2019年1月5日土曜日

「見なけりゃ信じない」

            「見なけりゃ信じられない。」

子供と話をしていて、どうも気になってしかたがない言葉があります。それは、あいづちなんですが、私が何か言うと、「ほんと!」「ウソー」「マジ!」って「あいづち」をいれる。

まぁ、あいづち自体は、話を聞いて入れてくれている証拠ですから、悪いことではないのですけが、いちいち、「ほんと」「ウソー」「マジ」とやられると、「人の話が信じられないんだったら、もう聞っかなくっていい」てな感じになってしまいます。古い人間なのかもしれませんが、まぁそんなわけで、何度か子供をしかりとばしたことがありました。それでも、直りません。
でも、世の中には、本当に信じられないような話は確かにあって、そう言う私自身が「ほんとかよー。」って言うことも、時々あります。

以前、「よみがえり」って映画がありました?日本映画で、死んだ人が生き返るって話。ホラーではなく、むしろ感動するような話。あれは映画だから、まあ作り話だと思ってみてられますが、実は本当にあった話だって言われたら、やっぱり「ウソー」って言いたくなります。

実は聖書の中には、キリストが死んだあと、3日目によみがえって弟子達と出会ったって話がでています。でも、そのときにたったひとり、トマスって言う弟子だけは、その場に居合わせなくて、後から他の弟子達から「おいおい、俺たちは生き返ったキリスト様と、さっきお会いしたんだ」って聞かされたんです。
それこそ、そんな話聞かされたって「ほんとかよー。そんなことあるわけないじゃん」って信じられないわけですよ。だからトマスは、「私は、生き返ったキリストの手と脇にあるはすずの、十字架に貼り付けられた時の傷跡に、さわってみないと信じられない。」って言うんです。いわば「本当だっていう証拠がなければしんじられるか」ってことなんでしょうね。そりゃそうだと思います。

ところが、そのトマスに、よみがえったキリストは姿を現し、「トマス。私の手にある十字架の傷跡にふれてごらんよって」そう言われたのです。よみがえったキリスト本人が目の前に現れちゃね、トマスだってどうしようもありません。
このときに、トマスは心から「我が主、我が神よ」と言っています。それはトマスにとって「心の底からキリストが神であり、自分の救い主であると信じられた一瞬だったのでしょう。
そのトマスに、キリストは「トマス、あなたは目で見て、自分の手で傷にさわって、確かめて初めて信じることができた。でも、見ないで信じることができるものはもっと幸いなのだよ。」とそう言われたのです。

残念ながら、私たちは十字架にかかられた前のキリストにも、十字架にかけられた後のキリストにも出会ったことがありません。ですから、キリストの声も顔も知らないのです。
そんな私たちの前に、「我こそはキリストなり」という人が現れても、本物かどうか確かめることなどできません。結局、キリストの復活は、見ないで信じるしかない出来事なんですね。
でもね、神様は良くしたもので、聖書という書物を、残して下さった。その聖書を読んでいくと、キリストというお方がだんだんとわかってくる。そして、あったこともないキリストというお方の存在が心の中に広がってきて、本当にあって話をし、声を聞いたようなそんな思いになってくることがあるんです。

トマスが、復活したキリストと出会い、「我が主我が神、」っていったのと同じような経験を、聖書を通してすることがあるんです。ですから、どうかあなたも、聖書をお読みになって頂きたいと思います。そして、聖書の中に表されているキリストと出会い、見ないで信じる人になってほしいと思うんですね。

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