2021年6月10日木曜日

ソクラテスはキリスト教徒だった。

            ソクラテスはキリスト教徒だった。

 先日来、2世紀の古代教父と呼ばれる人たちの文書を読んでいます。その中にユスティノスという人が書いた「第一弁明」「第二弁明」と言ったものがあります。これらの書物は、キリスト教への迫害が広がって行くなかで、自分たちの信仰は決して怪しいものではないということを、それこそ弁明するために書かれたものです。驚くべきことですが、ユスティノスはこの「第一弁明」でソクラテスはキリスト教徒であったと言い、「第二弁明」では、ソクラテスは部分的ではあるがキリストを知っていたと言うのです。言うまでもありませんがソクラテスは紀元前5世紀の人ですから、イエス・キリスト様より500年近く前に生きた人です。ですから、ソクラテスがいわゆるキリスト教徒であったわけはありませんし、当然イエス・キリスト様に出会ったこともありません。もちろん、ユスティノスはそんなことは十分にわかっていて、その上でなおソクラテスはキリスト教徒であったと言い、部分的にキリストをしっていると言っているのです。

 それは、ソクラテスの生き方がキリスト教徒と言えるような生き方だったからです。ソクラテスは正義と言うことを重んじました。ですから、正しいことを求め、正しい生き方をしました。つまり、義を求め義に生きたのです。それゆえにユスティノスは、ソクラテスをキリスト教徒だと言った。しかし、それでも、ソクラテスはキリストを部分的にしか知らずキリストのすべてを知っていなかったと言います。

思うに、ユスティノスがソクラテスは部分的にしかキリストを知らなかったというのは、ソクラテスは愛がかけているからではないでしょか。確かに彼は正しいこと、正義を求め、そして自ら正義のために命を投げ出しました。しかし、彼の生き方は法を守り、法に準じて命を投げ出しました。しかし、彼の教えには、隣人を愛する隣人愛が欠けている。ユスティノスはそう思ったのではないでしょうか。そして、この隣人愛と言うことを求め、隣人愛に生きると言うことがなければ、キリスト教徒と呼ばれることはあっても、イエス・キリスト様を完全に知っているとは言えない。ユスティノスはそう言っているのではないかと思うのです。

このソクラテスをキリスト教徒と呼び、それでもなおソクラテスは部分的にしかキリストを知らなかったと言うユスティノスの言葉は、本当に考えさせられる問いかけです。確かに私たちはクリスチャン、すなわちキリスト教徒です。確かに私たちはキリスト教徒と呼ばれる存在ですが、しかし、その私たちもまた、部分的にしかイエス・キリスト様を知っていないのではないか。そうユスティノスは「今、ここで」キリスト教徒として生きる私たちに問いかけてくるのです。

しかし同時に、このユスティノスの言葉は逆説的にとらえるならば、そのように「隣人愛に欠けている」ソクラテスであり部分的にしかキリストを知っていると言えないような不完全な者であっても、神はそのソクラテスをキリスト教徒として受け入れてくださっていると言うことです。それほど大きな愛で私たちを包んでいて下さる。感謝なことではないですか。そしてそのような大きな愛で包まれているからこそ、私たちは不完全なものであるつつも完全な者を目指して生きていきたいと思うのです。

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