2023年10月2日月曜日

23年10月第一主日礼拝説教「人間を探し求める神」

 23年10月第一主日礼拝説教「人間を探し求める神」

旧約書:創世記3章1節から10節
福音書:ヨハネによる福音書9章34節から41節
使徒書:ローマ人への手紙7章14節から25節


 今日の礼拝説教の中心となります聖書箇所のヨハネによる福音書9章34節から41節はです。この箇所は、9章1節から始まる物語の総括ともうしますか、まとめに当たる部分です。その9章1節から始まる物語というのは、イエス・キリスト様が安息日に生まれつき目の見えなかった人を安息日にお癒しになったという出来事から始まる物語です。そしてこの癒しの物語は、ユダヤ人が、イエス・キリスト様の排除しようとする物語へと発展していきます。

しかし、そのイエス・キリスト様を排除しようとするユダヤ人たちの思惑は、なかなか思うように進まず、結局、彼ら試みは失敗に終わるのですが、この一連の物語は、このヨハネによる福音書の冒頭の第一章9節から12節の言葉の具体的な事例だと言えます。すなわちそこには、

9:すべての人を照すまことの光があって、世にきた。10:彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。11:彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。12:しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。

とあるのです。つまり、この生まれつき目の見えなかった人の目が見えるようにされたことによって紡がれる一連の物語は、すべてを照らす光として「この世」に来られたイエス・キリスト様を、ユダヤの民が受け入れなかった物語であり、また、イエス・キリスト様を信じて、神の子となった人の物語でもあるのです。
 ところが、その神の子とされた人、つまりは生まれつき目の見えなかった人は、最終的に、ユダヤ人たちによって外に追い出されるのです。イエス・キリスト様を「預言者だと思う」「神のもとから来られた方だと思う」と証言し、証しする人が、外に追い出される。

 みなさん、私はこの「外に追い出した」という言葉が、妙に気になるのです。外とは、即物的に言うならば、それはユダヤ人たちが尋問をしていた場所、おそらくそれはユダヤ人の会堂だっただろうと思います。
 しかし同時に、それはパリサイ派やサドカイ派の人々をリーダーとする当時のユダヤ人の社会、コミュニティーでもあろうと思うのです。つまり、パリサイ派の人々は、この生れ突き目の見えなかった人をユダヤ人社会からに追い出したのです。実際、ヨハネによる福音書の9章22節には、「イエスをキリストと告白する者があれば、会堂から追い出すことに、ユダヤ人たちが既に決めていた」と言っている。しかし、その外に追い出された人をイエス・キリスト様は探し出すのです。

 みなさん。私がよくご紹介するアブラハム・ヘシェルというユダヤ人哲学者は、『人間を探し求める神』という本を著しました。その本でヘシェルは、「アダムとエヴァが、神食べてはならないと命じた「善悪を知る木」の実を食べ、神がに背を向けため、神の前に身を隠し、また神の支配する世界である楽園に住むことができなくなり、楽園の外に出て行かざるを得なくなったのです。それはまさに、神と人との関係が断れてしまったことであり、それゆえに、人間は神を失い、神もまた人間を失ってしまった。その失われた人間を神は探し求めておられるのだ」と言うのです。
 私にこのヘシェルを紹介し、このヘシェルの『人間を探し求める神』を読むように勧めてくださったのは、私の恩師で東京聖書学院院長だった小林和夫先生です。小林先生は、このヘシェルの『人間を探し求める神』をうけて、そのように「神は失われた人間を地の果てまで探し求め、探しに探してついに人間の姿にまでなられた。それがイエス・キリスト様だ」と言われのですが、実に印象深い言葉でした。

 そして、まさにそのように、イエス・キリスト様は、この外に追い出された人を捜し求め、その人を見つけ出し、声をかけ、「あなたは人の子を信じるか」と語りかけるのです。そこには、失われた人間を探し求め、見つけ出し「汝、誰々よ」と名前を呼んでくださる神のお姿がそこにある。真の神の御子であるイエス・キリスト様のお姿がある。

 みなさん、このイエス・キリスト様の「あなたは人の子を信じるか?」という言葉は、「神は、あなたを探し求めてきたことを信じるか?」という言葉であり、「私こそがあなたを探し求めてきた神であることを信じるか?」という問いかけの言葉なのです。

 そして今日(こんにち)も、神は私たちに、そしてあなたに「あなたは人の子を信じるか?」。「神が、あなたを探し求めてきたことを信じるか?」、そして「私こそがあなたを探し求めてきたその神である信じるか?」と語りかけておられるのです。そのイエス・キリスト様の語りかけに、この生まれつき目の見えなかった人は「主よ、信じます」と言って、イエスを拝した」とあります。9章38節です。

 この拝するという言葉は、一般的には東洋人が膝まづくいて。額を地面につけ深い敬意と畏敬の念を表す姿をあらわすπροσκυνέω(プロスキュネオー)という言葉です。この言葉を、ユダヤ人は、大祭司や神に向かって示す行為に用い、新約聖書においてはキリストに対する態度に用います。ですのでこのπροσκυνέω(プロスキュネオー)は礼拝を意味すると言われたりします。それで新改訳2017では、この9章38節を、「イエスを礼拝した」と訳している。

 いずれにせよ、このこの生まれつき目の見えなかった人は、イエス・キリスト様を信じ、受け入れ、神を礼拝する神の民となったのです。その人にイエス・キリスト様は、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」と言われる。この「見えるようになるため」というのは、何も物理的に見えるようになるということではありません。むしろ、私たちを愛し、私たちを探し求め、私たちを神の子とする神の愛を、イエス・キリスト様というお方の中に見ることができるようになるということだと言えるでしょう。そのためには、自分は神から離れてしまっている者であるということを知り、神が私たちを探し求めてくださったように、私たちもまた神を求めることが大切なのです。

 この生まれつき目の見えない人を、外に追い出したユダヤ人たちは、「おまえは全く罪の中に生れていながら、わたしたちを教えようとするのか」といって、この人を外に追い出しています。それは、彼らが自分は見えている、自分は知っていると思っているからです。だから、イエス・キリスト様が「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」という言葉を聞いて、「それでは、わたしたちも盲人なのでしょうか」と聞くのです。

 それは、決して純粋で素直な気持ちで聴いているのではない、むしろ、「なに言ってやがるんだ。俺たちは盲目なわけないじゃないか」という反発心から聞いている。だからこそ、イエス・キリスト様は「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある」と言って、手厳しく彼らを戒めるのです。

 この目が見えると言っている人は、この生まれつき目の見えなかった人を外に追い出した人たちです。すなわち「おまえは全く罪の中に生れていながら、わたしたちを教えようとするのか」と言っている人です。この人たちは「私たちはお前のような罪びとではなく、聖書、すなわち当時の旧約聖書について熟知しており、お前のような無学なものではない」と誇っている人です。イエス・キリスト様は、そのような人々を「あなた方は『見える』と言っているのすぎず、本当は何も見えていないのだ」というのです。

 みなさん、私は西方教会の伝統、すなわちプロテスタントやカトリック教会に深く根差している「人間は生まれつき原罪をもって生まれた罪びとだ」という原罪論には疑問を持っています。しかし、だからと言って人間が罪や過ちを犯さないということはできません。確かにわたしたち人間は罪や過ちを犯しつつ生きているのです。
 そして、私たち人間が、聖書のことがわかりきるのかというと、2000年にわたって、聖書が研究され続け、今もそこに様々な理解や解釈が生まれ続けている現実がある以上、おそらく私たちは聖書を熟知しきることはできないと思います。

ですから、イエス・キリスト様に真理があるということはわかっても、その真理が何かについてはおぼろげにわかっているだけで、その深みまではわかっていないのです。神学を学び、聖書を学べば学ぶほど、そのことが実感され、神の前に、聖書の前に、そして人も前に『私は見えないのです』と謙虚にその現実を受け入れざるを得ないのです。ですから私は、ただ牧師として、ほんの少しおぼろげに見えたことをみなさんにお伝えしているの過ぎない。でも、私はそのことを恥じてはいません。ただイエス・キリスト様は、そのような謙虚に『自分は見えていない』と自覚して、ただ神により頼んで生きる人を捜し求めておられる。そのことに望みを置いて、学びえた限りを語っているのです。

みなさん、最も原初の教会における貢献者に一人であるパウロは、コリント人への第二の手紙12章9節で「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう」と言っています。

 この弱さというのは7節で「高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた」といっていますので、肉体的な事でしょう。しかしその「弱さ」は、肉体の弱さだけではありません。先ほどお読みしたローマ人7章14節以降にある、肉体の内にある罪に抗えない心の弱さをも含んでの「弱さ」なのです。その「弱さ」を知り、それを自覚するときに、私は自分の弱さを誇ろうと言うことができる。なぜならば、その自覚する弱さのゆえに、イエス・キリスト様が私たちを探し求め、そして探しだしてくださり、神の愛と恵みと救いに与らせてくださるからです。

 みなさん、私たちは自分の弱さを自覚し、それを認めるものでありたいと思います。決っして「見える」と言い張る傲慢なものとならないようにしましょう。私たちが、私たちの弱さを自覚する時、私たちは、私たちを探し求めている神様を、またイエス・キリ使徒様を見いだすことができます。神様は、またイエス・キリスト様は、私たちがどんなに弱さの中にあり、無知の中にあろうとも、私たちを探し出し、私たちの名を呼んで憐み、恵み、その弱さの中から掬いあげてくださるお方だからです。

 その憐みの神、恵みの神、そして私たちの存在を掬い取ってくださるイエス・キリスト様のことを、静かに思い廻らしましょう。静まりの時を持ちます。


0 件のコメント:

コメントを投稿