2021年1月19日火曜日

アメリカ大統領選挙に関して日本の福音派の教会として

 アメリカ大統領選挙に関して日本の福音派の教会として

 昨年(2020年)のアメリカ大統領選挙に関して、様々な出来事があり、挙句の果ては、一部のトランプ支持者が、議会へ乱入するという出来事があり、それについては、日本のテレビ局等で報道されましたので、多くの方が周知のことかと思います。

 これらの報道に関して、トランプ支持者としてキリスト教福音派(あるいは福音主義)の名前がしばしば上げられています。しかし、キリスト教福音派の教会というのは、世界横断的に存在しており、当然、日本にも何も福音派の教会があります。しかし、この日本の福音派の教会は、必ずしもアメリカの福音派の教会と同じではありません。ましてや、アメリカの福音派が世界の福音派を代表しているわけではありません。世界に散在する福音派は世界福音同盟(略WEA:World Evangelical Alliance)という団体を組織しています。これは、世界各国の福音派の団体の緩やかな連合体であり、アメリカの福音派はその中の一団体に過ぎないのです。

 当然、アメリカ以外の福音派の教会がトランプ氏を支持しているというわけではありません。WEAが世界の福音派の団体の緩やかな連合体であったように、日本の福音派も日本福音同盟(JEA)という福音派の教会の緩やかな連合体を組織していますが、JEAがトランプ支持を打ち出したことは一度もありません。

 このように、日本の福音派の教会もまた、トランプ支持と言うことではありません。日本の福音派の教会の多くは、第二次世界大の際に、国が国策として宗教団体を統制していく中で、日本のキリスト教会もまた、無批判的に国と一体化して戦争を推し進めていった反省から、政治に対して、教会自身が何らかの立場を表明することは極めてまれです。
 
 もちろん、個々の政策においては意見を表明することもあります。しかし、基本的に政教分離の立場を大切にしております。したがって、教会が特定の政党を支持するとか、特定の人物を支持すると言うことは極めてまれで、ほとんどないといっても言いすぎることはありません。ですから日本においてはトランプ支持=キリスト教福音派という構造は成り立ちません。

 日本の福音派の中にいる人でも、個人的にトランプ支持という人もいるでしょうし、陰謀論や選挙に不正があったなどという人もいるでしょう。実際、そのようなことをインターネットで主張している人がいることも知っています。
 しかし、むしろ多くの福音派の牧師や信徒の方は、トランプ氏を支持していませんし、当然、陰謀論や選挙に不正があったなどという主張を信じてはいません。ましてや、暴力によって自分たちの主張を押し逃走とする姿勢は絶対に容認できないという立場の人たちの方が(少なくとも私の周り)ではほとんどです。
 実際、私たちの教会は、教会として決してトランプ氏を支持していませんし、教会に集っている個人のレベルでも、トランプ氏を支持する言葉を聞いたことがありません。ましてや陰謀論や選挙に不正があったなどという声も聴いたことがありません。
 またアメリカの福音派の中でも、全てがトランプ氏支持というわけではなく、トランプを支持しないという人も少なからずいるのです。

 個人が何を信じ、何を主張しても、それは「カラスの勝手でしょ」です。だから、勝手に言ってくださって結構ですし、それを押し止めるつもりも権威もありません。しかし、それはあくまでも個人の主張であって、キリスト教福音派の主張ではないのです。当然、キリスト教の主張というわけでもありません。つまり、クリスチャンである「その人の主張」なのです。だれも、その人をキリスト教福音派の代表としていませんし、日本の福音派の代表に立てているわけではありません。もちろん、そういう私の意見も、一人の牧師としての意見でしかないのです。

 仮に、政治的問題を聖書の文言に引き付けて、何かしらの主張をしている場合でも、それは、その人の聖書解釈によるもの、あるいは特定の神学的立場によってなされたものであって、神学的立場の違いや聖書解釈の方法論において異なった方法論に立つ人々にとっては、そのような解釈や主張は正当なものではないのです。むしろ、極めて特異な解釈であり特異な神学的立場であるとみられることも少なくありません。

 その意味で、インターネットでキリスト教の立場はこうですとか、聖書はこう言っていますとか、キリスト教の視点から、あるいはクリスチャンの視点からはこう言えますなどというものがあっても、それを鵜呑みにするのは危険です。その意味ではネットリテラシー(ネットの情報を判別し識別する力)が必要です。

 いずれにせよ、トランプ支持=キリスト教福音派というのは、極めて狭い一断面を切り出し、そこだけに焦点を当てたものですので、そのようなステレオタイプの理解は、必ずしも正しいとは言えません。

 

 


2021年1月3日日曜日

「この道の行き着く果て」

 

「この道の行き着く果て」

 

昔から、お正月に良く聞く川柳の中に「正月や、冥土の旅の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし」っていうのがありますよね。

お正月が来たことは、それはそれでおめでたいことなんだけど、一つ歳をとるということで、一つ寿命を削ったことになる。それを考えると、せっかくの、おとそ気分も、どこかに吹っ飛んでしまうという、まさに川柳の神髄をいくような句ですよね。

でもこれは、死というものが、あまりありがたくない、いや、むしろうとましいからこそ、川柳としてなりたつんですよね。もしも、死というものが、好ましいとはいわないまでも、決してうとましいものでなければ、「めでたくもなし」じゃなくなっちゃう。

もちろん、人は一度は必ず死ななければなりません。聖書にだって、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(へブル927)と書いてあります。

私たちの人生の果てに、死というものがあり、そしてその死後に、神によるさばきがあると聖書は言っています。このさばきとは、神によって私たちの罪が裁かれると言うことです。

罪というと、何やら犯罪を思い出して、そんな悪いことは、私はしていないから大丈夫だって思われるかも知れませんが、聖書が言う罪とは、単に悪いことをしたと言うだけではなく、心の中で人を憎んだり、ねたんだり、不道徳なことを思ったりすることも含まれています。

具体的な罪、犯罪や不道徳的な行為は、心の中の思いが形になって現れてきたものです。ですから、そのような行いとなって現れたものの根っこには、私たちの心の問題があるからです。そういった意味では、私たちは大なり小なり、すねにキズではありませんが、心に罪をもっていると言えるんじゃないでしょうかね。

そうだとしたら、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」という聖書の言葉が真実なら、やはり「正月や、冥土の旅の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし」ってことになってしまいます。

でも、必ずしもそうではないんです。なぜなら先ほどの聖書の言葉の後には「キリストは、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をもささげられました」と書いてあるからです。

これは、キリストが、私たちを縛り付ける罪から、私たちを解放するのだということなんですよ。ですから、私たちに対する神の裁きは、すでにおわってしまっている。このことを信じクリスチャンとなるならば、もはや神のさばきを恐れる必要がないのです。だから心配はいらない。 

私の知り合いに、突然、体の具合が悪くなって倒れ、救急車で運ばれた人がいました。その人は担架で運ばれる途中、心配そうに見守る家族や友人達に、人差し指で天を指して、Vサインをしながら、病院に運ばれていったんだそうです。 

間もなく、その人はおなくなりになったんですが、きっとその人は、自分が助からないって悟って、家族や友人に、「大丈夫だ。俺はキリストを信じてちゃんと天国に行くから安心しろ」って、そう伝えていたんでしょうね。それが、天を指さしてのVサインだった。

神を信じ、キリストを信じるときに、肉体の死はもはや忌まわしいものではなく、天国への勝利の凱旋の門出になる。そうなると、もはや「冥土の旅の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなしではなくなるんですね」 

「キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。」新約聖書へブル人への手紙926節の言葉です。

2020年11月25日水曜日

学生街の喫茶店(振り返ってわかる愛)

 

学生街の喫茶店(振り返ってわかる愛)

 私の中学生の頃のガロというグループの「学生街の喫茶店」といううたがありました。ずいぶんヒットした歌で、私も、よくラジオやテレビで聞ききました。ラジオのリクエスト番組なんかに、はがき出したような記憶もあります。

 その歌の歌詞の中にでも、「あの頃は愛だとは知らなくて、さよならも言わないで別れたよ。って歌詞って歌詞がありますが、今にして思えばなんて、「中学生の私は、どんな思いで聞いてたのかな?」って思います。きっと分けもわかんないくせに、わかったような顔をして聞いていたんじゃないのかな?

 でも今は、ちょっとはわかるような気がします。恋愛経験ということに限っていえばからっきしでしたけれたけど、でも、恋愛経験以外でも、それなりに経験するところもありましたからね。

 たとえば、自分が親になって振り返ってみて、「あのときの親の気持ちはこうなんだったんだろうな。」ってわかるじゃないですか。たとえば、わが家は三人の子供の受験を経験しまた。だから、子供たちには口がすっぱくなるほど勉強しろだの、頑張れなどとハッパをかけてたんですよね。子供のことを心配するからです。

 もちろん、私が受験生の時には、私も同じように親からハッパをかけられていた。そのときは、ちょっとうるさい感じがしていましたが、やっぱり私の親も、私のことをずいぶんと心配してくれていたんですよね。

自分が親になり、振り返ってみて初めて、そのときには十分にわかりきれなかった親が子供を思う気持ちや愛がどんなものであるかということを、本当に理解しわかることができました。

 実はね、私がクリスチャンになろう、聖書の神様を信じようと思ったのは、神様の愛は振り返ってみて初めてわかるんだってことを知ったからなんです。

 私は、中学・高校時代は、映画が好きでね。将来は映画製作の現場で働きたいって思っていました。それで、そういった関係の学校に行きたいと思ってたんです。それこそ、そういった仕事ができれば、食えなくてもいいぐらいに思ってました。

でも、もちろん親からは猛烈に反対されましてた。食べて行けるのか。才能はあるのか。心配の種は山ほどあったと思います。もっとも今にしてみれば、その気持ちもよくわかります。結局、私の場合は道がことごとく閉ざされていったんですね。それこそ、大学はすべって浪人するは、やることなすことことごとく道が閉ざされる。 

そんな時ですよ、教会に行ったのは、そしてその教会で話される聖書の話の中に、神様の愛は、そのときはわからないけれど、振り返ってみてはじめてわかるんだって事を聞いたんです。

そこで、ふと我に返って、そのことを自分のことに振る変えて考えてみたんです。そして「あれも、これも道が閉ざされていった。そんな中で今こうして、ここそのことをふりかえって見ると、今、こうしてここにいるのは、神様が、そのように道を閉ざしながら、自分を導いているのかもしれない。だとしたら、神様の愛が、振り返ってみてわかる愛ならば、その神の愛に賭けてみよう」ってそう思って、クリスチャンになったんです。

クリスチャンになってからも、経済的に苦しいことや、子供の病気、自分の病気、人間関係のもつれや、など挫折やしんどいことは山とありました。もちろん、そのような困難な問題を、「 神が試練としてお与えになった」なんて事はないと思いますし、そのように考えたこともありません。

でも、そのような困難や大変さ中であっても、振り返ってわかる神様の愛を信じ、それにかけて生きてきました。そうやって生きて来て、いま振り返ってみると、そういったさまざまな問題があって、自分の今がある。

 聖書の中で、パウロという人が、「キリストによって、今の自分があるんだ」っていっているところがありますが、まさに「神を信じ、キリストを信じる信仰によって、今の自分がある。本当に神様は、私の人生を導いてくれているんだな」ってそう思えるのです。

 困難や問題の中にいるときは、そこに神様の愛があるなんてわかりもしなければ、感じられるものではありません。でも、神を信じて歩んでいくならば、人生のある時点で振り返ってみるときに、その困難や問題の中でも、私たちを支え、私たちを導いてくださる神様の愛に気付く事ができる。 

 聖書のローマ人への手紙828節には、「神を愛する人々、すなわち神のご計画に従って召された人々のためには、神はすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」とあります。

 どんな困難な問題や、大変な出来事に出会っても、そこには、私たちを支え、導いてくださる神の愛がある。そして、人生のある時点で、そのときのことを振り返ってみると、問題や困難の最中には、気づかなかった神の愛がそこにある。

その神の愛は、あなたにも注がれているのです。

2020年10月22日木曜日

 

2010月第3主日宗教改革記念礼拝説教「キリストの信仰によって」   2020.10.18. 

旧約書:出エジプト記書243節から9

福音書:マタイによる福音書517節から20

使徒書:ローマ人への手紙319節から13

 

 私たちの教会では、毎年10月の最後の週を宗教改革記念礼拝としています。本来ですと、宗教改革記念礼拝は11月の第一週なのですが、今年は事情があって、宗教改革記念礼拝を行わさせていただきます。もっとも、宗教改革記念礼拝と申しましても、とりわけ何か特別なプログラムをすると言うことではありません。ただ、宗教改革と言う私たちプロテスタントの原点となった出来事を顧みつつ、神の恵みと言うことについて考え、私たちを憐み、顧みてくださった神の愛について思いを馳せたいのです。

 今の高校では、世界史と日本史は選択科目となっていますので、全員が世界史を学ぶことはありませんが、私が中学生や高校生の時には、世界史は必修科目で必ず学ばなければならない科目でした。その世界史の時間で学んだ宗教改革と言うのは、マルチン・ルターと言う人物が、当時のカトリック教会の腐敗に抗議(すなわちプロテスト)した運動であり、そこからプロテスタントの教会ができたのだと学びました。

 ところが、こうして牧師になり、さらに宗教改革期のキリスト教を専門に学ぶようになりますと、中学や高校で学んだことは、決して宗教改革の中心ではなく、宗教改革が起こった本当の原因は、ルターの救いの確信が揺らいだことによって引き起こされた救いに関する教理の理解の違いが問題であると言うことがわかってきました。 

すなわち、人が救われるには、何らかの形で人間が関与すると考えた当時の教会の考え方に対して、ルターは、神の救いの業に、人間は全く関与できないと主張したところから、宗教改革と言うものが始まったというのです。そしてそこから、人は行いによって救われるのではなく、ただ信仰によってのみ救われるのだという、いわゆる信仰義認と言うプロテスタントの中心的教理が打ちたてられたのです。

そしてその根底には、人間は神の前に徹底的に罪びとであり、神の前では救いに値するような善き業を何一つ行うことができないのだという人間理解がありました。ですから、人が救われるのは、罪に汚れたものが神の義に包まれて、本来は罪によって裁かれるべき者が、罪赦され、義と認められたと宗教改革者であるルターと言う人は言ったのです。 

ですからルターは、カトリック教会は堕落して悪いことをしているから、悔い改めて良いことをしなさいと言って宗教改革を起こしたのではなく、人間は誰しもが神の前には罪びとなのであるから、罪を悔い改めて、罪びとである私たちを包み込んで下さる神の義に寄り縋る信仰をもって生きいていれば大丈夫だといったのです。

みなさん。私たちは、先ほど新約聖書ローマ人への手紙319節から23節をお読みしましたが、宗教改革以後500年間の間、私たちはその箇所を、まさに今申し上げたような理解のもとで読んできたのです。ところが現代になり、いろいろと研究が進み、イエス・キリスト様の時代のユダヤ人の状況や思想、そしてキリスト教の歴史と言ったものが明らかになってきました。それにつれて、どうもこのローマ人への手紙の319節から23節は、それまで私たちが読み込んできた意味とはどうも違っていると言うことがわかってきました。

 とりわけ、みなさんにも、何度も礼拝説教を通してお話ししましたように、21節、22節の

  21:しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしさ れて、現された。22:それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである

という御言葉の「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」と訳されている言葉は、本来ならば「イエス・キリストの信仰(信実)による神の義」と訳すべきものであると言われるようになってきました。

つまり、「私がイエス・キリスト様を信じる」という私の信仰を中心に置くのではなく、むしろ、イエス・キリスト様の信仰、それは十字架の死に至るまで神に従い抜くというイエス・キリスト様の信実さなのですが、その「イエス・キリスト様の信仰」が、神の義を私たちにもたらすのです。 

みなさん、「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」がと言う言葉が持つニュアンスは、「私」がイエス・キリスト様を信じるという、「私」の主体性に光をあてます。しかし、「イエス・キリストの信仰(信実)による神の義」と言う理解は、どこまでもイエス・キリスト様を中心に置く信仰です。そしてそれはイエス・キリスト様の恵みによってのみ私たちが救われるという、より恵みが強調される信仰なのです。                                              では、なぜ、このイエス・キリスト様の十字架の死に至るまで神に従い抜いた信実な信仰が私たちを救うのか。それは、神の御子であるイエス・キリスト様が人としてこの世界に生まれてから、十字架の死に至るまで、神の御心に添って生きられたからです。 

神のひとり子であられるお方が、神の御心に添って人間の肉体をとり、マリヤを母として人としてお生まれになった。そのご降誕の出来事から、十字架の上で死なれるまで、イエス・キリスト様は人として完全に神の御心に従い、神の御言葉に従って生きられたのです。そしてそれは、神の律法を完全に全うした生き方なのです。

  みなさん、私たちは先ほど旧約聖書出エジプト記243節から8節の言葉に耳を傾けました。これは、奴隷として捉えられていたエジプトの地から、イスラエルの民がモーセによって助け出されたのちに、シナイ山のふもとで神と契約を結んだときのことが記されている物語です。

 イスラエルの民がエジプトから救い出されたのは、神がイスラエルの民の先祖であるアブラハム、イサク、そしてヤコブと結んだ契約の為でした。しかし、エジプトから救い出された人々は、「先祖と神の約束のゆえに」と言うだけでなく、自分たちも神の民として神と契約を結ぶのです。

  みなさん、契約を結ぶ際には、契約を交わす双方が負うべき義務があります。神とイスラエルの民との契約においては、神はイスラエルの民を神の聖なる王国の聖なる民とし、アブラハム、イサク、ヤコブと結んだ祝福の契約を更新する義務を負うのです。そしてアブラハム、イサク、ヤコブと同じようにイスラエルの民を顧み、慈しみ、祝福を与えられる。

 それに対してイスラエルの民は、「わたしたちは主が仰せられたことを皆、従順に行います」と言った言葉を果たす義務を神にたいして負うのです。そして、この神とイスラエルとの民の契約が、互いの果たすべき義務を双方が負うと言うことを示す犠牲の動物の血を半分は祭壇に振りかけ、残りの半分を民に振りかけてという象徴的行為をもって結ばれたのです 。こうして、この契約を土台に神とイスラエルの民との交わりがそこに生み出されたと言えます。ところが、イスラエルの民は、神の言葉に聴き従うということを誠実に守り行いませんでした。 

 

たとえば、先週、ヨベルの年と言うことをお話しいたしました。神がヨベルの年という規定を設け、50年に一度は、買い取った土地は元の持ち主に返し、奴隷は解放し、負債は全部帳消しにして、いっさいのものを回復しなさいとイスラエルの民に告げたにも関わらす、イスラエルの民がそのヨベルの年を守ったと言うことがないのです。つまり、彼らは、神と人との契約において、約束不履行をしていたのです。そのイスラエルの民の不履行となっている約束を、イエス・キリスト様は完全に神に従い抜くことで全うしてくださったのです。だからこそ、イエス・キリスト様は、先ほどの新約聖書マタイによる福音書517節から20節で、 

私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。よく言っておく。天地が消えうせ、すべてが実現するまでは、律法から一点一画も消えうせることはない。

と言われるのです。みなさん、律法とは、神とイスラエルの民との間の契約において、人が守り行うべき神の言葉です。イスラエルの民は、神の言葉をすべて守りますと言いつつ、完全にそれを守ってはいませんでした。それは、律法を廃棄する行為であると言っても良いものです。

しかし、イエス・キリスト様は、ご降誕の出来事から十字架の死に至るまで、神に誠実に従い抜かれたのです。それによってイエス・キリスト様は律法を廃棄するのではなく、成就してくださったのです。このイエス・キリスト様の信実な信仰によって、神はイエス・キリスト様を義となさったのです。 

 このイエス・キリスト様の義が、イエス・キリスト様と一つに結ばれ弟子としてたもの、すなわちクリスチャンとなった者にも与えられるのです。そして洗礼は、そのイエス・キリスト様と一つに結ばれたと言うことの証です。だから、洗礼を受けると言うことは大切なことであり、ないがしろにされてはならないものなのです。

 みなさん、先ほどももうしましたように、今日は宗教改革を記念する礼拝です。そして、その宗教改革の中心にあった信仰義認ということを、こんにち、私たちは真摯な思いで見直す必要があります。

 それは、私が神を信じイエス・キリスト様を信じるがゆえに、罪びとの私が、神の義の衣を着せていただき、義ではないものが義と認められるということではなく、イエス・キリスト様が神を信じ、神に従い抜いて生きられたがゆえに、イエス・キリスト様の弟子となった私たちもまた、この神に従って生きる生き方を生きる者とされたと言うことなのです。

 もちろん、その私たちの歩みは、不完全で足らないものです。その意味では、私たちは不完全な弟子です。しかし、その不完全な弟子であり、不完全なキリスト者に過ぎない私たちを、神はイエス・キリスト様のゆえに、「良し」と認めて下さり、完全な者として、イエス・キリスト様の御足の後を歩む者としてくださったのです。

 みなさん、先ほどのローマ人への手紙の322節には「それ(神の義)は、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない」とわれています。そうです。イエス・キリスト様の信仰によってもたらされる神の義は、すべての人に差別なく与えられるのです。すべての人と言うのですから、そこにはあなたも含まれています。そのように神は、階級や身分、立場や能力の違いはあっても、私たちを、そしてあなたを神の前に正しいものとして受け入れて下さり、神の王国の聖なる民として、顧み、祝福へと招いてくださるのです。

 そのことを覚えながら、今しばらく静まりの時を持ち、イエス・キリスト様の信仰のゆえに、私たちを受け入れてくださる神の恵みに心を向けたいと思います。静まりの時を持ちます。

2020年10月13日火曜日

さあ、帰ろう

 

「さあ、帰ろう」

 みなさんは、音楽はお好きですか。 じゃぁコンサートなんかは?

 私の教会では、かつては毎年チャペルコンサートを行っていました。今は、残念ですが毎年行うというわけにはいかなくなりましたが、それでも、時々行っています。コンサートでピアノを使う時には、必ず、調律師さんにピアノの調律を頼むんです。

 あるとき、その調律師の方に、調律を頼まれるときに、「こんなふうにしてくれ」とか「あんなふうにしてくれ」って言うような注文がつきませんかって聞いてみたんです。そしたらね「やっぱりありますよ」って言っておられました。たとえば、国際基準ラの音は、一秒間に440回、ピアノの弦が振動する野が基準なんだそうです。ところが、多くの音楽ホールなどは、442回に設定しているというこのなのです。どうやら、この方がきれいに聞こえるらしいのです。

ところが、ヨーロッパでは、445にするところも多いらしいのです。ですから、ヨーロッパからきた音楽家おなかには、らの音を445にしてくれっていう注文があるそうです。しかし、日本のホール備え付けのピアノなどは、442にしてずっと使っている。それを、445にしても、その楽器はあまり響かないそうです。なぜなら、それはその楽器の本来のあるべき姿は442であって445ではないからなのです。

 たった1秒間に3回の違いでも、その楽器の本来あるべき姿でなければ、よい音を奏でられないですね。おなじようなことは、人間についても言えると思うのです。つまり人間も、私の本来あるべき姿にあってこそ、その人は自分らしく輝いて見えるのではないかと思うのですが。どう思われるでしょうか。

 聖書の一番最初にある創世記には、神様が人間を創造さら、世界を創造されたとき、それらは、はなはだよかったって書いてあります。まさに、神が作られた本来の姿は、実にすばらしいものだったんですね。

 けれども、どうでしょうか。実際の人間の姿を見ていると、本当に「はなはだ良い」と言えるかなと思うと、必ずしもそう言えないような気がします。もちろん、人間ってすばらしいなって思わされるようなこともいっぱいあります。、反面、人間の嫌な面、醜い面もいっぱい見ることがあるのではないですか。私自身が自分自身を顧みても、自分勝手で、汚い、小ずるいところなんかあって、自分で自分が嫌になってしまうようなときがあります。それは、まさに人間としてとしてのいやらしい部分であり醜い側面です。

  そんな時は、本当に、人間がはなはだ良いものだとしたら、「どうしてこんなふうになってしまったのだろう」って悲しくなるような感じです。それこそ、神様が人間をお造りになった、その人間の本来あるべき姿が、はなはだ良いものだとしたら、なんて遠くかけ離れてしまった存在になってしまったのでしょう。

 できることなら、神様が最初に作られた特に、はなはだよかったって言われる、人間本来の姿に帰って、輝きたいなってそう思います。

私たちは、本来あるべきところからかけ離れて、遠くまで迷い出てしまった。だとしたら、もときた道を帰っていかなければなりません。でも、迷い出てしまった私たちは、いったいどの道を帰っていけばいいんでしょう。

聖書には、「私は真理であり、道である。」といわれるキリストの言葉が書かれています。つまり、本来のあるべき姿に帰る道、きた道を正しく帰っていくには、キリストというお方によらなければならないというんです。そしてそれは、キリストによって示された神の愛に触れ、私たちが心から神を信じるところから始まるのです。神は、自分勝手、汚い、小ずるい私までを愛し、包んでくださいました。その神は、あなたも愛し包もうとしておられます。そしてその愛は、私たちを包み込むだけでなく、私たちをキリストに似せたものに変えてくれるのです。

ですから、キリストを信じて、あなたも、本来あるべき姿に向かって、私は道であるというイエス・キリストを信じて生きる道を歩んでいけばよいのです。

2020年9月23日水曜日

あなたに注目

 

あなたに注目

 

学生時代に、濱、「お前名脇役だな。」って言われたことがありました。別にお芝居をしていた分けじゃないんです。遊びでもなんでも、いろんな場面に、いつも顔を出していて、いなきゃ困るんだけど、決してその場の主役ではない。これがお芝居なら、名脇役って言われたら、それは優れた演技派の俳優だって意味ですから、「名脇役」って呼ばれても胸を張ることもできます。でも、たとえ名脇役と言われたとしても、脇役は脇役である以上、要は引き立て役なわけですから、なんだか、ちょっと寂しい感じがすると言う人もいるかもしれません。人間は誰しも、その場の主役になって、みんなの注目を浴びてきたいなんて、気持ちが心のどこかにあるのかもしれません。

 さて、「お前、名脇役だな」と言われた私も、一度だけ主役になったと思ったことがあります。なんだと思います。結婚式ですよ。だれでも結婚式のときだけは主役になれる。ところがね、後からビデオを見てわかったんですけど、結婚式で注目を浴びているのは、新婦の家内だけ。誰も新郎の私になんか注目していないんですね。ここでも、やっぱり脇役でした。まぁ、結婚式に来てくれた人は誰も、私には注目してくれませんでしたが、でも、家内だけはちゃんと注目してくれていたんだろうと思います。

注目するっていうことは、関心を持って見られると言うことですよね。関心を持つからこそ、他の人ではない、その人の事をじっと見つめる。そのときに、その人は、その他大勢のではなく、まさに関心のある「あなた」という存在になるんですよね。

旧約聖書には「十戒」と呼ばれる、神が人間に与えた十の戒めが記されています。

そこには、「あなたは、わたしのほかに、なにものを神としてはならない。」とか「あなたは人を殺してならない。」とか、「あなたは、みだりに神の名を唱えてはならない」ってことなどが書かれています。

でね、前島誠って人が、「ユダヤ人最高の知恵」と言う本で、この「十戒」が、みんな、あなたと言う呼びかけになっている事に注目しましてね、次のように言うんです。 

「あなた方は・・・・してはならないではなく。あなたはしてはならない。譬え他の人が殺そうとも、他人はどうであれ、あなたは殺してはならない。他人が何をやるかが問題ではない。あなたが問題なのだ。」 

それ読んでいて、なるほどなって思いました。十戒って言うのは十の戒めでしょ。ですから言うなればそれは規則のようなものです。

普通、規則というものは「みんな、これはしてはいけないよ。みなさんはこうしましょうね。」といった具合に、その集団にたいして与えられるものです.もちろん、その集団の中に、私が入っているならば、私も、この「みなさん」の中の一人であることはまちがいありません。

でも、「みなさんは、このようなことをしてはいけませんよ。」だと、私も他の人と同じみんなの中の一人でしかありません。私が、「みなさん」と呼ばれるとき、その人は私という存在に注目し、関心を注いでくれているのではないのです。 

神様は、私を「みなさん」という集団のひとまとめにして、それこそ一山いくらのトマトのようにあなたや私といった存在を見ているのではないのです。たとえ集団の中の一人にしか過ぎないようなものだと自分で思っていても、神様は、いつも私という一人の存在、あなたという一人の存在に心をかけ、目を注いでおられるのです。

だから、みんなに語りかけた規則である十戒においてですら、「あなた」って、そう呼びかけられるんです。 

今日も、神様は、30億人もいる人間の中で、あなたに関心を注ぎ、あなたという人物の注目しておられるのです。

2020年8月24日月曜日

真価が問われる信仰

    真価が問われる信仰


 御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。           テモテへの第2の手紙4章2節


 上記の御言は、使徒パウロが彼の弟子であるテモテに宛てた手紙の中にある一節です。ここで言われている御言葉とは、いったい何を指しているのか。私たちは、御言というと、すぐに聖書を思い浮かべますが、パウロの時代には、まだ新約聖書は成立しておらす、聖書と言えば旧約聖書を指しています。

 パウロは旧約聖書を決して軽んじめてはいません。神の言葉であり重要なものだと認めています。しかし、それ以上に重んじられたのがイエス・キリスト様ご自身であり、またイエス・キリスト様が伝えられた神の王国が到来したという福音でした。そして、イエス・キリスト様を主と告白する者は、このお方に繋がるキリスト者としてイエス・キリスト様の生き方に倣って生きることなのです。

 ですから、ここでパウロが、「御言を宣べ伝えなさい」と言っているその「御言」とは、イエス・キリスト様ご自身のことであり、またイエス・キリスト様がもたらした神の王国の到来を告げる福音であり、また、イエス・キリスト様に倣って生きるキリスト者の生き方なのであると言えます。それを、「時が良くても悪くても」しっかりとやりなさいとパウロはその弟子に伝えるのです。

 今、私たちが置かれている新型コロナウィルスの世界的感染拡大状況は、キリスト教の信仰においては最悪の事態であり、最悪の時です。それは、私たちの教会だけでなく、多くの教会が礼拝を自粛しているということが明らかにしている事実です。

しかし、そのような最悪の時であっても、私たちは、キリスト者としてしっかりと生きることが求められています。最悪の時でもキリスト者としてしっかりと生きる。それは、このような最悪の事態であっても、喜びを持って神を礼拝し、互いに祈り合い、支え合いながら生きることです。幸いなことに、現代はインターネットなどの様々な通信ツールがあり、印刷物を造り送ることができる通信システムが発達しています。ですので、かつて中世の時代にペストが流行した時代のように、感染症で人々が分断されることなく、パソコンやスマートホン、あるいは郵便を通して、教会に集まり公の礼拝を守ることができなくても、様々な工夫をし、ともに礼拝に与ると言うことができます。

 もちろん、それらは、代替品であって完全なものではなく、不十分なものです。ですから、それで満足していいと言うものではありません。教会は、神と私たち一人一人の個人の交わりだけではなく、神の民である私たち一人一人の共同体の交わりでもあるからです。また、礼拝堂での公の礼拝は家庭という中では再現し難い、神の王国に呼び集められた神の民の交わりを表現するものであり、この世界に内在する神の王国の持つ超越的側面を顕ものなのです。ですから、私たちは代替品ではなく、本来あるべき姿の礼拝堂の公の礼拝に集うことを待ち望まなければなりません。代替品を本物にすり替えてはならないのです。
 ですから、共に礼拝堂に集う公の礼拝が再開することを待ち望むという待望の思いを持って、今の「時が悪い」状況にあって、ネットや郵送される週報や説教原稿を用いながら神を礼拝し、このような「時が悪い」状況にあっても、何とか神を礼拝するめぐみの中に置かれていることを喜びながら、再び共に教会の礼拝堂で共に祈り、賛美し、神を礼拝する希望を持って歩んでいきましょう。今、私たちの信仰の真価が問われているのです。