2023年10月7日土曜日

妥協せずに進もう

  私は牧師であり、神学の一学徒です。いえ、牧師だからこそ神学の一学徒だと言えます。なぜならば、牧師は神学者でもなければならないからです。
 神学とは、神について考えることです。ただ漠然と考えるだけではありません。教会に集う信徒に方々に語る以上、私はこう思うとか、私はこう考えるといった主観的な語りであっては困ります。だから学問的に考えるということが求められるのです。ですから、神学は学問の一分野に属するのです。
 もちろん、信仰というものは、学問ではなく、信じる心です、信じるということは、そこに一種の信念体系を伴います。そして、その信念は個人的なそして主観的経験に裏付けられていることが多くあります。そういった意味で、人は自分の信念を代えることは難しいことです。ですから、ひとり一人の信念がぶつかり合うこともしばしば起こります。ましてや、その信念が神学という学問的な裏付けを伴って受け入れられていると、互いに譲れなく激しくぶつかり合うことも多いのです。
 しかし、それでもなお、キリスト教は互いに愛し合うことを求めます。そして絶えず和解をし、互いに支え合うことを求めます。それは、この世界の全て物のが一つの神の内に在るからです。この世界のすべてのものは、神の懐に抱かれているのです。ですから、仮に意見の違いや考え方の違いがあっても、違いがあることを認めつつも、相手を尊重し、尊ぶ姿勢が大切なのです。
 私たちが、どんなに意見を違え、考え方を分かったとしても、私たちは愛なる神の懐に抱かれている存在です。その私たちが、意見の違いや考え方の違いで相手を受け入れられなくなるのは、自分の意見や考え方に相手を従わせようとするときです。それは自分の考え方で相手を支配しようとしていることなのです。そして、そのようなことを神は望んでおられません。なぜならば、神がイエス・キリスト様を通して「この世」という世界にもたらした「福音」は、この世界に住むすべての人を縛り付けているあらゆる支配と隷属の構造から解放することだからです。
 私たち人間は、神様にお従いするということ以外に、誰にも隷属するものではありません。ただ、愛なる神に従い、愛に基づいて生きる以外に求められているものはないのです。
聖書は愛について、次のように言います。

たとえ私が、預言する力を持ち、あらゆる秘義とあらゆる知識に通じていても、また、山を移すほどの信仰を持っていても、愛がなければ、無に等しい。また、全財産を人に分け与えても、焼かれるためにわが身を引き渡しても、愛がなければ、私には何の益もない。愛は忍耐強い。愛は情け深い。妬まない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、怒らず、悪をたくらまない。不正を喜ばず、真理を共に喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びません。(新約聖書コリント人への手紙第一13章2節から8節)

 私たちがこの愛に生きるならば、どんなに意見の違いや考え方の違いがあっても、私たちは自分自身の信念に妥協せずに進み生きて行きながらも、相手を尊重し、尊び、共に生きて行くことができるのです。
 そのことについて、私の友人の岩本遠億牧師が、自分自身の体験を通して語ります。4分弱の短い説教です。是非お聞きください。岩本牧師のお話しは下記のアドレスから聞くことができます。アドレスをクリックし、▶をクリックしてください。(この岩本牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものですが、それを岩本牧師の御許可をいただいて転載しています。)

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2a8lrk?fbclid=IwAR0aBHvsqs4zlMdd9B2jL_cPGPXPEkxA8FUSGRHcQxdzOvInvJCb-qebEr4

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