2018年12月19日水曜日

ペテロの裏切り


              「ペテロの裏切り」
私には、何人かの、いわゆる恩師というべき人がいるんですよ。それらに方には、いや、本当にお世話になり可愛がってもらった。だから、その方々には「いわゆる足を向けて眠れない」ですよ。もちろん、私が、それらの先生方を裏切ったりしたら、その先生方は本当に悲しまれるでしょうし、一生赦してもらえなくても仕方がないような気がします。

ところが、キリストはご自分の可愛がっておられた12人の弟子、その中でも、一番弟子といわれるようなペテロという人から、ものの見事に裏切られてしまうのです。 
もうすぐ、ご自分が、エルサレムという町で、人々を救いのため命を投げ出すというその直前に、キリストはこのペテロに対して、「あなたは鶏がなく前に、わたしを三度知らないと言うだろう。」とそうおっしゃれました。

もちろん、ペテロは、このときにキリストを裏切るつもりなんかさらさないですから、「そんなことはありません。死ぬまであなたについて行きます」とそう大見得を切ります。ところが、その夜、キリストがとらえられ、すぐさま裁判がはじまりました。そのとき、このペテロは、こっそりとキリストのあとについて、裁判が行われているところまでいったんです。さすがに大見得を切っただけのことはありますね。

でもそこでね、見つかっちゃたんですよ。そして、「あなたは、今裁判にかけられているキリストの弟子でしょ」ってそう問いつめられたのです。

それは、大変なことですよ。自分がキリストの弟子だってわかったら、自分も捕まって裁判にかけられ殺されてしまうかもしれない。そんなわけで、ペテロは「いやいや、私はあんな人なんか知らない」って言ってしまった。

そんなことが三度続いたとき、朝を告げる鶏が威勢良く「コケコッコー」と、鳴いたのです。このときペテロは、キリストが「ペテロ、おまえは鶏が鳴く前に、三度私を知らないというよ」といわれた言葉を思い出した。

ふっと見ると、鶏の声を聞いたキリストが、振り返ってじっとペテロを見つめているではありませんか、ペテロはたまらなくなって、外に飛び出して、激しく鳴いたって聖書には書いてあります。

私は、このときのペテロの涙は、自分を可愛がり愛してくれたキリストに、「私は死ぬまであなたについて行きます。」と大見得を切ったのに、自分可愛さに、そのキリストを裏切って仕舞ったという後悔の涙じゃなかったかなってそう思います。
でも、反面、心のどこかで、自分の命までも危ない場面です。いくら大見得を切ったとはいえ「嘘も方便」じゃないって気がしないわけでもありません。

ですから、激しく鳴くほど、ペテロの心を突き上げきたものは、単に後悔の思いだけではないように思うんです。
というのはね。キリストは、ペテロに、「三度私を知らない」といわれるまえに、ペテロに対して「ペテロ、あなたはこれから、とても大きな試練に会い、うちひしがれるような出来事にあうけれども、私は、あなたの信仰がなくならないように祈ったから、立ち直ったら、他の仲間たちを励ましてやりなさい。」ってそういわれていたんです。

まさに、ペテロがキリストを裏切るような大失態を犯す前に、キリストは、そのようなペテロの弱さ、いえ人間の弱さを知って、私はお前を赦しているよとそうおっしゃっておられんですね。

振り返ってペテロを見つめられたキリストの瞳の中に、「ほら、ペテロ、お前は私知らないといっただろ。でも、私はお前のために祈り、そして赦しているよ。」という愛のまなざしをペテロは感じ取ったんじゃないのかと、そう思うんです。だからこみ上げて激しく鳴いた。 
この、キリストの愛のまなざしは、実はあなたにも注がれているのです。

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