2021年1月19日火曜日

アメリカ大統領選挙に関して日本の福音派の教会として

 アメリカ大統領選挙に関して日本の福音派の教会として

 昨年(2020年)のアメリカ大統領選挙に関して、様々な出来事があり、挙句の果ては、一部のトランプ支持者が、議会へ乱入するという出来事があり、それについては、日本のテレビ局等で報道されましたので、多くの方が周知のことかと思います。

 これらの報道に関して、トランプ支持者としてキリスト教福音派(あるいは福音主義)の名前がしばしば上げられています。しかし、キリスト教福音派の教会というのは、世界横断的に存在しており、当然、日本にも何も福音派の教会があります。しかし、この日本の福音派の教会は、必ずしもアメリカの福音派の教会と同じではありません。ましてや、アメリカの福音派が世界の福音派を代表しているわけではありません。世界に散在する福音派は世界福音同盟(略WEA:World Evangelical Alliance)という団体を組織しています。これは、世界各国の福音派の団体の緩やかな連合体であり、アメリカの福音派はその中の一団体に過ぎないのです。

 当然、アメリカ以外の福音派の教会がトランプ氏を支持しているというわけではありません。WEAが世界の福音派の団体の緩やかな連合体であったように、日本の福音派も日本福音同盟(JEA)という福音派の教会の緩やかな連合体を組織していますが、JEAがトランプ支持を打ち出したことは一度もありません。

 このように、日本の福音派の教会もまた、トランプ支持と言うことではありません。日本の福音派の教会の多くは、第二次世界大の際に、国が国策として宗教団体を統制していく中で、日本のキリスト教会もまた、無批判的に国と一体化して戦争を推し進めていった反省から、政治に対して、教会自身が何らかの立場を表明することは極めてまれです。
 
 もちろん、個々の政策においては意見を表明することもあります。しかし、基本的に政教分離の立場を大切にしております。したがって、教会が特定の政党を支持するとか、特定の人物を支持すると言うことは極めてまれで、ほとんどないといっても言いすぎることはありません。ですから日本においてはトランプ支持=キリスト教福音派という構造は成り立ちません。

 日本の福音派の中にいる人でも、個人的にトランプ支持という人もいるでしょうし、陰謀論や選挙に不正があったなどという人もいるでしょう。実際、そのようなことをインターネットで主張している人がいることも知っています。
 しかし、むしろ多くの福音派の牧師や信徒の方は、トランプ氏を支持していませんし、当然、陰謀論や選挙に不正があったなどという主張を信じてはいません。ましてや、暴力によって自分たちの主張を押し逃走とする姿勢は絶対に容認できないという立場の人たちの方が(少なくとも私の周り)ではほとんどです。
 実際、私たちの教会は、教会として決してトランプ氏を支持していませんし、教会に集っている個人のレベルでも、トランプ氏を支持する言葉を聞いたことがありません。ましてや陰謀論や選挙に不正があったなどという声も聴いたことがありません。
 またアメリカの福音派の中でも、全てがトランプ氏支持というわけではなく、トランプを支持しないという人も少なからずいるのです。

 個人が何を信じ、何を主張しても、それは「カラスの勝手でしょ」です。だから、勝手に言ってくださって結構ですし、それを押し止めるつもりも権威もありません。しかし、それはあくまでも個人の主張であって、キリスト教福音派の主張ではないのです。当然、キリスト教の主張というわけでもありません。つまり、クリスチャンである「その人の主張」なのです。だれも、その人をキリスト教福音派の代表としていませんし、日本の福音派の代表に立てているわけではありません。もちろん、そういう私の意見も、一人の牧師としての意見でしかないのです。

 仮に、政治的問題を聖書の文言に引き付けて、何かしらの主張をしている場合でも、それは、その人の聖書解釈によるもの、あるいは特定の神学的立場によってなされたものであって、神学的立場の違いや聖書解釈の方法論において異なった方法論に立つ人々にとっては、そのような解釈や主張は正当なものではないのです。むしろ、極めて特異な解釈であり特異な神学的立場であるとみられることも少なくありません。

 その意味で、インターネットでキリスト教の立場はこうですとか、聖書はこう言っていますとか、キリスト教の視点から、あるいはクリスチャンの視点からはこう言えますなどというものがあっても、それを鵜呑みにするのは危険です。その意味ではネットリテラシー(ネットの情報を判別し識別する力)が必要です。

 いずれにせよ、トランプ支持=キリスト教福音派というのは、極めて狭い一断面を切り出し、そこだけに焦点を当てたものですので、そのようなステレオタイプの理解は、必ずしも正しいとは言えません。

 

 


2021年1月3日日曜日

「この道の行き着く果て」

 

「この道の行き着く果て」

 

昔から、お正月に良く聞く川柳の中に「正月や、冥土の旅の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし」っていうのがありますよね。

お正月が来たことは、それはそれでおめでたいことなんだけど、一つ歳をとるということで、一つ寿命を削ったことになる。それを考えると、せっかくの、おとそ気分も、どこかに吹っ飛んでしまうという、まさに川柳の神髄をいくような句ですよね。

でもこれは、死というものが、あまりありがたくない、いや、むしろうとましいからこそ、川柳としてなりたつんですよね。もしも、死というものが、好ましいとはいわないまでも、決してうとましいものでなければ、「めでたくもなし」じゃなくなっちゃう。

もちろん、人は一度は必ず死ななければなりません。聖書にだって、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(へブル927)と書いてあります。

私たちの人生の果てに、死というものがあり、そしてその死後に、神によるさばきがあると聖書は言っています。このさばきとは、神によって私たちの罪が裁かれると言うことです。

罪というと、何やら犯罪を思い出して、そんな悪いことは、私はしていないから大丈夫だって思われるかも知れませんが、聖書が言う罪とは、単に悪いことをしたと言うだけではなく、心の中で人を憎んだり、ねたんだり、不道徳なことを思ったりすることも含まれています。

具体的な罪、犯罪や不道徳的な行為は、心の中の思いが形になって現れてきたものです。ですから、そのような行いとなって現れたものの根っこには、私たちの心の問題があるからです。そういった意味では、私たちは大なり小なり、すねにキズではありませんが、心に罪をもっていると言えるんじゃないでしょうかね。

そうだとしたら、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」という聖書の言葉が真実なら、やはり「正月や、冥土の旅の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし」ってことになってしまいます。

でも、必ずしもそうではないんです。なぜなら先ほどの聖書の言葉の後には「キリストは、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をもささげられました」と書いてあるからです。

これは、キリストが、私たちを縛り付ける罪から、私たちを解放するのだということなんですよ。ですから、私たちに対する神の裁きは、すでにおわってしまっている。このことを信じクリスチャンとなるならば、もはや神のさばきを恐れる必要がないのです。だから心配はいらない。 

私の知り合いに、突然、体の具合が悪くなって倒れ、救急車で運ばれた人がいました。その人は担架で運ばれる途中、心配そうに見守る家族や友人達に、人差し指で天を指して、Vサインをしながら、病院に運ばれていったんだそうです。 

間もなく、その人はおなくなりになったんですが、きっとその人は、自分が助からないって悟って、家族や友人に、「大丈夫だ。俺はキリストを信じてちゃんと天国に行くから安心しろ」って、そう伝えていたんでしょうね。それが、天を指さしてのVサインだった。

神を信じ、キリストを信じるときに、肉体の死はもはや忌まわしいものではなく、天国への勝利の凱旋の門出になる。そうなると、もはや「冥土の旅の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなしではなくなるんですね」 

「キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。」新約聖書へブル人への手紙926節の言葉です。