2024年2月11日日曜日

疚しい良心

 礼拝説教「疚しい良心」                

旧約書:民数記20章1節から13節
福音書:ヨハネによる福音書12章1節から
新約書:ペテロ第二の手紙1章16節から21節

 さて、今日の礼拝説教の中心となります聖書箇所は、ヨハネによる福音書12章1節から8節です。この箇所は、過ぎ越しの祭りの6日前に、エルサレムから約3㎞程離れたベタニヤという町で起こった出来事が記されています。このベタニヤはイエス・キリスト様が親しくしていたマリアとマルタの兄弟であるラザロが住んでいた街です。

 イエス・キリスト様は、このベタニヤの街で、死んだ4日もたっていたラザロをイエス・キリスト様は死から甦らせるということをなさいました。それで、多くの人がイエス・キリスト様を信じるようになったのですが、イスラエルの民の指導者たちである最高法院はイエス・キリスト
様を殺そうということを、議会の決議として決めたのです。そのため、イエス・キリスト様は、ベタニヤの街を離れエフライムというところに身を避けます。ベタニヤは、エルサレムにあまりも近くにあるからです。しかし、いよいよ過ぎ越しの祭りが近づいてきたので、イエス・キリスト様は、エルサレムに向かおうとして、もう一度ベタニヤの街に立ち寄るのです。

 当時、イスラエルの国には、7つのお祭りがありましたが、その中でも過ぎ越しの祭り、仮庵の祭り、七週の祭りという三つのお祭りは、特に重要なお祭りとして、ユダヤ人の成人男性は、この三つのお祭りの時には、エルサレムにある神殿に宮もうですることが習わしとなっていました。その過ぎ越しの祭りに出ようとして、イエス・キリスト様はエルサレムに向かう途中にベタニヤの街に来られた。当然、死かラ命を救われたラザロはもちろん、その姉妹であるマリアとマルタは、イエス・キリスト様を歓迎します。そしてイエス・キリスト様のために夕食の用意をするのです。

 ラザロがイエス・キリスト様と共に席に着き、マルタが、給仕をしていました。そのときマルタとラザロの姉妹であるマルアが、イエス・キリスト様の高価な香油を塗り、自分の髪でその油で拭いたのです。そのマリアの行為を見ていた、イエス・キリスト様の弟子の一人のイスカリオテのユダは「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と言うのです。それは、そうでしょう。このマリアの行為はとても不可解で理解できない行為です。

 その当時、出迎えた客に敬意を示すために、その髪に高価な香油を一滴だけ注ぐということはあったようです。しかし、マリアは一滴ではない、大量の香油をイエス・キリスト様の足に注ぎかけ、それを自分の髪の家で拭くのです。いったいマリアはどうしてこのようなことをしたのか。聖書は、その時のマリアの気持ちも、その行為の理由については何も触れていません。ですから、確かに、マリアがしたことだけを見るならば、ユダが言うように、無駄だと言われても仕方がないことかもしてません。

 なぜなら、一滴で良いのです。それで十分なのです。ですから、大量の項巣を注ぐような使い方をすれば「もったいない、無駄遣いだ」と考えてもおかしくはないのです。そしてそのような無駄な使い方をするならば、その香油を売り払って貧しい人に施しをした方が、ずっと有益だというのは、一般的に言っても、またユダの人生経験に基づくならば正論なのかもしません。

 このイスカリオテのユダが、マリアに対して厳しい視線を送り、マリアの行動を批判的に見ていることに対して、このヨハネによる福音書の著者は、「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。自分が盗人であり、金入れを預かっていて、その中身をごまかしていたからである」と言うのです。つまり、自分の後ろめたさを、マリアを批判することで覆い隠そうとしているのです。自分自身の周りにいる人に対しても覆い隠そうとし、神様に対し覆い隠そうとし、また自分自身に対しても隠そうとしたのだろうと思います。

 ひょっとしたらこのヨハネによる福音書の著者も、マリアの行動目の当たりにし、イスカリオテのユダが言った言葉を耳にしたときには、ユダの言葉に同意したのではないかと思います。それは極めて正論だからです。しかし、イエス・キリスト様の十字架の死と復活の出来事を目撃し、そのイエス・キリスト様の生涯を書き記るそうとしてこの福音書を書いているときに、もう一度この出来事を振り返りながら、「ああ、あの時、イスカリオテのユダはあんな正論をいっていたけれど、今こうして振り返ってみると、実はユダは、自分が疚しいことをしていた後ろめたさから、あんな正論を吐いて、私たちや自分自身の良心に対して、自分は決して悪い人間ではないと言い訳をしていたんだろうな」と思ったのかもしれませんね。そこには、自分自身を「善し」とする自己義認をする人間の弱さが浮き彫りになっています。

 けれどもみなさん、私はこのような疚しさを感じる心というものは、悪いことではないと思うのです。また実際は割ることをしていても、自分は善いものだと思われたいという思いは、決して偽善といって退けられる必要はないと思うのです。なぜならば、疚しさを感じる心は、また善いものと思われたいという思いは、その根底に善を求める思いがあるからです。

 古代ギリシャの哲学者のプラトンや修辞学の祖といわれるイソクラテスといった人は、人間が如何にしたらよい人になれるかと言うことを考えた人たちです。そこには人間は善い者になれるという確信があります。そしてそれは間違ってはいません。なぜならば、人間は、神さまに似た者となるように、神の像を持って造られているからです。私たちは、善い者になれる。善い者になるように神さまによって創造されているのです。
 ただ、現実には、善い者となることができるとしても、多くの過ちや心配をし、善いこともしますが、しかし悪いこともしてしまうものです。せっかく神さまが善い者になるように作ってくださったのに、必ずしもそうはなっていないという現実と理想との間のギャップがあるのです。そのような現実と理想のギャップの中で、この聖書箇所におけるユダの言葉は、それが歪んだ形で出てしまっているのかもしれません。けれども私は、そのイスカリオテのユダの言葉の根底には、善い者になりたいという思いが見え隠れしているように思うのです。

 みなさん、金子晴勇という高名な西洋キリスト教思想史の研究者がいらっしゃいます。この方は、私が尊敬し、多くのことを学ばせていただいている研究者ですが、長くアウグスティヌスや宗教改革者のルターの研究してこられました。同時に霊性ということの研究もなさってこられたのですが、霊性というのは、人間が神様に向き合う姿勢や態度であり、神さまと接点とを持つ部分です。その霊性において、ルターは良心を霊性として捕らえていたというのです。
 そして、その良心とは、「疚しい良心」であるという。というのも、良心は良いことをするときには、その存在がわからないが、悪いことするとき、またしようとするときに、良心は痛みとなって、私たちの内に存在することを示すというのです。だから「良心」は良い心と書くけれども、「疚しい良心」だというのです。

 この疚しい良心が働くとき、実は、私たちは神さまと向き合っているのです。良心が痛み、悪いことをする、また使用している自分を疚しく思う。そのときこそ、私たちは神さまに向き合っているのです。大切なのは、その疚しい良心の働きに真摯に向き合って、神さまの御顔を求め、神さまが語られる言葉に耳を傾けることなのです。そして、自分自身の経験や知識をもって、物事を勝手に解釈し言い訳をしないことです。

 悲しいことですが、私たちはしばしば自分勝手な解釈をし、言い訳をしてしまいます。その意味では、イスカリオテのユダの言葉は、マリアの行為を無駄な事だとかってい解釈し、自分はそんな無駄な財産の使い方はしないという言い訳をしている。ひょっとしたら、ユダはごまかして盗んでいたお金の一部を貧しい人に分け与えたことがあるのかもしれません。だから「私は余っているお金を貧しい人に施しをしていたのだ。だ私は悪くない。私は悪人でも罪びとでもないのだ」と自分の行為を勝手に解釈し、心の中で言い訳をしていたのかもしれないのです。

 そのように、私たちは物事を自分の都合の良いように解釈することがある。そして酷い時には、聖書の言葉ですら自分の経験をもとに、自分勝手に解釈し、言い訳にすることがあるのです。だから、聖書は、自分勝手に解釈をしてはならないというのです。秋ほどお読みししたペテロ第一の手紙は言うのです。
 しかし、この自分自身の経験をもとに、神の言葉を勝手に解釈するということを、私たちはしばしばやってしまう。また、そのような現実があるから、ペテロ第一の手紙は「聖書を自分勝手に解釈をしてはならないというのでしょう。実際、旧約聖書で最も偉大な人物の一人であるモーセですら、神の言葉を自分勝手に解釈してしまったと言うことがある。それが先ほどお読みした民数記20章1節から13節にあるモーセが岩を打ったという出来事です。

 この箇所は、イスラエルの民がエジプトを脱出して荒野をさ迷い歩いているときに、水がなくなってしまったときの出来事です。荒野で水がなくなってしまうということは、死に直結するような重大な出来事です。ですから、イスラエルの民は、モーセとアロンに、どうしてこんな場所に私たちを導いてきたのだと詰め寄るのです。
 そこで、モーセとアロンは神に祈ります。すると神は、二人に「岩に命じて水を湧き上がらせよ」と言われます。そこで、モーセは岩を二度打って水を湧き上がらせるのです。ところが、この岩を二度打ったという行為が神様に叱責されたのです。モーセは神様が「岩に命じて水を湧き上がらせよ」という言葉を、岩を二度打って水を出すことだと解釈した。そしてその解釈は、モーセの過去の経験によるのです。というのも、このときのように荒野で水がなくなり、モーセとアロンに詰め寄るということは以前にもあったからです。それは出エジプト記17章1節から8節に記されています。そのとき神様は、モーセに岩を打って水を湧き出させ、イスラエルの民に水を与えたのです。その経験があるから、モーセは神様の「岩に命じて水を出せ」という言葉を「岩を打つことだ」と勝手に解釈して、それが神の言葉の意味であるとして神の民に提示したのです。そのことを神様から叱責された。

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