2024年4月8日月曜日

心の中の葛藤


 15世紀にイタリアを中心としてルネッサンスと呼ばれる運動がありました。そのルネッサンスを適切に表現する言葉があります。それはラテン語の“facere quod in se est”(ファケーレ クオッド イン セ エスト/直訳では「あなたの内にあるものをなせ」、意訳すると「あなたがなりたい自分になりなさい)

 この言葉に通じるような言葉が聖書には、あります。次の言葉です。

あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである」
ピリピ人への手紙2章13節

 ここでは、私たちの心の内に神が善しとされる思いが起こる場があるというのです。そこに神が働きかける時、私たちは神が善しとされる思いを私たちの内に持つことができる。そのような場が、私たちの内にあると、聖書は言うのです。

ところが、同じ聖書でも、旧約聖書イザヤ書55章8節9節には

 わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。

と書かれています。このイザヤ書55章は、神のもとに祝福があるから、神のもとに来なさい、神のもとに帰りなさいと語りかける恵みの言葉が書かれている箇所です。神さまは、私たち人間に「悪しきものは自分の道を選び、主に帰ることをしないから、その自分の道を捨てて神に帰れと呼びかける中で「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっている」言われます。それは、私たちの心の内には、しばしば神の思いや願いとことなる自分の思いや願いが起こってくるという現実があるからだと言えます。

 このように、聖書は、私たちの内には神に善しとされる「善き思い」と神に背き、神のお心に添わない「悪しき思い」の二つがあるというのです。そして、その二つの思いが私たちの心の中に葛藤を引き起こします。パウロという人はは、その葛藤を霊の思いと肉の思いが引き起こす葛藤だと言っていますが、その霊と肉との間にあって葛藤する人間の姿を、神の御子であるイエス・キリスト様の中にも見ることができます。それは新約聖書のマタイによる福音書26章33節から44節において記されたイエス・キリスト様のゲツセマネの祈りです。

 その個所の全部を書きますと長くなりますので、イエス・キリスト様の祈りの部分だけ記しますが、このように祈るのです。


(イエス・キリスト様は)少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」
 更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。

 このゲツセマネの祈りにおいて、イエス・キリスト様の最初の祈りは、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」と祈ります。そこには、自分の中の二つのと異なる思うの狭間に立ち、葛藤する人間イエスの姿を見て取ることができます。

 それは、十字架という苦難の道を歩まそうとする神のお心とその神のお心に従って生きるものでありたいと願うイエス・キリスト様のfacere quod in se est”(ファケーレ クオッド イン セ エスト/直訳では「あなたの内にあるものをなせ」、意訳すると「あなたがなりたい自分になりなさい)とその十字架の死を避けたいと願い、すなわち「この杯を過ぎ去らせる道」を歩もうとするイエス・キリスト様の”facere quod in se est”の葛藤です。

 しかし、二度目、三度目の祈りでは、もはや自分の思いは、もはや現れ出ず、ただ、「わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」と祈られています。そこには、葛藤を突き抜けて、神のお心に従って生きることを願うイエス・キリスト様のお姿があるのです。

 みなさん。私たちは、絶えず善を求める心と、事の善悪に関わらず自分のしたいことをしたいという願いの葛藤の中にあります。そのような葛藤の中で、私はみなさんの内に在る善を求める心に従って歩んでいただきたいと願います。なぜなら、善を求める心は神さま方出てくるからです。  神さまはその御性質において、善です。私たちはその神さまの像(かたち)に似せて作られているのです。つまり、私たちは、善いことをするように作られた善い存在なのです。あなたは、善い者として造られているのです。

 では、どうすれば善いことをすることができるのでしょうか。どうすれば善を選ぶことができるのでしょうか。それは、みなさんが絶えず、そして繰り返し、受肉し、人となられて歩まれたイエス・キリスト様のご生涯を心に刻み、絶えず思い起こすことです。イエス・キリスト様は完全な神の像です。だからイエス・キリスト様に倣って生きるならば、わたしたちは善き者を求めて生きることができるのです。そして、私たちの内にも神の像が与えられている。
 だからこそ、私たちは、イエス・キリスト様の弟子を信じ、イエス・キリスト様を模範とし、このお方に倣い、このお方のように生きていく。そのようなものでありたいと願います。

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