2024年2月28日水曜日

あたりまえが嬉しくて

  最初に新約聖書ペテロの手紙第Ⅰ・五章七節の言葉を記します。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配して下さるからです。」

この、聖書の言葉は、神を信じ、神により頼んで生きることの大切さを私たちに教えています。それは、神が私たちの事を心にかけ、私たちのことを心配して下さっているからです。だからあんまり心配しなくていいよというのです。

ずいぶん昔の話ですが、ある方が、こんなこと言っていました。「今まで自分が当たり前のことのように思っていたことが、実は神様の大きな恵みであったと言うことに気が付きました。そう思うと、毎日の生活の中には、感謝することが一杯あるんですね。」
 その方は、当時まだ二十歳そこそこの、可愛らしいお嬢さんです。実は、彼女のお父さんが、不慮の事故に会い、生死の境目を通ったんですね。幸い一命は取り留めました。でも、助かったあとには、厳しい現実がまっていました。というのも、お父さんは、事故の影響で寝たきりになってしまい、障害が残り十分に言葉を交わすことが出来ない状況になってしまったのです。
 それこそ、一家の大黒柱が倒れたのです。生活の不安もあったでしょう。また、話しかけても反応も無い、意思の疎通もままならない中での看病が続いたのです。ですから、不安やあせりといった様々な思いで、心が思い煩うことのあっただろうと思うので¥

 でも、そんな厳しい看病を続けていく中でも、お父さんの少しの変化、すこし表情がでてきたとか、チョットだけ手を動かせるようになったといったことが、彼女にはとても嬉しかったそうです。そして、私たちが何気なくしている字を書くとか、話をするとか、呼吸をするといったことが、本当は素晴らしい事なんだって気づいたそうです。
 そしたら、普通に生きていることが、実は神の大きな恵みなんだと思ったって言うんですね。平凡な毎日の生活の中で、私たちと共にいて守り支えて下さっている神に気づいたんです。そのことを、話すお嬢さんの顔は、笑顔で本当に輝いていました。

もちろん、生活の中に不安や恐れ、思い煩いと言ったことが全くないというわけにはいかないでしょう。けれども、私たちが、一日一日を生きていると言うことの中にある神の恵みに気付いたならば、その神の恵みが、不安や恐れ、思い煩いを包み込んでくれます。その平凡な生活の中にある神の恵みに気付いたならば、私たちは、一日一日感謝をしながら生活できるだろうと思うんです。彼女の笑顔がそれを証明しています。

 一日一日を感謝して過ごせたら、すばらしいですよね。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配して下さるからです」と言われる聖書の神は、あなたを、そのような感謝しながら生きることの出来る人生に導いておられます。ですから、どうぞ、この神を、あなたにも信じていただきたいのです。

2024年2月27日火曜日

人を惜しむ神

 人を惜しむ神

旧約聖書にヨナ書というのがあります。このヨナ書には、ヨナという預言者が、ニネベの町に神の言葉を伝えた出来事が書かれています。ニネベはアッシリアと呼ばれる、紀元前の中近東にあったの首都だったのですが、このアッシリア帝国は、冷酷で暴虐な国で、周りの国々を侵略し、人々を虐げたり奴隷にしたりいました。ですから、周囲の国々からは恐れられていましたし、嫌われても居ました。まっ、悪の帝国って感じですかね。

 そんなわけで、神はこのアッシリア帝国の首都であるニネベを滅ぼそうとお考えになったのです。それで、ヨナに「ニネベの町にいって、神があなた方が犯した悪のために、四十日後に、この町を滅ぼされる」とそう伝えなさい。」とそうお命じなさったのです。
 ヨナはイスラエルの人です。イスラエルの国にとってアッシリアという国は大敵です。そんなわけで、ヨナは、如何に神の命令であっても、ニネベの町に行きたくありませんでした。そこですったもんだがあったのですが、結局、神に命令に従ってニネベの町に行くことになりました。このすったもんだの話も、実におもしろいものですので、是非、聖書を手にとってお読みただければと思いますが、とにかく、ヨナはニネベで「あなた方が犯した罪のために、神は、四十日後に、この町を滅ぼされる。」と告げ知らせました。

 ヨナは、ニネベの人たちに神の裁きを伝えた後、丘の上に座り込んで、神の裁きが下されるのを見ようと、じっと見守っていました。あんな冷酷で暴虐の限りを尽くしてきた国の人間なんてみんな滅んでしまえばいいって思っていたからです。ところが、いくら待ってもニネベの町に神の裁きは下されません。実は、ヨナが伝えた神の裁きの話を聴いて、ニネベの町の人たちは、自分の犯した罪を恥、悔い改めたのです。それで、神はニネベの町を滅ぼすのをおやめになったのです。憐れまれたんですね。

 でも、あんな冷酷で周りの国に迷惑をかけた連中なんて滅んでしまうべきだと思っているヨナの腹の虫は収まりません。それで、ヨナは神に食ってかかるんですね。「なんでアッシリアの人々のことを滅ぼさないのか。何であんな奴らに憐みを書けるのか」と言った感じだったでしょう。そんな、ヨナに、神は自分の心の内をお話しになります。神はどんなに悪人であっても、その一人一人を惜しんでおられるというのです。だから、ニネベの町にいる一人でも失いたくなくて、ヨナを送って、神の裁きを伝えさせたのです。そうやって、ニネベの人たちが、罪を悔い改め神に立ち返ることを期待なさったのです。

 惜しむ心、それは大切に思う心です。神は、ニネベの町の人たち大切に思っていたのでそのように、ニネベの人たちを大切に思い、惜しむ神の心には、ニネベの町にいる一人一人の顔が思い浮かんでいたんだろうと思います。この人を惜しむ神の心には、ニネベの町の人たち同じように、あなたの顔が思い浮かばれています。神は、あなたのことを大切に思っているのです。だから、決してあなたを失いたくないと思っておられるのです。

 私たちはニネベの人たちのように冷酷で悪い人ではないかも知れません。でも、何らかの形で周りの人たちに迷惑をかけたり、嫌な思いをさせていることもあるだろうと思います。そんな私たちのことを、大切に思い、心に欠けていて下さっているのです。
 ニネベの人たちには、ヨナが遣わされました。ヨナを通して神の裁きの言葉が伝え、ニネベの人たちに罪を悔い改めさせ、神に立ち返らせようとしたのです。

同じように、今日の私たちには、教会が遣わされています。そして、聖書があります。聖書は、神の言葉です。神は、聖書を教会にお託しになり、私たちの大切に思い、私たちの罪を赦そうとする神の言葉を語らせておられるのです。ですから、ぜひ教会に行って、教会に託されたあなたを大切に思いっておられる神のメッセージに耳を傾けていただきたいと思います。もちろん、わたしたちの教会に来てくださるのであれば、大歓迎です。

2024年2月26日月曜日

崩れ落ちた神殿

 新約聖書のマタイによる福音書24章1節2節にこういう話が出ています。それは、イエス・キリスト様がエルサレムにある神殿に行かれた時の話です。イエス・キリスト様はその立派な神殿を見て、こう言われたのです。

「この神殿の石の一つでもくずされずに、そこに他の石の上にのこることもなくなるであろう」

 この言葉は、エルサレムの神殿が、全て破壊されるであろうという預言です。そして、その預言通り、紀元七十年にエルサレム神殿はローマ帝国によって、粉々に壊されてしまったのです。けれども、この言葉は、単に歴史的出来事をイエス・キリスト様が預言し、そしてそれが成就したと言ったことだけを私たちに教えるものではありません。もっと大切なことを教えてくれていると思うんですね。それは、目に見えるものに頼よるのではなく、神に頼らなければならないと言うことです。

 エルサレムの神殿は、ユダヤの人にとっては、自分たちが神の民であるということの証であり、誇りでもありました。また、当時のユダヤの人々はエルサレムに神殿がある限り、自分たちは大丈夫だと思っていたようです。そういった意味では、神殿が自分たちの民族がよって立つ、より頼むべき存在になっていたのです。
 けれども、そのより頼む神殿も、もともとは人の手で作られたものに過ぎません。人の手で作られた形あるものは、いつかは壊れてしまう儚いものです。ですからキリストは、神殿が破壊される預言を通して、「人が作り上げた目に見えるものに頼らず、目には見えないかも知れないけれど、神を信じ、神に頼らなければならないよ」と言うのです。

 現代の日本に生きる私たちは、エルサレムの神殿を頼って生きているわけではありません。けれども、もっと違った形で目に見えるものに頼っているのではないでしょうか。例えば、お金です。お金さえあれば大丈夫だといった、お金信仰みたいなものが、心のどこかにないだろうかって思うんですがどうでしょうか。
 けれども、そういったお金によりたのみ、お金を第一にする社会が、決して住みよい社会ではないということは、最近の世相をみれば、あきらかです。それじゃ、「誰か頼るべき人を見つけて、「といっても、人間の心だってあてにはなりません。それじゃ国といっても、その国はもっと頼りになりません。

 だからこそ、神を信頼し、神を頼りなさいというのです。神は永遠の存在です。そして真実なお方です。ですからいつでも、どんなときでも変わらない確かなお方なのです。この神が、あなたのことを顧みて下さっているのです。

 ですから、私は「あなた」に、ぜひこの神を信じ、この神を信頼して頂きたいと願います。このお方こそが、私たちが生きていくうえで揺るぎのない土台なのです。旧約聖書の中に次のような言葉があります。

 「恐れるな、わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手であなたを守る。」

旧約聖書イザヤ書41章10節にある、永遠に真実な神の約束の言葉です。

2024年2月25日日曜日

24年2月第四主日礼拝説教「神の歴史に参与する人々」

 24年2月第四主日礼拝説教「神の歴史に参与する人々」     2024年2月25日

旧約書:ゼカリヤ書9章9節、10節
福音書:ヨハネによる福音書12章1節から20節
使徒書:ピリピ人への手紙2章1節から11節

今朝の聖書箇所は、先週の礼拝説教と同じヨハネによる福音書12章1 節から20節までですが、先週はラザロの姉妹であるマリアという女性が、イエス・キリスト様の足に高価な香油を塗り、自分の髪の毛でそれをぬぐい取ったという出来事の意味と意義に目を止めて、お話をさせていただきました。
 そこでお話しさせていただいたことは、このヨハネによる福音書を記した聖書記者は、しばしば、取りあげたエピソードや言葉に二重の意味を持たせて福音書を書いてており、このマリアという女性が、イエス・キリスト様の足に香油を注いだという行為にも、二つの意味があるということでした。
 一つは、ご自身の死を予感なさっていたイエス・キリスト様が言われたように、イエス・キリスト様の葬りのために油注ぎだということです。そしてもう一つの隠された意味が、神の王国の王に就任するための油注ぎの儀式です。そしてその王に就任する油注ぎの儀式は、イエス・キリスト様のエルサレム入城の出来事と密接に関わっているのです。すなわち、イエス・キリスト様は、油注がれた王(この油注がれた王ということを、ヘブル語ではメシア、ギリシャ語ではキリストという)として、神の都に入城なさったのです。

 そのエルサレム入城の様子が、今日の聖書箇所の後半部分に記されている部分です。そして今日の礼拝説教は、そのエルサレム入城という出来事に焦点をあてたいと思っています。そこでエルサレム入城ですが。イエス・キリスト様はエルサレムに子ロバにのって、人々が「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるようにイスラエルの王に。」と歓喜の声をもって出迎える中、木の枝が敷き詰められた道を通って、エルサレムに入城します。
 この「ホサナ」という言葉は、ヘブル語で「おお救い給え」という意味であると言われます。ですから、この「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるようにイスラエルの王に」という言葉から、人々は、イエス・キリスト様に、自分たちを支配しているローマ帝国から解放し、救い出し、ローマ帝国に代わって世界を支配しるイスラエルの王国の王としてダビデの王家を復興することを期待し、迎え入れていることがわかります。
 しかし、実際のイエス・キリスト様は子ロバに載ってやってくるのです。しかも、イスラエルという民族だけの王としてではなく、世界の王として来られたのです。しかし、世界の王が、なぜ子ロバなのでしょうか。

 それについては、多くの注解者や説教者によって語られるように、イエス・キリスト様は平和の王としてこの世界に来られたからだと言えるでしょう。けっして、武力や力で神の王国を打ち立て、権威と力で神の王国を支配するためではないのです。そのことをあらわすために、イエス・キリスト様は子ロバに乗ってエルサレムに入城なさったと言えます。
 子ロバは、力の弱い、無力な存在です。イエス・キリスト様はそのような無力で力ないものとしてエルサレムに入城なさる。そしてそれこそが、平和をもたらす王の姿なのです。

 みなさん、先日私は、クリスチャン新聞から、韓国の李信健という神学者が書いた『こどもの神学―神を「こども」として語る』という本の書評を書いてくれないかという依頼を受け、早速、その『こどもの神学』を読み、先日,800字ほどの短い書評を書いて、その原稿を送りました。
 この本の優れたところは、古代から現代にいたるまで社会の構造は父権主義に基づく男性社会における力と権力によって支配されている世界であることを明確に指摘している点にあります。そして、もし神さまが、神さまの全知・全能の力を発揮して、力でこの世界を支配する支配者を打ち破り、力と神の権力によってこの世界を支配するならば、人間は、相変わらず力と権力を求めて生きていく。だからこそ、神さまは、弱く力もなく、権力を持たず、子ロバに乗ってエルサレムに入城し、十字架の上で殺されていくイエス・キリスト様を通して、ご自身を弱く、権力のなく、無知な子どもの顔としてご自身を表すのだというのです。それこそ、先ほどお読みしました新約聖書へブル人への手紙2章の言葉に

6:キリストは,神の形でありながら,神と等しくあることに固執しようとは思わず7:かえって自分を無にして、僕の形をとり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8:へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで、従順でした。9:このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名を、お与えになりました。

とありますように、神の御子が、神であられることに固辞するのではなく、へりくだって人となり、十字架の死を経験することで、私たちの経験する試練や苦しみを負ってくださったのです。

 そのキリストは「自分を無とせられた」と在ります。それは「キリストの謙卑(けんぴ)」とも「無化」ともいわれますが、要は、力もなく、無能力で、無知な存在とされたというのです。そうやって、自らを「無化」されることで、権力によらず、力によらず、ただ神により頼む小さ  き弱い存在である王がゆえに、自分自身で勝ち得た自分の栄光ではなく、神から与えられた神の栄光を担うものとなるという、「力と権力とが横行するこの世」という世界とは真逆の神の王国の世界をお示しになられたのです。

みなさん、イエス・キリスト様は、ご自身を強く、力のある権威ある権力者になることを望まれませんでした。いつも、弱く、貧しく、権力なき支配者として、弱く虐げられた人々と共に生きられたのです。だからこそ、イエス・キリスト様は、「この世」で最も弱く小さな「子どもたちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」と言われるのです。そしてそのようなお方であるがゆえに、イスラエルの国を律法の権威で宗教的支配をしてた指導者層のパリサイ派の人々や祭司長によって構成されたサンヘドリンの最高法院から嫌われ、命を狙われるのです。

 そのような背景の中で、イエス・キリスト様は子ロバに乗って平和の王としてエルサレムに入城するのです。この時点で、イエス・キリスト様と人々の思いの間に食い違いがあることがわかります。武力で神の王国を建てあげ、神の力と権力によって神の民である自分たちが支配者となり世界を願う群衆と、平和をもたらし、そのような武力や権力ではなく、愛と恵みで支配する神の王国を築こうとする神や、その神さまの思いを実現しようとするイエス・キリスト様の間には、ボタンの掛け違いとなる食い違いが生まれているのです。
 このボタンの掛け違いが、最後に群衆の最後にイエス・キリスト様を十字架にかけることを求める声になるのですが、イエス・キリスト様の弟子も、このときにはそのことがわからなかったようです。

 けれども、イエス・キリスト様の十字架の死と復活の出来事を経験した後に、振り返ってみたときに、初めて、このエルサレム入城の出来事が、ゼカリヤ書9章9節の

シオンの娘よ、大いに喜べ、エルサレムの娘よ、呼ばわれ。見よ、あなたの王はあ なたの所に来る。彼は義なる者であって勝利を得、柔和であって、ろばに乗る。すなわち、ろばの子である子馬に乗る。

という言葉に結び付いて、「ああ、あのイエス・キリスト様がエルサレムに入城なさった出来事は、旧約聖書のゼカリヤ書が伝えていた出来事であり、イエス・キリスト様の十字架の死と復活の出来事は、罪と死に対する勝利の出来事だったのだ」と理解したと考えられるのです。だからこそ、(16節で)

弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々はそのとおりイエスにしたのだということを思い出した。

というのです。この聖書記者の証言は、「人々はそのとおりイエスにしたのだということを思い出した」というのです。

 みなさん、イエス・キリスト様の弟子たちですら、イエス・キリスト様の十字架の死と復活の出来事を経験したのちに、振り返ってみて初めて、あのゼカリヤ書の記事とイエス・キリスト様の出来事のつながりということに気が付いたのです。ましてや、「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるようにイスラエルの王に」といって、イエス・キリスト様を迎えた人々は、自分たちがゼカリヤ書にある神の言葉を実現しているなどと考えてはいなかったでしょう。
 彼らは、気づいてはいなかったでしょうし、知りもしなければ自覚もしなかったと思います。しかし、彼らが自覚していなくても、彼らも確かに神の救いの業に参与し、神の救いの歴史を作り上げる働きを担っているのです。

 たとえばそれは、12章17節18節にあるイエス・キリスト様がラザロをよみがえらせたといううわさを聞いて、イエス・キリスト様を見ようとして集まって来た人々に、そのときのことを語り聞かせたイエス・キリスト様がラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆もそうです。そうやって、イエス・キリスト様のことを語り聞かせることで、多くの人がイエス・キリスト様を信じるものとなっていくという神の救いの歴史を担っているのです。
 そして、その神の救いの歴史は、確かに私たちひとり一人を巻き込みながら、そして得わたしたちひとり一人をその神の救いの歴史に参与させながら、歴史を前へ前へと推し進めているのです。だからこそパリサイ派の人々は、「何をしてもむだだった。世をあげて彼のあとを追って行ったではないか」というのです。この箇所を聖書協会共同訳は「見ろ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男に付いて行ったではないか」と訳していますが、確かにギリシャ語言語には「見よ」と訳すべき言葉が入っている。

 そして「見よ」という言葉は、とても大切です。それは、神の救いの業が推し進められているその様を目の当たりに見ることができると言っているからです。そして、その神の救いの業は、弱く、虐げられた者が癒され、慰められ、大切にされていく世界です。もちろん、そうはいっても、現実の世界は未だ、弱い人たちが虐げられ、抑圧され、搾取される世界が、私たちの目の前にあり、私たちはそれを目の当たりにしています。ウクライナの情勢といい、ガザ地区の情勢といい、また子どもたちが虐待されている状況叱りです。

 けれども、そのような状況に中にあっても、私たちは目素見開いて、神の救いの歴史が確かに私たちを巻き込みながら進んでいることを見なければなりません。イエス・キリスト様は、それを見よと言っておられるのです。そして、その事実を見、神の歴史の中に巻き込まれている私たちキリスト者は、イエス・キリスト様が、自ら弱く、無力で無能力なものとなられることで、そのような弱く虐げられ抑圧された人々と共歩まれたように、そのイエス・キリスト様の体なる教会に集う者として、互いの弱さを支え合い、励まし合いながら生きることで、神の救いの歴史を担っていくのです。

2024年2月24日土曜日

捜し物は何ですか

 新約聖書ルカによる福音書十五章八節から十節に、キリストが語られた例え話があります。その話は、おおよそこういった内容です。

ある時、キリストの話を聴こうとして、多くの人が集まっていました。その中に、人々から、律法と呼ばれる宗教上の様々な規則が守れないで、あれはダメな人間だと思われていた人たちがいました。あるいは、自分たちを支配している支配者の手先となって働くな人々から憎まれ、嫌らわれるような仕事をしている人たちもいたのです。

そう言った人を、周囲は罪人と呼んでいました。でも、イエス・キリスト様は、そのような人でも快く受け入れていました。そんなイエス・キリスト様の姿を見て、一部の人は、皮肉を込めて「どうして、イエスという男は、人々が嫌う罪人たちも、快く受け入れるのだろうか」などと批判していました。
 そのような人たちに、イエス・キリスト様はこう言われたのです。「ある人が、銀貨十枚を持っていて、その中の一枚をなくしたら、あかりをつけ、それこそ家をほうきではいてでも、念入りに捜すんじゃないだろうか。そして見つけたら、本当に心から喜ぶだろうと思う。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるならば、神さまは心から喜ばれるんだよ」と。

「一人の罪人が悔い改めるならば」とイエス・キリスト様は言われますが、この罪人というのは、人々から、ダメな人間だとか、嫌な奴だと言った評価を受けていた人たちです。そして、その罪人が悔い改めるというのは、神さまを信じて生きる生き方に立ち返るということを意味しています。ですから、「一人の罪人が悔い改めるならば、神さまは心から喜ばれる」ということは、人の評価がどのようなものであっても、神さまを信じて生きる者を、神は、喜んで迎え入れて下さるということです

 私たちが、それこそ、家をほうきで掃いてでも捜すものは、役に立つものであるとか、得になるものである場合が多いですよね。それこそ、同じお金でも、一万円札なら、一生懸命捜しますが、一円玉ならきっと捜さないだろと思います。お金としての価値が違うからです。
 けれども、神さまは、自分に役に立つ存在であるかどうか、得な存在であるかどうかは問題ではないのです。それこそ、人からはダメな奴だとか、悪い嫌な奴だと思われ、人からは見放されているような人でも、神は決して見捨てないのです。人からは価値がないと言われている罪人の一人でも、決してあきらめられない高価な銀貨のように価値ある存在だというのです。

 それは、神さまが一人一人の存在を、好き嫌いや損得勘定を抜きにして大切に思っているからです。神さまが人を愛するってそう言うことです。神はすべての人を愛しているのです。愛して大切に思っているからこそ、探し求めているのです。

2024年2月22日木曜日

神の家族になる

 「神の家族になる」

新約聖書マルコによる福音書三章三十一節から三十五節にこんな話があります。ある時、多くの人に話をしていたイエス・キリスト様の所に、イエス・キリスト様のお母さんと兄弟たちが尋ねてきました。そこで、弟子たちは、「お母さんと、兄弟たちが、尋ねてきていますよ」と告げました。するとイエス・キリスト様はこう言ったんです。「わたしの母とは、だれのことですか。わたしの兄弟とはだれのことですか。」

 そして、イエス・キリストの語る言葉を聞こうとして、集まっている多くの人たちを指して、更にこう言われたのです。「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。神のみこころを行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」

 このとき、イエス・キリストは、決して家族のことをないがしろにしたわけではありません。むしろイエス・キリスト様は家族のことを大事に思い、心配なさるお方です。事実、ご自分が十字架にかけられ殺されようとするときに、イエス・キリスト様は、ご自分の弟子であるヨハネに、ご自分の母親のことをよろしく面倒を見てあげて欲しいと委ねているのです。そこには母を思う息子の気持ちが表れています。

 ですから、ここでイエス・キリスト様が「わたしの母とは、だれのことですか。わたしの兄弟とはだれのことですか。ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。神のみこころを行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです」と言われた意図は、イエス・キリスト様の言葉に耳を傾け効いている人々に、私たちは神と家族になれるんだよと言うことを伝え、教えようというところのにあっのです。

私たちが、神のみこころを行う者となるならば、私たちはみんな神の家族になることが出来るのです。しかし、神のみこころを行う人と言いますが、それは、いったいどのような人のことを言うのでしょうか。ひとことで言うならば、神さまの言葉、イエス・キリストの言葉に耳を傾けて聴く人のことです。イエス・キリスト様の語る言葉、なされる業、その一つ一つが神さまの御心を表しているのです。だからこそ、イエス・キリスト様は、御自分の話を聴きに集まっている人たちをさして、「ご覧なさい、わたしの母、わたしの兄弟たちです。」と言われたのです。

 今の私たちは、直接キリストの語る言葉や神の言葉を自分の耳で聴く事はできません。けれども、聖書を通して、イエス・キリスト様というお方を知り、私たちの心に語りかける神の言葉を聴くことが出来ます。聖書は神の言葉だからです。その聖書を読んでいますと、わたしたちを愛して下さっている神のお心が分かってきます。新約聖書ヨハネによる福音書三章十六節にはこう書いてあります。「神は、実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された、それは御子を信じるものが、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。」

 この言葉にある「世」とは、わたしたち人間社会のことであり、この世界です。もちろん、「あなた」も「わたし」もこの人間社会の中で生き、この世界の内に存在しています。ですから、「あなた」も「わたし」も含まれます。ですから、その「世」を深く愛しているということは、神が「あなた」を深く愛しておられるというのでもあるのです。そして、確かに神は「あなた」を深く愛しておられます。

 先程わたしは、神の家族になれると書きましたが、家族を深く結びつけているのは愛です。わたしの知り合いは、三人の子供を養子として迎え入れ家族として暮しています。彼らを家族として結びつけているのは、三人を我が子として迎え愛している、その愛です。それと同じように、いえ、それに優る大きな愛で、神は私たちを「神の家族として迎えよう」と、聖書を通して、私たちに語りかけておられるのです。この神の語りかける言葉に耳を傾けて聞き、あなたが神を信じ受け入れるならば、あなたは神の家族となることが出来るのです。

2024年2月21日水曜日

神さまが思い描く世

私は、牧師になって以来、長く中世のキリスト者であったエラスムスという人物の研究をしてきました。そのエラスムスの書いた書物の中に『知遇神礼賛』という本があります。日本語にも訳され岩波文庫や中公文庫などから出版されています。

この『知遇神礼賛』は、知遇の神モリスが、自分自身を礼賛するという一人語りで語られているものですが、当時のヨーロッパ社会を見事に風刺した作品として、ヨーロッパ中を笑いに包んだと言われています。知遇というのは、愚かな人のことを言います。エラスムスは、この作品を通して、手、本当にまじめで、知恵ある人が用いられることなく、愚かで傲慢な人間が人の上に立ち威張っている世界を風刺して見せたのです。それを知遇神モリスが、世の中こぞって愚かさのなかにいる。そしてその愚かさをもってわたしを礼賛していると自画自賛しているのです。だからこそ、ヨーロッパ中が、その姿に笑い転げたのです。それは、その当時の現実を見事に、そしてコミカルに描き切ったからです。

エラスムスが描こうとした世界は倒錯です。それは本来ある姿が逆転してしまっている世界です。エラスムスの目には中世の世界は、まさに倒錯した世界に映っていたのです。
しかし、そのような倒錯した世界は、なにも中世だけのことではありません。現代の社会もまた倒錯した社会なのかもしれません。すくなくとも聖書が伝えるイエス・キリスト様が思い描く神の王国の世界から見れば、倒錯した世界であるということができるでしょう。

 例えば、お金は、私たちが物を売り買いすることを仲介するため手段として用いられるものです。ですから、本来ならば、物を買うときの買うものに価値があるのであって、お金そのものに価値があるわけではありません。しかし、現実の私たちの世界では、お金に価値があるかのようになってしまい、お金そのものを手に入れようとしているような倒錯が起こっています。そして、お金を持っている人に価値があるかのようになってしまっています。本来、お金は人間と人間の社会に仕えるものであるのにもかかわらず、人間と社会がお金に仕えるような世界になってしまっているのではないかと思うのです。

 神の王国は、私たちが見ている世界とは正反対の世界です。この世界では強い者弱いものを支配するという構造が多く見られますが、神の王国では強いものが弱いものに仕えると世界です。聖書がしばしば「先の者が後になり後のものが先になる」という表現がありますが、それは、まずもって弱い者、力のないものが、小さいものが優先されるべきであるということなのです。

 神の目から見たとき、私たち人間の世界は神の王国とは正反対の倒錯した世界です。そして倒錯した世界には、憎しみや争いがあり、それが苦しみや悲しみや痛みを産み出します。けれども、その正反対にある神の王国には、憎しみの正反対の愛があり、争いの反対の支え合いがあるのです。もちろん、そういったものが今の現実の私たちの世界に全くないというような暴論を言うつもりはありません。そういったものを私たちの世界の中に見ることができます。それは、私たち人間の心の中に、神に似た「神のかたち」があるからです。

その神に似た「神のかたち」が発動するところに「神の王国」がこの世界の中に細々と顕れています。けれども、神さまは、細々と顕れることで良しとはされていません。それが全世界を覆うほどに広がっていくことを望んでおられるのです。そのために、神さまは、神様を信じ、神さまと一緒に神の王国をこの世界に広げていく人たちを求めておられるのです。「あなた」も、私と一緒に、愛に満ち、互いに支え合いながら弱い者、小さい者、力のないものが優先され、大切にされる世界を築いてくれないかと、神さまは「あなた」に呼び掛けておられるのです。

2024年2月20日火曜日

剣の時代の終焉

マタイのよる福音書の26章47節から57節には、時の権力者たちが、イエス・キリスト様を裁判にかけ、処刑するために、イエス・キリスト様を捕まえに来たときの様子が書かれています。このキリストを捕らえるために集まった人たちは、剣や棒を持っていました。抵抗したら、力ずくで捕らえるつもりだったようです。

 その時、キリストの弟子の一人が、剣を抜いてイエス・キリスト様を捕まえに来た人たちに斬りかかって行きました。彼もまた、力には力で対抗しようとしたのです。その様子を見ていたイエス・キリスト様は、ペテロを諫めてその剣を納めさせます。そして、こう言われました。「剣を取る者はみなつるぎで滅びます」と。

 キリストの時代の権力者たち、イエス・キリスト様を捕えようと企てた人たちは、パリサイ人と呼ばれる人や律法学者と呼ばれる人、あるいは、神殿に仕える祭司たちでした。つまり、宗教的指導者たちがイエス・キリスト様逮捕の首謀者だったんですね。彼らは、キリストを捕らえ、十字架につけたので、とても悪い人間のように思いますが、しかし、実際は、自分たちが信じるユダヤ教の伝統を、自分たちに一生懸命守り行って生きようとしていた人たちでもあったのです。そして、それが絶対に正しいと信じていた。

 ところが、イエス・キリスト様は、そのような生き方とは、全く違った生き方を人々に示したのです。それは、この指導者層の人たちが絶対に正しいと思っていたことを否定していることになります。実際、キリストは、パリサイ人や律法学者たちを厳しく非難しています。そんなわけで、パリサイ人、律法学者、祭司たちは、共謀してイエス・キリスト様を捕らえ、殺そうとしたのです。それは、自分たちが、絶対に正しいと思うからです。そう思うからこそ、剣、つまり、力に訴えてでも、イエス・キリスト様を捕らえ罰しようとしたのです。

 人間、この自分は絶対に正しいと思うことほど恐いものはありません。自分が絶対に正しいと思えば、相譲ることも出来ませんし、相手を裁き赦すこともできません。最後は力と力でぶつかるか、絶交状態になったりもします。そういった意味では、イエス・キリスト様の弟子も、自分たちの方が、絶対に正しいと思っていたんだろうと思います。だから、剣を抜いて斬りかかっていた。

そう言った人たちを見て、イエス・キリスト様は。「剣を納めなさい。剣を取る者はみなつるぎで滅びます。」とそう言われるのです。それは、自分が絶対に正しいと思うことの愚かさ、そして恐ろしさを私たちに、教えてくれる言葉でもあります。

 人間は、だれも完全な人はいませんよね。過ちや間違いを犯すものです。なのに、人と接するときには、そのことを忘れ、自分の正当性ばかりを主張してしまいがちです。それは、相手と自分を比べて、自分の方が正しいとそう思うからです。けれども、そんなときに、相手と自分を見比べるのではなく、神と言う存在を心に思いめぐらしてみたらどうでしょうかね。聖書の神は聖く義しいお方で、平和を愛する神です。その神の前に立って、自分自身を顧みるならば、私たちは、自分の至らなさや愚かさ、あるいは、心の醜さといったものを、認めざるを得ないように思うのですが、どうでしょうか。それは、まさに罪人としての私たちの姿なのです。

 私たちは、人を見て自分が正しいと思うとき、相手を裁き場合によっては、拳を振り上げ、心の中で剣を抜いて、自分の正しさを押し通そうとします。それは、力と権力によって支配するこの世界の中に生きる私たちの姿です。「この世」という世界が、力ある者、権力あるものが弱く小さいものの上にたち、この世界を治め支配するからなのです。だから、私たち人間は、力を欲し、権力を求めるのです。それが、より高見に登ることだと思い込んでいるのです。

 しかし、それは誤った生き方です。神が、ご自身に似たものとなるために神の像(かたち)を与え創造された人間本来の姿ではなく、過った姿なのです。そのような私たちを神は、欠けだらけの「わたしたち」の愛し、神の子として生きるものとするために、ご自分の一人子を十字架で死なせたのです。
 この深い愛で、私たちは愛されている。もちろん「あなた」も愛されています。この神の罪を赦す愛で愛されていると思うと、「わたしたち」は、振り上げていた拳を降し、抜いた剣を鞘に納めざる得なくなるのではないかと思うのです。

もし「あなた」が、まず「あなた」から人を裁くのを止め、拳を振り上げる止め、剣を抜かなくなったら、きっとあなたの周りの世界は少しずつ変わっていくだろうと思います。それは力と剣の時代が終わりをつげ、謙遜と愛の世界の始まりなのです。ですから、どうか、この「わたしたち」の愛する愛の神を、「あな」がこころに信じ、受け入れ、この神を心に想いながら生きて欲しいのです。

2024年2月18日日曜日

24年2月第三主日礼拝説教「王の就任」

 24年2月第三主日礼拝説教「王の就任」                

旧約書:イザヤ書53章1節から10節
新約書:ヨハネによる福音書12章1節から20節
使徒書:ヘブル人への手紙4章14節から16節

 前回の礼拝説教で、マリアが、イエス・キリスト様の足に高価なナルドの香油を塗り、自分の髪でその油をふき取ったという出来事に対して、イスカリオテのユダがとった態度から、私たちの心の中にある良心の問題について考えさせていただきました。
そして今週は、同じマリアの出来事をイエス・キリスト様がどう捉えたか、またこのヨハネによる福音書を書いた聖書記者がどのように、受け止めたかということから考えてみたいと思います。そのためには、このヨハネによる福音書の12章1節から20節までを一つの物語の単位として読む必要があります。ですので、1節から20節までをお読みしました。

 みなさん、聖書を解釈するということは、聖書に書かれていることを今の時代の、この日本という文脈の中で、どのように聖書の物語を読み解き、関係づけていくかという作業です。そして様々な聖書解釈の方法が議論されてきました。そのような中で、近年言われるようになってきたのが、物語神学と呼ばれる聖書の解釈方法です。この物語神学というのは、宗教的真理というのは物語を通して語られてきたので、聖書もまた、一つの物語として読み解く必要があるというものです。

 確かに、そうなのかもしれません。実際、前回の主日礼拝の説教で、私たちが着目したマリアがご自分の足に高価な香油を塗ったという出来事を、イエス・キリスト様は、神の御子であるご自身が受肉し、「この世」という世界の中で生き、そしてイスラエルの指導者たちから憎まれ殺されるであろうという、イエス・キリスト様のご生涯の物語の一部として理解し受け止められています。それが

「この女のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それをとっておいたのだから。貧しい人たちはいつもあなたがたと共にいるが、わたしはいつも共にいるわけではない」

という言葉だったのです。
 みなさん、イエス・キリスト様は、このマリアの行為をイエス・キリスト様の葬りのための行為であるとして受け止めています。つまり、マリアの行為をイエス・キリスト様の十字架の死に結び付けて理解しているのです。それは、今、ここでの苦しみです。そして、その苦しみは、イエスらエルの民を治めている指導者層のパリサイ派や祭司長の人々や、ローマ帝国の総督ピラトから加えられる苦しみであり、いわば、「この世」の支配者から与えられる苦しみなのです。

 だとすれば、イエス・キリスト様は、「今、ここで」、「この世」を支配するものから与えられる「苦しみ」によって「苦しめられ、殺され、葬られる人と」として、ご自分を見ており、その出来事を、マリアが香油を注がれた出来事の中に見ておられるのです。ところが、このヨハネによる福音書を記した聖書記者は、このマリアがイエス・キリスト様の足に香油を注ぐという出来事に別の意味を見出しています。そもそも、ヨハネによる福音者は、そこに書かれている言葉に二重の意味を持たせることがあると言われます。そして、確かに、この足に香油を塗るという行為にもその二重の意味を見ることができます。それは、イエス・キリスト様が自覚していた「葬りのための塗油」であると同時に「メシアに対する油注ぎ」ということです。

 みなさん、メシアという言葉は、油注がれた者という意味があります。この油を注ぐという行為は、イスラエルの王が王に就任する時に行われるものであり、また、大祭司が大祭司として就任する時に行われるものです。ですから、たとえばスローヤンやシュラッターという聖書註解者は、このヨハネによる福音書の著者は、マリアのイエス・キリスト様が足に高価な香油を塗り、自分の髪でそれを拭いたという行為は、イエス・キリスト様がメシア(油注がれた王)であることを指し示しているというのです。
 そして、ヨハネによる福音書の著者もまた、このマリアがイエス・キリスト様の足に香油を塗ったという出来事を、まさにイエス・キリスト様が神を信じるものの王として就任したのだという、その王の就任の際に行われる油注ぎの行為であると受け止めたのです。

 それは、このマリアの行為が告げられた直後に、イエス・キリスト様がエルサレムに子ロバに乗って入城するという出来事が記されていることからわかります。というのも、名前こそ出てはきませんが、この女性がイエス・キリスト様の足に香油を塗り、自分の神でぬぐい取るという行為は、他の福音書にも出てきています。しかし、その出来事をイエス・キリスト様のエルサレム入城の直前に起こった出来事として記すのは、このヨハネによる福音書だけなのです。
 おそらくこのヨハネによる福音書の著者は、この福音書を書こうとする際に、イエス・キリスト様の受肉から十字架の死と復活の出来事を振り返りながら、「ああ、あのマリアがイエス・キリスト様の足に高価な香油を注いだ出来事は、イエス・キリスト様が、神の民が集う、神の王国の王として就任なさる油注ぎの儀式の役割を果たしていたのだなあ。そして確かにイエス・キリスト様は王としてエルサレムに入城なさったのだ」と回顧しながら、このヨハネによる福音書を書き記して行ったのだろうと思われます。

 みなさん、「今、ここで」、「この世」の支配者によって苦しめられ、十字架の上で殺され、墓に葬られる」お方こそが、神の民の王として、神の都であるエルサレムに入城するのです。それは、「この世」を支配する者から「苦しめられ、虐げられ、抑圧されて痛み苦しむ者の王となるためなのです。
 そうなのです。イエス・キリスト様は、「この世」という世界の支配の中で虐げられ、痛む、苦しみや悲しむ私たちの心に、王として入城してくださるお方なのです。そして、共に苦しみ、痛み、悲しみをご自分の身に負われるのです。それは、神様というお方が、そのように、私たちの痛みや苦しみや悲しみに心を向け、共感してくださるお方だからであり、その神のひとり子だからです。

 そのことが、もっともよく表れているのが、先ほどお読みしました旧約聖書イザヤ書53章1節から10節です。この箇所は、4節の「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。」という言葉や5節の「しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ」とか8節の「彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと」という言葉から、私たちの罪の身代わりとなって死んできださるお方が預言されているのだとして刑罰代償説というイエス・キリスト様のと呼ばれる救いに関する理論の根拠だとされてきました。
 しかし、わたしは、この箇所は、そのような身代わりと言うことが言われているところではないと考えています。なぜならば、この時、イスラエルの民は、バビロン帝国の支配のもとで奴隷として抑圧され虐げられて、苦しみと痛みと悲しみの最中に置かれていたからです。そして、その痛みと苦しみと悲しみを、メシアは共に負って苦しみ、痛み、悲しむ姿がこのイザヤ書53章の1節から10節に描かれている。そして、その痛みや苦しみや悲しみを知っているからこそ、バビロン帝国という「この世」の支配者の支配のもとで苦しみ、痛み、悲しむ人を慰め、励まし、支えることで、その苦しみや痛みや悲しみから解放することができるのです、

 みなさん、救い主とはその様なお方なのです。神を信じる神の民の油注がれた王として「この世」に来られたイエス・キリスト様というお方は、そのようなお方なのです。この、今も、このともに苦しき、共に痛み、共に悲しむお方が、油注がれた王となられた出来事は、それは2千年前のパレスチナの地で起こった出来事です。しかし、このお方は今も、この世界の王であられるのです。そして私たちの王として、わたしたちと共にいてくださるのです。

 にもかかわらず、私たちの周りには、悲しみや苦しみや、痛みというものが未だ満ち溢れています。それはヨハネによる福音書の冒頭の1章10節11節で「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は自分のところへ来たが、民は言を受け入れなかった」とあるように、このお方を「この世」という世界が、そしてこの世を治めている者が拒絶しているからです。
 しかし、このお方を信じ受け入れて生きるならば、この方は、必ず「あなた」の慰めとなり、支えとなり、癒しとなってくださるのです。先ほどお読みしたヘブル人への手紙4章14節から16節にあるように「私たちの弱さに同情できない方ではなく、罪は犯されなかったが、あらゆる点で同じように試練に遭われた」お方だからです。だからこそ、私たちは、神を信じ、イエス・キリスト様をいつも心の中が見上げながら生きていこうではありませんか。

 マリアに十字架の死に対する葬りの油を注がれたイエス・キリスト様は、その死の葬りの出来事と共に、栄光の王となる王の就任のために油注ぎを受け、ご自身が、十字架につけられ殺される場所となるエルサレムに入場するのです。その入場の様子が、12節から20節に描かれている
だとすれば、このヨハネによる福音書12章1節から20節は、神様が、罪と死の力が支配するこの世界から私たちを解放し、神の王国をこの世界に広げるために、油注がれた王、すなわちメシアの到来を物語る物語なのです。なぜならば、聖書は一貫して、私たちを罪と死をもって支配する「この世」の支配者から解放する物語を語っているからです。

 出エジプト記の物語、しかりバビロン捕囚から解放する物語然りです。そして、その神の救いの物語の中で、イエス・キリスト様は。この時代にあっても、私たちを、慰め励まし、支えてくださる王として、私たちと共にいてくださり、私たちを救ってくださるのです。そのことを覚えつつ、このイエス・キリスト様のことを静かに思い廻らしたいと思います、しばらく静まりの時を持ちましょう。

2024年2月17日土曜日

休むことの大切さ―身も心も安らぐときー

 つい先日は建国記念日の振替休日があり、土、日、月の3連休がありました。休みっていうのは、いくつになっても嬉しいもんですよね。人間にとって、休息の時というのは、絶対に必要です。

 そんなわけでしょうか、聖書には、週に一日、「必ず休みの時を持つように」って、安息日という日が決められています。もともとは、金曜日の夕方から、土曜日の夕方だったんですけれど、今では日曜日が、その日の役割を果たしています。

この安息日は、生きるために。一週間働いてきた者が、ゆっくりと体を休ませ、疲れを取るためのものです。でも、私たちが疲れを感じるのは、何も体の疲れといった肉体的な疲れだけではありませんよね。体だけではなく心だって疲れることがある。むしろ、この心の疲れのほうが問題です。

 仕事や人間関係、あるいは健康のことなどで悩みや心配があるときには、体を休めても、それだけでは、心が平安に過ごせるとはかぎりません。身も心も休めることが出来てこそ、本当の安息日っていえるんですよね。

 そんなわけでしょうか、聖書には、安息日について、こんな事を書いています。旧約聖書申命記五章十四節です。途中を一部省略しますが、このようなことが書いてあります。

 「安息日を守って、これを聖なる日とせよ。あなたの神、主が命じたとおりに。六日のあいだ働いて、あなたのすべてのわざをしなければならない。(中略)あなたはかつてエジプトの地で奴隷であったが、あなたの神、主が強い手と、伸ばした腕とをもって、そこから導き出されたことを覚えなければならない。それゆえに、あなたの神、主は安息日を守ることを命じられるのである。」

これは、神が、イスラエルの民が、祖国から遠く離れたエジプトの地で奴隷となり苦しみ悩んでいるところから救い出し、イスラエルの民と共に歩んでくれる。だからそのことを心にしっかりと覚えるために安息日を守りなさいということです。

つまり、安息日に私たちを守り、苦しみや不安、悩みから救い出して下さる神を、心に覚え忘れないために安息日を守りなさいというのです。それは体の休息のためでなく、子心の休息、魂の休息のためなんですね。

今の時代は「心の時代」だと言われます。それは心が、どうしようもない程に、疲れ切りすり減ってしまっているからです。あなたの心は、疲れてはいませんか。すり減ってはいませんか。

神は、そんなあなたに、心の平安を与えてくださるお方です。あなたの心が神をこころに信じ受け入れるならば、神は、その人の心の中にいつも共にいて下さり、慰め励まして下さって、その悩み苦しむ心に平安を与えて下さいます。

そんなわけで、神を信じるクリスチャンは、日曜日に礼拝に集い、私たちの心に休息を与えて下さる神を心に覚え、新しい一週間を生きていく力をいただきながら生きているのです。

この、体と心に与えられる本当の安息日をあなたのものにしていただきたいと思います。

2024年2月15日木曜日

パンとワイン

 最初に聖書の言葉を記します。

「すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝を捧げで後、それを裂き、こう言われました。『これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。』夕食の後、杯を同じようにして、言われました。『この杯をは、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。』

この言葉は、新約聖書コリント人への手紙第一、十一章二十三節、二十四節の言葉ですが、これは、主イエス・キリスト様の私たちに対する約束、すなわち契約の言葉です。
 イエス・キリスト様は、聖書の神を信じ、イエス・キリスト様を自分の主であり、救い主あると信じ、神の子である身分を回復してくださる救い主として信じるものは、「この世」という世界の中生きてきたその人生が、どのようなものであっても、必ず受け入れて下さると約束して下さいました。
 というのも、私たち人間は、神さまからもともと神の子と言う特別な身分を与えられて創造された特別な存在なのです。けれども、私たち人間は、神さまを見失ってしまっています。また私たちが生きる「この世」と呼ばれるこの世界そのものも、神さまを見失っています。そして神さまに代わって罪と死が支配する「この世」という世界の中に生きるものとなっているがために、神の子であるという特別な立場が損なわれてしまったのです。

 けれども、神さまは、私たちのことを決して見捨ててはいません。だから、必ず回復する約束くださったのです。その約束を果たすために、イエス・キリスト様は、は十字架の上で命を投げ出し、罪と死の支配から私たちを解放して下さったのです。この解放の業を教会では贖いと言います。

教会では、礼拝の時に聖餐式と呼ばれる、パンとぶどう酒、もしくは葡萄ジュースをいただく儀式があります。その時に先程の聖書の言葉が読まれるんですね。それは、聖餐式で食べるパンは、キリスト様が十字架で釘打たれた体を表わし、ぶどう酒は、その時流された血潮を表わしているからです。ですから、パンとぶどう酒は、キリストが、私たちの贖ってくださり、神の子としての身分を証なのです。回復宇して下さったということの証なのです。

 もう何年も前に、一人のお婆ちゃんが天に召されました。亡くなるちょっと前に、わたしは、そのおばあちゃんに、イエス・キリスト様が、お婆ちゃんを救い、神さまのこどもにして下さって、やがてよみがえり、神さまの御国でいることができるものとして下さるんだよとお話ししました。
 すると、お婆ちゃんは、素直にそのことを受け入れ、神を信じイエス・キリスト様を自分の救い主として受け入たのです。それから一ヶ月、そのお婆ちゃんは家族と楽しく賛美歌を歌ったり、聖書の話をしたりと、心温まるような時を過ごし、天に召されていきました。
 葬儀の後、そのお婆ちゃんのご主人が礼拝にこられ、聖餐式に出席なさいました。実は、ご主人は、昔、教会で洗礼を受けクリスチャンになったのですが、その後教会に行かなくなっていたのですね。でも、お婆ちゃんがイエス・キリスト様を信じ、神の子された平安の中で天に召されていく姿を見て、自分もイエス・キリスト様の約束の中にあることを思い出されたのです。

 キリストは、私たちと結ばれた約束を決して忘れません。神を信じたことを忘れ、何十年も教会に行かなくなっていたとしても、神さまとイエス・キリスト様は、約束を守って下さっています。神さまとイエス・キリスト様は、それほどまでに私たちとの約束に対して真実なお方なのです。だからこそ、その約束は信じる価値があります。そのお方が、あなたと約束をしようと言っておられるのです。そのための準備は、イエス・キリスト様の側では十字架の上でもう出来ています。あとは、あなたが信じるだけなのです。

2024年2月14日水曜日

なぜ人には宗教が必要か

  以前、数人の中学生が「なぜ、人には宗教が必要か」ということについて教えて欲しいと訪ねてきました。学校の宿題だったようです。そこで私は、彼らに、自分が生きている意味と価値は何なのかと言うことを知るために宗教は必要なんだよとお話ししました

 科学は人間の体の構造や、脳の働き、あるいは心についても。多くのことを解明してきました。でもそれは、人間がどんな生き物かを明らかにしただけで、人間が生きる意味と価値ついては教えてくれていません。それを教えてくれるのが宗教なんですね。ではキリスト教は、そのことについて何と教えているのでしょうか。
 それは「神の栄光を表わすためだ」というのです。要は、神の素晴らしさを示し、神の喜ばれることをすると言うことです。でも、神の素晴らしさとか、神に喜ばれることって何なんでしょう。

 今の世の中は、環境汚染といった地球的な規模の問題から、戦争や犯罪、あるいは経済問題と言った社会的問題まで、様々な問題が山積みになっています。また、私たち個人の生活にもいろんな問題があって、将来はどうなるんだろうかと、不安にこそなれ、希望などなかなか持ちにくい世の中なんじゃないでしょうかね。そんな世の中でも、神が私たちの抱える問題に解決を与えてくれると信じ、希望を持って生きているならば、神はそのような生き方を喜んで下さるのです。なぜなら、そのような生き方は、神は私たちに希望をもたらして下さる素晴らしいお方だと言うことを指し示しているからです。だからこそ、神はそのような生き方を喜んで下さるのです。

 もちろん、神を信じたからと言って、全てが、私たちの願うように解決するとは限りません。私たちが生きている間に解決しないような問題もあるだろうと思います。けれども、たとえこの世では解決がつかないようなことがあったとしても、神を信じ、キリストを自分の罪の救い主と信じる者には、天国という大きな希望が与えられるのです。そこは、慰めと憩いの場が与えられ、大きな喜びに満ちあふれた世界です。その天国という希望を持って生きていくならば、神はその人のことを本当に喜んで下さるのです。

 それだけではありません。問題の多い暗い世の中だからこそ、天国の希望を持って喜んで生きていくならば、それは、自分だけではない、周りの人々にも、神にある希望を指し示します。だとすれば、それこそまさに、神の栄光を表わす生き方だと言えますよね。神は、そのように、神に喜ばれ、人々にも希望を指し示す、意味とか価値ある人生に、あなたを招いておられます。あなたは、そのために神に愛される尊い存在として、この世に生まれてきました。あなたの人生には大きな意味と価値があるのです。

2024年2月11日日曜日

疚しい良心

 礼拝説教「疚しい良心」                

旧約書:民数記20章1節から13節
福音書:ヨハネによる福音書12章1節から
新約書:ペテロ第二の手紙1章16節から21節

 さて、今日の礼拝説教の中心となります聖書箇所は、ヨハネによる福音書12章1節から8節です。この箇所は、過ぎ越しの祭りの6日前に、エルサレムから約3㎞程離れたベタニヤという町で起こった出来事が記されています。このベタニヤはイエス・キリスト様が親しくしていたマリアとマルタの兄弟であるラザロが住んでいた街です。

 イエス・キリスト様は、このベタニヤの街で、死んだ4日もたっていたラザロをイエス・キリスト様は死から甦らせるということをなさいました。それで、多くの人がイエス・キリスト様を信じるようになったのですが、イスラエルの民の指導者たちである最高法院はイエス・キリスト
様を殺そうということを、議会の決議として決めたのです。そのため、イエス・キリスト様は、ベタニヤの街を離れエフライムというところに身を避けます。ベタニヤは、エルサレムにあまりも近くにあるからです。しかし、いよいよ過ぎ越しの祭りが近づいてきたので、イエス・キリスト様は、エルサレムに向かおうとして、もう一度ベタニヤの街に立ち寄るのです。

 当時、イスラエルの国には、7つのお祭りがありましたが、その中でも過ぎ越しの祭り、仮庵の祭り、七週の祭りという三つのお祭りは、特に重要なお祭りとして、ユダヤ人の成人男性は、この三つのお祭りの時には、エルサレムにある神殿に宮もうですることが習わしとなっていました。その過ぎ越しの祭りに出ようとして、イエス・キリスト様はエルサレムに向かう途中にベタニヤの街に来られた。当然、死かラ命を救われたラザロはもちろん、その姉妹であるマリアとマルタは、イエス・キリスト様を歓迎します。そしてイエス・キリスト様のために夕食の用意をするのです。

 ラザロがイエス・キリスト様と共に席に着き、マルタが、給仕をしていました。そのときマルタとラザロの姉妹であるマルアが、イエス・キリスト様の高価な香油を塗り、自分の髪でその油で拭いたのです。そのマリアの行為を見ていた、イエス・キリスト様の弟子の一人のイスカリオテのユダは「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と言うのです。それは、そうでしょう。このマリアの行為はとても不可解で理解できない行為です。

 その当時、出迎えた客に敬意を示すために、その髪に高価な香油を一滴だけ注ぐということはあったようです。しかし、マリアは一滴ではない、大量の香油をイエス・キリスト様の足に注ぎかけ、それを自分の髪の家で拭くのです。いったいマリアはどうしてこのようなことをしたのか。聖書は、その時のマリアの気持ちも、その行為の理由については何も触れていません。ですから、確かに、マリアがしたことだけを見るならば、ユダが言うように、無駄だと言われても仕方がないことかもしてません。

 なぜなら、一滴で良いのです。それで十分なのです。ですから、大量の項巣を注ぐような使い方をすれば「もったいない、無駄遣いだ」と考えてもおかしくはないのです。そしてそのような無駄な使い方をするならば、その香油を売り払って貧しい人に施しをした方が、ずっと有益だというのは、一般的に言っても、またユダの人生経験に基づくならば正論なのかもしません。

 このイスカリオテのユダが、マリアに対して厳しい視線を送り、マリアの行動を批判的に見ていることに対して、このヨハネによる福音書の著者は、「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。自分が盗人であり、金入れを預かっていて、その中身をごまかしていたからである」と言うのです。つまり、自分の後ろめたさを、マリアを批判することで覆い隠そうとしているのです。自分自身の周りにいる人に対しても覆い隠そうとし、神様に対し覆い隠そうとし、また自分自身に対しても隠そうとしたのだろうと思います。

 ひょっとしたらこのヨハネによる福音書の著者も、マリアの行動目の当たりにし、イスカリオテのユダが言った言葉を耳にしたときには、ユダの言葉に同意したのではないかと思います。それは極めて正論だからです。しかし、イエス・キリスト様の十字架の死と復活の出来事を目撃し、そのイエス・キリスト様の生涯を書き記るそうとしてこの福音書を書いているときに、もう一度この出来事を振り返りながら、「ああ、あの時、イスカリオテのユダはあんな正論をいっていたけれど、今こうして振り返ってみると、実はユダは、自分が疚しいことをしていた後ろめたさから、あんな正論を吐いて、私たちや自分自身の良心に対して、自分は決して悪い人間ではないと言い訳をしていたんだろうな」と思ったのかもしれませんね。そこには、自分自身を「善し」とする自己義認をする人間の弱さが浮き彫りになっています。

 けれどもみなさん、私はこのような疚しさを感じる心というものは、悪いことではないと思うのです。また実際は割ることをしていても、自分は善いものだと思われたいという思いは、決して偽善といって退けられる必要はないと思うのです。なぜならば、疚しさを感じる心は、また善いものと思われたいという思いは、その根底に善を求める思いがあるからです。

 古代ギリシャの哲学者のプラトンや修辞学の祖といわれるイソクラテスといった人は、人間が如何にしたらよい人になれるかと言うことを考えた人たちです。そこには人間は善い者になれるという確信があります。そしてそれは間違ってはいません。なぜならば、人間は、神さまに似た者となるように、神の像を持って造られているからです。私たちは、善い者になれる。善い者になるように神さまによって創造されているのです。
 ただ、現実には、善い者となることができるとしても、多くの過ちや心配をし、善いこともしますが、しかし悪いこともしてしまうものです。せっかく神さまが善い者になるように作ってくださったのに、必ずしもそうはなっていないという現実と理想との間のギャップがあるのです。そのような現実と理想のギャップの中で、この聖書箇所におけるユダの言葉は、それが歪んだ形で出てしまっているのかもしれません。けれども私は、そのイスカリオテのユダの言葉の根底には、善い者になりたいという思いが見え隠れしているように思うのです。

 みなさん、金子晴勇という高名な西洋キリスト教思想史の研究者がいらっしゃいます。この方は、私が尊敬し、多くのことを学ばせていただいている研究者ですが、長くアウグスティヌスや宗教改革者のルターの研究してこられました。同時に霊性ということの研究もなさってこられたのですが、霊性というのは、人間が神様に向き合う姿勢や態度であり、神さまと接点とを持つ部分です。その霊性において、ルターは良心を霊性として捕らえていたというのです。
 そして、その良心とは、「疚しい良心」であるという。というのも、良心は良いことをするときには、その存在がわからないが、悪いことするとき、またしようとするときに、良心は痛みとなって、私たちの内に存在することを示すというのです。だから「良心」は良い心と書くけれども、「疚しい良心」だというのです。

 この疚しい良心が働くとき、実は、私たちは神さまと向き合っているのです。良心が痛み、悪いことをする、また使用している自分を疚しく思う。そのときこそ、私たちは神さまに向き合っているのです。大切なのは、その疚しい良心の働きに真摯に向き合って、神さまの御顔を求め、神さまが語られる言葉に耳を傾けることなのです。そして、自分自身の経験や知識をもって、物事を勝手に解釈し言い訳をしないことです。

 悲しいことですが、私たちはしばしば自分勝手な解釈をし、言い訳をしてしまいます。その意味では、イスカリオテのユダの言葉は、マリアの行為を無駄な事だとかってい解釈し、自分はそんな無駄な財産の使い方はしないという言い訳をしている。ひょっとしたら、ユダはごまかして盗んでいたお金の一部を貧しい人に分け与えたことがあるのかもしれません。だから「私は余っているお金を貧しい人に施しをしていたのだ。だ私は悪くない。私は悪人でも罪びとでもないのだ」と自分の行為を勝手に解釈し、心の中で言い訳をしていたのかもしれないのです。

 そのように、私たちは物事を自分の都合の良いように解釈することがある。そして酷い時には、聖書の言葉ですら自分の経験をもとに、自分勝手に解釈し、言い訳にすることがあるのです。だから、聖書は、自分勝手に解釈をしてはならないというのです。秋ほどお読みししたペテロ第一の手紙は言うのです。
 しかし、この自分自身の経験をもとに、神の言葉を勝手に解釈するということを、私たちはしばしばやってしまう。また、そのような現実があるから、ペテロ第一の手紙は「聖書を自分勝手に解釈をしてはならないというのでしょう。実際、旧約聖書で最も偉大な人物の一人であるモーセですら、神の言葉を自分勝手に解釈してしまったと言うことがある。それが先ほどお読みした民数記20章1節から13節にあるモーセが岩を打ったという出来事です。

 この箇所は、イスラエルの民がエジプトを脱出して荒野をさ迷い歩いているときに、水がなくなってしまったときの出来事です。荒野で水がなくなってしまうということは、死に直結するような重大な出来事です。ですから、イスラエルの民は、モーセとアロンに、どうしてこんな場所に私たちを導いてきたのだと詰め寄るのです。
 そこで、モーセとアロンは神に祈ります。すると神は、二人に「岩に命じて水を湧き上がらせよ」と言われます。そこで、モーセは岩を二度打って水を湧き上がらせるのです。ところが、この岩を二度打ったという行為が神様に叱責されたのです。モーセは神様が「岩に命じて水を湧き上がらせよ」という言葉を、岩を二度打って水を出すことだと解釈した。そしてその解釈は、モーセの過去の経験によるのです。というのも、このときのように荒野で水がなくなり、モーセとアロンに詰め寄るということは以前にもあったからです。それは出エジプト記17章1節から8節に記されています。そのとき神様は、モーセに岩を打って水を湧き出させ、イスラエルの民に水を与えたのです。その経験があるから、モーセは神様の「岩に命じて水を出せ」という言葉を「岩を打つことだ」と勝手に解釈して、それが神の言葉の意味であるとして神の民に提示したのです。そのことを神様から叱責された。

2024年2月9日金曜日

言葉の神

 旧約聖書創世記十八章十七節にこのような言葉があります。「主はこう考えられた『私がしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか』」。ここでいう「主」と言うのは、神のことですが、神は、アブラハムという人に、ご自分の考えておられることを、包み隠さず話されたと言うのです。この話は、概ねこのようなストーリーです。

 話は今から四千年ぐらい前に遡りますが、現在のイスラエル地方に、ソドムとゴモラという町がありました。そこは、不道徳で乱れ、人々の欲望が渦巻く、罪に汚れた町でした。それがあまりにひどいので、神は、それらの町を滅ぼそうと思われたのです。神の裁きを下そうとなさったのですね。その計画を、神はアブラハムに、包み隠さずお話しになったのです。その時のことを、先の聖書の言葉は言っているのです。
 聖書には、このアブラハムの時のように、神が御自分の計画や私たち人間に対する気持ちを語っておられる所がいくつもあります。聖書の神は、言葉を持って語りかける、言葉の神なんですね。

 私は小学校三年生の時、教会の礼拝堂に、もぐり込んで、「神よ、あなたの声を聞かせて下さい。そしたら、信じます」とお祈りしたことがあります。映画のように、天から聞こえる神の声を期待していたのです。でも、神の声は、私の耳には聞こえませんでした。
 それから十年後、私は教会の礼拝に出席するようになっていました。そのとき私は、まだ心から神を信じていたわけではありませんでした。そんな中、ある時の礼拝で、牧師が旧約聖書詩篇五十一篇の言葉から話をしていました。それは「砕かれた、悔いた心、神よ、あなたは、それをさげすまれません。」という言葉でした。

 そのとき私は、その聖書の話を聞きながら、神の言葉を聞いたと思ったのです。「あなたは失敗や過ち、挫折を経験するだろう。その時、心は粉々に砕かれるかも知れない。でも、私はあなたを立ち直らせ、あなたを導こう」。そう語りかけて下さったと思ったのです。耳で聞いている声は、牧師の声です。けれども、その話をしている聖書の言葉を通して、私は、私の心に響く神の言葉を聞いたとそう思ったのです。

 それから、私の人生の様々な場面で、私は、神の語りかけの言葉を聞いてきました。結婚や就職、牧師になろうと決断したとき、また病に倒れたとき、神は、聖書の言葉を通して、私の耳にではなく、心に語りかけて下さったのです。それは慰めの言葉であったり、励ましの言葉であったり、また導きの言葉であったりしました。
 アブラハムに、「私がしようとしていることを、隠しておくべきだろうか。」と言われた神は、こんにち、聖書の言葉を通して私たちに語りかけておられます。もちろん、あなたにもです。だからこそ私は、ぜひ、「あなた」にも聖書を読んでいただきたいと思うのです。

2024年2月8日木曜日

日本の太陽、外国の太陽

  最初に、聖書の言葉をお読みしたいと思います。お読みします箇所は、旧約聖書出エジプト記二十章三節です。「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。あなたには、わたしのほか神々があってはならない。」

 牧師をしていますと時々、このように言われることがあります。「日本には日本の宗教があるから、何もキリスト教と言った外国の宗教を信じなくても良いのではないですか。」

 「なるほどなぁ」と思わされるような言葉ですが、しかしよく考えて見てください。確かに、世界中には様々な国があり、民族があります。しかし、国や民族はちがっても、私たち人間は、同じ一つの人類なのです。
 ある宇宙飛行士は、宇宙から地球を眺めたときに、地球儀でみた様子と同じ地球の姿にたった一つだけ違いがあることに気づきました。それは本物の地球には、国境を定める線がないと言うことです。なのに、神という存在は、それぞれの国のでしょうか。

 聖書は、神は唯一であるといいます。それは日本人の神とか外国人の神とか言うように、沢山の神があるのではなく、私たち人類にとって神は、唯一の存在なのだということです。

 さきほどの、聖書の言葉は、イスラエルの民を奴隷の地であったエジプトから助け出した神が、そのイスラエルの民に向って語られた言葉です。神が、そのようにイスラエルの民を助け出されたのは、イスラエルの民を我が子のように愛し慈しんでおられたからです。
 同じように、神は私たち人間を、全て愛し慈しんでおられます。なぜなら、聖書の神は、私たち人間を含む天地万物を造り、命を与えたお方だからです。私たちは、神の愛する作品なのです。だからこそ、神は私たち人間を愛し、慈しんでおられるのです。その神の慈しみは、キリストの十字架の死に表われています。キリストの十字架は、私たちの罪や心の奥に潜む、醜い心、自己中心的な心にo陥れる罪の力から、私たちを救いだし、神の愛の中に導く神の恵みの業なのです。

 ある人がこんな事を言っていました。「日本で見る太陽と外国で見る太陽に違いがあるはずはない。それは同じたった一つの太陽を見ているからだ。」そうです。たった一つの太陽は、地球の全ての国、すべての人に太陽の恵みを降り注いでいるのです。同じように、天地万物の創造者である唯一の神は、全ての国の人々に神の恵みを与えてくださるお方なのです。

 

 だからこそ、聖書は、神は唯一で、この神以外に信じるべきお方はいないとそう言うのです。ですから、皆さんのも日本の神だ外国の神だなどと言わず、ぜひ聖書の神を信じ受け入れて欲しいのです。

2024年2月6日火曜日

蛇の賢さと鳩の素直さ

 新約聖書マタイによる福音書十章十六節には、伝道の旅に出かけていこうとする弟子たちに、キリストかけられた次のような言葉があります。

「わたしはあなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り込むようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のように素直でありなりなさい。」

 狼の中に送り込むというのですから、そこには、様々な命に関わるような危険なこと出会うことがあるのだろうと思います。そんなときには、蛇のようにさとく、つまり賢く、また鳩のように素直であれ」というのです。でも、いったいどんな賢さが「蛇のような賢さ」であり、どんな素直さが「鳩のような素直さ」なのでしcょうか。
 いろいろと調べてみましたが、どうやら、キリストの時代、「蛇は危険を察するとさっと逃げて隠れてしまう」と思われていたようです。ですから、「蛇のような賢さ」とは、「危険を察したら、さっと身を避けて逃げる、そんな賢さ」を指しています。要は「危険に身をさらさないで、逃げるのも賢さだ」と言うわけですね。

 また鳩についてはというと、聖書は鳩に対して、旧約聖書ホセア書七章十一節で、「知恵の無い愚かな鳩ようだ」と表現しています。つまり、鳩は、自らの知恵と才能で事を切り抜けていけないような愚かさをもつ存在だと言うことです。そうすると、「鳩のような素直さ」とは、「命に関わるような危険な場面に出くわしたなら、自分で何とかしようとしないで、助けてくれる人の言葉に素直に耳を傾けなさい」と言うことになります。

 ところが、実際に命の危険を感じるような事態や場面といったものは、今の日本に住んでいる限り、早々感じられるものではありません。日本は、まだまだ世界の中では平和で安全な国だからです。けれども、聖書がいう命の危険というのは、何も戦争や犯罪で、身の危険にさらされると言うことだけではありません。この肉体の死と言うこと以上に、私たちの魂、あるいは霊が滅んでしまう、霊の死ということを含んでいるのです。
 この霊の死というのは、私たちと神との関係が完全に途切れてしまい、全く関係なくなってしまうと言うことです。神と私たちと関係が途絶えてしまうと、私たちは神が支配しておられる神の国、つまり天国に入ることが出来ません。

私たちが、死んでもその死ですべてが終わってしまうのではなく、その死の先に、やがてイエス・キリスト様が再び来れるときに復活し、神様と共に生きる天国がちゃんと備えられているということは、大きな希望です。死んだらそれでおしまいと言うのでもなく、あるいは、どうなるかわからないというのでもありません。安らぎと喜びに満たされた天国が、やがてイエス・キリスト様が再び来られるときに用意されているのだと言う確かな望みが与えられていることは、どんなに大きな慰めだろうかと思います。

その天国の望みが危機にさらされているとするならば、それは大変なことです。なのに、普段の私たちは、神とは全く関係ないかのように生きてはいませんでしょうか。それこそ、神なんか必要ないといって、自分の力や知恵、ある才能によって、人生に立ち向かい、頑張って生きているように思うのです。

 実は、それこそがまさに狼の中身を置いているような危険な状態なのです。だからこそ、そのような状況から早く抜け出して、神を信じ頼りながら、神が聖書を通して語りかけて下さる言葉に、素直に耳を傾けて生きていくことが大切なのです。それは、あなたが、天国という、肉体の死を乗り越えた大きな希望を決して失わず、平安と喜びの中を生きていくためなのです。ですから、ぜひあなたにも。神を信じ、聖書をお読み頂きたいと思います。

 

2024年2月3日土曜日

キリストの憤り

新約聖書ヨハネによる福音書十一章十七節から四十四節に次のような出来事事がかいてあります。それは、ある時、ラザロという兄弟を失い、悲しみの中にある二人の姉妹のもとにキリストがやってきました。そして嘆き悲しみ泣いている姿を見て、キリストは激しく、「霊の憤りを覚えられた」という出来事です。

 愛する者を亡くし、泣いている人を見て、憤りを感じるというのは、ちょっと不思議な感じがします。いったいイエス・キリスト様は、この時、何に対して憤っておられたのでしょうか。実は、この時イエス・キリスト様は、死という現実が、人の心に、大きな悲しみをもたらすことをごらんになって、その死と、死を私たちの世界にもたらした罪に対して憤られたのです。

 聖書がいう罪とは、犯罪を行ったとか、道徳的過ちを犯したと言うことだけではありません。むしろそれは、罪というよりもは悪と呼んだ方が良いものです。罪とは人が神に背き、神から離れて自己中心的な生き方をしていることであり、私たちを神から引き離そうとする力なのです。人は、神に対し背き、それは神から離れて自己中心的な生き方をするようになったのです。しかし、その「わたしたち」人間が背き、離れた神は、全ての存在の創造者であり、全ての存在に命を与えて下さるお方が神なのです。いわば、この命の源が神だといえます。
 この命の源である神に、背を向け、神から離れて生きるならば、人の命はやがて枯れはて、尽きてしまいます。こうして、私たちの世界に、死というものが入り込んできたのです。その死がすべての人を支配し、悲しみで心を一杯にしてしまう、そのような現実を見て、イエス・キリスト様は、死と、それをもたらした罪に対して、怒りと憤りを感じられたのです。

 そしてイエス・キリストは、その死んだラザロを甦らせたのです。このことは、キリストが、私たちを死から解放するお方であることを宣言し、また証明して見せた出来事だといえます。まさにキリストは私たちを、死とその死の原因となる罪から救い出して下さる救い主なのです。そして、私たちを命の源である神と結びあわせて下さるのです。

 死んだ人間が生き返るなんて、とても信じられない話のように思われます。けれどもこれは二千年前に確かに起こった出来事なのです。

 どんな医学が発達しても、人間の英知では不老不死に達してしていません。たぶん、これからも決して到達できないだろうと思います。けれども、神を信じ、キリストを信じる信仰は、私たちに希望を与えてくれます。それは、ラザロのように、私たちもやがて再びイエス・キリスト様がこの世界に来られるときに、神の国である天国で復活し、死に支配されることなく生きることが出来る希望なのです。

この希望がある限り、私たちは現実の苦しみや悲しみを乗り越える力が与えられます。それは将来に対する確かな望みだからです。そしてこの希望は神を信じる人には等しく与えられます。もちろん、あなたにも、与えられるのです。

2024年2月1日木曜日

エマオの途上のキリスト

  キリストは、十字架に磔になって死なれた三日後に甦られました。そのキリストが、エマオと言う町に向って歩いている二人の弟子に現われ、道連れなって一緒に歩かれたという記事があります。新約聖書ルカによる福音書二十四章十三節から三十二節です。

 この時、二人は、道々、仲間から伝え聞いた「どうやら、キリストは甦えられたらしい」という話について語りあっていました。そこに、当のキリストが現われたのです。ところが、二人の弟子たちは、目の前にいる人がキリストだとは気づきませんでした。というのも、キリストご自身が彼らの目をさえぎられたからです。
 どうして彼らの目をさえぎられたのか?その理由について、聖書には何も書いていません。ですから、推し量るしかないのですが、でも、たぶん、人から教えられ、それを鵜呑みに信じるということではなく、自分自身の心の中に、イエス・キリストが甦られたということを気づきとして信じ受け入れるためではなかったかなって思います。

二人の弟子は「自分たちを助け導いてくれるお方だ」と期待していたキリストが死なれた絶望と、伝え聞いた「キリストは甦られたらしい」という話の間で困惑していました。その二人に、キリストは、道々、旧約聖書全体から、聖書はキリストについてどういっているかを解き明されたのです。きっとその内容は、「キリストは私たちを支配する罪の力に勝利をし、罪がもたらす死に勝利をしたことを証明するために甦られる」といったものだったろうと思います。
 やがて夕暮れになり、一行は宿に泊り、食事をしようとしました。その時、食事の祈りをするキリストの姿を見て、ようやく二人は、その人がキリストだと言うことに気づきます。そして、キリストが解き明してくれた聖書の話が本当だったと言うことを知るのです。そして、弟子たちはこのように言うんですね。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心の内はもえていたではないか」。

 キリストは、キリストの死によって絶望していた弟子たちに、キリストの死は決して絶望ではないことを教えられたのだろう思います。むしろ、キリストが十字架に架かって死なれたことは、希望の出来事だと言うことをお示しになっていたのだろうと思うのです。それは私たちの罪の支配から解放され、神の民として天国に迎え入れられるという希望です。そして、その証としてキリストは死から甦られることを解き明されたのだろうと思うのです。
 その言葉は、絶望の中にいる弟子たちの心を励まし、再び希望の光を与えたのではないでしょうかね。それで「心の内が燃えた」ような気持ちになったんだろうと思います。

 キリストは、絶望の中にある者にも、希望を与え、励まし支えて下さるお方なんですね。このお方は、あなたの人生の歩みの道連れとなって、あなたと一緒に歩いて下さいます。そして、聖書を通して、あなたに希望を与え、励ましと支えてくださるお方なのです。