2023年8月28日月曜日

 23年8月第四主日礼拝説教「安息日の意義」               2023.8.27

旧約書:申命記5章12節から15節
福音書:ヨハネによる福音書9章8節から24節
使徒書:ピリピ人への手紙4章6節、7節

 今日の礼拝説教の聖書箇所はヨハネによる福音書9章8節から24節までです。この箇所は、同じヨハネに福音書9章1節から7節で、イエス・キリスト様が、物乞いをしていた生まれつき目の見えない人を癒し、目が見えるようにして挙げた出来事をきっかけに起こった出来事が記されている箇所です。
 この物乞いをしていた生まれつき目の見えない人の目が見えるようになったという出来事は、彼を知る人々に大きな驚きを与えます。その驚きは、今、人々の前にいる人と、道端で物乞いをしていた生まれつき目の見えなかった人とが同一人物だと認めることができないほどの驚きでした。
 そこで、人々は一体何がこの生れる突き目の見えない人に起こったのかを尋ねます。すると、この目の見えなった人は、イエス・キリスト様というお方が、この人の目に泥ぬり「シロアムの池で目を洗え」と言われた言葉に従って目を洗うと見えなかったはずの目が見えるようになったのだというのです。

 シロアムの池というのは、紀元前700年頃に南ユダ王国のヒゼキヤ王によって造られたもので、首都エルサレムが敵に責められた取り囲まれた際、水源を確保するためにの「ギボンの泉」を覆い隠し、そのギホンの泉から、今日ヒゼキヤのトンネルと言われる岩盤をくり抜いた地下水路のトンネルの終点となったのが、この「シロアムの池」です。この「ヒゼキヤ・トンネル」は、高低差は2メートルほどの、現存する世界最古の水道施設であり、今も豊かな湧き水を運んでいます。
 そのシロアムの池で起こった「生まれつき目の見えなかった人の癒し」という驚きの出来事は、彼のことを知る人々から、パリサイ派の人々へと伝えられます。それは、驚きの出来事が安息日になされたことであると告げたからです。

 イスラエルの民にとって、安息日は、聖なる日として一切の労働が禁じられています。それは旧約聖書出エジプト記20章に記されているモーセの十戒と呼ばれる戒律に

「8:安息日を覚えて、これを聖とせよ。9:六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。10:七日目はあなたの神、主の安息であるか ら、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。」

とあるからです。そして、このしてはならない労働の中に人を癒すということも含まれているのです。その安息日にイエス・キリスト様は、この生まれつき目の見えない人をお癒しになられた。そしてそれは、明らかな律法にある安息日規定に違反する行為だったのです。

 みなさん、今まで私たちは、この当時のパリサイ派の人々は、旧約聖書に記された津法を厳格に守ることで、救いを得ようとする行いによる義を主張していた人々であったと考えていました。しかし、近年になってE.P.サンダースやジェームス・ダン、またN.T.ライトといった新約学の研究者によって。彼らは、救いを得るために律法を守っていたのではなく、むしろ神の一方的な恵みによって神の選びの民とされたことに対する応答として、律法に従って生きようとしていた人々であるということがわかってきました。
 しかも彼ら研究は、当時のパリサイ派の人々は、自分たち自身にはすべての律法を厳格に守ることを求めましたが、人々に求めたものは、すべての律法を厳格に守るということではなく、律法が食べてはならない定めた食物を食べないという食物規定と安息日には一切労働を行なわない安息日規定の二つだけだったということも明らかにしてきたのです。

 この神の一方的な恵みに応答し、その応答として神の命じる律法を守り行って生きるというパリサイ派の人々の姿勢は、今日、私たちがイエス・キリスト様の救いの恵みに応答して、神の言葉に従い、イエス・キリスト様に従って生きていこうとする姿勢と、何ら変わりのないものです。しかし、イエス・キリスト様は、、福音書を読む限りそのパリサイ派の人々を厳しく糾弾し批判しています。
 みなさん、イエス・キリスト様が安息日にこの目の見えない人をお癒しになったのは、イエス・キリスト様が律法のないがしろしたとか、モーセの十戒を軽んじたということでは決してありません。むしろ、イエス・キリスト様は律法やモーセの十戒を大切の考え、それを生きられたのです。
 では、なぜ安息日にしてはならないと言われる癒しの業を行ったのでしょうか。みなさん、ここでもう一度、モーセの十戒に目を止めたいのです。すると、モーセの十戒には「なんのわざをもしてはならない」といわれているだけで、そのわざとは何かは、記されていないのです。ではそのわざとは一体何か?そのことをイスラエルの民は考え、解釈していきます。

 みなさん。イスラエルの民の伝統の中には、旧約聖書を色々と解釈したミシュナーと呼ばれる口伝による律法の解釈があります。そしてさらにそれを厳選し成文化したタルムードと呼ばれる律法の解釈書が出来上がって来た。そして、タルムードの中に、人を癒すということも、安息日にしてはならない労働のうちに含まれるという解釈があるのです。                        
 しかし、イエス・キリスト様は、安息日規定に何をしてはならないかという律法の解釈ではなく、律法そのものに目を止められた。つまり、安息日規定が何で設けられたのかという安息日の意味、あるいは意義といったことに目を止められたのです。

 神様は、なぜ安息日をもうけられたのか。先ほどの出エジプト記20章8節では、「七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない」とあります。これは、神がこの世界を創造された際に、6日間で創造の業を終え、七日目に休まれたということを意識した言葉です。
 つまり、6日観労働をして疲れた心と体とを癒すために安息日があるというのです。そう考えると、モーセの十戒における安息日規定に「あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人も」なんの仕事もしてはならないと書かれている言葉はとても重要です。神様は、イスラエルの民の民だけが休むのではなく、奴隷や家畜、他国の人といった弱い立場にいる人までも休ませなさいというのです。

 みなさん、主人と奴隷という関係の中では、主人は自由に休んでも、弱いものを虐げ、休みなく働かせることができます。しかし、安息日規定が設けられているからこそ、弱い立場の人も、労働から解放され、心も体も休めることができるのです。そのことは、先ほどお読みしました旧約聖書申命記5章12節から15節に色濃く出ています。すなわち

 「12:安息日を守ってこれを聖とし、あなたの神、主があなたに命じられたようにせよ。13:六日のあいだ働いて、あなたのすべてのわざをしなければならない。14:七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたも、あなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、牛、ろば、もろもろの家畜も、あなたの門のうちにおる他国の人も同じである。こうしてあなたのしもべ、はしためを、あなたと同じように休ませなければならない。15:あなたはかつてエジプトの地で奴隷であったが、あなたの神、主が強い手と、伸ばした腕とをもって、そこからあなたを導き出されたことを覚えなければならない。それゆえ、あなたの神、主は安息日を守ることを命じられるのである。」

 ここでは、神様の創造の業の故に安息日を守れとは言っていません。むしろ、神様がエジプトで奴隷となっていたイスラエルの民を救い、開放してくださったがゆえに、あなた方のうちにある奴隷や家畜や他国の人も、安息日には彼らを縛り付けている労働から解放して休ませてやりなさいというのです。そして、自分たちもまた、神様の救いの業の故に今、こうして、ここにあるのだということを思い起こしなさいというのです。

 安息日、その安息日にイエス・キリスト様は安息日に病に苦しむ人をお癒しになりました。この目の見えない人だけでなく、ヨハネによる福音書5章1節から13節には、ベステダの池のほとりに身を横たえていた歩けない人を、安息日に癒されています。それは、病の苦しみに縛り付けられ、「あの人は本人の罪か、親の罪のために目が見えないのだ」といった人々の心無い言葉に虐げられ苦しんでる人を、その苦しみから解放し、心に平安をもたらす救いの業なのです。

 みなさん、安息日は、まさに弱い者、虐げられている人々を労働から解放し、休息を与え、慰めを与え、平安を与えるために制定されたのです。それが安息日が持つ本来の意味であり、意義です。神様は、安息日を通して、この世界において虐げられ、弱められ、苦しめられている人々の子ことに慰めを癒しと平安をもたらしたいと願っておられる。
 この神様のご意思に目を向けないで、安息日に何をしてはならないかなどと議論し、安息日に労働をしたと言って人を裁くなどといったことは、実に愚かな議論であり、あるパリサイ派の人々が言ったある「その人は神からきた人ではない。安息日を守っていないのだから」などと言う言葉は、安息日の意味や意図を理解していない人の言葉だと言えます。

 みなさん、イエス・キリスト様は律法の精神を生きられた。律法を大切に生きられたのです。もちろん、パリサイ派の人々の中にも、そのことに気づいた人もいたようです。だから、今日の聖書箇所の12節にあるように「罪のある人が、どうしてそのようなしるしを行うことができようか」。そして彼らの間に分争が生じたのです。
 その論争の最後を、このヨハネによる福音書の著者が「そこで彼らは、もう一度この盲人に聞いた、「おまえの目をあけてくれたその人を、どう思うか」。「預言者だと思います」と彼は言った」という言葉で締めくくっていることは、実に意味深い。そこには、聖書を聖書ならしめる聖霊の御業を感じられます。なぜならば、預言者とは、イスラエルの民が神のみこころ離れ、律法の精神を見失い、誤った道を歩んでいるとき、それを厳しく糾弾し、それを正し、本来の神の民としてのあるべき姿へと導く存在だからです。

 この生まれつき目の見えなかった人は、そのような意図で安息日に自分を癒してくれたイエス・キリスト様を「預言者だと思います」といったわけではないでしょう。しかし、その言葉は、結果としてまさに、弱い者、虐げられているものが、私たちを支配し、苦しめ虐げているものから解放し、心と体とに休息と慰めと、そして平安を与えるという安息日が制定されたその意味と意義を生きられたイエス・キリスト様を指し示しています。そしてそこには、律法を生きられたイエス・キリスト様のお姿があるのです。

みなさん、先日私の友人の岩本遠億という牧師が、祈りについて、ピリピ人への手紙4章6節、7節の

6:何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。7:そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。

というみ言葉から短いメッセージを語っておられました。その内容をまとめると「祈っても。祈り求める者が与えられないこともある。(もちろん与えられることもあるでしょう)、しかし、神に祈りを通して、私たちは人知でははかり知ることのできない神の平安が与えられる。それは、神が与える平安こそが、実は本当に私たちの心が願い求めているものだからではないか」と言うのです。

私たちの祈りと願いの根底にある人知でははかり知ることのできない平安をもたらす主の安息に、イエス・キリスト様は私たち導いておられる。真の安息日を私たちにもたらし、真の安息日の中で私たちを生かしてくださるのです。その主イエス・キリスト様のことを、今静かに思いめぐらしたいと思います。静かに目を閉じ、心を静め私たちに慰めを与え、平安をもたらす主イエス・キリスト様ことを想いましょう。静まりの時を持ちます。

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