2023年11月21日火曜日

現代における神の語りかけ

 聖書には預言書と呼ばれる存在がいます。預言と言いますと将来に起こることを言い当てる人のように思います。しかし、預言というのは神様の言葉を人々に伝える役割と使命を負った人です。神様の言葉を人々に伝えると言っても、何か忘我状態になり、神ががかった状態で話すのではなく、しっかりとした意識と判断力を持ち、自分の目の前にある事態を判断しつつ、そこに語られる神の言葉を聞き取り語るのです。ですから、聴く人にとっては、決して抽象的な言葉ではなく、聴く人の心にしっかりと神のメッセージが受け止められるものです。

 聖書を見ると、いかにも抽象的な言葉が語られているように思えるものがあります。ダニエル書や黙示録などはその典型的なものです。しかし、それらの言葉は、その言葉を直接期言った第一義的な聴衆にはその意味が、ちゃんと分かったのです。ですから、預言は、具体的に誰に向かって語られているかがはっきりとし、それを聞いた人が何のことを言っているかがわかるものなのです。そして、その第一義的意味を通して、それが後の時代の私たちにも意味を持ってくるものとなるのです。
 現代でも、預言を語る人がいます。しかし、その多くは第一義的に置いても抽象的な意味しか持たないものがほとんどです。第一、どのような状況を念頭におき、誰に向かって語られたものかよくわからない。だから、その預言を聞いても、聴く人をしっかりと地に足を根差し、その人の人生を確かに導く指針にはならないと思われるものです。そういった意味では、現代にこれが預言であると語られている預言というものは、聖書に出てくる預言とは全く異なる者です。
 そんなわけで私は、現代に聖書の中に出てくるような預言者と呼ばれる使命と働きを担っている人はいないと思っています。しかし、だからといって、神の前での私たちの人生に導きを与えてくれるアドヴァイスとなる言葉がないという事ではありません。
 信仰の先輩や友人が言ってくれた思いがけない言葉が、私たちに大きな影響を与えることがあるのです。けれども、たとえ大きな影響を与える意義ある言葉であっても、それらの言葉が聖書の言葉を超えることがありません。むしろ、それらの言葉は、一つのきっかけとして、私たちを練りはみ、聖書が私たちに語りかける神と人に喜ばれる生き方を生きるための助言として意味と意義があるのです。それは答えを与える言葉ではありません。その助言の言葉を通して、神が私たちに神の前にいかに来るかを問わせ、考えさせ、導くのです。そして大事なことは、その導かれた先に神の言葉である聖書が指し示す生き方があるか否かなのです。ですから、助言はあくまでも聖書の言葉を指し示す指なのです。
 ですから、その助言の言葉自体が、客観的な「神からの語りかけ」の言葉であるという事ではありません。それはその助言がまさに用いられていくその過程のなかで、神の導きとなっていくということです。そのような意味で、神の語りかけは、語られた助言の言葉自体の中にあるのではなく、その語られた言葉を思い廻らし、考え、練りはんでいった先にあるのです。
 そのような助言の言葉の事例を、私の友人の岩本遠億牧師は「預言」と呼びます。岩本牧師が「預言」と呼ぶ者は、現代の預言を語るという人たちが語る預言とは違ったものです。むしろそれは、人の助言の言葉を通して神が私たちを導く過程全体を振り返る中で自覚する神の語りかけです。その過程を「預言は神の国を進める」という3分強の短い説教の中でご自身の経験を通して語っています。
 その岩本牧師の説教は下記のアドレスで聴くことができます。このアドレスは岩本牧師のご承認をいただき掲載している者であり、下記のアドレスをクリックし『366日元気の出る聖書の言葉』のホームページを開き▶マークをクリックしてくだされば聴くことができます。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2c6fvf?fbclid=IwAR1TwQaXNsoIcZWUPVt9YGceaxmFh_HJ25JQ5-_Av-zQ0lgQaDCd4bNNBuA

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