2020年10月22日木曜日

 

2010月第3主日宗教改革記念礼拝説教「キリストの信仰によって」   2020.10.18. 

旧約書:出エジプト記書243節から9

福音書:マタイによる福音書517節から20

使徒書:ローマ人への手紙319節から13

 

 私たちの教会では、毎年10月の最後の週を宗教改革記念礼拝としています。本来ですと、宗教改革記念礼拝は11月の第一週なのですが、今年は事情があって、宗教改革記念礼拝を行わさせていただきます。もっとも、宗教改革記念礼拝と申しましても、とりわけ何か特別なプログラムをすると言うことではありません。ただ、宗教改革と言う私たちプロテスタントの原点となった出来事を顧みつつ、神の恵みと言うことについて考え、私たちを憐み、顧みてくださった神の愛について思いを馳せたいのです。

 今の高校では、世界史と日本史は選択科目となっていますので、全員が世界史を学ぶことはありませんが、私が中学生や高校生の時には、世界史は必修科目で必ず学ばなければならない科目でした。その世界史の時間で学んだ宗教改革と言うのは、マルチン・ルターと言う人物が、当時のカトリック教会の腐敗に抗議(すなわちプロテスト)した運動であり、そこからプロテスタントの教会ができたのだと学びました。

 ところが、こうして牧師になり、さらに宗教改革期のキリスト教を専門に学ぶようになりますと、中学や高校で学んだことは、決して宗教改革の中心ではなく、宗教改革が起こった本当の原因は、ルターの救いの確信が揺らいだことによって引き起こされた救いに関する教理の理解の違いが問題であると言うことがわかってきました。 

すなわち、人が救われるには、何らかの形で人間が関与すると考えた当時の教会の考え方に対して、ルターは、神の救いの業に、人間は全く関与できないと主張したところから、宗教改革と言うものが始まったというのです。そしてそこから、人は行いによって救われるのではなく、ただ信仰によってのみ救われるのだという、いわゆる信仰義認と言うプロテスタントの中心的教理が打ちたてられたのです。

そしてその根底には、人間は神の前に徹底的に罪びとであり、神の前では救いに値するような善き業を何一つ行うことができないのだという人間理解がありました。ですから、人が救われるのは、罪に汚れたものが神の義に包まれて、本来は罪によって裁かれるべき者が、罪赦され、義と認められたと宗教改革者であるルターと言う人は言ったのです。 

ですからルターは、カトリック教会は堕落して悪いことをしているから、悔い改めて良いことをしなさいと言って宗教改革を起こしたのではなく、人間は誰しもが神の前には罪びとなのであるから、罪を悔い改めて、罪びとである私たちを包み込んで下さる神の義に寄り縋る信仰をもって生きいていれば大丈夫だといったのです。

みなさん。私たちは、先ほど新約聖書ローマ人への手紙319節から23節をお読みしましたが、宗教改革以後500年間の間、私たちはその箇所を、まさに今申し上げたような理解のもとで読んできたのです。ところが現代になり、いろいろと研究が進み、イエス・キリスト様の時代のユダヤ人の状況や思想、そしてキリスト教の歴史と言ったものが明らかになってきました。それにつれて、どうもこのローマ人への手紙の319節から23節は、それまで私たちが読み込んできた意味とはどうも違っていると言うことがわかってきました。

 とりわけ、みなさんにも、何度も礼拝説教を通してお話ししましたように、21節、22節の

  21:しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしさ れて、現された。22:それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである

という御言葉の「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」と訳されている言葉は、本来ならば「イエス・キリストの信仰(信実)による神の義」と訳すべきものであると言われるようになってきました。

つまり、「私がイエス・キリスト様を信じる」という私の信仰を中心に置くのではなく、むしろ、イエス・キリスト様の信仰、それは十字架の死に至るまで神に従い抜くというイエス・キリスト様の信実さなのですが、その「イエス・キリスト様の信仰」が、神の義を私たちにもたらすのです。 

みなさん、「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」がと言う言葉が持つニュアンスは、「私」がイエス・キリスト様を信じるという、「私」の主体性に光をあてます。しかし、「イエス・キリストの信仰(信実)による神の義」と言う理解は、どこまでもイエス・キリスト様を中心に置く信仰です。そしてそれはイエス・キリスト様の恵みによってのみ私たちが救われるという、より恵みが強調される信仰なのです。                                              では、なぜ、このイエス・キリスト様の十字架の死に至るまで神に従い抜いた信実な信仰が私たちを救うのか。それは、神の御子であるイエス・キリスト様が人としてこの世界に生まれてから、十字架の死に至るまで、神の御心に添って生きられたからです。 

神のひとり子であられるお方が、神の御心に添って人間の肉体をとり、マリヤを母として人としてお生まれになった。そのご降誕の出来事から、十字架の上で死なれるまで、イエス・キリスト様は人として完全に神の御心に従い、神の御言葉に従って生きられたのです。そしてそれは、神の律法を完全に全うした生き方なのです。

  みなさん、私たちは先ほど旧約聖書出エジプト記243節から8節の言葉に耳を傾けました。これは、奴隷として捉えられていたエジプトの地から、イスラエルの民がモーセによって助け出されたのちに、シナイ山のふもとで神と契約を結んだときのことが記されている物語です。

 イスラエルの民がエジプトから救い出されたのは、神がイスラエルの民の先祖であるアブラハム、イサク、そしてヤコブと結んだ契約の為でした。しかし、エジプトから救い出された人々は、「先祖と神の約束のゆえに」と言うだけでなく、自分たちも神の民として神と契約を結ぶのです。

  みなさん、契約を結ぶ際には、契約を交わす双方が負うべき義務があります。神とイスラエルの民との契約においては、神はイスラエルの民を神の聖なる王国の聖なる民とし、アブラハム、イサク、ヤコブと結んだ祝福の契約を更新する義務を負うのです。そしてアブラハム、イサク、ヤコブと同じようにイスラエルの民を顧み、慈しみ、祝福を与えられる。

 それに対してイスラエルの民は、「わたしたちは主が仰せられたことを皆、従順に行います」と言った言葉を果たす義務を神にたいして負うのです。そして、この神とイスラエルとの民の契約が、互いの果たすべき義務を双方が負うと言うことを示す犠牲の動物の血を半分は祭壇に振りかけ、残りの半分を民に振りかけてという象徴的行為をもって結ばれたのです 。こうして、この契約を土台に神とイスラエルの民との交わりがそこに生み出されたと言えます。ところが、イスラエルの民は、神の言葉に聴き従うということを誠実に守り行いませんでした。 

 

たとえば、先週、ヨベルの年と言うことをお話しいたしました。神がヨベルの年という規定を設け、50年に一度は、買い取った土地は元の持ち主に返し、奴隷は解放し、負債は全部帳消しにして、いっさいのものを回復しなさいとイスラエルの民に告げたにも関わらす、イスラエルの民がそのヨベルの年を守ったと言うことがないのです。つまり、彼らは、神と人との契約において、約束不履行をしていたのです。そのイスラエルの民の不履行となっている約束を、イエス・キリスト様は完全に神に従い抜くことで全うしてくださったのです。だからこそ、イエス・キリスト様は、先ほどの新約聖書マタイによる福音書517節から20節で、 

私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。よく言っておく。天地が消えうせ、すべてが実現するまでは、律法から一点一画も消えうせることはない。

と言われるのです。みなさん、律法とは、神とイスラエルの民との間の契約において、人が守り行うべき神の言葉です。イスラエルの民は、神の言葉をすべて守りますと言いつつ、完全にそれを守ってはいませんでした。それは、律法を廃棄する行為であると言っても良いものです。

しかし、イエス・キリスト様は、ご降誕の出来事から十字架の死に至るまで、神に誠実に従い抜かれたのです。それによってイエス・キリスト様は律法を廃棄するのではなく、成就してくださったのです。このイエス・キリスト様の信実な信仰によって、神はイエス・キリスト様を義となさったのです。 

 このイエス・キリスト様の義が、イエス・キリスト様と一つに結ばれ弟子としてたもの、すなわちクリスチャンとなった者にも与えられるのです。そして洗礼は、そのイエス・キリスト様と一つに結ばれたと言うことの証です。だから、洗礼を受けると言うことは大切なことであり、ないがしろにされてはならないものなのです。

 みなさん、先ほどももうしましたように、今日は宗教改革を記念する礼拝です。そして、その宗教改革の中心にあった信仰義認ということを、こんにち、私たちは真摯な思いで見直す必要があります。

 それは、私が神を信じイエス・キリスト様を信じるがゆえに、罪びとの私が、神の義の衣を着せていただき、義ではないものが義と認められるということではなく、イエス・キリスト様が神を信じ、神に従い抜いて生きられたがゆえに、イエス・キリスト様の弟子となった私たちもまた、この神に従って生きる生き方を生きる者とされたと言うことなのです。

 もちろん、その私たちの歩みは、不完全で足らないものです。その意味では、私たちは不完全な弟子です。しかし、その不完全な弟子であり、不完全なキリスト者に過ぎない私たちを、神はイエス・キリスト様のゆえに、「良し」と認めて下さり、完全な者として、イエス・キリスト様の御足の後を歩む者としてくださったのです。

 みなさん、先ほどのローマ人への手紙の322節には「それ(神の義)は、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない」とわれています。そうです。イエス・キリスト様の信仰によってもたらされる神の義は、すべての人に差別なく与えられるのです。すべての人と言うのですから、そこにはあなたも含まれています。そのように神は、階級や身分、立場や能力の違いはあっても、私たちを、そしてあなたを神の前に正しいものとして受け入れて下さり、神の王国の聖なる民として、顧み、祝福へと招いてくださるのです。

 そのことを覚えながら、今しばらく静まりの時を持ち、イエス・キリスト様の信仰のゆえに、私たちを受け入れてくださる神の恵みに心を向けたいと思います。静まりの時を持ちます。

2020年10月13日火曜日

さあ、帰ろう

 

「さあ、帰ろう」

 みなさんは、音楽はお好きですか。 じゃぁコンサートなんかは?

 私の教会では、かつては毎年チャペルコンサートを行っていました。今は、残念ですが毎年行うというわけにはいかなくなりましたが、それでも、時々行っています。コンサートでピアノを使う時には、必ず、調律師さんにピアノの調律を頼むんです。

 あるとき、その調律師の方に、調律を頼まれるときに、「こんなふうにしてくれ」とか「あんなふうにしてくれ」って言うような注文がつきませんかって聞いてみたんです。そしたらね「やっぱりありますよ」って言っておられました。たとえば、国際基準ラの音は、一秒間に440回、ピアノの弦が振動する野が基準なんだそうです。ところが、多くの音楽ホールなどは、442回に設定しているというこのなのです。どうやら、この方がきれいに聞こえるらしいのです。

ところが、ヨーロッパでは、445にするところも多いらしいのです。ですから、ヨーロッパからきた音楽家おなかには、らの音を445にしてくれっていう注文があるそうです。しかし、日本のホール備え付けのピアノなどは、442にしてずっと使っている。それを、445にしても、その楽器はあまり響かないそうです。なぜなら、それはその楽器の本来のあるべき姿は442であって445ではないからなのです。

 たった1秒間に3回の違いでも、その楽器の本来あるべき姿でなければ、よい音を奏でられないですね。おなじようなことは、人間についても言えると思うのです。つまり人間も、私の本来あるべき姿にあってこそ、その人は自分らしく輝いて見えるのではないかと思うのですが。どう思われるでしょうか。

 聖書の一番最初にある創世記には、神様が人間を創造さら、世界を創造されたとき、それらは、はなはだよかったって書いてあります。まさに、神が作られた本来の姿は、実にすばらしいものだったんですね。

 けれども、どうでしょうか。実際の人間の姿を見ていると、本当に「はなはだ良い」と言えるかなと思うと、必ずしもそう言えないような気がします。もちろん、人間ってすばらしいなって思わされるようなこともいっぱいあります。、反面、人間の嫌な面、醜い面もいっぱい見ることがあるのではないですか。私自身が自分自身を顧みても、自分勝手で、汚い、小ずるいところなんかあって、自分で自分が嫌になってしまうようなときがあります。それは、まさに人間としてとしてのいやらしい部分であり醜い側面です。

  そんな時は、本当に、人間がはなはだ良いものだとしたら、「どうしてこんなふうになってしまったのだろう」って悲しくなるような感じです。それこそ、神様が人間をお造りになった、その人間の本来あるべき姿が、はなはだ良いものだとしたら、なんて遠くかけ離れてしまった存在になってしまったのでしょう。

 できることなら、神様が最初に作られた特に、はなはだよかったって言われる、人間本来の姿に帰って、輝きたいなってそう思います。

私たちは、本来あるべきところからかけ離れて、遠くまで迷い出てしまった。だとしたら、もときた道を帰っていかなければなりません。でも、迷い出てしまった私たちは、いったいどの道を帰っていけばいいんでしょう。

聖書には、「私は真理であり、道である。」といわれるキリストの言葉が書かれています。つまり、本来のあるべき姿に帰る道、きた道を正しく帰っていくには、キリストというお方によらなければならないというんです。そしてそれは、キリストによって示された神の愛に触れ、私たちが心から神を信じるところから始まるのです。神は、自分勝手、汚い、小ずるい私までを愛し、包んでくださいました。その神は、あなたも愛し包もうとしておられます。そしてその愛は、私たちを包み込むだけでなく、私たちをキリストに似せたものに変えてくれるのです。

ですから、キリストを信じて、あなたも、本来あるべき姿に向かって、私は道であるというイエス・キリストを信じて生きる道を歩んでいけばよいのです。

2020年9月23日水曜日

あなたに注目

 

あなたに注目

 

学生時代に、濱、「お前名脇役だな。」って言われたことがありました。別にお芝居をしていた分けじゃないんです。遊びでもなんでも、いろんな場面に、いつも顔を出していて、いなきゃ困るんだけど、決してその場の主役ではない。これがお芝居なら、名脇役って言われたら、それは優れた演技派の俳優だって意味ですから、「名脇役」って呼ばれても胸を張ることもできます。でも、たとえ名脇役と言われたとしても、脇役は脇役である以上、要は引き立て役なわけですから、なんだか、ちょっと寂しい感じがすると言う人もいるかもしれません。人間は誰しも、その場の主役になって、みんなの注目を浴びてきたいなんて、気持ちが心のどこかにあるのかもしれません。

 さて、「お前、名脇役だな」と言われた私も、一度だけ主役になったと思ったことがあります。なんだと思います。結婚式ですよ。だれでも結婚式のときだけは主役になれる。ところがね、後からビデオを見てわかったんですけど、結婚式で注目を浴びているのは、新婦の家内だけ。誰も新郎の私になんか注目していないんですね。ここでも、やっぱり脇役でした。まぁ、結婚式に来てくれた人は誰も、私には注目してくれませんでしたが、でも、家内だけはちゃんと注目してくれていたんだろうと思います。

注目するっていうことは、関心を持って見られると言うことですよね。関心を持つからこそ、他の人ではない、その人の事をじっと見つめる。そのときに、その人は、その他大勢のではなく、まさに関心のある「あなた」という存在になるんですよね。

旧約聖書には「十戒」と呼ばれる、神が人間に与えた十の戒めが記されています。

そこには、「あなたは、わたしのほかに、なにものを神としてはならない。」とか「あなたは人を殺してならない。」とか、「あなたは、みだりに神の名を唱えてはならない」ってことなどが書かれています。

でね、前島誠って人が、「ユダヤ人最高の知恵」と言う本で、この「十戒」が、みんな、あなたと言う呼びかけになっている事に注目しましてね、次のように言うんです。 

「あなた方は・・・・してはならないではなく。あなたはしてはならない。譬え他の人が殺そうとも、他人はどうであれ、あなたは殺してはならない。他人が何をやるかが問題ではない。あなたが問題なのだ。」 

それ読んでいて、なるほどなって思いました。十戒って言うのは十の戒めでしょ。ですから言うなればそれは規則のようなものです。

普通、規則というものは「みんな、これはしてはいけないよ。みなさんはこうしましょうね。」といった具合に、その集団にたいして与えられるものです.もちろん、その集団の中に、私が入っているならば、私も、この「みなさん」の中の一人であることはまちがいありません。

でも、「みなさんは、このようなことをしてはいけませんよ。」だと、私も他の人と同じみんなの中の一人でしかありません。私が、「みなさん」と呼ばれるとき、その人は私という存在に注目し、関心を注いでくれているのではないのです。 

神様は、私を「みなさん」という集団のひとまとめにして、それこそ一山いくらのトマトのようにあなたや私といった存在を見ているのではないのです。たとえ集団の中の一人にしか過ぎないようなものだと自分で思っていても、神様は、いつも私という一人の存在、あなたという一人の存在に心をかけ、目を注いでおられるのです。

だから、みんなに語りかけた規則である十戒においてですら、「あなた」って、そう呼びかけられるんです。 

今日も、神様は、30億人もいる人間の中で、あなたに関心を注ぎ、あなたという人物の注目しておられるのです。

2020年8月24日月曜日

真価が問われる信仰

    真価が問われる信仰


 御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。           テモテへの第2の手紙4章2節


 上記の御言は、使徒パウロが彼の弟子であるテモテに宛てた手紙の中にある一節です。ここで言われている御言葉とは、いったい何を指しているのか。私たちは、御言というと、すぐに聖書を思い浮かべますが、パウロの時代には、まだ新約聖書は成立しておらす、聖書と言えば旧約聖書を指しています。

 パウロは旧約聖書を決して軽んじめてはいません。神の言葉であり重要なものだと認めています。しかし、それ以上に重んじられたのがイエス・キリスト様ご自身であり、またイエス・キリスト様が伝えられた神の王国が到来したという福音でした。そして、イエス・キリスト様を主と告白する者は、このお方に繋がるキリスト者としてイエス・キリスト様の生き方に倣って生きることなのです。

 ですから、ここでパウロが、「御言を宣べ伝えなさい」と言っているその「御言」とは、イエス・キリスト様ご自身のことであり、またイエス・キリスト様がもたらした神の王国の到来を告げる福音であり、また、イエス・キリスト様に倣って生きるキリスト者の生き方なのであると言えます。それを、「時が良くても悪くても」しっかりとやりなさいとパウロはその弟子に伝えるのです。

 今、私たちが置かれている新型コロナウィルスの世界的感染拡大状況は、キリスト教の信仰においては最悪の事態であり、最悪の時です。それは、私たちの教会だけでなく、多くの教会が礼拝を自粛しているということが明らかにしている事実です。

しかし、そのような最悪の時であっても、私たちは、キリスト者としてしっかりと生きることが求められています。最悪の時でもキリスト者としてしっかりと生きる。それは、このような最悪の事態であっても、喜びを持って神を礼拝し、互いに祈り合い、支え合いながら生きることです。幸いなことに、現代はインターネットなどの様々な通信ツールがあり、印刷物を造り送ることができる通信システムが発達しています。ですので、かつて中世の時代にペストが流行した時代のように、感染症で人々が分断されることなく、パソコンやスマートホン、あるいは郵便を通して、教会に集まり公の礼拝を守ることができなくても、様々な工夫をし、ともに礼拝に与ると言うことができます。

 もちろん、それらは、代替品であって完全なものではなく、不十分なものです。ですから、それで満足していいと言うものではありません。教会は、神と私たち一人一人の個人の交わりだけではなく、神の民である私たち一人一人の共同体の交わりでもあるからです。また、礼拝堂での公の礼拝は家庭という中では再現し難い、神の王国に呼び集められた神の民の交わりを表現するものであり、この世界に内在する神の王国の持つ超越的側面を顕ものなのです。ですから、私たちは代替品ではなく、本来あるべき姿の礼拝堂の公の礼拝に集うことを待ち望まなければなりません。代替品を本物にすり替えてはならないのです。
 ですから、共に礼拝堂に集う公の礼拝が再開することを待ち望むという待望の思いを持って、今の「時が悪い」状況にあって、ネットや郵送される週報や説教原稿を用いながら神を礼拝し、このような「時が悪い」状況にあっても、何とか神を礼拝するめぐみの中に置かれていることを喜びながら、再び共に教会の礼拝堂で共に祈り、賛美し、神を礼拝する希望を持って歩んでいきましょう。今、私たちの信仰の真価が問われているのです。


2020年7月20日月曜日

本物に近づく


「本物に近づく」

徳島県の鳴門市に、大塚美術館っていう、ちょっと変わった美術館があるんですが、知ってます?
 この美術館ね、何が変わってるかって、世界中の名画が展示されているんですが、全部にせ者なんです。実は、世界の名画を、特殊な技術で、陶器に焼き付けて再現してんです。私も行ったことがありますが、でもね、全部にせ物だったって、十分見る価値ありますよ。なんってたって、ここのすごいところは、本物に限りなく近いだけでなく、その展示空間まで再現してるんです。

たとえば、ミケランジェロの最後の審判など、それが描かれているシスティーナ礼拝堂そのものが再現されています。また古代カッパドキアの洞窟の礼拝堂の壁画もなんかも、洞窟そのものが再現されているんですよ。すごいでしょ。
 結局、この美術館は、いかに本物に近づけるかってことが、ひとつの重要なテーマになっているのかもしれませんね。これって、私たち人間の人生にも通じるようなテーマじゃないかなって、そう思うんです。つまりね。いかに、自分を自分らしく生きるかってことなんです。

私たちは、案外自分は、このままでいいのかなとか、もっと違っ人生があったんじゃないかなって、思うことあるんじゃないんでしょうかね。どうですか?それは、結局、自分らしさってことを考えていることでもあるんですね。もっとも自分らしい自分、つまり本当の自分は何なのかを、考えているってわけです。それってね、人生の目的や意義は何かってことだと言い換えられと思うんですよ。

こんな思いが、煮詰まってくると、人間はどこから来て、どこにいくのかっていう、宗教のテーマになってきます。そういった意味では、案外、私たち一人一人、だれもが宗教的な人間だって言えるのかもしれませんね。
でも、それでもやっぱり人生の目的や意味は何かって話は、あまりにも大きすぎて、それこそ、哲学者や宗教家が考えてくれって言いたくなっちゃいますよね。取り合えず、私たちには、一日一日が充実し、喜びと満足できるものでありたいってことが第一歩ですよね。でも、その小さな事が確かに大切です。

教会の礼拝の最後には、祝祷と言われるお祈りがあります。この祈りは、これから礼拝が終わって、一人一人が、神から、家庭や学校、職場に使命を持って派遣されていきますから、どうぞ神が祝福を与えて下さいって言う祈りです。
 あなたが、いま生活しているその場所に、神から使命を負って派遣されている。そこに、あなたにしかできない神から与えられた大切な働きと役割があるからです。そのような、大切な働きと役割を神が、あなたにお与えになっている。それは、あなたが、その使命を果たすのにふさわしい人だからです。 
この神の使命に、派遣されるのは、教会の礼拝の祝祷からです。ですから、あなたも、教会の礼拝においでになり、神の使命を受けて、あなたの生活の場に派遣されて生きませんか。

2020年6月19日金曜日

「安心を与える言葉」


              「安心を与える言葉」

ちょっと昔の話になりますが、一種の不眠症のような感じで、十分に眠れない時期があったんです。眠っていても、半分起きているみたいで、寝ているのか寝ていないのか、よくわからない感じ。じつはその時期、ちょっとした心配事があったからなんです。 
心配事がある時って、なんだか心がわさわさと騒いで、不安で、どうしようもなかったりするじゃないですか。考えてみてもしょうがないのに、ついつい考え込んで眠れなくなっちゃう。そんな感じだったんですね。

ところが、新約聖書のヨハネによる福音書の14章で、キリストは「あなたがたは、心を騒がせてはいけません。神を信じ、わたしを信じなさい。」と言っているんです。

不安なときに、心を騒がせるなって言われてもね。それができないから、眠れないでいるわけでしょ。随分無茶なことをいうなって、そんな感じがします。

でも、考えてみますとね。あながちそうとも言えないような気もします。

というのも、私の友人がこんな事を聞かせてくれたんです。それは、彼が、ちっちゃい頃に、迷子になったって話なんでした。彼は、何人かの友達と、言ったこともない遠くまで冒険しに時に、友達とはぐれてしまって、ひとりぼっちになっちゃったんですって。

はじめての場所で、迷子になって帰れなくなってしまった。彼はだんだん不安になってきて、涙がポロリポロリ。とうとう最後は「わんわん」と泣き出したんだそうです。 
そのときに、一人の人が「どうした。迷子か」って声をかけてくれてね、「家の電話番号わかるか。」って聞いてくれたんですって。それで電話番号を教えると、家に電話をしてくれた。 
その人は、一通りの事情を説明すると、「ほら、お父さんだよ。」って受話器を渡してくれた。その電話口の先でね、お父さんが「大丈夫だよ、心配するな。すぐ迎えに行くから」ってそう言っている。彼はね。その声を聞いて「ホント安心した」って、言っていました。

どんなにたくさんの慰めや励ましの言葉が、何の役にたたないこともあります。反対に、ほんの一言でしかないのに、不安や恐れで荒波のように騒いでいる心をほっとさせ、いっぺんに安心させてしまうことってあるでしょ。

私の友人が「大丈夫だと、心配するな。すぐ迎えに行くから。」っていう短い言葉で、安心することができたのは、それが彼のお父さんの言葉だったからです。 
つまり、自分に愛情を注いでくれている親の愛情とその父親に対する信頼が、彼の心を鎮め、安心させてくれたってことなんでしょね。

聖書は、私たちの心にいつも語りかける神様の言葉です。ですから、今日、あなたに、神様があなたを愛しているってことを知ってほしいんです。そして、その、あなたを愛する神様を信頼して欲しいなって、そう思うんです。 
そしたら、きっと、聖書を通して語りかける神様の言葉が、あなたが不安なときにも、あなたの心から不安をかき消してくれるだろうってそう思います。そして、安心で一杯に満たしてくれる。まさに「心を騒がせなくても良く」なるんですね。その神様が与える、安心で満たされる心を、あなたにも手に入れて欲しいなってそう思います。

2020年6月12日金曜日

会堂に集まる公同の礼拝はネット礼拝の補完か

        会堂に集まる公同の礼拝はネット礼拝の補完か

私たちの教会でネットを通じての礼拝が始まって3ヵ月が過ぎた。1年の1/4である。しかし、ようやく7月からは、3回に分散する形式であり完全に元の形ではないが、会堂での公同の礼拝を再開する。
もちろん、まだ教会に来ることに不安を感じている方々や、様々な事情で教会に来ることが困難な方のためにネットでの礼拝や説教原稿と式次第をあらかじめ送るということは続けていく。しかしそれは、公の礼拝に来ることができない方のための、あくまでも補完である。

 この新型コロナウィルスの災禍によって、教会でのネットの活用が一気に進み、ネットによる礼拝のライブ配信や録画配信が多く用いられた。
 一部には、これからの礼拝の形式としてネット礼拝を考える必要性がある声も聞こえる。その時に、会堂に集まってなされる公同の礼拝はどうなるのだろうか。ネットを見ることの出来ない人たちのための補完として会堂に集まっての礼拝が行われる。そんな理解が生まれてくるのだろうか。
 私としては直観としてネット礼拝というのは礼拝の本来あるべき形ではないと感じている。
 神学するとは、この直観をテーゼとして、その直感が如何に筋道を立てて論証していくかという作業でもある。そういった意味で、この新型コロナ災禍の中で、礼拝についてあれこれ学ぶ機会があら得られたのは幸いな事であった。そして、その学びを通しつつ直観は正しいのではないかと感じ始めている。
 公同の礼拝は、会堂に集まって行われるべきもので、ネット礼拝はあくまでも補完である。