2020年10月13日火曜日

さあ、帰ろう

 

「さあ、帰ろう」

 みなさんは、音楽はお好きですか。 じゃぁコンサートなんかは?

 私の教会では、かつては毎年チャペルコンサートを行っていました。今は、残念ですが毎年行うというわけにはいかなくなりましたが、それでも、時々行っています。コンサートでピアノを使う時には、必ず、調律師さんにピアノの調律を頼むんです。

 あるとき、その調律師の方に、調律を頼まれるときに、「こんなふうにしてくれ」とか「あんなふうにしてくれ」って言うような注文がつきませんかって聞いてみたんです。そしたらね「やっぱりありますよ」って言っておられました。たとえば、国際基準ラの音は、一秒間に440回、ピアノの弦が振動する野が基準なんだそうです。ところが、多くの音楽ホールなどは、442回に設定しているというこのなのです。どうやら、この方がきれいに聞こえるらしいのです。

ところが、ヨーロッパでは、445にするところも多いらしいのです。ですから、ヨーロッパからきた音楽家おなかには、らの音を445にしてくれっていう注文があるそうです。しかし、日本のホール備え付けのピアノなどは、442にしてずっと使っている。それを、445にしても、その楽器はあまり響かないそうです。なぜなら、それはその楽器の本来のあるべき姿は442であって445ではないからなのです。

 たった1秒間に3回の違いでも、その楽器の本来あるべき姿でなければ、よい音を奏でられないですね。おなじようなことは、人間についても言えると思うのです。つまり人間も、私の本来あるべき姿にあってこそ、その人は自分らしく輝いて見えるのではないかと思うのですが。どう思われるでしょうか。

 聖書の一番最初にある創世記には、神様が人間を創造さら、世界を創造されたとき、それらは、はなはだよかったって書いてあります。まさに、神が作られた本来の姿は、実にすばらしいものだったんですね。

 けれども、どうでしょうか。実際の人間の姿を見ていると、本当に「はなはだ良い」と言えるかなと思うと、必ずしもそう言えないような気がします。もちろん、人間ってすばらしいなって思わされるようなこともいっぱいあります。、反面、人間の嫌な面、醜い面もいっぱい見ることがあるのではないですか。私自身が自分自身を顧みても、自分勝手で、汚い、小ずるいところなんかあって、自分で自分が嫌になってしまうようなときがあります。それは、まさに人間としてとしてのいやらしい部分であり醜い側面です。

  そんな時は、本当に、人間がはなはだ良いものだとしたら、「どうしてこんなふうになってしまったのだろう」って悲しくなるような感じです。それこそ、神様が人間をお造りになった、その人間の本来あるべき姿が、はなはだ良いものだとしたら、なんて遠くかけ離れてしまった存在になってしまったのでしょう。

 できることなら、神様が最初に作られた特に、はなはだよかったって言われる、人間本来の姿に帰って、輝きたいなってそう思います。

私たちは、本来あるべきところからかけ離れて、遠くまで迷い出てしまった。だとしたら、もときた道を帰っていかなければなりません。でも、迷い出てしまった私たちは、いったいどの道を帰っていけばいいんでしょう。

聖書には、「私は真理であり、道である。」といわれるキリストの言葉が書かれています。つまり、本来のあるべき姿に帰る道、きた道を正しく帰っていくには、キリストというお方によらなければならないというんです。そしてそれは、キリストによって示された神の愛に触れ、私たちが心から神を信じるところから始まるのです。神は、自分勝手、汚い、小ずるい私までを愛し、包んでくださいました。その神は、あなたも愛し包もうとしておられます。そしてその愛は、私たちを包み込むだけでなく、私たちをキリストに似せたものに変えてくれるのです。

ですから、キリストを信じて、あなたも、本来あるべき姿に向かって、私は道であるというイエス・キリストを信じて生きる道を歩んでいけばよいのです。

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