2022年4月25日月曜日

22年イースター(復活際)礼拝説教「私たちは、今、立ち上がる」

22年イースター(復活際)礼拝説教「私たちは、今、立ち上がる」   2022417

旧約書:イザヤ書4028節から31節」

福音書:ヨハネによる福音書213節から22

使徒書:ペテロ第一の手紙5章9節から10

 

 今日は、イースター(復活祭)です。このイースターの朝に、私はみなさんと共に神を礼拝することを心から喜び、神に感謝したいと思います。

 この2022年のいーすた記念礼拝に当たり、今お読みしました旧約聖書イザヤ書4031節で言われています「しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない」という言葉を中心にイースター記念礼拝の説教をお取次ぎしたいと思います。

みなさん、このイザヤ書と言うのは、イスラエルの国がバビロン帝国に滅ぼされ、イスラエルの民が奴隷としてバビロン帝国に捕らえ連れていかれるといういわゆるバビロン捕囚と呼ばれる出来事を中心に描かれています。 

具体的には、1章から39章までがイスラエルの国がバビロン帝国によって滅ぼされ、イスラエルの民がバビロンに捕囚されるという言葉が告げられ、40章以降66章までが、そのバビロン捕囚から解放され、イスラエルの民は故郷に帰り、イスラエルの国が回復されるという神の言葉が記されてます。

国が滅び、外国に奴隷として連れていかれるということは、大変な出来事です。そこには嘆きや、痛みや、悲しみ、苦しみがある。当然、その痛みや悲しみや苦しみをイスラエルの民はその身に負ったのです。 

しかし神は、そのイスラエルの民を決して見捨てず、見放すようなことはなさらない。彼らを、その苦しみや悲しみ、そして痛みと嘆きの中から救い出されるのです。そして、再び立ち上がらせる。 

もちろん国が亡びるということは、そこにそこに荒廃が起こり、神殿は壊され、もはや人の目には回復され復興される望みもないような状況が起こります。それはまさに、「年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる」と言った状況なのです。しかし、そのような状態の中にあっても、神はこう言われるのです。

 

28あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。主はとこしえの神、地の果の創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。29:弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。

 

と。そして、このように「弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる」神だからこそ、「しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない」ということができるのです。

 このイザヤ書に記された神の言葉をまさに奴隷としてバビロンに連れていかれたいイスラエルの人々がこの言葉を聞いたならば、どんなに慰めを得、心が癒されたであろうかと思わされます。そして、この現実の歴史もイザヤ書の言葉通りに、イスラエルの人々はバビロン捕囚と言う苦難の経験の後、バビロニア帝国から解放され、国にかえり、粉々に壊されていた神殿を立て直し、神の都であるエルサレムを再建するのです。そこには、神の癒しと回復の物語がある。

 

 まさに神は、私たちが、いかに弱り疲れ果て、倒れてしまっても、その倒れてしまったところから、神を待ち望み、神を見上げるならば、力を与え、新たなものとし、そこから立ち上がらせてくださる癒しの神であり、回復の神なのです。

 

 その神の回復と癒しの物語は、さらにイエス・キリスト様の十字架の死と復活の物語となって歴史の中に刻まれて行きます。

 先ほどお読みしましたヨハネによる福音書213節から22節は、イエス・キリスト様のご生涯の中でなされた業の中で宮清めと呼ばれる出来事です。実は、この宮清めの出来事は、歴史学的には問題を含んだ箇所で、聖書の中にある四つの福音書の内、マタイやマルコ、そしてルカによる福音書では、イエス・キリスト様のご生涯の最後の一週間のうちに起こった出来事として記されています。

  ところが、ヨハネによる福音書では、イエス・キリスト様がキリストとしての公生涯を歩み始めたれた最初の一週間の出来事として記されている。つまり、聖書に記されたイエス・キリスト様のご生涯の歴史に違いが生じているのです。 

これは、聖書が誤っているとか、聖書が真実を伝えていない、聖書には誤りがあるということではありません。むしろ神は、誤りなく神の御心を私たちに伝えるために、聖書を記した人にある程度の自由を与え、その聖書を記した人の持つ神学的な視点を用いて、神の御心を私たちに伝えているのです。ですから、例えばマタイによる福音書を記したマタイならマタイの視点と神学でイエス・キリスト様のご生涯を捉え、それによってイエス・キリスト様のご生涯の意味と目的を伝えようとする。当然、そこにはマタイが語り聞かせたいと考えている人々、つまり、マタイが想定しているマタイによる福音書の読者層がある。

同じように、ヨハネによる福音書を記したヨハネも、彼が記した福音書を読むであろうと想定した読者層がいる。そして、伝えたい内容がある。それにそってイエス・キリスト様のご生涯の物語りを語っていくのです。ですから、マタイやマルコ、そしてルカによる福音書とヨハネによる福音書の記述に違いがあるから、聖書が間違っているとか、その違いを何とか調整しようとして様々な解釈を加える必要などないのです。ヨハネによる福音書はヨハネによる福音書の視点でイエス・キリスト様のご生涯を語っている。それをそのまま受け取ればよいのです

 

 では、ヨハネによる福音書が想定している読者層はだれかというと、その当時のギリシャ・ローマ文化の中にいる人々、つまり、ギリシャ人やローマ人といった人々や、それらの国に離散して暮らしているヘレスタイと呼ばれるユダヤ人であったろうと思われます。なぜそんなことがわかるのか。それは、ヨハネによる福音書の一章にあるギリシャ語の言葉遣いの中に顕著に現れている。「はじめに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」という言い回しは、極めてギリシャ・ローマ的な言葉遣いなのです。

 そのうえで、ヨハネによる福音書においては、この宮清めの出来事をどう捉え、何を伝えたかったのか。それは死と再生の物語です。

 宮清めと言う出来事は、神殿で神に捧げるための動物を売っていた商売人や、その動物を売り買いするために用いられていた特別な通貨を手に入れるため両替をしていた両替商などを、イエス・キリスト様がご覧になり、怒りを覚え「私の父の家を商売の家とするな」といって、その商売人や両替商を神殿から追い出したという出来事です。

 この神殿で、神に捧げるための動物を売り買いしていたということは、実は客観的にまた合理的に考えるならば、決して悪いことではない。むしろ良いことであったと言える行為です。 

みなさん、神殿はエルサレムにある。その神殿で神に動物を捧げるとして、それを遠い地方にいる人がわざわざ連れてくるのは大変です。おまけに神に捧げる動物には、傷のない完全なものでなければならないと言ったルールもありましたので、それに適した動物を神殿で買った方が、遠くから来る人にとっては便利でありがたい。おそらく、そのような理由で神殿の庭で、神殿に捧げる動物の売り買いが始まったのだろうと思います。そのように、遠くから神殿に来る人達への配慮と思いやりから始まった動物の売り買いが、配慮思いやりと言う目的よりも、むしろ商売が目的になってきた。

 さらには、その動物の売り買いをするために、神殿で使う特別な通貨を使わなければならないとすることで両替商が両替をする。そこにも利潤が生じてくる。そしておそらく、そこで得られた利益から、当時の祭司たちに還元されるといったこともあったのでしょう。

 そのような中で、イエス・キリスト様は「私の父の家を商売の家とするな」と言って宮清めをなさった。いうなれば、宮清めと言う出来事は、金儲けのために汚れてしまったイスラエルの民の宗教と信仰心の浄化し、純粋な信仰へと立て直しを図った行為であるといえます。

もちろん、神殿での商売で利潤を得ていたであろう人々は、そのようなイエス・キリスト様の行為に腹を立てる。そして「祭司でもないおまえに、このようなことをする権威や権限があるのだ。あるのならそのしるしを見せろ」と詰め寄る。その時、イエス・キリスト様は「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」とそういわれるのです。そして、このヨハネによる福音書を記したヨハネは、それは、イエス・キリスト様の十字架の死と復活の出来事であり、イエス・キリスト様と言うお方は、「この世」と言う闇の中に置かれて、「この世」によって神の前に死んだようになっている私たちを再生し、新しい命にお息吹を与えてくださるお方なのだと理解した。

 つまり、あの宮清めの出来事は、まさにイスラエルの民にとっては、彼らの神を信じる信仰の死と再生の物語だということなのです。そしてその死と再生の物語は、単にイスラエルの民の問題だけではなく、イエス・キリスト様が十字架にかかって死なれ、よみがえることで物語によって、すべての人の死と再生の物語となるのです。

みなさん、私たち人間は、すべからく神の創造の業により、神に似た者となるために神の像を与えられた存在です。だから、すべての人は尊い尊厳性を持った存在です。しかし、その私たちは「この世」と言う世界の中置かれている。その「この世」が与える価値観やものの見方によって、神の像を与えられ、神に似た者となるようにされている私たち人間の現実は、決して本来あるべき姿からは遠く離れてしまっている。

そのような中で、神によって尽きられた私たち人間が、いやあなたが、神の創造の業にある本来あるべき人間の姿に立ち帰るための死と再生の物語なのだということをヨハネは、ヨハネによる福音書を読むであろう人々に伝えたかったのです。そして、その死と再生の物語は、繰り返し教会の歴史の中で起こっている。いや、教会と、その教会に繋がる私たち一人一人は、この死と再生の物語の中を生きているのです。

 先ほどお読みしましたペテロ第一の手紙5章6節から11節は、迫害が迫っている小アジア半島(現在のトルコ)にある教会の人々に書かれた手紙の一節です。そこでは、それこそ、悪魔が教会とそれにつながるクリスチャンを激しき迫害し打ち壊そうとしていると言われています。それはまさに1世紀の教会の姿です。

 そのような中にあって、苦難と苦しみ、痛みと悲しみの中に置かれるであろう人々に、ペテロ第一の手紙の著者は、迫害が迫っているけれど、神を信じる信仰をもってしっかり生きなさい。教会は、そして教会に繋がるあなた方は試練の中で苦しみ、痛み、悲しむことがあるだろうでも、神様はあなたたちを癒し、強め、力づけてくださり、そこから再び立ち上がらせてくださる。仮に教会が打ち壊されてしまったと思うようなことがあっても、私たちが弱りはて、倒れてしまうようなことがあっても大丈夫だ。

 あなた方はイエス・キリスト様の死と再生の物語に与り、イエス・キリスト様の死と再生の物語を生きるものなのだ。だから大丈夫だと、このペテロ第一の手紙は励ましているのです。そしてみなさん、私たちは、また私たちの教会は、この死と再生の物語を生きている。

 だから私たちは、そして私たちの教会は、たとえ困難や試練の中に倒れそうになっても、また倒れてしまっても、必ず再び立ち上がっていくことができるのです。

そのことを、今日、このイースターの朝に、心にしっかりと刻みたいと思います。

2022年4月16日土曜日

2022年4月16受難週の土曜日の黙想のために

 

         2022416受難週の土曜日の黙想のために

 十字架に架けられたイエス・キリスト様が、この世界に残されたものは教会です。教会は日曜の朝毎に、礼拝をおこないます。その礼拝の朝を迎える前、最も原初の教会は、ユダヤ教の会堂で、聖書の言葉を聞き、礼拝をした後の夜に、みんなで食事を共にしました。
 共に食事をする。それは単なる共にする食事ではなく、イエス・キリスト様と共にした食事を記念するものでした。それが、聖餐を中心にしたキリスト教会の礼拝になっていきました。私たちは、礼拝ごとにキリストの祝宴に招かれているのです。そのことを覚えつつ、イムマヌエル教高津キリスト教会の藤本満牧師の黙想の言葉に耳を傾けつつ、神を思いましょう。

共に食事をしよう

「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」(黙示録3:20)。

  いつも心の扉をたたいていてくださることを感謝します。あなたは私を捨てず、諦めず、あなたを追い出してしまったような私ですが、再び私の人生に入ろうと扉をたたいていてくださいます。

この受難週がチャンスです。忙しいかもしれません。ほかにやることがたくさんあるかもしれません。しかし、まずはあなたを心に迎えて、あなたと食事をするかのように、みことばに耳を傾け、あなたと食事をする温かみを体験する事ができますように、お願いします。

2022年4月15日金曜日

2022年4月15日受難週の金曜日の黙想のために

        2022年4月15日受難週の金曜日の黙想のために

 今日は受苦日です。主イエス・キリスト様が十字架に架けられて死なれた日です。イエス・キリスト様は、まったく罪とは無関係で純粋で無垢なお方でした。しかし、私たちは、決してイエスキリスト様のように罪もかがれもないということはできないものです。しかし、神は、そのような私たちであっても、神の子としてくださると言うのです。その神の恵みを、、イムマヌエル教高津キリスト教会の藤本満牧師の黙想の言葉に導かれつつ思い廻らしましょう。

              白い衣を着て主と共に歩む

「しかし、サルディスには、わずかだが、その衣を汚さなかった者たちがいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らがそれにふさわしい者たちだからである」(黙示録3:4)。

イエスさま、私はここに出てくる「少数」の者の中に入っているのでしょうか?いや、その自信はまったくありません。しかし、それを目指すことができますように魂の渇きを与え、聖霊の助けを求めることができますように。

十字架の贖いの血潮によって洗われ、復活のいのちを大切にし、あなたと共に歩むこと。白い衣をいただいているのです。ですから、白い衣を洋服掛けの奥にしまってしまわないで、いつでもそれを着る自分でありますように。祈るとき、悩むとき、だれかを助けるとき、しんどいとき、白い衣によって私を守ってください。

2022年4月14日木曜日

2022年4月14日受難週 木曜日の黙想のために

 

         2022414日受難週 木曜日の黙想のために

 受難週の木曜日です。私たちはいろいろな心配や思い煩いに囲まれています。やらなければならないことについての心配や、物事がうまくいかない心配、人間関係の中にある様々な思い煩い。そういったものが、私たちの心に、重荷に感じられるようなときがあります。そのような様々な心配や思い煩いとなっていることを思いながら、イムマヌエル教高津キリスト教会の藤本満牧師の黙想の言葉に導かれつつ、私たちにとって本当に大切なことは何かについて思い廻らしましょう。

             ほかの重荷を負わせない

「わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。ただ、あなたがたが持っているものを、わたしが行くまで、しっかり保ちなさい」(黙示2:24-26)。

イエスさま、私は山ほどたくさんの重荷が日々のしかかってきていると考えていました。しかし、あなたがほんとうに重荷として担ってほしいと願っておられるのは、あなたとくびきを一つにして、あなたから学ぶことなんですね。ほかの重荷はすべてあなたのもとで下ろすことができるのでしょう。

ああ、私の人生の状況はなんとあなたの願いからほど遠いことでしょう。どうか、気がつかせてください。あなたから学ぶことこそが、私たち背負わなければならないことだと。しかも、その重荷は軽いと、おっしゃってくださいました。あなたの恵み、神の愛、聖霊の交わりをいつも大切にすることができますように力を与えてください。

2022年4月13日水曜日

2022年4月13日受難週 水曜日の黙想のために

          2022年4月13日受難週 水曜日の黙想のために

 

 受難週の水曜日、今日もイムマヌエル教高津キリスト教会の藤本満牧師の黙想の言葉に導かれながら、神の前に謙遜なものでであることの大切さを思いましょう。なぜならば、私たちは、自分の信仰さえも、自分の誇りとしてしまう高慢さや傲慢さを持っているからです。
 傲慢な思いから出る誇りと、謙虚からでる誇りとは、全く違ったものです。そして、検挙から出る誇りは、自分自身を振り返り、その至らなさを向き合うことから始まります。

              けれども責めるべきこと

「わたしは、あなたの行い、あなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っている。また、初めの行いにまさる、近ごろの行いも知っている。けれども、あなたには責めるべきことがある。」(黙示2:19)

イエスさま、あなたが私の愛も信仰も奉仕も忍耐も知っておられることを感謝いたします。だれも私のような者の信仰の労苦を理解してくれなくても、あなたが知っていてくださるのなら、私は満足です。なぜなら、あなたの報いは人の報いの百倍あるからです。すべてを支配しておられるあなたが私の小さな行いを知っていてくださること、これほど大きな励ましはありません。

しかし、もし責めるべきことがあるとしたら、それはなんでしょうか。いや、それはあまりにも多くてあなたは、伝えようにも伝えきれないとおっしゃるのでしょう。

でしたらせめて一つ教えてください。その一つを正す力と勇気を授けてください。素直になれますように、謙虚に責めるべきことを受け止め、正すことができますように助けてください。

2022年4月12日火曜日

2022年4月12日受難週 火曜日の黙想のために

 

        2022年4月12日受難週 火曜日の黙想のために

 

受難週の火曜日、イムマヌエル教高津キリスト教会の藤本満牧師の受難週の黙想の言葉です。私たちの日々の歩みは、いつもうまくいくわけではありません。時には人から悪く言われたり、いわれもない非難の言葉を浴びせられ、心が沈んでしまうこともあるでしょう。その様な日々を思いながら聖書の言葉を、藤本牧師の黙想の言葉に導かれながら、思い廻らししましょう、

 

12(火)隠されたマナを与える

「耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。勝利を得る者には、わたしは隠されているマナを与える。」(黙示録2:17)

 

イエスさま、あなたは私たちに勝利を与えると約束してくださいました。「神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました」(Ⅰコリント15:57)

勝利者のように歩ませてください。誹謗中傷を受け止める度量、忙しい毎日で自分を失わない余裕、様々なものが不足する中でも十分に満たされている心。勝利者として歩ませてください。そのために、あなたは毎日隠されたマナ(パン)を与えると約束してくださいました。御言葉を日々の糧としてかみしめることができますように。せっかく与えてくださっているこのようなマナを無駄にしませんように、知恵を与えてください。

2022年4月11日月曜日

2022年4月11日受難週 月曜日の黙想のために

          2022年4月11日受難週 月曜日の黙想のために

教会には、クリスマスを迎えるアドベントを年の最初の月として、そこから一年を数える教会歴というものがあります。クリスマスやイースターと言った教会の行事は、この教会歴に沿って行われます。
 その教会歴において、今週の日曜日は棕櫚の日曜日と呼ばれる日であり、この棕櫚の日曜日をさかいとして、教会は受難週というものにはいります。この受難週の金曜日が受苦日といって、キリストが十字架にかかられて死なれたことを覚え、時を過ごす教会にとって特別な日です。その受苦日までの一週間を受難週と呼び、一日一日、主イエス・キリスト様が十字架に向かって歩まれた日々を黙想しつつ思い廻らすのです。
 その黙想のための手引きとなる言葉を、イムマヌエル教高津キリスト教会の藤本満牧師が書いてくださっていますが、今日の言葉は次の通りです。ぜひ、あなたが心を静めて、神を思う廻らすためにお用いください。

11(月)死に至るまで忠実

「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与える」(黙示録 2:10)

イエスさま、あなたがスミルナの教会へ書き送った言葉を見るたびに、かつてスミルナの教会の牧師であったポリュカルポスを思い起こします。彼は言いました。「私は 84 年間キリストに仕えました。ただの一度も、キリストが私を悪く取り扱われたことはありません」。彼が火あぶりの刑で殉教する直前の言葉でした。

私もいつかは、大変な苦しみに遭うに違いありません。大きな試練に立ち向かうに違いありません。それが病であるのか、大切なテストであるのか、日常的なできごともあるでしょう。

しかし、そのようなときにもあなたに忠実であることができますように力を授けてください。その場面が福音とはまったく関係ない場合であったとしても、あなたが私をいつも支えていてくださることに気がつかせてください。そして、これまでの人生で、あなたはいつも誠実を尽くして私を助けてくださったことを思い起こすことができますように。あなたに忠実であることができますように。

2022年4月10日日曜日

棕櫚の主日礼拝説教「約束の成就」(’22年4月13日受難週主日)

‘22年4月第二主日(棕櫚の主日)礼拝説教「約束の成就」       2022.4.13

旧約書:創世記15章1節から19節

福音書:マタイによる福音書5章17節から20節

使徒書:へブル人への手紙12章1節から3節


 今日の主日は、教会の暦では棕櫚の日曜日と呼ばれる日となります。棕櫚の日曜日とは、イエス・キリスト様がエルサレムに入城なさったことを記念する日です。そのエルサレムに入城される際の様子は、新約聖書ヨハネによる福音書12章12節から15節に描かれています。


その様子とは、イスラエルの民が棕櫚の葉を道に敷き詰めて、「ホサナ(「救い給え」と言う意味)」と歓喜の声をあげて、子ロバにのったイエス・キリスト様をエルサレム市街に迎え入れたとあります。棕櫚の日曜日と言う名前は、そのことに由来しています。


 その棕櫚に日曜日の礼拝の説教の中心となります聖書箇所はマタイによる福音書5章17節から20節です。この個所は、マタイの夜福音書の5章から7章にわたる山上の垂訓と呼ばれる、新約聖書の中では大変有名な個所の一部分です。


山上の垂訓とは、イエス・キリスト様が、小高い丘の上から神を信じる者はいかに生きるべきかということを、群衆に向かい語り、お教えになった出来事です。その中でイエス・キリスト様は、「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである」といわれるのです。


律法というのは、神がイスラエルの民に対していかに生きて行くかということをお教えになったもので、つまり、神の民の倫理です。しかし、この神の民の倫理は、神の目からみた人間がいかに生きるかということが語られたものであり、神の救いの業とは無関係ではありません。


と言うのも、神の民として神のみ前に生きるということと、神の救いの業とは表裏一体ものだからです。それは、神の救いの業というものは、神の救いの業の内に置かれた者は、神の民として神のみ前に神の民らしく生きて行くことによって完成されていくものであるということを意味しています。そしてそれが、人との契約ということに内実なのです。


 このように、私たちの信仰と行いというものは、神の救いの業において決して切り離すことができません。ところが、私たちプロテスタントの教会はしばしば信仰と行いというものを切り離してきました。


たとえば、私たちは「人は行いによって救われるのではない。ただ神を信じる信仰によってのみ救われるのだ」と言う言葉を、しばしば聞いてきました。そして、その言葉は間違っていない。救いは、私たちの行いに対する神からの報酬、あるいはご褒美として与えられるものではないからです。


 しかし、救いに行いが必要ではないというわけでありません。もし私たちが信仰に行いが必要でないというならば、それは間違っている。だとすれば、この救いに必要な行いとはいったい何なのでしょうか。


 それは、神に従う、あるいは神の言葉に従うということです。先ほどお読みいたしました旧約聖書の創世記15章1節から19節は、神がアブラハムにカナンの地と彼に子どもを与え、その子孫に、神がアブラハムに与えたカナンの地を与えることを契約なさった出来事が記されている箇所です。


 実は、神はこの創世記15章の先立つ12章において、アブラハムが75歳の時に、神から当時住んでいたハランの地を出て、カナンの地に移り住みなさいと言われます。そして、アブラハムを通して地の全ての人々が祝福されるという神の御計画を聞かされます。


 その言葉を聞いたアブラハムは、神の言葉に従ってハランの地を旅立ち、カナンの地に移り住むのです。そのアブラハムに対して神は「わたしはあなたの子孫にこの地を与えます」と言われるのです。


 確かに、神はアブラハムに「あなたの子孫にこの地を与えます」と言われましたが、アブラハムがハランの地を旅立ったのは75歳の時です。そして、その時点でアブラハムには子供がいなかった。だから、「あなたの子孫にこの地を与えます」と言われても、神がアブラハムに与えたカナンの地を受け継ぐ子孫はいないのです。


 そこでアブラハムは、エリエゼルと言う人を養子に迎え、その人にアブラハムの財産を受け継がせようとするのです。しかし、神はアブラハムに「あなたにあなたの実の子が生まれる」とそういわれるのです。そして、その子から多くの子孫が生まれ、その子孫が、神がアブラハムに与えたカナンの地を受け継ぐのだというのです。


 アブラハムは、その神の言葉を信じた。その時、神は「これを彼の義と認められた」とある。先ほどの創世記15章6節です。


 実は、この個所は非常に微妙な個所でして、日本語訳の聖書をみますと、どの日本語訳聖書も、神の言葉を信じたアブラハムが神によって義と認められたと受け止められるように訳していますが、しかし、もともとのヘブル語聖書を見ますと、アブラハムが神を義なるお方だと認めたと訳すことも可能なのです。


 そして、ユダヤ人たちの聖書解釈の中には、アブラハムは神の言葉を信じ、神が語られた言葉に対して真実なお方であり、神は神が語られたことを必ずなされるお方だとみとめたと受け止めている解釈もあるのです。


 しかし、いずれにせよ、神はアブラハムに「あなたの子孫にこの地を与えます」と言う言葉を語られ、それを実現なさるお方である。そのことを確かなものとするために、神はアブラハムと契約を結ばれるのです。


そして、その契約を結ぶ儀式として8節から17節のある動物を真ん中に二つに裂き、その間を通るということが行われる。この動物を二つに裂き、その間を通るということは、この契約を破るならば、その契約を破ったものは切り裂かれて殺されても仕方がないということを意味していると言われます。つまり契約を交わす者には、自らの命を賭するほどの責任と義務を負うからです。


 言うまでもないことですが、契約においては、契約を結ぶものそれぞれが相手に対して義務と責任を負います。それを双務契約と言います。しかし、そのようなお互いに責任と義務を負いあう双務契約とは異なり、一方のみが義務と責任を負う片務契約(片務)というものがある。


 この創世記15章の場面においては、神のみがこの裂かれた動物の間を通ったことだけがしるされていますので、ここにおいて神とアブラハムとの間に結ばれた契約は片務契約のようなものだったのかもしれません。


 しかし、もともと片務契約と言うのは一方のみが責任と義務を負うものでありますが、しかし、このよう片務契約というものは、もともと主人や王が、その僕や国民の忠誠さや忠実さを見て、その態度に対して恩恵を与えるようなものなのです。


 つまり、アブラハムの神に対する忠実さや忠誠さを見て、神がアブラハムに対して恵みを与えるという契約を結ばれたと考えられるのです。その際、 神が負う責任は明らかです。それはと言う神の約束を果たすことです。「アブラハムの子孫が多く生み広がり、その子孫にこの地を与えます」と言う約束を果たす義務と責任を神が終われるのです。


 もちろん、その契約の前提となるアブラハムの神に対する忠実さは、アブラハムが神の言葉に従って故郷ハランの地から家族を連れて旅立ち、神が示した約束の地であるカナンの地に移り住んだことの中に見ることができる。そこには、神の語られた言葉に従って生きるアブラハムの姿を見ることができるのです。


 このアブラハムが主なる神の言葉に従うという忠誠、忠実さに対して、その忠実さを見た神が、何の対価を求めず恵みを与えるという契約がアブラハムの子孫までにも及ぶというのが、アブラハムと神との間の契約が持つ構造です。


 そして、その契約が歴史の中で展開し、アブラハムの子孫であるイスラエルの民がアブラハムのように神の言葉に従ていくもととなっていくようにと、律法を用いながら神が導いておられるというのが、旧約聖書が物語る物語なのです。


 そしてその旧約聖書の物語が、イエス・キリスト様の受難の物語の中で語り継がれていくのです。それは、十字架の死に至るまでに神のご意思と御計画に忠実に生きられたイエス・キリスト様のご生涯が、まさに神の律法を成就するものだからです。


 この神の律法は、マタイによる福音書22章35節から40節で、イエス・キリスト様がパリサイ派の人々に、「律法で最も大切な教えはなんですか?」と尋ねられた際にお答えになった「神を愛し、隣人を愛する」ということに集約されます。


 そして、この「隣人を愛する」ということは、敵をも愛するということを含むのです。つまり、隣人とは、仲のいい友達や、親戚家族と言った者だけではなく、敵をも愛するものである。それは、結局のところ、民族や人種を超えて全ての人が、隣人となのです。


 この、「神を愛し、隣人を愛する」という律法の生きた方を死に至るまで従順に生きられ、神の律法を成就なさったお方がイエス・キリスト様なのです。そのイエス・キリスト様の従順さのゆえに、すべての人が新しい契約のもとに置かれたのです。


それは、アブラハムの神の言葉に従う忠実さによって、約束された「地のすべての物が祝福される」という神の約束が、イエス・キリスト様によって成就されるという神の約束の成就でもあります。


 だからこそ、すべての人がイエス・キリスト様の生き方に倣い、「神を愛し、隣人を愛する」と言う生き方を、目指して生きる者とされたのです。


 みなさん、私たちは先ほど「信仰の導き手であり、完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか」と語りかけるヘブル人への手紙12章1節から3節のお言葉に耳を傾けました。みなさん、へブル人への手紙というのは、もちろんその内容がユダヤ的・ヘブライ的なので「へブル人への手紙」というタイトルがついているのですが、突き詰めて言うならば、神の民イスラエルとされた者に向かって書かれた手紙ということです。


 それは、イエス・キリスト様によってもたらされた新しい契約のもとに生きる者すべてが、イエス・キリスト様を目指し、イエス・キリスト様に倣い「神を愛し、隣人を愛する」と言う生き方に招かれているということなのです。そして、その生き方を目指し生きるところに神の救いの業が実を結んでいく。神の民が神の民として、神の恵みと祝福が支配する神の王国で生きて行くものとなるのです。


 先ほど申しましたように、今日は棕櫚の日曜日です。イエス・キリスト様が神の都であるエルサレムに王として入城した日を記念する日です。このとき、イエス・キリスト様は軍馬ではなく、仔ロバに乗って、平和の王としてエルサレムに入られた。


 そこには「神を愛し、隣人を愛する」という律法の精神を完成し成就するイエス・キリスト様のお姿が現れています。そして、その生き方に倣うことを、神は私たちに求めておられる。そのことを覚え、今、静まりの時をもち、心にしっかりと刻みたいと思います。静かに目を閉じ、心を静め、私たちを祝福するという神の約束を思いましょう。静まりの時を持ちます。

       2022.4.13

旧約書:創世記15章1節から19節、福音書:マタイによる福音書5章17節から20節、使徒書:へブル人への手紙12章1節から3節


 今日の主日は、教会の暦では棕櫚の日曜日と呼ばれる日となります。棕櫚の日曜日とは、イエス・キリスト様がエルサレムに入城なさったことを記念する日です。そのエルサレムに入城される際の様子は、新約聖書ヨハネによる福音書12章12節から15節に描かれています。

その様子とは、イスラエルの民が棕櫚の葉を道に敷き詰めて、「ホサナ(「救い給え」と言う意味)」と歓喜の声をあげて、子ロバにのったイエス・キリスト様をエルサレム市街に迎え入れたとあります。棕櫚の日曜日と言う名前は、そのことに由来しています。その棕櫚に日曜日の礼拝の説教の中心となります聖書箇所はマタイによる福音書5章17節から20節です。この個所は、マタイの夜福音書の5章から7章にわたる山上の垂訓と呼ばれる、新約聖書の中では大変有名な個所の一部分です。

山上の垂訓とは、イエス・キリスト様が、小高い丘の上から神を信じる者はいかに生きるべきかということを、群衆に向かい語り、お教えになった出来事です。その中でイエス・キリスト様は、「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである」といわれるのです。

 律法というのは、神がイスラエルの民に対していかに生きて行くかということをお教えになったもので、つまり、神の民の倫理です。しかし、この神の民の倫理は、神の目からみた人間がいかに生きるかということが語られたものであり、神の救いの業とは無関係ではありません。

と言うのも、神の民として神のみ前に生きるということと、神の救いの業とは表裏一体ものだからです。それは、神の救いの業というものは、神の救いの業の内に置かれた者は、神の民として神のみ前に神の民らしく生きて行くことによって完成されていくものであるということを意味しています。そしてそれが、人との契約ということに内実なのです。このように、私たちの信仰と行いというものは、神の救いの業において決して切り離すことができません。ところが、私たちプロテスタントの教会はしばしば信仰と行いというものを切り離してきました。

たとえば、私たちは「人は行いによって救われるのではない。ただ神を信じる信仰によってのみ救われるのだ」と言う言葉を、しばしば聞いてきました。そして、その言葉は間違っていない。救いは、私たちの行いに対する神からの報酬、あるいはご褒美として与えられるものではないからです。

 しかし、救いに行いが必要ではないというわけでありません。もし私たちが信仰に行いが必要でないというならば、それは間違っている。だとすれば、この救いに必要な行いとはいったい何なのでしょうか。それは、神に従う、あるいは神の言葉に従うということです。先ほどお読みいたしました旧約聖書の創世記15章1節から19節は、神がアブラハムにカナンの地と彼に子どもを与え、その子孫に、神がアブラハムに与えたカナンの地を与えることを契約なさった出来事が記されている箇所です。

 実は、神はこの創世記15章の先立つ12章において、アブラハムが75歳の時に、神から当時住んでいたハランの地を出て、カナンの地に移り住みなさいと言われます。そして、アブラハムを通して地の全ての人々が祝福されるという神の御計画を聞かされます。その言葉を聞いたアブラハムは、神の言葉に従ってハランの地を旅立ち、カナンの地に移り住むのです。そのアブラハムに対して神は「わたしはあなたの子孫にこの地を与えます」と言われるのです。

 確かに、神はアブラハムに「あなたの子孫にこの地を与えます」と言われましたが、アブラハムがハランの地を旅立ったのは75歳の時です。そして、その時点でアブラハムには子供がいなかった。だから、「あなたの子孫にこの地を与えます」と言われても、神がアブラハムに与えたカナンの地を受け継ぐ子孫はいないのです。

 そこでアブラハムは、エリエゼルと言う人を養子に迎え、その人にアブラハムの財産を受け継がせようとするのです。しかし、神はアブラハムに「あなたにあなたの実の子が生まれる」とそういわれるのです。そして、その子から多くの子孫が生まれ、その子孫が、神がアブラハムに与えたカナンの地を受け継ぐのだというのです。アブラハムは、その神の言葉を信じた。その時、神は「これを彼の義と認められた」とある。先ほどの創世記15章6節です。

 実は、この個所は非常に微妙な個所でして、日本語訳の聖書をみますと、どの日本語訳聖書も、神の言葉を信じたアブラハムが神によって義と認められたと受け止められるように訳していますが、しかし、もともとのヘブル語聖書を見ますと、アブラハムが神を義なるお方だと認めたと訳すことも可能なのです。そして、そのような訳に基づいてユダヤ人たちの聖書解釈の中には、アブラハムは神の言葉を信じ、神が語られた言葉に対して真実なお方であり、神は神が語られたことを必ずなされるお方だとみとめたと受け止めている解釈もあるのです。

 しかし、いずれにせよ、神はアブラハムに「あなたの子孫にこの地を与えます」と言う言葉を語られ、それを実現なさるお方である。そのことを確かなものとするために、神はアブラハムと契約を結ばれるのです。そして、その契約を結ぶ儀式として8節から17節のある動物を真ん中に二つに裂き、その間を通るということが行われる。この動物を二つに裂き、その間を通るということは、この契約を破るならば、その契約を破ったものは切り裂かれて殺されても仕方がないということを意味していると言われます。つまり契約を交わす者には、自らの命を賭するほどの責任と義務を負うからです。

 言うまでもないことですが、契約においては、契約を結ぶものそれぞれが相手に対して義務と責任を負います。それを双務契約と言います。しかし、そのようなお互いに責任と義務を負いあう双務契約とは異なり、一方のみが義務と責任を負う片務契約(片務)というものがある。この創世記15章の場面においては、神のみがこの裂かれた動物の間を通ったことだけがしるされていますので、ここにおいて神とアブラハムとの間に結ばれた契約は、この片務契約のようなものだったのかもしれません。

 しかし、元来、片務契約と言うのは一方のみが責任と義務を負うものでありますが、しかし、このよう片務契約というものは、その期限が主人や王が、その僕や国民の忠誠さや忠実さを見て、その態度に対して恩恵を与えるようなものなのです。つまり、アブラハムの神に対する忠実さや忠誠さを見て、神がアブラハムに対して恵みを与えるという契約を結ばれたと考えられるのです。その際、 神が負う責任は明らかです。それはと言う神の約束を果たすことです。「アブラハムの子孫が多く生み広がり、その子孫にこの地を与えます」と言う約束を果たす義務と責任を神が終われるのです。

 もちろん、その契約の前提となるアブラハムの神に対する忠実さは、アブラハムが神の言葉に従って故郷ハランの地から家族を連れて旅立ち、神が示した約束の地であるカナンの地に移り住んだことの中に見ることができる。そこには、神の語られた言葉に従って生きるアブラハムの姿を見ることができるのです。

 このアブラハムが主なる神の言葉に従うという忠誠、忠実さに対して、その忠実さを見た神が、何の対価を求めず恵みを与えるという契約がアブラハムの子孫までにも及ぶというのが、アブラハムと神との間の契約が持つ構造です。そして、そのような構造を持つ契約が歴史の中で展開し、アブラハムの子孫であるイスラエルの民がアブラハムのように神の言葉に従ていくもととなっていくようにと、律法を用いながら神が導いておられるというのが、旧約聖書が物語る物語なのです。そしてその旧約聖書の物語が、イエス・キリスト様の受難の物語の中で語り継がれていくのです。それは、十字架の死に至るまでに神のご意思と御計画に忠実に生きられたイエス・キリスト様のご生涯が、まさに神の律法を成就するものだからです。

 この神の律法は、マタイによる福音書22章35節から40節で、イエス・キリスト様がパリサイ派の人々に、「律法で最も大切な教えはなんですか?」と尋ねられた際にお答えになった「神を愛し、隣人を愛する」ということに集約されます。そして、この「隣人を愛する」ということは、敵をも愛するということを含むのです。つまり、隣人とは、仲のいい友達や、親戚家族と言った者だけではなく、敵をも愛するものである。それは、結局のところ、民族や人種を超えて全ての人が、隣人となのです。

 この、「神を愛し、隣人を愛する」という律法の生きた方を死に至るまで従順に生きられ、神の律法を成就なさったお方がイエス・キリスト様なのです。そのイエス・キリスト様の従順さのゆえに、すべての人が新しい契約のもとに置かれたのです。それは、アブラハムの神の言葉に従う忠実さによって、約束された「地のすべての物が祝福される」という神の約束が、イエス・キリスト様によって成就されるという神の約束の成就でもあります。だからこそ、すべての人がイエス・キリスト様の生き方に倣い、「神を愛し、隣人を愛する」と言う生き方を、目指して生きる者とされたのです。

 みなさん、私たちは先ほど「信仰の導き手であり、完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか」と語りかけるヘブル人への手紙12章1節から3節のお言葉に耳を傾けました。みなさん、へブル人への手紙というのは、もちろんその内容がユダヤ的・ヘブライ的なので「へブル人への手紙」というタイトルがついているのですが、突き詰めて言うならば、神の民イスラエルとされた者に向かって書かれた手紙ということです。

 それは、イエス・キリスト様によってもたらされた新しい契約のもとに生きる者すべてが、イエス・キリスト様を目指し、イエス・キリスト様に倣い「神を愛し、隣人を愛する」と言う生き方に招かれているということなのです。そして、その生き方を目指し生きるところに神の救いの業が実を結んでいく。神の民が神の民として、神の恵みと祝福が支配する神の王国で生きて行くものとなるのです。

 先ほど申しましたように、今日は棕櫚の日曜日です。イエス・キリスト様が神の都であるエルサレムに王として入城した日を記念する日です。このとき、イエス・キリスト様は軍馬ではなく、仔ロバに乗って、平和の王としてエルサレムに入られた。そこには「神を愛し、隣人を愛する」という律法の精神を完成し成就するイエス・キリスト様のお姿が現れています。そして、その生き方に倣うことを、神は私たちに求めておられる。そのことを覚え、今、静まりの時をもち、心にしっかりと刻みたいと思います。静かに目を閉じ、心を静め、私たちを祝福するという神の約束を思いましょう。静まりの時を持ちます。


2022年4月9日土曜日

日本ホーリネス教団相模原キリスト教会のHP

 今年から兼牧をする日本ホーリネス教団相模原キリスト教会のHPができました。LampMateの上坂兄の多大なる協力をいただいてようやくUpにこぎつけました。

まだ完全に完成と言うわけではないのですが、みなさんにお見せできるところまでは出来上がりましたのでアップします。
 よろしければ一度、(いえ一度と言わず何度でも)覗いてみてくだされば嬉しいです。

https://sagamihara-kirisuto.kyoukai.jp/

2022年4月5日火曜日

出来事となる言葉

 

「出来事となる言葉」

 息子が小学一年生になったころ、何を思ったのか、自分から「剣道がやりたい」と言い出しました剣。それで、私たち夫婦は、息子のために剣道を教えてくれるところを探しました。それで、教会の近くにある剣道クラブで稽古を始めたんです。

 剣道は武道でもあり、その稽古には、やはり厳しい一面があることは間違いがありません。だから、途中で「止めたい」と言い出すんじゃないかって心配になりました。けれども、息子がもし「止めたい」っていってきても、私も妻も「絶対に止めさせないぞ」って思っていました。

 それは、自分で「剣道をやりたい」って言い出したからです。自分で言った言葉には、自分で責任を取らなければなりません。だから、きちんと最後までやり遂げさせるつもりでした。そんなわけで息子は高校を卒業するまで、剣道を続けました。

 大学に入ってからもしばらくは続けていましたが、勉強が忙しくなったのか、大学に入学してしばらくして止めてしまいましたが、その時はもう大人になっていましたから、私たち夫婦も何言い優戦でした。

 

 ところで、聖書は、おもにヘブル語とギリシャ語で言葉でかかれていますが、そのへブル語で、言葉という単語は「ダーバール」といいます。このダーバールは、「言葉」という意味と同時に「出来事」と言う意味もあります。つまり語られた言葉は、必ず出来事になると言うことなんですね。

 

日本にも「言霊」っていう考え方があります。縁起のいい言葉を使えばいいことが起こり、縁起の悪い言葉を使えば、悪いことが起こるというやつですよ。ヘブル語のダーバールの感覚にちょっと似ている感じがしますね。

 でも、この語られた言葉は必ず出来事になるっていう「ダーバール」は、言霊とは似てはいますが、しかしちょっと違うのです。それは、人間の語った言葉が出来事を生み出すというのではなく、神が語った言葉は、必ず出来事になるということなんです。

 人間の語った言葉は、意外と信頼が置けないものです。ですから必ず出来事になるとは限りません。「剣道をやりたい」って言い出して稽古をはじめた息子です。でも、いつやめると言い出すかわかりません。だからこそ、親である私たちは、自分の言ったことに責任を持たせるために「絶対に止めさせないぞ」とそう決心しているわけです。

 けれども、神が語られた言葉は、必ず出来事となる。神の言葉は信頼のおける言葉のです。その神の言葉が、「私はあなたを見捨てず、あなたをはなれない」と言います。神は、は私たちを愛してくださっているからです。だから、神は、この神の言葉を信じるものとと、共にいてくださり、私たちを支え続けてくださるのです。神が私たちを見捨てない。この言葉は、必ず出来事になるのです。