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2024年4月10日水曜日

神も仏もいない世界の真ん中で神の名を叫ぶ

 「神も仏もいない世界ん真ん中で叫ぶ」

 旧約聖書には、ヨブという人の人生が書かれたヨブ記というものがあります。このヨブという人物の人生は、波乱万丈の人生です。人生の前半は、神の祝福を得て、経済的のも恵まれ、また多くの子供たちにも恵まれたものだったのですが、突然、その人生が全く逆転してしまいます。

 ある日ヨブは、外国から来た略奪者やあるいは自然災害によって、ヨブの持っていた財産、その当時は牛や羊と言った家畜や、使用人たちですが、そのすべてを失い、また子供たちもみんな失ってしまったと聞かされるのです。

 しかしそれでもなお、ヨブは「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」と言って、苦しみと悲しみの出来事に出会っても、その出来事に向き合い、前向きに生きて行こうとするのです。

 ところが今度は、そのヨブ自身が病に侵されます。そして、その病の中で苦しみぬくのです。そのような中でヨブは「どうしてこのようなことが自分の身に起こるのか」を問いあます。その葛藤の中で、時に友人たちが、ヨブがこのような災難に会うのは、きっとヨブが何か罪を犯したために、その報いを受けているのだと責め立てるのです。これらの友人の言葉は、悪意があってのことではなかったでしょう。しかし、その言葉がより一層ヨブを苦しめるのです。

 実は、このヨブが経験した苦難の背後には、思いもよらない理由がありました。それは、神とサタン、日本語では悪魔と訳される存在ですが、そのサタンと神さまがヨブを巡って議論をしたという出来事です。悪魔は神に向かい言います。

「神様、あなたはヨブが立派な人間だ、見上げた信仰だと言われる。いや何ね。私は何もヨブが立派な人間でないとかいいかげんな信仰だなんていいませんよ。確かにヨブは立派な人間だ。見上げた信仰だ。でもね、そりゃ神様、ヨブはあなたから祝福を受け、多くの財産が与えられ、守られているからでさあ。ヨブだって、財産のすべて、神様あなたが祝福してくださったと思えること全部を奪ってごらんなさい。たとえヨブと言えど、手のひらを返したように、あなたを呪いはじめますぜ」

 「いやいや、サタンよ。言いたい放題言ってくれるね、だが断じてそのようなことはない。なんならヨブを試してみたらいい」。

そのようなわけで、ヨブの苦難が始まったのです。つまりこのヨブの物語は、ヨブの信仰の物語ではないのです。むしろ、神のヨブへの信頼の物語なのです。もちろん、当のヨブには、そんなことは知るよしもありません。ただただ「なぜなんだ。神を信じ、神と人も前に後ろ指を指されるようなことは一つもない私が、なんでこんな苦しみに会わなけりゃならないんだ。神様、いったいなぜなんだ」と神さまに問うのです。その問いは、ヨブの魂の叫びであり、真実なそして神への叫び声なのです。このヨブのような叫び声をあげる経験は、私たちの人生にも少なからずありように思います。

 そのような苦しみの中で、ヨブは神を呪うことはしませんでしたが、神様に激しく問うたのです。「神様、あなたは間違っている。何か間違っているのではないですか」と、ヨブは神さまを問い詰めていきます。

そのヨブに対して神は「ヨブよ、お前は知っているか?」と語り掛けるのです。

「ヨブよ、おまえは知っているか? お前はこの世界が、宇宙がどのように始まり、造られたのか。おまえは海の底を見たことがあるか。世界の果てまでいったことがあるか。知らないことだらけだろう。不思議なことだらけだろう。
 でも、おまえが知らなくても、この宇宙は存在し、私はそれを造り、天地創造からこのかた、その世界と共にあり、私が作ったこの世界を守り宇宙を守ってきた。だとすれば、おまえが苦しんだその苦しみの理由をおまえが知る必要はない。お前が知らなくても、私はちゃんと知っている。そして私はおまえ守り、おまえと共にいる。」

その時ヨブは、本当に、心の底から神を信頼したのです。そのことを聖書は次のようなヨブの言葉で表しています。

 わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います。

こうして、ヨブは、神さまを問い詰めて行った自分を悔います。そして、どんなに苦しみや試練が襲ってきても、神さまは、自分を顧み、共にいて下るのだということを信じ、神さまを前にも優って信頼するのです。そのようなヨブを、神さまは、試練や苦しみに会う以前に増して、多くの祝福を与えたというのがヨブの物語なのです。

 以前、私のパートナーがテレビを見ていて、小説家の遠藤周作が「神も仏もない」というようなところに立って、初めて私たちは本当の宗教をもとめるようになると言っていたと教えてくれました。「神も仏もない」というような苦しみの中で、私たちは初めて、本当に神を求め、神に出会い、神を信じ、神に寄り縋って生きる。遠藤周作は、そう言っているのです。

 私たちの人生にも、「神も仏もない」というような試練や苦しみや悲しみの時があります。そのようなの中で、神を求める時があるのです。その苦しみや悲しみの真ん中で、神を信じ、「私はある」という神の名を叫び生きていくならば、その神の名を叫ぶ人の人生には、神が与えたもう「義の冠」が待っています。「義の冠」は、私たち一人ひとりにも備えられており、神を人事る者に必ず与えられるものなのです。

2024年4月8日月曜日

心の中の葛藤


 15世紀にイタリアを中心としてルネッサンスと呼ばれる運動がありました。そのルネッサンスを適切に表現する言葉があります。それはラテン語の“facere quod in se est”(ファケーレ クオッド イン セ エスト/直訳では「あなたの内にあるものをなせ」、意訳すると「あなたがなりたい自分になりなさい)

 この言葉に通じるような言葉が聖書には、あります。次の言葉です。

あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである」
ピリピ人への手紙2章13節

 ここでは、私たちの心の内に神が善しとされる思いが起こる場があるというのです。そこに神が働きかける時、私たちは神が善しとされる思いを私たちの内に持つことができる。そのような場が、私たちの内にあると、聖書は言うのです。

ところが、同じ聖書でも、旧約聖書イザヤ書55章8節9節には

 わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。

と書かれています。このイザヤ書55章は、神のもとに祝福があるから、神のもとに来なさい、神のもとに帰りなさいと語りかける恵みの言葉が書かれている箇所です。神さまは、私たち人間に「悪しきものは自分の道を選び、主に帰ることをしないから、その自分の道を捨てて神に帰れと呼びかける中で「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっている」言われます。それは、私たちの心の内には、しばしば神の思いや願いとことなる自分の思いや願いが起こってくるという現実があるからだと言えます。

 このように、聖書は、私たちの内には神に善しとされる「善き思い」と神に背き、神のお心に添わない「悪しき思い」の二つがあるというのです。そして、その二つの思いが私たちの心の中に葛藤を引き起こします。パウロという人はは、その葛藤を霊の思いと肉の思いが引き起こす葛藤だと言っていますが、その霊と肉との間にあって葛藤する人間の姿を、神の御子であるイエス・キリスト様の中にも見ることができます。それは新約聖書のマタイによる福音書26章33節から44節において記されたイエス・キリスト様のゲツセマネの祈りです。

 その個所の全部を書きますと長くなりますので、イエス・キリスト様の祈りの部分だけ記しますが、このように祈るのです。


(イエス・キリスト様は)少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」
 更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。

 このゲツセマネの祈りにおいて、イエス・キリスト様の最初の祈りは、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」と祈ります。そこには、自分の中の二つのと異なる思うの狭間に立ち、葛藤する人間イエスの姿を見て取ることができます。

 それは、十字架という苦難の道を歩まそうとする神のお心とその神のお心に従って生きるものでありたいと願うイエス・キリスト様のfacere quod in se est”(ファケーレ クオッド イン セ エスト/直訳では「あなたの内にあるものをなせ」、意訳すると「あなたがなりたい自分になりなさい)とその十字架の死を避けたいと願い、すなわち「この杯を過ぎ去らせる道」を歩もうとするイエス・キリスト様の”facere quod in se est”の葛藤です。

 しかし、二度目、三度目の祈りでは、もはや自分の思いは、もはや現れ出ず、ただ、「わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」と祈られています。そこには、葛藤を突き抜けて、神のお心に従って生きることを願うイエス・キリスト様のお姿があるのです。

 みなさん。私たちは、絶えず善を求める心と、事の善悪に関わらず自分のしたいことをしたいという願いの葛藤の中にあります。そのような葛藤の中で、私はみなさんの内に在る善を求める心に従って歩んでいただきたいと願います。なぜなら、善を求める心は神さま方出てくるからです。  神さまはその御性質において、善です。私たちはその神さまの像(かたち)に似せて作られているのです。つまり、私たちは、善いことをするように作られた善い存在なのです。あなたは、善い者として造られているのです。

 では、どうすれば善いことをすることができるのでしょうか。どうすれば善を選ぶことができるのでしょうか。それは、みなさんが絶えず、そして繰り返し、受肉し、人となられて歩まれたイエス・キリスト様のご生涯を心に刻み、絶えず思い起こすことです。イエス・キリスト様は完全な神の像です。だからイエス・キリスト様に倣って生きるならば、わたしたちは善き者を求めて生きることができるのです。そして、私たちの内にも神の像が与えられている。
 だからこそ、私たちは、イエス・キリスト様の弟子を信じ、イエス・キリスト様を模範とし、このお方に倣い、このお方のように生きていく。そのようなものでありたいと願います。

2024年4月5日金曜日

努力や頑張りではなく

一生懸命頑張ったのに手ごたえがないというのはつらいものです。やれどもやれども達成感がないのです。そうなると、一体どうしたらいいのかと、途方にくれてしまうような気がします。今からお話しする青年も、実はそのような人でした。

その青年は、イエス・キリスト様に「先生、永遠の命をえるためには、どんな良いことをすればいいのでしょう。」とそう問いかけました。それに対してイエス様は戒めを守りなさいそう言われる。そして、具体的に「殺すな、姦淫するな、偽証を立てるな。父と母を敬え、」いった旧約聖書に書いてある十戒と呼ばれる神様から与えられた十の戒めに書かれている、対人関係における戒めをあげ、そして最後に「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」と言うのです。

  この言葉をきいて、青年は「そのような事は、みんな守っています。」とそう言います。「そのような事は、みんな守っています。」といわれると、私たちは「本当かな」と思います。そして、この青年はただの傲慢な人間のように感じさえしてまいます。私たちにはなかなか出来ないことだからです。

 わたしは、この青年は「本当に一生懸命、旧約聖書にかかれている戒めを、忠実に守り、守る為に一生懸命頑張っている。そういった意味では、彼は、神の戒めに誠実な人だった」のではないかと思います。と言うのも彼は、彼は「そのようなことは、みな守っております。何がまだ、かけているのでしょうか。」と問うているからなのです。一生懸命やったけれども、まだ何か足りないものがあると感じているその姿勢には真摯でまじめな態度が感じ取られるからです。
 けれども、そんな聖書の言葉に誠実な人が、どんなに一生懸命聖書の言葉を守っても、努力して頑張っても、自分の心に平安が得られない。心にやすらぎがやって来ない。達成感がないのです。そして自分は大丈夫。間違いなく神の国、天国にいけるという確信が訪れてこないのです。だからこそ、「まだ何が足りないのですか。」「何がかけているのでしょうか」と問っているのです。

それこそ、どんなに一生懸命頑張っても、神の国の平安、永遠の命を自分の手にしたという手ごたえが得られない。そして、どうしたらいいかわからないで戸惑っているのが、この青年だといえます。神の言葉である聖書の教えに従い、それを守ろうと忠実に頑張っているのに、魂に平安を得られない人が、ここにいるのです。

 このことは、実に不思議な事だといえます。頑張れば、頑張っただけの報いが受けられて然るべきです。そう思うのは、今も昔も同じ世の常のように思われます。実際彼は頑張り屋だったようですので、その結果として多くの富を得ていたようです。当時のイスラエルでは、富と言うものは、神様の祝福であると考えられていたのです。神の律法を頑張って守り、忠実に歩むものが、神様からの祝福を得て豊かにされていく。それは、誰にでも納得できるわかり易い理屈のように思われます。

ところが、イエス・キリスト様は、「富んでいるものが天国にはいるのは、ラクダが針の穴を通る方がもっとやさしい。」とそういわれるのです。この言葉に。イエス・キリスト様の弟子達は非常に驚くのです。非常に驚いて「では、だれが救われることができるだろうか。」とつぶやくざるを得なかった。
 神の言葉である聖書の言葉を一生懸命守ろうとがんばっているこの青年は、その努力に対して富をもって祝福を得ている。そのような人がが、天国に入れないとするならば、一体誰が天国には入れるのか。だれもが、あの人なら、神様の祝福を受け手も当然だと思えあれる人であってもダメだというのなら、一体救いはどこにあるのか。弟子たちの驚きは、単に驚愕するといった驚きと言うよりもは、なにか絶望感をただよわせるような響きがあります。

これ以上ないような頑張りを見せても、あなたの努力や頑張りを、イエス・キリスト様はまだまだ不完全だといわれるのです。21節の「もし完全になりたいなら」と言うイエス様の言葉は、「完全になりたいなら」という以上、この青年がまだ不完全だという事をお認めになっている言葉になります。

「殺すな、姦淫するな、偽証を立てるな。父と母を敬え、」いった十戒めにある、対人関係における戒め上げ、そして最後に「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」と言われて、すべてそれらは行なっている言う青年自身も、それだけでは不完全であることがわかっている。わかっているからこそ、イエス・キリスト様のところに尋ねにきたのです。そして、イエス・キリスト様もその不完全さをお認めになる。

 この、頑張って神の言葉を守ろうと努力すればするほど、何かかけている、これじゃダメだと感じる気持ちは、真摯に神に向き合う人が感じる心の様相であるようです。

宗教改革をおこなったマルティン・ルターは、若いころに森を散歩しているときに落雷に会うという、まさに九死に一生を得る経験をしました。そのこと通して、彼は神の裁きというものを、深い恐怖とともに実感するのです。そこで、彼は神様に祈ります。「神様、もしあなたが私を滅びから救ってくださるのなら、私は修道院に入ります。」とそう祈るのです。ルターは神に真摯に向き合うような人でしたから、その祈りにしたがって修道院に入ります。
 そしてその修道院では、一生懸命修養し、修行し過ごすのですが、頑張って、頑張って一生懸命頑張れば頑張るほど、ルターの罪の意識は深められて、心が苦しみます。そしてその罪の意識に恐れ、不安を感じてどうしようもなくなるのです。彼もまた、自分の頑張りではどうしようもない、何か欠けたものを感じたのです。

一体、人間の努力や頑張りではどうしようもない欠けとはなんなのでしょうか。誰もが、彼が天国に生けないとしたら誰が天国にいけるのだろうかと思わせるような人でも、不完全だといわれるのであれば、どうすれば完全になれるのでしょう。ましてや、私たちはどうしたらいいのか。

そんな、青年にイエス様は「あなたが完全になりたいなら、」とそういって、何が欠けているかを示しました。それが「帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすればあなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、私について来なさい。」ということです。このイエス様の言葉は、「帰って、あなたの持ち物を売り払って、貧しい人に与えなさい。そうすればあなたは天に宝を積むことになります。」と言う言葉と「私に従ってきなさい」と言う言葉の二つに分ることができます。そしてその分けられた二つの言葉の、どちらに重きをおくかによって、理解の仕方が変わってきます。

 わたしたちは、「あなたの持ち物を売り払って、貧しい人に与えなさい」と言う言葉が、非常にインパクトがありますので、そちらの言葉ばかりに目が行ってしまいます。そして。「持ち物を売り払って、貧しい人に与えなさい。」という言葉に重きをおくならば、財産を全部施しに使えという社会的な慈善活動をもっとしなさいという意味に捉えることが出来ます。言うなれば隣人愛を限りを尽くして徹底しなければならないということです。

  しかし、「私に従ってきなさい」と言う言葉に重きをおくならば、イエス・キリストの弟子となって、イエス・キリスト様の語られる言葉にじっと耳を傾けてきく」と言う意味になるでしょう。ひょっとしたら、この青年も、わたしたちと同様に「持ち物を売り払って、貧しい人に与えなさい。」という言葉の方に重きをおいて、イエス・キリスト様の言葉を聞いたのかもしれません。だから、「この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去って行ったのです。彼はたくさんの資産を持っていたからです。

 もちろん、たくさんの資産があるがゆえに、それに心が縛り付けられて、イエス様の言葉を受け入れられなかったということもあるかもしれません。しかし、それだけではないでしょう。

 人間は、これ以上ないほど一生懸命頑張っている時に、頑張れと言われるのが一番つらいことだといわれます。必死に頑張っているのに、更に鞭打たれるような感じがするそうです。一体これ以上どう頑張れというのかと言う感じがするようです。。自分のできる限りの事をしているのに、もっとそれ以上といわれると、悲しみながら帰って行くしかないのです。自分ではできる限りの事をしているのに、お前はまだできるだけの資産があるじゃないか、さあそれをやれと言われれば、悲しい顔をして去っていくしかないのです。

 それでは、イエス・キリスト様とは、もうこれ以上頑張れないという人に鞭打たれるお方なのでしょうか。いいえ、そうではありません。この青年は、「私に従ってきなさい」と言う言葉を聞き落としているのです。自分の持っているものを全部売り払って、貧しい人に施しをしてしまったならば、もはや自分の力でできる施しは何もありません。神様の前に、これこれの良いこと事をしましたということのできる材料は、もう何もなくなるのです。

  残されたものは、ただイエス・キリスト様に従っていく、イエス・キリスト様の言葉に聴き従っていくということしかないのです。イエス・キリスト様は、あなたは十分に頑張った。もうこれ以上頑張る必要などない。これからは、ただ神さまと私によりすがって生きて生きなさいと言われているのです・
 ですからイエス・キリスト様の「持ち物を売り払って、貧しい人に施しをしなさい。」という言葉や「富んでいるものが天国にはいるのは、ラクダが針の穴を通る方がもっとやさしい。」と言う言葉は、富を持っていてはいけないというような、富の否定でもなければ、頑張りに更に鞭打って頑張れと言うのでもないのです。

 むしろ、どんなに人が努力して頑張っても手に入れることが不可能な永遠の命や神の恵みといったものは、ただ神を信じ、イエス・キリスト様の十字架の死による罪の赦しといったことを信じる事だけで、手にすることが可能なのだというのです。人の頑張りや努力、残していった功績に関わらず、神の恵みや神の王国で生きる永遠の命が与えられるということは、なんとありがたいことでしょう。ですから、私たちもまた、人間の努力や功績によってではなく、ただ神様を信じる信仰によって生きていく者でありたいと思います。

 そのような生き方を見つけ出したならば、どんなに達成感が得られないようなときでも、あの青年のように、悲しみながらイエス様の前を去っていく事がないからです。むしろ、喜びに嬉々としながら、イエス様の後に従っていける者となっていけるのです。

2024年4月3日水曜日

悲しみの極み

  私は、子供が被害者になってしまった事件や事故のニュースを見聞きするのがとても苦手です。大嫌いと言ってもいい。私もまた子供がいるからです。だから被害にあったお子さんに、自分の子供達の顔が重なり合い、そして親御さんの心に、自分の心が重なり合って、なんとも心が痛み苦しくなってしまいまってやるせなくなってしまうのです。そして、無償に悲しくなる。

 聖書の中にも、いくつか、子供を亡くした親の姿が描かれています。そして、その中の一つに事例を読んでおります時にと、私ははっとさせられ、そして考えさせられたのです。と申しますのも、現実にニュースを通して子供が被害者となった事件などに触れたときには、被害に遭われたお子さん達のこと、その心を思い、また親御さんの心に自分の心を重ね合わせて、心が痛み、悲しみ、その反動のようにして、犯人や、その出来事自身に激しい憤りと、怒りを感じているのに、同じように子供を亡くした親のことが書かれている関署の記事を読んでいるときには、けっしてその悲しみや心の痛みに心を重ね合わせていない自分がそこにいたからです。

 確かに、聖書の中の出来事は2000年も前の遠いイスラエルの出来事ですから、身近な事として感じられないということもあるのかもしれません。。しかし、親の親としての心に時代や地域は関係ありません。子供を失った親の気持ちの痛みは、同じ親ならば心を重ね合わせる事ができるはずです。なのに、聖書を読むときに、私は、そこに描かれている親の心に自分の心が重なり合っていなかったです。今回だけではなく、今までもずっと、傍観者のように、そしてあたかも客観的な観察者のようにして、その記事を読んでいる。

 一体どうしてなのでしょうか。どうして、心が重なり合わなかったのでしょうか。それは、ある意味、変な話ではあるのですが、それが聖書の中の話であったからのように思うのです。聖書の中の話であるがゆえに、私の目と心は子どもを亡くした親に注がれるのではなく、イエス・キリスト様に注がれ、イエス・キリスト様がなされる御業と語られる言葉の向けられ、私の関心はその意味するところが何であるかということに注がれている。それは、ある面、キリスト教の信仰者としては仕方のない事かもしれませんし、当然のことなのかもしれません。しかし、その当然のことの中に、私たちが見落としやすく、また陥りやすい誤りがあるのです。

 それは、私たちの主であるイエス・キリスト様は、悲しみの極みの中にある人のただ中に立たれ、その人に目を向けられ手おられるということです。イエス・キリスト様の目は、それを傍観し、それが私にとってどのような意味を持ち、私の生をどのように導くかという関心を持って見ている私たちに注がれているのではない。むしろ、聖書の中にいる悲しみ・苦しんでいる心そのものに向けられているのです。それに対して、私たちは、ともすれば私とイエス・キリスト様との関係という事に目が向けられ、イエス・キリスト様が心を向けられている悲しみと苦しみの中にある人々を脇に追いやってしまう。時には、全く視野に入れないでいるということもありうるのです。いわば、交わりの中から排除してしまうという誤りを、知らず知らずのうちに犯してしまうのです。

  神の御子だるイエス・キリスト様は、確かに悲しんでいる心に目を注ぎ、悲しんでいるものの傍らに立たれておられる。同じように、イエス・キリスト様の親である神は、そのイエス・キリスト様に目を注ぎ、イエス・キリスト様を通してイエス・キリスト様が目を注いでおられる。神さまと言う存在は、いつも悲しみ、苦しむ人たちに目を注がれているのです。

 その悲しみや苦しみといったものは、しばしば深い苦悩と孤独の悲しみの極みにわたしたちを陥らせます。そして、そのような悲しみの極みの中にある人たちの傍らには、神さまがそっと寄り添っておられるのです。そして神の御子であるイエス・キリスト様も、深い悲しみの極みにある人により添ってくださるのです。

 

2024年3月24日日曜日

24年3月第四主日(棕櫚の日曜日/受難週)礼拝「完成された使命」

 

243月第四主日(棕櫚の日曜日/受難週)礼拝「完成された使命」   2024.3.24

旧約書:出エジプト記の24章1節から11
福音書:ルカによる福音書2344節から49
使徒書:ヘブル人への手紙923節から28 

今日は、教会暦でいうならば棕櫚に日曜日になります。棕櫚の日曜日は、イエス・キリスト様が、棕櫚の葉が敷き詰められた道を子ロバにのって、エルサレムに登って行かれたというエルサレム入城と呼ばれる出来事を記念する日です

 ですから、本来ですと、そのエルサレム入城の記事から説教をするところですが、私たちは、今、毎週の礼拝でヨハネによる福音書を最初から順序に従って読み、説教の言葉に耳を傾けています。その関係で、2月の後半の礼拝で、このエルサレム入城の出来事から説教がなされました。
 ですので、今日は、からイエス・キリスト様の受難の物語が記された記事から説教をしたいと思います。棕櫚の日曜日から受難週に入るからです。ですので、329日のイエス・キリスト様が十字架にかけられた日である聖金曜日を思いつつ、ルカによる福音書2344節から49節を通して神の言葉をお取次ぎしたいと思います。

この箇所は、イエス・キリスト様が、十字架刑に架けられ亡くなられた場面を描いた箇所です。そこにおいて、このルカによる福音書の著者は、イエス・キリスト様が十字架に磔になったのは、昼の12時頃であり、その時に全地が暗くなり、3時に及んだと述べています。この記述が、イエス・キリスト様を太陽に見立てて、その死を比喩的に表現したのか、あるいは、実際にそのような現象が起こったのかは、定かではありません。 

仮に、実際の自然現象として昼の12時ごろから、3時ごろまで暗くなったというと、ちょうどその時に皆既日食でもあったのかと思いたくなりますが、ユダヤ人の過ぎ越しの祭りは太陰暦、つまり月の満ち欠けによってきまりますので、過ぎ越しの祭りの時に起こったイエス・キリスト様が十字架に架けられた時に、タイミングよく日食が起こったということは、考えられません

もしかしたならば、厚い雲に覆われてしまって、真っ暗とは言えないまでも、相当暗く感じるような出来事があったのかもしれませんし、神さまがなされた奇跡の業として、「昼の12時ごろであったが、太陽は光を失い、全地は暗くなって、3時に及んだ」のかもしれません。
 しかし、確かなことは、この「昼の12時ごろであったが、太陽は光を失い、全地は暗くなって、3時に及んだ」という表現が、イエス・キリスト様の死を現す象徴的な表現で用いられているということです。
  イエス・キリスト様は「義の太陽」としてこの世界に来てくださったお方です。そのお方が今まさに十字架の上で死なれようとしている。そのことを表現「太陽は光を失い、全地は暗くなる」というこの言葉は、見事に視覚的に表していると言えます。 

みなさん、私たちは「太陽は光を失い、全地は暗くなる」といった表現を聞きますと、何か不吉な、悪いことが起こっているような感じを持ちます。ですから、この言葉から神の裁きと言ったことを想像するかもしれません。
 しかし、私は決してそのような事ではないと思っています。なぜならば、この「太陽は光を失い、全地は暗くなる」という言葉に引き続いて、「そして聖所の幕がまん中から裂けた」というからです。

この聖所の幕というのは、おそらく至聖書所といわれる神殿の中にあっても、特に神の臨在が顕される場所で大祭司が年に一度だけ、イスラエルの民を執成すために入ることができる聖なる場所と、聖所という、通常の時に祭司たちが祭儀を行う場所を隔てていた幕のことであろうと思われます。
 この幕は、文献によると20mもの大きさがあり厚さも10㎝もあったといわれますので、そうそう簡単に破れるものではありません。それが真っ二つに裂かれたのです。それが何を意味するのか。 

それについては、いくつかの解釈がありますが、この神殿の幕屋が裂けたということは、聖所と至聖所を隔てるものがその働きを終えたいうことでもあるということです。それは旧約聖書の律法に定められているの祭儀、まさに年に一度、犠牲の動物の血をもって大祭司がその幕を通って至聖所に入り、民の執り成しと贖いのための祭儀をするという神殿祭儀が終わったというのです。

と言うのも、先ほどお読みしたヘブル人への手紙923節から28節において、特に25節において 

大祭司は、年ごとに、自分以外のものの血をたずさえて聖所にはいるが、キリストは、そのように、たびたびご自身をささげられるのではなかった。もしそうだとすれば、世の初めから、たびたび苦難を受けねばならなかったであろう。しかし事実、ご自身をいけにえとしてささげて罪を取り除くために、世の終りに、一度だけ現れたのである。 

と言われているように、イエス・キリスト様の十字架の死において、律法に定められている年の一度の贖罪の日に、大祭司によって行われていた犠牲の供え物を捧げる必要がなくなったからです。

そこにおいて、神を信じる者を神の民、神の子として回復する神の救いの御業が、イエス・キリスト様によって完全に成し遂げられたのです。だから、もはや犠牲を捧げるという必要はないと、ヘブル人への手紙を記した聖書記者は言うのです。 

それは、イエス・キリスト様の救い主としての使命が終わったということを意味します。神の御子であるイエス・キリスト様が、神であられるのに人となる、これを神学の言葉で言いますと受肉と言いますが、神の御子が人として生まれ、人として生き、人として死んでいくという受肉によってなすべき業をすべてない終えられたのです。

その死の最後が、十字架の死であった。それは人として最後まで神に従順に従い抜いた姿なのです。

みなさん、私たちは、さきほど出エジプト記の24章1節から11節の言葉に耳を傾けましました。そこに記されている記事は、神さまがモーセに律法を付与し、イスラエルの民にその内容が知らされた後に、その律法が神様とイスラエルの民の間を結ぶ契約として結ばれたたときの出来事が記されています。 

神さまは、ご自身がイスラエルの民の神となり、イスラエルの民に祝福と恵みをもたらしてくださることとを約束してくださいました。それに対して、イスラエルの民は、「わたしたちは主が仰せられたことを皆、従順に行います」と言って、祝福と恵みを約束してくださる神さまに応答します。

こうして神の約束に対して、自分たちが負う神への約束をもって、神とイスラエルの民との間に契約が結ばれるのです。そしてその契約の徴として燔祭と酬恩祭のために捧げられた犠牲の動物の血を、モーセは「見よ、これは主がこれらのすべての言葉に基いて、あなたがたと結ばれる契約の血である」といって、民に注ぎかけるのです。

 みなさん、イスラエルの民は、「わたしたちは主が仰せられたことを皆、従順に行います」と言って神様に約束します。彼らは、その時、本気でそう思っていたのだと思いますし、私もそう信じたい。けれども、その後のイスラエルの民の歴史をみると、彼らが、「わたしたちは主が仰せられたことを皆、従順に行います」と言った言葉を、ちゃんと実行できているかというと、とてもそうとは思えない歴史を彼らは歩むのです。

 これは憶測にしかすぎません。ひょっとしたら神様も、彼らが自分が語った言葉を守れないだろうということは、最初から分かっていたかもしれません。私たち人間は、完全に何かをやりこなすことなどできない弱さや欠点を持っているからです。そのようなイスラエルの民を、いえ、イスラエルの民に代表されるところの人間すべてを神さまは信じ、神の民としてくださるというのです。

 みなさん、神さまは、イスラエルの民が神様を信じたから、イスラエルの民を信じたのではありません。まず、神さまがイスラエルの民を信じ、信頼して彼らと約束をしよう、神の子とする契約を結ぼうと言ってくださったのです。その神の信頼に応じて、イスラエルの民は、神を信じ神の民となったのです。

 信仰は、私たちが神を信じることから始まるのでありません。神が私たちのことを信じてくださったということから始まるのです。あとは、その神さまの信頼に私たちがどうこたえていくかが問われていると言えるでしょう。
 しかし、その私たちは、欠けの多い存在なのです。だからこそ、イエス・キリスト様という受肉した神が必要なのです。私たちが完全になることができないからこそ、十字架の死に至るまで、完全に神様に従い抜いた完全な人としてのイエス・キリスト様というお方が必要だったのです。

 そのお方の十字架の死によって、「わたしたちは主が仰せられたことを皆、従順に行います」という神の民の約束が、完全に成就したのです、イエス・キリスト様によって。だからこそ、イエス・キリスト様は「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と言って息を引きとられたのです。

 その様子を見ていた百人隊長が「神をあがめ、『ほんとうに、この人は正しい人であった』と言った」というのです。聖書には「その様子を見て」としか書かれていませんので、あたりが暗くなった様子なのか、神殿の幕がさせたことなのか、イエス・キリスト様が「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と言って息を引きとられた様子なのかは定かではありませんが、文脈からすれば、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と言って息を引きとられた様子であると考えるのが妥当だと思います。
 そしてその様子は、穏やかな平安に満ちたものであっただろう、私は思うのです。もちろん、十字架に磔られていますから、肉体的な苦痛はあったでしょう。しかし、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と言う言葉は、自分がこの地上でなすべきことはすべてやり終えたので、あとは父なる神様におゆだねしますという、平安に満ちた響きを感じるのです。

当時のエルサレムでは、それなりに噂となり、話題となっていたと思われますから、この百人隊長も、イエス・キリスト様のことについては知っていたでしょう。そのイエス・キリスト様の最後が、なすべき業を成し遂げ、神さまにすべてをゆだねる、平安に満ちたものであった、だからこそ、「神をあがめ、『ほんとうに、この人は正しい人であった』」と言いうのです。そこには、神の栄光が現れ出ています。

 みなさん、この神の栄光に、私たちも招かれています。そして、「神をあがめ、『ほんとうに、この人は正しい人であった』と言うイエス・キリスト様の平安に私たちを招かれているのです。

 私たちが、神を信じ、イエス・キリスト様を信じて、このお方と日等に結び付けられるならば、神の栄光と死に直面してもなお、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と言うことができる主イエス・キリスト様の平安に、わたしたちも生きることができるのです。
 そのことを覚えながら、十字架の上で「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と言って息を引きとられたイエス・キリスト様のお姿を想い廻らしたいと思います。静まりの時を持ちます。

2024年3月7日木曜日

言葉や口先ではない愛を


新約聖書のヨハネ第一の手紙3章18節に

子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか。

という言葉があります。この言葉は、愛すると言うことが主題です。しかも、「言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか」と言うのですから、具体的に愛すると言うことが形となって現れてくると言うことです。

 ある方のお宅を訪ねて時のことです。その方は、車いすでの生活を余儀なくされておりますが、ほとんど毎日、福祉ボランティアの方が身の回りのお手伝いをしてくださっています。
 私は、そのボランティアの方の働いている姿を見ながら、「言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛する」ということは、「ああこういうことなんだな」とそう思いつつ、その方のなさることを這う件しながら、私はそのように、お世話をしてあげる力の源は何だろうかと考えてみましたが、結局、その力は、私たちの内に在る愛から湧き出てくるのだとしか考えられないのです。相手の方を想い、相手の方の気持ちになって、その方が喜んでくれることをしようとする。それは、私たち人間の内に与えられた愛というものからしか出てこない思いであり、行動なのです。

 このお世話をしてくださっている方は、それこそ、言葉や口先で愛するのではなく、行いと真実をもって、愛すると言うことを実践しているのです。それは、私たち人間は、すべからく、心の中に愛というものが与えられているからです。聖書は、私たち人間は、神の像に造られたと言います。それはまさに、私たち人間が愛する者として造らいるということだと言ってもいいだろうと思います。
 なぜなら神の像というのは、互いに愛し合う心なのです。考えてみますと、聖書は愛すると言う主題が一貫してつらぬかれている書物だと言えます。例えばマルコによる福音書12章28節から34節では、イエス・キリストは、聖書が言っている内容を要約して言うと

「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」

となると言っています。

興味深いことですが、旧約聖書には、雅歌と呼ばれるものが含まれています。この雅歌は、男女の赤裸々な愛の告白が綴られている書物です。それはまさに、男と女が愛し合うような愛の関係の中に神の像が顕さてくるからです。その雅歌の2章16節には「わが愛する者はわたしのもの、わたしは彼のもの」と言う言葉が記されています。
 この「わが愛する者はわたしのもの、わたしは彼のもの」と言う言葉は、この言葉祖通りに受け止めるとするならば、互いが互いに与え合うところの麗しい愛し合う者の姿を現しています。つまり、愛とは、自分の持てる者を与える行為であると言うことです。時間を与え、労力を与え、自分の持てる者のすべてを相手に与える。そのような愛で愛し合う姿がそこにある。

 人間とは、そのような愛で愛し合うものだ。そのような愛で愛し合うものとして神が人間をお造りになって下さっている。だからこそ、先ほどお話しをした車いすの方をお世話くださっている方のお姿に、愛が顕れ出ていると感じるのです。それは、人間の本性に神が神の像として与えてくださった愛があるからです。
 しかし、同時に、神はイエス・キリスト様と言うお方のご生涯を通して、その私たち人間に与えられてるより深い可能性を私たちに見せてくださっている。そしてそれは、敵をも愛し、迫害する者のために祈る、そんな愛です。マタイによる福音書5章43せつ44節には次のようなイエス・キリスト様の言葉があります。

43:『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 44:しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。

 本来なら、敵は憎むべき相手です。そして迫害し危害を与える相手は、愛するどころか顔も見たくない存在です。呪うことはあったとしても、その人のために祈るということなど考えられないことです。けれども、イエス・キリスト様は、そのような敵や、迫害する者でも愛しなさいと言われる。そして言われるだけではない。それこそ、ご自分を十字架に架けて張り付けた人々に対して、「父よ彼らをおゆるし下さい。彼らは何をしているのかわからないでいるのです」といって、執成しの祈りをささげる。ルカによる福音書23章34節に記されている出来事です。
 そこには、まさに「言葉や口先で愛するのではなく、行いと真実とをもって愛そうではなうか」と言われる愛を生きるイエス・キリスト様のお姿がある。そのお姿を、弟子たちは後の時代の人に語り伝え、そして書き記していったのです。

 この聖書の言葉を書き記しているのは、イエス・キリスト様弟子であるヨハネです。ヨハネは、本当に行いと真実をもって敵を、そして迫害し、危害を加え、ご自分の命を奪おうとする者までをも愛されたイエス・キリスト様のお姿を、すぐそばで見ていた人です。そのヨハネが、彼の周りにいた人々に「子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか」と言うのです。
 このヨハネという人は、かつてはボアネルゲ、すなわち雷の子と言われるぐらい怒りやすい人でした。それこそイエス・キリスト様を受け入れない人たちを、天から火を呼び寄せて焼き払ってしまいましょう(ルカ9:54)なんてことを平気で言うような人でした。
 そのヨハネが、行いと真実をもって敵をも愛し抜かれたイエス・キリスト様のご生涯を、すぐそばで見ていく中で「愛の使徒」と呼ばれるように変わっていた。そして、こんどはヨハネ自身が、自分の弟子たちに「子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか」と教え諭すものとなっていったのです。

 伝説では、ヨハネはイエス・キリスト様を信じる者たちの集まりに顔を出した時に、最初に口を開く言葉は「兄弟たちよ、互いに愛し合いましょう」と言う言葉であったと言われます。それは、互いに愛し合うところに神の愛が顕われ出てくるからであり、イエス・キリスト様のお姿が顕われ出るからなのです。そして私たちも、ヨハネにように変わることができます。神を信じ、イエス・キリスト様の生き方に倣って生きるならば、わたしたちも愛の使徒になれるのです。

2024年3月4日月曜日

「命の主権者」

 新約聖書ルカによる福音書12章13節以降にこんな話があります。


ある時一人の人が、キリストに相談を持ちかけました。その人は、兄弟が自分に、遺産を分けてくれないので、キリストに遺産相続の調停をしてもらおうと思っていたようです。
 キリストは、この人の相談を聞きながら、この人が、自分に遺産が入ってくれば、自分の将来は安心だと思っていることを見抜き、こんなことを言われたんです。「どんな貪欲にも注意しなさい。いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです」。」そして、こんな例え話をしました。

「ある金持ちが、豊作で何年分もの食料を、蔵一杯に蓄え、心の中で、こう言いました。『これから先何年分もの食料が、たくわえられたから、もう大丈夫。安心して暮していける。』 その時神がその金持ちに語りかけます。『愚かな人だ。あなたは自分のために、これからのために、何年分もの食料を用意したが、お前の命は今日、取り去られる。そうしたら、お前が蓄えた食べ物は誰のものになるのか』」

 この例え話は、将来のために蓄えをすることが愚かなことだと言っているのではありません。将来のために、計画的な準備をすることは決して悪いことではないのです。けれども、キリストは、それだけでは十分ではない、もっと大切なことがあるのだということを教えているのです。それは、神を信じ、神により頼みながら生きると言うことです。

 もともと、この話は、一人の人が自分に遺産が入ってくれば、自分の将来は安心だと思い、キリストに遺産相続の調停を願い求めたところから始まっています。きっと、彼が受け取ることの出来る財産は、膨大なものだったんでしょうね。もし私たちが、この人と同じように、膨大な遺産を受け取ることが出来るとしたら、私たちだって、きっと同じように思っただろうと思います。人間は、今も昔も、お金や財産が人の幸せや将来を決めてしまうかのように、思ってしまうものなんですね。

 でも、実際はどんなにお金を積んでも、明日の命が保証されるわけではありません。私たちの命の主権者、お金でもなく、私たち自身でもなく、ただ神さまだけなのです。だからこそ私たちは、神さまを信じ、自分の人生を、命の主権者である神さまに委ねていくことが大切なんですね。
 この命の主権者である神さまは、私たちを神の子とし、神の命である永遠の命を与えるためには、一人子であるイエス・キリスト様を、十字架で死なせました。それは、死そのものに打ち勝ち、死から甦らせるためです。そして、確かにイエス・キリスト様は、死から甦られたのです。そのために、イエス・キリスト様を十字架に死という苦難の中をあえて通らさせたのです。それほどまでに、神さまは、私たちを愛しておられます。だから、生きるにしても死ぬにしても、安心して私たち自身を委ねることが出来るのです。この神さまを信じ、あなたにも本当の平安を手に入れて欲しいと、そう思います。

2024年3月3日日曜日

 「愛のプレゼント」

新約聖書のヨハネの手紙第一4章10節にこういう言葉があります。

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物として御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」

 この言葉は、実に不思議な言葉です。普通ならば、私たちが神に喜ばれるような事をしたならば、それに応じて神が何か良く事をして下さるといったふうに考えるんじゃないでしょうかね。例えば、多くの浄罪を積めば、多くの祝福をいただけるといった具合です。

ところが、先程の聖書の言葉は、私たちが神に対して何もしていないのに、神のほうが私たちが罪と死に支配されているこの世界の中から掬いだし神の子なることができるようにと、イエス・キリスト様を十字架につけて死なせてくださったというのです。

私たちが、神を愛したから、神が私たちの罪を赦すためにキリストを十字架につけたというのならば、それは私たちの愛に対する神の報酬です。けれども、神は、私たちが何もしていないのに、私たちのためにキリストを十字架で死なせて下さっているのです。そうやって、私たちが罪と死の支配のもとで、過ちを犯し、私たちの心に醜さや汚れを掻き立てられるといった状況から救い出し、神の子として神と人を愛する者なるようと教え導いてくださるというのです。

 イエス・キリスト様の十字架の死と復活、それはもはや報酬ではありません。神が私たちを愛するがゆえに下さったプレゼントなのです。イエス・キリスト様は、あらかじめ、罪と死の支配からの解放というプレゼントを用意し、それを私たちの前に差し出してくださっているのです。それは、本当に神の心からの愛が込められたプレゼントです。

 でも、どんなに愛が込められたプレゼントであっても、それを受け取らなければ、プレゼントはプレゼントとしての意味をなしません。ただ感謝して受け取ってこそプレゼントなのです。ですから、あなたにも、この神が心からの愛を込めて送ってくれたプレゼントを受け取って欲しいのです。それは、具体的には、神を信じ、神が私たちの罪の身代わりとして十字架で死なせたキリストが、私の罪の救い主であるということを、心に受け入れ信じると言うことです。

 ただそれだけで、私たちは神から罪を赦され、神に受け入れられるのです。そして、どんなに人が、私たちの犯した罪や過ちを責めたとしても、神は決して私たちを責めることをなさらないのです。いま、この素晴らしいプレゼントがあなたの前に差し出されています。ですからぜひ、この神の愛のプレゼント受け取って頂きたいと思います。

2024年3月2日土曜日

そんなあなたでも

  新約聖書ルカによる福音書15章11節から32節にこんな話があります。

 「ある人に二人の息子がいましたが、その弟が、父親に「お父さん、私に財産の分け前を私に下さいと申し出ました。そこでお父さんは、財産を二人息子に分けてあげました。
 弟は、財産を分けてもらうと、荷物をまとめて、遠い国に旅立って、ぜいたくに遊び歩いて、財産の全てを使い果たしてしまいました。ところが間の悪いことに、財産を使い果たした後に、大飢饉がおこり、彼は食べるのにも困り果ててしまうようになりました。結局、彼は、社会の隅っこに追いやられ、社会の底辺で、家畜の食べる餌でお腹を満たしたいと思うほどまでになってしまいました。でも食べ物をくれる人などありません。貧しさと、人々の冷たい視線の中で、本当にみじめで悲しい思いで過ごしていたのです。

 ある時、自分のみじめな姿を見ながら、ふと我に帰ったとき「そうだ、お父さんのところに帰ろう」とそう思いました。けれどの、自分勝手に「財産を分けてくれ」と申し出て、飛び出してきた家です。帰ろうと思ってもそうそう簡単に帰れるはずはありません。けれども、彼はお父さんに心からお詫びして、「息子としてではなく、使用人の一人としてでもいいから、迎え入れてもらいたい」とそう思って、家に帰るのです。

 ところが、彼が家の近くまで来ると、お父さんの方が、彼を見つけて走り寄ってきました。どうやら、お父さんは、息子が遠い国で、お金に困りみじめな生活をしていたことを風の便りに聞いてたようです。それで、いつ帰ってくるかいつ帰って来るかと、待っていたようです。その息子がようやく帰ってきた。それで、お父さんは、本当に喜んで、息子に一番に衣服を着させ、人々を集め、最高の食事を用意して、祝宴を開いたのです。」

 この話は、キリストが語った例え話です。そして、この例え話は、神が私たちを愛する愛を教えてくれます。というもの、神は天地を作られたお方であり、私たち一人一人は、みんな神から命が与えられた、いわば神から生まれた神の子供だからです。
 今、社会の隅に追いやられ、悲しい思いをしている人はいないでしょうか。あるいは周囲の人々の冷たい視線の中で、みじめで悲しい思いをしている人いませんでしょうか。社会や周りがどんなに冷たくても、神はあなたを暖かく迎えてくれます。神はあなたの創造者だからです。ですから、ぜひあなたにも神を信じ、神のもとに帰っていただきたいのです。
 このあなたを暖かく迎え入れて下さる神と出会うために、教会を訪ねていただきたいと思います。

2024年3月1日金曜日

いのちの言葉を握って

 最初に聖書の言葉をお伝えします。新約聖書ピリピ人への手紙二章十五節、十六節の言葉です。


「あなたがたが、非難されることのない純心な者となり、曲がった邪悪な世代の中にあって、傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。」

 この言葉は、不正や曲がったことが横行している闇のような時代の中で、翻弄されることがあっても、神の言葉に聞き従って生きる人は、光輝く生涯を送ることが出来ることを教えています。そして、それは、その人自身だけではなく、世の中の人に希望を与えるような光を放つ、意味ある人生だというのです。

 先日、ある人が、このようなことを言っていました。その方は、奥さんや子供を抱えた働き盛りの時に、突然会社から解雇を言い渡されたそうです。余りのも突然に「明日から会社に来なくて良いよ」と言われて、呆然としてしまったと言います。そして、就職活動を始めたのですが、結局四ヶ月間、失業生活を送ったそうです。
 それまでは、毎日、会社で頑張って働いてきたのです。それが、突然何もすることが無くなったのです。当然のように、何もすることがなく、家にいる時間が多くなりました。それで、毎日、奥さんとゆっくりと時間を取って、祈り聖書を読むようになったそうです。

 けれども、聖書を読み、お祈りしていても、「神は、どうして、私から仕事を取り上げたのか」というつぶやきと、将来に対する不安で心が一杯になってしまいます。けれども、それでもお祈りをし、聖書を読む毎日が続けていく内に、その人の心に変化が生まれたそうです。それははじめは、「神様どうして仕事を取り上げていたのですかという」不満と、将来に対する不安や焦りで一杯だった心が、神様はこれからの私の人生にどんな計画を持って導いて下さるのだろうかという期待に代わっていったと言うのです。

2024年2月28日水曜日

あたりまえが嬉しくて

  最初に新約聖書ペテロの手紙第Ⅰ・五章七節の言葉を記します。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配して下さるからです。」

この、聖書の言葉は、神を信じ、神により頼んで生きることの大切さを私たちに教えています。それは、神が私たちの事を心にかけ、私たちのことを心配して下さっているからです。だからあんまり心配しなくていいよというのです。

ずいぶん昔の話ですが、ある方が、こんなこと言っていました。「今まで自分が当たり前のことのように思っていたことが、実は神様の大きな恵みであったと言うことに気が付きました。そう思うと、毎日の生活の中には、感謝することが一杯あるんですね。」
 その方は、当時まだ二十歳そこそこの、可愛らしいお嬢さんです。実は、彼女のお父さんが、不慮の事故に会い、生死の境目を通ったんですね。幸い一命は取り留めました。でも、助かったあとには、厳しい現実がまっていました。というのも、お父さんは、事故の影響で寝たきりになってしまい、障害が残り十分に言葉を交わすことが出来ない状況になってしまったのです。
 それこそ、一家の大黒柱が倒れたのです。生活の不安もあったでしょう。また、話しかけても反応も無い、意思の疎通もままならない中での看病が続いたのです。ですから、不安やあせりといった様々な思いで、心が思い煩うことのあっただろうと思うので¥

 でも、そんな厳しい看病を続けていく中でも、お父さんの少しの変化、すこし表情がでてきたとか、チョットだけ手を動かせるようになったといったことが、彼女にはとても嬉しかったそうです。そして、私たちが何気なくしている字を書くとか、話をするとか、呼吸をするといったことが、本当は素晴らしい事なんだって気づいたそうです。
 そしたら、普通に生きていることが、実は神の大きな恵みなんだと思ったって言うんですね。平凡な毎日の生活の中で、私たちと共にいて守り支えて下さっている神に気づいたんです。そのことを、話すお嬢さんの顔は、笑顔で本当に輝いていました。

もちろん、生活の中に不安や恐れ、思い煩いと言ったことが全くないというわけにはいかないでしょう。けれども、私たちが、一日一日を生きていると言うことの中にある神の恵みに気付いたならば、その神の恵みが、不安や恐れ、思い煩いを包み込んでくれます。その平凡な生活の中にある神の恵みに気付いたならば、私たちは、一日一日感謝をしながら生活できるだろうと思うんです。彼女の笑顔がそれを証明しています。

 一日一日を感謝して過ごせたら、すばらしいですよね。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配して下さるからです」と言われる聖書の神は、あなたを、そのような感謝しながら生きることの出来る人生に導いておられます。ですから、どうぞ、この神を、あなたにも信じていただきたいのです。

2024年2月27日火曜日

人を惜しむ神

 人を惜しむ神

旧約聖書にヨナ書というのがあります。このヨナ書には、ヨナという預言者が、ニネベの町に神の言葉を伝えた出来事が書かれています。ニネベはアッシリアと呼ばれる、紀元前の中近東にあったの首都だったのですが、このアッシリア帝国は、冷酷で暴虐な国で、周りの国々を侵略し、人々を虐げたり奴隷にしたりいました。ですから、周囲の国々からは恐れられていましたし、嫌われても居ました。まっ、悪の帝国って感じですかね。

 そんなわけで、神はこのアッシリア帝国の首都であるニネベを滅ぼそうとお考えになったのです。それで、ヨナに「ニネベの町にいって、神があなた方が犯した悪のために、四十日後に、この町を滅ぼされる」とそう伝えなさい。」とそうお命じなさったのです。
 ヨナはイスラエルの人です。イスラエルの国にとってアッシリアという国は大敵です。そんなわけで、ヨナは、如何に神の命令であっても、ニネベの町に行きたくありませんでした。そこですったもんだがあったのですが、結局、神に命令に従ってニネベの町に行くことになりました。このすったもんだの話も、実におもしろいものですので、是非、聖書を手にとってお読みただければと思いますが、とにかく、ヨナはニネベで「あなた方が犯した罪のために、神は、四十日後に、この町を滅ぼされる。」と告げ知らせました。

 ヨナは、ニネベの人たちに神の裁きを伝えた後、丘の上に座り込んで、神の裁きが下されるのを見ようと、じっと見守っていました。あんな冷酷で暴虐の限りを尽くしてきた国の人間なんてみんな滅んでしまえばいいって思っていたからです。ところが、いくら待ってもニネベの町に神の裁きは下されません。実は、ヨナが伝えた神の裁きの話を聴いて、ニネベの町の人たちは、自分の犯した罪を恥、悔い改めたのです。それで、神はニネベの町を滅ぼすのをおやめになったのです。憐れまれたんですね。

 でも、あんな冷酷で周りの国に迷惑をかけた連中なんて滅んでしまうべきだと思っているヨナの腹の虫は収まりません。それで、ヨナは神に食ってかかるんですね。「なんでアッシリアの人々のことを滅ぼさないのか。何であんな奴らに憐みを書けるのか」と言った感じだったでしょう。そんな、ヨナに、神は自分の心の内をお話しになります。神はどんなに悪人であっても、その一人一人を惜しんでおられるというのです。だから、ニネベの町にいる一人でも失いたくなくて、ヨナを送って、神の裁きを伝えさせたのです。そうやって、ニネベの人たちが、罪を悔い改め神に立ち返ることを期待なさったのです。

 惜しむ心、それは大切に思う心です。神は、ニネベの町の人たち大切に思っていたのでそのように、ニネベの人たちを大切に思い、惜しむ神の心には、ニネベの町にいる一人一人の顔が思い浮かんでいたんだろうと思います。この人を惜しむ神の心には、ニネベの町の人たち同じように、あなたの顔が思い浮かばれています。神は、あなたのことを大切に思っているのです。だから、決してあなたを失いたくないと思っておられるのです。

 私たちはニネベの人たちのように冷酷で悪い人ではないかも知れません。でも、何らかの形で周りの人たちに迷惑をかけたり、嫌な思いをさせていることもあるだろうと思います。そんな私たちのことを、大切に思い、心に欠けていて下さっているのです。
 ニネベの人たちには、ヨナが遣わされました。ヨナを通して神の裁きの言葉が伝え、ニネベの人たちに罪を悔い改めさせ、神に立ち返らせようとしたのです。

同じように、今日の私たちには、教会が遣わされています。そして、聖書があります。聖書は、神の言葉です。神は、聖書を教会にお託しになり、私たちの大切に思い、私たちの罪を赦そうとする神の言葉を語らせておられるのです。ですから、ぜひ教会に行って、教会に託されたあなたを大切に思いっておられる神のメッセージに耳を傾けていただきたいと思います。もちろん、わたしたちの教会に来てくださるのであれば、大歓迎です。

2024年2月26日月曜日

崩れ落ちた神殿

 新約聖書のマタイによる福音書24章1節2節にこういう話が出ています。それは、イエス・キリスト様がエルサレムにある神殿に行かれた時の話です。イエス・キリスト様はその立派な神殿を見て、こう言われたのです。

「この神殿の石の一つでもくずされずに、そこに他の石の上にのこることもなくなるであろう」

 この言葉は、エルサレムの神殿が、全て破壊されるであろうという預言です。そして、その預言通り、紀元七十年にエルサレム神殿はローマ帝国によって、粉々に壊されてしまったのです。けれども、この言葉は、単に歴史的出来事をイエス・キリスト様が預言し、そしてそれが成就したと言ったことだけを私たちに教えるものではありません。もっと大切なことを教えてくれていると思うんですね。それは、目に見えるものに頼よるのではなく、神に頼らなければならないと言うことです。

 エルサレムの神殿は、ユダヤの人にとっては、自分たちが神の民であるということの証であり、誇りでもありました。また、当時のユダヤの人々はエルサレムに神殿がある限り、自分たちは大丈夫だと思っていたようです。そういった意味では、神殿が自分たちの民族がよって立つ、より頼むべき存在になっていたのです。
 けれども、そのより頼む神殿も、もともとは人の手で作られたものに過ぎません。人の手で作られた形あるものは、いつかは壊れてしまう儚いものです。ですからキリストは、神殿が破壊される預言を通して、「人が作り上げた目に見えるものに頼らず、目には見えないかも知れないけれど、神を信じ、神に頼らなければならないよ」と言うのです。

 現代の日本に生きる私たちは、エルサレムの神殿を頼って生きているわけではありません。けれども、もっと違った形で目に見えるものに頼っているのではないでしょうか。例えば、お金です。お金さえあれば大丈夫だといった、お金信仰みたいなものが、心のどこかにないだろうかって思うんですがどうでしょうか。
 けれども、そういったお金によりたのみ、お金を第一にする社会が、決して住みよい社会ではないということは、最近の世相をみれば、あきらかです。それじゃ、「誰か頼るべき人を見つけて、「といっても、人間の心だってあてにはなりません。それじゃ国といっても、その国はもっと頼りになりません。

 だからこそ、神を信頼し、神を頼りなさいというのです。神は永遠の存在です。そして真実なお方です。ですからいつでも、どんなときでも変わらない確かなお方なのです。この神が、あなたのことを顧みて下さっているのです。

 ですから、私は「あなた」に、ぜひこの神を信じ、この神を信頼して頂きたいと願います。このお方こそが、私たちが生きていくうえで揺るぎのない土台なのです。旧約聖書の中に次のような言葉があります。

 「恐れるな、わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手であなたを守る。」

旧約聖書イザヤ書41章10節にある、永遠に真実な神の約束の言葉です。

2024年2月24日土曜日

捜し物は何ですか

 新約聖書ルカによる福音書十五章八節から十節に、キリストが語られた例え話があります。その話は、おおよそこういった内容です。

ある時、キリストの話を聴こうとして、多くの人が集まっていました。その中に、人々から、律法と呼ばれる宗教上の様々な規則が守れないで、あれはダメな人間だと思われていた人たちがいました。あるいは、自分たちを支配している支配者の手先となって働くな人々から憎まれ、嫌らわれるような仕事をしている人たちもいたのです。

そう言った人を、周囲は罪人と呼んでいました。でも、イエス・キリスト様は、そのような人でも快く受け入れていました。そんなイエス・キリスト様の姿を見て、一部の人は、皮肉を込めて「どうして、イエスという男は、人々が嫌う罪人たちも、快く受け入れるのだろうか」などと批判していました。
 そのような人たちに、イエス・キリスト様はこう言われたのです。「ある人が、銀貨十枚を持っていて、その中の一枚をなくしたら、あかりをつけ、それこそ家をほうきではいてでも、念入りに捜すんじゃないだろうか。そして見つけたら、本当に心から喜ぶだろうと思う。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるならば、神さまは心から喜ばれるんだよ」と。

「一人の罪人が悔い改めるならば」とイエス・キリスト様は言われますが、この罪人というのは、人々から、ダメな人間だとか、嫌な奴だと言った評価を受けていた人たちです。そして、その罪人が悔い改めるというのは、神さまを信じて生きる生き方に立ち返るということを意味しています。ですから、「一人の罪人が悔い改めるならば、神さまは心から喜ばれる」ということは、人の評価がどのようなものであっても、神さまを信じて生きる者を、神は、喜んで迎え入れて下さるということです

 私たちが、それこそ、家をほうきで掃いてでも捜すものは、役に立つものであるとか、得になるものである場合が多いですよね。それこそ、同じお金でも、一万円札なら、一生懸命捜しますが、一円玉ならきっと捜さないだろと思います。お金としての価値が違うからです。
 けれども、神さまは、自分に役に立つ存在であるかどうか、得な存在であるかどうかは問題ではないのです。それこそ、人からはダメな奴だとか、悪い嫌な奴だと思われ、人からは見放されているような人でも、神は決して見捨てないのです。人からは価値がないと言われている罪人の一人でも、決してあきらめられない高価な銀貨のように価値ある存在だというのです。

 それは、神さまが一人一人の存在を、好き嫌いや損得勘定を抜きにして大切に思っているからです。神さまが人を愛するってそう言うことです。神はすべての人を愛しているのです。愛して大切に思っているからこそ、探し求めているのです。

2024年2月22日木曜日

神の家族になる

 「神の家族になる」

新約聖書マルコによる福音書三章三十一節から三十五節にこんな話があります。ある時、多くの人に話をしていたイエス・キリスト様の所に、イエス・キリスト様のお母さんと兄弟たちが尋ねてきました。そこで、弟子たちは、「お母さんと、兄弟たちが、尋ねてきていますよ」と告げました。するとイエス・キリスト様はこう言ったんです。「わたしの母とは、だれのことですか。わたしの兄弟とはだれのことですか。」

 そして、イエス・キリストの語る言葉を聞こうとして、集まっている多くの人たちを指して、更にこう言われたのです。「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。神のみこころを行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」

 このとき、イエス・キリストは、決して家族のことをないがしろにしたわけではありません。むしろイエス・キリスト様は家族のことを大事に思い、心配なさるお方です。事実、ご自分が十字架にかけられ殺されようとするときに、イエス・キリスト様は、ご自分の弟子であるヨハネに、ご自分の母親のことをよろしく面倒を見てあげて欲しいと委ねているのです。そこには母を思う息子の気持ちが表れています。

 ですから、ここでイエス・キリスト様が「わたしの母とは、だれのことですか。わたしの兄弟とはだれのことですか。ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。神のみこころを行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです」と言われた意図は、イエス・キリスト様の言葉に耳を傾け効いている人々に、私たちは神と家族になれるんだよと言うことを伝え、教えようというところのにあっのです。

私たちが、神のみこころを行う者となるならば、私たちはみんな神の家族になることが出来るのです。しかし、神のみこころを行う人と言いますが、それは、いったいどのような人のことを言うのでしょうか。ひとことで言うならば、神さまの言葉、イエス・キリストの言葉に耳を傾けて聴く人のことです。イエス・キリスト様の語る言葉、なされる業、その一つ一つが神さまの御心を表しているのです。だからこそ、イエス・キリスト様は、御自分の話を聴きに集まっている人たちをさして、「ご覧なさい、わたしの母、わたしの兄弟たちです。」と言われたのです。

 今の私たちは、直接キリストの語る言葉や神の言葉を自分の耳で聴く事はできません。けれども、聖書を通して、イエス・キリスト様というお方を知り、私たちの心に語りかける神の言葉を聴くことが出来ます。聖書は神の言葉だからです。その聖書を読んでいますと、わたしたちを愛して下さっている神のお心が分かってきます。新約聖書ヨハネによる福音書三章十六節にはこう書いてあります。「神は、実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された、それは御子を信じるものが、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。」

 この言葉にある「世」とは、わたしたち人間社会のことであり、この世界です。もちろん、「あなた」も「わたし」もこの人間社会の中で生き、この世界の内に存在しています。ですから、「あなた」も「わたし」も含まれます。ですから、その「世」を深く愛しているということは、神が「あなた」を深く愛しておられるというのでもあるのです。そして、確かに神は「あなた」を深く愛しておられます。

 先程わたしは、神の家族になれると書きましたが、家族を深く結びつけているのは愛です。わたしの知り合いは、三人の子供を養子として迎え入れ家族として暮しています。彼らを家族として結びつけているのは、三人を我が子として迎え愛している、その愛です。それと同じように、いえ、それに優る大きな愛で、神は私たちを「神の家族として迎えよう」と、聖書を通して、私たちに語りかけておられるのです。この神の語りかける言葉に耳を傾けて聞き、あなたが神を信じ受け入れるならば、あなたは神の家族となることが出来るのです。

2024年2月21日水曜日

神さまが思い描く世

私は、牧師になって以来、長く中世のキリスト者であったエラスムスという人物の研究をしてきました。そのエラスムスの書いた書物の中に『知遇神礼賛』という本があります。日本語にも訳され岩波文庫や中公文庫などから出版されています。

この『知遇神礼賛』は、知遇の神モリスが、自分自身を礼賛するという一人語りで語られているものですが、当時のヨーロッパ社会を見事に風刺した作品として、ヨーロッパ中を笑いに包んだと言われています。知遇というのは、愚かな人のことを言います。エラスムスは、この作品を通して、手、本当にまじめで、知恵ある人が用いられることなく、愚かで傲慢な人間が人の上に立ち威張っている世界を風刺して見せたのです。それを知遇神モリスが、世の中こぞって愚かさのなかにいる。そしてその愚かさをもってわたしを礼賛していると自画自賛しているのです。だからこそ、ヨーロッパ中が、その姿に笑い転げたのです。それは、その当時の現実を見事に、そしてコミカルに描き切ったからです。

エラスムスが描こうとした世界は倒錯です。それは本来ある姿が逆転してしまっている世界です。エラスムスの目には中世の世界は、まさに倒錯した世界に映っていたのです。
しかし、そのような倒錯した世界は、なにも中世だけのことではありません。現代の社会もまた倒錯した社会なのかもしれません。すくなくとも聖書が伝えるイエス・キリスト様が思い描く神の王国の世界から見れば、倒錯した世界であるということができるでしょう。

 例えば、お金は、私たちが物を売り買いすることを仲介するため手段として用いられるものです。ですから、本来ならば、物を買うときの買うものに価値があるのであって、お金そのものに価値があるわけではありません。しかし、現実の私たちの世界では、お金に価値があるかのようになってしまい、お金そのものを手に入れようとしているような倒錯が起こっています。そして、お金を持っている人に価値があるかのようになってしまっています。本来、お金は人間と人間の社会に仕えるものであるのにもかかわらず、人間と社会がお金に仕えるような世界になってしまっているのではないかと思うのです。

 神の王国は、私たちが見ている世界とは正反対の世界です。この世界では強い者弱いものを支配するという構造が多く見られますが、神の王国では強いものが弱いものに仕えると世界です。聖書がしばしば「先の者が後になり後のものが先になる」という表現がありますが、それは、まずもって弱い者、力のないものが、小さいものが優先されるべきであるということなのです。

 神の目から見たとき、私たち人間の世界は神の王国とは正反対の倒錯した世界です。そして倒錯した世界には、憎しみや争いがあり、それが苦しみや悲しみや痛みを産み出します。けれども、その正反対にある神の王国には、憎しみの正反対の愛があり、争いの反対の支え合いがあるのです。もちろん、そういったものが今の現実の私たちの世界に全くないというような暴論を言うつもりはありません。そういったものを私たちの世界の中に見ることができます。それは、私たち人間の心の中に、神に似た「神のかたち」があるからです。

その神に似た「神のかたち」が発動するところに「神の王国」がこの世界の中に細々と顕れています。けれども、神さまは、細々と顕れることで良しとはされていません。それが全世界を覆うほどに広がっていくことを望んでおられるのです。そのために、神さまは、神様を信じ、神さまと一緒に神の王国をこの世界に広げていく人たちを求めておられるのです。「あなた」も、私と一緒に、愛に満ち、互いに支え合いながら弱い者、小さい者、力のないものが優先され、大切にされる世界を築いてくれないかと、神さまは「あなた」に呼び掛けておられるのです。

2024年2月20日火曜日

剣の時代の終焉

マタイのよる福音書の26章47節から57節には、時の権力者たちが、イエス・キリスト様を裁判にかけ、処刑するために、イエス・キリスト様を捕まえに来たときの様子が書かれています。このキリストを捕らえるために集まった人たちは、剣や棒を持っていました。抵抗したら、力ずくで捕らえるつもりだったようです。

 その時、キリストの弟子の一人が、剣を抜いてイエス・キリスト様を捕まえに来た人たちに斬りかかって行きました。彼もまた、力には力で対抗しようとしたのです。その様子を見ていたイエス・キリスト様は、ペテロを諫めてその剣を納めさせます。そして、こう言われました。「剣を取る者はみなつるぎで滅びます」と。

 キリストの時代の権力者たち、イエス・キリスト様を捕えようと企てた人たちは、パリサイ人と呼ばれる人や律法学者と呼ばれる人、あるいは、神殿に仕える祭司たちでした。つまり、宗教的指導者たちがイエス・キリスト様逮捕の首謀者だったんですね。彼らは、キリストを捕らえ、十字架につけたので、とても悪い人間のように思いますが、しかし、実際は、自分たちが信じるユダヤ教の伝統を、自分たちに一生懸命守り行って生きようとしていた人たちでもあったのです。そして、それが絶対に正しいと信じていた。

 ところが、イエス・キリスト様は、そのような生き方とは、全く違った生き方を人々に示したのです。それは、この指導者層の人たちが絶対に正しいと思っていたことを否定していることになります。実際、キリストは、パリサイ人や律法学者たちを厳しく非難しています。そんなわけで、パリサイ人、律法学者、祭司たちは、共謀してイエス・キリスト様を捕らえ、殺そうとしたのです。それは、自分たちが、絶対に正しいと思うからです。そう思うからこそ、剣、つまり、力に訴えてでも、イエス・キリスト様を捕らえ罰しようとしたのです。

 人間、この自分は絶対に正しいと思うことほど恐いものはありません。自分が絶対に正しいと思えば、相譲ることも出来ませんし、相手を裁き赦すこともできません。最後は力と力でぶつかるか、絶交状態になったりもします。そういった意味では、イエス・キリスト様の弟子も、自分たちの方が、絶対に正しいと思っていたんだろうと思います。だから、剣を抜いて斬りかかっていた。

そう言った人たちを見て、イエス・キリスト様は。「剣を納めなさい。剣を取る者はみなつるぎで滅びます。」とそう言われるのです。それは、自分が絶対に正しいと思うことの愚かさ、そして恐ろしさを私たちに、教えてくれる言葉でもあります。

 人間は、だれも完全な人はいませんよね。過ちや間違いを犯すものです。なのに、人と接するときには、そのことを忘れ、自分の正当性ばかりを主張してしまいがちです。それは、相手と自分を比べて、自分の方が正しいとそう思うからです。けれども、そんなときに、相手と自分を見比べるのではなく、神と言う存在を心に思いめぐらしてみたらどうでしょうかね。聖書の神は聖く義しいお方で、平和を愛する神です。その神の前に立って、自分自身を顧みるならば、私たちは、自分の至らなさや愚かさ、あるいは、心の醜さといったものを、認めざるを得ないように思うのですが、どうでしょうか。それは、まさに罪人としての私たちの姿なのです。

 私たちは、人を見て自分が正しいと思うとき、相手を裁き場合によっては、拳を振り上げ、心の中で剣を抜いて、自分の正しさを押し通そうとします。それは、力と権力によって支配するこの世界の中に生きる私たちの姿です。「この世」という世界が、力ある者、権力あるものが弱く小さいものの上にたち、この世界を治め支配するからなのです。だから、私たち人間は、力を欲し、権力を求めるのです。それが、より高見に登ることだと思い込んでいるのです。

 しかし、それは誤った生き方です。神が、ご自身に似たものとなるために神の像(かたち)を与え創造された人間本来の姿ではなく、過った姿なのです。そのような私たちを神は、欠けだらけの「わたしたち」の愛し、神の子として生きるものとするために、ご自分の一人子を十字架で死なせたのです。
 この深い愛で、私たちは愛されている。もちろん「あなた」も愛されています。この神の罪を赦す愛で愛されていると思うと、「わたしたち」は、振り上げていた拳を降し、抜いた剣を鞘に納めざる得なくなるのではないかと思うのです。

もし「あなた」が、まず「あなた」から人を裁くのを止め、拳を振り上げる止め、剣を抜かなくなったら、きっとあなたの周りの世界は少しずつ変わっていくだろうと思います。それは力と剣の時代が終わりをつげ、謙遜と愛の世界の始まりなのです。ですから、どうか、この「わたしたち」の愛する愛の神を、「あな」がこころに信じ、受け入れ、この神を心に想いながら生きて欲しいのです。

2024年2月17日土曜日

休むことの大切さ―身も心も安らぐときー

 つい先日は建国記念日の振替休日があり、土、日、月の3連休がありました。休みっていうのは、いくつになっても嬉しいもんですよね。人間にとって、休息の時というのは、絶対に必要です。

 そんなわけでしょうか、聖書には、週に一日、「必ず休みの時を持つように」って、安息日という日が決められています。もともとは、金曜日の夕方から、土曜日の夕方だったんですけれど、今では日曜日が、その日の役割を果たしています。

この安息日は、生きるために。一週間働いてきた者が、ゆっくりと体を休ませ、疲れを取るためのものです。でも、私たちが疲れを感じるのは、何も体の疲れといった肉体的な疲れだけではありませんよね。体だけではなく心だって疲れることがある。むしろ、この心の疲れのほうが問題です。

 仕事や人間関係、あるいは健康のことなどで悩みや心配があるときには、体を休めても、それだけでは、心が平安に過ごせるとはかぎりません。身も心も休めることが出来てこそ、本当の安息日っていえるんですよね。

 そんなわけでしょうか、聖書には、安息日について、こんな事を書いています。旧約聖書申命記五章十四節です。途中を一部省略しますが、このようなことが書いてあります。

 「安息日を守って、これを聖なる日とせよ。あなたの神、主が命じたとおりに。六日のあいだ働いて、あなたのすべてのわざをしなければならない。(中略)あなたはかつてエジプトの地で奴隷であったが、あなたの神、主が強い手と、伸ばした腕とをもって、そこから導き出されたことを覚えなければならない。それゆえに、あなたの神、主は安息日を守ることを命じられるのである。」

これは、神が、イスラエルの民が、祖国から遠く離れたエジプトの地で奴隷となり苦しみ悩んでいるところから救い出し、イスラエルの民と共に歩んでくれる。だからそのことを心にしっかりと覚えるために安息日を守りなさいということです。

つまり、安息日に私たちを守り、苦しみや不安、悩みから救い出して下さる神を、心に覚え忘れないために安息日を守りなさいというのです。それは体の休息のためでなく、子心の休息、魂の休息のためなんですね。

今の時代は「心の時代」だと言われます。それは心が、どうしようもない程に、疲れ切りすり減ってしまっているからです。あなたの心は、疲れてはいませんか。すり減ってはいませんか。

神は、そんなあなたに、心の平安を与えてくださるお方です。あなたの心が神をこころに信じ受け入れるならば、神は、その人の心の中にいつも共にいて下さり、慰め励まして下さって、その悩み苦しむ心に平安を与えて下さいます。

そんなわけで、神を信じるクリスチャンは、日曜日に礼拝に集い、私たちの心に休息を与えて下さる神を心に覚え、新しい一週間を生きていく力をいただきながら生きているのです。

この、体と心に与えられる本当の安息日をあなたのものにしていただきたいと思います。

2024年2月15日木曜日

パンとワイン

 最初に聖書の言葉を記します。

「すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝を捧げで後、それを裂き、こう言われました。『これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。』夕食の後、杯を同じようにして、言われました。『この杯をは、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。』

この言葉は、新約聖書コリント人への手紙第一、十一章二十三節、二十四節の言葉ですが、これは、主イエス・キリスト様の私たちに対する約束、すなわち契約の言葉です。
 イエス・キリスト様は、聖書の神を信じ、イエス・キリスト様を自分の主であり、救い主あると信じ、神の子である身分を回復してくださる救い主として信じるものは、「この世」という世界の中生きてきたその人生が、どのようなものであっても、必ず受け入れて下さると約束して下さいました。
 というのも、私たち人間は、神さまからもともと神の子と言う特別な身分を与えられて創造された特別な存在なのです。けれども、私たち人間は、神さまを見失ってしまっています。また私たちが生きる「この世」と呼ばれるこの世界そのものも、神さまを見失っています。そして神さまに代わって罪と死が支配する「この世」という世界の中に生きるものとなっているがために、神の子であるという特別な立場が損なわれてしまったのです。

 けれども、神さまは、私たちのことを決して見捨ててはいません。だから、必ず回復する約束くださったのです。その約束を果たすために、イエス・キリスト様は、は十字架の上で命を投げ出し、罪と死の支配から私たちを解放して下さったのです。この解放の業を教会では贖いと言います。

教会では、礼拝の時に聖餐式と呼ばれる、パンとぶどう酒、もしくは葡萄ジュースをいただく儀式があります。その時に先程の聖書の言葉が読まれるんですね。それは、聖餐式で食べるパンは、キリスト様が十字架で釘打たれた体を表わし、ぶどう酒は、その時流された血潮を表わしているからです。ですから、パンとぶどう酒は、キリストが、私たちの贖ってくださり、神の子としての身分を証なのです。回復宇して下さったということの証なのです。

 もう何年も前に、一人のお婆ちゃんが天に召されました。亡くなるちょっと前に、わたしは、そのおばあちゃんに、イエス・キリスト様が、お婆ちゃんを救い、神さまのこどもにして下さって、やがてよみがえり、神さまの御国でいることができるものとして下さるんだよとお話ししました。
 すると、お婆ちゃんは、素直にそのことを受け入れ、神を信じイエス・キリスト様を自分の救い主として受け入たのです。それから一ヶ月、そのお婆ちゃんは家族と楽しく賛美歌を歌ったり、聖書の話をしたりと、心温まるような時を過ごし、天に召されていきました。
 葬儀の後、そのお婆ちゃんのご主人が礼拝にこられ、聖餐式に出席なさいました。実は、ご主人は、昔、教会で洗礼を受けクリスチャンになったのですが、その後教会に行かなくなっていたのですね。でも、お婆ちゃんがイエス・キリスト様を信じ、神の子された平安の中で天に召されていく姿を見て、自分もイエス・キリスト様の約束の中にあることを思い出されたのです。

 キリストは、私たちと結ばれた約束を決して忘れません。神を信じたことを忘れ、何十年も教会に行かなくなっていたとしても、神さまとイエス・キリスト様は、約束を守って下さっています。神さまとイエス・キリスト様は、それほどまでに私たちとの約束に対して真実なお方なのです。だからこそ、その約束は信じる価値があります。そのお方が、あなたと約束をしようと言っておられるのです。そのための準備は、イエス・キリスト様の側では十字架の上でもう出来ています。あとは、あなたが信じるだけなのです。

2024年2月14日水曜日

なぜ人には宗教が必要か

  以前、数人の中学生が「なぜ、人には宗教が必要か」ということについて教えて欲しいと訪ねてきました。学校の宿題だったようです。そこで私は、彼らに、自分が生きている意味と価値は何なのかと言うことを知るために宗教は必要なんだよとお話ししました

 科学は人間の体の構造や、脳の働き、あるいは心についても。多くのことを解明してきました。でもそれは、人間がどんな生き物かを明らかにしただけで、人間が生きる意味と価値ついては教えてくれていません。それを教えてくれるのが宗教なんですね。ではキリスト教は、そのことについて何と教えているのでしょうか。
 それは「神の栄光を表わすためだ」というのです。要は、神の素晴らしさを示し、神の喜ばれることをすると言うことです。でも、神の素晴らしさとか、神に喜ばれることって何なんでしょう。

 今の世の中は、環境汚染といった地球的な規模の問題から、戦争や犯罪、あるいは経済問題と言った社会的問題まで、様々な問題が山積みになっています。また、私たち個人の生活にもいろんな問題があって、将来はどうなるんだろうかと、不安にこそなれ、希望などなかなか持ちにくい世の中なんじゃないでしょうかね。そんな世の中でも、神が私たちの抱える問題に解決を与えてくれると信じ、希望を持って生きているならば、神はそのような生き方を喜んで下さるのです。なぜなら、そのような生き方は、神は私たちに希望をもたらして下さる素晴らしいお方だと言うことを指し示しているからです。だからこそ、神はそのような生き方を喜んで下さるのです。

 もちろん、神を信じたからと言って、全てが、私たちの願うように解決するとは限りません。私たちが生きている間に解決しないような問題もあるだろうと思います。けれども、たとえこの世では解決がつかないようなことがあったとしても、神を信じ、キリストを自分の罪の救い主と信じる者には、天国という大きな希望が与えられるのです。そこは、慰めと憩いの場が与えられ、大きな喜びに満ちあふれた世界です。その天国という希望を持って生きていくならば、神はその人のことを本当に喜んで下さるのです。

 それだけではありません。問題の多い暗い世の中だからこそ、天国の希望を持って喜んで生きていくならば、それは、自分だけではない、周りの人々にも、神にある希望を指し示します。だとすれば、それこそまさに、神の栄光を表わす生き方だと言えますよね。神は、そのように、神に喜ばれ、人々にも希望を指し示す、意味とか価値ある人生に、あなたを招いておられます。あなたは、そのために神に愛される尊い存在として、この世に生まれてきました。あなたの人生には大きな意味と価値があるのです。