2019年7月20日土曜日

アガペーの愛


「アガペーの愛」

聖書にはこういう言葉があります。「妻たちよ、あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。教会がキリストに従うように、妻も、すべての事において、夫に従うべきです。」

なんだかこう言いうと、聖書っていうのは、時代錯誤の男尊女卑のように見えますよね。でも、そうじゃないんですよ。
というのも、夫には「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をささげられたように、あなたも自分の妻を愛しなさい。」ともいっているからなんです。
この「妻を愛しなさい」の「愛」という言葉は、新約聖書のもともとの言葉であるギリシャ語をみると、アガペーという言葉が使われています。

 アガペーという愛は、無償の愛と訳される言葉で、相手のことを思い、相手の為には何の報いも求めないで、自分の命までも与えてしまうような愛のこと。イエス・キリストが、人々の罪のために命を投げ出して死なれたその根底にあったのが、このアガペーと言う愛です。ですから、このアガペーの愛は、神様が人を愛する愛であると言えます。

キリストは、私たちが、神と人の前で、生き生きと生きて行けるようにと、十字架の上でご自身を捧げ、そして死んでいかれました。
それと同じように、「夫は、『自分の妻が生き生きと生きていけるようになるためには、自分の命を投げ出してもかまわない』というぐらいに、妻を愛さなければならないよ。」と聖書はそう言うのです。

そして、「夫から、そんなふうに愛されたら、妻たるあなたは、夫の言葉に耳を傾け、その言葉を聞いて従うことが出来るだろう?」って聖書はそう言うんですね。
それは、夫が一方的に妻を支配していた2000年前の時代に、「夫婦が愛しあうということは、どちらかが相手を支配することではない。本当に愛するとは、相手の事を思い、相手が生き生き生きられるようにしてあげることなんだよ」と教えるためだったのです。
でも、そう教えられたって、そう簡単にできることじゃないですよね。不可能って言ってもいい感じさえします。

ところが、この不可能に思われるようなことをキリストはして下さったんです。たとえば、人々から、蔑まれ、罪人といわれていたような人々の所に行って「子よ、あなたの罪は赦された」って、そういって一緒に寄り添い、食事をなさられたのが、キリストというお方です。
 そのような愛で、キリストはあなたを愛しておられるのです。そのキリストの愛にふれたなら、私のような者でも、キリストのようにまでは行かなくとも、少しづつでも人を愛せる者に変えられていく。そんな希望を持っているんです。

 ですから、この、あなたを愛しているというキリストの愛を、あなたにも知って欲しいってそうおもいます。そして、あなたの人生を実りある豊かなものにして欲しいってそう思うんです。

2019年7月11日木曜日

ヘセドの愛

「へセドの愛」

最近は、教会で結婚式を挙げる人が多いようですが、キリスト教式の結婚式のクライマックスは、なんと言っても「あなたは、相手の人が病気の時でも、健康な時でも、変わらない愛でこの人を愛することを約束しますか?」という互いに愛しあう約束を交わす場面ではないでしょうか。

 教会の結婚式で交わす愛の約束ですから、当然、その愛とは、聖書に書かれている愛ということになります。でもね、日本語の聖書で愛って訳されている言葉は、もともとの言葉ではいくつかあるということは前回もお話しました。
その中の一つは、先週お話したアッハァバという愛。なんだか良くわからないけど、でも「この人が好き」と言う理屈抜きの愛で、結婚するまではこのアッハァバの愛でもいいわけです。
 ところが、いざ結婚するとそれだけじゃ困る。そこでヘブル語のへセドという愛が登場するわけですが、このヘセドって愛は、契約の愛、約束の愛と訳されるような言葉です。
 契約の愛っていいますと、なにやら不純な感じがしますが、実はそうじゃない。へセドって愛は、「私はあなたを愛すると約束したから、どんなことがあってもその約束に忠実にあなたを愛し続けます。」という愛なのです。

神様は、人間がいとおしくていとおしくて仕方がない。だから、あなたが私の子となり、私の民となるという約束を結ぶならば、私もあなたを私の子、神の民として迎えることを約束しよう。そして、約束した以上は、何があっても、私はあなたを愛し続けるよというのがヘセドの愛で、これもまた、神様が人に注がれる愛なのです。

 結婚式で、牧師が「あなたは、この人が病気の時でも、健康な時でも、変わらない愛で愛することを約束しますか?」とたずねる時、それは、あなたは、この人がいとおしくていとおしくてたまらなくて結婚しようとしていますが、この人を伴侶とすると約束する以上、何が起ころうと、どんなことがあっても、この人を妻あるいは夫として、この人意外に妻や夫としての愛は与えません。」と言うことを約束しますかと訊ねているわけです。

 聖書には、神様とその神様を信じる人間の関係を結婚にたとえています。それは、神様は私たち人間がいとおしくていとおしくてたまらず、それゆえに、人間と永遠に何があっても変わらない愛で愛しあうような間柄になりたいと願っておられるからです。そして、「自分の命を投げ出すほどにあなたを愛するよ。いや、すでに、もう十字架にかかって命を投げ出している。だから、あなたは、私を信じ、私を愛する者になりませんか、さぁ、その約束をしましょう」と私たちに問い掛けておられるのです。そして、今、私たちがその問い掛けに答えるならば、神様は私たちに永遠に変わらない愛を注いでくださるのです。