十戒 「父と母とを敬え」
現在、北京オリンピックが開かれており、多くのアスリートたちが自分たちの積み重ねてきた努力の成果を競い合っています。競技においては、勝者と敗者をあらわしていますが、勝者であろうと敗者であろうと、血のにじむような努力をしてきたからこそ、勝者に対しても敗者に対しても感動し、同じように拍手を送るのではないでしょうか。
私が多くの事を学んできたエラスムスという人は、信仰における努力ということを大切にしています。それは自らの信仰の歩みを研鑽するという努力です。私たちプロテスタントの教会の多くは、「信仰義認」ということを強調するがゆえに「救いは行いではなく神を信じる信仰による」と言ってきました。そのため、信仰における努力ということが見落とされてきました。
「救いは行いではなく神を信じる信仰による」という言葉は、間違っていません。それは正しいことです。私たちは自分の行いの結果、その行いに対する報酬として救いに与るわけではないからです。しかし、だからといって、神を信じる信仰は行いと無関係ではありません。神を信じるということは、神を見上げて生きるということでもあるからです。つまり、信仰とは神を信じるという決断と、神を見上げて生きるということから成り立つのです。
エラスムスという人が、信仰における努力ということを大切にしたのは、このためです。そして、その精神は十戒の中にも反映されています。いえ、旧約聖書自体、その精神に貫かれて書かれています。
以前にも申し上げましたが、十戒は前半部分が神と人との関係に関わる内容が関わっています。そこには、神を信じるということとはどういうことかということが書かれています。つまり、敬虔とは何かということ教えているのです。そして、後半の部分では、人と人との関係について書かれています。それは、神を信じる者の倫理・道徳に関わる者です。
倫理というのは、人間の行動を律するものであり、人と人との間にあって神を信じる者はいかに生きて行けばよいのかということを教えるものです。その人と人との関係を語り始めるにあたって、神はまず、「あなたの父と母とを敬え」と言います。
この言葉は、家庭という最も小さな共同体が意識されて語られた言葉に他なりません。同時に、その言葉は今から三千年以上前の、中近東のパレスチナ地方で語られたということを心にとどめておく必要があります。そのうえで、二つの点に目を向けたいということです。
一つは、「父と母を敬え」と「母」を入れている視点です。というのも、この中近東の文化の中には男性社会が根強くあるからです。三千年以上前の中近東を舞台にした聖書の中で、父を敬えというのではなく、母を敬えと言っている点は、極めて重要に思われます。
いうまでもありませんが、子供を愛するのは父親だけでなく、母親も子供を愛しています。聖書の中にも子供を思う母親の姿がいくつも描かれています。ですから、その家族関係の中で、「あなたの父と母とを敬え」というとき、それは、父と母を根拠は、父と母が子どもに注ぐ愛情がまずあり、その愛情に「父と母を敬う」という態度をもって答えるということなのです。逆に言うならば、父親と母親に対しては、まず子供の惜しみない愛情を注ぐことを聖書は求めているといってもいいでしょう。そのように、惜しみない愛が注がれ、それに敬いをもって応じる。それが親と子の関係なのだと聖書は教えているのです。
十戒は、旧約聖書にしるされています。その旧約聖書はキリスト教とユダヤ教、そしてイスラム教が聖なる書物として受け入れています。その中で、キリスト教に際立って見られる特徴は、神を父として受け止めている点です。私たちの教団の藤巻充先生は、宗教学的視点をもってキリスト教を見ることができた稀有な神学者であり、私たち福音派の中では、唯一の存在です。その藤巻先生は、キリスト教の宗教経験は、イエス・キリスト様が神を父として経験し、その神を父として経験した経験を伝えたところにあると言っていますが、とても鋭い指摘です。しかし、十戒は「父と母を敬いましょう」と言います。それは、神が父であり母である存在だからです。つまり、神の中には、私たちを守り、支え、そして教え導く父性と、限りない無限の愛を子に注ぐ母性があふれているのです。
ですから、十戒において「父と母とを敬いましょう」と勧めるその背景には、私たちに父なる神であり、母なる神でもある神を愛しましょうという」メッセージが、その根底にあるのです。