2024年1月24日水曜日

父の声と母の微笑み

 私の本棚に「私にとって聖書とは」というタイトルの本があります。この本は、大学教授や精神科医や、ジャーナリストなど、様々な分野で活躍しておられる方が、自分にとって聖書とは、一体どのような書物なのかについて書いたものです。

 その本の背表紙を見ながら、私にとって一体聖書とは何なのだろうかと、考えてみました。ある人は、私に「聖書には確かに良いことが書いてあるとおもうよ」とそう言っていました。それは、聖書には倫理道徳的な善い教えが書いてあるという意味で、善いことが書いてあるとそう言うのです。

そう言われてみれば、私にとっても聖書は、私が人生を正しく歩んでいくための導きとなる書物であると言うことができます。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」とか、「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしないさい」といった聖書の言葉は、私自身にとっても、どのようにして生きていけばいいかと行った道徳的な導きを与えてくれものです。

そういった意味では、私にとって聖書は、私の人生を如何に生きていくべきかを教え導いてくれる父親の声のようなものだと言えます。けれども、それだけではないんですね。旧約聖書エレミヤ書三十一章三節にはこのような神の言葉が書いてあります。[永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに誠実を尽くし続けた」

ここに書いてあることは、神様が私たちを愛して下さっていると言うことです。そして、愛するが故に、誠実を尽くし続けたというのです。この神の誠実は、神が、神に背き罪を犯したものであっても、赦し受け入れけてきたと言うことです。

ちょうど、母親が、過ちを犯し、悪いことをした子供であっても、赦し愛し続けるように、神が私たちを温かいまなざしをもって見つめ、愛して下さっているというのです。そういった意味では、聖書は、私たちを温かいまなざしで微笑みながら見つめている神のまなざしのようなものだと言えます。
 私たちが生きていく時、如何に生きていくかを教え導いてくれる父の声となり確かな導きが必要です。けれどの、どんなに何が正しく、間違っているかを教えられ導かれても、私たちは、温かい愛に包まれていなければ、生きていくことは出来ません。
 そんな私たちにとって、聖書は、神と言うお方の父としての導きの声と、母としての温かい微笑みの中にある愛のまなざしを注いでくれるのです。

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