2019年2月18日月曜日

ネームレス


「ネームレス」


よく、男っていうのは、なかなか女性の愚痴、特に連れ合いの愚痴を、うまく聞いてあげられないって言われるんですけど、そんなもんなんですかね?でも以前、うちの妻がこぼした愚痴には、ちょっと考えさせられました。
その愚痴というのは、「子供の保育園に行けば『誰々ちゃんのお母さん』と呼ばれ、家に帰ってご近所では、『濱さんの奥さん』といわれる。一体私は誰なんだろう」っていうものです。
 確かに、考えてみれば、当時の私は、普段妻を呼ぶときは、「おい」とか「ねえ」、良くても「お母さん」と言う程度。一度は「私はあなたの母親じゃないわよ。」ってこっぴどく怒られて小さくなったことがありました。
 そのときは、なんで妻がそんな事で怒り出したのかわかんなかったんです。でも「私は一体誰なんだろう」と言う愚痴を聞いて、その意味がわかったような気がしました。

 たかが名前と思われるかもしれませんが、名前の背後には、その人自身の人格や存在があります。ですから、人は名前を呼ばれる事によって、その人自身の存在する意味とか価値を認められている事を、感じ取っているのかもしれませんね。いわば、名前を呼ばれる事によって、自分が受け入れられているということを確認しているというわけです。
それを「誰々ちゃんのお母さん」とか「だれそれさんの奥さん」では、自分が子供やご主人の付録のように感じて、さみしくなったのかもしれません。それで思わず愚痴ってしまった。でもそんな気持ちもよくわかります。

男性だって、自分の名前を呼ばれる事なく、会社名で呼ばれる事が少なくありません。もちろん、それによって、自分が所属している会社への帰属意識は高まりますが、反面、会社の歯車でしかない事が否応なしに思い知らされる事でもあるのです。
やっぱり、誰でも、自分の名前を呼んで欲しいんですよね。誰かの付録や、一部分のように見られるのでなく、かけがえのない存在として、人格を認め、受け入れて欲しいのではないでしょうか。

旧約聖書のイザヤ書の411節に、神が「恐れるな、私はあなたを贖ったのだ。私はあなたの名を呼んだ。あなたは私のもの」と言っている箇所があります。
神は、ひとりひとりの存在に目を留め、一人一人のことを大切に思い、受け入れようと思っておられるのです。だからこそ、あなたの名を呼び、あなたは私のものだとそう言われるんですね。
そして、あなたを聖い神のみもとに受け入れるために、私達の汚れた罪の行いや、醜い罪の心をきれいに洗い清める為に、イエス・キリスト様を十字架にかけて死なせられました。
ですから、先ほどのイザヤ書411節にある聖書の言葉は、さらに「あなたは、神の目に高価で尊い」と言う言葉に繋がっていくのです。そう、神は、あなたと言う存在の価値を認め、大切に考えてくださっているのです。

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