2023年12月7日木曜日

23年12月第一主日待降節第主日礼拝「神は決して諦めない」

 23年12月第一主日待降節第主日礼拝「神は決して諦めない」 

旧約書:マラキ書4章から5節
福音書:ルカによる福音書2章8節から20節
使徒書:へブル人への手紙13章1節から6節

 12月に入り、今年のクリスマスの時を持ち望むアドベントに入りました。そのアドベントの第一主日の礼拝の説教の中心となります箇所は、旧約聖書のマラキ書第四章、聖書協会共同訳ですと3章になります箇所です。そして、その中心となりますのは口語訳聖書では2節、聖書協会共同訳では20節になります

しかしわが名を恐れるあなたがたには、義の太陽がのぼり、その翼には、いやす力 を備えている。あなたがたは牛舎から出る子牛のように外に出て、とびはねる。

というお言葉です。その中でも着目すべき言葉は「義の太陽がのぼり」という言葉です。
 この言葉が記されているマラキ書というのは、一見してわかるように旧約聖書の最後の書です。そしてその旧約聖書最後の書であるマラキ書の最後の章が、口語訳聖書では4章、聖書協会共同訳聖書ですと3章なのです。
 もっとも、旧約聖書のもともとの原語であるヘブライ語で聖書では、順番が、わたしたちが手にしている旧約聖書とは違っていて、歴代誌が最後の書となっています。というのは、ユダヤ教では旧約聖書を律法、預言書、諸書という順番で区分するからです。

 ちなみに、余談になりますがユダヤ教では旧約聖書をタナハあるいはタナクと呼びます。それは、この律法(トーラー)、預言書(ネビーム)、諸書(ケスビーム)の頭文字をならべているからです。そのタナハにおいては、そしてマラキ書は預言書に属し、歴代誌は詩篇やダニエル書やネヘミヤ書などと一緒に諸書に属するのでマラキ書は諸書の前にある、歴代誌は諸書の最後の書として旧約聖書の最後に置かれているので。
 にもかかわらず、私たちキリスト教徒が手にしている聖書はマラキ書が最後になっている。それは、私たちキリスト教徒が手にしている聖書の順番が70人訳聖書という旧約聖書をギリシャ語に訳した聖書の順番に基づいているからです。
 70人訳聖書というのは紀元前3世紀にプトレマイオス朝エジプトの王プトレマイオス2世フィラデルフォスがパレスティナから72人のユダヤ人の長老を呼び寄せ72日間でヘブライ語をギリシャ語に訳させたという伝説を持つ聖書です。しかし、それはあくまでも伝説の話でして、実際には紀元前3世紀から1世紀にかけて編纂されていったものだと考えられています。
 その70人訳聖書の各書の順番は、タナハの順番と異なっているのは、イスラエルの民の過去の歴史として創世記からエステル書までがあり、イスラエルの民の現在の苦悩の姿をヨブ記から雅歌までに読み取り、イザヤ書からマラキ書までで、その苦悩の中に置かれているイスラエルの民に救いがもたらされるという未来の希望が語られているという構造で、それぞれの書物が配列されていると考えられます。

 つまり、イスラエルの民に対する神の壮大な救いの歴史が70人訳聖書には構想されている。そしてその最後の部分に、口語訳聖書ではマラキ書の4章、聖書協会共同訳では3章が置かれている。そのイスラエルの民の希望というのが

しかしわが名を恐れるあなたがたには、義の太陽がのぼり、その翼には、いやす力 を備えている。あなたがたは牛舎から出る子牛のように外に出て、とびはねる。

という事なのです。そして、この「義の太陽が昇る」という言葉が、クリスマスの原点にある。もう毎年のことになりますので、みなさん、またかと思われるかもしれませんが、イエス・キリスト様がお生まれになったのは、史実上は、いつであったかはわからない。ただ、12月ではことは確かです。12月に羊飼いが夜に羊の番をすることはないからです。
 それが12月25日に祝われるようになったのは、キリスト教が古代ローマ帝国に広まっていく中で、当時ローマ帝国で行われていた冬至の祭りの日に、教会がイエス・キリスト様の誕生を祝うようになったからです。その背景には、この当時の祭りは、陽がだんだんと短くなっていく中で、冬至を境にまた日が長くなっていくという自然現象から、そこに死と再生の物語を見て、不滅の太陽神ミトラの復活を祝祭りを祝うという事がありました。
 その当時の祭りの日に、キリスト者も真の義の太陽であるキリストの誕生を祝うようになったのです。それがクリスマスの由来であると言えます。つまり、この「義の太陽が昇る」という聖書の言葉によって旧約聖書と新約聖書が結び合わされるのです。

 イスラエルの民が待ち望んだ救い主の到来という希望の出来事が、「今日、ダビデの街にあなた方の救い主がお生まれになった、その方こそ主キリストです」というメッセージと共に契機に始まったのです。それは、イスラエルの民の希望でもあり、また私たちキリスト者の希望でもあります。

 先日、私の友人が、自分が語った説教を聴いてその内容について感想や批評をしてくれないかとご自分の説教の動画を送ってこられました。そこに流れている神学的な内容について意見を聴きたいという事でした。聴くと私などが批評するなんてことはとても恥ずかしく手出来ないと思えるような、とても良い説教でしたが、その友人が意見を聞きたいと言われた神学的なことがらというのは、神はイスラエルの民を今も見捨てておられないというものでした。
 その友人の牧師は、「神はイスラエルの民を見捨てておられない」ということを丁寧に聖書を解き明かしながら話し説明しているのですが、その説明が神学的にはどうかという意見を私の求めてこられたというのは、それなりに理由がありました。

 その理由とは、キリスト教界の中にある一つの神学的主張があるからです。それは、イエス・キリスト様の到来によって、旧約聖書の時代から新約聖書の時代に移り変わり、旧約聖書を担っていたユダヤ人は古い肉のイスラエルとして神から見捨てられ、イエス・キリストを様を信じる教会が新しい霊のイスラエルが神の救いを担う新しい時代になったのだという主張です。
 この主張は、教会が神の救いの歴史を担うものとなったという点においては間違っていません。しかし、神がユダヤ人たちを古き肉のイスラエルとして捨てられたのだという主張には問題があります。

 確かに、聖書には古いと新しいの二つの要素の対立があり、肉と霊の対立構造があります。しかしそれは、イスラエルとキリスト者という対立構造というよりもむしろ、私たちの内にある肉の性質つまり、欲望と霊の性質、すなわち神に向かったより善いものになろうとする思いとの対立構造として言われているものです。
 ですから、古いものをユダヤ人とし、新しいものをキリスト者あるいは教会とする者ではありません。むしろ、ユダヤ人とキリスト者は共に神の救いを担う者として、やがて完成する神の王国の完成という将来の希望を待ち望む者なのです。

 私の友人の説教は、そのことを実に丁寧な聖書の読みと論理構成で指し示しつつ、最後に、神に信頼することの大切さに聴いている人々を導く言葉で締めくくられていました。それの背後には、あのイエス・キリスト様を十字架につけたイスラエルの民ですら、決して見捨てないお方である。だからこそ、私たちもまた、神に信頼することができる。何があっても、神様は私たちを見捨てないのだ。という説教者の神への絶大な信頼がうかがえました。

 そうなのです、みなさん。神様は、私たちを決して見捨てることも見放すこともなさらないお方なのです。だからこそ、先ほどお読みしたヘブル人への手紙を書いた著者も、へブル書全体を通してイスラエルの民の歴史を語りつつ、その書の最後の章である13章5節で、旧約聖書のヨシュア記1章5節の言葉を引用し、「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言い、さらには詩篇118篇8節の言葉を引用しつつ「主はわたしの助け主である。わたしには恐れはない。人は、わたしに何ができようか」とまで言うことができるのです。

 ここには、決して見捨てない神に対する、絶対的な信頼があります。そしてその絶対的な信頼が、イエス・キリスト様というお方に集中していくのです。しかもそれを、旧約聖書のイスラエルの民の歴史を紐解きながら語るのです。しかし、そのユダヤ人の歴史というと、神から「決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言われているのも関わらず、繰り返し神から離れ偶像礼拝に走るという過ちを犯してきた歴史です。そして、何度も神の怒りを引き起こし、神からその誤りに対して厳しくただされるという事を繰り返しきた歴史なのです。にもかかわらす、何度失敗しても、神はヨシュアに約束したように、決してイスラエルの民を見捨てず、イスラエルの民と共におられたのです。だからこそ、怒り、彼らを正しい道に立ち帰らせるのです。だかこそ、「主はわたしの助け主である。わたしには恐れはない。人は、わたしに何ができようか」という事ができるのです。

 そのようなイスラエルの民の歴史を背負いながら、異邦人に支配される苦しに満ちたくらい闇夜の中で、マラキはやがて、「義の太陽が昇る」、「救い主が来られる」、希望の光が差し込むのだというのです。そして、その「義の太陽」、「救い主」が、「今日ダビデの街に救い主お生まれになった。」それがクリスマスの出来事です。そして、そのお生まれになった救い主こそが、イエス・キリスト様なのです。

 その救い主の誕生を、イスラエルの民、すなわちユダヤ人は決して認めてはいません。それは今日においても同じです。彼らは、イエス・キリスト様が救い主キリストであるとして受け入れてはいないのです。神が、ご自分の独り子を、私たちを愛するがゆえに、救い主キリストとするために人として生まれさせてくださったのにもかかわらず、それを認めず、事もあろうに十字架で死なせてしまった。なにに、そんなイスラエルの民を神は、今日でも神は決して見捨てず、また見捨てもいません。そしてやがて回復され、神の救いの中に入れてくださるのです。
 どこまで行っても、神は、神の約束に対して真実なお方なのです。決して私たちを諦めない深い愛がそこにあります。だからこそ、私たちは、神を信頼することができる。私たちがどんなものであろうと、神は神の約束に忠実であり、神の愛は決して変わらないのです。

そして、今日でも変わらず、私たちに「今日、ダビデの街にあなた方の救い主がお生まれになった、その方こそ主キリストです」というメッセージが語られている。その背後には、決して裏切らない神の真実な約束があり、決して変わらない神の愛があるのです。

その神の約束と愛が現れているクリスマスの出来事を祝うときを、この礼拝から一か月間のアドベントの間に喜びをもって待ち望むのです。この決して裏切らない神の真実な約束があり、決して変わらない神の愛を思いつつ、しばらく静まりの時を持ちましょう。

特別にされる喜び

 「『あなた』だけの特別ですよ」と言われて嫌な気がする人などいないのではないでしょうか。「『あなた』だけ特別」と言われると、なにか大切に扱われたような気がして、嬉しく思ってしまうものです。もちろん、私もその一人です。

 私の知人は兄弟が多くいるのですが、その知人が小さい時、その知人の親が、「あなただけの特別よ」といって、飴玉や小さなチョコレートをくれたそうですが、とてもうれしかったそうです。もっとも、後で分かったことですが、その親は他の兄弟にもおなじようにしていたそうです。でも、とても賢い親御さんだなと思います。そうやって、子どもたちひとり一人に、「わたしは『あなた』を大切にに思っているよ」という思いを伝えていたのだと思います。そしてそのように親から「大切にされている」という思いをもって育てられた人は、本当に幸せだと思います。
 聖書の中には、神様が「私はあなたの名を呼んだ」(旧約聖書イザヤ書43章1節)と言われている箇所があります。神様を信じる民は数多くいます。現在のクリスチャン人口は世界で24億人弱、日本でも100万人弱の人がキリスト教を信じています。このイザヤ書が書かれた時代でも、聖書の神を信じるユダヤの民は数百万人はいただろうと思います。そのような中で、名前を呼ばれるというのです。その特別感は、それはもう「半端ない」者だったろうと思います。
 しかし神様は、あの私の知人の賢い親のように「わたしたち」のひとり一人に「わたしは『あなた』の名前を呼んだよ」といって、本当に名前を呼んでくださるのです。そうやって神様は、「わたしは『あなた』を大切に思っているよ、大事にしているよ」という神様の思いを私たちに伝えてくださろうとしているのです。私自身も「ああ、神様が私の名を呼んで語りかけてくださったな」と思う経験が何度かありました。もちろん、私の心がそう感じたということなのですが、でも私は、本当に私の名を呼んでくださったのだと、そう思ったのです。
 神様は、「わたしたち」ひとり一人を大切に思っておられます。そして、「わたしたち」ひとり一人、そう「あなた」が、神と人に喜ばれる人になって欲しいと願っておられるのです。それは、神様が「わたしたち」ひとり一人を、そして「あなた」を、「あなた」の名前を呼ぶほどに大切に思っておられるように、「あなた」も「あなた」の周りにいる誰か一人でもいい、その一人を大切にする優しい心を持って接するような「隣人を愛する」人になって欲しいと願っているのです。
 その神様の思いを、私の友人の岩本遠億牧師は「一人を大切にする」という3分ちょっとの短いメッセージの中で語っています。その岩本牧師のショートメッセージは、岩野と牧師の許可を得て掲載しています下記のアドレスをクリックして『366日元気の出る聖書の言葉』というホームページに行き同名のタイトルにある▶マークをクリックしてくだされば聴くことができます。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2ctmad?fbclid=IwAR1YNYsJIqtwR7HG4uXR9rM9B3_ytckpU4kQwJcP4ljyFRkefpTghz2ubD0

2023年12月5日火曜日

委ねるよろこび

病院のベッドに横たわり眠っていると、自分自身の力ではどうにもできないことを思い知ります。私のような昭和世代の人間で、部活動でスポーツをやって来た人間は、「病気などは気力で何とでもなるもんだ」などと言いがちですが、そんなことは大ウソで、病気になるとやはり自分以外の助けが必要になります。

 病気そのものへのケアは、医師や看護師の助けが必要ですし、心のケアはカウンセラーと言った人の助けが有益です。それ以外にも、どうしてこんな病気になったのだろうかとか、病気によって多くのことを失ってしまうかもしれもしれない喪失感への漠然とし不安を感じることに対するケアというものがあります。このような喪失感の最も大きなものが、自分の存在そのものが喪失してしまう喪失感、つまり死に対する不安です。
 このような喪失感を医学の世界ではスピリチャルペインと言います。スピリチャルペインとは霊的痛みとでも訳されるものです。霊的痛みというのですから、このスピリチャルペインの問題に関わるのは、多くの場合、宗教関係者であるケースが見られます。アメリカなどでは、すでに医師とカウンセラーとチャプレンと呼ばれる病院専属の牧師がチームになって治療に当たるシステムが広く行われているようです。
 喪失感というものは、失うということですから、自分が持っているもの、手に握りしめているものへの執着が引く起すものです。自分の手に握りしめておかなければならない執着は、それが自分の心のよりどころとなっているからです。だから、それを手放すことができない。けれども、それを一つ一つ手放して、人に頼る、誰かに頼るということを「わたしたち」は学んでいく必要があるのではないでしょうか。「わたしたち」は生まれてきて、色々なことを学び、身に着け、できるようになっていくその一つ一つの過程で喜びを感じてきました。周りも、一つ一つできるようになっていく「わたしたち」の姿を喜び、またほめてくれて来たのです。
 しかし、私たちはそうやって成長してきたのですが、しかし、どうじに、人に頼り、自分を誰かに委ねるということの大切さと、ゆだねることの喜びを忘れてしまって言っていたのです。自分自身で頑張って何とか手に入れることができる喜びも大切ですが、頑張ってもどうにもならなないことを、自分自身の手から手放して人に委ねることによって得られる安堵感や喜びも大切なのです。
 病気になって、自分の健康を医師や看護師の方に委ねる、「気力では何とかなる」の気力の部分を観セラーの方に委ね、自分の存在の意義と意味、つまり命の問題までも、牧師を通して神様に委ねる中で、私たちは手放すことの大切さと喜びを知っていくのです。
 しかし、牧師を含め宗教関係者の中で、祈りで病気を治すということを強く言われる方々がおられます。そういった方の中には、医師にかかることよりも「祈れば癒される」的なことが言われる方があることを知っています。私自身、祈りを通して病気が治られたという事例を見ていますし、そのようなことがあることも知っていますので「病の癒しのために祈ります」ですから、「病の癒しのための祈り」を否定はしませんが、医師の治療を否定し、「祈れば必ず治る」というような指導をするような方々は、正直あまりおすすめできません。それは、自分自身の存在をも委ねる喜ぶを阻害し、むしろ執着を助長するからです。
 この委ねることの大切さを、私の友人の岩本遠億牧師が「全てに勝る喜び」という三分ちょっとの短いメッセージの中で話しています。その岩本牧師のショートメッセージは、下記のアドレスをクリックして『366日元気の出る聖書の言葉』というページに行き、そこで▶マークをクリックしてくだされば聴くことができます。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2cqbnb?fbclid=IwAR2gR2DmpAvkNcQS7r4E2IMu5mK7ZqHHe3pk6f5kfT3LoQ5zWXWs6RYfbr0

2023年12月2日土曜日

牧師だって病気になるんだ

 一昨日、全身を締め付けるような痛みが襲ってきて、体がガタガタと震え出しました。今週末から大切な仕事が立て続けにあるので、しまったと思い、すぐに別途に横たわりました。一応、コロナの抗体検査をしましたら陰性だったの、そちらの方は意図安心。でも、今もまだ38度5分をほどあります。それでも一昨日よりずいぶんとましになりました。そんなわけで、昨日はブログの更新ができずにもうしわけありませんでした。

 とても大事な時期に神様、「いったい神様どうしてですか」と思わず口をついてでそうですが、でも、わたしは「だからこそ神様じゃ公平なお方なのだ」「愛なる神様なのだ」と思うのです。「牧師だから風邪をひかないように守ってあげよう、でも他の人間はクリスチャンじゃないから守ってあげない」というのであれば、何と冷たい、不公平な神様なのでしょう。
 私が体調を崩したのは、色々と無理を重ねてきた結果で、その原因はわたしにあります。なのに「神様どうしてですか」などと言われても、神様もお困りになられるだろうと思います。このように、「わたしたち」は自分に原因があるのに、「神様どうしてですか」と神様に責任転嫁をすることがしばしばあります。それは、「わたしたち」が、自分たちの都合のいいように神様を利用しようとしているからです。そんな風に神様を都合よく利用しようとして、その思う道理に行かなかったから、「神様なんかいない」「神様なんか信じても意味がない」と言われてしまっては、神様も立つ瀬がなく困ってしまうでしょう。
 私が具合が悪くなると、妻がとても優しくしてくれます。いえ、普段も優しいのですが、いつもの優って優しくしてくれるのです。妻が易しくしてくれても病気が良くなるわけではありません。でも優しくしてくれることで、よりうれしくなるのです。それと同じように、病気の中で、「わたしたち」は、「わたしたち」と共にいてくださる神様の愛を感じ取ることができます。それは、たとえ「わたしたち」がどんなmのであろうと、公平に、変わらず「わたしたち」に愛を注いでくださる神の愛なのです。
 その神の愛について、私の友人の岩本遠億牧師が「私たちの天の父」という2分ちょっとの短いメッセージで「みなさん」に伝えています。そのメッセージは下記のアドレスをクリックして岩本牧師の「366日元気の出る聖書の言葉」というページに行き「私たちの天の父」問うタイトルにある▶マークをクリックしてくだされば聴くことができます。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2cm3d8?fbclid=IwAR1jgOMigfutvDpdrTfDl-DOS-pA8cRQa-qB4SOY3CIegbpwhxkm9-vOxLA

2023年11月30日木曜日

霊の耳で神の声を聞く

 神様は霊です。ですから神様を見ることも神様の声を「わたしたち」の耳で音声として聞くこともできません。どんなに一生懸命祈っても、「わたしたち」は、音声として神の答えを聴きことができないのです。

 しかし、だからと言って神様は「わたしたち」の祈りを聞いておられないわけではありません。また「わたしたち」が置かれている状況を知らないわけでもないのです。神様は、「わたしたち」の状況をちゃんと知っておられ、「わたしたち」の祈りをちゃんと聞いておられるです。そして、その祈りの答えを私たちに伝えようとしておられます。ただ、神様は霊ですので、神様がお答えくださるその答えも霊も耳をもって聞き、霊の目をもって見なければわからないのです。霊のみ見をもって聞くとか、霊の目をもって見ると言われても、なんだかよくわからない言われるかもしれませんが、要は、「わたしたち」の心で感じ取るということなのです。
 神様は「わたしたち」の心に働きかけます。そしてその働きかけを、「わたしたち」は心で聴くのです。もちろん、その用に心で感じる、心で聴くということは、極めて主観的な事柄です。でもそれでいいのです。神様は「あなた」という個人に語りかけているからです。「あなた」というひとりの人が神様のまえで、正しく、より善いものとして、神様と人とに喜ばれるものとなるように神様は「あなた」の心に語りかけるからです。
 もし仮に、神様が「あなた」に語りかけてくださったと感じたことがあっても、それによって「あなた」が神と人に喜ばれない者になってしまうならば、その時はいったん立ち止まって、本当に神様は「わたし」に語りかけてくださったのだろうか、「わたし」の心に浮かんできたことは、神様と人とに喜ばれることなのだろうかをしっかり考えてみる必要があります。神様は、「わたしたち」の心に内側に神の像(かたち)を刻み込んでくださっています。この神の像(かたち)は、しばしば「わたしたち」の良心の中に現れ出ます。そして、その良心が「わたしたち」の心に浮かんできた思いが、神様の語りかけのか、「わたしたち」の願望が言葉となって浮かび上がってきたものかを判別してくれるのです。
 神様は。「わたしたち」の祈りを聴き、決してそれを無視しません。そして必ず、私たちの霊の耳に、霊の目に、その答えを表してくださっています。だから、「わたしたち」は、「わたしたち」の霊の耳、霊の目を研ぎ澄まして、心でそれを感じ取ることが大切なのです。
 そのことを、私の友人の岩本遠億牧師が下記のアドレスをクリックすると出てくる「366日元気の出る聖書の言葉」というページの「神は聞いておられた」という3分ちょっとの短いメッセージで語っています。このメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものですが、岩本牧師の御許可をいただいて転載したものです

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2cj9b2?fbclid=IwAR1QnMChT-2ghQs2cCOPPwW3kh0Uoh1wSAvnEXp1R7bx-o9wRzEFYt_-_z0

2023年11月29日水曜日

絶望だとおもったのに・・・

 キリスト教というと十字架を思い出す方も多いのではないかと思います。それほど十字架はキリスト教を象徴するものです。実際、多くの教会がこの十字架を掲げます。

では、なぜキリスト教は十字架をその象徴として掲げるのでしょうか。十字架は、イエス・キリスト様がローマ帝国によって反逆罪に問われ、貼り付けになって死なれて場所です。聖書によれば、イエス・キリスト様は十字架に架けられてしまうような過激な行動をとったわけではなく、当時のユダヤ人の中にあったパリサイ派と呼ばれるグループや祭司階級の人々を厳しく批判したために恨みを買い、それでローマ帝国に訴えられて十字架に架けられて死んだと伝えられています。
 その十字架に磔られたイエス・キリスト様が十字架の上で語った言葉があります。十字架の七言と呼ばれるもので、七つほどあるのですが、その中の一つに「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」というものがあります。
 イエス・キリスト様の時代、地中海世界はローマ帝国が支配していました。そのような中でユダヤ人たちは、ある程度の自治は認められていましたが、基本的にはローマ帝国に支配されていました。そのようなな中で、イエス・キリスト様は神の王国が到来するというメッセージ(これを教会では福音と言います)を人々に伝え歩いたのです。そのメッセージは、ユダヤの人々に希望を与えました。それは、ローマ帝国に支配されていた彼らにとっては解放のメッセージだったからです。当時のユダヤ人たちの希望は、ローマ帝国の支配から脱却し、自分たち自身の王国が建てられ、自分たちの土地を自分たちで自由に使え、神が与えた律法を何の制約もなく行えるというものでした。ですから、当時のユダヤ人たちに神の王国が建てられたというメッセージは、彼らが期待する神の王国の到来と勘型としてもおかしくはありません。
 しかし、実際にはイエス・キリスト様が伝えたその解放のメッセージは、当時のユダヤ人の期待し希望する解放とは少し異なっていました。というのも、イエス・キリスト様が伝えた神の王国の到来は、ローマ帝国を意識したものではなく(それもしやにははいってきたかもれませんが)、もっと大きなこの世界を覆っている罪と死の支配からの解放であり、神の恵みと愛とが支配する世界の到来を告げ知らせるものだったからです。それは、支配者と被支配者といった構造をもつこの世界の在り方そのものをひっくり返すような神の王国の到来を告げしらせるものだったのです。
 だからこそイエス・キリスト様は、当時のユダヤ人たちの宗教的支配者階級のパリサイ派や祭司階級を厳しくし、同時に彼らから憎まれ、十字架に磔られて死ぬ羽目になってしまうという悲劇的な結末となってしまった。
 十字架に磔られて死を迎えるということは、本当に苦しいことであり絶望的な事だろうと思います。イエス・キリスト様にしてみれば、それこそ神に見捨てられたような思いがしたのかもしれません。だから「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」とイエス・キリスト様は叫ばれた。それは絶望の中にある人の叫びです。そのような言葉をイエス・キリスト様は十字架の上で口に出して言われたのです。
しかし、そのイエス・キリスト様の十字架の七言の最後の言葉は「すべて完了した(こと終われり)」というものです。どういうことでしょうか。「自分の人生が終わった、自分の夢もこと尽きた」ということでしょうか。そうではないのです。
 それは、むしろ、罪と死による支配は終わり、神に見捨てられたと思うような絶望はもう終わっのだという希望の宣言なのです。イエス・キリスト様は神の御子です。その神の御子が人となってこの世界にお生まれになった。そして、人ととしてこの世界で生きられたのです。それは、「わたしたち」人間がこの世界で味わう苦しみや苦悩、そして悲しみを共に生きるためです。そして十字架の上で死なれたのは、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばずにはいられないような絶望を経験するためだったのです。そしてそれらを経験したなかで、そのような苦しみと悲しみ、そして絶望は終わったのだ。ここから神の恵みと愛が支配する神の王国が世界の隅々まで広がっていくのだと言われたのです。それが「すべて完了した(こと終われり)という言葉なのです。
 この神の恵みと愛が支配する世界は、いまだ世界の隅々まで広がってはいません。しかし、キリスト教会の中に確かに始まっています。それはまず神を信じ、イエス・キリスト様を心の中に迎え入れた人の心と霊の中に広がっています。どんなに絶望的で「「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と思われる状況の中にあっても、神様は決して私たちを見捨てておられないのだという希望を与えているのです。
 このイエス・キリスト様の「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」という言葉は、実は旧約聖書の詩篇というところにある言葉です。その言葉をイエス・キリスト様はお語りになったのです。そしてその詩篇の言葉を口にしたイエス・キリスト様の言葉が希望に繋がるということを、私の友人の岩本遠億牧師が「十字架の上の賛美と希望」という4分弱の短いメッセージを通して語っています。その岩本牧師のメッセージが出ているホームページのアドレスを岩本牧師の許可を得て下記に掲載しています。そのアドレスをクリックし「366日元気の出る聖書の言葉」というページに行き「十字架の上の賛美と希望」というタイトルにある▶マークをクリックしてください。そうすれば岩本牧師のショートメッセージを聴くことができます。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2chkdl?fbclid=IwAR3W_f2B_100D_iaKQRRa64yJ9xeRjSfXYmTpQ_oW-c3-EewvKa9NNjgNYA&%24web_only=true&_branch_match_id=943951679210878550&utm_source=web&utm_campaign=web-share&utm_medium=sharing&_branch_referrer=H4sIAAAAAAAAAwXB0QqCMBQA0C%2BaMw3FIELJBxMGrkB9GtvacmruksPp33fO4BysF4xXsM7ogy9ysD%2FklQg4QDCbZcIKQxp1e5FuSSluWsjZvK%2BVz2ncMh0V7BSGd2Z43VDKk%2FPxyHZFx6fu%2Bu8LGmZbJGNUKr%2FVPCNk%2FJA%2B%2FwND0uUDdQAAAA%3D%3D

2023年11月28日火曜日

外側の罪がもたらす試練の苦しみ

 「わたしたち」の人生には痛みや苦しみが訪れる時があります。それらの痛みや苦しみが決して神から来るものではないと確信しています。それは「わたしたち」の外側からくるものであり、「わたしたち」の外側にある罪がもたらすものです。

 「わたしたち」は、「わたしたち」が痛みや苦しみを伴う試練に会うとき、自分の内側に何か問題があったのではないか、自分が悪かったのではないかと自分を責めることがあります。しかし、自分を責める必要はありません。それはわたしたちの外側にあるのです。むしろ「わたしたち」人間の内側は善に満ちています。しかし、この世界を支配している罪と死の力が、ときに「わたしたち」内側にある善を覆い隠し、互いに傷つけあい、苦しめるような辛い出来事をおこすのです。それは、「この世」という世界が、神の存在を覆い隠し、あたかも神様などいないと「わたしたち」に「教え込む」ためです。ですから、やはり原因は「わたしたち」の外側にあるのです。
 罪と死の力、それは痛みや苦しみを伴う試練を通して、「わたしたち」に神はいないと思い込ませようとします。こんな試練があるならば、神などいないとわたしたちの心にささやくのです。しかし、それでも神様はいらっしゃります。神様は実在するのです。
 この実在する神は、「わたしたち」の人生に訪れる痛みや苦しみを見過ごしておられる方ではありません。むしろ、その試練を通して、そこにある痛みや苦しみの経験を無駄にせず、「わたしたち」を一歩前へと押し出してくれるのです。それは、罪と死の力が必死になって隠そうとして「わたしたち」の内側にある善を覆いを、神様が一枚一枚剥がしてくださる作業です。そのように、本来あるべきではない、あるべきではない試練がもたらされても、その試練さえを用いて「わたしたち」をより善いものにしてくださり、より善いものをもたらそうとしておられるのです。神様は災いをも良きものへとしてくださるお方です。ですから、「わたしたち」は試練がもたらす苦しみや痛みを通しても、成長し、前の向かって進んでいくことができるのです。
 そのことを、私の友人の岩本遠億牧師は「痛みは私たちを前進させる」という4分弱の短いメッセージで語っています。そのメッセージは下記のアドレスをクリックし、岩本牧師の「366日元気の出る聖書の言葉」というホームページに行き「痛みは私たちを前進させる」というタイトルをクリックすれば聴くことができます。
 
https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2cfd9v?fbclid=IwAR0VA86tt5bD2reQQK_5hW2efxjRJAQ1CY1GXU_zitFmne4PUT6X_NTHWOE

このアドレスにあるこのメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものです。そのアドレスを岩本牧師の御許可をいただいてリンクし転載しています