2020年6月第四主日礼拝説教
「渇きに潤いをもたらす水」
旧約書:詩篇1篇1節から3節
福音書:ヨハネによる福音書4章1節から15節
使徒書:ヨハネによる黙示録21章1節から8節
今日の礼拝説教の中心となる箇所はヨハネによる福音書の4章1節から15節ですが、この個所は、4章1節から31節までのあるイエス・キリスト様とサマリアの女性の物語の前半部分になります。
そののイエス・キリスト様とサマリアの女性の物語の中心は、今日の前半部分というよりも、むしろ後半部分にあり、その主題は礼拝ということであろうと思われます。そういった意味では、このヨハネによる福音書4章1節から15節は、この物語の中心ではないと言えます。
しかし聖書の面白いところは、その中心ではないところ、主題でない部分にも学ぶべき物語があると言うことです。ですから、この4章1節から15節のイエス・キリスト様とサマリアの女性との間のやり取りの中にも、一つの物語がある。では、その物語りは何かというと、渇きとそれを潤す水の物語です。この渇きは、肉体の渇き、いうなれば生理的な渇きだけでなく、人生の渇き、魂の渇きでもあります。では、その渇きを潤す水は何か。それをこのヨハネによる福音書4章1節から15節の物語は、私たちに教えるのです。
物語は、サマリアの地から始まります。イエス・キリスト様の一行はバプテスマのヨハネより多くの弟子を作り、洗礼を授けていました。そのことは、このイエス・キリスト様とサマリアの女も物語の前に記されていることです。
そして、そのことパリサイ派の人々の耳に入ったことを知ったイエス・キリスト様は、ユダヤ地方を去りガリラヤに向かいます。このユダヤ地方というのは、エルサレムの南西に広がる地方で、死海があるあたりです。それに対して、ガリラヤは、エルサレムを北にあるガリラヤ湖を有する地方です。そのユダヤ地方からガリラヤに移動するには、直線距離にするとざっと150kmぐらいです。。
当時のイスラエルの国は南北に190kmぐらいであったと言いますから、このときイエス・キリスト様は、イスラエルの国をほぼ縦断するような距離を、ユダヤ地方からサマリア地方を通り、ガリラヤへ向かって歩いていたことになります。。
みなさんもご存じのように、イエス・キリスト様の時代には、ユダヤ人とサマリア人は決して仲が良いとは言えない関係でした。言わば、渇き切った関係です。ですから、本来ならサマリアを通らずにガリラヤの向かいたいところですが、そのような道を行きますと、サマリア地方通って行く道の倍近くかかったようです。しかし、イエス・キリスト様はサマリアを通る最短ルートを選ばれた。きっと急いでおられたのでしょう、
このようにイエス・キリスト様がそのように急がれたのは、パリサイ派の人々が、イエス・キリスト様がユダヤ地方で洗礼を授けていると言うことを知ったからであろうと思われます。と申しますのも、ヨハネによる福音書の3章25節には、バプテスマのヨハネの弟子とユダヤ人の間で清めのことで論争があったと記されているからです。バプテスマのヨハネは、罪を洗い清めるための洗礼を授けていました。そのバプテスマのヨハネの弟子とユダヤ人の間に清めの論争があったというのですから、おそらくその論争は、洗礼を巡っての議論であったと思われます。
つまり、そのような論争と対立とに巻き込まれないように、イエス・キリスト様は、足早にユダヤの地を去って、サマリアの地を通り、イエス・キリスト様と弟子たちの故郷であるガリラヤ後に向かったと思われるのです。そして、その道のりの途中であるサマリアの地で出来事が起こった。それは、イエス・キリスト様の弟子たちが食べ物を買うために町に出かけて行き、イエス・キリスト様がひとりで町はずれにおられたときのことです。そこに一人の女性が水を汲みに来た。水を汲みに来たというのですから、おそらくイエス・キリスト様は井戸の傍らで弟子たちを待っておられたのでしょう。
その女性に、イエス・キリスト様は声をかけた。
イエス・キリスト様:「もしもし、そこのご婦人。すみませんが、私に水を飲ませてくだいませんか」
声をかけられた女性は、イエス・キリスト様を見て怪訝に思います。イエス・キリスト様の風体をみると明らかにサマリア人とは犬猿の中にあるユダヤ人と思われる。そこで、サマリアの女性は
サマリアの女性:おやおや。ユダヤ人のあなたがサマリア人の私に
水をもませてくれだなんて、
私たちサマリヤ人とあなた方ユダヤ人が仲が悪いのは
ご存じでしょう。そのサマリヤ人の私に
いったいどうしてそんなことを頼むのですか。
と答える。するとイエス・キリスト様は
イエス・キリスト様:なるほど、あなたが不思議に思うのももっともだ。
確かに私たちユダヤ人とサマリア人とは、
仲が悪く互いに交流もない。
だが、もしあなたが、神様が与えてくださる恵みが
何であるかを知っていたら、
そしてあなたに『水をください』と言ったこの私が
誰であるかを知っていたら、
あなたの方から、この私に生ける水をくださいと願い求め、
それをもらうことができたでしょう。
そう言われてサマリアの女性
サマリアの女性:生ける水をくださるですって。失礼ですがお見受けしましたところ、
あなたは水を汲むものを持っていらっしゃらない。
しかし、この井戸は深いのです。
どうやって、その生ける水とやらを手に入れるのですが。
それにねえ、自慢じゃないのですが、
この井戸は私たちの先祖のヤコブが与えてくれた井戸ですよ。
ヤコブと言えば、もう遠い昔の人。そんな昔から、この井戸は
枯れることなく、
私たちののどを潤してくれているありがたい井戸なんですよ。
あなたは生ける水をくださるですっておっしゃいますが、
あなたはヤコブよりお偉い方なんですか。
どうも、このサマリアの女性の言葉には、少々険がある。しかし、イエス・キリスト様はそんな険のある態度など一行に気に解せず
イエス・キリスト様:そうです。確かにこの井戸は、
私たちの先祖ヤコブが与えてくれた井戸です。
でも、いくら井戸が由緒ある井戸でも、
この井戸から汲んで飲む人は、必ずまた渇く。
だからなんどでも水を汲みに来るのでしょう。
でもね、私が与える水を飲むものは、決して渇かないのです。
だって、私が与える生ける水は、その人の内で泉となり、
永遠の命に至る水が湧き上がるのですから。
そう言われて、サマリアの女性は、「主よ、わたしがかわくことがなく、また、ここに汲みにこなくてもよいように、その水をわたしに下さい」と言ったと、聖書にはそのように記されています。
しかし聖書の文字を読むだけでは、このサマリアの女性が、真摯な態度で「主よ、わたしがかわくことがなく、また、ここにくみにこなくてもよいように、その水をわたしに下さい」とイエス・キリスト様に願い求めたのか、「そんなものあるなら、実際に私に見せて、与えてみなさいよ」と皮肉たっぷりに懐疑的な態度で言ったのかはわかりません。そこは想像するしかないのです。
ただ私は、その後に続く、4章16節以降のやり取りを見ますと、まだこの時点では、このサマリアの女性は、イエス・キリスト様の言われた「生ける水」という言葉の真意を理解していなかったと思いますし、また、イエス・キリスト様がどのようなお方であるかについて、理解していなったろうと思うのです。ですから、おそらく皮肉たっぷりに懐疑的な態度で言ったのだろうと思います。
実際、ここに至るまでのイエス・キリスト様とこのサマリアの女性のやり取りは、かなりチグハグでかみ合わない会話になっています。その原因が、このサマリアの女性が、イエス・キリスト様が言われた生ける水が、のどの渇きを潤す水、つまり物質的な水のことだと思い込んでいるからです。
しかし、それもやむを得ないことかもしれません。そもそも、このイエス・キリスト様とサマリアの女の会話は、イエス・キリスト様が、このサマリアの女性に「水を飲ませて下さい」と言われたことに端を発しています。聖書は、その出来事は昼の12時頃であったと言いますから、イエス・キリスト様は本当に喉が渇いていたのだろうと思います。だから、このサマリアの女性に飲み水を求めた。
話が、そのような所から始まっていますから、当然、このサマリアの女性はのみ水の話だと思ってもしかたがありません。おまけに、生ける水という言葉は、同時のユダヤ・サマリヤの人々にとっては、どこかに溜まった水ではなく、泉からこんこんと湧き上がる水、あるいは流れる川の水を指す言葉でした。そして溜まって流れのない水は死んだ水と呼ばれていた。溜まって流れのない水は、腐っていき飲むことができないからです。
そのような中で、イエス・キリスト様の言葉を誤解しても仕方のないことなのです。しかし、それでもなぜ、サマリアの女性に「水を飲ませて下さい」と言われたイエス。キリスト様が、突然、「もしあなたが神の賜物のことを知り、また、『水を飲ませてくれ』と言った者が、だれであるか知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう」と言ったのか。
もちろん、それは水を飲ませてくださいと言ったイエス・キリスト様に、サマリアの女が「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリアの女のわたしに、飲ませてくれとおっしゃるのですか」と言ったからです。そしてそこには、ユダヤ人とサマリア人の間にある深い溝がある。
その溝がどうして売れたのかを話し出しますと長くなりますので、今日は割愛しますが、ともかく、長い歴史の中で、ユダヤ人とサマリア人の間には確執が生み出だされ、それが不和を生み出し、偏見を生み出し、そして断絶を生み出している。
その偏見と断絶が、イエス・キリスト様を拒絶させている。しかし、イエス・キリスト様は、彼女に近づいている。歩み寄っているのです。だから、このサマリアの女性に声をかけ話しかけている。当時のイスラエルの民の中にあって、ラビと呼ばれる宗教的指導者が女性に話しかけると言うことはなかったそうです。話しかけているところを見られると、どんなに名声のある人でも、その名声は地に落ちてしまったのだそうです。しかも相手は、ユダヤの民とは不仲なサマリアの女性なのです。
そこには、いざこざや争、そして敵対心をも乗り越えて、和解の出来事を取り除く和解の出来事、ユダヤ人であろうとサマリア人であろうと、敵対する者であっても、分け隔てなく救いの出来事をもたらそうとするイエス・キリスト様の姿を見ることができます。
断絶してしまった関係、それは、まさに死んでしまった関係です。関係における死、聖書によれば、それは断絶なのです。神と人との関係の断絶、人と人との関係の断絶、その死んでしまった関係を生きた関係に回復させる業、それがイエス・キリスト様の救いの業なのです。
その生きた関係への回復は、神と人との関係においては、私たちに永遠の命という神の命を与え私たちを神の子とします。そして、人と人との関係においては、互いにむつまじく愛し合い支え合う関係を生み出すことなのです。それが、死んだ関係ではなく生きた関係です。
イエス・キリスト様は、そのような神を信じる者の生きた関係、生きた生き方へ、偏見と敵愾心によって壁が作られた死んでしまったような水の中に留まっているサマリアの女性を導こうとしておられる。だから、滾々と湧き上がる泉から、滔々と流れ出る生きた水を与えると言うのです。
みなさん、先ほどお読みした旧約聖書詩篇1篇の2節3節は、協会共同訳聖書の訳では
主の教えを喜びとし、その教えを昼も夜も唱える人。その人は流れのほとりに植えられた木のよう。時に適って実を結び、葉も枯れることがない。その行いはすべて栄える。
となっています。そこには神と結び合わされ、神の教え、神の言葉御耳を傾ける人は、滾々と湧き上がる泉の生ける水、豊かに滔々と流れる生ける水をその根から吸い上げ、その葉もかれることのない命の中で、豊かな実を結ぶものとなって生きる者となると述べられている。
荒野という水のない荒涼とし、渇き切った風景を背負ったユダヤの人々やサマリアの人々にとって、尽きることのない泉や川の流れは、まさに命を与え豊かな実りをもたらすものの象徴です。そのような、豊かないのちのある関係を、渇き切った神と人との関係に、また人と人と関係にもたらそうと、イエス・キリスト様はこのサマリアの女性を招き、また私たちを導いておられるのです。
そういった意味からいえば、生ける命の水に与ること、それがイエス・キリスト様がもたらす救いだと言えます。まただからこそ、先ほどお読みしました黙示録21章の6節7節では
事はすでに成った。わたしは、アルパでありオメガである。
初めであり終りである。
かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。
勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐであろう。
わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる
というのです。
みなさん、死は悲しみをもたらし、痛みをもたらします。神と人との関係が、人と人との関係が死んだ水の中に留まり続ける限り、そこには涙という実を結んでいく。しかし、いのちの泉から湧き上がる生ける水を飲むときに、神は「人々の目から涙なみだを全まったくぬぐいとって下くだる。もはや、死しもなく、悲かなしみも、叫さけびも、痛いたみもない。先さきのものが、すでに過すぎ去さったからです」という事態を私たちにもたらしてくださるのです。
その生ける水をくみ上げ、それを飲む者、それはイエス・キリスト様を信じる者です。その人には神と人と、人と人との関係に和解という喜びという豊かな実りが訪れるのです。イエス・キリスト様は、その神と人との和解、人と人との和解という喜びの実りにサマリアの女性を、そして私たちを導いておられる。ぎずぎすした関係に潤いをもたらす、新しい関係に私たちを導いておられるのです。そのことを心に思い描きつつ、しばらく心を静めて、神を思いう静まりの時を持ちましょう。