2020年6月19日金曜日

「安心を与える言葉」


              「安心を与える言葉」

ちょっと昔の話になりますが、一種の不眠症のような感じで、十分に眠れない時期があったんです。眠っていても、半分起きているみたいで、寝ているのか寝ていないのか、よくわからない感じ。じつはその時期、ちょっとした心配事があったからなんです。 
心配事がある時って、なんだか心がわさわさと騒いで、不安で、どうしようもなかったりするじゃないですか。考えてみてもしょうがないのに、ついつい考え込んで眠れなくなっちゃう。そんな感じだったんですね。

ところが、新約聖書のヨハネによる福音書の14章で、キリストは「あなたがたは、心を騒がせてはいけません。神を信じ、わたしを信じなさい。」と言っているんです。

不安なときに、心を騒がせるなって言われてもね。それができないから、眠れないでいるわけでしょ。随分無茶なことをいうなって、そんな感じがします。

でも、考えてみますとね。あながちそうとも言えないような気もします。

というのも、私の友人がこんな事を聞かせてくれたんです。それは、彼が、ちっちゃい頃に、迷子になったって話なんでした。彼は、何人かの友達と、言ったこともない遠くまで冒険しに時に、友達とはぐれてしまって、ひとりぼっちになっちゃったんですって。

はじめての場所で、迷子になって帰れなくなってしまった。彼はだんだん不安になってきて、涙がポロリポロリ。とうとう最後は「わんわん」と泣き出したんだそうです。 
そのときに、一人の人が「どうした。迷子か」って声をかけてくれてね、「家の電話番号わかるか。」って聞いてくれたんですって。それで電話番号を教えると、家に電話をしてくれた。 
その人は、一通りの事情を説明すると、「ほら、お父さんだよ。」って受話器を渡してくれた。その電話口の先でね、お父さんが「大丈夫だよ、心配するな。すぐ迎えに行くから」ってそう言っている。彼はね。その声を聞いて「ホント安心した」って、言っていました。

どんなにたくさんの慰めや励ましの言葉が、何の役にたたないこともあります。反対に、ほんの一言でしかないのに、不安や恐れで荒波のように騒いでいる心をほっとさせ、いっぺんに安心させてしまうことってあるでしょ。

私の友人が「大丈夫だと、心配するな。すぐ迎えに行くから。」っていう短い言葉で、安心することができたのは、それが彼のお父さんの言葉だったからです。 
つまり、自分に愛情を注いでくれている親の愛情とその父親に対する信頼が、彼の心を鎮め、安心させてくれたってことなんでしょね。

聖書は、私たちの心にいつも語りかける神様の言葉です。ですから、今日、あなたに、神様があなたを愛しているってことを知ってほしいんです。そして、その、あなたを愛する神様を信頼して欲しいなって、そう思うんです。 
そしたら、きっと、聖書を通して語りかける神様の言葉が、あなたが不安なときにも、あなたの心から不安をかき消してくれるだろうってそう思います。そして、安心で一杯に満たしてくれる。まさに「心を騒がせなくても良く」なるんですね。その神様が与える、安心で満たされる心を、あなたにも手に入れて欲しいなってそう思います。

2020年6月12日金曜日

会堂に集まる公同の礼拝はネット礼拝の補完か

        会堂に集まる公同の礼拝はネット礼拝の補完か

私たちの教会でネットを通じての礼拝が始まって3ヵ月が過ぎた。1年の1/4である。しかし、ようやく7月からは、3回に分散する形式であり完全に元の形ではないが、会堂での公同の礼拝を再開する。
もちろん、まだ教会に来ることに不安を感じている方々や、様々な事情で教会に来ることが困難な方のためにネットでの礼拝や説教原稿と式次第をあらかじめ送るということは続けていく。しかしそれは、公の礼拝に来ることができない方のための、あくまでも補完である。

 この新型コロナウィルスの災禍によって、教会でのネットの活用が一気に進み、ネットによる礼拝のライブ配信や録画配信が多く用いられた。
 一部には、これからの礼拝の形式としてネット礼拝を考える必要性がある声も聞こえる。その時に、会堂に集まってなされる公同の礼拝はどうなるのだろうか。ネットを見ることの出来ない人たちのための補完として会堂に集まっての礼拝が行われる。そんな理解が生まれてくるのだろうか。
 私としては直観としてネット礼拝というのは礼拝の本来あるべき形ではないと感じている。
 神学するとは、この直観をテーゼとして、その直感が如何に筋道を立てて論証していくかという作業でもある。そういった意味で、この新型コロナ災禍の中で、礼拝についてあれこれ学ぶ機会があら得られたのは幸いな事であった。そして、その学びを通しつつ直観は正しいのではないかと感じ始めている。
 公同の礼拝は、会堂に集まって行われるべきもので、ネット礼拝はあくまでも補完である。

2020年6月3日水曜日

ポストコロナにおいて学ぶ礼拝


 ポストコロナにおいて学ぶ礼拝

 この新型コロナウィルスの騒動は、教会に大きな変化をもたらすのではないかと言うことが言われています。とりわけ、この騒動によって各教会がネット礼拝というものを導入し、今後はネットを通じた礼拝というのが主流になるのではないかという意見もあることは、以前にもお伝えした通りです。
 そんなわけで、私は今、教会の礼拝の歴史や東方教会の伝統にある教会の礼拝(奉神礼)やカトリック教会の礼拝(ミサ典礼)、そしてプロテスタントの教会の礼拝など色々調べ、学んでいます。
 そのような中で、気が付くことは、東方教会(正教会)やカトリック教会の礼拝は、共通している部分も多く、また古代からの礼拝形式をしっかり受け継いでいるのに対し、プロテスタントの多くの教会は、宗教改革以後、とりわけカルヴァンの改革以後、その礼拝の形式をガラッと変えてしまったと言うことです。
たとえば、それは式次第においてはっきりと表れています。東方教会の奉神礼にしてもカトリック教会のミサ典礼にしても、神が語るという部分と、その語りかける神に対して、最高の奉仕を捧げるという、神の語りと応答ということが式次第の中ではっきりしているのですが、プロテスタントの教会は、神が語られると言うことに重きがもたれ、その神の語りかけに対して、私たちが犠牲をもって神に応答すると言う面が弱いと言うことです。聖餐式でさえ、神の恵みの手段であり恵みの経路であって、東方教会やカトリック教会のように、(人となられたイエス・キリストが捧げられた)最高の奉仕の捧げものとはなっていません。
 これは、ただ神の恵みのみを強調するプロテスタントの特徴のゆえであろうと思います。もちろんそれは、大切なことではありのですが、神に対して犠牲を払ってでも応答するという信仰も見落としてはなりません。では、プロテスタントの教会においては、その犠牲はどこで払われているでしょうか。それは決められた時間に教会堂と言う決まった場所に出かけていく時間と労力という犠牲を払い、そして献金を捧げるという金銭的犠牲を払うことの中に見出せます。言葉をもって「神かく語れる」という神の語りに犠牲を持って答えるという応答が、これらによって示され、礼拝の本質の一つの応答という側面が実践されるのです。我々は、ここのところを見落としてはならないのです。
 もう一つ、正教会やカトリック教会とプロテスタントの教会との違いは、祈りと賛美において顕著に表れています。正教会やカトリック教会の礼拝は、全体として音楽が中心に行われ、祈りと讃美が詠唱という形で密接に結びついています。それは、音楽(旋律)をもって礼拝を進めることによって、神というお方を言葉だけでなく、五感を持って感じるように意図されているからです。
 神は、言葉では語りつくせないお方であり、神の世界は言葉では語りつくせないものであるから、音楽や美術(ステンドグラスや装飾品)、司祭の服装や香の香りなどを用い、言葉にできない神の秘儀を五感で伝えようとしているのです。教会堂が荘厳な造りになっているのもそのためです。教会堂に来れば、「この世」での日頃の生活とは全く違った空間がある。そこで、日常の違ったとは全く違った時間を過ごすことで、私たちの日常を超えた神の世界を五感で感じとる。私たちプロテスタントは、言葉によって神を伝えることに重きを置きすぎて、この事を置き去りにしてしまったのかもしれません。
 だからこそ、私たちは、今の日曜日の主日を家庭で礼拝をしているという現状は、けっして好ましい状態ではないと言うことです。礼拝は、「この世」ならざる神の世界を感じるときです。日常を超えた神の世界を経験し、それを日常の生活の中に生かしていく、そこに礼拝の意義の一つがあります。
 それを考える新型コロナウィルスがもたらした異常事態です。その事を覚え、新型コロナ以後に、再び礼拝が回復されると同時に、礼拝の本質、それはキリスト教の本質なのですが、そのキリスト教の本質を表す礼拝を持っていきたいと思います。それは、私たちは、私たちの言葉では言い表せないお方を礼拝し、私たちの言葉による認識では知ることの出来ないお方を感じ取っているのだと言うことが著されている礼拝です。