2018年7月22日日曜日

'18年7月第4主日礼拝説教「十字架の意味」

                                                      2018.7.22

旧約書:レビ記16章6~10節(旧約聖書p.158-159)
福音書:ルカによる福音書23章44節~49節(新約聖書p.132)
使徒書:へブル人への手紙10章8節~18節(新約聖書p.353)

 さて、今日の説教の中心となる聖書個所はルカによる福音書2344節から49節です。この箇所は、十字架に架けられたイエス・キリスト様の最後、断末魔の瞬間を描いている場所です。


 イエス・キリスト様が十字架に磔られたのは、昼の12時ごろでした。するとあたりはだんだんと暗くなってきた。太陽が光を失ったからです。そしてあたりは真っ暗になりました。このような太陽が光を失うと言う現象は、日食に見られる現象です。ですから、このとき日食が起こったのではないかと思われる方もおられるかもしれません。
しかし、イエス・キリスト様が十字架に磔られたのは過ぎ越しの祭りの時です。特に過ぎ越しの食事をした直後ですので、ユダヤの暦で言えばニサンの月の15日で満月の日です。日食は新月の時に起こるもので満月の時には起こりませんから、イエス・キリスト様の十字架の場面で太陽が光を失いあたりが真っ暗になったと言う現象は、日食と言う自然現象によるもの考えられません。とすれば、この太陽が光を失いあたりが真っ暗になる現象がここで起こったのには、何らかの神学的・信仰的意味があります。では、いったいどのような意味が考えられるでしょうか。

みなさん、マラキ書の41節、2節(新共同訳では318節、20節)には、次のような言葉があります。

1:万軍の主は言われる、見よ、炉のように燃える日が来る。その時すべて高ぶる者と、悪を行う者とは、わらのようになる。その来る日は、彼らを焼き尽して、根も枝も残さない。 2:しかしわが名を恐れるあなたがたには、義の太陽がのぼり、その翼には、いやす力を備えている。あなたがたは牛舎から出る子牛のように外に出て、とびはねる。

 このマラキ書41節、2節はキリストに対する預言として受け止められてきた箇所ですが、そこではイエス・キリスト様を「義の太陽」と言うふうに形容しています。このことは、ローマ帝国が冬至の祭りにおいて、一年で最も日が短くなる冬至を境にしてそこからだんだんと日が長くなっていく様子を太陽の死から復活として捉え、不滅の太陽を神として崇める祝いをしていたことに対抗して、教会は真の神であり「義の太陽」であるイエス・キリストの誕生を、この冬至の祭りに祝ったと言う出来事がクリスマスが1225日となった謂れであると言われています。

 そのように、教会はイエス・キリスト様を「義の太陽」だと考えていたのです。だとすれば、その太陽が光を失うということは、まさにイエス・キリスト様の死を象徴的に示している現象であったと言えます。まさに義の太陽であるイエス・キリスト様が死なれ、光を失う。そのとき、地上は真っ暗闇になってしまう。罪と死が我々を覆う暗闇の世界となってしまうのです。ところが、聖書はその時にもう一つの不思議な現象が起こったということを書き記しています。45節に記されている聖所の幕が真ん中から裂けたと言う出来事です。真っ暗な闇の世界、その闇の世界の中で神殿の聖所の幕が真ん中から裂けた。この時に裂けた幕は、聖所と至聖所と隔てるための幕であっただろうと思われます。

 みなさん、至聖所と言う場所は神殿の中で、いえ神の民イスラエルの国においてもっとも神聖な場所です。そこには契約の箱が置かれ、神の臨在なされるのです。もっとも、この契約の箱はバビロン捕囚後、失われてしまっていますので、イエス・キリスト様の時代は至聖所には何もなかったと思われます。しかし、それでも、至聖所は神が臨在なさる聖なる場所なのです。ですから、この隔ての幕で至聖所は外界と遮断され、特別に聖別された場所となりました。そして、そこには、年に一回、贖罪の日に大祭司ただ一人しか入ることができないのです。その至聖所と聖所を隔てる幕が真っ二つに裂けたのです。

 この隔ての幕が二つに裂けた。それは、神と人との間にあった隔てが取り除か、神と人との間が繋がれ結ばれたと言うことでもあります。イエス・キリスト様の死によって再び罪と死が我々を暗闇で覆いつくしてしまうと思われるその時に、その暗闇を引き裂くように神と人との間の隔てが取り除かれ、神と人とが結ばれる。それこそがイエス・キリスト様の十字架の意味であると言っても良いだろうと思います。それは、神殿の幕が真っ二つの裂かれたその時、イエス・キリスト様が声高く「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と叫んで死なれたと言う出来事と深く結びつきます。

 十字架に架けられて、今まさに死なんとするその時に、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と叫ぶイエス・キリスト様のその言葉。それは、パウロがピリピ人への手紙38節で「おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」と言った、まさに神に従い抜いたお方の言葉です。
 そしてこの徹底して神に従い抜いて生きるその生き方が、罪と死とが支配する闇のような世界を切り裂き、神と人との間に新しい契約をもたらしたのです。そう、イエス・キリスト様は、罪と死の支配に対して完全な勝利したお方であり、そのお方の十字架の死は、私たち人間を罪と死の支配から解放するものだったのです。だからこそ、この様子を見た百卒長は「ほんとうに、この人は正しい人であった」と言うのです。

 この百卒長の言葉は、マルコによる福音書(1539)にもマタイによる福音書(2754)にも類似する表現が見られる言葉です。たとえば、マルコによる福音書には何の注釈もなくただ百卒長がイエス・キリスト様の十字架の出来事を見て、「まことにこの人は神の子であった」と言っています。それに対して、マタイによる福音書では、神殿の幕屋が二つに裂けたとき、地震があり、岩が裂け、墓が開き眠っていた聖徒たちの多くが生き返ったと言うことを記し、その上でこれらのことをみた百卒長が非常に恐れて「まことのこの人は神の子であった」と言う。
 そして、ルカによる福音書では、イエス・キリスト様の十字架の死の際に、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」と言うイエス・キリスト様の言葉を聞き、太陽が光を失い全知が暗くなり、神殿の幕が裂け、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」叫ぶイエス・キリスト様のその言葉を聞いた百卒長が、神を崇め(新改訳2017:神をほめたたえ)ながら「ほんとうに、この人は正しい人であった」と言っているのです。

 ここには微妙な違いがあります。すなわち、マルコは何も注釈をつけずに百卒長の言葉を記しているのに対し、マタイはその言葉が百卒長の恐れから出たものであると注釈をつけて言い、ルカは「神を崇め、ほめたたえる思いから」言ったのだと言う違いがある。

 一般に、福音書は最初にマルコの福音書が書かれたであろうと言われています。そして、それはおそらく間違っていないでしょう。そして、マタイによる福音書もルカによる福音書もマルコによる福音書を参考にして書かれていると考えられます。つまり、マタイでは、百卒長が恐れから「まことにこの人は神の子であった」と言う言葉も、ルカの神を崇め(ほめたたえ)ながら「ほんとうに、この人は正しい人であった」の間にある「恐れ」と「神を崇め、ほめたたえる」という思いとの間にある微妙な違いは、百卒長の言葉をどう受け止めたのかというマタイとルカの解釈の違いだと思われます。

 ひょっとしたら、マタイは地震や岩が裂けると言った事情の背後に、神の子を十字架に磔にする人の罪に対する神の裁きを下す神の怒りを感じたのかもしれません。あるいは、神の子の死に対する神の深い慟哭を感じたのかもしれない。だからこそマタイは、百卒長の言葉はは「非常な恐れの中で語られたと思ったのではないでしょうか。

それに対してルカは、イエス・キリスト様の「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」と言う言葉や、イエス・キリスト様と共に十字架に架けられている囚人のひとりに架けたよく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」と言う言葉、そして「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」という一連の言葉の背後 に、高潔で愛に満ちたイエス・キリスト様の姿を見ている。それこそ、死の間際であっても、決して人を呪ったり、恨んだりしないイエス・キリスト様の姿に、徹底して罪に打ち勝つ姿を見ていたのかもしれません。だから、真っ暗闇の中で、聖所と至聖所を隔てる神殿の幕が裂けたと言う出来事に、イエス・キリストの罪と死に対する勝利を感じたのでしょう。それゆえに百卒長の「ほんとうに、この人は正しい人であった」と言う言葉は、神を崇め、ほめたたえる言葉として受け止められている。

 みなさん、このイエス・キリスト様の十字架の死が、罪と死の勝利であったということは、古代教会からキリスト教にあった十字架理解です。そのように、イエス・キリスト様の十字架は罪と死の支配、そしてその背後にある悪魔に対する完全な勝利である。だからこそ、イエス・キリスト様の十字架は誉むべき、誇らしい事柄であり、たたえるべきものなのです。
 しかし、それは同時に私たちの胸を叩く事柄でもある。48節です。そこにはこうあります。「この光景を見に集まってきた群衆も、これらの出来事を見て、みな胸を打ちながら帰って行った」。

 この胸を叩くと言う行為は、二つの状況を思い浮かべさせます。一つは、悲しみのあまり胸を叩くと言うことです。ですから新改訳2017版などは、悲しみのあまり胸を叩きながら帰って行ったと訳している。そしてもう一つは自分の罪を悔やむ姿が胸を打つと言う行為に著されている場合です(ref実用聖書注解;熊谷徹)。たとえば、ペテロによる福音書という聖書にはならなかった外典福音書と呼ばれるものがあります。そのペテロによる福音書の725節には、この時のことを次のように記しています。

   その時、ユダヤ人たちと長老や祭司たちは、自分たちがどんなに悪いことをしたかを悟って嘆き始め、「われらの罪にわざわいあれ、エルサレムのさばきと終わりは近い」と言い出した(ref新聖書注解p421)。

また、ルカによる福音書1813節には、神殿で、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と祈る取税人の姿が記されていますが、そこには胸を打つと言う行為が,深く罪を悔いる思いから出る行為として記されています。

 では、ここではどのようにこの「胸を打ちながら帰って行った」と言う行為をどちらの意味で理解すればいいのでしょうか。みなさんはどう思われますか。私はおそらく、罪を悔いながらと理解すべきではないかと思います。というのも、この胸を打ちながら帰っていった人々は、イエス・キリスト様を十字架に付けると叫んだ群衆だからです。
 仮にこれが、イエス・キリスト様についてきていた人々ならば悲しみで胸を叩くと言うことは理解できます。しかし、そのような人々は49節に「すべてイエスを知っていた者や、ガリラヤから従ってきた女たちも、遠い所に立って、これらのことを見ていた」とありますので、この胸を打ちながら帰っていった人々にこの人たちは含まれていません。だとすれば、この胸を打ちながら帰っていった人々は、イエス・キリスト様を「十字架に付けろ」と叫んだ群衆だと考えるのが妥当であるように思われるのです。

 イエス・キリスト様を「十字架に付けろと叫んだ群衆」の多くは、律法学者や祭司長と言った人たちに扇動されてイエス・キリスト様を十字架に付けるように要求した人々です。彼らは、おそらくあの百卒長と同じようにイエス・キリスト様の十字架の死のありさまを見て、「この方は、正しい方であり、神の子である」と理解したのでしょう。その「正しい人」、また「神の子」に対して、自分たちを「十字架に付けろ」とピラトに迫り、その結果その「正しい人であり神の子」が十字架で苦しみ死んでしまった。このことが、罪の痛みとなり、そのことを激しく悔やんで胸打ちながら帰っていたとこの箇所を読み解く方が妥当であるように思われるのです。

 そして、この福音書の著者であるルカも、そのように罪を悔やみ胸を打つ人の姿を描きつつ、自分の罪に気づき、その罪を悔いることの大切さを示そうとしているように私には思えて仕方がないのです。というのも、先ほど申しましたように、イエス・キリスト様の十字架の死は、私たちを縛り付け支配して神に背かせる罪と死の支配に対する勝利であり、私たちをその罪と死の支配から贖い出し、解放するものだからです。

 先ほど私たちは旧約聖書レビ記166節から19節の言葉に耳を傾けました。本当は、16章全体をおよみしたかったのですが、長くなりますのでその中の一部分だけを司式の兄弟に読んでいただきました。このレビ記16章は、神がイスラエルの民に定めた「贖罪の日」と訳されるヨム・キップールについて書かれている部分です。この「贖罪の日」というのは、神が年に一度、イスラエルの民が犯した罪を贖い、罪や汚れからきよめてくださる日です。
 この日、それこそ大祭司がただ一人で、犠牲とされ山羊と雄牛の血をもって至聖所に入り祭壇にその血を捧げ、イスラエルの民の罪を贖いました。また二頭の山羊のうち一匹をくじで選び、その山羊の頭の上にイスラエルの民の罪を告白し、この山羊をアザゼルのための山羊として荒野に放ち、二度と帰ってこないようにしたのです。

 アザゼルというのは、山羊を意味するアズ(עַז)と立ち去ると言う意味のアーザル(אָזַל)と言う言葉の複合語であるとか、アザゼルと言う荒野に住む悪霊とだとも言われたりしますが、いずれにせよアザゼルの民は,]要は、イスラエルの民の罪をイスラルの民から追放して民を聖めるということを象徴的に示したものです。

 そして新約聖書のへブル人への手紙は、その贖罪の日の犠牲はイエス・キリスト様の十字架の雛型だと言うのです。雛型とは、平たく言えば模型です。実際の実物がありそれをまねて作ったのが模型です。私も小さい頃はよき模型を作りましたが、その多くは車や飛行機や戦艦でした。たとえば、飛行機ならばゼロ戦の模型を作ったりしました。このゼロ戦の模型は、実際のゼロ戦の実物を模して作ったものです。

 それと同じように、罪の贖いのための実体としてイエス・キリスト様の十字架がある。そして、贖罪の日で犠牲になる動物はその雛型、模型のようなものです。だから、完全な実物はイエス・キリスト様の十字架です。ですから実際のイエス・キリスト様の十字架の死は罪を贖うものとして完全なものです。完全なものだからこそ、ただ一度、イエス・キリスト様のからだがささげられることで、毎年、動物を犠牲としてささげることで罪を贖い、きよめていた雛型としての業を廃止し、イエス・キリスト様につながるものは完全にきよい者とされるのだとへブル書は言うのです。
 それは、そのただ一度のイエス・キリスト様の死が、完全に神に従順に従うものであり、それによって新しい契約が神と人の間に結ばれ、人が罪と死の支配から贖われたからです。

 みなさん、「罪を贖い」と言うことは、「罪を償う」と言うことではありません。日本語の辞書で見れば、償いも贖いも同じような意味で受け取られていますが、聖書が言う「贖い」は必ずしも「償い」と同義語ではありません。「償う」ということは、自分自身の過ちのゆえに相手に損害を与えたので、その損害を補填するために行う行為です。それにたいして贖うとは自分自身の過ちのゆえに自分が持っていた権利や立場を失うことです。その自分自身の失われた権利が回復されることが「贖い」ということなのです。

 ですから、イエス・キリスト様が十字架の死で私たちを贖ってくださったということは、神によって創造された私たちを神の民として回復し、神の聖なる民、神の子としての権利を回復してくださったということなのです。だから、ただ一度だけでいい。そしてだからこそ、私たちは自分の罪を悔い、神に目を向け、神に立ち帰りることが大切なのです。そして、罪と死が支配する世界ではなく、罪と死が支配する闇の世界を打ち破って打ち建てられた神の恵みが支配する神の国、その神の国が今の私たちの住む「この世」と言う世界のおいて現れ出ているキリストのからだなる教会、その教会の神の民の交わりの中に留まり続けることが大切なのです。

 たしかに、イエス・キリスト様を「十字架につけろ」た叫んだ群衆は、過ちを犯しました。しかし、彼らのためにもイエス・キリスト様の贖いの業は開かれているのです。イエス・キリスト様の救いの業は完全な救いだからです。「贖罪の日」は、私たちにそのことを教えている。だからこそ、私たちも神に目を向け、イエス・キリスト様を私たちの主であり王として信じ、このお方と繋がりながら生きて行くことが何よりも大切で重要なことなのです。

お祈りしましょう

2018年7月20日金曜日

‘18年7月第3主日礼拝説教「苦しみの中で寄りすがる信仰」

187月第3主日礼拝説教「苦しみの中で寄りすがる」         2018.7.15

旧約書;創世記151-6

福音書;ルカによる福音書2338-43
使徒書;ローマ人への手紙818-25

 さて、2012年の128日から始まったルカによる福音書の連続説教も、6年かかっていよいよ十字架と復活というクライマックスの記事にかかってまいりました。今日は、その中で、イエス・キリスト様と共に十字架に付けられた二人の犯罪人の記事です。聖書個所はルカによる福音書2339節から43節です。

 イエス・キリスト様が十字架に磔られた時、二人の犯罪人も一緒に十字架刑にあっていました。ルカによる福音書2333節を見ますと、この二人の犯罪人はイエス・キリスト様を挟むようにして右側と左側に磔られたことがわかります。このとき、この二人の犯罪人がイエスキリスト様を挟んで向き合うように右側と左側に磔られたのか、あるいはイエス・キリスト様と横並びになって横一線に磔られたのかは分かりません。しかし、いずれにせよ、イエス・キリスト様を中止にして3本の十字架がゴルゴダの丘に立てられたのです。

 このときイエス・キリスト様と一緒に十字架に付けられた二人の犯罪がどのようなことをしでかしたについては、ルカは明らかにしていませんが、マタイによる福音書の2738節や44節、マルコによる福音書1527節では、この二人は強盗となっています。もっとも、この強盗と訳されている言葉は、強盗と訳す以外にも、略奪者や強奪者とも訳せますし、革命家というふうに訳すことも可能な言葉であって、実際にどう訳すかは定かではありません。

 しかし、十字架刑というのは、一般にローマ帝国に反逆する政治犯に対して課せられる刑罰です。実際、一緒に受持化に磔られているイエス・キリスト様の頭の上には「これはユダヤ人の王」と書いた札が掲げられていました。それは、ユダヤ人の王としてローマに反逆をした人間であるとして十字架に架けられているのです。そして、イエス・キリスト様と共に十字架に架けられている犯罪人の一人が、40節で「お前も同じ刑罰を受けているではないか」と言っていますことを考えると、彼らは、今日でいうローマ帝国に反逆するの政治犯ですが、いわゆるテロリストとして暴動をおこし、その暴動の際に略奪をするような者たちだったのかもしれません。

もっとも、この「お前も同じ刑罰を受けているではないか」と言う言葉も、「お前も(イエス・キリスト様と)同じ刑罰を受けているのではないか」ということなのか、「お前も私も同じ刑罰を受けているのではないか」ということなのか、ここのところも定かではありませんので、

しかし、このルカによる福音書は、その冒頭にローマの高官であるテオピロ宛てに書かれたものであると記されています。つまり、ローマ人たちがこの手紙の主たる読者として考えられているのです。そのルカによる福音書が、あえてただ犯罪者としてだけ書き記しるしているのは、読者であるローマ人たちに、ローマに反逆した政治犯が十字架に架けられていると言う印象を強く与えたかったのかもしれません。いずれにせよ、二人の犯罪者がイエス・キリスト様と共に、十字架に架けられたのです。

 そのとき、この二人の犯罪者のひとりが、イエス・キリスト様に「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と声をかけます。この言葉は、一見しますと、同じルカによる福音書2335節でイエス・キリスト様を陥れ十字架に架けたユダヤ人の指導者たちが言った「彼は他人を救った。もし彼が神のキリスト、選ばれた者であるなら、自分自身を救うがよい」という言葉や、ローマの兵士たちが言った「あなたがユダヤ人の王なら、自分を救いなさい」という嘲笑の言葉と同じように見えます。

 しかし、先ほど申し上げましたように、このイエス・キリスト様と一緒に十字架に磔られた二人の犯罪人は、単なる強盗というのではなく、ローマに反逆し、ユダヤの民をローマから解放しようとした政治犯の可能性が十分に考えられる人たちです。その人が「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」という言葉は、あのユダヤ人指導者たちやローマの兵士たちの嘲笑の言葉とは本質に違います。

 それは、今、自分の命が失われ、自分が目指してイスラエルの国をローマ帝国の支配から解放しようとする夢が潰えようとする絶望の最中(さなか)から、絞り出す「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」という言葉だからです。

 みなさん、ここまで私は、キリストという言葉の意味は「油注がれた王」という意味であると申し上げてきました。ですから、ここで「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」といってイエス・キリスト様をののしる犯罪人の言葉は、「お前は神から油注がれた王であるのならば、自分とおれたちの命を救い、共にローマと戦い、ローマ帝国を打ち破ってユダヤの民をローマ帝国から解放すればよいではないか。なぜそれをしないのか。」というそんな絶望的な響きを持つ叫びのように私には聞こえてくるのです。

 そして、その叫びは、イエス・キリスト様の力を借りてではありますが、しかし自分自身の崇高な目的を自分自身で成し遂げる夢をあきらめきれない人の叫びのように私は思えるのです。だから「自分とおれたちを救え」と言う。そして、それをなされないユダヤの王に絶望しののしっている。自分自身にはあきらめきれず、イエス・キリスト様には絶望している、そんな人の姿がそこにあるように私にはそのように思えるのですが、みなさんはどう思われるでしょうか…。

 このとき、この「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」とののしる犯罪人と一緒に十字架に付けられていたもう一人の犯罪人が口を開きます。それは「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」という言葉を諫め、たしなめます。そして次五のように言うのです。

おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。 お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない

この二人の犯罪者はイエス・キリスト様と同じようにローマ抵抗に対する反逆者として十字架刑を受けている。でも、この二人はイエス・キリスト様とは決定的に違うのです。彼は「お互いは自分のやったことの報いを受けているのだから、こうなったのは当然だ」と言います。つまり、自分たちのしてきたことをちゃんとわかっている。その上で、「しかし、このかた(つまりイエス・キリスト様)は何も悪いことをしたのではない」と言っているのです。それは、自分たちがしてきたことがたとえローマに反逆して行ったことであっても、それは悪いことであったと言うことをちゃんと理解していると言うことなのです。


確かに、彼らの目指してきたものはユダヤの民をローマ帝国の支配から解放すると言う崇高な目的だったかもしれません。しかし、その目的を自分たちが達成するために悪いことをしてきた。目的が達成されれば、その手段において悪を行ってもよいわけではありません。目的が正しく崇高なものであればあるほど、それを達成する手段も正しく崇高な者でなければなりません。結果オーライではないのです。

 この犯罪人は、イエス・キリスト様と同じように十字架刑に処され、十字架の上にあげられ、そしてイエス・キリスト様を目の前に見ながらそのことに気づいたのかもしれません。そして、おそらくは自分たちの行い振り返りつつ発せられた言葉が42節の「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」と言う言葉です。

 この「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」と言う言葉は、最近出されました新改訳2017聖書では「あなたが御国に入られるとき私を思い出してください」となっています。これは現存する写本の間にある違いによるものですが、いずれにせよ、イエス・キリスト様によって神の国が完全に完成する時を指し示していると考えてもよいでしょう。その時に、「私を思い出してください」と言うのです。

この「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」と言う言葉には、この地上での命に対するある種のあきらめがあります。それは、40節の「お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ」と言う言葉にもにじみ出ているものです。そういった意味では、この犯罪者も絶望の中にいるのです。しかし、この犯罪者はもう一人の犯罪者のようにイエス・キリスト様をののしることはしていません。

むしろ、絶望の中でイエス・キリスト様の中に希望を見ています。それがと言うあきらめと絶望の言葉の背後に隠れている。というのも、この男は、神の国がイエス・キリスト様によって打ち建てられると期待しているのです。

たしかに、この二人の犯罪者はローマ帝国に反逆し、ユダヤの人々をローマ帝国から解放し、イスラエルの国を再興しようとしていた。そのために、おそらく暴動を起こしたりテロ行為のようなこともしていたのでしょう。だからローマ帝国によって捉えられ十字架に架けられてしまった。でも、十字架の上で死のうとしている自分は、もはや自分の目でイスラエルの国がローマ帝国から解放されイスラエルの国が再興すると言うことを見ることも、それに参加することもできない。

しかし、神の御国はイエス・キリスト様によって実現するのです。この犯罪者には、その神の御国がどのような形でもたらされかは分からなかったでしょう。しかし、自分がそれを見ることも、またもたらすこともできないけれども、神がお遣わしになった油注がれた王ならばそれができる。そのような期待と希望が、あの絶望とあきらめの言葉の背後にある。

 それは、今、死なんとする自分自身に目を向けるならば、そこにはあきらめや絶望しかありません。だから、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」と言う。そうですみなさん、この犯罪者は「私を思い出してください」と言うのです。決して、「私も一緒に神の御国に入れてください」とは言っていない。ただ「思い出してください」とだけ言う。

死にゆく自分に対してはあきらめつつも、キリストに対して目を向けるならば、そこには希望があり、そして期待するのです。だから、イエス・キリスト様が御国に入る時には、手段は誤まり、間違った悪い方法ではあったかもしれないけれども、イスラエルの民が解放され救われることを願っていたものがいたことを思い出してほしい。そんな思いが、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」と言う言葉の背後にあるように、私には思えるのです。そして、それはもう一人の自分自身に対してはあきらめきれず、イエス・キリスト様に対しては絶望しているもう一人の犯罪人とは真逆な人の姿がある。

その人に、イエス・キリスト様は「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」と言われるのです。

パラダイスというのは、よく言われますが、囲いのある庭と言うペルシャ語ですが、ペルシャの王が、その国の民に特別な名誉を与えるときに、その名善い与る者を王の庭であるパラダイスに招き、王と共にその庭を散歩する名誉を与えたと言われます。イエス・キリスト様が、あえてペルシャ語のパラダイスと言う言葉を用いたのは、そのようなことをイメージしていたのかもしれません。

 いずれにせよ、イエス・キリスト様は、自分自身に対しては、あきらめと絶望を感じている者に、希望の言葉を語るのです。しかも、「きょう、わたしと一緒にパラダイスにいる」と言われる。この犯罪人にとって、今日と言うその日は、十字架に付けられ、死にゆくときです。しかし、その時に、その人はイエス・キリスト様と共にパラダイスにいる。それは肉体の死と言う試練を超えた希望を語る言葉です。

 みなさん、週報の報告欄にも書きましたが、先週の水曜日に三田泉教会と箕面泉教会の牧師をなさっておられたOK牧師が急逝なさいました。近畿教区のキャンプ場の整備をなさっているときに誤って転落し、頭蓋骨骨折と硬膜血種のために亡くなられたのです。

 本当にまじめに牧会をし、伝道をし、三つの教会を開拓なされ、主に使えられた牧師でした。私も献身前にはお世話になりましたし、聖書学院に在学中はいろいろと支えていただきました。このように真摯に主に使えてこられた方が、事故と言う出来事で召されると言う出来事に出会いますと、「主よどうしてですか」と問いたくなる。この教会の前身の三鷹教会のKY牧師が交通事故で召されたときも、そう思いました。

 そのようなときは、本当にこの世界には、試練や苦難ばかりがあるような気持がして、どこに希望や望みがあるのかと思わされるような感じです。それは、このような突然の不慮の事故による親しい人の死だけに限らす、例えば、阪神淡路大震災や東日本大震災、そして今回の西日本を襲った豪雨のような出来事、このような出来事の最中(さなか)に置かれるとき、とても希望を持つような気持にはなれませんし、何を期待していいのかも分からない。

 しかし、その現実の苦しみの中にも聖書は希望を語るのです。それが、先ほど司式者にお読みいただきました。ローマ人への手紙818節から25節です。そこにはこうあります。

18:現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。19:被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。20:被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。21:つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。22:被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。23:被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。24:わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。25:わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。

 ここでは、この世界全体が苦しみと苦悩の中にあると言っています。被造物全体が虚無に服し、被造物すべてが今日まで、共に受け貴、共に産みの苦しみを味わっているということはそういうことです。しかし、その苦しみの中に希望がある。しかし、その希望は、心の呻き(うめき)の中で待ち望む希望であり、目に見えないものを待ち望む希望です。もはや自分自身ではどうしたらいいのかわからないような状況、自分自身に何かができるとは到底思えない希望や期待が持てないような状況の中にあって、神にあって、イエス・キリストにあって希望を持つそれが、神に寄り縋る信仰によってもたらされる希望なのです。

 OK牧師が亡くなられたと言う報を聞いたとき、KY牧師が自己で亡くなられたとき、私の心には、深い悲しみとやるせなさと、脱力感に満ちていました。それでも、その中に、やがて神の国が完成し、神の創造の業が関せする時には再び会えるという希望だけはありました。そしてその希望が今日まで支えてきたのです。

 みなさん、人間の力ではどうしようもないこと、解決がつかないことは数多くある。そして自分の力ではどうしようもない現実の前に立つとき、私たちは自分自身に対して絶望するのです。けれどもみなさん、神には解決がある。イエス・キリスト様には希望があると聖書は言うのです。

 先ほどお読みしました旧約書の創世記151節から6節までに書かれているアブラハムの物語などは、まさにそのような希望の中に生きた人の物語であると言えるでしょう。このアブラハムの物語は、創世記127節において、神がアブラムに子孫を与えると言う約束を与えたことから始まります。そしてその約束をアブラムは信じたのです。

 ところが、神が子孫を与えてくださると約束し下さったのにもかかわらず、アブラム共にサライの夫婦には子供が生まれず、希望を失ってしまうように状況になった。もはや人間的な視点から見れば、絶対に子供など与えられないと誰しもが思うほど、アブラムもサライも高齢になった。そのように、自分自身ではもうどうしようもないと言う、自分自身に絶望したときに、神は「アブラムにサライによって跡取りを得る」と言う約束を成就してくださったのです。それはひとえに、創世記156節でアブラムが神の約束を信じたというその信仰の故なのです。

 みなさん、私たちは、今日の聖書個所のルカよる福音書2738節から43節に出てくる二人の犯罪には、自分自の死に直面しつつも自分自身にあきらめきれずキリストに絶望する人と、同じように自分自身の死に直面して自分自身に絶望しあきらめ、キリストに希望を持つ人とを見ました。

そして、自分に絶望しあきらめながらも、イエス・キリスト様の中に希望を見出し、イエス・キリスト様に期待する者に、神はイエス・キリスト様と共にある恵みを約束し自分自身に絶望したものに希望を与えて下さった出来事を見てきました。それは、かつてはアブラムが経験した希望であり、苦難と苦しみの中にある被造物全体に与えられる希望であり、そして皆さんにも与えられる希望です。

みなさん。ここに集っているお一人お一人が、生きて行き中で何らかの苦悩や苦しみや、苦難、試練と言うことを経験してきたことでしょうし、これからもそのようなことはあるでしょう。自分自身の力ではどうしようもない現実を突き付けられることもある。しかし、それでもなお、聖書は、神の下には希望がある、イエス・キリスト様の下には希望があると言っている。それが神の約束です。

みなさん、私たちは、その希望を信じる者となろうではありませんか。神の約束を信じて、自分自身に絶望するようなことがあっても、イエス・キリスト様の下にはあることを信じて生きて行こうではありませんか。