2024年1月20日土曜日

「いけにえ」とは何か

  キリスト教の正典は聖書です。正典とは正しい規範ということです。ですから、聖書がキリスト教の正典であるということは、キリスト教の教えと生き方の正しい規範を聖書がわたしたちに示しているというになります。そしてそれは、神様が「わたしたち」人間を、正しい道を正しく歩むことができるようにと導くためなのです。

 ところが、その聖書は、様々な文学形式をもって書かれています。一見すると、福音書のような伝記的な書物もあれば、歴史書のような書物もあり、手紙や詩と言ったものも含まれている。そのような、さまざまな方法で、聖書はわたしたちを導いているのです。その聖書の中に、詩篇と呼ばれる箇所があります。そこには150ばかりの古代イスラエルにおいて造られた詩が集められています。この詩篇の詩に、わかりやすいようい、後代のひとが、それぞれ1篇、2篇といったナンバリングがつけています。そのナンバリングされた詩篇の50篇には、私たち人間の生き方に対する重要な原則が語られています。その一つが感謝です。この詩篇50篇を記した詩人は、14 節で「感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き者に果せ。」と述べています。

 いけにえとは、神に捧げる極めて宗教的行為ではありますが、なぜ「いけにえ」を献げるのかというと、それは神に対する感謝として捧げるのだというのです。つまり、「いけにえ」というと、何かおぞましい感じがしますし、なにかしら自分の罪に対する神の怒りをなだめる犠牲のような感じがします。しかし、この場合の「いけにえ」とは、神に喜んでいただける捧げものといった感じに受け止めていただければよいでしょう。
 ですから、この「いけにえ」という宗教的行為の背後に、神に対する感謝がなければ「いけにえ」は「いけにえ」として意味をなさないことになります。日々、私たちが生来ていることの背後には多くの人の支えがあります。その究極的な支えが神の存在であるとこの詩の作者は考えているのです。だからこそ、神に感謝としての「いけにえ」を捧げるのです。

 聖書には「なだめの供え物」(口語訳では「贖いの供え物」:ex.1ヨハ2:2)といった概念があます。その「なだめの供え物」はイエス・キリスト様の十字架の一点に集約されて行きます。このような、「なだめ」とか「贖い」といった言葉が持つ響きの背後には、神に対する恐れがあります。そこには、私たちの罪を怒り、裁く神がおり、その裁きをおそれるがゆえに、神を「なだめ」、罪を「購い」神の怒りを静めるという響きがつきまとうのです。
 ところが、この詩人は、「そうではない」というのであす「いえにえ」の本質は、恐れからなされるものではなく、感謝からなされるべきものなのだというのです。「贖い」や「なだめ」は、私たちから何か「贖いしろ」として、私たちの持っているものを奪っていく感じがします。神の怒りを鎮め、償うために、何かを差し出すと言った感じです。

もちろん、神は、私たちから何かしらの金品を求めているわけではありません。神には、何か金品の必要があるわけではありません。だから、「贖いしろ」として差し出される何かの大きさや価値によって。神は決して満足はしません。むしろ神が満足させるものは、私たちの神に対する「感謝」だけなのです。いえ、その「感謝」の気持ちさえ、神の恵みをいただくために必要としていないでしょう。むしろ、ただただ、私たちが神に感謝をする心を神は喜び嬉しく思ってくださっているのです。
 だから、私たちはイエス・キリスト様の十字架を見上げるとき、そこに「感謝」の気持ちがあってこそ、はじめてイエス・キリスト様の十字架は神に対して真の意味を持ちます。また、私たちの宗教的行為、すなわち礼拝も献金も奉仕も、神に対する「感謝」なくしては何の意味も持たないのです。このことを心に留めたいと思います。

 さらに、この詩に込められたもう一つの行動原理、それは神の教えに従って生きると言うことです。

 17節に「 あなたは教を憎み、わたしの言葉を捨て去った。」とあります。更に神の教えを憎み、神の言葉に聞き従わないとき、人は罪に陥るのです。神の教えと言葉は、聖なるものです。ですから、その教えに背を向けて生きるならば、必然的に人は罪に向かって歩むことになってしまします。それでも、そのような神に背を向けて生きる自分の生き方を是とするならば、それはもはや自分自身が自分の神となっていると言わざるを得ません。
 自分自身が自分自身の神になってしまうとき、私たちは自分のしていることの善悪を判断することができなるなり、自分のしていることが絶対に正しいと思うようになり、自分を客観的にみることができなるなります。客観とは、物事を外側から眺め、批判的にみることだからです。ですから、私たちは、絶えず私たちの外側にある目から見た私たちの姿に耳を傾け、その声に聞くということをしなければ自己中心的な生き方に陥らざるを得ないのです。
 その意味で、聖書は私たち人間を外側から見る神の視点で語られた神の言葉です。つまり聖書は、人間が神について語った書ではななく、神が神の目から見た人間の姿を描いた書なのです。

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