2021年10月13日水曜日

薄いピンクの花束を真紅の花束へ

           薄いピンクの花束を真紅の花束へ

 昨日、今日の告別式に備えて、今ここにある生花が飾られました。それをみていると、色合いからでしょうか。私には何となく、Sさんのイメージにぴったりのお花が飾られたなと思いました。

 イメージというのは、漠然としたものです。しかし漠然としているからこそ、ずっと心の中に残っていきます。人間の記憶というものは、物事の詳細な部分まで正確に記憶し続けることはできません。最初は、いろいろなことが思い出されるでしょう。しかし、だんだんとそれらの記憶は薄れていき、最後はイメージだけが残っていく。

しかし、そのイメージは力強いものです。決して、私たちの心から消え去ることなく、いつまでも残っていく。きっと私は、このような薄いピンク色の花を見るたびに、Sさんのことを思い出すだろうなと思います。それほど、イメージというものは力強く私たちの心の中に残るのです。

 考えてみますと、聖書には、人間は神のイメージが刻み込まれていると記されています。それは、神様がイメージする「私たち人間が、いかにあるべきか」という神が思い描く人間本性であり、それは私たちが神ご自身に似たものとなるための神のイメージなのです。

 親は、子供に「こうあって欲しい」「このように育ってほしい」とかってにイメージを膨らませ、思い描きます。もちろん、必ずしも、それと同じようになるということではありませんが、親が子供の「こうあって欲しい」「このように育ってほしい」と思い描くそのイメージの背後にあるのは、子供の幸せを願う親の愛がある。

 神様が人間に、神のイメージを刻み込んだのは、まさに私たち一人一人が幸福になるようにと願う神の愛がそこにあるからです。しかし、現実の世界は、必ずしも幸せと感じられることばかりではありません。もちろん、幸せを感じる時もあるでしょう。しかし苦しいことや辛いことある。涙することも多くあるのです。

 ですから、私たちの人生は真紅のバラのようになりません。喜びのバラ色を涙が薄めて淡いピンク色にしていく。でも、見てください。この淡いピンク色に染まったこの花束は、何とも美しいではないですか。

 そしてその美しさは、私たちだけではない、神の目にも映っている美しさです。その美しさを見て、神様はSさんに、「よくやった。よく頑張って生き抜いてきたね」と言っておられるように思います。

 お気づきになられた方もおられるかもしれませんが、先ほどお読みしました新約聖書の箇所ヨハネの黙示録79節から17節は、実はSさんのご主人であられたKさんの告別式の際にもお読みした箇所です。旧約聖書のヨブ記1925節から27節も同じように、Kさんの葬儀の際に読んだ箇所です。

  私は、今日の子の告別式の式次第をどのようなものにするか、どの聖書箇所を世も上げたらよいか、いろいろと考えていました。その中で、Sさんのご主人のKさんの告別式はをどのように行ったのだろうかと思い、その時の式次第や式辞の原稿をもう一度、読み返していました。

 その時、Sさんが愛してやまなかったご主人の告別式と同じ式次第にしたらSさんは喜ぶんじゃないかなとそう思ったのです。もちろん、全く同じというわけにはいきません。聖歌の曲目も当然違いますし。構成も若干違っている。でも、聖書の言葉は同じものにしたのです。

 その聖書の言葉の新約聖書ヨハネの黙示録79節から17節の最後は、「御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」であります。

 神を信じて生きた者たちであっても、「この世」では涙することも少なくない。「この世には悩みが多い」(ヨハネによる福音書1633節)からです。だから、涙することも少なからずある。そして、そのような人生を私たちは生きる。

 しかし、私たちが死という死という深い眠りを経て、目覚めたときに、主イエス・キリスト様は、その涙する人生を生きた人々の目の涙を拭き、ぬぐいとってくださるというのです。

 涙が拭き去られる。みなさん、今、この目の前にある薄いピンク色の花束を薄いピンク色にしている涙の部分をすべて拭き去る時、現れ出るのは喜びの真紅の花束です。Sさんが、今の、この深い眠りから目覚め、よみがえったその時には、主イエス・キリスト様がその目の涙をぬぐい取ってくださり、喜びの真紅の花束に包まれるのです。

 死は深い眠りです。しかし、眠ったものは目覚めます。目を閉じ一度眠りに落ちたものが目坐寝る時、眠ったときから目覚める時まで、たとえその間に何時間たっていようと、目覚めたときにはその間の時間はすべて失われ一瞬のように思われます。そして、その失われたかのように思われる時間が、私たちを癒し、回復させ、再び立ち上がらせ、起き上がらせるのです。

 そのように、今、深い死の眠りにつかれたSさんが目覚め起き上がる時、それはSさんにとっては一瞬の出来事です。一瞬にして喜びの真紅のバラに包まれるのです。この式辞に後に賛美する新聖歌330番は、アイルランドの民謡のメロディに歌詞をつけたものです。

 日本語の題は「幸い薄く見ゆるとき」ですが、英語で歌われる際のタイトルは「You raisee up(あなたが私を立ち上がらせてくださる)」です。神が、Sさんをこの深い死の眠りからやがて再び主が来たり給う日に立ち上がらせくださる。そのことを覚え、後ほど賛美したいと思います。お祈りしましょう。

礼拝説教「義の冠が待っている」

 

主日礼拝(S姉告別)説教「義の冠が待っている」

 義の冠が待っている

旧約書:ヨブ記4211節‐17

福音書:ルカによる福音書617節‐26

使徒書:テモテへの第二の手紙4468

 

 今日の礼拝は、I修養生に奨励をしていただく予定でしたが、先日お祈りいただいていたS姉が、主の御許に召されたこともあり、急遽、予定を変更し、私が礼拝説教を担当させていただくことにいたしました。

 そして、今日の礼拝はそのS姉の棺を囲んで行われています。ですので、今日の礼拝は、S姉の告別礼拝という意味も含めた礼拝であることを、ご承知いただければと思います。その礼拝において私は、旧約書ヨブ記4211節から17節を、福音書はルカによる福音書617節から26節、使徒書としてテモテへの第二の手紙46節から8節から、聖書の言葉をお取次ぎしたいと思っています。

 

 そこで旧約書ヨブ記4211節から17節ですが、この個所は、ヨブ記全体の結末を告げる箇所です。そしてその内容は、神がヨブの人生の後半を神が祝福してくださったということを告げるものとなっています。

 このヨブ記に記されたヨブという人物の人生は、波乱万丈の人生です。ヨブの人生の人生の前半は、神の祝福を得て、経済的のも恵まれ、また多くの子供たちにも恵まれたものでした。ところが突然、その人生が全く逆転してしまいます。

 ある日ヨブは、外国から来た略奪者やあるいは自然災害によって、ヨブの持っていた財産、その当時は牛や羊と言った家畜や、使用人たちですが、そのすべてを失い、また子供たちもみんな失ってしまったと聞かされるのです。

 しかしそれでもなお、ヨブは「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」と言って、苦しみと悲しみの出来事に出会っても、その出来事に向き合い、前向きに生きて行こうとするのです。

 ところが今度は、そのヨブ自身が病に侵されるのです。そして、その病の中で苦しみぬくのです。そして「どうしてこのようなことが自分の身に起こるのか」を問う。その葛藤の中で、時に友人たちが、ヨブがこのような災難に会うのは、きっとヨブが何か罪を犯したために、その報いを受けているのだと責め立てます。

 またある時は、別の友人は、この試練は、神がヨブを訓練しているのだというようなことも言われる。もちろん、これらの友人の言葉は、悪意があってのことではありません。またそうではないと信じたい。しかし、その言葉がより一層ヨブを苦しめるのです。

 実は、このヨブが経験した苦難の背後には、思いもよらない理由がありました。それは、神とサタン、日本語では悪魔と訳される存在ですが、そのサタンと神とがヨブを巡って議論をしたという出来事です。悪魔は神に向かい言います。

「神様、あなたはヨブが立派な人間だ、見上げた信仰だと言われる。いや何ね。私は何もヨブが立派な人間でないとかいいかげんな信仰だなんていいませんよ。確かにヨブは立派な人間だ。見上げた信仰だ。

でもね、そりゃ神様、ヨブはあなたから祝福を受け、多くの財産が与えられ、守られているからでさあ。ヨブだって、財産のすべて、神様あなたが祝福してくださったと思えること全部を奪ってごらんなさい。たとえヨブと言えど、手のひらを返したように、あなたを呪いはじめるにちがいありませんぜ」

 「おやおや、サタンよ。言いたい放題言ってくれるね、だが断じてそのようなことはない。なんならヨブを試してみたらいい」。

 そんなわけで、ヨブの苦難が始まった。つまりこのヨブの物語は、ヨブの信仰の物語ではない。むしろ、神のヨブへの信頼の物語なのです。

 もちろん、当のヨブには、そんな話は知りえないことで、知ったところでそんなことは知ったところでなんにもならない。ただ「なぜなんだ。神を信じ、神と人も前に後ろ指を指されるようなことは一つもない私が、なんでこんな苦しみに会わなけりゃならないんだ。神様、いったいなぜなんだ」と問うしかないのです。その問いは、ヨブの魂の叫びであり、真実なそして神への叫び声なのです。

 私は、このヨブの物語を読むとき、S姉の人生の物語が重なり合ってくる。S姉は、高校生時代に神をラジオ番組「世の光」を通してキリスト教を知り、教会を訪ね、主イエス・キリスト様信じクリスチャンになられました。その後、教会を離れた時期もありましたが、心の中に信仰はしっかりと刻み込まれていたようです。

 そして、何十年かぶりに、彼女が洗礼を受けたこの教会の前身の一つである三鷹教会に戻ってこられた。私はその日の事、しっかりと覚えている。それこそ、今日の礼拝にS姉のお嬢さんが出席してくださっていますが、その時も、S姉と一緒に三鷹教会の礼拝に出席してくださっていました。私は、その時、お二人がどの席に座っていたか、またその時お嬢さんがはいていおられた長いブーツまで覚えています。

 しかし、それからのS姉の歩みは、本当に大きな試練の連続だった。それこそ大きな痛みと試練をいくつも経験したのです。けれども、その痛みや試練の中にあっても、神を信じ、前向きに歩んでこられたのです。

 そして、二人のお嬢さんが嫁がれ、お孫さんも与えられ、「さあ、これから」というときに、大きな不治の難病を患うことになった。また、大きな試練と苦しみに向き合わなければならなくなったのです。

 私は、正直に「神様なぜですか」と問わざるを得なかった。なぜ、この人がこんなに苦しまなければならないのか。「なぜ!、なぜ!!、なぜ!!!」。

 

みなさん、私は先ほど、このヨブ記の物語が、S姉の人生の物語に重なり合って見えると申し上げました。しかし、この点だけは違うと言えるものがある。それは、ヨブは試練の中で、神につかみかからん迄に問いかけ、「神様、私はあなたと議論がしたい。なぜ、私がこんな目に合わなければならないのですか」とそういった。

 

 ヨブは神を呪うことはしませんでしたが、神様に激しく問うたのです。「神様、あなたは間違っている。何か間違っているのではないですか」と問い詰める。。

 

 しかしS姉は、ご自分が経験した様々な試練や苦しみの中でも、神に対してつぶやくことなく、前向きに生きようとしておられたし、前向きに生きてきた。いやひょっとしたら、私の知らないところで、ちょっとぐらいはつぶやいたのかもしれませんが、でも、本当に前向きに生きておられたのです。頑張りぬいたのです。この点はヨブとは違う。

 

 ヨブは神に「神様、私はあなたと議論がしたい。なぜ、私がこんな目に合わなければならないか」と問い詰める、そのヨブに対して神は「ヨブよ、お前は知っているか?」と語り掛けるのです。

 

「ヨブよ、おまえは知っているか? お前はこの世界が、宇宙がどのように始まり、造られたのか。おまえは海の底を見たことがあるか。世界の果てまでいったことがあるか。知らないことだらけだろう。不思議なことだらけだろう。

でも、おまえが知らなくても、この宇宙・世界を私は造り、その宇宙や世界は今も存在している。私は、そのおまえが知らない天地創造の時からこのかた、その宇宙・世界と共にあり、私が作ったこの世界を守り宇宙を守ってきた。だとすれば、おまえが苦しんだその苦しみの理由をおまえが知る必要はない。お前が知らなくても、私はちゃんと知っている。そして私はおまえ守り、おまえと共にいる。」

 その時ヨブは、本当に心の底から神を信頼したのです。そして、ヨブを信頼してくださっている神に、ヨブもまた信頼をもって答えようと思った。そのことを聖書は次のようなヨブの言葉で表しています。ヨブ記4256節です。そこにはこう記されている。

 

5:わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。6:それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います」。

 こうして、ヨブは、先ほどお読みしました4211節から15節あるように、試練や苦しみに会う以前に増して、多くの神の祝福を得たというのがヨブの物語なのです。

 しかし、みなさん。みなさんもご存じのように、S姉は、ヨブが生涯の残りの半生に受けたような祝福をまだ得てはいません。それはつまり、S姉には、神からいただく大きな祝福を受ける残りの半生が残っているということ意味しています。これから受けるのです

 みなさん、ルカによる福音書の著者であるルカは、イエス・キリスト様の言葉を次のように伝えています。

20:あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである21:あなたがたいま飢えている人たちは、さいわいだ。飽き足りるようになるからである。あなたがたいま泣いている人たちは、さいわいだ。笑うようになるからである。22:人々があなたがたを憎むとき、また人の子のためにあなたがたを排斥し、ののしり、汚名を着せるときは、あなたがたはさいわいだ。

この言葉は、マタイによる福音書53節以降にある山上の垂訓の中の八福の教えと同じものです。しかし、マタイのよる福音書は、心の貧しい人たちは、さいわいである。神の国は彼らのものである」と記しています。つまり、マタイは、イエス・キリスト様の言葉を精神的な問題としてとらえた。心のありようとして受け止めたのです。

 ところがルカは、「貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである」と言う。「あなたがたいま飢えている人たちは、さいわいだ。飽き足りるようになるからである」と言う。ルカにとって、問題は今生きる私たちの現実なのです。その現実の世界は、苦難や苦しみに満ちている。その現実の苦難や苦しみの中に生きる人々に、イエス・キリスト様は、神がもたらされる神の恵みを語った。

 そして返す言葉で、「24:あなたがた富んでいる人たちは、わざわいだ。慰めを受けてしまっているからである。25:あなたがた今満腹している人たちは、わざわいだ。飢えるようになるからである。あなたがた今笑っている人たちは、わざわいだ。悲しみ泣くようになるからである」というのです。

 それは、まさに現実の世界の中で悩み苦しむ者と共に神はおられるからです。そして、そのこの世での苦しみは、私たちの人生の前半の半分で、その前半が終わった後、やがて訪れる神の王国の完成の時に与えられる残りの半生に得ることのできる神の祝福なのです。

 だからこそ、今、「この世」で祝福を得ていると思っている富んでいる人、満腹している人、笑っている人を「災いだ」というのです。それは、富や満足のゆえに、神を求める気持ちを忘れてしまっているからです。

 昨夜、妻がテレビを見ていて、小説家の遠藤周作が「神も仏もない」というようなところに立って、初めて私たちは本当の宗教をもとめるようになると言っていたと教えてくれました。「神も仏もない」というような苦しみの中で、私たちは初めて、本当に神を求め、神に出会い、神を信じ、神に寄り縋って生きる。遠藤周作は、そう言っているのです。

 そして、S姉の人生も、試練や苦しみの中から、神を求め、神を信じ、神に寄り縋った人生でした。その人生には、パウロが言う神が与えたもう「義の冠が待っている」。それは、やがてこの死という深い眠りから目覚めたときに与えられる残りの半生に、満ち溢れれている祝福なのです。

 みなさん、この「義の冠」は、私たち人ひとりにも備えられているものであり、私たちにも与えられるものです。そのことを覚えつつ、いましばらく沈黙の時を持ち、神の恵みを思いましょう。静まりの時を持ちます。目を閉じ、静かに今日、神があなたの心に語り掛けてくださったことに思いを馳せましょう。