2023年11月29日水曜日

絶望だとおもったのに・・・

 キリスト教というと十字架を思い出す方も多いのではないかと思います。それほど十字架はキリスト教を象徴するものです。実際、多くの教会がこの十字架を掲げます。

では、なぜキリスト教は十字架をその象徴として掲げるのでしょうか。十字架は、イエス・キリスト様がローマ帝国によって反逆罪に問われ、貼り付けになって死なれて場所です。聖書によれば、イエス・キリスト様は十字架に架けられてしまうような過激な行動をとったわけではなく、当時のユダヤ人の中にあったパリサイ派と呼ばれるグループや祭司階級の人々を厳しく批判したために恨みを買い、それでローマ帝国に訴えられて十字架に架けられて死んだと伝えられています。
 その十字架に磔られたイエス・キリスト様が十字架の上で語った言葉があります。十字架の七言と呼ばれるもので、七つほどあるのですが、その中の一つに「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」というものがあります。
 イエス・キリスト様の時代、地中海世界はローマ帝国が支配していました。そのような中でユダヤ人たちは、ある程度の自治は認められていましたが、基本的にはローマ帝国に支配されていました。そのようなな中で、イエス・キリスト様は神の王国が到来するというメッセージ(これを教会では福音と言います)を人々に伝え歩いたのです。そのメッセージは、ユダヤの人々に希望を与えました。それは、ローマ帝国に支配されていた彼らにとっては解放のメッセージだったからです。当時のユダヤ人たちの希望は、ローマ帝国の支配から脱却し、自分たち自身の王国が建てられ、自分たちの土地を自分たちで自由に使え、神が与えた律法を何の制約もなく行えるというものでした。ですから、当時のユダヤ人たちに神の王国が建てられたというメッセージは、彼らが期待する神の王国の到来と勘型としてもおかしくはありません。
 しかし、実際にはイエス・キリスト様が伝えたその解放のメッセージは、当時のユダヤ人の期待し希望する解放とは少し異なっていました。というのも、イエス・キリスト様が伝えた神の王国の到来は、ローマ帝国を意識したものではなく(それもしやにははいってきたかもれませんが)、もっと大きなこの世界を覆っている罪と死の支配からの解放であり、神の恵みと愛とが支配する世界の到来を告げ知らせるものだったからです。それは、支配者と被支配者といった構造をもつこの世界の在り方そのものをひっくり返すような神の王国の到来を告げしらせるものだったのです。
 だからこそイエス・キリスト様は、当時のユダヤ人たちの宗教的支配者階級のパリサイ派や祭司階級を厳しくし、同時に彼らから憎まれ、十字架に磔られて死ぬ羽目になってしまうという悲劇的な結末となってしまった。
 十字架に磔られて死を迎えるということは、本当に苦しいことであり絶望的な事だろうと思います。イエス・キリスト様にしてみれば、それこそ神に見捨てられたような思いがしたのかもしれません。だから「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」とイエス・キリスト様は叫ばれた。それは絶望の中にある人の叫びです。そのような言葉をイエス・キリスト様は十字架の上で口に出して言われたのです。
しかし、そのイエス・キリスト様の十字架の七言の最後の言葉は「すべて完了した(こと終われり)」というものです。どういうことでしょうか。「自分の人生が終わった、自分の夢もこと尽きた」ということでしょうか。そうではないのです。
 それは、むしろ、罪と死による支配は終わり、神に見捨てられたと思うような絶望はもう終わっのだという希望の宣言なのです。イエス・キリスト様は神の御子です。その神の御子が人となってこの世界にお生まれになった。そして、人ととしてこの世界で生きられたのです。それは、「わたしたち」人間がこの世界で味わう苦しみや苦悩、そして悲しみを共に生きるためです。そして十字架の上で死なれたのは、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばずにはいられないような絶望を経験するためだったのです。そしてそれらを経験したなかで、そのような苦しみと悲しみ、そして絶望は終わったのだ。ここから神の恵みと愛が支配する神の王国が世界の隅々まで広がっていくのだと言われたのです。それが「すべて完了した(こと終われり)という言葉なのです。
 この神の恵みと愛が支配する世界は、いまだ世界の隅々まで広がってはいません。しかし、キリスト教会の中に確かに始まっています。それはまず神を信じ、イエス・キリスト様を心の中に迎え入れた人の心と霊の中に広がっています。どんなに絶望的で「「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と思われる状況の中にあっても、神様は決して私たちを見捨てておられないのだという希望を与えているのです。
 このイエス・キリスト様の「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」という言葉は、実は旧約聖書の詩篇というところにある言葉です。その言葉をイエス・キリスト様はお語りになったのです。そしてその詩篇の言葉を口にしたイエス・キリスト様の言葉が希望に繋がるということを、私の友人の岩本遠億牧師が「十字架の上の賛美と希望」という4分弱の短いメッセージを通して語っています。その岩本牧師のメッセージが出ているホームページのアドレスを岩本牧師の許可を得て下記に掲載しています。そのアドレスをクリックし「366日元気の出る聖書の言葉」というページに行き「十字架の上の賛美と希望」というタイトルにある▶マークをクリックしてください。そうすれば岩本牧師のショートメッセージを聴くことができます。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2chkdl?fbclid=IwAR3W_f2B_100D_iaKQRRa64yJ9xeRjSfXYmTpQ_oW-c3-EewvKa9NNjgNYA&%24web_only=true&_branch_match_id=943951679210878550&utm_source=web&utm_campaign=web-share&utm_medium=sharing&_branch_referrer=H4sIAAAAAAAAAwXB0QqCMBQA0C%2BaMw3FIELJBxMGrkB9GtvacmruksPp33fO4BysF4xXsM7ogy9ysD%2FklQg4QDCbZcIKQxp1e5FuSSluWsjZvK%2BVz2ncMh0V7BSGd2Z43VDKk%2FPxyHZFx6fu%2Bu8LGmZbJGNUKr%2FVPCNk%2FJA%2B%2FwND0uUDdQAAAA%3D%3D

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