2023年11月22日水曜日

愛をはんぶんあげる

 先日、KANさんというシンガーソングライターの方が亡くなられました。この方の曲でもっとも有名な曲は「愛は勝つ」という曲で鼻から廊下と思います。「最後に愛は勝つ」というフレーズは、私たちの心に大きな励ましを与えるものでした。しかし、「最後に愛は勝つ」というのは、いったいどういうことなのでしょうか。そもそも愛とはいったい何なのでしょうか。

 現在の日本の状況では、この愛という言葉は、主に男女の間の色恋感情にあるある種の情念向けられているように思います。もちろん、それが間違っているというのではありません。そういった使い方もすることができるっでしょう。男女の色恋関係以外でも親子間の親密な感情に対しても仕えることばかもしれません。しかし、愛という言葉は、より広い、奥深さを持っています。少なくとも聖書が愛という言葉を語る時、その言葉は、私たちの思いをはるかに超えたものなのです。ですから聖書は、愛という言葉を様々な言葉をもって言い表します。ある時は、恋愛感情を表すと言われるエロースという言葉が用いられます。しかし、エロースは恋愛感情を表す言葉ではありますが、その本質は相手と結ばれることで自らを高みに引き上げる愛です。ですから恋愛感情でなくても、自分をより善い高みへ引き上げれくれると思うものに引き付けられる気持ちがあるとすればそれはエロースなのです。また、友情や友愛と言ったものを表すフィリア、そして、自分を相手に与えるところのアガペーなど、これらすべてを統合するものが聖書で言う愛なのです。ですから、エロースやフィリア、アガペーの間に何か優劣があるわけではないのです。違いがあるとするならば、どのような局面でその言葉が語られているかという点にあると言って良いでしょう。
 もし仮にこの様々な局面で現れですあいに優劣をつけるとするならば、どの愛という言葉がすぐれ、どの愛という言葉が劣っているかというようなものではなく、エロースであろうと、フィリアであろうとあがぺーであろうとどのように愛したかという愛し方によると言えるでしょう。そして、聖書は最も優れた愛し方というのを、「人がその友のために命を捨てる、これ良い大きな愛はない」と言っています。あるいは「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」ともいう。さらに、その「友」とじゃ「隣人」という存在には「あなた」の敵をも含んでいるのです。そういうと、「みなさん」は「いやーそんなことはできない。敵をも愛する愛なんて持ち合わせていない」と言われるかもしれません。しかし、そんなことはないのです。「みなさん」の心には、そして「わたしたち」の心には、そのような「敵をも愛する愛」の種がちゃんと植えられているのです。
 私の子供たちがまだ幼かったころ、読み聞かせていた本の中にきのしたあつこさん著の「はんぶんあげてね」という絵本がありました。この絵本の主人公はクマの子供です。そのクマの子がおばあちゃんからもらった大きなパンをお友達に分けてあげようとしてお友達の家に向かって歩いて行きます。その道の途中で出会った人に、そのクマの子はパンを半分分けてあげるのです。何人も何人も出会います。そのつどそのクマの子はパンを分けてあげる。当然、パンはだんだん小さくなっていく。損得勘定であ言えば、人にパンを分けてあげることに自分の取り分がへるので大損です。でも、それでもパンを分けてあげるクマの子の姿に心が温かくなる。そんな心が、「敵をも愛する愛」の種なのです。
 神様は、そのような愛の種を私たちが育てていくことができるようにと、まず、神の愛を私たちの心に注いでくださいます。この神の愛が注がれるづけていると、どんなに「はんぶんあげても」そのパンは尽きることありません。「はんぶんあげても」、あげたぶんだけ、家挙げた以上に神様は愛を注いでくださるからです。自分が損をすると思っても、それでもその人に愛を注ぐ、それ良い大きな愛はないと聖書は言うのです。そしてそのような愛に、私たちは到達することができるのです。神の愛が注がれているならば・・・・。
 そのような敵をも愛する愛について、私の友人の岩本遠億牧師は「共に弱くなるほどに愛する」という3分ちょっとの短いメッセージで語っています。岩本牧師のご了解を得て、そのショートメッセージが語られているアドレスを掲載しました。お聞きになりたい方はそのアドレスをクリックし、更に▶マークをクリックしてください。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2c82a4?fbclid=IwAR1tz-EBxY_1KkxTnfYLXLolblZ6fQT7QbF63gGXCAd744ew-R_bOCPFIKU

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