精一杯でいい
私の育った場所は、山口県ですが、そのお隣の島根県に津和野という、情緒豊な町があります。この津和野に乙女峠という所があるのですが、そこに実にかわいらしいカトリック教会の御堂があります。
実は、この乙女峠は、昔まだ日本がキリスト教を禁止していた頃、厳しいキリシタン弾圧が行なわれた所だったんです。ですから、その弾圧事件を記念して、あの御堂は建てられたのだろうと思います。
遠藤周作の小説に、「最後の殉教者」「沈黙」というものがありますが、これはそのキリシタン弾圧をテーマにしているものです。
これら遠藤文学における、キリシタン弾圧に関する小説の主人公は、決して立派なクリスチャンじゃなくて、臆病者で気の弱い男であったり、苦しみや誘惑に抗いきれない人間だったりします。例えば、「最後の殉教者」という小説の、喜助は、仲間がキリスト教の信仰を捨てるように拷問を受けているときに、そこであげる苦しみの声や叫び声を耳にするだけで怖くなって、自分は拷問されたわけではないのに早々に、「クリスチャンを辞めます」って申し出るような、臆病者なのです。
けれども、喜助の心に信仰の灯火が完全に消えきてしまったわけでありませんでした。だから、彼は、クリスチャンを辞めますと申し出た自分の臆病さを後悔し、拷問を受け死んでいく仲間たちの姿に後ろめたさを感じながら、自分の心内を神様に吐露するのです。
そこで彼は神様に、「自分は臆病者です。でも、こんな弾圧や迫害が無かったら、死んでいく仲間達と同じようにクリスチャンとしての信者として普通の信仰生活を送っていただろう。こんな時代に生まれたからこそ、弾圧の責め苦が怖くて信仰を捨てると言ってしまい、こんなに苦しんでいる。こんな時代に生まれさせた神様あなたが恨めしい」と心の内を吐露します。
そのとき、喜助は、自分の背後から語りかける神様の声を聞くのです。その声は、「おまえは、。拷問を受けなくてもいい。殉教することもない。でも、いま苦しめられ、殺される為に引かれる仲間たちの後だけはついて行け。それだけでいい。彼らの後をついていけ。」とそう語るのです。
身を隠しながら、仲間が引かれて行くその後をついていくこと。それは喜助にできる精一杯のことでした。
人には、いろんな性格があります。性格の強い人や弱い人、忍耐強い人やこらえ性のない人、人それぞれです。そして、その性格によって信仰向き合う姿勢や、普段の生活態度といったものもさまざまなものになります。
何ができるかって言う、能力だって個人差がある。あれもこれもといろんなことができる才能豊な人もあれば、これだけって言う人もある。
けれど、神様は決して強いもの力のあるものだけを、受け入れるってお方ではありません。弱くて臆病で何も出来ないようなものでも、暖かく受け止めて下さるお方なのです。そして、無理をしなくてもいい、必要以上にがんばることもない。あなたができる、精一杯の事をすれば、それをもっとも良いものとして喜んでくださるお方、それが神様なのです。
ですから、わたしたちは、ありのままの自分の姿で神様の前に出て生けばいいのです。決して着飾る必要はありません。私たちが、ありのままの姿で、神様の懐の中に飛び込んでいけば、神様は私たちをありのままの姿で受け入れ、抱き止めてくれるのです。