2023年9月23日土曜日

あなたは孤独ではない。

 


教会で歌われる歌の中にフットプリンツ(足跡)と言う歌があります。その歌詞は次のようなものです。

主と私で歩いてきたこの道 
あしあとは二人分
でもいつの間にか一人分だけ 
消えてなくなってしまった

主よ あなたはどこへ 
行ってしまったのですか
私はここにいるあなたをおぶって 
歩いてきたのだ
あなたは何も恐れなくてよい 
私がともにいるから

下記のアドレスをクリックしてくださればコマーシャル動画の後に曲を聞きことができます。

https://www.youtube.com/watch?v=TuIAHabqzmw


この曲のもととなる詩は。アメリカ人の女性であるマーガレット・F・パワーズという人女が作ったものです。それの詩がこれです。

ある夜、私は夢を見た。私は、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。
一つは私のあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
私は砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
私の人生でいちばんつらく、悲しいときだった。
このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ね
した。「主よ。私があなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道にお
いて私とともに歩み、私と語り合ってくださると約束されました。
それなのに、私の人生の一番辛いとき、一人のあしあとしかなかったのです。
一番あなたを必要としたときに、
あなたがなぜ私を捨てられたのか、私にはわかりません」
主はささやかれた。
「私の大切な子よ。私はあなたを愛している。
あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。
あしあとが一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていた。

マーガレット・F・パワーズあしあと 多くの人を感動させた詩の背後にある物語」、松代恵美訳、太平洋放送協会、1996年
 この詩が生まれたははいけいについては、下記のところで紹介されていますので興味のある方は、下記のアドレスをクリックしてくだされば見ることができます。

https://lucky.t-nakai.work/2018/12/15/poem/

 この歌詞は、私たちの人生の中で、もっともつらい時、もっとも悲しい時、それこそ自分の足でもう立ち上がり、歩けないようなときに、そこに寄り添い、支え、背負いまでして共に歩いてくださるイエス・キリスト様のお姿があります。
 私は42歳の時に医者から甲状腺にガンができていると宣告されました。幸い、私のガンはおとなしい性質のガンであり、手術で取り除くことができました。
 私たちはガンと言うと、すぐに死と結びつけて考えます。もちろん、今の医学では、たとえガンであっても必ず死に直結するわけでもなく、
完治する者もあります。でも、イメージとしては、ガンと聞くと死を連想してしまいます。私もがんだと言われてからしばらくの間、死と向き合いました。その時分かったのは、人は1人で死んでいくのだということです。そして、その一人で死んでいくと言う孤独感が、死の恐れの一つなのだということです。ところが、私にはその孤独観がありませんでした。なぜならば、十字架の上で死なれ、死から蘇られたイエス・キリスト様が、私と共にいてくださるということを、心が感じ取っていたからです。
 その心で感じたイエス・キリスト様が「大丈夫、仮にお前が死ぬようなことがあっても、その死の先まで私はお前と一緒に歩いて行ってあげるから」とそういってくださっているように思いました。

 死と向き合うとき、そこにはもはうや祈ることのできないほどの絶望があります。しかし、そのような祈る事さえできないような絶望の中にあっても神は私たちと共にいてくださるのです。そしてその方が、私たちの生涯のすべてに伴ってくださる。
 そのことを、私の友人の牧師岩本遠億牧師が2分30秒程度のの短いショート・メッセージで語ります。そのショート・メッセージは下記のアドレスで聴くことができますので、そのアドレスをクリックし、▶ボタンをクリックしてお聴きください。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e29lh7c?fbclid=IwAR2trSBo7L9JDtZ-t9srXDj1dJ5VxlBE2sc2c-u6qiXUBbhd28zs-j-pIWo

この岩本遠億牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものです。それを岩本牧師の御許可をいただいて転載しています。

2023年9月22日金曜日

一体の愛

「一体の愛」

キリスト教は救済の宗教です。

では、その救済の内容は何なのでしょう。私はプロテスタントの教会の牧師ですが、一般にプロテスタントの教会は救いを罪の赦しとして語る傾向が多いようです。それも、私たちひとり一人が犯した罪に対する神の赦しです。つまり、ひとり一人の「私」という個人が犯した罪を神が許してくださり、その罪の赦しを受けた人の魂が、神によって救われるという。

 たしかに、それはそれで間違ってはいません。しかし、救いと言うのは、ただ罪の赦しということだけではありません。そもそも、キリスト教で言う罪は、一般的な意味で使われ認識される罪ということとは微妙に違っています。すなわち、キリスト教で言う罪とは、人間が神から離れてしまっている状況、あるいは本来は神と共に在る存在であり、神と共に生きる存在であるのに、その神から離れてしまっていることを指しているのです。ですから、その視点からみると、キリスト教で言う罪の赦しという言葉は、神から離れたしまっていた人間が、神と一つに結ばれるという意味であるということができます。

 実際、キリスト教の歴史の中では、この神と一つに結ばれるということ、「神化」とか「神との合一」と言う表現で語られてきました。神と人とが一つに結ばれるということ、それは人間が神と同じになるということではありません。それは、人間と人とが親と子のような関係になるということです。そのことを明らかにするために、父なる神は、子なる神であるイエス・キリスト様をこの世界にお送りくださったのです。

 父なる神と子なる神イエス・キリスト様との間には、決して分かつことのできない愛と信頼の関係があります。そして、その愛と信頼に関係によって一つに結ばれているのです。

 イエス・キリスト様は、父なる神に対して、十字架の死に至るまで、従順に従い生きられました。そこにはイエス・キリスト様の父なる神に対する絶大な信頼があります。その信頼にこたえるかのように、神はイエス・キリスト様を死から復活させるのです。それは、父なる神の絶大な愛がイエス・キリスト様に注ぎ込まれ、神の幾つしみがイエス・キリスト様を包み込んだ神の愛の証なのです。

 この神と一つに結ばれる「神との合一」ということが、救いと言うことの内容です。そして、救いがそのような内容であるからこそ、キリスト教の救いは、神の愛に裏付けされた慰めや平安といった心の安寧を産み出す作用があるのです。

 私の友人の牧師、岩本遠億牧師は、この「神との合一」ということを、4分足らずの短いショート・メッセージの中で、実にわかりやすく話しています。その岩本牧師のショート・メッセージは下記のアドレスで聴くことができますので、そのアドレスをクリックし、▶ボタンをクリックしてお聴きください。


https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e29jhq2?fbclid=IwAR0uCkijcCYjUrH0V6pYpGjv7wSUI5in5v8jgVjtQ54Xn0QdOT1Acd8PrFw


この岩本遠億牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものです。それを岩本牧師の御許可をいただいて転載しています。

2023年9月21日木曜日

神様との秘密

「神様との秘密」

私たちの住む「この世」という世界は、評価に満ちています。
さまざまな基準で、ありとあらゆるものを評価し、価値づけていきます。
じっさい、私たち自身が、生活の様々な場面で、物事を評価し、価値づけています。同時に、その私たち自身もまた、評価され、価値づけられます。しかも、その基準は一定ではないのです。人それぞれが、様々な基準を持っています。
 そのようにして他者が、私を評価し、価値づけた内容と。私自身が、自分を評価し価値づけた自己評価の内容が異なる場合、しばしば、私たちは他人が私を評価したものに従属させられます。本来、評価の判断というものは他者がする者だからです。そうなると、必然的に、私たちは周囲が自分をどう見ているかということが気になってきます。しかも、その評価の基準は一定ではないのです。さらに言うならば、私たち人間は、一人の人物の中に様々な側面を持ち、様々な能力を持った複雑で多様な存在であり、一つの評価基準で価値づけることなどできない存在なのです。ですから、その人がどのような人物なのかということについて、それは、誰にも評価できないことなのです。仮に評価している人がいるとしても、それはその人自身が持つ基準で評価しているのであって、相対的なものであって、絶対的なものではありません。
 ところが、人間を絶対的評価することのできる存在が、ただ一人います。それは神です。神は人間ではありませんから、客観的に人間を見ることができます。しかも神は唯一の存在ですから、神の評価は絶対的な評価です。しかし、神は、人を評価はしても、その価値においてランク付けするようなことはしません。神の目にすべての人は高価で尊いのです。
 昔、ある人がこんな話をしてくれました。その人は兄弟がたくさんいたのですが、ある時、その人とお父さんが二人で散歩をする機会があったそうです。そのときお父さんはその人に「お前が一番かわいいよ」と言ってくれたそうです。そして「これは秘密だよ」と言うのです。そう言われたその人は、とてもうれしかったそうです。ところが後で分かったのですが、そのお父さんは、他の兄弟にも「お前が一番かわいいよ」と言っているたのです。
 このお父さんは嘘つきでしょうか。いいえ違います。このお父さんの目に、それぞれ一人一人が「一番かわいい」存在として映っているのです。子どもの一人一人に「お前が一番かわいいよ」と言ったお父さんの言葉は、真実な思いから出た真実の言葉なのです。
このお父さんと子どもの物語は、神と私たちの物語でもあります。その神と人間の物語を私の友人の岩本遠億牧師が3分ほどの短いメッセージで語ります。そのショートメッセージをお聞きになりたい方は、下に記したアドレスをクリックし、▶ボタンをクリックすれば聞くことができます。(音声が出るまで、すこし時間がかかることがあります) 


https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e29ipgm?fbclid=IwAR1GiIQtI16WXhnhHIJxvcBiLmIjFjAKUxQGhMkAgD0QJIuIhOGNloPnYbo

この岩本遠億牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声でお伝えしている者ですが、岩本牧師の御許可をいただいて転載しています

2023年9月20日水曜日

ゴジラと聖書と物語神学

 書斎の机越しに目を挙げると、ゴジラのフィギアが目に飛び込んでくる。ゴジラだけでなく、モスラやキングギドラなど様々なフィギアが、私の住居には、書斎に限らずリビングにもあふれている。これらのものは怪獣と呼ばれるが、私が趣味として集めたものである。これら怪獣の始まりは1954年版の初代ゴジラにあると言って様だろう。怪獣は、恐竜や巨大なモンスターとは違う。怪獣は怪獣であり、怪獣の存在そのものが、人間の存在を危うくし、存在の根底を揺るがし、不安にさせ、ある種の神性をおびた畏れを感じさせるものである。

 その怪獣の祖である初代ゴジラが東京に来襲して街を破壊していく物語は、制作当時の人々の、核兵器に対する漠然とした不安や怖れといったものを如実に物語っている。同時にゴジラの物語は、不安と怖れの源に勝利し、平安な生を回復する生き方へと私たちを誘う。つまり、そこにはゴジラを制作した監督の本多猪四郎をはじめとする制作者のパトス(熱情)が読み取れるのである。その意味で、初代ゴジラは強いメッセージ性を持つ啓示的作品であると言えよう。
 その後、ゴジラは2016年の庵野秀明監督のシン・ゴジラまで二九作品(アメリカ版ゴジラおよびアニメ版ゴジラを除く)が製作された。しかし、初代ゴジラ以後、初代ゴジラのヒットを受けて。その多くの作品が商業的意図を持った興行的娯楽作品に堕した感も否めない。もちろん、それはそれで拝金主義に陥っていく日本の姿を物語る物語なのだが、それでもなお、ゴジラ対ヘドラやゴジラ対ビオランテといった啓示的作品も製作されてきた。そして、最新作のシン・ゴジラは東日本大震災を彷彿させるリアリズムのある怖れと不安を見事に物語化している。つまり、1954年の時代背景の中で物語られた初代ゴジラの描く人間の存在を脅かす恐れと不安の物語が、2016年のシン・ゴジラにおいて、その時代背景のもとで再び物語られているのである。
このようにしてみると、不安と怖れを物語として語るゴジラ映画の歴史には、まさに物語神学的展開がみられる。また、シン・ゴジラはゴジラ映画の教義学的存在だと言える。そこには、キリスト教における啓示の問題に通じるものがある。それゆえに、私は神の啓示を語る書(『今、ここに立ち現れる神-傘の神学普遍啓示論』2023年11月出版予定、『神かく語れりー傘の神学特殊啓示論』2024年出版予定)を書く際に宗教学的論述から始めなければならなかった。それはまさに、神という存在が、怖れを感じつつ、しかしその存在に引き寄せられる畏怖すべき「私はいる(אֶ הְ יֶה אֶ הְ יֶה אֲשֶׁ ר あるいはἘγώ εἰμι)」としてしか「言い表すことのできない」ヌミノーゼ的存在だからである。
もっとも、このヌミノーゼ的存在は、人間の存在を脅かす存在ではない。むしろ、人間を存在者として存在させ、かつ人間を人間とする人間形成を導く存在そのものである。だからこそ、ゴジラとは違い、排除されるのではなく、求められるのである。いうなれば、ゴジラは罪と死の原理のもとにある怖れ、すなわち破壊と死の恐怖の物語であり、אֶ הְ יֶה אֶ הְ יֶה אֲשֶׁ ר あるいはἘγώ εἰμιは、命と創造の原理のもとにあって畏敬を産みだす存在なのであると言える。。
そして、このヌミノーゼ的存在であるאֶ הְ יֶה אֶ הְ יֶה אֲשֶׁ ר あるいはἘγώ εἰμιを、我々がいかに認識し語るのかというのが、啓示の問題である。この問題に対して、教会は歴史的に、それを聖書に求めてきた。その聖書は、様々な文学ジャンルがある。歴史的書物もあれば、詩のような文学的ジャンルもある。さらには手紙と言ったものさえ含まれている。しかし、それら一つ一つが人間の生の営みから生み出されたものである。そして、それら一つ一つに、אֶ הְ יֶה אֶ הְ יֶה אֲשֶׁ ר あるいはἘγώ εἰμιの前に生きた人間の物語がある。その聖書の中にあるאֶ הְ יֶה אֶ הְ יֶה אֲשֶׁ ר あるいはἘγώ εἰμιとの関わりをもって生きた人間の生の物語を通して神は語っている。そしてそこには、神の我々人間に対する熱いパトスが感じられるのである。
 だとすれば、「今、ここで」を生きるキリスト者一人一人の生もまた、神の語りかける言葉に応答し営まれた生であると言うことができよう。だとするならば、我々キリスト者一人一人の生もまた、神の啓示となるのではないか。然りである。それゆえに私は、キリスト者に、そして何よりも私の妻や子供たち、孫たち、そしてすべての人に伝えたい。あなた方の存在は、

あなたがたは、私たちが書いたキリストの手紙であって、墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人間の心の板に記されたものであることは、明らかです。(コリントの信徒への手紙二・3)

と言われる存在であり、あなた方を通して神が現れ出るのである。だからといって、我々キリスト者の生が書き記されて残されるとき、それが聖書となるか、あるいは聖書と同等に扱われるべきかというと、それは否である。なぜならば、聖書は教会の伝統の中で正典(canon/基準)として受容されたものだからである。確かに聖書に記されたものは、イスラエルの民の歴史とイエス・キリストの歩み、およびその教えに基づき歩んだ最初期の教会の歴史である。しかし、それらを通して表されたものは神の民の生き方である。その聖書が教会の伝統の中で正典(canon/基準)として受容されたのであり、個々の信仰経験は、この正典としての聖書によって検証される。それゆえに聖書は、まさに正典として教会と教会に繋がるキリスト者一人ひとりの生き方を制し、導く神の語りである。

 一人一人の信仰とその信仰に基づく歩みは、神の語りかけに対する応答によって築き上げられる。その神の語りは、様々な形で我々に訪れる。そして、その語りかけは「私」に対して語りかけられる神の「神かく語れり」である。その意味において、我々は、神に語りかけられている。そのような神の語りかけの中で、我々は直接神に語りかけられたと感じる経験をすることがあるかもしれない。事実あるであろう。私自身、自らの信仰生活の中で、何度かそのような経験をしたことがある。そして、その語りかけられた言葉は、必ずしも聖書の言葉どおりでないこともあるであろう。それは、ある種の神秘的な宗教経験といってよい。
宗教にとって、宗教経験はその人の信仰の核となる極めて重要なものである。そしてだれにでも、またいずれの宗教にも、何らかの宗教経験といったものがある。それゆえに、神に直接語られたと感じるような神秘的な宗教経験を否定はしない。しかし、それがどんなに神秘的な経験であったとしても、それは私という個人の特殊な状況のもとでの個人的なものであり、キリスト教一般に横たわる真理として還元すべき普遍的なものではない。また、それがどんなに個人に対する特殊な経験であっても、その経験は絶えず正典である聖書の言葉に照らし合わせて内省され、吟味されなければならないであろう。なぜならば、経験は知覚されるものであり、知覚は認識に至るのであるが、その認識は過去の出来事によるからである。そしてその過去とは、聖書に物語られた過去なのである。
神が私に語った。そのような宗教的経験の正当性が、聖書のある部分だけに寄りかかっていたり、聖書の言葉が持つ時代的背景や社会的状況といったものを考慮に入れないで、その言葉の表面的な意味だけに寄りかかっているとするならば、その宗教経験は注意して批判的に内省すべきである。
神の啓示は、我々に謙虚になることを求めている。どんなに明確で強い体験をしたとしても、謙虚になって心を静め、聖書の言葉に耳を傾け、聖書が物語る物語に学ぶことが大切である。そして聖書という書物が語る物語を通して語られる神の言葉に学ぶということなしに、自らの宗教経験を神の啓示とするのは危険である。それは、自らの主観を絶対化することであり、自らを偶像化する行為である。そして、私たちが読むべき聖書が語る物語は、神の民の生の物語であり、神の民がイエス・キリストというお方に結実する神の像へと実を結んでいく歩みの物語であって、その物語が私たちに人生の歩みに結実するために記された物語なのである。

苦しみは窓

 「苦しみは窓」

試練や苦難というものは、できるならば会いたくはないものです。
しかし、どんなに私たちがそれに会いたくないと思っても、試練や苦難は勝手に向こうの方からやってきます。それは、招かれざる客であり、決して好ましいものではありません。しかし、どんなに嫌な客であっても、それは客であるがゆえに手土産を持ってくるのです。そして、その手土産は、とても価値あるものなのです。

 「災い転じて福となす」。これは日本のことわざですが、災いが転じて福となるのは、試練や苦難という招かれざる客が持ってくる手土産を受け取ることことによってです。では、その手土産とは何なのか?
 16世紀前半、ヨーロッパでは宗教改革という出来事がありました。この宗教改革の立役者であったマルティン・ルターという人物は、祈りについて、次のように言います。すなわち祈りとは、「願い求めることであり、思い廻らすことであり、試練にあうことである」というのです。そして、試練に会うと言うことが祈りということでもっと大切な事なのだと言うのです。祈りというものが、願い求めるということはわかります。実際、私たちが祈る時、私たちは、神や仏の願いを訴えているからです。祈りが思いを思い廻らすものであるということも何となくわかるような気がします。私たちは、しばしば祈りつつ「どうしたらいいだろうか」「どうしてこんなことになったのか」と思い廻らしつつ祈るからです。しかし、祈りはこころみに会うことであるとは、どういうことなのでしょうか。
 祈りというものは、祈りを捧げる相手、詰まり祈る対象がいます。それこそキリスト教であるならば聖書にあらわされた神に向かって祈るのです。そのとき、私たちは真剣に自分が信じる信仰の対象と向き合います。自分が信じる神に向き合い、それお方がどのような方であるかを知るのです。そして、それこそが祈りということの本質なのだとルターは言っているのだろうと思います。
 試練の中に置かれた時、私たちが真剣に神に向き合うならば、神もまた真剣に私たちに向き合ってくださいます。試練や苦難が持ってくる手土産は、まさに「この真剣に神と向き合うと時」なのです。そして、そこで出会う神の顔は、慈しみに満ち、愛に包まれているのです。その神の地合いが、試練や苦難の中に置かれた私たちの心に、慰めと平安をもたらすのです。
 この試練や苦難がもたらす神との出会い。それは「苦しみは窓」ということです。そのことについて私の友人の岩本遠億牧師は3分ほどの短いメッセージとして次のように語ります。そのショートメッセージをお聞きになりたい方は、下に記したアドレスをクリックし、▶ボタンをクリックすれば聞くことができます。(音声が出るまで、すこし時間がかかることがあります) 


https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e29haf2?fbclid=IwAR1P5TeLGD2TwMD8RYFpWR-f1X196KDUbk-bpmCJxGZvF9pN04Dgq53bJdc

この岩本遠億牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声でお伝えしている者ですが、岩本牧師の御許可をいただいて転載しています

2023年9月19日火曜日

ただ一つの必要な事

 「ただ一つの必要なこと」


私たちが幸せになるためには、何が必要でしょうか。
色々な答えを上げることができるかもしれません。
でも、本当にそれがなければ幸せではないのでしょうか。

私の知っている方に、星野富弘さんと言う方がいらっしゃいます。
この方は、大学を卒業し、中学校に教員をしておられましたが、自己で首から下が全く動かなくなりました。そのため、寝たきりの生活をしなければならなくなり、食べることも含めて、すべて誰かの手を借りなければいけなくなりました。
 やがて、星野さんは絵筆を口にくわて、水彩画を描くようになり、それにご自身の詩を書き加えるようになりました。もちろん、そこには大変な努力があったことには間違いがありません。
 その星野富弘さんが語った言葉で、私が衝撃を受けた言葉が二つあります。残念ながら、この言葉は直接聞いたことばであり、文献に残ってはいません。ただ、私が実行委員を務めた、静岡で行われた星野さんの作品を紹介した展覧会の記念誌にだけ記されています。その言葉は、

不自由と不幸とは結びつきやすい性質がありますが、不自由と不幸せは同じものではありません。私は、今、幸せです。

また、星野さんの作品の展覧会がハワイで開かれた時、ある人が「神様が、あなたをけがをする前の健康な体にもどしてくださる言われたらどうしますか」と尋ねました。その時、星野さんはこう答えたそうです。

 私は、今、幸せですから、せっかくのお申し出ですが、お断りしたいと思います。

 不自由とは、なにも体が動かない状況だけではありません。健康な体を持っていても、あれができない。これができない。思うようにいかないという不自由さを感じます。それは心が不自由になっているのです。そのような時、その心は簡単に「不幸だ」と思い込んでしまいます。しかし、不自由と不幸とは同じものではないのです。
 そして、星野さんをして、「今、幸せだ」と言わせているものは何でしょうか?
私は、それは愛だと思います。体が不自由になり、すべてのことを人に頼らなければ生きていけなくなった。その時に手を差し伸べ助けてくれる人の愛に触れ、それに触れ続けて、愛されているということを知った。そのことを通して、愛に包まれていることの中に幸せを感じているのではないか。私はそう思うのです。
 その愛は、多くの人から愛されるということでくてもいい。たった一人の人が、命がけで愛してくれる愛に触れるならば、私たちの心はその人の愛で包まれ、幸せを感じることができる。そして、そのような人が私たちには、今、ここにいるのです。それはイエス・キリストというお方です。
 幸せになるためになくてはならないもの、そのことを、私の友人、岩本遠億牧師は、ご自身の著書『366日元気の出る聖書の言葉』の中で次のように語りかけます。それを岩本牧師自身の音声で語っています。3分強の短いメッセージです。その内容を下記のアドレスをクリックし、▶ボタンをクリック してお聴きください。(音声が出るまで、すこし時間がかかることがあります)


 https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e29f93m?fbclid=IwAR2G14sYmo8jbUHeiEDPoChP67XhCuxY0pyHd2AvXvFsHdlYjh_dc025Okw


この岩本遠億牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』からのものですが、岩本牧師の御許可をいただいて転載しています

愛の基準としての聖書

 主日礼拝「愛の基準としての聖書」            

旧約書:ヨナ書4章9節から11節
福音書;ヨハネによる福音書9章18節から26節
使徒書;ヨハネ第一の手紙4章7節から11節

 今日の礼拝説教の中心となる箇所はヨハネによる福音書9章18節から23節です。この箇所は、生まれつき目が見えなかった盲人をイエス・キリスト様がお癒しになったという出来事から起こった一連の出来事に中にある一つのエピソードです。
 イエス・キリスト様が、ひとりの生まれつき目の見えない盲人の目をみえるようにしたという出来事は、この盲人を知っている人々にとっては、とても大きな驚きの出来事でした。しかし、その癒しの業が、安息日に行われたために波紋を広げます。イスラエルの民の間には、安息日は人を癒すということを含めて、一日中、いかなる労働もしてはならないと彼らの戒律である律法に定められているからです。
 そのため、このイエス・キリスト様がなさった「生まれつき目の見えない人の目を開き、見えるようにした」という癒しの業に対する評価が分かれた。あるパリサイ派の人々は「その人は神からきた人ではない。安息日を守っていないのだから」と言い、ほかの人々は、「罪のある人が、どうしてそのようなしるしを行うことができようか」と言って、論争を始めたのです。

 この二つの相対する主張は、それぞれの着眼点が違います。イエス・キリスト様に対して、「その人は神からきた人ではない」といって批判的なパリサイ派の人々は「安息日を守っていないのだから」という、安息日の遵守という戒律を守るか否かに目を向け、そこからイエス・キリスト様というお方を評価します。しかし、別の人々の目の付け所は違います。彼らはイエス・キリスト様が「目が見えない人の目をみえるようにした」というイエス・キリスト様の業に着目して、「そんな素晴らしい善いことをする人が悪い人間であろうはずがない」と言って、イエス・キリスト様を評価するのです。

 すると、彼らは、この生まれつき目の見えなかった盲人の両親を呼び出して、「これが、生れつき盲人であったと、おまえたちの言っているむすこか。それではどうして、いま目が見えるのか」と尋ねるのです。生まれつき目の見えなかった盲人の目が見えるようになったということ自体が信じられなかったからです。すると、この盲人の両親は、

 これがわたしどものむすこであること、また生れつき盲人であったことは存じています。しかし、どうしていま見えるようになったのか、それは知りません。また、だれがその目をあけて下さったのかも知りません。あれに聞いて下さい。あれはもうおとなですから、自分のことは自分で話せるでしょう。

と答えたというのです。
 みなさん、この出来事は、ヨハネによる福音書9章全体に横たわる生まれつき目の見えなかった盲人の癒しの物語の中にある小さな一つのエピソードです。しかし、とても私たちに大切なことを教えてくれるエピソードでもあるのです。というのも、22節、23節に

 両親はユダヤ人たちを恐れていたので、こう答えたのである。それは、もしイエス をキリストと告白する者があれば、会堂から追い出すことに、ユダヤ人たちが既に決めていたからである。彼の両親が「おとなですから、あれに聞いて下さい」と言ったのは、そのためであった。

とあるからです。
 ここには、このイエス・キリスト様の安息日に目の見えない人を癒すという出来事をめぐる議論の是非に関わらず、すでにユダヤ人の間では、イエス・キリスト様をキリストと告白するものは、会堂から追い出すことが決まっていたことが記されています。
 それは、イエス・キリスト様を排斥する動きが、恐れを感じるほどの同調圧力を伴う力となってユダヤ人社会を、少なくともエルサレムの、街に住む住民を覆っていたことをうかがわせる言葉です。
 その力とは宗教的権威の持つ力であるといっても良いでしょう。みなさん、この当時のイスラエルの民によって構成されるユダヤ人社会を結び付けているものの一つにユダヤ教の信仰を上げることは、決して間違っていないでしょう。むしろ、ユダヤの人々をイスラエルの民であるという民族意識にまで高めているのは、彼らが神の選びの民であるという宗教意識であったと言ってよいだろうと思います。そして、その神の選びの民であるということが律法と深く結びついている。

 イスラエルの民を神が選んでくださり、選びの民としての生き方を示すために律法が与えられた。だから律法は神の恵みなのであり、その恵みに応答して生きるところにイスラエルの民のアイデンティティ(自己意識)があるのです。
 その律法に、「『安息日には何の業もしてはならない』と書いてある」という主張は、宗教的権威を伴う言葉です。その言葉に基づいて、「安息地には何の業もしてはならないと律法に書かれている。にもかかわらず、ナザレのイエスは安息日に癒しの業をしている。だから、ナザレのイエスは罪びとだ」と三段論法的にイエス・キリスト様を捕え、イエス・キリスト様をキリストと告白するものは、会堂から追い出すという空気(雰囲気)が、イスラエルの民を支配している。まさに、そのような状況のもとにエルサレムの街が覆っている。だからこそ、者生まれつき目の見えない人の両親は、イエス・キリスト様が癒してくださったのだとは言い辛く、彼の両親が「おとなですから、あれに聞いて下さい」というのです。

 本来ならば、喜びをもって「ナザレのイエスというお方が、あの子の目を見えるようにしてくださったのです」と、喜びをもって答えたい場面です。しかし、この場面を描く聖書の言葉には、そのような喜びの気持ちが伝わってこない。むしろ伝わって切るのは、その場を覆っている重い空気です。
 そしてその空気の重さは、その場が裁きの場となっているからです。「安息日には何の業もしてはならない」という律法の言葉が、それは聖書の言葉でもあるのですが、その聖書の言葉が人を裁く裁きの基準として働き、安息日に目の見えない盲人を癒したイエス・キリスト様を裁き断罪している。それが、この聖書の箇所を思い空気で覆っているのです。

 しかし、聖書の言葉は、私たちを裁く基準として機能するものではありません。むしろ、聖書の言葉は、律法を含めて、私たちを愛する神の愛の基準であり、その神の愛に生かされている私たちが、神の愛に生きる愛の基準として機能すべきものなのです。
 
みなさん、聖書の言葉は、愛をその本質とする神によって吹き出された(θεόπνευστος〈セオプニューマトス〉)神の言葉です。愛の神の口から出る言葉は、愛の言葉なのです。ですから、聖書の言葉は、人を裁くために裁きの基準として用いられるべきではありません。むしろ、神の言葉は私たちを教え育み、育てるためにあるのです。

 みなさん、私たちは、先ほど旧約聖書のヨナ書4章9節から11節の言葉に耳を傾けました。このヨナ書というのは、神がヨナという預言者を、二ネベという町に遣わし、神の言葉を語らせるという物語です。
 二ネベはアッシリア帝国の首都であり、その当時では大都会です。神がその二ネベにヨナを遣わしたのは、二ネベが神の目に悪に満ちた街だったからです。実際、イスラエルの民は、このアッシリア帝国によってひどい目にあわされていたのです。
 その二ネベの街に、神はヨナを遣わし、「あと40日後に二ネベを滅ぼされる」という神の言葉を告げるのです。この言葉は、神の裁きの言葉としての響きをもって聞こえてくる言葉です。だから、ヨナも、二ネベの街の人々が滅びることを期待しながら、神の言葉を伝えるのです。

 ところが「あと40日後に二ネベを滅ぼされる」という神の言葉を聞いた二ネベの人々は神を信じ、自らの行いを悔い改めるのです。それで、神は二ネベの街を滅ぼすのを思いとどまるのです。結局、裁きの言葉をしての響きをもって聞こえていた「あと40日後に二ネベを滅ぼされる」という神の言葉は、二ネベの人を裁くための言葉ではなく、むしろ、二ネベの人々を正しい道へと導き、生かすための神の愛から発せられた言葉だったのです。

 それに反して、アッシリア帝国からひどい目にあっていたユダヤ人であるヨナにとって「「あと40日後に二ネベを滅ぼされる」という神の言葉は、様に裁きの言葉そのものとして受け止められていました。だから二ネベの街の人々が滅びるのを見るのを心待ちにしていた。にもかかわらず、二ネベの街は滅びるのではなく神に立ち帰っている。そして彼の心を支配していた悪から二ネベの街の人々を救い出すのです。しかしヨナは、その神の慈愛に満ちた行為が気に入らない。だから、ヨナは不快に思い、腹の虫は収まらず、神に文句を言うのです。

 そんなヨナを教え諭す言葉が、先ほどお読みした9節以降の言葉なのです。そこで語られている言葉は、いかに二ネベの街の人々を愛しているかを語る言葉です。いえ、神は二ネベの街の人々だけではない、私たちが、「あんな奴なんか滅んでしまえばいい」と思うような人でさえ、愛し、救いのわざをもたらすのです。ましてやみなさんも、そう、あなたも神は愛し、恵み、慈しんでおられる。神の愛がみなさんに注がれているのです。そしてそのような神の愛は、イエス・キリスト様の「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」という言葉(マタイによる福音書22章39節)の中に、また「あなたの敵を愛しなさい」という言葉(ルカによる福音書6章27節、35節)に、集約されて語られます。そして、その「敵をも愛する愛」は、「安息日に何の業をしてはならない」という言葉の背後に流れている。それは、6日間の労働で疲れたの心と体に休息と癒しを与えるためのものであり、だからこそイエス・キリスト様は、安息日であっても病に苦しむ人を癒すのです。そして、その業は私たちに喜びをもたらすものです。

 にもかかわらず、その愛の神の口から吹き出された言葉が、裁きの基準として用いられるならば、その言葉が私たちのうちから喜びや感謝を奪いとっていく。今日の聖書の箇所は、そのことを私たちに教えてくれるのです。
 

ですからみなさん、私たちは聖書の言葉を裁きの基準として捕らえるのではなく、むしろ神が私たちを愛する愛の基準として捕らえ、用いようではありませんか。たとえそれが、私たちの耳に裁きの言葉として響いても、それは絶えず私たちを正しい道へ導く神の愛から出た言葉であることを知り、「私はダメだ」と自分自身を責めるのではなく、むしろ、私たちを愛する神の語りかけとして聴こうではありませんか。

 みなさん、今日の聖書の箇所に見られように、神から与えられた律法を裁きの基準として用い、喜びと感謝の出来事から、喜びや感謝を奪い去る人々の姿を見た使徒ヨハネは、

愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべ て愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。 愛さない者は、神を知らない。神は愛である(ヨハネによる福音書4章7節から8節)。

とイエス・キリスト様を信じ、イエス・キリスト様の弟子になった人々にそう呼びかけるのです。そして、私たちもまた、そのイエス・キリスト様の弟子として召され、イエス・キリスト様に倣い、愛する者となるようにと召されてている者なのです。そのことを覚え、神が私たちを愛してくださっているということに、思いを馳せたいと思います。

 しばらく目を閉じ、心を静めて、私たちを愛してくださっている神を想います。静まりの時を持ちましょう。