2024年1月9日火曜日

23年1月第一主日礼拝説教「マルタの信仰告白」

 23年1月第一主日礼拝説教「マルタの信仰告白」                2023.1.7

旧約書:申命記18章13節から21節
福音書:ヨハネによる福音書11章17節から28節
使徒書:ヘブル人への手紙11章1節2節

 今日の礼拝説教の中心となる箇所は、先週の礼拝説教に続くヨハネによる福音書11章17節から28節です。イエス・キリスト様が親しくしていたマルタとマリヤの姉妹の兄弟ラザロが病気になっているとの知らせを聞き、そのラザロのところへ行こうとして、旅立たれます。今日の箇所は、そのマリヤとマルタそしてラザロの家に、イエス・キリスト様が到着したときの出来事が記されています。

 イエス・キリスト様が到着したとき、既にラザロが死んで墓に葬られ四日が過ぎていたとあります。また、イエス・キリスト様はラザロが病気であるという知らせを聞いて、二日ほどたってベタニヤにあるラザロに家に向かっています、またその旅程は二日ほどかかっています。だとすれば、マリヤとマルタの家から使者がイエス・キリスト様に所にたどり着くまで、最低で二日、そして仮にイエス・キリスト様が知らせを聞いすぐに旅立ったとしても往復で二日かかるのです。だとすればイエス・キリスト様がラザロの病気の話を聞いた時にはラザロは亡くなっていたことになります。
 このラザロの家があったベタニヤというのは、エルサレムから25丁はなれたところにあったといいますので、距離にして約⒉7㎞というまさにエルサレムの近郊です。ですから、11章7節にありますようにイエス・キリスト様がラザロのもとに行こうと言ったときに、弟子たちが「先生、ユダヤ人たちが、先ほどもあなたを石で打ち殺そうとしていましたのに、またそこうに行かれるのですか」と心配したのもうなずけます。ユダヤ人がイエス・キリスト様を石で打ち殺そうとしたのは、まさにエルサレムでの出来事だったからです。
 しかしそれでもなお、イエス・キリスト様はエルサレムの郊外のラザロの家に行かれるのです。イエス・キリスト様が来られたと聞いて、マルタはイエス・キリスト様を出迎えに行きます。そこで、マルタがイエス・キリスト様に発した言葉が 

主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう。しかし、あなたがどんなことをお願いになっても、神はかなえて下さることを、わたしは今でも存じています

というものです。ウィリアム・バークレーや榊原康夫をはじめとする多くの聖書注解者が、このマルタの言葉に、「ラザロが病気であることをお知らせしたのに、どうしてもっと早く来てくださらなかったのですか」という非難の響きと同時に、それでもなお、イエス・キリスト様を信頼する心が読み取れると言っています。

 この、「ラザロが病気であることをお知らせしたのに、どうしてもっと早く来てくださらなかったのですか」という非難の響きというのは、おそらくはイエス・キリスト様が、ラザロが病気であるという知らせを聞いて、なお二日滞在していた地にとどまっていたということを念頭に置いてのことであろうと思います。
 しかし、イエス・キリスト様が知らせを聞いた時点で、ラザロはすでに亡くなっていたのです。たとえ、イエス・キリスト様が知らせを聞いてすぐの駆け付けたとしても、ラザロが亡くなって二日が過ぎています。そういった点を考慮すると、マルタの言葉に非難めいた響きを読み取るのは、少々読み込みすぎかもしれません。
 しかし、彼女がイエス・キリスト様に信頼を寄せていたことは確かです。「彼女のあなたがどんなことをお願いになっても、神はかなえて下さることを、わたしは今でも存じています」という言葉は、真実な心から出た言葉なのです。ところが、その信頼は十分なものではありませんでした。そのことをイエス・キリスト様は明らかにし、ただ信頼するだけではなく、イエス・キリスト様を神の御子として信じ受け入れる信仰告白へと導くのです。ではどうやって、イエス・キリスト様はマルタを導かれたのでしょうか。
 まずイエス・キリスト様は、マルタに「あなたの兄弟はよみがえるであろう」と語りかけます。その語りかけにマルタは、「終りの日のよみがえりの時よみがえることは、存じています」と答えます。このマルタの答えは、当時のユダヤ教の終末論的希望と一致します。
 当時にユダヤ人たちの間に死者の復活があるという人たちと、復活はないと否定する人たちがいたことは使徒行伝23章8節を見れば明らかです。そこには「元来、サドカイ人は、復活とか天使とか霊とかは、いっさい存在しないと言い、パリサイ人は、それらは、みな存在すると主張している」と記されています。
 またN.T.ライトというイギリス国教会の司祭で新約学者は、当時のユダヤの民衆の名Kには、当時のローマ帝国の支配下にある状況にあって、彼らは、その支配から解放され、新しい聖地と神殿が回復され、その地で自由に律法を全うして生きていくという希望を持っていたと言います。そして、その時に命に甦るという希望を持っていた人たちがいたと述べています。まさに、パリサイ派の人々はそのような人だったと言えるでしょう。ですから、マルタが「終りの日のよみがえりの時よみがえることは、存じています」と答えは、そのような人々の希望を言い表す言葉であったと言えます。

 しかし、その答えに対してイエス・キリスト様はさらに、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」と追いかけるのです。
 みなさん、マルタは21節22節で

   「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう。しかし、あなたがどんなことをお願いになっても、神はかなえて下さることを、わたしは今でも存じています」

と言っています。つまり彼女は、イエス・キリスト様が願うならば、神様はラザロに命を与え死から救ってくださっただろうと言っているのです。確かに、神様は命を与えるお方です。ですから、彼女の答えは間違っていない。しかし、このときにマルタにとって、イエス・キリスト様は、神と人をとりなす存在ではあっても命を与える存在ではないのです。おそらくマルタはイエス・キリスト様を偉大な預言者と捉えていたのだろうと思います。
 みなさん、私たちは先ほど、申命記18章の13節から21節までをお読みしました。そこにはモーセが語った言葉が記されていますが、そこでモーセは「あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞のうちから、わたしのようなひとりの預言者をあなたのために起されるであろう。あなたがたは彼に聞き従わなければならない」と言っています。
 モーセは、イスラエルの民がエジプトで奴隷となっていた時、その支配から解放し、人々を救いした預言者です。そのモーセのような救いをもたらす預言者が起こされると旧約聖書は語るのです。また、マラキ書4章5節には

見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす」

 とあります。つまり、やがて、イスラエルの民が救われる救いの時にはエリヤのような預言者やモーセのような預言者がやがて現れるというのです。そのことを受けるようにして、ヨハネによる福音書の1章19節から21節で人々がバプテスマのヨハネに、「あなたはエリヤの再来ですか、それともあの預言者ですか」と尋ねている箇所があります。このあの預言者というのが、モーセが言った私のような預言者が起こされると言ったその預言者なのです。

 そして、バプテスマのヨハネにしたように、イエス・キリスト様を、そのエリヤの再来であるとか、モーセのような預言者であると考えていたのではないかと思われます。そこには、彼らが待ち望んできた救い主であり、イスラエルの王となるお方が来る前に、預言者エリヤとモーセのような預言者再来するという期待があったからです。

そしてマルタもまた、イエス・キリスト様をそのような預言者であると捉えていたと思われるのです。だからこそ、そのマルタに、イエス・キリスト様は、「私が死者をよみがえらせ、命を与えるものなのだ、あなたはそれを信じるか」と迫るのです。それは、イエス・キリスト様は、エリヤでもなく、モーセのような預言者でもなく、まさこの世界に王として来られたお方であり救い主メシアだからです。
 イスラエルの民にとって、イスラエルの王は神自身です。ですから、「私が死者をよみがえさせ、命を与えるものなのだ、あなたはそれを信じるか」と迫るイエス・キリスト様の言葉は、私こそがイスラエルを抑える王であるということを信じるかということを迫る言葉でもあります。しかし、イエス・キリスト様は、ただイスラエルの民を救う王として来られたわけではありません。それにまさる神の王国を治める王として来られたお方です。そしてその神の王国は、単にイスラエルの民だけに開かれているのではなく、世界中のすべての人に対して開かれているものです。
 もっとも、マルタ自身がそこまで理解できていたかどうかはわかりませんが、しかし、それでも、彼女はイエス・キリスト様を信頼していたその信頼は確かなものであったようです。イエス・キリスト様に「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」と問われ、素直に「主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子であると信じております」と応えるのです、

 来るべきキリスト、それは油注がれた王でということです。そしてイスラエルの民にとってイスラエルの王は、神ご自身なのです。だから、マルタは。イエス・キリスト様は神の御子であるというのです。そして、この言葉はマルタにとっての信仰告白の言葉となった。
 みなさん、マルタはまだ、ラザロのよみがえりを見たわけでもありません。また、具体的に神の王国がこの世界の中に広がっていくのも見ていない。けれども、まだ見ていないのに、イエス・キリスト様の言葉を聴き、その言葉をそのまま受け止めて信じるのです。もちろん、マルタとてやみくもに信じたわけではないでしょう。ここに至るまでにあるイエス・キリスト様との様々な交流や、それまでイエス・キリスト様がなされたことを見て来たことを通して築き上げられた信頼関係もあったでしょう。しかし、それでもなお彼女は、まだ見ていない信仰の事実を信じ受け入れたのです。

みなさん、私は、このマルタの姿に、先ほどお富舌ヘブル人への手紙11章1節のある「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することであるという新を見る思いがします。そしてその信仰の大切さを思うのです。それと同時に、信じる決断、信仰告白に至るまでに、いかに、イエス。キリスト様に対する信頼が大切かということを教えられるます。
 それは、今日、イエス・キリスト様を伝える伝道の業が困難な日本の現状における教会に対するとても重要な事だと思うのです。みなさん。教会はキリストの体であり、キリストの業を行う共同体です。そのキリストの体である教会が、人々に信頼されていなければ、教会が語る宣教の言葉が人々に受け入れられ、信仰告白に導くことができないからです。

 私たちはイエス・キリスト様に信頼されたように、人々に信頼されるキリストの業を行うものとなる必要があるです。そして、そのキリストの業とは、神を愛して礼拝をし、隣人を愛するという愛を実践していくことだと思うのです。このことを覚えながら、今年一年の歩みをしていきたいと思います。しばらく静まりまりましょう。心を静めて、神の御子であるイエス・キリスト様のことを思いましょう。

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