なわさせてもらいました。その際必ずキリスト教で結婚式を挙げるということはどういうことかについて何回かに分けて、説明させていただくんですが、仲むつまじく愛し合っているカップルを見るというのは、なかなかいいものです。
もっとも、結婚式の説明をしている時から、険悪な雰囲気なら、これはもう困ったものなのですが…。

 その準備のための説明をさせていただくときに、私の話を聞いておられるお二人に、「どうしてこの人と結婚しようと思ったんですか?」て聞くんです。そうすると、「この人は優しいから」とか、あるいは「価値観が一緒だったから」と言った答えが返ってくる。
 そしたらね、ちょっと意地悪いんですが、「ほかにも優しい人はいませんでしたか?」って聞くんです。そしてら、「えー。確かかに居るには居ましたが」ってな感じでね、とまどったような答えが返ってきます。「だったら、どうしてほかにも居る優しい人の中で、わざわざこの人なんですか。」って問い詰めていくと、みんな答えに窮し始めてしまうんですね。
 なにも、せっかく中むつまじいいカップルを仲たがいさせようと思ってそんな質問しているんじゃなくて、答えに窮してしまった二人を見て、「それでいいんだよ。」って言うんです。

 日本語の聖書で愛するって訳されている言葉は、聖書のもともとの言葉であるへブル語とギリシャ語には何種類か愛という言葉があるんですが、その一つにへブル語のアッハバという言葉があります。

このへブル語のアッハァバという愛は、不条理な愛とでも訳される言葉です。相手に対して何ら愛するに値するような理由を見出すことが出来ないけれども、それでもいい、何だかわけがわからないけれど、この人がいとおしくていとおしくてたまらないと言う愛がアッハァバの愛で、神様が人間を愛する時に使われる愛です。
つまり人間は、神様に愛されるような理由や資格は何もないのですが、神様が人間の方をいとおしくていとおしくてしかたがなく、それで人間を愛してやまないと言う熱情的な愛なんです。

 私たち一人一人は、神様に愛されるような、理由や価値、愛される資格といったものを問われるとしたら、決して愛されるに値するものではないのかもしれません。でも神様の方は、私たちを、あなたをいとおしくていとおしくてたまらないから、いつもあなたと一緒にいたいんだって、そうおっしゃってくださっているんですね。
 まさに、神様があなたを愛しておられる愛は、理屈ではない、まさに不条理な情熱的な愛なんですね。

2019年5月20日月曜日

あなたは一人じゃない


             あなたは一人じゃない

あまり経験することのないことですし、したくもないことなのですが、以前、医者からガンであることを告げられました。もっとも、私の場合は甲状腺に出来た乳頭ガンというもので、ガンと呼ばれるものの中では最も性質のおとなしいガンらしく、おまけに発見がめっぽう早かったらしく、手術さえすれば心配はいらないとのことでした。

 そうはいっても、最初に甲状腺に腫瘍があると分かり、それがどうも悪性のもの、つまりはガンらしいと分かってから、実際にそれが、その性質のおとなしい乳頭ガンだと分かるまでに2ヶ月近くかかりました。その間、自分自身で「家庭の医学」やインターネットなどで調べると、甲状腺にできるガンは、その大半が先の乳頭がんというおとなしいガンで、回復の可能性が極めて高いものだということ分かりましたが、しかし同時に、5%ぐらいは非常にたちの悪いガンが同じように甲状腺に発生し、その場合は本当に厳しい状況であるといったことが分かってきました。

人間とはヘンなもので、95%は安全と分かってはいても、5%に危険性が突きつけられると、その5%が、残りの95%を凌駕してしまうほど重くのしかかってくるもののようです。ですから、今でこそ「心配はいらないとのことでした。」といえますが、私に出来たガンが、95%のおとなしいガンなのか、それとも5%の極悪のガンなのかがはっきりするまでは、生まれて初めて、真剣に自分自身の死という事に向き合わされました。そして、そこで私は、2つのことを痛感させられました。

一つは、神様は本当に平等なお方だということ、もう一つは人間は結局一人で死んでいかなければならないということです。
 私はよく人から、「あなたは牧師らしくない」といわれますが、しかしそれでも一応は牧師の末席にぶら下がっています。ですから神様を心から信じていまし、たとえ寸足らずの牧師であっても一生懸命神様にお仕えしたいと願っています。しかし、実際に病気になってみると、いかに牧師であろうと、信仰に熱心なクリスチャンであろうと、神様は人が病気になるときには、神を信じていようといまいとにかかわらず、同じようになさるのだなとおもったのです。

こういうと、「それみろ。だから神なんて信じても信じなくても同じだ。しょせん神なんかいないのだ。」と突っ込まれそうですが、しかし私は、だからこそ神様は公平なお方なんだ、と心からそう思えたのです。「お前は牧師だから、特別に病気に合わないようにしてあげよう。」とか、「お前は信仰に熱心だから、特別扱いをしてあげよう」などといわず、全ての人と同じようにお扱いになられる。これ以上の公平さはないように思えたのです。

だからこそ、どんなに罪深いと人が思おうと、どんなに牧師らしくないと思われるようなダメ牧師でも、神様は私を他の優れた人や牧師達と同じように愛してくださるお方なのだと言うことを実感として感じ、そして心が慰められたのです。
 また当たり前といえば当たり前なのですが、死ぬ時は、結局自分ひとりで死んでいかなければならないという現実が私に前にありました。どんなにつらくても、寂しくても家内に「いっしょに死んくれ」とはいえるものではありません。第一結婚式の誓いは「共に死が二人を分かつまでは、これを愛し、これを敬い、堅く節操を守るか。」です。死で分かたれるのですから、夫婦関係を盾にして、「いっしょに死んでくれ」では愛情もへったくれもあったものではありません。

人間、ある意味独りぼっちということほど恐ろしいことはないのかもしれませんし、人間にとって孤独ほどつらいものは、他には無いのかもしれません。だからこそ、一人ぼっちで死ななければならない孤独の恐怖とつらさが、人間に激しく死を厭わせるのかもしれない。そんな思いにすらなってしまいます。

昔のある哲学者が、「人間は社会的動物である。」といったそうですが、結局人間は、人と人との間にあって人間として生きていけるということなのでしょう。 
良く耳にすることですが、自分の友達が、本当の友達であるかどうかは、自分が困った時や困難なことに出会った時にわかるのだそうです。何事も順調で羽振りがいい時、あるいは波風の立っていないときには仲良くしていた友達が、ひとたび問題が起こり困ってしまうと離れていってしまう。そういった友達は、本当の友達ではないというのです。

そして、本当の友達とは、むしろ、困り苦しんでいるような時に、何もすることが出来なくても、その人を決して独りぼっちにし、孤独にしないように、そっと寄り添ってくれる者こそが、本当の友達なのだというのです。

今回、まがいなりにも自分の死ということに向きあってみて、結局人間は、自分独りで死んでいかなければならないとわかったのですが、しかし不思議と心は孤独ではありませんでした。それは、たとえ独りで死んでいくにしても、死に至る瞬間までは共に歩み、苦しみ支えてくれる妻や子供達がいてくれるということもありましたが、同時に、死んだ先まで「友よ、私はお前と死の先までも一緒に行こう。」と言われるイエス・キリストの存在をひしひしと感じられたからです。

まさしくイエス・キリストは、死というぎりぎりの困難さの中にあっても、決して私たちを独りぼっちにしない、本当の私たちの友なのです。

 2000年前にイエス・キリストは十字架の上で死なれました。それは私たちの罪に身代わりとなって私たに罪の許しをもたらす贖罪のための死であったと同時に、独りぼっちで死んでいかない私たちと共に、死出の旅路までにおいても、道行く友となるための死でもあったのかも知れない。そんなふうに思えて私には仕方がないのです。