2024年1月4日木曜日

神様は決して監視しない

 



 夫婦がクリスチャンである家庭をクリスチャンホームというような呼び方をします。そのような家庭に生まれてきた子供は、自然とキリスト教的な環境で育ちますが、そのクリスチャンホームに生まれ育った子どもたちに中の比較的多くの子供が、とても嫌だっだということがあります。それは、親が「神様は隠れたところもみているからね」と言われることだったと言います。
 この「神様は隠れたところも見ているからね」という言葉は、新約聖書マタイによる福音書6章の5節6節に書かれて入り言葉に基づいているのだろうと思います。その言葉は次のようなものにです。

 また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。

 親としては、「神様は私たちが隠れてこそこそとしている悪いこともお見通しなのだから、人が見ていないからと言って悪いことなんかしてはダメだよ」という教育的な意味で言っているのでしょうが、言われた側は、神様から何もかも監視されていて、見ていないところでした悪いことをしたら罰せられる」という感じがして、嫌だったというのです。私は、そのような話を聞いていて、なるほどなあと思いながら、ここには、今までのキリスト教(特にプロテスタントやカトリック)の悪い面、誤った面がいくつか出ているなと思いました。
 一つ目は、今までキリリスト教は、人間に関して、人間の罪を強調し、罪と神の裁きとを結びつけそれを裁きを強調してきという過ちです。神様は人間の悪い所を見つけて裁き罰する怖い存在のようなイメージを与えてきたといえるでしょう。これは、決して正しい神理解ではないということです。神様は確かに、人間の過ちを正し、正しい歩みをすることができるようにと導かれるお方です。そのために人を戒めるようなこともありますがが、しかし裁き罰するようなお方ではありません。むしろ神様は、どこまでも人間を愛し、慈しまれるお方なのです。
 二つ目は、罪と悪とを同じものとして扱ってきたということです。罪が悪を産み出すというような構造があり、それゆえに罪と悪とは非常に結びつきやすい性質があります。しかし、厳密な意味において、罪とは神から離れ、神を意識することなく、神に背を向けて生きていくことであり、それは、私たちの良心の声に耳を傾けない人間の傾向性といった性質の問題であり、悪とは具体的に行う人間の行動の結果だからです。つまり、悪とは倫理的事柄に反する行為であると言えます。
 神様は、そのような罪と悪とを同じように扱い、人間は罪びとであるという否定的な人間観をもって人間を見、語る時に、まるでその罪しか犯さないような罪と裁きとをちらつかせながら、人間を監視しているようお方ではないですし、先ほど挙げた聖書の言葉は、決してそのような意味で語られたものではありません。むしろ、先ほどの聖書の言葉をよく読むと、神様はむしろ逆のお方であることがわかります。

 先の聖書の言葉は、「あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう」と言っています。それは、祈りという信仰的行為は、人に見せるものではなく、信仰という信じる心は、神に知っていただくものなのだということです。信仰は、決して人に見せびらかし誇るものではありません。先の聖書の言葉はそのことを戒める言葉です。
 さらに少し読み込むならば、祈りというのは、人に見られたくないこと、隠しておきたいことを神様に祈るということでもあります。人にはどうしようもない、人では解決できない問題を神様に祈るのです。人に頼って解決できる問題なら、人に頼ればよいのです。でも人に頼っても解決しないからこそ、神に祈り神により頼む。だから祈るという行為がそこに起こってくるのです。
 人に頼っても解決できない問題というのは、隠れたところにあります。それは「わたしたち」人間の、深い心の奥という隠れた部屋にあるものです。そこには、誰にも話せない心の痛みや悲しみがあります。そして、その心の奥底にある痛みや悲しみで「わたしたち」は悩み苦しむのです。その誰にも話せない、また話したくない悩みや苦しみを神様は知ってくださっている。その心の奥底にある痛みや悲しみの苦しむ「わたしたち」姿を知ってくださっているのです。
 神様は、「わたしたち」が隠れてこそこそと割ることをしないかと監視するようなお方ではありません。むしろ、深く傷つき、痛み、苦しみ私たちを知って下さり、手を差し伸べておられるお方なのです。

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