2018年7月20日金曜日

‘18年7月第3主日礼拝説教「苦しみの中で寄りすがる信仰」

187月第3主日礼拝説教「苦しみの中で寄りすがる」         2018.7.15

旧約書;創世記151-6

福音書;ルカによる福音書2338-43
使徒書;ローマ人への手紙818-25

 さて、2012年の128日から始まったルカによる福音書の連続説教も、6年かかっていよいよ十字架と復活というクライマックスの記事にかかってまいりました。今日は、その中で、イエス・キリスト様と共に十字架に付けられた二人の犯罪人の記事です。聖書個所はルカによる福音書2339節から43節です。

 イエス・キリスト様が十字架に磔られた時、二人の犯罪人も一緒に十字架刑にあっていました。ルカによる福音書2333節を見ますと、この二人の犯罪人はイエス・キリスト様を挟むようにして右側と左側に磔られたことがわかります。このとき、この二人の犯罪人がイエスキリスト様を挟んで向き合うように右側と左側に磔られたのか、あるいはイエス・キリスト様と横並びになって横一線に磔られたのかは分かりません。しかし、いずれにせよ、イエス・キリスト様を中止にして3本の十字架がゴルゴダの丘に立てられたのです。

 このときイエス・キリスト様と一緒に十字架に付けられた二人の犯罪がどのようなことをしでかしたについては、ルカは明らかにしていませんが、マタイによる福音書の2738節や44節、マルコによる福音書1527節では、この二人は強盗となっています。もっとも、この強盗と訳されている言葉は、強盗と訳す以外にも、略奪者や強奪者とも訳せますし、革命家というふうに訳すことも可能な言葉であって、実際にどう訳すかは定かではありません。

 しかし、十字架刑というのは、一般にローマ帝国に反逆する政治犯に対して課せられる刑罰です。実際、一緒に受持化に磔られているイエス・キリスト様の頭の上には「これはユダヤ人の王」と書いた札が掲げられていました。それは、ユダヤ人の王としてローマに反逆をした人間であるとして十字架に架けられているのです。そして、イエス・キリスト様と共に十字架に架けられている犯罪人の一人が、40節で「お前も同じ刑罰を受けているではないか」と言っていますことを考えると、彼らは、今日でいうローマ帝国に反逆するの政治犯ですが、いわゆるテロリストとして暴動をおこし、その暴動の際に略奪をするような者たちだったのかもしれません。

もっとも、この「お前も同じ刑罰を受けているではないか」と言う言葉も、「お前も(イエス・キリスト様と)同じ刑罰を受けているのではないか」ということなのか、「お前も私も同じ刑罰を受けているのではないか」ということなのか、ここのところも定かではありませんので、

しかし、このルカによる福音書は、その冒頭にローマの高官であるテオピロ宛てに書かれたものであると記されています。つまり、ローマ人たちがこの手紙の主たる読者として考えられているのです。そのルカによる福音書が、あえてただ犯罪者としてだけ書き記しるしているのは、読者であるローマ人たちに、ローマに反逆した政治犯が十字架に架けられていると言う印象を強く与えたかったのかもしれません。いずれにせよ、二人の犯罪者がイエス・キリスト様と共に、十字架に架けられたのです。

 そのとき、この二人の犯罪者のひとりが、イエス・キリスト様に「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と声をかけます。この言葉は、一見しますと、同じルカによる福音書2335節でイエス・キリスト様を陥れ十字架に架けたユダヤ人の指導者たちが言った「彼は他人を救った。もし彼が神のキリスト、選ばれた者であるなら、自分自身を救うがよい」という言葉や、ローマの兵士たちが言った「あなたがユダヤ人の王なら、自分を救いなさい」という嘲笑の言葉と同じように見えます。

 しかし、先ほど申し上げましたように、このイエス・キリスト様と一緒に十字架に磔られた二人の犯罪人は、単なる強盗というのではなく、ローマに反逆し、ユダヤの民をローマから解放しようとした政治犯の可能性が十分に考えられる人たちです。その人が「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」という言葉は、あのユダヤ人指導者たちやローマの兵士たちの嘲笑の言葉とは本質に違います。

 それは、今、自分の命が失われ、自分が目指してイスラエルの国をローマ帝国の支配から解放しようとする夢が潰えようとする絶望の最中(さなか)から、絞り出す「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」という言葉だからです。

 みなさん、ここまで私は、キリストという言葉の意味は「油注がれた王」という意味であると申し上げてきました。ですから、ここで「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」といってイエス・キリスト様をののしる犯罪人の言葉は、「お前は神から油注がれた王であるのならば、自分とおれたちの命を救い、共にローマと戦い、ローマ帝国を打ち破ってユダヤの民をローマ帝国から解放すればよいではないか。なぜそれをしないのか。」というそんな絶望的な響きを持つ叫びのように私には聞こえてくるのです。

 そして、その叫びは、イエス・キリスト様の力を借りてではありますが、しかし自分自身の崇高な目的を自分自身で成し遂げる夢をあきらめきれない人の叫びのように私は思えるのです。だから「自分とおれたちを救え」と言う。そして、それをなされないユダヤの王に絶望しののしっている。自分自身にはあきらめきれず、イエス・キリスト様には絶望している、そんな人の姿がそこにあるように私にはそのように思えるのですが、みなさんはどう思われるでしょうか…。

 このとき、この「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」とののしる犯罪人と一緒に十字架に付けられていたもう一人の犯罪人が口を開きます。それは「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」という言葉を諫め、たしなめます。そして次五のように言うのです。

おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。 お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない

この二人の犯罪者はイエス・キリスト様と同じようにローマ抵抗に対する反逆者として十字架刑を受けている。でも、この二人はイエス・キリスト様とは決定的に違うのです。彼は「お互いは自分のやったことの報いを受けているのだから、こうなったのは当然だ」と言います。つまり、自分たちのしてきたことをちゃんとわかっている。その上で、「しかし、このかた(つまりイエス・キリスト様)は何も悪いことをしたのではない」と言っているのです。それは、自分たちがしてきたことがたとえローマに反逆して行ったことであっても、それは悪いことであったと言うことをちゃんと理解していると言うことなのです。


確かに、彼らの目指してきたものはユダヤの民をローマ帝国の支配から解放すると言う崇高な目的だったかもしれません。しかし、その目的を自分たちが達成するために悪いことをしてきた。目的が達成されれば、その手段において悪を行ってもよいわけではありません。目的が正しく崇高なものであればあるほど、それを達成する手段も正しく崇高な者でなければなりません。結果オーライではないのです。

 この犯罪人は、イエス・キリスト様と同じように十字架刑に処され、十字架の上にあげられ、そしてイエス・キリスト様を目の前に見ながらそのことに気づいたのかもしれません。そして、おそらくは自分たちの行い振り返りつつ発せられた言葉が42節の「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」と言う言葉です。

 この「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」と言う言葉は、最近出されました新改訳2017聖書では「あなたが御国に入られるとき私を思い出してください」となっています。これは現存する写本の間にある違いによるものですが、いずれにせよ、イエス・キリスト様によって神の国が完全に完成する時を指し示していると考えてもよいでしょう。その時に、「私を思い出してください」と言うのです。

この「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」と言う言葉には、この地上での命に対するある種のあきらめがあります。それは、40節の「お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ」と言う言葉にもにじみ出ているものです。そういった意味では、この犯罪者も絶望の中にいるのです。しかし、この犯罪者はもう一人の犯罪者のようにイエス・キリスト様をののしることはしていません。

むしろ、絶望の中でイエス・キリスト様の中に希望を見ています。それがと言うあきらめと絶望の言葉の背後に隠れている。というのも、この男は、神の国がイエス・キリスト様によって打ち建てられると期待しているのです。

たしかに、この二人の犯罪者はローマ帝国に反逆し、ユダヤの人々をローマ帝国から解放し、イスラエルの国を再興しようとしていた。そのために、おそらく暴動を起こしたりテロ行為のようなこともしていたのでしょう。だからローマ帝国によって捉えられ十字架に架けられてしまった。でも、十字架の上で死のうとしている自分は、もはや自分の目でイスラエルの国がローマ帝国から解放されイスラエルの国が再興すると言うことを見ることも、それに参加することもできない。

しかし、神の御国はイエス・キリスト様によって実現するのです。この犯罪者には、その神の御国がどのような形でもたらされかは分からなかったでしょう。しかし、自分がそれを見ることも、またもたらすこともできないけれども、神がお遣わしになった油注がれた王ならばそれができる。そのような期待と希望が、あの絶望とあきらめの言葉の背後にある。

 それは、今、死なんとする自分自身に目を向けるならば、そこにはあきらめや絶望しかありません。だから、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」と言う。そうですみなさん、この犯罪者は「私を思い出してください」と言うのです。決して、「私も一緒に神の御国に入れてください」とは言っていない。ただ「思い出してください」とだけ言う。

死にゆく自分に対してはあきらめつつも、キリストに対して目を向けるならば、そこには希望があり、そして期待するのです。だから、イエス・キリスト様が御国に入る時には、手段は誤まり、間違った悪い方法ではあったかもしれないけれども、イスラエルの民が解放され救われることを願っていたものがいたことを思い出してほしい。そんな思いが、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」と言う言葉の背後にあるように、私には思えるのです。そして、それはもう一人の自分自身に対してはあきらめきれず、イエス・キリスト様に対しては絶望しているもう一人の犯罪人とは真逆な人の姿がある。

その人に、イエス・キリスト様は「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」と言われるのです。

パラダイスというのは、よく言われますが、囲いのある庭と言うペルシャ語ですが、ペルシャの王が、その国の民に特別な名誉を与えるときに、その名善い与る者を王の庭であるパラダイスに招き、王と共にその庭を散歩する名誉を与えたと言われます。イエス・キリスト様が、あえてペルシャ語のパラダイスと言う言葉を用いたのは、そのようなことをイメージしていたのかもしれません。

 いずれにせよ、イエス・キリスト様は、自分自身に対しては、あきらめと絶望を感じている者に、希望の言葉を語るのです。しかも、「きょう、わたしと一緒にパラダイスにいる」と言われる。この犯罪人にとって、今日と言うその日は、十字架に付けられ、死にゆくときです。しかし、その時に、その人はイエス・キリスト様と共にパラダイスにいる。それは肉体の死と言う試練を超えた希望を語る言葉です。

 みなさん、週報の報告欄にも書きましたが、先週の水曜日に三田泉教会と箕面泉教会の牧師をなさっておられたOK牧師が急逝なさいました。近畿教区のキャンプ場の整備をなさっているときに誤って転落し、頭蓋骨骨折と硬膜血種のために亡くなられたのです。

 本当にまじめに牧会をし、伝道をし、三つの教会を開拓なされ、主に使えられた牧師でした。私も献身前にはお世話になりましたし、聖書学院に在学中はいろいろと支えていただきました。このように真摯に主に使えてこられた方が、事故と言う出来事で召されると言う出来事に出会いますと、「主よどうしてですか」と問いたくなる。この教会の前身の三鷹教会のKY牧師が交通事故で召されたときも、そう思いました。

 そのようなときは、本当にこの世界には、試練や苦難ばかりがあるような気持がして、どこに希望や望みがあるのかと思わされるような感じです。それは、このような突然の不慮の事故による親しい人の死だけに限らす、例えば、阪神淡路大震災や東日本大震災、そして今回の西日本を襲った豪雨のような出来事、このような出来事の最中(さなか)に置かれるとき、とても希望を持つような気持にはなれませんし、何を期待していいのかも分からない。

 しかし、その現実の苦しみの中にも聖書は希望を語るのです。それが、先ほど司式者にお読みいただきました。ローマ人への手紙818節から25節です。そこにはこうあります。

18:現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。19:被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。20:被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。21:つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。22:被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。23:被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。24:わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。25:わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。

 ここでは、この世界全体が苦しみと苦悩の中にあると言っています。被造物全体が虚無に服し、被造物すべてが今日まで、共に受け貴、共に産みの苦しみを味わっているということはそういうことです。しかし、その苦しみの中に希望がある。しかし、その希望は、心の呻き(うめき)の中で待ち望む希望であり、目に見えないものを待ち望む希望です。もはや自分自身ではどうしたらいいのかわからないような状況、自分自身に何かができるとは到底思えない希望や期待が持てないような状況の中にあって、神にあって、イエス・キリストにあって希望を持つそれが、神に寄り縋る信仰によってもたらされる希望なのです。

 OK牧師が亡くなられたと言う報を聞いたとき、KY牧師が自己で亡くなられたとき、私の心には、深い悲しみとやるせなさと、脱力感に満ちていました。それでも、その中に、やがて神の国が完成し、神の創造の業が関せする時には再び会えるという希望だけはありました。そしてその希望が今日まで支えてきたのです。

 みなさん、人間の力ではどうしようもないこと、解決がつかないことは数多くある。そして自分の力ではどうしようもない現実の前に立つとき、私たちは自分自身に対して絶望するのです。けれどもみなさん、神には解決がある。イエス・キリスト様には希望があると聖書は言うのです。

 先ほどお読みしました旧約書の創世記151節から6節までに書かれているアブラハムの物語などは、まさにそのような希望の中に生きた人の物語であると言えるでしょう。このアブラハムの物語は、創世記127節において、神がアブラムに子孫を与えると言う約束を与えたことから始まります。そしてその約束をアブラムは信じたのです。

 ところが、神が子孫を与えてくださると約束し下さったのにもかかわらず、アブラム共にサライの夫婦には子供が生まれず、希望を失ってしまうように状況になった。もはや人間的な視点から見れば、絶対に子供など与えられないと誰しもが思うほど、アブラムもサライも高齢になった。そのように、自分自身ではもうどうしようもないと言う、自分自身に絶望したときに、神は「アブラムにサライによって跡取りを得る」と言う約束を成就してくださったのです。それはひとえに、創世記156節でアブラムが神の約束を信じたというその信仰の故なのです。

 みなさん、私たちは、今日の聖書個所のルカよる福音書2738節から43節に出てくる二人の犯罪には、自分自の死に直面しつつも自分自身にあきらめきれずキリストに絶望する人と、同じように自分自身の死に直面して自分自身に絶望しあきらめ、キリストに希望を持つ人とを見ました。

そして、自分に絶望しあきらめながらも、イエス・キリスト様の中に希望を見出し、イエス・キリスト様に期待する者に、神はイエス・キリスト様と共にある恵みを約束し自分自身に絶望したものに希望を与えて下さった出来事を見てきました。それは、かつてはアブラムが経験した希望であり、苦難と苦しみの中にある被造物全体に与えられる希望であり、そして皆さんにも与えられる希望です。

みなさん。ここに集っているお一人お一人が、生きて行き中で何らかの苦悩や苦しみや、苦難、試練と言うことを経験してきたことでしょうし、これからもそのようなことはあるでしょう。自分自身の力ではどうしようもない現実を突き付けられることもある。しかし、それでもなお、聖書は、神の下には希望がある、イエス・キリスト様の下には希望があると言っている。それが神の約束です。

みなさん、私たちは、その希望を信じる者となろうではありませんか。神の約束を信じて、自分自身に絶望するようなことがあっても、イエス・キリスト様の下にはあることを信じて生きて行こうではありませんか。

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