2020年3月26日木曜日

日本ホーリネス教団の新型コロナウィルス対応について



 日本ホーリネス教団の新型頃ウィルスの対応について

私たちの教会は日本ホーリネス教団に属しています。
また、教会論的には日本ホーリネス教団が一つの教会であり、私たちはその日本ホーリネス教団という幹となる教会に繋がる枝である教会です。
ですから、基本的に日本ホーリネス教団の決定に枝である教会は準じます。
今回、新型ウィルスの対応について、教団から以下の連絡がありました。
これに基づいて、東京地区に外出自粛要請が出ている間は、信徒の皆様は、外出を自粛し、それぞれの家庭で礼拝を守っていただくことにします。
なお、自粛中も教会での礼拝は継続して行われます。その礼拝の様子は通常の礼拝時間に合わせて見られるようにいたしますので、どうぞご覧ください。
 以下、教団からの通達の内容です(一部省略)。

2020326
全国の牧師先生方へ
日本ホーリネス教団
委 員 長 島津 吉成
総務局長 佐藤 信人

第3報・新型コロナウイルスの感染拡大を受けてのお願い

主の聖なる御名をたたえます。
 新型コロナウイルスの感染がさらに拡大し、収束の見通しが全く立たない状況が続いています。各教会や教区におかれましては、4月からの新年度の活動をどのようにすべきか苦慮しておられることと思います。
 そこで、今後の対応策につきまして、教団としての指針を下記のように提示しますので、それぞれの状況に応じて、適切な対応を取ってくださるようにお願いいたします。

1.教団本部各局・各委員会の会議等について
・感染が落ち着くまでは、当面の間は集まっての会議は控え、インターネットを用いての会議に切り替えてくださるようお願いします。(以下省略)

2.教区の諸活動について
・4月に入り、教区の牧師会や教区総会等の開催を予定している教区も多いことと思います。すでに教区会の中止を決定された教区もあるようです。感染の状況が地域によって異なりますので、全国一律に同じ決定を強いるわけには参りませんが、教区の諸集会も、どうしても顔を合わせなければならない特別な事情がある場合を除いて、集会そのものを中止するか、あるいはインターネットを利用しての会議に変更してくださるようお願いいたします。
・特に、聖会など大勢の人数が集まる集会は、影響の大きさを鑑みて、勇気をもって中止(あるいは延期)してくださるよう強く要請いたします。

3.兼牧の奉仕について
・兼牧をしておられる先生方の中には、かなり遠くの教会の兼牧をしておられる先生方、あるいは比較的近隣であっても、公共交通機関を利用して奉仕に行く先生方がおられることと思います。その移動に伴い、様々な場所に感染リスクが存在しますので、感染が落ち着くまでは、兼牧先の教会での奉仕を見合わせるという対応も検討してくださいますようお願いいたします。



4.感染者が出た場合の対応について
・残念ながら関係者の中に感染者が出てしまった場合、礼拝を含む全ての集会を休止し、管轄の保健所の指示に従ってください。
・新型コロナウイルス感染症は指定感染症になっており、無症状であっても指定医療機関への入院措置となります。もし牧師、教会員、関係者の誰かに感染者が発生した場合、教会の行動は、教会で決めることはできず、保健所の指示に従うようになります。関係者が濃厚接触者となった場合も同様です。
・もし、感染者が出た場合、速やかに(省略)ご連絡くださるようお願いいたします。

5.外出自粛要請などが出された場合の対応について
・東京都は3月25日、「週末に不要不急の外出を控えるように」との要請を出しました。今後、他の地域でも同様の外出自粛要請が出されることが考えられます。
・私たちキリスト者にとって、礼拝はいのちの源であり、何ものによっても妨げられるべきものではありませんが、その一方で、教会員だけでなく、その家族や一般市民にも感染リスクを与えるような行動は控えるべきであろうと思います。
・それゆえ、外出自粛等の要請が出た地域は、教会に集まらない形を取るようにお願いします。インターネットを利用しての礼拝ライブ配信、説教文書をメールやFAXで配付する、メッセージを録音した音声ファイルをクラウドにアップする等、それぞれの教会にとって取り得る対応をご検討ください。
・省略
  
御子キリストを与えるほどにこの世を愛された神が、私たちの世界を深く憐れんでくださり、感染の拡大をとどめてくださるように。また、医療従事者をはじめとする多くの方々の働きが支えられますようにお祈りいたします。
皆さまの教会の上に、主の守りと祝福がありますようお祈りいたします。
主にありて 

2020年3月4日水曜日

未知との遭遇

「未知との遭遇」

 私が中学生の頃、教科書に、「なぜ蛇が怖いのか」という文章がありました。
それによると、蛇の怖さは日常性が欠如しているためだと言うんです。蛇が普段どんな生活をしているかなんて、私たち、ほとんど知りませんよね。その蛇が、突然、石垣の間からにょろにょろと出てくるからこそ、びっくりするんじゃないですか?そして、それは幽霊が恐いと思うのと同じなんだっていうんです。

 確かに、幽霊も普段は何をしているのかわかりません。その何をしているのかわからない幽霊が、突然どろどろと現れてきて、「うらめしや」とのたまうからこそ恐んだって言うんです。仮に、幽霊の普段の生活、たとえば食事のおさんどんや、編物なんかしている姿を知っていたら、どろどろと現れても、恐いどころか「忙しいところ、ごくろうさん」と声をかけたくなってしまいます。

 まさに、幽霊の出現とともに、私たちの目の前に、私たちの知らない世界が繰り広げられる、予期せぬ未知と遭遇するわけですこの「未知との遭遇」という経験が、私たちに恐ろしさを感じさせるんですね。

 いきなり知らない世界に放りだされる恐怖。それは、死というものが与える恐怖に似ています。人間、死んだ後は一体どうなるんでしょうか?結局それは、私たち知りようのない世界です。私たちは死というものを通して、経験したことのない、全く新しい未知の世界に放り出されるのです。ここに、確かに死の恐怖があるといえます。

 しかし、逆から言えば、死んだ先に何があるのかさえ分かってしまえば、もう死は怖いものではなくなるということです。仮に、そこに私たちを震え上がらせるような事があったとしても、何があるかさえ分かっていれば、対処のしようもあるというものです。

 聖書には、人が死んだ後に、誰もが神の裁きの座に立たされるとあります。私たちの行いや、心に汚れがあるならば、それがどんなに小さなものであったとしても、その罪のゆえに神の裁きを受けなければならないって言うんですね。けれども、キリストを自分の罪の救い主と信じるならば、その裁きの座で、キリストが私たちを弁護し守ってくれるとも言うんです。私たちの罪が赦されて、裁かれるどころか逆に天国に確実に行けるというわけです。もし、私たちがこのことを信じるなら、死はもう恐いものではなくなくなります。

 ですから、キリスト教の信仰は、死の恐怖から私たちを解き放つ信仰だといえます。それは、病の中にあろうと、老いていく中にあろうと、私たちに前向きに生きていく力と勇気を与える信仰でもあるのです。