2024年2月1日木曜日

エマオの途上のキリスト

  キリストは、十字架に磔になって死なれた三日後に甦られました。そのキリストが、エマオと言う町に向って歩いている二人の弟子に現われ、道連れなって一緒に歩かれたという記事があります。新約聖書ルカによる福音書二十四章十三節から三十二節です。

 この時、二人は、道々、仲間から伝え聞いた「どうやら、キリストは甦えられたらしい」という話について語りあっていました。そこに、当のキリストが現われたのです。ところが、二人の弟子たちは、目の前にいる人がキリストだとは気づきませんでした。というのも、キリストご自身が彼らの目をさえぎられたからです。
 どうして彼らの目をさえぎられたのか?その理由について、聖書には何も書いていません。ですから、推し量るしかないのですが、でも、たぶん、人から教えられ、それを鵜呑みに信じるということではなく、自分自身の心の中に、イエス・キリストが甦られたということを気づきとして信じ受け入れるためではなかったかなって思います。

二人の弟子は「自分たちを助け導いてくれるお方だ」と期待していたキリストが死なれた絶望と、伝え聞いた「キリストは甦られたらしい」という話の間で困惑していました。その二人に、キリストは、道々、旧約聖書全体から、聖書はキリストについてどういっているかを解き明されたのです。きっとその内容は、「キリストは私たちを支配する罪の力に勝利をし、罪がもたらす死に勝利をしたことを証明するために甦られる」といったものだったろうと思います。
 やがて夕暮れになり、一行は宿に泊り、食事をしようとしました。その時、食事の祈りをするキリストの姿を見て、ようやく二人は、その人がキリストだと言うことに気づきます。そして、キリストが解き明してくれた聖書の話が本当だったと言うことを知るのです。そして、弟子たちはこのように言うんですね。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心の内はもえていたではないか」。

 キリストは、キリストの死によって絶望していた弟子たちに、キリストの死は決して絶望ではないことを教えられたのだろう思います。むしろ、キリストが十字架に架かって死なれたことは、希望の出来事だと言うことをお示しになっていたのだろうと思うのです。それは私たちの罪の支配から解放され、神の民として天国に迎え入れられるという希望です。そして、その証としてキリストは死から甦られることを解き明されたのだろうと思うのです。
 その言葉は、絶望の中にいる弟子たちの心を励まし、再び希望の光を与えたのではないでしょうかね。それで「心の内が燃えた」ような気持ちになったんだろうと思います。

 キリストは、絶望の中にある者にも、希望を与え、励まし支えて下さるお方なんですね。このお方は、あなたの人生の歩みの道連れとなって、あなたと一緒に歩いて下さいます。そして、聖書を通して、あなたに希望を与え、励ましと支えてくださるお方なのです。

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