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2023年12月25日月曜日

クリスマスのちょっと変わった習慣

 昨日は、クリスマス・イヴでした。クリスマスの過ごし方と言うのは、それぞれの家庭で違うとは思いますが、一般的には、ケーキにごちそうに、プレゼント。特にプレゼントは、クリスマスには絶対に欠かせないですよね。

 私のような年齢になると、クリスマスプレゼントをもらうということは、ほとんどと言ってなく、むしろプレゼントをあげる方になってしまいます。昨夜も、プレゼントを抱えて孫の家に、プレゼントを届けるサンタクロースになっていました。いまやプレゼントはクリスマスの花形的存在になっています。それこそ、どんなにおいしいごちそうやケーキがあっても、プレゼントがなければ、クリスマスの楽しさは、それこそ半分以下になっちゃいます。
 ですから、親やジジ・ババとしてはクリスマスプレゼントには、特別に気を遣います。もちろん、欲しい物を買ってあげれば、それだけで十分に喜ぶ。でも、それは欲しい物を買ってもらったっていう喜びですよね。ですから、我が家では、子供たちががそれ以上の喜びを味わえるようにって、工夫をしていました。その工夫とは、私たち親からからのプレゼントとは別に、内緒でサンタクロースからのプレゼントを用意すしていました。そして子供たちが寝静まったあと、子供たちの枕元に、そのもう一つサンタさんのプレゼントを置くのです。

 子供たちが、朝起きたら枕元に、サンタクロースからのプレゼントがある。それを見つけたら、もう大変です。それこそ、「うわぁー、」って叫びながら、私たちの部屋に駆け込んできて、「サンタさんが来た」「サンタさんが来た」って大騒ぎ。枕元にある、プレゼントは、決して彼らが一番欲しいものや高値なものじゃない。でも、本当に嬉しそうでした。
 これは、「プレゼントが何か」が問題じゃなくて、サンタさんが、今年も自分のことを忘れずに、プレゼントを届けてくれたってことが嬉しいんでしょうね。でも、ある時期になると子供たちも、今では枕元のプレゼントのからくりを知るようになる。でも、我が家のその習慣は、彼らばサンタのプレゼントのからくりを知った後でもずっと続きました。そして、からくりがわかっていても、子供たちは、今のその枕元のプレゼントを喜び楽しみにしてくれていました。
 それは、きっと、サンタクロースの存在を信じていた、そんな子供の頃の夢や純真な心を忘れないで、心豊かに育って欲しいって願い、子供を思う、妻と私の心を喜んでくれていたんじゃないかなって、そう思っています。最近、子供たちの中の一人が、その我が家の習慣を友達に話したところ、そんなことをしている家庭は他にはなかったと聞いて驚いていました。そして、我が家にあったもう一つのプレゼントの習慣についても聞いたそうです。
 我が家にあったもう一つのプレゼントの習慣、それはお誕生日のプレゼントの習慣です。我が家はお誕生日を迎えた子供に、予算を決めて、その予算内で欲しいプレゼントを本人が決めそてそれを買ってあげることにしていました。同時に、お誕生日ではない子供には、お誕生日の子が買ってもらったプレゼントより安い金額のものをおすそ分けプレゼントとして買ってもらえたのです。それも、我が家にしかない習慣だったようで、とても驚いていました。
 我が家は決して裕福な家庭ではありませんでした。ですから今も昔も決して高価なプレゼントを買ってやるということはできませんでした。それでも、いえだからこそ子供たちを喜ばせ、自分も大切にされているということを心に残してあげたいと思い、色々と工夫していたのです。それは、子供たちにとって良い思い出として心に刻まれているようです。そこには、自分のことを忘れずに思い、愛してくれている相手の心を知り、その贈る心を知る喜びがある。物ではない。物から立ち現れる子を思う親の愛があり、それが伝わっている。いわば愛することそれ自体が、一番のプレゼントだったのです。

 昨日のクリスマスに、みなさんはどんなプレゼントを手にしたでしょうか。私のように上げるばかりで何とプレゼントもなかったという人もいるでしょう。でも、クリスマスには、誰一人としてもれることなく神様が与えてくださるプレゼントがあります。というのもクリスマスは神様が、神の御子キリストを、私たちに対するプレゼントとして、この世に送り出してくれた日です。それは、キリストが、私たち罪深い人間の、罪の身代わりとなって、十字架の上で死に、人間を罪とその裁きから救う救い主として、この世に生まれてきたからです。そして、そのように、神の御子キリストが、神からの私たちへのプレゼントとして贈られてきたのは、キリストが私たちのことを、そしてあなたのことをいつも心に留め、決して忘れていないからなんです。
 そのように、神はあなたを愛しておられる。だからこそ、その愛しているという一番の贈り物をキリストに託して、あなたに贈られたのです。ですからどうかそのことを知って、今年のクリスマスには、あなたの心が神の愛で一杯になるようにって、そう願います。昨夜、あなた枕もとに神様のプレゼントが届いています。朝になって、そのプレゼントにおきづきになられなかったかたもいるかもしれませんが、たしかにそのプレゼントはあなたの心の枕元に置かれているのです。

 「神は、実にそのひとり子をお与えになったほどにこの世を愛された。」聖書ヨハネの福音書3:16節の言葉です。

2023年12月23日土曜日

下向する神

私たちの国、日本では何か優れた人、特別な能力を持つ人を神として崇めるという感覚がどこかにあるようです。たとえば天満宮は菅原道真を神として祭っている神社ですし、日光東照宮は徳川家康を神として祭っています。現代において、何かカリスマ的な存在の人を神と呼んだりするのも、それに近い感覚があるのかもしれません。
 人は努力し頑張ることで、より高い能力や実力を身に着けることができます。その意味で努力は私たちを裏切りません。そして、私たちはより高い高みを目指して頑張るのです。しかし、聖書の神は、全く逆の方向性を示しています。それは高みから夜低い所を目指す神の姿です。神が神であられるのに、人となるという下向する神の姿です。
 イエス・キリスト様は神のひとり子であられたのに、あえて人となってこの地上にお生まれ下さいました。しかも、初めから大人の人間の姿をして顕われたので絵はなく、処女マリヤを母として、赤ん坊として生まれ、子供の時期を生き、そして成長して大人になるという人間の成長の過程を一つ一つ経験為されたのです。それは、「わたしたち」人間が経験する様々な苦悩や悲しみ、そして心の痛みを「わたしたち」と同じように経験をなさるためです。
 その最初がクリスマスの出来事です。クリスマスの出来事は、飼い葉おけの中で始まります。神であられたお方の人としての人生の出発が飼い葉桶から始まる。なんともみじめな始まりなのかと思います。そして、その人生の最後は、イエス・キリスト様が苦楽を共にした弟子の一人であった者の裏切りにより、処刑されるような罪など何もないのに、ムチで皮膚が引き裂かれるほどに打たれ、茨の冠をかぶせられ十字架刑という当時もっとも残酷で苦しんで死んで行かなければならないような処刑方法によって死ななければならなかったのです。
 神の御子が、そのような悲惨な人生を生きられたのは、「この世」という世界の中で、苦しみ、苦悩し、心を痛め、悲しんでいる人の苦しみや悲しみを神の御子自身が経験し、その苦しみや、悲しみや痛みというものを身をもって知るためです。知らなければ、人々の苦悩や、悲しみ、そして心の痛みに寄り添えないからです。神様は、天という高みから、私たちを見下ろし、憐れんでやろうというのではなく、神であるのに天から下向し、人として共に苦しみ、共に悲しみ、共に深い心の痛みを感じながら、共に生き、私たちと共に神の国という高みを目指し、そして共に歩んで下さるのです。そうやって神様は、そして神のひとり子である御子イエス・キリスト様は私たちの存在を掬い(すくい)取ってくださるのです。
 クリスマスは、その神の掬いの業が始まる第一歩が踏み出されたことを私たちに伝える日です。飼い葉おけに寝かされた神の御子を指し示す日です。そして、「あなた」の心の中にある、深い悲しみや痛み、そして悲しみを飼い葉桶として、神の御子イエス・キリスト様があなたの心の中にお生まれ下さったことを、「わたしたち」に告げ知らせる日なのです。
 その日組に降って下さった神について、私の友人の岩本遠億牧師が、ご自身のホームページ『366日元気の出る聖書の言葉』で「低められたひとりとして」という短いメッセージを述べています。3分にも満たない短いメッセージですが、同名の自分の著書『366日元気の出る聖書の言葉』の中にある者を、岩本牧師自身が音声で語ったものです。岩本牧師のご許可をいただいてそのホームページのアドレスを下記に掲載します。そのアドレスをクリックして下さり、新しく開かれたページにある「低められたひとりとして」というタイトルのところにある▶をクリックして下されば、そのメッセージをきくことができますので、ぜひ合わせてお聞きください。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2dj3ck?fbclid=IwAR0l3U0b4B0ZC3VtPRQEs8s7hNIEL66th1555shNQfn6Su8seQo46DRzJ6w 

2023年12月22日金曜日

クリスマスの必需品

  クリスマスにとってプレゼントは欠かせないアイテムの一つになっています。私たちも、毎年子どもたちにどんなプレゼントをするか頭を痛めたものです。子育てが終わって、子供へのプレゼントは考えなくてよくなったのですが、今度は孫へのプレゼントで悩んでしまっています。でも、どうせプレゼントをするなら、本当に喜んでもらえるもの、本当に欲しいと思っている者を挙げたいと思います。そんなプレゼントに関する話が聖書の中にあります。それは、新約聖書の使徒言行録3三章1節から11節書かれている話しです。

 ある時、イエス・キリストの12人の弟子の中のペテロとヨハネという人に、生まれつき足が悪くて歩けない男が、物乞いをして来ました。二人は、その様子をじっとながめていましたが、やがて「金銀は私にはないが、あるものをあげよう。キリストの名によって歩きなさい。」と言って、その男の手を取って立たせたのです。
 すると、その足が悪くて歩けなかった男が立ち上がり、歩き回ったり、飛び跳ねたりすることができるようになったのです。もちろん、その男の喜びは言うまでもありません。それで神を賛美しながら、ペテロとヨハネについていったというのです。この男は物乞いをしていたのですから、欲しかった者は、お金ではありません。なのに、「金銀は私にはないが、あるものをあげよう。キリストの名によって歩きなさい」というペテロとヨハネの言葉は、この男の願いとは違う的外れのように、思われます。しかし、そうではなかったのです。この男が、物乞いをして金品を求めたのは、足が悪くて歩けなくて、それで生きていくために仕方なく物乞いをするしかなかったからです。そして、ペテロとヨハネは、この物乞いをしている男の様子をじっと見つめ、この男が本当に求めているものは何であり、本当に必要なものは何なのかに気が付いたのです。
 しかしこの話は、単に信仰を持つと病気が良くなるというようなことを言おうとしているのでありません。「いやいやそんなことはないだろう、この男は、ペテロとヨハネに『金銀は私にはないが、あるものをあげよう。キリストの名によって歩きなさい。』と言われ、足が癒され立上がり、喜んで踊り題したじゃないか。だとしたら、この男が本当に求めていたものは、足が歩けることだったのではないか」と反論されるかもしれませんが、必ずしもそうではないのです。

 聖書の時代のユダヤでは、足が悪くて歩けないとか、手が悪くて動かないということは、罪を犯した結果、神の裁きでそうなったのだと考えられていました。もちろん、それは全くの迷信で、そんなことはないのですが、当時は、そう思っていたのです。ですから、この男の、何か罪を犯したから神の罰を受けて歩けなくなったのだと軽蔑され、卑しい者だと見られていたのです。
 ペテロとヨハネは、物乞いをする男の様子に、そのように人に蔑まれながら生きている人の悲しみやみじめさを感じ取ったのだろうと思うのです。だからこそ、もう誰からも蔑まれなくて言いように、歩くことが出来るようにしてあげたのです。そうやって、人から蔑まれながら生きている悲しさやみじめさから解放し、人としての尊厳を回復したのです。

 この話は、私自身の姿にも重なります。私には、音痴という大きなコンプレックスがありました。私が歌を唱うと、「へたくそ」と軽蔑されるように思えてしかたがありませんでした。ですから、音楽の歌のテストは、恥ずかしいやらみじめやらで、結局最後まで唱わずに通したこともあったんですよ。人にダメなやつと、軽蔑されるのが恐かったんですね。
 それは、あの足の悪い男と比べると、些細なことですが、でも私にとっては、大きなコンプレックスとなって、私の心を縛り付けていたのです。けれども、キリストを信じてからは、そんなコンプレックスから解放されました。歌がうまかろうとへただろうと、そんなことは神様の前では関係ありません。神様は、私を一人の人間として尊び、大切に思ってくださっているのです。ですから今では教会では大きな声で賛美歌を歌います。同じように、神の御子であるイエス・キリスト様も決して私を蔑むことをなさいません。むしろ、私を高価で尊い価値ある者として、愛し受け入れて下さっています。
 そして、その神様と神の御子であるイエス・キリスト様は、「あなた」も価値ある大切な人として、愛し受け止めて下さっているのです。ですから、あなたにも、是非この神様を信じ、イエス・キリストを信じ、心に受け入れてしいと思います。

2023年12月21日木曜日

布にくるまれ飼い葉おけに寝かされた赤子

  クリスマスはイエス・キリスト様がお生まれになったことを覚え、それを記念する日です。

 イエス・キリスト様がお生まれになった場所は、通説では馬小屋、家畜小屋だと言われますが、聖書のは直接的に馬小屋であったとか家畜小屋であったとは書かれていません。ただ、生まれて間もない赤子のイエス・キリスト様は布にくるまれ飼い葉おけに寝かされていたと記されており、またその理由が客間には彼らがいる余地がなかったからだとだけ記されています。しかし、これらの情報を総合して推論すると、イエス・キリスト様は馬小屋あるいは家畜小屋で生れたという通説は、あながち間違ってはいない、つまり蓋然性が高いと言えるでしょう。
 イエス・キリスト様が、馬小屋あるいは家畜小屋で生れたということを、いろいろ考えながら思い廻らしていると、様々な思いが心に湧き上がってきます。いったいなぜ、イエス・キリスト様は馬小屋、家畜小屋でお生まれになったのか。いやいや、聖書には「客間に彼らがいる余地がなかったからだと書いてあるではないか」といわれれば、真にその通りでありますが、それは状況的意味であって、では神学的にはどう読み取れるのかというと、そこには様々なことが読み取れていくのです。
 飼い葉おけに布でくるまれ寝かされていた。私は「布でくるまれていた」と言う言葉に、母マリアと父ヨセフの生まれたばかりのイエス・キリスト様に対する深い愛情を感じます。そう、イエス・キリスト様は両親の深い愛情に包まれて生を受けたのです。しかし、寝かされた場所は、飼い葉桶です。日本では飼い葉おけは木でつくられます。ですから、日本の絵本では、イエス・キリスト様やが寝かされている飼い葉おけは、木で描かれているものがほとんどです。けれども、その当時のパレスティナ地方の飼い葉桶は、石をくりぬいて作られたものなのです。石の飼い葉桶、それは冷たく硬いものです。そしてそれは、飼い葉桶ですから動物が餌を食む場所です。ですからきたなく汚れた場所です。
 イエス・キリスト様がいつ生まれたかはわかりませんが、それがいつであっても、飼い葉おけは、きたなく汚れた冷たく硬い、決して居心地が良い場所ではないのです。そのような場所でイエス・キリスト様はお生まれになられた。それは、客間と言う、人々が憩い、安らぎ、安心して過ごせる場所に、居場所がなかったからです。そういった場所から追い出されたところ、つまり宿屋の片隅に追いやられたところにイエス・キリスト様はお生まれになられたとのです。
 そう思うと、イエス・キリスト様という方がこの世界にお生まれくださった意味が見えてくるように思います。それは、この世界の中で様々生きづらさを感じている人の心の中にお生まれくださったのだと思えてくるのです。いやまさにそこに、イエス・キリスト様が、客間に入り場所がなく、飼い葉桶に寝かされていたという神学的な意味があるのではないかと思うのです。けれども布にくるまれ、両親の愛に包まれて寝かされているのです。まるで、生きづらさを感じ、辛い思いをし、悲しい思いをしている人の心も、父なる神様の大きな愛に包まれているのだというかのようにして、布にくるまれ眠っておられるのです。
 クリスマスを目の前に控えた、今というときに、冷たく硬い、きたなく汚れた飼い葉桶に中に、布にくるまれ寝かされらイエス・キリスト様が、無邪気な赤子の笑顔の中で「あなた」にそう語りかけているように、私には思えて仕方がないのです。・・・クリスマスの霊想

2023年12月20日水曜日

昔はどんちゃん騒ぎのクリスマス。そして今は

新型コロナの感染拡大で、ここ数年はあまり見られなくなりましたが、以前はmクリスマスの頃に、夜、繁華街を歩いていると、ほろ酔いかげんの方や酔っぱらってしまっている方と出会うことがよくありました。そんなとき、私は自分自身の昔の姿をを思い出していました。それは、私が高校生の頃のことです。

 その当時、私はクリスチャンではありませんでした。ですから、クリスマスがやってきても、クリスマスの意味なんか考えずに、とにかく、クリスマスは楽しく騒いで過ごすもの程度にしか思っていませんでした。そんな中で。高校3年のクリスマスに、仲間と集まってクリスマスパーティーを行ないました。その時のパーティは、まさに私にとっては「どんちゃん騒ぎのクリスマス」でした。
 高校3年生ですから、当然、お酒など飲んではならないのですが、そのころは若い頃の勢いで、仲間が集まるとそこでお酒を飲むということが時々ありました。しかし、私は、もともといわゆる下戸でお酒は体が全く受け付けません。お酒を美味しいと感じることはなく、むしろまずいとさえ思っていましたので、お酒を口にするということは、ほとんどありませんでした。
 しかし、クリスマスパーティーで、私もはじめて、ぐでんぐでんになるまで酔っぱらってしまいました。あんまり酔っぱらいすぎて、腰が抜けてしまって歩けなくなってしまって、友達にオブられて家に帰らなければならないほどでした。当然のことですが、翌日は二日酔いで頭が痛いやら、気持ち悪いやら、もう最低の気分でした。それも今にしてみれば、実に苦い思い出です。もちろん、クリスマスは楽しい喜び日です。でも、その喜び楽しさが、ただのどんちゃんで終わってしまったら、ちょっと寂しいですよね。
 ほら、「祭りの後の寂しさ」って言葉があるじゃないですか。祭りをただ楽しく過ごしただけなら、楽しかっただけに、後には寂しさが残る。ましてや二日酔いが残ったら、寂しさに気持ち悪さが加わるわけですから、もうどうしようもありません。

 意外なことですが、キリスト教があまり盛んでは日本では、クリスマスがキリスト教の三大祝祭の一つであるということを知らない人が多くいます。けれども、クリスマスは、教会が神と信じ崇めるキリストが、人となってこの世にお生まれになったことを祝う日です。なぜ、神であるキリストが、人となってこの世に生まれたのか。聖書は、その理由を、神が、この世界の中で苦しみ生きる私たち人間の救うためであったと教えています。それほどまでに、神は私たちを愛して下さったのです。

 私たちが「この世」と言う世界で苦しんでいるといっても、世界の中では、比較的物資に恵まれ、経済的には裕福な国とされる日本では、なかなかぴんと来ないかもしれません。しかし、現実には、人間関係や家族問題、また病気や差別などの様々な苦しみや悲しみが私たちの周りには溢れています。国としては経済的に恵まれているとしても、実際には格差が大きく、経済的な苦しみを経験している人も多くいるのです。

 そのような苦しみや悲しみから、神は「わたしたち」を救うために、神の独り子であるイエス・キリスト様をこの世界に送り出し、人として生まれさせたことを記念して祝うのがクリスマスなのです。しかし、だからといって、この世界から病気がなくなり、貧困がなくなり、戦争や争いがなくなったかと言うと、そんなことはないことは火を見るより明らかです。人間関係や家族問題だっていつの時代にもある。そのいみでは、イエス・キリスト様が、この世界にお生まれになってから二千年以上たっていますが、この世界の中から苦しみは相変わらず、私たちの世界にはびこっているのです。
 それは、この世界の中にある苦しみの多くは、「わたしたち」人間の過剰な欲望がもたらしているからです。欲望というのは、人間にとって必要なものです。欲望があるから人間は向上することができるからです。しかし、過剰な欲望は人の心から大切なものを奪い去っていきます。過剰な欲望が奪い去っていく「わたしたち」の心の中の大切なもの、それは愛です。人を思いやり、人の尊厳を重んじる愛です。そして、人の心から愛が奪われていくところに、自己中心な思いという罪が入り込むのです。

 一口に人間の自己中心な思いと言う罪といっても、それは、様々な姿をとって現われます。時には、犯罪という法律を犯す形で現われたり、嘘や不道徳といった倫理的過ちの姿を採る時もあります。あるいは、嫉妬や妬みといった心の醜さとして現われたりと様々です。場合によっては正義感が行き過ぎて、過剰な報復行為といった形で現れることさえある。このように、罪というものを法律上の犯罪、倫理道徳上の過ち、そして、心に中の醜さや汚れ、更には過剰な正義感がもたらす報復と言ったところまで深めていきますと、私自身も罪とは無関係とは言えないなぁと思わされます。

 私が、牧師となるために神学校と言うところで学んでいたときのことです。私が学んでいた神学校は、ごくまれに例外もありましたが、基本的には全寮制でした。家族を持っている人も家族寮に入り学ぶのです。その神学校で学ぶ神学生は、毎朝6時から、聖書を読み、そして聖書からの短いメッセージを聴き、そして祈りのときを持つという朝の祈りと時をもつのですが、クリスマスを控えたある朝に、いつものように朝の祈りの時間に、お祈りをしていました。
 そのとき私は、お祈りしながら自分の様々な罪が心に思い出されてきました。それは、私の過剰な欲望がもたらした自己中心的な思いh式起した罪であり、加害者としての罪です。同時に、私の周りの人の過剰な欲望がもたらす罪で苦しんできた罪の被害者としての自分もいる。そのような私を神はそのまま受け止め、愛して下さり、私の心に慰めと愛とを注ぎ、生きる力と希望を与えてくださっているのだと思うと有り難いやら嬉しいやらで、涙が溢れて仕方ありませんでした。

 私たちが救われるためには、お金が必要かもしれません。問題の解決も必要でしょう。しかし、根源的に必要なことは、愛されることであり、希望がもたらされることなのです。愛されるって、嬉しいことですよね。希望があるということは本当にありがたうことです。イエス・キリスト様が、この世界にお生まれくださったのは、「わたしたち」が苦しみ悩むときにも、寄り添い共に生きてくださる神の愛を示し、神様がわたしたちを愛しておられと言うことを告げ知らせるためです。そして、イエス・キリスト様が十字架の上で死に、復活なさることで、死と言う人間の最大の苦しみと悲しみですら乗り越えていくことができるという希望を綿日立に告げ知らせるためなのです。
 クリスマスが、そのような神の愛で私が愛されていると言うことを知り、私たちには希望があるということを告げしらせるその愛と希望を記念する日として過ごせたら、クリスマスは、決して寂しさや気持ち悪さが残るような楽しさではなく、あなたの人生にいつまでもの楽しさが残る喜びの日になると思います。
 多くの教会では、クリスマスには、クリスマス礼拝といって特別な礼拝を持ちます。クリスマスイブの深夜に礼拝を持つところもあります。ですから、あなたも教会のクリスマス礼拝で、神の愛にふれ、いつまでも残る喜びの日としてのクリスマスをお過ごしていただければと思います。

2023年12月18日月曜日

星の導き

  さあ、いよいよ今度の日曜日は、クリスマスですね。キリストがお生まれになった時には、色んな出来事がありました。その中の一つに、東の方から博士たちが、高価な贈り物を持ってやってきたというものがあります。

 聖書を読みます、この東の博士たちは、星をみていて、キリストがお生まれになったことを知ったと書かれています。どうやら、この東の博士たちは、占星術などを研究していた人たちだったようです。もっとも、占星術と言っても、いわゆる星占いのようなものではありません。それこそ、詳しく天体の動きを観測し、その天体の微妙な変化が、自分たちの生活に関わりを持っていないかをまじめに研究した、いわば大昔の天文学者のような人たちだったのです。その博士たちが、空にそれまでにはみられなかった不思議な星が上るの見つけたのです。それで、色々と調べてみました。すると、その不思議な星は、どうやらユダヤの国、今のイスラエルですね、そこに新しい王が生まれたしるしらしいことが分かってきました。

 そんなわけで、新しく生まれたユダヤの王を拝むために、わざわざ何百㎞も離れたところまで、旅を続けてやってきたのです。ところが、彼らは、ユダヤに新しい王がお生まれになったと言うことまでは分かっていましたが、ユダヤの何という町のどの家で生まれたかまでは分かりません。途方にくれた博士たちが、空を見上げると、あの不思議な星が、光り輝きながら、こっちだよ。こっちだよ。」と彼らを導いているのです。それでその星の導きに従って、ついて行きました。そしてその星がとどまったところに、まだ幼子のキリストがおられたのです。
 こうして、キリストに会いたいと思って、遠くからわざわざ尋ねてきた博士たちは、無事にキリストとお会いし、用意した宝物を捧げることが出来たのです。

 この話は、大切なことを私たちに教えてくれているように思います。それは、神を求め、キリストを求める人に対しては、神は必ず導きを与えて下さると言うことです。どんなに途方にくれるようなことがあっても、必ずキリストは、私たちを導いて下さるお方なんですね。そんな風に考えると、あの博士たちが、星に導かれたっていうことも、実に象徴的なことのように思えるんですね。

 真っ暗な暗闇の中で、どこに行けばいいのか、どうすればいいのか分からないときに、たった一つの星が輝きながら導いてくれた。それは私たちの人生が、どんな暗闇の中に陥ってしまったときにも、キリストというお方が、暗闇の中で光り輝いて私たちを導いてくださるということを教えてくれているように思うのです。そして、その導きは、必ず私たちを、神と出会わせて下さるのです。

 私たちは、私たちが置かれている環境や状況に振り回されてしまうようなことがあります。それこそ、日々起こってくる様々な出来事に支配されて、自分自身を見失ってしまう床があります。まさに、状況が「わたしたち」を支配し、「わたしたち」は状況に支配され、もはや状況の奴隷のようになって、状況が命じるままに右往左往してしまっている

 しかし、「わたしたち」は状況に支配され、状況の奴隷となって働かされるものではありません。状況の沿って「わたしたち」の人生を導くのではないのです。そのことを、私の友人の岩本牧師が、まさにそのものずばりのタイトルの「私たちは状況の奴隷ではない」という短いメッセージの中で語っています。そのメッセージは下記のアドレスをクリックし、『366日元気の出る聖書の言葉』というページに行き、タイトルのところにある▶マークをクリックすれば聴くことができますので、是非合わせてお聴きください。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2dca46?fbclid=IwAR0meTbNP-6IepClePV8rI71ffC6wnrYanYnyV5AL4LqwN9NlgqJc7iiSco

この岩本牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものですが、岩本牧師の御許可をいただいて転載したものです。

2023年12月17日日曜日

神の言の到来

 待降節第三主日礼拝説教

旧約書:箴言16章1節から3節
福音書:ヨハネによる福音書1章1節から18節
使徒書:ペテロ第一の手紙5章8節

 

 待降節第三週になり、来週はいよいよクリスマス礼拝になります。その待降節第三週の礼拝説教の中心となります聖書箇所はヨハネによる福音書1章1節から18節です。
 この箇所は、神の言(ことば)であるイエス・キリスト様が人となってお生まれくださったということを示しています。この「言(ことば)」はいわゆる言葉ではなくギリシャ語のλόγος(ロゴス)で、論理とか論証といったニュアンスを持つ言葉です。つまりλόγος(ロゴス)とは、物事を秩序正しく論理立て明らかにしていく言(ことば)がのです。
 そのλόγος(ロゴス)という言葉を用いながら、イエス・キリスト様が神のλόγος(ロゴス)であるというのは、それまで預言者たちを通して物語られていた旧約聖書の物語が、単に絵空事のおとぎ話や空想話でも神話でもなく、まぎれもなく神様が物語られた真実の神の救いの物語なのだということ、イエス・キリスト様のご生涯によって明らかにされたのだということなのです。

 では、その神の救いの物語とは何かというと、暗闇に光がもたらされ闇の包まれた世界に照らされるということなのです。だから、クリスマスには蝋燭の光が灯される。キリスマスは暗闇の中にあるこの世界に、イエス・キリスト様という光がお見えになったのだ。そのことを象徴的に表すために、蝋燭の明かりを用いるのです。
 それは、イスラエルの民にとっては、過去において、エジプトやアッシリア、バビロンといった外国の強大な力によって支配されて奴隷として過ごした暗闇のような世界に生きたイスラエルの民を、神がその支配からの解放してくださったという救いの物語が、単に伝説や神話の中の物語ではなく、たしかに神の救いの物語として事実であったということを明らかに論証する出来事なのだというのです。、今まさに、暗闇に支配されている人々を解放する光である救い主キリストの到来の出来事なのだというのです。
 それだけではない、その神の救いの物語は、今、まさにこの暗闇に覆われた世界に起こっている。確かに暗闇に光がもたらされ、この世界の闇が払われ、この世界に救いがもたらされ、神の恵みと愛が支配する神の王国が到来したのだ。この福音のメッセージがイエス・キリスト様のご生涯の物語によって論証されると、このヨハネによる福音書の著者は、この福音書を読む読者に、そう語るのです。
 では、その読者とはいったい誰なのでしょうか。もちろん、私たちもその読者のひとりなのですが、このヨハネの福音書の著者が思い描いていた読者は、この福音書が書かれた時代の人たちです。
 ヨハネによる福音書が書かれた年代というのは、定かではありませんが、紀元50年事から90年頃ではないかと言われます。1世紀前半のアンテオケのイグナティウスという人の書いた手紙にはヨハネによる福音書の繁栄が見れますので、その当時には、この福音書が存在していたこと間違いはありません。ですから、この福音書の著者が想定した読者は、1世紀後半の人々です。ですから、イエス・キリスト様を直接は知らない人々です。
 しかも、あえてλόγος(ロゴス)というようなギリシャ哲学的な言葉遣いをして読者の関心を引き寄せようとしている。このギリシャ哲学的な言葉使いから、読者は異邦人ではないかとかんがえられたりもしますが。ヨハネによる福音書のメッセージは、支配されている人々がその支配から解放されるというものであり事を考えると、ギリシャ文化の中で生きているユダヤ人と言った感じかなと思いますし、近年の研究では、そのようなギリシャ的な素養を身に着けたユダヤ人がパレスティナ地方にも数多くいたことがわかっています。

 いずれにせよ、ヨハネによる福音書の著書は、ギリシャ的素養は身に付けてはいるけれども、ローマ帝国の支配のもとにあるユダヤ人のような人々に、「確かに暗闇に光がもたらされ、この世界の闇が払われ、この世界に救いがもたらされ、神の恵みと愛が支配する神の王国が到来したのだ。この神の救いの物語がイエス・キリスト様のご生涯の物語によって論証される」と語りかけるのは、現実には紀元50年から90年頃に社会情勢では、ローマ帝国の支配は続いており、その支配はまだまだ長く続き、終わることがないように思われるからです。

 しかしこのヨハネによる福音書の著者は、それでもなお、確かにイエス・キリスト様によって光はもたらされ、暗闇は取り去られるという神の救いの物語は明らかですというのです。では、どこにある暗闇が取り払われたというのでしょうか。依然、世界は闇に覆われているかのような状態なのです。

 それは、私たちの心の内にある闇です。間違えられてはいけませんの申しあげますが、イエス・キリスト様は、この世界を覆う闇をもたらす罪と死の支配に対しても、完全に勝利なさっています。確かに、依然としてこの世界に闇が覆われている状況があるのは、事実です。それは、依然、私たちの心の中に闇が残されているからです。
 ヨハネによる福音書10節,11節には

   彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。
   彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。

とあります。
 口語訳聖書は「世は彼を知らずにいた」ですが、聖書協会共同訳では「世は言(ことば)を認めなかった」となっています。イエス・キリスト様が神のひとり子であることを認めず、救いの主であることが知られていないというのです。それだけでなく、拒絶する人さえいるというのです。

 しかし、今、私が申し上げた心の暗闇というのは、そのような人々の心の内にある暗闇というだけではなく、神を信じる者の中にもあるのです。そしてそれは、私たちの心の執着がもたらす闇だと言っても良い。私たちがギュっと握りしめているもの、もちろんそれはひとり一人違っているとは思いますが、その握りしめている思いが、私たちの心を暗闇に包ませてしまうのです。

 私は、先日まで入院していましたが、そこで学んだことは、諦めるということです。病気になると、どんなに頑張っても、自分で自分の体をどうすることもできません。それこそ、今まであったこともない、どんな人かもわからないけど、そこに医師がおられるというそのことを信頼して、自分の体を、自分自身の手から手放して医師に委ねなければならない。自分自身で何とかするということを諦めて、医師に委ねる。医師の力量や能力を信じて、自分自身をゆだねなければならないのです。

 このヨハネによる福音書には、「世は言(ことば)を認めなかった」とあります。人々がイエス・キリスト様が私を救う救いの主であるとは認めていない。いえ、救い主として認めていても委ね切れているかというとゆだねきれないでいるのです。それは手放すことができないからです。

 私たちは、小さい時から何かを獲得することで喜びを手にしてきました。また何かができることで、人にも喜ばれ、賞賛を得てきました。ハイハイができるようになり、立ち上がり歩けるようになり、言葉が話せるようになる。そうやって、何かができること、何かを得ることに喜びを見いだし、何かを手に入れることを大切にしてきたのです。

 そしてテストや競争で良い成績を収めることを目標にしてきた。でも、自分のちからでではもうどうしようもない壁にぶつかる時がある。どのときに、その思いを握りしめて手放すことが出来なければ、そこには絶望の闇しかないのです。そして、その闇を振り払うためには、誤った方法で、その願い求める者を手に入れるしかなくなるのです。
 それがどんなに大切な思いや願いであっても、それを握りしめていた手を開き、それを手放し、自分自身を救い主である神の御子イエス・キリスト様に委ねる。このお方こそ、神の御子であり、救い主であると信頼し、このお方に自分自身の身をゆだねる。それが人々にできなかったとこのヨハネによる福音書の記者は、言うのです。

だから、人々の心の、そして「あなた」の心にはまだ暗い闇が覆っている。また世界のまだ暗闇に覆われている。欲しいものが手に入らない悲しみで心がやむにおおわれている。でも、イエス・キリスト様はその闇に既に勝利しているのだから、この方を神の御子であり救い主とて信頼しきって、あなたの人生を、このお方にゆだねようよ。神の救いの物語は、間違いなく、イエス・キリスト様によって明らかに論証されているのだからと、このヨハネによる福音書の記者は、読者たちに語りかけているのだと言えるでしょう。

 実際、「初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。言(ことば)は神であった。この言(ことば)は、初めに神と共にあった」と言われた、またイエス・キリスト様は、「言(ことば)の内に成ったものは、命であった。この命は人の光であった.光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった」と言われた、イエス・キリスト様のご生涯において、このお方に関わった人たちに何が起こったのかを書き記しています。そこには病からの解放があり、社会的な抑圧や偏見からの買う方があり、支配者に対する明らかにな否が突きつけられ、その支配者たちがイエス・キリスト様に対して下した十字架に死に対して、死からの復活ということを通して、支配に対する勝利と解放を示しているのです。だから、イエス・キリスト様を信頼して、あなたの人生をすべてイエス・キリスト様に委ねてごらん。このお方を、救い主とてあなたの心に迎え入れようよと、この福音書の著者は呼び掛けているのだといっても良いでしょう。

 みなさん、私たち先ほど旧約聖書の箴言16章1節から3節のお言葉に耳を傾けました。そこには、

心にはかることは人に属し、舌の答は主から出る。人の道は自分の目にことごとく潔しと見える、しかし主は人の魂をはかられる。あなたのなすべき事を主にゆだねよ、そうすれば、あなたの計るところは必ず成る。

「舌の答は主から出る」とは、神が私たちに心に思い描く計画や願いがあり、それを実現しようとしてあれこれ口に出してその計画を話したとしても、それが実現するか否かは、神様の手の中にあるのだということを意味するでしょう。だから、「あなたのなすべき事を主にゆだねよ、そうすれば、あなたの計るところは必ず成る」というのです。

 この箴言は、父が子に、幸せに生きるためにはどうしたらいいのかということを、教訓をもって教え諭すものです。その父の教えとして「あなたのなすべき事を主にゆだねよ、そうすれば、あなたの計るところは必ず成る」というのです。その箴言の言葉に呼応するように、あなたの人生を、このお方にゆだねようよ。神の救いの物語は、間違いなく、イエス・キリスト様によって明らかに論証されているのだからと、このヨハネによる福音書の記者は、私たちに語りかけるのです。
 それはヨハネによる福音書の著者だけはありません。ペテロ第一に手紙の著者も、「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい」というのです。

 みなさん、「思い煩い」は、私たちの執着する心が生まれるものです。その執着する心は、神を信頼し、私たちの救い主であるイエス・キリスト様を信じ、信頼し、そのお方に自分自身をゆだねることなのです。そして、神様は、そしてイエス・キリスト様というお方は、私たちの思いと願い、そして私たちの人生を負委ねするに十分に信頼できるお方なのです。

 来週は、そのイエス・キリスト様がお生まれくださったクリスマスです。そのことを覚えつつ、しばらく心を静め、自分の心を見つめ、私たちは何に執着しているのか、静かに自分自身を見つめたいと思います。静まりの時を持ちます。

2023年12月13日水曜日

イエス・キリスト様は、ワンダフルカウンセラー

 旧約聖書イザヤ書9章6節にこういう言葉があります。「ひとりのみどりごが、私たちのためにうまれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその方にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。

 この聖書の言葉は、そのキリストの誕生を預言している言葉です。ですから、私たちのために生まれる、ひとりのみどりごというのは、キリストのことなんですね。この預言が書かれているイザヤ書は、キリストが生まれる700年以上前に書かれました。つまり、キリストの誕生は、700年も前から預言されていたって事になります。すごいですよね。

 このイザヤ書によれば、キリストは「『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」というのです。今日は、その中で説くに、「不思議な助言者」という言葉に注目してみたいと思うんですが、この「不思議な助言者」っていうのは、英語ではワンダフル カウンセラー」というそうです。

 最近、カウンセラーというのをね、辞書で調べてみますと、「臨床心理学などを修め,個人の各種の悩みや心理的問題について相談に応じ,解決のための援助・助言をする専門家。」となっていました。つまり、私たちの抱えている問題に対して、心理学の方面から、相談に乗り、助言をしてくれる人がカウンセラーと呼ばれる人たちなのです。そういった意味で、カウンセラーという人たちの働きはとても尊く、大切な働きだと言えます。

 そして、イエス・キリスト様は聖書の中で、「ワンダフル カウンセラー」だといわれている。「ワンダフル」というのは「びっくりするほど素晴らしい」ってことです。それは、いわゆる普通のカウンセラーと呼ばれる人が解決できないような問題を解決してくれるカウンセラーだというのです。

 では、普通のカウンセラーの人が解決できないような問題って何でしょうか。それは、私たち人間を取りまく多くの悪と、その悪によって苦しめられ悩み、子ことを痛め、悲しみ苦悩する私たちの現実に起こり得るに関する問題です。それは、まさに不条理な苦しみであり、それが、私たちの内に憎しみや像を掻き立てるという負の連鎖を巻き起こす。そして、最悪の場合は、このような不条理な苦しみや心の痛み、そして悲しみの中で自ら死を選ぶ人さえ出てきてしまうという悲しい現実がある。このような現実は、どんなに優秀なカウンセラーの人でも、完全に解決することが出来ません。

ところが、イエス。キリスト様は、そのような問題にまで立ち入って下さることができるカウンセラーなのです。もちろん、キリストはマジシャンじゃありませんから、手品のように、ぱっと私たちの目の前から、私たちを取りまく悪がもたらす問題やそれが引き起こす苦悩を消してしまうのではありません。

私たちを取り巻く様々の問題や苦悩には必ず不安が伴います。実は、私たちが感じる悩みや苦しみの原因の中心にあるのは、この不安な気分なのです。でも私たちがイエス・キリストを「あなた」の救い主と信じ、心に受け入れるならば、イエス・キリスト様は、その不安な気分を取り除いてくださり希望を与えてくださいます。そして、悲しみ、心が傷つき痛む心を癒してくださいます。なぜならば、イエス・キリスト様は、無実であるのにもかかわらず、イエス・キリスト様が多くの人に慕われ、名声を得ていく中で、それに嫉妬し、また自分の持っている立場をイエス・キリスト様の奪われるかもしれないと感じた人々の保身のために、何の罪もないのに訴えられ、そのために十字架に架かり死ななければならないという不条理な苦しみと悲しみ、そして心の痛みをご自身で経験なさっているからです。しかも、その十字架刑にかかり処刑され今にも死のうとする中で、「父よ彼らをおゆるし下さい。彼らは何をしているのかわからないでいるのです」と言って、憎しみと憎悪という負の連鎖をも乗り越え、それを断ち切られたのです。だからこそ、キリストは「ワンダフル カウンセラー」「不思議な助言者」って呼ばれるのです。

クリスマスは、その「ワンダフル カウンセラー」があなたのためにお生まれになって下さった日なのです。そしてその出来事は二千年前の現在のイスラエルという国がある中近東のパレスティナ地区で起こった出来事です。ですから、今日の日本に生きる私たちは、このイエス・キリスト様とお出会いし、イエス・キリスト様から直接カウンセリングを受けることはできません。
しかし、イエス・キリスト様は、そのお弟子たちを中心にして、イエス・キリスト様の体となって働く教会をお建てになり、イエス・キリスト様の御生涯とその教えを知ることができる聖書という書物を残されました。そして、このキリストの体である教会と聖書を通して、「ワンダフル カウンセラー」であるイエス・キリスト様と出会えるようにと、聖霊をこの世界に送ってくださっているのです。それは、今、ここにおいて、あなたが私たちを取り巻く悪の力と、不条理な苦しみがあるならば、是非、聖書を通し、また教会を通して働く聖霊なる神の助けを得て、イエス・キリスト様と出会い、イエス・キリスト様にある慰めと平安を手に入れていただきたいと思います。

2023年12月12日火曜日

クリスマスは神様の独り子が人となった出来事

 神様は人間ではありませんし、人間は神様ではありません。人間の中には神のような人はいるかもしれませんが、それでも神様と人間との間には絶対的な差異があります。しかし、その神様と絶対的に差異がある「わたしたち」人間とが神様とは一つになる事が出来ます。少なくとも聖書はそう言います。

 いえ、「わたしたち」人間は、もともと神と一つに結ばれた存在として神様から創造されているのです。この神と人とが一つに結ばれていることをヘブライ語では「インマヌエル」と言います。日本語では「神われらと共にいます」と訳されます。神様と人間との間には決して超えることができない溝があります。しかし、その深い溝を乗り越えて、神様の方が人間に歩み寄ってくださっり、人間と共にいて下ることが、「インマヌエル」ということなのです。

 そのように、「わたしたち」は元々神様を信じ、神様と共に生きる者として造られているのです。J.L.バレットというアメリカの学者が書いた『なぜ子どもは神を信じるのか?』という本に、大変興味深いことが書いてありました。このJ.L.バレットという人は、宗教認知科学や主教心理学と言った分野の研究者ですが、最近の研究では、「人間は生まれた後、教え込まれたり布教されることで神を信じるようになるのではなく、もともと生まれたときに神を信じる心の構造あるいは、神を信じる能力といったものをもって生まれてくるのだ」ということが明らかになっているというのです。

 このことは、別段、驚くことではありません。というのも、このことと類比されることが、言語学という学問の世界では、ずいぶん言われていることだからです。そしてチョムスキーという学者によってもたらされた「生成文法」という考え方です。チョムスキーは、一般的に子供は、生まれて3~4歳になると、母国語を、教えられることなく、ほぼ完ぺきな形で話し出すことに着目します。それは日本語のような、非常に難しい言葉であっても同じです。そこでチョムスキーは、人間は生まれながらして、自分自身の中に文法を形成するもととなるものあるいは能力を持っており、それによって母国語の文法を自分自身の中に生成していくのだと考えたのです。そしてそれは、今日の言語学ではほぼ常識のこととなっています。
 それと同じように、人間は、神を信じる者として、神を信じる能力をもってこの世界に生まれてくると認知学上は言えるのだというのです。そしてそれは、人が神と共に生きる「インマヌエル」ということなのです。ところが、人間は、だんだんと成長していくとその神から離れ、神とと共に生きるのではなく、自分自身の力で、自分一人で生きようとするのです。
 しかし、実際は、それは自分自身の力で一人で生きているのではないのです。神様と共に生きるのではなく、神様から離れて、むしろ神様に背を向けて罪と悪にそまった「この世」という世界と共に生きているのです。

 そのような世界に神様は、神の独り子であるイエス・キリスト様を人として、人の肉体を持つ者としてお生まれになられたのです。ですから、イエス・キリスト様がお生まれになったことを、神学用語では受肉というのです。この受肉なさったイエス・キリスト様を、神様は「インマヌエル」と呼ばれました。まさにイエス・キリスト様という存在の中に、完全な神と完全な人とが一つに結び合わされているからです。まさにイエス・キリスト様という存在の内に、またそのご人格の中に「インマヌエル」ということが現れ出ており、イエス・キリスト様のご生涯の歩みが、神様と共にいきる「わたしたち」人間のあるべき姿があるのです。

 最も原初の教会にあって、後の時代のキリスト教、特にカトリック教会やプロテスタントの諸教会に大きく影響を与えた人物の一人のパウロという人は、しばしば、「エン キリストゥー」という言葉を用います。この言葉は日本語では、「キリストにあって」とか「キリストの内に」と訳されていますが、この言葉の真意は、私たちがイエス・キリスト様と一つに結ばれるということです。私たちはイエス・キリスト様と一つに結ばれることで、神様の救いの業に与ることができ、私たちはイエス・キリスト様と一つに結ばれることによって、神の業を行うことができるのです。

 この神の業を行うということは、イエス・キリスト様のように奇跡を行ったり、不思議な業を行うといったことでもなければ、イエス・キリスト様のように病気を治すといったことではありません。神の業とは、私たちが、私たちの周りにいる人を愛し、慈しみ、たがいに赦しあうことです。神様から離れ、神に背を向けて生きて行くとき、「わたしたち」は自分自身が好きな人、自分自身が尊敬できる人を愛するということはあっても、自分自身が嫌いな人や、自分自身に敵対するような人は、憎んだり蔑んだり、嫉妬したりします。それが、神様と共に生きることから離れ、この世という世界と一体になって生きる「わたしたち」の現実の姿です。

 そんな「わたしたち」に、神様は問いかけておられます。「あなた」はそのような現実の姿のままで良いのですか?「あなた」はそんな現実の姿から、変わりたくありませんか?と。

 先ほどのパウロという人は、二千前のローマ帝国下の支配にある地中海世界の中に生きる教会の人々に「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」と呼びかけています。それは、イエス・キリスト様が、私たちに対してお示しになったお姿であり、神様が私たちにお示しくださったお姿です。神様は、「わたしたち」と共に歩んでくださるお方です。「わたしたち」が喜ぶ時「わたしたち」と共に喜び、「わたしたち」がなくときに共にないてくださるお方です。だからこそ、パウロが呼びかける「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」という生き方、その根底には、私たちの周りにいる人々、それは敵味方、好き嫌い、尊敬できる出来ないに関わらず、愛し慈しみ、互いにゆるしあうという精神があるのですが、そのような精神に生きる生き方は、神の業なのです。

 パウロが二千前にの教会に呼び掛けた生き方は、2千年たった今の教会にも呼びかけられている言葉です。そして、その言葉は、今日のキリスト教会の目標でもあります。キリストにある(エン クリスト―)の教会はそのような教会を目指して歩んでいます。まだまだ府観戦ではありますが、イエス・キリスト様と共に、そしてイエス・キリスト様のように生きようとする人々の共同体が教会というところなのです。

 「神われらと共にいます」というインマヌエルであるイエス・キリスト様が受肉なさったこと記念するのがクリスマスです。そのクリスマスの時に、よろしければ、是非、教会をお訪ねなさることをお勧めします。

 この神様が私たちと一つになり、私たちが神様と一つになるということを、別の角度から捕らえて語った三分弱の短いメッセージがあります。それは、私の友人の岩本遠億牧師の「一つになる祈り」というメッセージです。岩本牧師からご許可をいただいて、そのメッセージが聴くことができるページのアドレス下記に記しておきます。そのアドレスをクリックし、岩本遠億牧師の『366日元気の出る聖書の言葉』の頁に行き、「一つになる祈り」というタイトルのところにある▶マークをクリックしてしてください。そうすればそのメッセージを聴くことができます。

2023年12月10日日曜日

なぜクリスマスにヒイラギ?

 クリスマスの時に飾る植物と言えばヒイラギです。しかし、なぜクリスマスにヒイラギを用いるのでしょうか。不思議に思って調べてみますと、ヒイラギの赤い実が、イエス・キリスト様が十字架に磔になられた時に流された赤い血の色を象徴し、ヒイラギの葉のとげが、同じくイエス・キリスト様が十字架に架けられた時にかぶせられた荊(いばら)の冠を象徴しているのだそうです。宗教は、その宗教の内容をしばしば象徴をもって示しますが、まさにクリスマスの時期にヒイラギを用いるのは、そのような象徴的な意味からなんですね。

 しかし、十字架に磔になって流されら赤い血も荊の冠も、それは「わたしたち」の目には苦しみであり苦痛であり、それが強いられてなされるとしたら苦難そのもでしかありません。なにに、クリスマスというとても楽しい時期に、あえてそのような苦しみや苦痛を象徴するヒイラギを用いるのでしょうか。それは、イエス・キリスト様の十字架の死という苦しみや苦痛の出来事が、「わたしたち」に喜びをもたらす出来事となるからです。それは、普通なら十字架の上で殺される、あるいは荊の冠を頭にかぶせられるという苦難や苦痛は、嫌なものであり避けたいと考えるのが順当な感覚だからです。昔、メル・ギブソン監督が『パッション』という映画で、イエス・キリスト様のご生涯を描きましたが、イエス・キリスト様が荊の冠をかぶせられ、十字架に磔になるシーンは、あまりに辛く、とても正視するのは、とてもつらい思いがしたほどでした。
 しかし、神様は、そしてその神の独り子であるイエス・キリストは、その辛い出来事をも喜びの出来事へと変えてくださるというのです。そこには、様々な苦しみや悲しみに満ち溢れ、私たちの外側にある罪によって心が傷つき、もう生きて行くことなどできなと思うほどまでに心が追い詰められていしまう、私たちのこの世界での現実の生(せい)に、死に別れ、新しい命に生きるという希望のメッセージがあるのです。
 それは、実際に「わたしたち」が死ぬということではありません。神様は、どんなに辛くても、また苦しくても「わたしたち」が自分で自分の命を絶って死ぬなどと言うことを願ってはいません。むしろ神様は、私たちに「生きよ」と言っておられます。神様は「わたしたち」が「生きる」ということを願っておられるのです。
 だからこそ、父なる神様は、その愛する御子イエス・キリスト様をこの世界に送り、あえてイエス・キリスト様が荊の冠をが撫せられ、十字架に架けられて死ぬという苦痛の出来事を、だまって見守られたのです。そして、その死を見守られた父なる神様は、イエス・キリスト様を死から蘇らせたのです。そうやって、死と再生の物語を、具体的にイエス・キリスト様のご生涯を通して描き出されたのです。それは、私たちが、どんなに辛く、苦しい出来事の中に置かれ、理不尽だという思いになるほど、外側の罪がもたらす苦難の中に置かれていても、必ずあなたの生涯は喜びの生涯に変えられていく。神を信じるならば、あなたの生涯は新しくなり、その辛く、苦しい出来事も、新しい物語として物語れれるようになる。だから、あなたは「生きよ!」。「生きて神を信じる新しい命をいきるものとなれ!」と語っているのです。
 ですから、もし、あなたがクリスマスの時期にヒイラギを目にしたならば、どうぞ、そのヒイラギの木を通して、神様が「あなた」に、どんなに辛いことや苦しいことがあっても、「あなた」は「生きよ!」を私が「あなた」と共に歩み、「あなた」の人生をまるで生まれ変わったような新しい人生に変えて行ってあげるから、だから「あなた」は神を信じて、新しい人生を生きよ!という神のメッセージを聞き取って欲しいと心から願います。
 本来なら苦難と苦しみに満ちた死は、私たちにとって喜ばしいものではありません。それは全く順当な対応関係にあるごく普通の当り前の感情です。しかし、神様は、あえてイエス・キリスト様が荊の冠をかぶらされ、十字架の上に張り付けられるという苦しみの出来事を、喜びの出来事として物語るという逆対応の物語として描き出したのは、私たちに「生きよ!」。「神を信じて、この世という世界の中にあって新しい人生を生きよ!」という神のメッセージを、その死と再生の物語に託されたのです。
 そのことを、私の友人の岩本遠億牧師は、下記に記したアドレスをクリックして出てくる『366日元気の出る聖書の言葉』というホームページにある「死を打ち破る命に」という3分ちょっとの短いメッセージで語っています。よろしければ、その『366日元気の出る聖書の言葉』のg-無メージに行き「死を打ち破る命に」というタイトルのところにある▶マークをクリックしてくだされり。岩本牧師の短いメッセージもあわせてお聴きくだい。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2d1pvm?fbclid=IwAR3W7qrpwrNyyBnZPatAw8qUsuGA-WDegazzwJ5mfz9eH9Tnu1zoleSQnFw

 この岩本牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものですが、岩本牧師の御許可をいただいて転載したものです。

2023年12月7日木曜日

23年12月第一主日待降節第主日礼拝「神は決して諦めない」

 23年12月第一主日待降節第主日礼拝「神は決して諦めない」 

旧約書:マラキ書4章から5節
福音書:ルカによる福音書2章8節から20節
使徒書:へブル人への手紙13章1節から6節

 12月に入り、今年のクリスマスの時を持ち望むアドベントに入りました。そのアドベントの第一主日の礼拝の説教の中心となります箇所は、旧約聖書のマラキ書第四章、聖書協会共同訳ですと3章になります箇所です。そして、その中心となりますのは口語訳聖書では2節、聖書協会共同訳では20節になります

しかしわが名を恐れるあなたがたには、義の太陽がのぼり、その翼には、いやす力 を備えている。あなたがたは牛舎から出る子牛のように外に出て、とびはねる。

というお言葉です。その中でも着目すべき言葉は「義の太陽がのぼり」という言葉です。
 この言葉が記されているマラキ書というのは、一見してわかるように旧約聖書の最後の書です。そしてその旧約聖書最後の書であるマラキ書の最後の章が、口語訳聖書では4章、聖書協会共同訳聖書ですと3章なのです。
 もっとも、旧約聖書のもともとの原語であるヘブライ語で聖書では、順番が、わたしたちが手にしている旧約聖書とは違っていて、歴代誌が最後の書となっています。というのは、ユダヤ教では旧約聖書を律法、預言書、諸書という順番で区分するからです。

 ちなみに、余談になりますがユダヤ教では旧約聖書をタナハあるいはタナクと呼びます。それは、この律法(トーラー)、預言書(ネビーム)、諸書(ケスビーム)の頭文字をならべているからです。そのタナハにおいては、そしてマラキ書は預言書に属し、歴代誌は詩篇やダニエル書やネヘミヤ書などと一緒に諸書に属するのでマラキ書は諸書の前にある、歴代誌は諸書の最後の書として旧約聖書の最後に置かれているので。
 にもかかわらず、私たちキリスト教徒が手にしている聖書はマラキ書が最後になっている。それは、私たちキリスト教徒が手にしている聖書の順番が70人訳聖書という旧約聖書をギリシャ語に訳した聖書の順番に基づいているからです。
 70人訳聖書というのは紀元前3世紀にプトレマイオス朝エジプトの王プトレマイオス2世フィラデルフォスがパレスティナから72人のユダヤ人の長老を呼び寄せ72日間でヘブライ語をギリシャ語に訳させたという伝説を持つ聖書です。しかし、それはあくまでも伝説の話でして、実際には紀元前3世紀から1世紀にかけて編纂されていったものだと考えられています。
 その70人訳聖書の各書の順番は、タナハの順番と異なっているのは、イスラエルの民の過去の歴史として創世記からエステル書までがあり、イスラエルの民の現在の苦悩の姿をヨブ記から雅歌までに読み取り、イザヤ書からマラキ書までで、その苦悩の中に置かれているイスラエルの民に救いがもたらされるという未来の希望が語られているという構造で、それぞれの書物が配列されていると考えられます。

 つまり、イスラエルの民に対する神の壮大な救いの歴史が70人訳聖書には構想されている。そしてその最後の部分に、口語訳聖書ではマラキ書の4章、聖書協会共同訳では3章が置かれている。そのイスラエルの民の希望というのが

しかしわが名を恐れるあなたがたには、義の太陽がのぼり、その翼には、いやす力 を備えている。あなたがたは牛舎から出る子牛のように外に出て、とびはねる。

という事なのです。そして、この「義の太陽が昇る」という言葉が、クリスマスの原点にある。もう毎年のことになりますので、みなさん、またかと思われるかもしれませんが、イエス・キリスト様がお生まれになったのは、史実上は、いつであったかはわからない。ただ、12月ではことは確かです。12月に羊飼いが夜に羊の番をすることはないからです。
 それが12月25日に祝われるようになったのは、キリスト教が古代ローマ帝国に広まっていく中で、当時ローマ帝国で行われていた冬至の祭りの日に、教会がイエス・キリスト様の誕生を祝うようになったからです。その背景には、この当時の祭りは、陽がだんだんと短くなっていく中で、冬至を境にまた日が長くなっていくという自然現象から、そこに死と再生の物語を見て、不滅の太陽神ミトラの復活を祝祭りを祝うという事がありました。
 その当時の祭りの日に、キリスト者も真の義の太陽であるキリストの誕生を祝うようになったのです。それがクリスマスの由来であると言えます。つまり、この「義の太陽が昇る」という聖書の言葉によって旧約聖書と新約聖書が結び合わされるのです。

 イスラエルの民が待ち望んだ救い主の到来という希望の出来事が、「今日、ダビデの街にあなた方の救い主がお生まれになった、その方こそ主キリストです」というメッセージと共に契機に始まったのです。それは、イスラエルの民の希望でもあり、また私たちキリスト者の希望でもあります。

 先日、私の友人が、自分が語った説教を聴いてその内容について感想や批評をしてくれないかとご自分の説教の動画を送ってこられました。そこに流れている神学的な内容について意見を聴きたいという事でした。聴くと私などが批評するなんてことはとても恥ずかしく手出来ないと思えるような、とても良い説教でしたが、その友人が意見を聞きたいと言われた神学的なことがらというのは、神はイスラエルの民を今も見捨てておられないというものでした。
 その友人の牧師は、「神はイスラエルの民を見捨てておられない」ということを丁寧に聖書を解き明かしながら話し説明しているのですが、その説明が神学的にはどうかという意見を私の求めてこられたというのは、それなりに理由がありました。

 その理由とは、キリスト教界の中にある一つの神学的主張があるからです。それは、イエス・キリスト様の到来によって、旧約聖書の時代から新約聖書の時代に移り変わり、旧約聖書を担っていたユダヤ人は古い肉のイスラエルとして神から見捨てられ、イエス・キリストを様を信じる教会が新しい霊のイスラエルが神の救いを担う新しい時代になったのだという主張です。
 この主張は、教会が神の救いの歴史を担うものとなったという点においては間違っていません。しかし、神がユダヤ人たちを古き肉のイスラエルとして捨てられたのだという主張には問題があります。

 確かに、聖書には古いと新しいの二つの要素の対立があり、肉と霊の対立構造があります。しかしそれは、イスラエルとキリスト者という対立構造というよりもむしろ、私たちの内にある肉の性質つまり、欲望と霊の性質、すなわち神に向かったより善いものになろうとする思いとの対立構造として言われているものです。
 ですから、古いものをユダヤ人とし、新しいものをキリスト者あるいは教会とする者ではありません。むしろ、ユダヤ人とキリスト者は共に神の救いを担う者として、やがて完成する神の王国の完成という将来の希望を待ち望む者なのです。

 私の友人の説教は、そのことを実に丁寧な聖書の読みと論理構成で指し示しつつ、最後に、神に信頼することの大切さに聴いている人々を導く言葉で締めくくられていました。それの背後には、あのイエス・キリスト様を十字架につけたイスラエルの民ですら、決して見捨てないお方である。だからこそ、私たちもまた、神に信頼することができる。何があっても、神様は私たちを見捨てないのだ。という説教者の神への絶大な信頼がうかがえました。

 そうなのです、みなさん。神様は、私たちを決して見捨てることも見放すこともなさらないお方なのです。だからこそ、先ほどお読みしたヘブル人への手紙を書いた著者も、へブル書全体を通してイスラエルの民の歴史を語りつつ、その書の最後の章である13章5節で、旧約聖書のヨシュア記1章5節の言葉を引用し、「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言い、さらには詩篇118篇8節の言葉を引用しつつ「主はわたしの助け主である。わたしには恐れはない。人は、わたしに何ができようか」とまで言うことができるのです。

 ここには、決して見捨てない神に対する、絶対的な信頼があります。そしてその絶対的な信頼が、イエス・キリスト様というお方に集中していくのです。しかもそれを、旧約聖書のイスラエルの民の歴史を紐解きながら語るのです。しかし、そのユダヤ人の歴史というと、神から「決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言われているのも関わらず、繰り返し神から離れ偶像礼拝に走るという過ちを犯してきた歴史です。そして、何度も神の怒りを引き起こし、神からその誤りに対して厳しくただされるという事を繰り返しきた歴史なのです。にもかかわらす、何度失敗しても、神はヨシュアに約束したように、決してイスラエルの民を見捨てず、イスラエルの民と共におられたのです。だからこそ、怒り、彼らを正しい道に立ち帰らせるのです。だかこそ、「主はわたしの助け主である。わたしには恐れはない。人は、わたしに何ができようか」という事ができるのです。

 そのようなイスラエルの民の歴史を背負いながら、異邦人に支配される苦しに満ちたくらい闇夜の中で、マラキはやがて、「義の太陽が昇る」、「救い主が来られる」、希望の光が差し込むのだというのです。そして、その「義の太陽」、「救い主」が、「今日ダビデの街に救い主お生まれになった。」それがクリスマスの出来事です。そして、そのお生まれになった救い主こそが、イエス・キリスト様なのです。

 その救い主の誕生を、イスラエルの民、すなわちユダヤ人は決して認めてはいません。それは今日においても同じです。彼らは、イエス・キリスト様が救い主キリストであるとして受け入れてはいないのです。神が、ご自分の独り子を、私たちを愛するがゆえに、救い主キリストとするために人として生まれさせてくださったのにもかかわらず、それを認めず、事もあろうに十字架で死なせてしまった。なにに、そんなイスラエルの民を神は、今日でも神は決して見捨てず、また見捨てもいません。そしてやがて回復され、神の救いの中に入れてくださるのです。
 どこまで行っても、神は、神の約束に対して真実なお方なのです。決して私たちを諦めない深い愛がそこにあります。だからこそ、私たちは、神を信頼することができる。私たちがどんなものであろうと、神は神の約束に忠実であり、神の愛は決して変わらないのです。

そして、今日でも変わらず、私たちに「今日、ダビデの街にあなた方の救い主がお生まれになった、その方こそ主キリストです」というメッセージが語られている。その背後には、決して裏切らない神の真実な約束があり、決して変わらない神の愛があるのです。

その神の約束と愛が現れているクリスマスの出来事を祝うときを、この礼拝から一か月間のアドベントの間に喜びをもって待ち望むのです。この決して裏切らない神の真実な約束があり、決して変わらない神の愛を思いつつ、しばらく静まりの時を持ちましょう。