24年3月第四主日(棕櫚の日曜日/受難週)礼拝「完成された使命」 2024.3.24
旧約書:出エジプト記の24章1節から11節
福音書:ルカによる福音書23章44節から49節
使徒書:ヘブル人への手紙9章23節から28節
今日は、教会暦でいうならば棕櫚に日曜日になります。棕櫚の日曜日は、イエス・キリスト様が、棕櫚の葉が敷き詰められた道を子ロバにのって、エルサレムに登って行かれたというエルサレム入城と呼ばれる出来事を記念する日です
ですから、本来ですと、そのエルサレム入城の記事から説教をするところですが、私たちは、今、毎週の礼拝でヨハネによる福音書を最初から順序に従って読み、説教の言葉に耳を傾けています。その関係で、2月の後半の礼拝で、このエルサレム入城の出来事から説教がなされました。
ですので、今日は、からイエス・キリスト様の受難の物語が記された記事から説教をしたいと思います。棕櫚の日曜日から受難週に入るからです。ですので、3月29日のイエス・キリスト様が十字架にかけられた日である聖金曜日を思いつつ、ルカによる福音書23章44節から49節を通して神の言葉をお取次ぎしたいと思います。
この箇所は、イエス・キリスト様が、十字架刑に架けられ亡くなられた場面を描いた箇所です。そこにおいて、このルカによる福音書の著者は、イエス・キリスト様が十字架に磔になったのは、昼の12時頃であり、その時に全地が暗くなり、3時に及んだと述べています。この記述が、イエス・キリスト様を太陽に見立てて、その死を比喩的に表現したのか、あるいは、実際にそのような現象が起こったのかは、定かではありません。
仮に、実際の自然現象として昼の12時ごろから、3時ごろまで暗くなったというと、ちょうどその時に皆既日食でもあったのかと思いたくなりますが、ユダヤ人の過ぎ越しの祭りは太陰暦、つまり月の満ち欠けによってきまりますので、過ぎ越しの祭りの時に起こったイエス・キリスト様が十字架に架けられた時に、タイミングよく日食が起こったということは、考えられません
もしかしたならば、厚い雲に覆われてしまって、真っ暗とは言えないまでも、相当暗く感じるような出来事があったのかもしれませんし、神さまがなされた奇跡の業として、「昼の12時ごろであったが、太陽は光を失い、全地は暗くなって、3時に及んだ」のかもしれません。
しかし、確かなことは、この「昼の12時ごろであったが、太陽は光を失い、全地は暗くなって、3時に及んだ」という表現が、イエス・キリスト様の死を現す象徴的な表現で用いられているということです。
イエス・キリスト様は「義の太陽」としてこの世界に来てくださったお方です。そのお方が今まさに十字架の上で死なれようとしている。そのことを表現「太陽は光を失い、全地は暗くなる」というこの言葉は、見事に視覚的に表していると言えます。
みなさん、私たちは「太陽は光を失い、全地は暗くなる」といった表現を聞きますと、何か不吉な、悪いことが起こっているような感じを持ちます。ですから、この言葉から神の裁きと言ったことを想像するかもしれません。
しかし、私は決してそのような事ではないと思っています。なぜならば、この「太陽は光を失い、全地は暗くなる」という言葉に引き続いて、「そして聖所の幕がまん中から裂けた」というからです。
この聖所の幕というのは、おそらく至聖書所といわれる神殿の中にあっても、特に神の臨在が顕される場所で大祭司が年に一度だけ、イスラエルの民を執成すために入ることができる聖なる場所と、聖所という、通常の時に祭司たちが祭儀を行う場所を隔てていた幕のことであろうと思われます。
この幕は、文献によると20mもの大きさがあり厚さも10㎝もあったといわれますので、そうそう簡単に破れるものではありません。それが真っ二つに裂かれたのです。それが何を意味するのか。
それについては、いくつかの解釈がありますが、この神殿の幕屋が裂けたということは、聖所と至聖所を隔てるものがその働きを終えたいうことでもあるということです。それは旧約聖書の律法に定められているの祭儀、まさに年に一度、犠牲の動物の血をもって大祭司がその幕を通って至聖所に入り、民の執り成しと贖いのための祭儀をするという神殿祭儀が終わったというのです。
と言うのも、先ほどお読みしたヘブル人への手紙9章23節から28節において、特に25節において
大祭司は、年ごとに、自分以外のものの血をたずさえて聖所にはいるが、キリストは、そのように、たびたびご自身をささげられるのではなかった。もしそうだとすれば、世の初めから、たびたび苦難を受けねばならなかったであろう。しかし事実、ご自身をいけにえとしてささげて罪を取り除くために、世の終りに、一度だけ現れたのである。
と言われているように、イエス・キリスト様の十字架の死において、律法に定められている年の一度の贖罪の日に、大祭司によって行われていた犠牲の供え物を捧げる必要がなくなったからです。
そこにおいて、神を信じる者を神の民、神の子として回復する神の救いの御業が、イエス・キリスト様によって完全に成し遂げられたのです。だから、もはや犠牲を捧げるという必要はないと、ヘブル人への手紙を記した聖書記者は言うのです。
それは、イエス・キリスト様の救い主としての使命が終わったということを意味します。神の御子であるイエス・キリスト様が、神であられるのに人となる、これを神学の言葉で言いますと受肉と言いますが、神の御子が人として生まれ、人として生き、人として死んでいくという受肉によってなすべき業をすべてない終えられたのです。
その死の最後が、十字架の死であった。それは人として最後まで神に従順に従い抜いた姿なのです。
みなさん、私たちは、さきほど出エジプト記の24章1節から11節の言葉に耳を傾けましました。そこに記されている記事は、神さまがモーセに律法を付与し、イスラエルの民にその内容が知らされた後に、その律法が神様とイスラエルの民の間を結ぶ契約として結ばれたたときの出来事が記されています。
神さまは、ご自身がイスラエルの民の神となり、イスラエルの民に祝福と恵みをもたらしてくださることとを約束してくださいました。それに対して、イスラエルの民は、「わたしたちは主が仰せられたことを皆、従順に行います」と言って、祝福と恵みを約束してくださる神さまに応答します。
こうして神の約束に対して、自分たちが負う神への約束をもって、神とイスラエルの民との間に契約が結ばれるのです。そしてその契約の徴として燔祭と酬恩祭のために捧げられた犠牲の動物の血を、モーセは「見よ、これは主がこれらのすべての言葉に基いて、あなたがたと結ばれる契約の血である」といって、民に注ぎかけるのです。
みなさん、イスラエルの民は、「わたしたちは主が仰せられたことを皆、従順に行います」と言って神様に約束します。彼らは、その時、本気でそう思っていたのだと思いますし、私もそう信じたい。けれども、その後のイスラエルの民の歴史をみると、彼らが、「わたしたちは主が仰せられたことを皆、従順に行います」と言った言葉を、ちゃんと実行できているかというと、とてもそうとは思えない歴史を彼らは歩むのです。
これは憶測にしかすぎません。ひょっとしたら神様も、彼らが自分が語った言葉を守れないだろうということは、最初から分かっていたかもしれません。私たち人間は、完全に何かをやりこなすことなどできない弱さや欠点を持っているからです。そのようなイスラエルの民を、いえ、イスラエルの民に代表されるところの人間すべてを神さまは信じ、神の民としてくださるというのです。
みなさん、神さまは、イスラエルの民が神様を信じたから、イスラエルの民を信じたのではありません。まず、神さまがイスラエルの民を信じ、信頼して彼らと約束をしよう、神の子とする契約を結ぼうと言ってくださったのです。その神の信頼に応じて、イスラエルの民は、神を信じ神の民となったのです。
信仰は、私たちが神を信じることから始まるのでありません。神が私たちのことを信じてくださったということから始まるのです。あとは、その神さまの信頼に私たちがどうこたえていくかが問われていると言えるでしょう。
しかし、その私たちは、欠けの多い存在なのです。だからこそ、イエス・キリスト様という受肉した神が必要なのです。私たちが完全になることができないからこそ、十字架の死に至るまで、完全に神様に従い抜いた完全な人としてのイエス・キリスト様というお方が必要だったのです。
そのお方の十字架の死によって、「わたしたちは主が仰せられたことを皆、従順に行います」という神の民の約束が、完全に成就したのです、イエス・キリスト様によって。だからこそ、イエス・キリスト様は「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と言って息を引きとられたのです。
その様子を見ていた百人隊長が「神をあがめ、『ほんとうに、この人は正しい人であった』と言った」というのです。聖書には「その様子を見て」としか書かれていませんので、あたりが暗くなった様子なのか、神殿の幕がさせたことなのか、イエス・キリスト様が「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と言って息を引きとられた様子なのかは定かではありませんが、文脈からすれば、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と言って息を引きとられた様子であると考えるのが妥当だと思います。
そしてその様子は、穏やかな平安に満ちたものであっただろう、私は思うのです。もちろん、十字架に磔られていますから、肉体的な苦痛はあったでしょう。しかし、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と言う言葉は、自分がこの地上でなすべきことはすべてやり終えたので、あとは父なる神様におゆだねしますという、平安に満ちた響きを感じるのです。
当時のエルサレムでは、それなりに噂となり、話題となっていたと思われますから、この百人隊長も、イエス・キリスト様のことについては知っていたでしょう。そのイエス・キリスト様の最後が、なすべき業を成し遂げ、神さまにすべてをゆだねる、平安に満ちたものであった、だからこそ、「神をあがめ、『ほんとうに、この人は正しい人であった』」と言いうのです。そこには、神の栄光が現れ出ています。
みなさん、この神の栄光に、私たちも招かれています。そして、「神をあがめ、『ほんとうに、この人は正しい人であった』と言うイエス・キリスト様の平安に私たちを招かれているのです。
私たちが、神を信じ、イエス・キリスト様を信じて、このお方と日等に結び付けられるならば、神の栄光と死に直面してもなお、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と言うことができる主イエス・キリスト様の平安に、わたしたちも生きることができるのです。
そのことを覚えながら、十字架の上で「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と言って息を引きとられたイエス・キリスト様のお姿を想い廻らしたいと思います。静まりの時を持ちます。