2023年12月7日木曜日

23年12月第一主日待降節第主日礼拝「神は決して諦めない」

 23年12月第一主日待降節第主日礼拝「神は決して諦めない」 

旧約書:マラキ書4章から5節
福音書:ルカによる福音書2章8節から20節
使徒書:へブル人への手紙13章1節から6節

 12月に入り、今年のクリスマスの時を持ち望むアドベントに入りました。そのアドベントの第一主日の礼拝の説教の中心となります箇所は、旧約聖書のマラキ書第四章、聖書協会共同訳ですと3章になります箇所です。そして、その中心となりますのは口語訳聖書では2節、聖書協会共同訳では20節になります

しかしわが名を恐れるあなたがたには、義の太陽がのぼり、その翼には、いやす力 を備えている。あなたがたは牛舎から出る子牛のように外に出て、とびはねる。

というお言葉です。その中でも着目すべき言葉は「義の太陽がのぼり」という言葉です。
 この言葉が記されているマラキ書というのは、一見してわかるように旧約聖書の最後の書です。そしてその旧約聖書最後の書であるマラキ書の最後の章が、口語訳聖書では4章、聖書協会共同訳聖書ですと3章なのです。
 もっとも、旧約聖書のもともとの原語であるヘブライ語で聖書では、順番が、わたしたちが手にしている旧約聖書とは違っていて、歴代誌が最後の書となっています。というのは、ユダヤ教では旧約聖書を律法、預言書、諸書という順番で区分するからです。

 ちなみに、余談になりますがユダヤ教では旧約聖書をタナハあるいはタナクと呼びます。それは、この律法(トーラー)、預言書(ネビーム)、諸書(ケスビーム)の頭文字をならべているからです。そのタナハにおいては、そしてマラキ書は預言書に属し、歴代誌は詩篇やダニエル書やネヘミヤ書などと一緒に諸書に属するのでマラキ書は諸書の前にある、歴代誌は諸書の最後の書として旧約聖書の最後に置かれているので。
 にもかかわらず、私たちキリスト教徒が手にしている聖書はマラキ書が最後になっている。それは、私たちキリスト教徒が手にしている聖書の順番が70人訳聖書という旧約聖書をギリシャ語に訳した聖書の順番に基づいているからです。
 70人訳聖書というのは紀元前3世紀にプトレマイオス朝エジプトの王プトレマイオス2世フィラデルフォスがパレスティナから72人のユダヤ人の長老を呼び寄せ72日間でヘブライ語をギリシャ語に訳させたという伝説を持つ聖書です。しかし、それはあくまでも伝説の話でして、実際には紀元前3世紀から1世紀にかけて編纂されていったものだと考えられています。
 その70人訳聖書の各書の順番は、タナハの順番と異なっているのは、イスラエルの民の過去の歴史として創世記からエステル書までがあり、イスラエルの民の現在の苦悩の姿をヨブ記から雅歌までに読み取り、イザヤ書からマラキ書までで、その苦悩の中に置かれているイスラエルの民に救いがもたらされるという未来の希望が語られているという構造で、それぞれの書物が配列されていると考えられます。

 つまり、イスラエルの民に対する神の壮大な救いの歴史が70人訳聖書には構想されている。そしてその最後の部分に、口語訳聖書ではマラキ書の4章、聖書協会共同訳では3章が置かれている。そのイスラエルの民の希望というのが

しかしわが名を恐れるあなたがたには、義の太陽がのぼり、その翼には、いやす力 を備えている。あなたがたは牛舎から出る子牛のように外に出て、とびはねる。

という事なのです。そして、この「義の太陽が昇る」という言葉が、クリスマスの原点にある。もう毎年のことになりますので、みなさん、またかと思われるかもしれませんが、イエス・キリスト様がお生まれになったのは、史実上は、いつであったかはわからない。ただ、12月ではことは確かです。12月に羊飼いが夜に羊の番をすることはないからです。
 それが12月25日に祝われるようになったのは、キリスト教が古代ローマ帝国に広まっていく中で、当時ローマ帝国で行われていた冬至の祭りの日に、教会がイエス・キリスト様の誕生を祝うようになったからです。その背景には、この当時の祭りは、陽がだんだんと短くなっていく中で、冬至を境にまた日が長くなっていくという自然現象から、そこに死と再生の物語を見て、不滅の太陽神ミトラの復活を祝祭りを祝うという事がありました。
 その当時の祭りの日に、キリスト者も真の義の太陽であるキリストの誕生を祝うようになったのです。それがクリスマスの由来であると言えます。つまり、この「義の太陽が昇る」という聖書の言葉によって旧約聖書と新約聖書が結び合わされるのです。

 イスラエルの民が待ち望んだ救い主の到来という希望の出来事が、「今日、ダビデの街にあなた方の救い主がお生まれになった、その方こそ主キリストです」というメッセージと共に契機に始まったのです。それは、イスラエルの民の希望でもあり、また私たちキリスト者の希望でもあります。

 先日、私の友人が、自分が語った説教を聴いてその内容について感想や批評をしてくれないかとご自分の説教の動画を送ってこられました。そこに流れている神学的な内容について意見を聴きたいという事でした。聴くと私などが批評するなんてことはとても恥ずかしく手出来ないと思えるような、とても良い説教でしたが、その友人が意見を聞きたいと言われた神学的なことがらというのは、神はイスラエルの民を今も見捨てておられないというものでした。
 その友人の牧師は、「神はイスラエルの民を見捨てておられない」ということを丁寧に聖書を解き明かしながら話し説明しているのですが、その説明が神学的にはどうかという意見を私の求めてこられたというのは、それなりに理由がありました。

 その理由とは、キリスト教界の中にある一つの神学的主張があるからです。それは、イエス・キリスト様の到来によって、旧約聖書の時代から新約聖書の時代に移り変わり、旧約聖書を担っていたユダヤ人は古い肉のイスラエルとして神から見捨てられ、イエス・キリストを様を信じる教会が新しい霊のイスラエルが神の救いを担う新しい時代になったのだという主張です。
 この主張は、教会が神の救いの歴史を担うものとなったという点においては間違っていません。しかし、神がユダヤ人たちを古き肉のイスラエルとして捨てられたのだという主張には問題があります。

 確かに、聖書には古いと新しいの二つの要素の対立があり、肉と霊の対立構造があります。しかしそれは、イスラエルとキリスト者という対立構造というよりもむしろ、私たちの内にある肉の性質つまり、欲望と霊の性質、すなわち神に向かったより善いものになろうとする思いとの対立構造として言われているものです。
 ですから、古いものをユダヤ人とし、新しいものをキリスト者あるいは教会とする者ではありません。むしろ、ユダヤ人とキリスト者は共に神の救いを担う者として、やがて完成する神の王国の完成という将来の希望を待ち望む者なのです。

 私の友人の説教は、そのことを実に丁寧な聖書の読みと論理構成で指し示しつつ、最後に、神に信頼することの大切さに聴いている人々を導く言葉で締めくくられていました。それの背後には、あのイエス・キリスト様を十字架につけたイスラエルの民ですら、決して見捨てないお方である。だからこそ、私たちもまた、神に信頼することができる。何があっても、神様は私たちを見捨てないのだ。という説教者の神への絶大な信頼がうかがえました。

 そうなのです、みなさん。神様は、私たちを決して見捨てることも見放すこともなさらないお方なのです。だからこそ、先ほどお読みしたヘブル人への手紙を書いた著者も、へブル書全体を通してイスラエルの民の歴史を語りつつ、その書の最後の章である13章5節で、旧約聖書のヨシュア記1章5節の言葉を引用し、「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言い、さらには詩篇118篇8節の言葉を引用しつつ「主はわたしの助け主である。わたしには恐れはない。人は、わたしに何ができようか」とまで言うことができるのです。

 ここには、決して見捨てない神に対する、絶対的な信頼があります。そしてその絶対的な信頼が、イエス・キリスト様というお方に集中していくのです。しかもそれを、旧約聖書のイスラエルの民の歴史を紐解きながら語るのです。しかし、そのユダヤ人の歴史というと、神から「決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言われているのも関わらず、繰り返し神から離れ偶像礼拝に走るという過ちを犯してきた歴史です。そして、何度も神の怒りを引き起こし、神からその誤りに対して厳しくただされるという事を繰り返しきた歴史なのです。にもかかわらす、何度失敗しても、神はヨシュアに約束したように、決してイスラエルの民を見捨てず、イスラエルの民と共におられたのです。だからこそ、怒り、彼らを正しい道に立ち帰らせるのです。だかこそ、「主はわたしの助け主である。わたしには恐れはない。人は、わたしに何ができようか」という事ができるのです。

 そのようなイスラエルの民の歴史を背負いながら、異邦人に支配される苦しに満ちたくらい闇夜の中で、マラキはやがて、「義の太陽が昇る」、「救い主が来られる」、希望の光が差し込むのだというのです。そして、その「義の太陽」、「救い主」が、「今日ダビデの街に救い主お生まれになった。」それがクリスマスの出来事です。そして、そのお生まれになった救い主こそが、イエス・キリスト様なのです。

 その救い主の誕生を、イスラエルの民、すなわちユダヤ人は決して認めてはいません。それは今日においても同じです。彼らは、イエス・キリスト様が救い主キリストであるとして受け入れてはいないのです。神が、ご自分の独り子を、私たちを愛するがゆえに、救い主キリストとするために人として生まれさせてくださったのにもかかわらず、それを認めず、事もあろうに十字架で死なせてしまった。なにに、そんなイスラエルの民を神は、今日でも神は決して見捨てず、また見捨てもいません。そしてやがて回復され、神の救いの中に入れてくださるのです。
 どこまで行っても、神は、神の約束に対して真実なお方なのです。決して私たちを諦めない深い愛がそこにあります。だからこそ、私たちは、神を信頼することができる。私たちがどんなものであろうと、神は神の約束に忠実であり、神の愛は決して変わらないのです。

そして、今日でも変わらず、私たちに「今日、ダビデの街にあなた方の救い主がお生まれになった、その方こそ主キリストです」というメッセージが語られている。その背後には、決して裏切らない神の真実な約束があり、決して変わらない神の愛があるのです。

その神の約束と愛が現れているクリスマスの出来事を祝うときを、この礼拝から一か月間のアドベントの間に喜びをもって待ち望むのです。この決して裏切らない神の真実な約束があり、決して変わらない神の愛を思いつつ、しばらく静まりの時を持ちましょう。

特別にされる喜び

 「『あなた』だけの特別ですよ」と言われて嫌な気がする人などいないのではないでしょうか。「『あなた』だけ特別」と言われると、なにか大切に扱われたような気がして、嬉しく思ってしまうものです。もちろん、私もその一人です。

 私の知人は兄弟が多くいるのですが、その知人が小さい時、その知人の親が、「あなただけの特別よ」といって、飴玉や小さなチョコレートをくれたそうですが、とてもうれしかったそうです。もっとも、後で分かったことですが、その親は他の兄弟にもおなじようにしていたそうです。でも、とても賢い親御さんだなと思います。そうやって、子どもたちひとり一人に、「わたしは『あなた』を大切にに思っているよ」という思いを伝えていたのだと思います。そしてそのように親から「大切にされている」という思いをもって育てられた人は、本当に幸せだと思います。
 聖書の中には、神様が「私はあなたの名を呼んだ」(旧約聖書イザヤ書43章1節)と言われている箇所があります。神様を信じる民は数多くいます。現在のクリスチャン人口は世界で24億人弱、日本でも100万人弱の人がキリスト教を信じています。このイザヤ書が書かれた時代でも、聖書の神を信じるユダヤの民は数百万人はいただろうと思います。そのような中で、名前を呼ばれるというのです。その特別感は、それはもう「半端ない」者だったろうと思います。
 しかし神様は、あの私の知人の賢い親のように「わたしたち」のひとり一人に「わたしは『あなた』の名前を呼んだよ」といって、本当に名前を呼んでくださるのです。そうやって神様は、「わたしは『あなた』を大切に思っているよ、大事にしているよ」という神様の思いを私たちに伝えてくださろうとしているのです。私自身も「ああ、神様が私の名を呼んで語りかけてくださったな」と思う経験が何度かありました。もちろん、私の心がそう感じたということなのですが、でも私は、本当に私の名を呼んでくださったのだと、そう思ったのです。
 神様は、「わたしたち」ひとり一人を大切に思っておられます。そして、「わたしたち」ひとり一人、そう「あなた」が、神と人に喜ばれる人になって欲しいと願っておられるのです。それは、神様が「わたしたち」ひとり一人を、そして「あなた」を、「あなた」の名前を呼ぶほどに大切に思っておられるように、「あなた」も「あなた」の周りにいる誰か一人でもいい、その一人を大切にする優しい心を持って接するような「隣人を愛する」人になって欲しいと願っているのです。
 その神様の思いを、私の友人の岩本遠億牧師は「一人を大切にする」という3分ちょっとの短いメッセージの中で語っています。その岩本牧師のショートメッセージは、岩野と牧師の許可を得て掲載しています下記のアドレスをクリックして『366日元気の出る聖書の言葉』というホームページに行き同名のタイトルにある▶マークをクリックしてくだされば聴くことができます。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2ctmad?fbclid=IwAR1YNYsJIqtwR7HG4uXR9rM9B3_ytckpU4kQwJcP4ljyFRkefpTghz2ubD0

2023年12月5日火曜日

委ねるよろこび

病院のベッドに横たわり眠っていると、自分自身の力ではどうにもできないことを思い知ります。私のような昭和世代の人間で、部活動でスポーツをやって来た人間は、「病気などは気力で何とでもなるもんだ」などと言いがちですが、そんなことは大ウソで、病気になるとやはり自分以外の助けが必要になります。

 病気そのものへのケアは、医師や看護師の助けが必要ですし、心のケアはカウンセラーと言った人の助けが有益です。それ以外にも、どうしてこんな病気になったのだろうかとか、病気によって多くのことを失ってしまうかもしれもしれない喪失感への漠然とし不安を感じることに対するケアというものがあります。このような喪失感の最も大きなものが、自分の存在そのものが喪失してしまう喪失感、つまり死に対する不安です。
 このような喪失感を医学の世界ではスピリチャルペインと言います。スピリチャルペインとは霊的痛みとでも訳されるものです。霊的痛みというのですから、このスピリチャルペインの問題に関わるのは、多くの場合、宗教関係者であるケースが見られます。アメリカなどでは、すでに医師とカウンセラーとチャプレンと呼ばれる病院専属の牧師がチームになって治療に当たるシステムが広く行われているようです。
 喪失感というものは、失うということですから、自分が持っているもの、手に握りしめているものへの執着が引く起すものです。自分の手に握りしめておかなければならない執着は、それが自分の心のよりどころとなっているからです。だから、それを手放すことができない。けれども、それを一つ一つ手放して、人に頼る、誰かに頼るということを「わたしたち」は学んでいく必要があるのではないでしょうか。「わたしたち」は生まれてきて、色々なことを学び、身に着け、できるようになっていくその一つ一つの過程で喜びを感じてきました。周りも、一つ一つできるようになっていく「わたしたち」の姿を喜び、またほめてくれて来たのです。
 しかし、私たちはそうやって成長してきたのですが、しかし、どうじに、人に頼り、自分を誰かに委ねるということの大切さと、ゆだねることの喜びを忘れてしまって言っていたのです。自分自身で頑張って何とか手に入れることができる喜びも大切ですが、頑張ってもどうにもならなないことを、自分自身の手から手放して人に委ねることによって得られる安堵感や喜びも大切なのです。
 病気になって、自分の健康を医師や看護師の方に委ねる、「気力では何とかなる」の気力の部分を観セラーの方に委ね、自分の存在の意義と意味、つまり命の問題までも、牧師を通して神様に委ねる中で、私たちは手放すことの大切さと喜びを知っていくのです。
 しかし、牧師を含め宗教関係者の中で、祈りで病気を治すということを強く言われる方々がおられます。そういった方の中には、医師にかかることよりも「祈れば癒される」的なことが言われる方があることを知っています。私自身、祈りを通して病気が治られたという事例を見ていますし、そのようなことがあることも知っていますので「病の癒しのために祈ります」ですから、「病の癒しのための祈り」を否定はしませんが、医師の治療を否定し、「祈れば必ず治る」というような指導をするような方々は、正直あまりおすすめできません。それは、自分自身の存在をも委ねる喜ぶを阻害し、むしろ執着を助長するからです。
 この委ねることの大切さを、私の友人の岩本遠億牧師が「全てに勝る喜び」という三分ちょっとの短いメッセージの中で話しています。その岩本牧師のショートメッセージは、下記のアドレスをクリックして『366日元気の出る聖書の言葉』というページに行き、そこで▶マークをクリックしてくだされば聴くことができます。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2cqbnb?fbclid=IwAR2gR2DmpAvkNcQS7r4E2IMu5mK7ZqHHe3pk6f5kfT3LoQ5zWXWs6RYfbr0

2023年12月2日土曜日

牧師だって病気になるんだ

 一昨日、全身を締め付けるような痛みが襲ってきて、体がガタガタと震え出しました。今週末から大切な仕事が立て続けにあるので、しまったと思い、すぐに別途に横たわりました。一応、コロナの抗体検査をしましたら陰性だったの、そちらの方は意図安心。でも、今もまだ38度5分をほどあります。それでも一昨日よりずいぶんとましになりました。そんなわけで、昨日はブログの更新ができずにもうしわけありませんでした。

 とても大事な時期に神様、「いったい神様どうしてですか」と思わず口をついてでそうですが、でも、わたしは「だからこそ神様じゃ公平なお方なのだ」「愛なる神様なのだ」と思うのです。「牧師だから風邪をひかないように守ってあげよう、でも他の人間はクリスチャンじゃないから守ってあげない」というのであれば、何と冷たい、不公平な神様なのでしょう。
 私が体調を崩したのは、色々と無理を重ねてきた結果で、その原因はわたしにあります。なのに「神様どうしてですか」などと言われても、神様もお困りになられるだろうと思います。このように、「わたしたち」は自分に原因があるのに、「神様どうしてですか」と神様に責任転嫁をすることがしばしばあります。それは、「わたしたち」が、自分たちの都合のいいように神様を利用しようとしているからです。そんな風に神様を都合よく利用しようとして、その思う道理に行かなかったから、「神様なんかいない」「神様なんか信じても意味がない」と言われてしまっては、神様も立つ瀬がなく困ってしまうでしょう。
 私が具合が悪くなると、妻がとても優しくしてくれます。いえ、普段も優しいのですが、いつもの優って優しくしてくれるのです。妻が易しくしてくれても病気が良くなるわけではありません。でも優しくしてくれることで、よりうれしくなるのです。それと同じように、病気の中で、「わたしたち」は、「わたしたち」と共にいてくださる神様の愛を感じ取ることができます。それは、たとえ「わたしたち」がどんなmのであろうと、公平に、変わらず「わたしたち」に愛を注いでくださる神の愛なのです。
 その神の愛について、私の友人の岩本遠億牧師が「私たちの天の父」という2分ちょっとの短いメッセージで「みなさん」に伝えています。そのメッセージは下記のアドレスをクリックして岩本牧師の「366日元気の出る聖書の言葉」というページに行き「私たちの天の父」問うタイトルにある▶マークをクリックしてくだされば聴くことができます。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2cm3d8?fbclid=IwAR1jgOMigfutvDpdrTfDl-DOS-pA8cRQa-qB4SOY3CIegbpwhxkm9-vOxLA

2023年11月30日木曜日

霊の耳で神の声を聞く

 神様は霊です。ですから神様を見ることも神様の声を「わたしたち」の耳で音声として聞くこともできません。どんなに一生懸命祈っても、「わたしたち」は、音声として神の答えを聴きことができないのです。

 しかし、だからと言って神様は「わたしたち」の祈りを聞いておられないわけではありません。また「わたしたち」が置かれている状況を知らないわけでもないのです。神様は、「わたしたち」の状況をちゃんと知っておられ、「わたしたち」の祈りをちゃんと聞いておられるです。そして、その祈りの答えを私たちに伝えようとしておられます。ただ、神様は霊ですので、神様がお答えくださるその答えも霊も耳をもって聞き、霊の目をもって見なければわからないのです。霊のみ見をもって聞くとか、霊の目をもって見ると言われても、なんだかよくわからない言われるかもしれませんが、要は、「わたしたち」の心で感じ取るということなのです。
 神様は「わたしたち」の心に働きかけます。そしてその働きかけを、「わたしたち」は心で聴くのです。もちろん、その用に心で感じる、心で聴くということは、極めて主観的な事柄です。でもそれでいいのです。神様は「あなた」という個人に語りかけているからです。「あなた」というひとりの人が神様のまえで、正しく、より善いものとして、神様と人とに喜ばれるものとなるように神様は「あなた」の心に語りかけるからです。
 もし仮に、神様が「あなた」に語りかけてくださったと感じたことがあっても、それによって「あなた」が神と人に喜ばれない者になってしまうならば、その時はいったん立ち止まって、本当に神様は「わたし」に語りかけてくださったのだろうか、「わたし」の心に浮かんできたことは、神様と人とに喜ばれることなのだろうかをしっかり考えてみる必要があります。神様は、「わたしたち」の心に内側に神の像(かたち)を刻み込んでくださっています。この神の像(かたち)は、しばしば「わたしたち」の良心の中に現れ出ます。そして、その良心が「わたしたち」の心に浮かんできた思いが、神様の語りかけのか、「わたしたち」の願望が言葉となって浮かび上がってきたものかを判別してくれるのです。
 神様は。「わたしたち」の祈りを聴き、決してそれを無視しません。そして必ず、私たちの霊の耳に、霊の目に、その答えを表してくださっています。だから、「わたしたち」は、「わたしたち」の霊の耳、霊の目を研ぎ澄まして、心でそれを感じ取ることが大切なのです。
 そのことを、私の友人の岩本遠億牧師が下記のアドレスをクリックすると出てくる「366日元気の出る聖書の言葉」というページの「神は聞いておられた」という3分ちょっとの短いメッセージで語っています。このメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものですが、岩本牧師の御許可をいただいて転載したものです

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2cj9b2?fbclid=IwAR1QnMChT-2ghQs2cCOPPwW3kh0Uoh1wSAvnEXp1R7bx-o9wRzEFYt_-_z0

2023年11月29日水曜日

絶望だとおもったのに・・・

 キリスト教というと十字架を思い出す方も多いのではないかと思います。それほど十字架はキリスト教を象徴するものです。実際、多くの教会がこの十字架を掲げます。

では、なぜキリスト教は十字架をその象徴として掲げるのでしょうか。十字架は、イエス・キリスト様がローマ帝国によって反逆罪に問われ、貼り付けになって死なれて場所です。聖書によれば、イエス・キリスト様は十字架に架けられてしまうような過激な行動をとったわけではなく、当時のユダヤ人の中にあったパリサイ派と呼ばれるグループや祭司階級の人々を厳しく批判したために恨みを買い、それでローマ帝国に訴えられて十字架に架けられて死んだと伝えられています。
 その十字架に磔られたイエス・キリスト様が十字架の上で語った言葉があります。十字架の七言と呼ばれるもので、七つほどあるのですが、その中の一つに「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」というものがあります。
 イエス・キリスト様の時代、地中海世界はローマ帝国が支配していました。そのような中でユダヤ人たちは、ある程度の自治は認められていましたが、基本的にはローマ帝国に支配されていました。そのようなな中で、イエス・キリスト様は神の王国が到来するというメッセージ(これを教会では福音と言います)を人々に伝え歩いたのです。そのメッセージは、ユダヤの人々に希望を与えました。それは、ローマ帝国に支配されていた彼らにとっては解放のメッセージだったからです。当時のユダヤ人たちの希望は、ローマ帝国の支配から脱却し、自分たち自身の王国が建てられ、自分たちの土地を自分たちで自由に使え、神が与えた律法を何の制約もなく行えるというものでした。ですから、当時のユダヤ人たちに神の王国が建てられたというメッセージは、彼らが期待する神の王国の到来と勘型としてもおかしくはありません。
 しかし、実際にはイエス・キリスト様が伝えたその解放のメッセージは、当時のユダヤ人の期待し希望する解放とは少し異なっていました。というのも、イエス・キリスト様が伝えた神の王国の到来は、ローマ帝国を意識したものではなく(それもしやにははいってきたかもれませんが)、もっと大きなこの世界を覆っている罪と死の支配からの解放であり、神の恵みと愛とが支配する世界の到来を告げ知らせるものだったからです。それは、支配者と被支配者といった構造をもつこの世界の在り方そのものをひっくり返すような神の王国の到来を告げしらせるものだったのです。
 だからこそイエス・キリスト様は、当時のユダヤ人たちの宗教的支配者階級のパリサイ派や祭司階級を厳しくし、同時に彼らから憎まれ、十字架に磔られて死ぬ羽目になってしまうという悲劇的な結末となってしまった。
 十字架に磔られて死を迎えるということは、本当に苦しいことであり絶望的な事だろうと思います。イエス・キリスト様にしてみれば、それこそ神に見捨てられたような思いがしたのかもしれません。だから「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」とイエス・キリスト様は叫ばれた。それは絶望の中にある人の叫びです。そのような言葉をイエス・キリスト様は十字架の上で口に出して言われたのです。
しかし、そのイエス・キリスト様の十字架の七言の最後の言葉は「すべて完了した(こと終われり)」というものです。どういうことでしょうか。「自分の人生が終わった、自分の夢もこと尽きた」ということでしょうか。そうではないのです。
 それは、むしろ、罪と死による支配は終わり、神に見捨てられたと思うような絶望はもう終わっのだという希望の宣言なのです。イエス・キリスト様は神の御子です。その神の御子が人となってこの世界にお生まれになった。そして、人ととしてこの世界で生きられたのです。それは、「わたしたち」人間がこの世界で味わう苦しみや苦悩、そして悲しみを共に生きるためです。そして十字架の上で死なれたのは、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばずにはいられないような絶望を経験するためだったのです。そしてそれらを経験したなかで、そのような苦しみと悲しみ、そして絶望は終わったのだ。ここから神の恵みと愛が支配する神の王国が世界の隅々まで広がっていくのだと言われたのです。それが「すべて完了した(こと終われり)という言葉なのです。
 この神の恵みと愛が支配する世界は、いまだ世界の隅々まで広がってはいません。しかし、キリスト教会の中に確かに始まっています。それはまず神を信じ、イエス・キリスト様を心の中に迎え入れた人の心と霊の中に広がっています。どんなに絶望的で「「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と思われる状況の中にあっても、神様は決して私たちを見捨てておられないのだという希望を与えているのです。
 このイエス・キリスト様の「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」という言葉は、実は旧約聖書の詩篇というところにある言葉です。その言葉をイエス・キリスト様はお語りになったのです。そしてその詩篇の言葉を口にしたイエス・キリスト様の言葉が希望に繋がるということを、私の友人の岩本遠億牧師が「十字架の上の賛美と希望」という4分弱の短いメッセージを通して語っています。その岩本牧師のメッセージが出ているホームページのアドレスを岩本牧師の許可を得て下記に掲載しています。そのアドレスをクリックし「366日元気の出る聖書の言葉」というページに行き「十字架の上の賛美と希望」というタイトルにある▶マークをクリックしてください。そうすれば岩本牧師のショートメッセージを聴くことができます。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2chkdl?fbclid=IwAR3W_f2B_100D_iaKQRRa64yJ9xeRjSfXYmTpQ_oW-c3-EewvKa9NNjgNYA&%24web_only=true&_branch_match_id=943951679210878550&utm_source=web&utm_campaign=web-share&utm_medium=sharing&_branch_referrer=H4sIAAAAAAAAAwXB0QqCMBQA0C%2BaMw3FIELJBxMGrkB9GtvacmruksPp33fO4BysF4xXsM7ogy9ysD%2FklQg4QDCbZcIKQxp1e5FuSSluWsjZvK%2BVz2ncMh0V7BSGd2Z43VDKk%2FPxyHZFx6fu%2Bu8LGmZbJGNUKr%2FVPCNk%2FJA%2B%2FwND0uUDdQAAAA%3D%3D

2023年11月28日火曜日

外側の罪がもたらす試練の苦しみ

 「わたしたち」の人生には痛みや苦しみが訪れる時があります。それらの痛みや苦しみが決して神から来るものではないと確信しています。それは「わたしたち」の外側からくるものであり、「わたしたち」の外側にある罪がもたらすものです。

 「わたしたち」は、「わたしたち」が痛みや苦しみを伴う試練に会うとき、自分の内側に何か問題があったのではないか、自分が悪かったのではないかと自分を責めることがあります。しかし、自分を責める必要はありません。それはわたしたちの外側にあるのです。むしろ「わたしたち」人間の内側は善に満ちています。しかし、この世界を支配している罪と死の力が、ときに「わたしたち」内側にある善を覆い隠し、互いに傷つけあい、苦しめるような辛い出来事をおこすのです。それは、「この世」という世界が、神の存在を覆い隠し、あたかも神様などいないと「わたしたち」に「教え込む」ためです。ですから、やはり原因は「わたしたち」の外側にあるのです。
 罪と死の力、それは痛みや苦しみを伴う試練を通して、「わたしたち」に神はいないと思い込ませようとします。こんな試練があるならば、神などいないとわたしたちの心にささやくのです。しかし、それでも神様はいらっしゃります。神様は実在するのです。
 この実在する神は、「わたしたち」の人生に訪れる痛みや苦しみを見過ごしておられる方ではありません。むしろ、その試練を通して、そこにある痛みや苦しみの経験を無駄にせず、「わたしたち」を一歩前へと押し出してくれるのです。それは、罪と死の力が必死になって隠そうとして「わたしたち」の内側にある善を覆いを、神様が一枚一枚剥がしてくださる作業です。そのように、本来あるべきではない、あるべきではない試練がもたらされても、その試練さえを用いて「わたしたち」をより善いものにしてくださり、より善いものをもたらそうとしておられるのです。神様は災いをも良きものへとしてくださるお方です。ですから、「わたしたち」は試練がもたらす苦しみや痛みを通しても、成長し、前の向かって進んでいくことができるのです。
 そのことを、私の友人の岩本遠億牧師は「痛みは私たちを前進させる」という4分弱の短いメッセージで語っています。そのメッセージは下記のアドレスをクリックし、岩本牧師の「366日元気の出る聖書の言葉」というホームページに行き「痛みは私たちを前進させる」というタイトルをクリックすれば聴くことができます。
 
https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2cfd9v?fbclid=IwAR0VA86tt5bD2reQQK_5hW2efxjRJAQ1CY1GXU_zitFmne4PUT6X_NTHWOE

このアドレスにあるこのメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものです。そのアドレスを岩本牧師の御許可をいただいてリンクし転載しています

2023年11月27日月曜日

完全な神の像(かたち)

 ここ1,2年の間に何人かの学恩ある方や牧師としての私を支え導きを与えてくださった先輩牧師の方が帰天なさいました。「ああ、もう言葉をかけていただくことができないのだな。もう教えを請うことはできないのだな」と思うと寂しく思います。
 これらの方々に学恩を感じたり、先輩牧師として尊敬の念を感じるのは、これらの方々が、私の目指すべき方向を指さす指となってくださったからです。そのおひとりお一人は立派な方で、それこそその方自身が、私が目標としてもおかしくないような方々で実績も残している。けれども、そのお一人お一人が、その指さす指は決して自分自身に向いてはいませんでした。自分を指さし、私があなたの目指すべき目標ではない、あなたがい目指すべきところはあそこだと言って指さされる。
 確かに、「わたしたち」には目指すべき目標となるような人物がいます。あの人のようになりたいと思いあこがれる人物がいる。当然、そのような人は、何か優れたものや人格をもっている。だから目標にもなりますし、学ぶことも多くある。けれども、私が学恩を感じ、尊敬の念を抱く先輩牧師は、私に、ご自分を指さすのではなく、ご自分が見ておられた先を指さされるのです。そして、そこにはイエス・キリスト様が立っておられる。
 聖書は、聖書の冒頭にある創世記の1章で「わたしたち」人間は神のよって、神に似る者となるために創られたと言います。それは何も始めから神に似せて作られているというのではありません。私たち人間の心の中に、神の像(かたち)を刻み込み、その神の像に沿いながら神の似姿になっていくようにと神は「わたしたち」人間をお創りになったのです。つまり、初めから完全な人間としてそこにあるのではなく、だんだんと成長しながら神に似たものへとなっていくのです。
 けれども神の像(かたち)と言われても、それが何なのか今一つ「わたしたち」にはわかりにくいものです。だから、具体的に神様は神の御子が人となり、この世界に生まれくださり、神の像とはこのようなものであるとお示しになったのです。つまり、イエス・キリスト様は完全な神の像(かたち)であり、このお方こそが私たちの目指すべき完全な目標なのです。
 イエス・キリスト様は、十字架にかかり、死んで三日目によみがえり、天に昇られたと聖書には書き記されています。天とは神がおられる場を指す聖書の表現です。その天にイエス・キリスト様が昇られたというのは、神の御子であられた方が、神の御子として本来あられたところに戻られたということです。
 聖書には、福音書と呼ばれるイエス・キリスト様のご生涯について書かれた書物があります。またイエス・キリスト様の弟子たちの書き記した書簡も聖書の中には含まれています。神様は、それらを通してイエス・キリスト様がどのようなお方であるかを私たちに教えてくださっています。何よりも、天に昇られたイエス・キリスト様ご自身が、神様を信じ、イエス・キリスト様を神の御子であると信じる者の心に、聖書を通して私たちを教え、諭し導いてくださっているのです。
 イエス・キリスト様は「わたしたち」が神を信じる者の心とその信仰を導く信仰の導き手です。その信仰の導き手であるイエス・キリスト様について私友人の岩本遠億牧師は「指導者がいなくなる時」という3分程度の短いメッセージで語っています。そのメッセージは下記のアドレスをクリックし、岩本牧師の「366日元気の出る聖書の言葉」というホームページに行き、▶マークをクリックすれば聴くことができます。


https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2ceg9u?fbclid=IwAR2f-a7KFQM_eMsxI25gGkc-3Rl9-l_BmYuQk8MF3MRvBlDeVW0GBKWICkM

このアドレスは岩本牧師の御許可をいただいてここに掲載しています。

このアドレスは岩本牧師の御許可をいただいてここに掲載しています。

2023年11月26日日曜日

23年11月26日第4主日礼拝「行いの中に立ち現れる神」

 23年11月26日第4主日礼拝「行いの中に立ち現れる神」

旧約書:列王記下1章1節から10節
福音書:ヨハネによる福音書10章31節から42節
使徒書:コリント人への第二の手紙2章13節から3章3節

 今日の礼拝背今日の中心となる聖書箇所は、ヨハネによる福音書10章31節から42節までです。その最初の31節は「そこでユダヤ人たちは、イエスを打ち殺そうとして、また石を取りあげた」となっています。いきなり「打ち殺そうとして」というのは、極めて物騒なはなしです。ですので「そこで」という接続詞が大切になります。この「そこで」というのは、前の文脈を受けてという事ですが、前の文脈で何があったかと言うと、イエス・キリスト様が

わたしは、彼らに永遠の命を与える。だから、彼らはいつまでも滅びることがなく、また、彼らをわたしの手から奪い去る者はない。わたしの父がわたしに下さったものは、すべてにまさるものである。そしてだれも父のみ手から、それを奪い取ることはできない。わたしと父とは一つである。

と言われたという事がある。特に、「わたしと父とは一つである」という言葉が、ユダヤ人このユダヤ人というのは、自らをユダヤ人の中のユダヤ人であると自負するパリサイ派の人たちであろうと思われますが、そのユダヤ人の心の琴線にふれた。「そこで」彼らは、イエス・キリスト様を打ち殺そうとして、また石を取り上げた」と言うのです。

 「私と父とは一つである」というのは、自分と神様は同等であるという事であり、いうならば「自分は神と一つに結ばれている神の子だ」と宣言しているようなものだからです。だからユダヤ人たちは「『自分は神と等しいものである』と言って神を冒涜した」と言って「石で打ち殺す」という宗教的制裁をくわえようとしたのです。それは、旧約聖書のレビ記24章16節に

主の名をそしる者は必ず死ななければならない。会衆全体が必ずその者を石で打ち殺さなければならない。イスラエル人であれ、寄留者であれ、御名をそしる者は死ななければならない。

とあるからです。そのレビ記の言葉をもとに、イエス・キリスト様を石打ちの刑にして殺そうとするユダヤ人たちに、イエス・キリスト様は、

「あなたがたの律法に、『わたしは言う、あなたがたは神々である』と書いてあるではないか。神の言を託された人々が、神々といわれておるとすれば、(そして聖書の言は、すたることがあり得ない)父が聖別して、世につかわされた者が、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『あなたは神を汚す者だ』と言うのか。

と言って切り返すのです。

 この「私は言う、あなた方は神々である」という言葉は、もともとは詩篇82篇6節にある言葉ですが、実は、この詩篇82篇は、神が天使を集めて天上で会議が行われている様を謳ったものだと言われています。そしてそこでは「神々」と呼ばれているのは神の言葉である律法を託され、人々を裁く裁き司、すなわち裁判官のような働きをしている人たちです。神様は、その裁き司(裁判官)たちに対して、「わたしは言う、あなたがたは神だ、あなたがたは皆いと高き者の子だ。しかし、あなたがたは人のように死に、もろもろの君のひとりのように倒れるであろう」と言って断罪なさっている。それは、この裁き司(裁判官たち)は、神の言葉を託され、その神の言葉によって正しく裁きを行わなければならないのに、逆に不正を行い、社会的な弱い立場に置かれている人々や貧しい人たちを虐げている悪に対して正しい裁きをしていないこと厳しく非難する言葉なのです。

 神様は、神の言葉を託されている人々を「あなた方は神だ」と言われる。あるいは、いと高き者の子」、すなわち「神の子だ」と言われるのです。神の言葉が託されている者を、「あなた方は、神であり神の子なのだ」と言われる。それは、神の言葉を託されたものが、その託された言葉に従って生きる時に、そこの神のお姿が立ち現れてくるからです。裁き司(裁判官)が神の言葉に従って、公正に、そして公平に正義に基づいて正しく裁判を行うならば、そこに神の公正さや公正さ、つまり神の真実や、神の義が現れ出てくるのです。

 神の言葉を託された者は、その神の言葉をもって神を表すのです。だから彼らは「神」と呼ばれ「神の子」と呼ばれる。神が正しいお方であり、公正なお方であるならば、その神の言葉を託されたものは、正しく人を裁き、公正に人を裁くという神の業を表していくのです。まさに善き業を行う者となって神というお方を指し示していく。それが「神の子」とれた者の生き方なのです。

 その詩篇82篇の言葉を、イエス・キリスト様は、「私と父とは一つである」と言われた言葉に怒り、イエス・キリスト様を「神を冒涜するものだ」と言って裁き、石を投げつけて打ち殺す石打ちの刑に処そうとしているユダヤ人たちに投げかけるのです。そのユダヤ人たちは、おそらくパリサイ派と呼ばれる人たちでしょう。まさに、「自分たち事が神の言葉を知り、神の言葉を実際に生きている」と自負している人達です。自分達こそが神の言葉を担っていると思っている人達なのです。その人たちが、今、まさに裁き司(裁判官)になって、神が与え託した律法をもって、イエス・キリスト様を裁き殺そうとしている。その行いは、まさに「私は神だ。至高のお方の子だ」という振る舞いなのです。

 みなさん、イエス・キリスト様は、この言葉を投げかける前に、イエス・キリスト様に石を投げつけようとするユダヤ人たちに対して「わたしは、父による多くのよいわざを、あなたがたに示した。その中のどのわざのために、わたしを石で打ち殺そうとするのか」と問いかけています。

 それこそ、イエス・キリスト様は、「私は善い行いすることで、ご自分が「神の子」であることを表しているのになぜ私を裁くのか、あなた方の裁きは不正な裁きなのではないか」と問いかけるのです。ところが、彼らはイエス・キリスト様のなされた善き業は問題ではない。問題はあなたが「自分が神の子だ」と主張していることなのだというのです。

 そのような人々に、イエス・キリスト様は、先ほどの詩篇82篇の言葉を投げかける。神様は、神の言葉を託し律法を託した人々を「神々」と呼び、善き業を通して、自分たちが「いと高き者」の子であることを表せと言っているではないか。そして、私は実際にその良き神の業を行ってきた。まさに神の遣わされた者として神の善き業を行い、神を表してきたその私が、「神の子だ」といったとしても、いったいそれが「神を冒涜することになるのかと詰め寄るのです。
 さらには、「私の行っていることが善き業でなければ私を信じなくてもよい」とまで言われる。つまり、イエス・キリスト様が神の子であるかどうかは、その業で分かるのだというのです。

 実際、このヨハネによる福音書10章41節でヨルダン川の向こう岸にいたイエス・キリスト様のところに来た多くの人が「ヨハネはなんのしるしも行わなかったが、ヨハネがこのかたについて言ったことは、皆ほんとうであった」いって、イエス・キリスト様を信じたという記事を載せています。ここで言われているヨハネは、バプテスマのヨハネです。バプテスマのヨハネは、様々な所で、イエス・キリスト様というお方は、私よりも偉大な方であると言い広めていました。その言葉を受けて、確かにイエス・キリスト様はヨハネより優れた方であるというのです。なぜならば、場応テスマのヨハネは「なんのしるし」も行わなかったからです。

しかし、イエス・キリスト様は徴となるような業を行ってきたのです。その業は、まさに神の業だと思われる者だったのです。そこでみなさん、思い出してほしいのです。バプテスマのヨハネが、弟子たちを遣わして、イエス・キリスト様が本当にキリストなのかを確かめるために、「あなたは来るべきメシアなのですか」と尋ねさせた。その時に、イエス・キリスト様が何と答えたか。イエス・キリスト様は、

行って、あなたがたが見聞きしたことを、ヨハネに報告しなさい。盲人は見え、足な えは歩き、重い皮膚病にかかった人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。

と答えるのです。そして人々とは、そのイエス・キリスト様の行いはちゃんと見ていたのです。そして、イエス・キリスト様こそが、神から遣わされたお方であると受けとめた。それは、イエス・キリスト様のなされた行いに、神様のお姿が立ち現れていたからです。行いの中に神様のお姿を見たのです。

 行いの中に神がたちあらわれる。行いを通して神の姿を見ることができる。それは、旧約聖書のエリヤの行った業の中にもその一端を見ることができます。それが先ほどお読みした列王記下の1章1節から10節の出来事です。この箇所は、北イスラエル王国のアハズヤ王が屋根の欄干から落ちて怪我をした際の物語です。このときアハズヤ王は、こともあろうか、バアル・ゼブブというエクロンの神に、けがが治るのかどうかの御神託を求めて使者をつかわすのです。
 それで、神はエリヤが、その使者たちがバアル・ゼブブに行くことを阻止するのです。そのことに怒ったアハズヤは、エリヤを捕らえて連れてこさせようとしたときに、エリヤが言ったのが「わたしがもし神の人であるならば、火が天から下って、あなたと部下の五十人とを焼き尽すでしょう」という言葉です。そして、実際にそのようになったのです。
 つまり、天から火が降ってくると言う業が、エリヤが神の人であることを証しているのです。もっとも、エリヤの業は、人を滅ぼす業でしたが、イエス・キリスト様のなされた業は人を生かす業です。そういった意味では、イエス・キリスト様の業はエリヤの業に優る業であり、それを完成するものであったという事ができるかもしれません。

 しかし、いずれにしても、神の人の業は、その業を通して神が立ち現れてくるのです。だからこそ、イエス・キリスト様は

 もしわたしが父のわざを行わないとすれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、もし行っているなら、たといわたしを信じなくても、わたしのわざを信じるがよい。そうすれば、父がわたしにおり、また、わたしが父におることを知って悟るであろう

というのです。みなさん、イエス・キリスト様の行う業には、父なる神が現れ出ているのです。そして、そこに現れる神の姿は、病の中にある者を顧み、貧しいものに心を配る愛の神であり、恵みの神であり、慈しみの神です。
 けれどもみなさん、行いの中に神の御姿が現れるのは、神を信じる預言者エリヤや神の御子イエス・キリスト様だけではないのです。その神の御子を信じ弟子となった私たちの業も、神を現し、神の御子を現すのです。
 だからこそ、使徒パウロは、コリント人への第二の手紙2章12節から3章3節まで、私たちは救われる者にとって滅びる者にとっても、神に対するキリストの香りであると言い、キリストの手紙であるとさえ言っている。それは、私たちの行いや語る言葉がイエス・キリスト様を証するのだ、私たちの言動の中にイエス・キリスト様が現れ出るのだというのです。
 そう、私たち神を信じ、キリストを信じる者はそのようなものとなっている。決して立派のものでもない。特別な存在でもない。普通に神を信じていきているだけなのですが、そのようなキリストの香り、キリストの手紙とされているのです。ただ、私たちが真摯に神を信じ、キリストを信じ生きて行くならば、その生き方の中にキリストが現れ出てくるのだ。そのことを覚えながら、神の前に、キリストの香りとして、またキリストの手紙として日々キリストを見上げながら生きて行きたいと思います。静まりの時を持ちます。
 

神の家族の一人として

  わたしにとって苦手なことの一つに、初めての場所や知らない場所、知らない人間の集まるところに行かなければならないと言うことがあります。そこで聖書の話をするというようなことがあって呼ばれていくのでしたらいいのですが、そうでなければ知らない人の中でどうしたらよいかわからず、身の置き場がなく、なんとなく居心地が悪いのです。また、知らない場所での仕事が終わった後に、懇親会のようなものがあった時にも、周りの人のことはほとんど知らないと言う場合は、やはり身の置き場が見当たらないのです。そんな時、自分から積極的に話しかけて人間関係を作り上げていければいいのですが、どうやらその能力はわたしには欠けているようです。

 そんな時に、本当に家族というもののありがたさを思います。気を張ることもなく、何かつくろうこともせず、自分自身のありのままで自然に時を過ごすことができる。そこに身の置き場があり、話をしても話をしなくても何の気を遣うことのない関係。本当にありがたいと思います。家族と共にいるということ、それはわたしにとって自然な事なのです。
 気を遣うことのない人間関係、それは本当に親密な関係です。一緒にいることに何の目的も、理由もいらない。何をすることもなくただ一緒にいるだけで心が休まる。そんな親密な関係が、私たちの心を憩わせ、安心させ、そして心も体も和ませるのです。それは、自分自身がその関係の中で完全に受け入れられているからこそ生まれるものです。
 当然、そのような関係は、自分自身だけでなく、そこに集っているものすべてが感じるているものです。自分自身が完全に受け入れられているように、自分自身をそこにいる一人を受け入れていなければ、気の使うことのない人間関係は生まれてこないのです。
 神様と人間との関係もそのような関係です。神は何か目的をもって「わたしたち」に関わっておられるのではありません。ただ私たちと一緒にいるだけで嬉しいと感じて下っているからです。だからこそ「わたしたち」を完全に受け入れ、一緒にいようとしてくださるのです。もちろん、そのような神様と「わたしたち」の親しい家族のような関係は「わたしたち」が神様を受け入れると言うことも大切になります。しかし、ひとたび神様を受け入れ、神様の家族となるならば、神様と共にいる時間、神様と共にいる場所は、とても居心地の良い場所でありひとときとなるのです。
 教会は神の御子であるイエス・キリスト様を中心にして神の家族とされた者たちが集まる場所です。ですから本来、教会は居心地の良い場所なのです。もし仮に、教会が必ずしも居心地の良い場所でなくなってしまっていたとしたら、それは、神様と、また神の御子であるイエス・キリスト様と「わたしたち」の間にその関係を損ねる何かが入り込んでしまっているのかもしれません。場合によっては、神様、そして神の御子であるイエス・キリスト様が教会の中心からしるぞけさせられ、他のものが教会の中心になっているのかもしれません。
 しかし、神様と神の御子イエス・キリスト様が中心におられるという教会本来の在り方が、そこに集う一人一人が見失われていない限りり、教会は「わたしたち」にとって本当に居心地の良い場所です。そこには、神様と私たちの間にある親しい家族のような関係があるからです。
 その神様と「わたしたち」との親しい関係を、岩本遠億牧師が「手を繋いで歩く」という3分程度の短いメッセージの中で分かりやすく話しています。そのメッセージは下記のアドレスをクリックして開かれるページで「手を繋いで歩く」のタイトルにある▶マークをクリックしてくだされば聴くことができます(このアドレスは岩本牧師のご承認をいただいてここに掲載しています)。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2cd8he?fbclid=IwAR1pTtFwiw9eAIB7P7Lpeg6PX4wnEOzX4rGc0jr_pSV7rTyB9gNR1QfETFA

2023年11月25日土曜日

神と共に生きる人生

 わたしの好きな哲学者のひとりにマルティン・ブーバーという人がいます。

 このブーバーは神様のことを「共に道行く神」と言っています。ブーバーの言う「共に道行く神」というのは、神様が「わたしたち」の人生と共に歩んでくださると言うことを意味していると思われます。実に重みのある含蓄のある言葉です。というのも、このブーバーという哲学者はユダヤ人だからです。彼は、ホロコーストというヒットラーのナチスによるユダヤ人大虐殺の出来事を知っているのです。
 このホロコーストというユダヤ大虐殺を経験する中でも、神はユダヤ人と共におられ、殺されていくユダヤ人とと共に死の苦しみを苦しまれた岡田である。ブーバーが言う「共に道行く神」という言葉には、そのような響きがあると言えます。
 「わたしたち」に人生には山があり谷があります。谷の後にもう一度谷がきても打たしあがれないと思うときもあるでしょう。でもそんな時でも神様は「わたしたち」と共にいてくださり、「あなた」と共にいてださいます「あなた」と共に苦しみ、悲しみながら、共に生きてくださるお方なのです。それがどんなに苦しい道でも、険しい道でも、その大変な道を「あなた」と共に乗り越えようとして、「共に道行く神」それが聖書の神であり、イエス・キリスト様の父なる神なのです。
 同時に、この「共に道行く神」ということは、神様が、「わたしたち」を神の歴史を共に歩む同伴者として「わたしたち」をえらんでくださったということでもあります。神様はこの世界をお創りになりました。そしてこの神様が創造なさった世界は、創造の完成を目指して歴史を刻み始めました。その歴史を形成する働きを共にする者として神様は「わたしたち」を選んでくださったのです。当然、神様は神と共に歩む同伴者として、「あなた」を選び、「あなた」の名前を呼んでおられます。「あなた」は神に必要なものとされているのです。
「あなた」が神を信じ、その神のひとり子であるイエス・キリストを信じて生きる人生を歩むならば、「あなた」が、「あなた」と「共に道行く神」と共に生きる人生となるのです。
 この「共に道行く神」ということについて、私の友人の岩本遠億牧師が「旅の仲間」という3分半の短いメッセージを語っています。祖のメッセージは下記のアドレスをクリックして「366日元気の出る聖書の言葉」にある「旅の仲間」というタイトルにある▶マークをクリックしてくだされば聴くことができます。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2cbqpr?fbclid=IwAR00hnXDHb1EvKZz4ke_CIHHGmH076ywGxxxStMDzJxgHcLTWjToypTQen8

このアドレスは、岩本牧師のご承認をいただいてここに掲載しています。

2023年11月24日金曜日

『お祈り』って深いんだよ!

キリスト教の信仰は「お祈り」をすることを大切にします。
「お祈り」と言いますと、「わたしたち」は自分の願いを神様に祈り求めることだと思います。確かにそれも「お祈り」をするということの一つの局面です。しかし、それだけで「お祈り」ということをすべて言い表せているかというと必ずしもそうだとは言えません。
 マルティン・ルターという宗教改革者は、お祈りとは「願い(請願)、思い廻らし(黙想)、そして試みられること(試練)」と言いました。自分の願いを神様に祈り求めるということは、ルターの言葉を借りるならば請願にあたります。しかしお祈りは、それだけではないのです。お祈りには黙想という側面もある。黙想は、まさに思い廻らすことですが、自分と神様との関係を思い廻らすことです。神様は、このことについてどう思っていらっしゃるのか、神様は「わたし」に何を語りかけておられるのか、神様は「わたし」に何を求め、「わたし」は神様の前にどのようにすれば良いのか、そのことを静かに思い廻らすのです。しかしそれがなぜお祈りになるかというと、そのような自分と神様との関係を思い廻らすということは、神様と会話することになるからです。お祈りとは、まさに神様との会話なのです。
 自分が自分の願いを祈り求める。その祈り求める請願としての「お祈り」を祈りっぱなしにするのではなく、祈ったならば、その「お祈りに」神様はどのようにお答えになるかを思い廻らし神様との会話をしてていく。「お祈り」とはそのようなプロセスがたいせつなのです。そしてお祈りは試みられることです。先ほどのルターは、試練が私たちを祈りに導くのだと言います。確かに、困ったことや問題が起こるという試練が私たちを祈りの導きます。そういった意味で試練が私たちを祈りに導くということはあるでしょう。しかし、試練が私たちを祈りに導くというのは、単にそのような事ではなく、より深い祈りに導くということでもあります。
 「お祈り」において、「わたしたち」は神様に「わたしたち」の願いを請願し、祈り求めます。そしてその願いについて神様がどうお答えくださるかを思い廻らし(黙想)ていきます。そのような中で、「わたしたち」は、神さまが必ずし「わたしたち」の願いと全く逆のものであるということを知ることがありま。それはわたしたちにとって大きな試練です。願っていることとちがうことを神様は「わたしたち」に求めておられる。だとすれば神様を信じる意味や価値があるのか。そんな問題さえ「わたしたち」に突き付けてくるような信仰の試練が起こってくるのです。
 そのような信仰の試練は、「わたしたち」を更なる祈りの深みに導いていきます。先ほども申し上げましたように、「お祈り」は神様との会話です。その「お祈り」が私たちに信仰の試練を与える時、「わたしたち」は「神様なぜ?」「神様どうして?」という問いを神にぶつける祈りへと導くのです。それは、「わたしたち:の願い求める祈りから、神さまの願いと神様が何を思っていらっしゃるかを「わたしたち」に語って降ることを求める祈りへと深めていくのです。そして、「わたしたち」は神様の願いと神様の内を思っていらっしゃるかということを中心にした思い廻らしに入っていく祈りへと深められていくのです。
 神様は、「わたしたち」に善きものをもたらしてくださるお方です。神様は最善以外のことはなさいません。神様はわたしたちを最も善き者になるようにと願い、最も善き者になるように導かれます。その最も善き者になる歩みの中では、「神様を信じる意味や価値があるのか」そんな問題さえ「わたしたち」に突き付けてくるような信仰の試練も経験することもあるのです。しかし、そのような試練を経験しながらも、私たちは神「願い(請願)、思い廻らし(黙想)、そして試みられること(試練)」を通してなされる神様との会話を、決して諦めす続けていくならば、その祈りは、「わたしたち」の願い求める者を超えて、神様が与えようとしている最善へと「わたしたち」を導いてくださるのです。
 「わたしたち」が諦めない限り、「わたしたち」に最善を与えようとする神様の思いも決してあきらめません。いえ、「わたしたち」はあきらめることがあっても、神様は「わたしたち」を、そして「あなた」をあきらめないのです。それは、神様が深い愛をもって「あなた」を愛しておられるからです。
 祈りは、「あなた」を愛するがゆえに、決して「あなた」をあきらめない神様との出会いの場です。だからこそ「わたしたち」もまた、その「あなた」を愛する神様と出会うために祈ることを諦めてはだめなのです。そのことを、私の友人の岩本遠億牧師は「366日元気の出る聖書の言葉」というホームページにある「愛は諦めない」という3分程度の短いメッセージで語っています。岩本牧師の了解をいただいてそのアドレスを下に挙げておきます。それをクリックして「366日元気の出る聖書の言葉」のホームページに行き、「愛は諦めない」というタイトルのところにある▶マークをクリックしてください。その岩本牧師のショート・メッセージを聴くことができます。


https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2cb2mt?fbclid=IwAR0Rn4nsaoRjB1NhV82JWigDFppoMEmvo7jdyJ_yIsijDSPrPtowksT30oQ

2023年11月23日木曜日

神は願っておられる

  最近、テレビやインターネットを見ていると、各社社会の中で、食べるのに窮する過程があり子供たちがいる現状を知らされます。世界では7億3500万人の人が慢性的な栄養失調状態にある言われます。現在の世界の人口や約80億人ですから、世界の人口の約一割、11人に一人は食べるのに困っている状態です。
 このような状況は、世界の人口が増えて、食べ物の生産が追い付かないために起こっているのでしょうか。いいえ、どうやらそうではないようです。
 国連農業機構によれば、現在の穀物生産量は世界の人々が食べるのに十分な量の生産がなされているそうです。なのに、世界の一割近くの人が食べるのに困っているのです。それは、食べ物が一部の人たちに集中してしまっているからです。
 最近、フードロスといったことに関心が向けられています。多くの食べ物が、食べ残されたり売れなかったりして人の口に入ることなく捨てられてしまっている状況を指す言葉です。世界では毎年約13億トンの食べ物がまだ食べられる状態なのに捨てられていると言われます。これは世界の食料総生産量の1/3に当たるそうです。日本では、まだ食べられる食料は毎年522万トン(東京ドーム5個分/10kg入りの米5億7千2百万袋分)が廃棄されています。その半分が家庭から出ている者です。さらに食べ残しなどもいれると一年間に1624万トンものフードロスがあるそうです。
 世界の穀物生産量は十分に足りている。神様は、私たちに必要な量の食べ物は与えてくださっているのです。にもかかわらず、現実には食べるのに困る人がいる。それは「わたしたち」が贅沢をし、浪費をし、自分たちの欲望に突き動かされて生きている結果なのかもしれません。
 カトリック教会には七つの大罪という考え方があります。傲慢・強欲・嫉妬・憤怒・色欲・暴食・怠惰の七つです。これらを見ると、このすべてが現代社会に満ち溢れているように思います。その結果の一つとして、貧困という事態が起こっているのです。
 神様は、私たちに善いものを与えようとしてくださっています。食料だって穀物という自然を通して与えられるものは十分に必要な量は生産されているのです。にもかかわらず、人間の業欲と暴食にゆえに、他の人が食べられなくなるほどに、その食料を食いつぶし、無駄にしてしまっている。この先、どんなに神様が食べ物の生産量を増やしてくださったとしても、「わたしたち」人間の内に七つの大罪と呼ばれる欲望がある限り、貧困と飢えとは亡くならないと言えます。
 だとすれば、「わたしたち」人間が、まず自分自身の内にある「傲慢・強欲・嫉妬・憤怒・色欲・暴食・怠惰心」と言ったものに気づき、心を入れ替える必要があります。けれども、それは簡単な事ではありません。この「傲慢・強欲・嫉妬・憤怒・色欲・暴食・怠惰そ」といったものは、それは「わたしたち」の欲深さと呼べるものですが、その欲深さが、私たちの心の中に根深く巣くい、神さまが私たちの心に与えてくださっている慈しみや憐みの心、そして愛という熱情を食い尽くしているのです。
 その欲深さを取り除くためには、神さまの助けが必要です。「わたしたち」は、「わたしたち」の心に、神さまを信じ受け入れて、神の愛の心で満たしていただくことで、私たちの心を支配している欲深さから解放されていくのです。
 神様は、「わたしたち」に食べる物を与えてくだいます。すでに与えてくださっている。でも人間の欲望が、それを食い尽くし、他の人に行き届かせないようにしているのです。しかし、それでも神様は諦めずに「わたしたち」に必要なものを与えようとしてくださっているのです。だからこそ、私たちは、この神様を見上げ、今、私たちが食べるのに必要なものを得ているのであるならば、神に感謝しましょう。食べられていることは神様からの恵みであり祝福なのです。そして、すべての人が食べるのに困らないように祈りましょう。神様はすべての人に恵みを与えようと願っておられるからです。けれども、私たちの欲深さが、その神様の願いをじゃましています。だからこそ「わたしたち」は、「わたしたち」の心に巣くう欲深さが取り払らわれ、愛と憐みの心に満たされるように祈りましょう。
 神様はわたしたちに食べる物を与えようとしてくださっています。そのことを私の友人である岩本遠億牧師は、下記のアドレスをクリックしていただいて新しく開かれる「366日元気の出る聖書の言葉」というページにある「食べることは祝福〜収穫感謝によせて〜」という4分弱の短いメッセージを通して語っています。そのタイトル▶マークをクリックしていただければ、そのショートメッセージを聴くことができます。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2c9mei?fbclid=IwAR0bkBeOuf7wSA1cXqStEOVo1TVAd_tZAN4POxQF1Mpb9DY04rcOjtMdWMs

2023年11月22日水曜日

愛をはんぶんあげる

 先日、KANさんというシンガーソングライターの方が亡くなられました。この方の曲でもっとも有名な曲は「愛は勝つ」という曲で鼻から廊下と思います。「最後に愛は勝つ」というフレーズは、私たちの心に大きな励ましを与えるものでした。しかし、「最後に愛は勝つ」というのは、いったいどういうことなのでしょうか。そもそも愛とはいったい何なのでしょうか。

 現在の日本の状況では、この愛という言葉は、主に男女の間の色恋感情にあるある種の情念向けられているように思います。もちろん、それが間違っているというのではありません。そういった使い方もすることができるっでしょう。男女の色恋関係以外でも親子間の親密な感情に対しても仕えることばかもしれません。しかし、愛という言葉は、より広い、奥深さを持っています。少なくとも聖書が愛という言葉を語る時、その言葉は、私たちの思いをはるかに超えたものなのです。ですから聖書は、愛という言葉を様々な言葉をもって言い表します。ある時は、恋愛感情を表すと言われるエロースという言葉が用いられます。しかし、エロースは恋愛感情を表す言葉ではありますが、その本質は相手と結ばれることで自らを高みに引き上げる愛です。ですから恋愛感情でなくても、自分をより善い高みへ引き上げれくれると思うものに引き付けられる気持ちがあるとすればそれはエロースなのです。また、友情や友愛と言ったものを表すフィリア、そして、自分を相手に与えるところのアガペーなど、これらすべてを統合するものが聖書で言う愛なのです。ですから、エロースやフィリア、アガペーの間に何か優劣があるわけではないのです。違いがあるとするならば、どのような局面でその言葉が語られているかという点にあると言って良いでしょう。
 もし仮にこの様々な局面で現れですあいに優劣をつけるとするならば、どの愛という言葉がすぐれ、どの愛という言葉が劣っているかというようなものではなく、エロースであろうと、フィリアであろうとあがぺーであろうとどのように愛したかという愛し方によると言えるでしょう。そして、聖書は最も優れた愛し方というのを、「人がその友のために命を捨てる、これ良い大きな愛はない」と言っています。あるいは「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」ともいう。さらに、その「友」とじゃ「隣人」という存在には「あなた」の敵をも含んでいるのです。そういうと、「みなさん」は「いやーそんなことはできない。敵をも愛する愛なんて持ち合わせていない」と言われるかもしれません。しかし、そんなことはないのです。「みなさん」の心には、そして「わたしたち」の心には、そのような「敵をも愛する愛」の種がちゃんと植えられているのです。
 私の子供たちがまだ幼かったころ、読み聞かせていた本の中にきのしたあつこさん著の「はんぶんあげてね」という絵本がありました。この絵本の主人公はクマの子供です。そのクマの子がおばあちゃんからもらった大きなパンをお友達に分けてあげようとしてお友達の家に向かって歩いて行きます。その道の途中で出会った人に、そのクマの子はパンを半分分けてあげるのです。何人も何人も出会います。そのつどそのクマの子はパンを分けてあげる。当然、パンはだんだん小さくなっていく。損得勘定であ言えば、人にパンを分けてあげることに自分の取り分がへるので大損です。でも、それでもパンを分けてあげるクマの子の姿に心が温かくなる。そんな心が、「敵をも愛する愛」の種なのです。
 神様は、そのような愛の種を私たちが育てていくことができるようにと、まず、神の愛を私たちの心に注いでくださいます。この神の愛が注がれるづけていると、どんなに「はんぶんあげても」そのパンは尽きることありません。「はんぶんあげても」、あげたぶんだけ、家挙げた以上に神様は愛を注いでくださるからです。自分が損をすると思っても、それでもその人に愛を注ぐ、それ良い大きな愛はないと聖書は言うのです。そしてそのような愛に、私たちは到達することができるのです。神の愛が注がれているならば・・・・。
 そのような敵をも愛する愛について、私の友人の岩本遠億牧師は「共に弱くなるほどに愛する」という3分ちょっとの短いメッセージで語っています。岩本牧師のご了解を得て、そのショートメッセージが語られているアドレスを掲載しました。お聞きになりたい方はそのアドレスをクリックし、更に▶マークをクリックしてください。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2c82a4?fbclid=IwAR1tz-EBxY_1KkxTnfYLXLolblZ6fQT7QbF63gGXCAd744ew-R_bOCPFIKU

2023年11月21日火曜日

現代における神の語りかけ

 聖書には預言書と呼ばれる存在がいます。預言と言いますと将来に起こることを言い当てる人のように思います。しかし、預言というのは神様の言葉を人々に伝える役割と使命を負った人です。神様の言葉を人々に伝えると言っても、何か忘我状態になり、神ががかった状態で話すのではなく、しっかりとした意識と判断力を持ち、自分の目の前にある事態を判断しつつ、そこに語られる神の言葉を聞き取り語るのです。ですから、聴く人にとっては、決して抽象的な言葉ではなく、聴く人の心にしっかりと神のメッセージが受け止められるものです。

 聖書を見ると、いかにも抽象的な言葉が語られているように思えるものがあります。ダニエル書や黙示録などはその典型的なものです。しかし、それらの言葉は、その言葉を直接期言った第一義的な聴衆にはその意味が、ちゃんと分かったのです。ですから、預言は、具体的に誰に向かって語られているかがはっきりとし、それを聞いた人が何のことを言っているかがわかるものなのです。そして、その第一義的意味を通して、それが後の時代の私たちにも意味を持ってくるものとなるのです。
 現代でも、預言を語る人がいます。しかし、その多くは第一義的に置いても抽象的な意味しか持たないものがほとんどです。第一、どのような状況を念頭におき、誰に向かって語られたものかよくわからない。だから、その預言を聞いても、聴く人をしっかりと地に足を根差し、その人の人生を確かに導く指針にはならないと思われるものです。そういった意味では、現代にこれが預言であると語られている預言というものは、聖書に出てくる預言とは全く異なる者です。
 そんなわけで私は、現代に聖書の中に出てくるような預言者と呼ばれる使命と働きを担っている人はいないと思っています。しかし、だからといって、神の前での私たちの人生に導きを与えてくれるアドヴァイスとなる言葉がないという事ではありません。
 信仰の先輩や友人が言ってくれた思いがけない言葉が、私たちに大きな影響を与えることがあるのです。けれども、たとえ大きな影響を与える意義ある言葉であっても、それらの言葉が聖書の言葉を超えることがありません。むしろ、それらの言葉は、一つのきっかけとして、私たちを練りはみ、聖書が私たちに語りかける神と人に喜ばれる生き方を生きるための助言として意味と意義があるのです。それは答えを与える言葉ではありません。その助言の言葉を通して、神が私たちに神の前にいかに来るかを問わせ、考えさせ、導くのです。そして大事なことは、その導かれた先に神の言葉である聖書が指し示す生き方があるか否かなのです。ですから、助言はあくまでも聖書の言葉を指し示す指なのです。
 ですから、その助言の言葉自体が、客観的な「神からの語りかけ」の言葉であるという事ではありません。それはその助言がまさに用いられていくその過程のなかで、神の導きとなっていくということです。そのような意味で、神の語りかけは、語られた助言の言葉自体の中にあるのではなく、その語られた言葉を思い廻らし、考え、練りはんでいった先にあるのです。
 そのような助言の言葉の事例を、私の友人の岩本遠億牧師は「預言」と呼びます。岩本牧師が「預言」と呼ぶ者は、現代の預言を語るという人たちが語る預言とは違ったものです。むしろそれは、人の助言の言葉を通して神が私たちを導く過程全体を振り返る中で自覚する神の語りかけです。その過程を「預言は神の国を進める」という3分強の短い説教の中でご自身の経験を通して語っています。
 その岩本牧師の説教は下記のアドレスで聴くことができます。このアドレスは岩本牧師のご承認をいただき掲載している者であり、下記のアドレスをクリックし『366日元気の出る聖書の言葉』のホームページを開き▶マークをクリックしてくだされば聴くことができます。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2c6fvf?fbclid=IwAR1TwQaXNsoIcZWUPVt9YGceaxmFh_HJ25JQ5-_Av-zQ0lgQaDCd4bNNBuA

2023年11月20日月曜日

ホッとできる憩いの場

「牧師の仕事と会社勤めとどちらの仕事が大変ですか?」と尋ねられたことがあります。私が牧師になる前に9年ほど会社勤めをしていたからだろうと思います。

 その質問に、私は即座に「牧師の仕事です」と答えました。なぜならば、牧師の仕事は366日、完全に「ホッと気を休ませる」という事ができないからです。会社勤めをしていた時は、営業をしており、営業職ゆえにある確かに厳しい場面を経験し、結構なストレスを感じることが少なからずありました。しかし、どんなに厳しい局面やストレスを感じる仕事であっても、家に帰って来て、風呂に入り「あー、今日も一日終わった」とため息をついたとたんに、仕事から解放され、仕事のことを忘れ、テレビで野球を見、家族と共に過ごす憩いの時間があったからです。また休みの日は、それこそ休日で仕事のことを忘れて過ごすことができました。
 しかし、牧師は教会に住んでいます。そして、いつでも、何が起きてもいいように心の準備をし、いつも説教のことを考えながら生活をします。ですから仕事のスイッチをオフにすることがないのです。そのような生活をするようになると、心が憩うの場を持つという事が本当に大切であることに気が付かされます。
 先日、私は自分が会社で働いていた時のことを思い出していました。私は会社勤めをしているとき、仕事が終わると真っすぐに家に帰り、寄り道をしたことがほとんどありませんでした。ただ、朝会社に行き、仕事が終わって家に帰り、そしてまた朝が来て会社に行く。日曜日は教会に行き、そして一日教会で過ごし、そして家に帰って来て翌日また会社に行く。きっと人から見ればつまらない人生だと思われるだろうなと思いながら、当時のことを振り返っていました。
 でも、私は、それでよかったのです。いえ、それが良かったのだと言えます。なぜならば、私にとって家庭で家族とする過ごすのは、私にの心にとっては憩いの場であり、日曜日に教会に行き、神を礼拝し、教会の人たちと交流することが心休まる場だったからです。
 神を礼拝するという事は、神と交流する(交わりを持つ)という事です。教会の人たちと交流をする(交わりを持つ)ということは、同じ神を信じる者としての神の家族の心の交流(交わり)の場だったのです。日々の生活の中でも家族と共に過ごし、また日々の生活の中でも聖書を読み祈ることで神と共に過ごすという、心と心の交流の場としての憩いの場がそこにある。
 牧師になりますと、その憩いの場が即仕事の場になるという「厳しさ」と「きつさ」になる大変さがあり、当初は本当にしんどさを感じていましたが、30年も牧師の仕事をしていると、それにも少しづづ慣れてきて、そのような「厳しさ」と「きつさ」の中にも心を憩わせることができるようになってきました。
 憩いの場は、場所にあるのではありません。働きの中にあるのでもない。また環境が憩いを与えてくれるのでもないのです。それは心が解放され暖かい交わり、包み込んでくれる交わりの中にあります。その交わりが、家族であったり、自然であったりする。そして何よりもこの世界のすべてを包み込み、「わたしたち」を包み込んで、「わたしたち」と交流してくださる神様の内に在るのです。
 旧約聖書の詩篇という書の中にある詩の一つに次のような詩があります。


主は私の羊飼い。私は乏しいことがない。
主は私を緑の野に伏させ、憩いの汀に伴われる。
主は私の魂を生き返らせ、御名にふさわしく、正しい道へと導かれる。
たとえ死の陰の谷を歩むとも、私は災いを恐れない。
あなたは私と共におられ、あなたの鞭と杖が私を慰める。
私を苦しめる者の前で、あなたは私に食卓を整えられる。
私の頭に油を注ぎ、私の杯を満たされる。
命あるかぎり、恵みと慈しみが私を追う。
私は主の家に住もう。日の続くかぎり。

神さまは、私たちと交流を持ってくださり、私たちに心の憩いの場を与えてくださいます。それは、神様ご自身が私たちを交流をし、ご自身の心を憩わせておられるからです。家族といて心が憩うのは、互いの心を許し、互いに心を開いているからです。
 神様は、私たちを神の家族とし、私たちに心を許し、心を解放してくださっています。それは、私たちが神様の家族となって、神様に対して心を許し、心を開き、心を憩わせるためなのです。
 そんな神様との交わりについて私の友人の岩本遠億牧師は、「神様の憩いの場」という3分ちょっとの短いメッセージを語っています。岩本牧師の承認のもと下記にそのメッセージのアドレスを掲示します。そのアドレスをクリックし、岩本牧師の『366日元気の出る聖書の言葉』のホームページに行き「神様の憩いの場」のタイトルにある▶マークをクリックしてくだされば、そのメッセージを聴くことができますので、是非お聞きください。



https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2c51ap?fbclid=IwAR07ho_uD7UWHfdHWlWvqoix3zAVWKWNZvHuPgvCviU1KGJVDJPbwXWEJyk

2023年11月18日土曜日

聖書の読み方

 聖書は、キリスト教にとって重要な書物です。それは、キリスト教を信じる者にとって、その信じる内容である教義とキリスト教を信じる者としての生き方(倫理)の基準となる正典です。その聖書は旧約聖書と新約聖書の二つによって構成されます。旧約聖書はイエス・キリスト様以前の歴史を、ユダヤ人たちの歴史を中心にして書かれたもので、律法と預言書と詩歌が記された諸書の三つの部分があり、その多くはヘブライ語で書かれています(一部アラム語)。そして新約聖書はイエス・キリスト様のご生涯を記した福音書と教会が作り上げられていく過程を示した使徒行伝と、イエス・キリスト様の弟子たちが記した手紙の三つの部分の分けられ、そのすべてが古代の通俗ギリシャ語で書かれています。これら全体を含んで聖書とよばれるのですが、聖書は古代の文献であり、また宗教書です。

 聖書は古代の文献でありますので、当然、現代の私たちがそこ何が書かれているかを知り理解するためには、それを読み解くため、つまり解釈をするために方法が必要になります。しかもそこに書かれているのは宗教的な内容なのです。そのようなわけで、様々な解釈の方法が考えられ、聖書の何が書かれているかが研究されてきました。
 そのような中で、二十世紀後半になって物語神学と呼ばれるものが出てきました。そもそも、古代において宗教的真理というものは物語によって伝えられてきたのだから、聖書もまた一つの物語として読むべきだというものです。聖書は聖書全体を通して物語られている物語(グランド・スト―リー)があり、このグランド・ストーリーは、そのグランド・ストーリーの中にある様々な小さな物語で構成されているというのです。そして、そのグランド・ストーリとそれを生み出している物語を、心に思い浮かべ、その物語の中に、聖書読む読者が自分の物語を見いだしながら、グランド・ストーリが伝える内容を、理解し、自分へ語りかけている真理の言葉として受け止めていくのだというのです。

 では、聖書が物語るグランド・ストーリーとは何か、それは、「罪と死の支配と抑圧からの解放」です。「わたしたち」は様々な物事によって支配され、抑圧されています。それは独裁者や権力者による支配であったり、社会制度や経済システムにより支配であったり、人間関係における上下完成の支配がもたらす抑圧であったりします。そして、そのような支配と抑圧がなされるとき、支配するものは力と恐れとを用います。そして、そのような様々な支配と抑圧は、この世界が罪と死によって支配されているからだというのです。
 聖書は、そのような様々な支配と抑圧の中に生きた人々の物語を描き出します。同時に、そこから解放された人々の喜びの物語をも描き出します。その様々な物語が、「あなた」の人生の物語に静かに語りかけ、「あなた」にもまた、あなたを苦しめる支配と抑圧から解放する神の愛と慈しみを語るのです。
 ですから、聖書を読むというとき、そこに記される物語を物語として読みながら、「あなた」の心に浮かび上がってくる情景を大切しながら読むことが大切です。そして、その心に浮かび上がってきた情景が、あなたの心に何を感じさせるのか、この感情に目を止めるのです。sぴしれば、「あなた」は聖書の中にある物語るの中に「あなた」の姿を見いだすことができます。そしてそれが、あなたの心に救いをもたらすのです。
 その物語が物語る情景について、わたしの友人の岩本遠億牧師が3分半弱の短いメッセージで語っています。岩本牧師のメッセージは、下記のアドレスをクリックして開かれた新しいページにある▶マークをクリックしてくだされば聴くことができますので、どうぞお聴きください。下記のアドレスは岩本牧師のご承認をいただいて掲載しています。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2c2bp3?fbclid=IwAR1DXfTrqx_bV8e0zKroJ6o55QdhMP-Vd4qEUXqzSDk5a-KDyA1bpGvSkA8

2023年11月17日金曜日

人生という大事業

 失敗するより成功する方が良い。誰でも思うことです。

私は、キリスト教会で行う様々な催し物に参加してきました。それは一つの教会で行う催し物である時もあり、多くの教会が集まり、互いに助け合い協力し合って行うもよし物であったりします。当然、その催し物を成功させたいと思い計画を進めていきます。
 そんな時、同じような催し物を行った事例があるならば、その催し物を行った人たちに話を聞くことがあります。その時に、必ず質問するのは、「どのような所に問題があり、うまくいかなかった点は、どのようなものか」ということです。うまくいったことを聴くのではなく失敗してことを聴くのです。なぜならば、失敗した事例の中に本当に学ばなければならない大切なことがあるからです。
 人間は、失敗をしたときに、そこに本当に学ばなければならないことを学び、本当に大切なことが何であるかを知るのです。
「わたしたち」人間は、人生の中で失敗をしたときに学ぶ大切なことは何か。それはまず第一に、自分の弱さを知るという事です。自分は何でもできるわけではない、自分にはできないこともあるのだという自分の弱さを学ぶことが大切なのです。そして謙虚になることです。謙虚になって、自分の限界をみとめ、自分を超えるより大きな力を持つ存在に頼るという事を知ることが大切なのです。
 自分の弱さを知り、人に頼るということは、できるようでできない者です。でも、この謙虚さを学ぶことなくして、人生という大事業を成功に終わらせることはできません。人生の成功は、お金を多く儲け、多くの富を得たとか、多くの恵まれた人間関係を手に入れたという事ではありません。確かにそういったことも成功と言えないわけでもありませんが、必ずしも多くのお金を儲け、多くの富を気付いた人が、人生という大事業に成功したとは言えないのです。人生という大事業の中で、どんなに富を築いても、死という現実を乗り越える力を手に入れることはできないからです。お金によって死を少しばかり先送りにすることはできるかもしれません。しかし、お金によって死を乗り越えることはできないのです。
 「わたしたち」人間は、死という現実の前には無力です。死という大きな壁を乗り越える力を持たない弱い存在でしかありません。だからこそ、その弱さを知って、「わたしたち」が決して乗り越えることのできない死という現実を乗り越えさせてくださる、より大きな存在である神様というお方に頼るという事を学ばなければならないのです。
 その神様はイエス・キリスト様を死から蘇らされました。死という現実を乗り越える力を持っていることをお示しになられたのです。神様を信じ、神様によりたのむものは「たとえ死んでも蘇る」のです。この希望が、神様を信じ、神様により頼む者には与えられているのです。
 それは死という出来事だけのことではありません。神様は、「あなた」が「あなた」の人生という大事業の中で、「あなた」が弱さの中にある時の助けであり、「あなた」の弱さの中に現れてくださいます。本当に大切なことは、この神様というお方を信頼し、「あなた」に人生にこの神様を信じ迎え入れ、この神様というお方に頼る心なのです。
 人生の歩みの中で成功を握る秘訣は、自分の弱さを知り、神というお方に頼ること、そのことを私の友人である岩本遠億牧師が、「成功の鍵を握るのは?」という4分弱の短いメッセージで語っています。岩本牧師のご了解を得て、そのショートメッセージが語られているアドレスを警戒しました。お聞きになりたい方はそのアドレスをクリックし、更に▶マークをクリックしてください。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2c0s8e?fbclid=IwAR1lmtdSpNvlyPkiTW4S_rWJ2onG8fFwR6cponvQlIfam76S67qKFrRiR4Y

2023年11月16日木曜日

もうお手上げというときに

 「苦しい時の神頼み」という言葉があります。それは、普段は神など信じない、信仰なんて必要のないと思い、神や信仰から離れて生活している人が、ひとたび問題が起き、自分では解決できない、もうお手上げだと感じたときに神に助けを求める姿を揶揄した言葉です。

 しかし私は、この「苦しい時の神頼み」も決して悪いことではないと思っています。もちろん、普段から神様を信じ、神を信じる者として生きていればもっと良いのですが・・・・。
 それはさておき、困った時やお手上げの時に、神さまに祈るという事は、信心深い、信心がないに関わらず良いことです。そこに問題がるとすれば、自分で問題の解決を決め、それ以外の解決は受け入れらないという姿勢で祈ることです。「わたしたち」が心の底から神に祈る時、神様は必ずその祈りの答えてくださいます。ただ、その答えは「わたしたち」が祈り求めていることと違ったことがあるのです。もちろん、祈り求めたもの通りの解決が与えらるときもありますし、それ願い求めている以上の答えが返ってくることもあります。なぜ、そのようなことが起こるのか。それは神様が、いつも最善をもって祈りに答えられる方だからです。
 神様の考える最善は、「わたしたち」の考える最善とは違っています。「わたしたち」は自分自身のことだけを考えて、これが「わたし」にとって良い答えだ、あるいは納得のいく答えだという答えをもって祈ります。しかし、神さまの視点から見れば、それが「わたし」にとって良いと思われるものであっても、必ずしも良いものではないという事があるのです。いやむしろ、「わたし」が「わたし」にとっては最悪とおもわれることが、実は神様の目から見れば「わたし」にとっての最善であったりすることさえあるのです。
 神様は、神さまのお考えるなる最善を成して下ることを、信頼し、その神様の自分自身をゆだねる思いがあるならば、「苦しい時の神頼み」でも決して悪いことではありません。それがその時の「わたし」にとって決して好ましいものではなかったとしても、必ず最善であったと言えるものへとなっていくからです。
 イエス・キリスト様は、もうじき。ご自身がイエス・キリスト様を嫌い、憎んでいる者たちから捉えられ、そして殺されるであろうという事がもうじき起こるだろうと察したときに、神さまに「この杯(捕らえられ、殺されるであろうこと)を私から取り除いてください」と節に祈りました。血の汗が出るほどに祈られたというのですから、必死の祈りだったのでしょう。しかし、イエス・キリスト様は「この杯(捕らえられ、殺されるであろうこと)を私から取り除いてください」と祈られた後に「けれども、あなたの御心のままにしてください」と祈られたのです。その結果、イエス・キリスト様は、ご自分を嫌い・憎んでいる人々のよって捕らえら、裁判にかけられ、十字架の上で処刑されました。この出来事だけを見れば、最悪の結末を迎えたのです。
 しかし神様は、その十字架の上で刑死したイエス・キリスト様をよみがえらされ、神の栄光をお与えになられたのです。最悪と思われた結果は、最善に向かっての入り口のドアが開かれる出来事だったのです。神は最善を成してくださるお方であると信じ、神の自分自身をゆだねて祈る者に、神は最善をもって答えてくださるという物語が、ここに描かれています。神は神を信じ祈るものの祈りに答えてくださる。この物語はそのことを教えます。そしてこのイエス・キリストの物語が「わたしたち」の物語となるのです。
 神は最善を成してくださるお方である。そのことを、私の友人の岩本遠億という牧師は、「神さまの直接介入を信じて」という3分ほどの短いメッセージのなかで「あなた」に語りかけています。その岩本牧師のショートメッセージが聴けるホームページのアドレスを岩本牧師の御許可をいただいて下記に掲載しました。そのアドレスをクリックし、岩本牧師の「366日元気の出る聖書の言葉」というホームページに行き「神様の直接介入を信じて」の▶マークをクリックしてください。そうすれば、岩本牧師のメッセージを聴くことができます。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2bvv3j?fbclid=IwAR2EmELx04-AmJxo7zTrPAdWueThVFej3Kb01JnGulEeDTqZCnzk0fHqaC8

2023年11月15日水曜日

本当に大切なもの


「わたしたち」は、「わたし」にとって本当に大切なものは、何としても手に入れたいと思います。本当に大切なものです。しかも「わたし」にとっての本当に大切なものなのです。しかし、この「わたし」にとってと本当に大切なものを手に入れたいという思い、ある意味わがままなことでもあるのです。なぜならば、もし、その「わたし」にとって大切だと思うものが、自分以外のものであるならば、その自分以外のものを自分の所有物にしてしまうことだからです。
 例えば、親にとって子供は本当に大切な存在です。だからといって子どもを自分の所有物のようにしてしまったならば、その子供は幸せなのでしょうか。実は、本当に大切なものは、手に入れるのではなく、手放すことができるものなのです。その大切なものが、もっともより善いものとなるために、その大切なものが最もふさわしいと思われるところで生かされるためには、それを手放すことができる。それが「わたし」にとって本当に大切なものなのです。
 ときには、そのために大きな犠牲が伴う場合もあります。大切なものだけではなく、「わたし」自身をも手放さなければならないことだってあります。自分のプライドや財産や思いまでも犠牲にして、大切なもののため仕えることができる。それこそが最も大切なものなのです。
 聖書には、自分の娘の癒しを求めてきた女性の話があります。私の友人の岩本遠億牧師は、その女性について、3分強の「神様に食い下がる」というメッセージを語っています。
 この女性にとって娘は「本当に大切なもの」でした。だからこそ、この女性は自分のプライドも自尊心も捨てて、ただイエス・キリスト様に憐みを請い寄り縋るのです。その女性の姿をイエス・キリスト様「あなたの信仰は立派だ」と言われます。なぜでしょう。それは、娘のために自分の誇りも自尊心もなげすてて、イエス・キリスト様に憐みを求める姿が、ご自分の命を投げ捨てでも、「わたしたち」人間を救おうと思うイエス・キリスト様の思いと重なり合うからです。そこに大切なもののためには、自分をも投げ捨てる愛が、イエス・キリスト様をも突き動かすのです。なぜなら、イエス・キリスト様は、「わたしたち」にためにすべてを投げ出すほどに「わたしたち」を愛してやまない方だからです。
 そのイエス・キリスト様の愛は、今、「あなた」に注がれています。「あなた」にとって最も大切なものは、この「あなた」を愛するイエス・キリストの愛なのです。
 先ほどご紹介した岩本遠億牧師のショートメッセージは下記のアドレスから聴くことができます。アドレスをクリックし、岩本牧師の『366日元気の出る聖書の言葉』のページに行き、そこで▶マークをクリックしてください。

2023年11月14日火曜日

人間は人間だから人間になるのだ

 人間という存在は神秘です。なぜならば、人間は自分自身が何者かという問いを立てることができるからです。「わたし」という存在はいったい何者なのか。このような問いを立て自分自身を追求し、より善いものになっていこうとして努力をする。なぜそのような問いをたて、より善いものになっていこうとするのか。単に生きて行くという事だけであるならば十分な環境にあっても、なお現状に満足せず、より高見を目指すのか。その問いと思いこそが、神秘です。「わたし」という存在に思いを馳せる「わたし」が存在する。その存在こそ神秘なのです。

 このような神秘は、単なる学習ということ、すなわち経験し学ぶという事で得られるものではありません。ですから「わたし」は何者という「わたし」につい問うているその問いは、考え、学ぶことによっては永遠に答えが与えられない問いなのです。 
 考え学ぶという事は知性の働きです。このような知性の働きは、低度なものから高度なもの差はあってもすべての動物に備わっています。しかし、より善いものになっていこうとする思いは経験や学習から学ぶことではなく。人間の中にある衝動なのです。「わたし」が「わたし」であるがゆえに、よりよい「わたし」になろうとする。またなっていく。それは、人間の肉体に属するものでもなく、知性に属するものでもなく、人間が人間として存在している人間の霊性に属するものなのです。ですから人間は、単なる動物ではなく、霊的な動物なのです。
 しかし、人間ははじめから、そのようにより善いものになろうとし、より高見を目指すようになるわけではありません。最初は何もできない赤ん坊として生まれてくるのです。ですから、最初から霊性に目覚めているわけではありません。しかしたとえ赤ん坊であっても人間は人間です。ですから、赤ん坊にも霊性が備わっています。そして霊性があるからこそ、その赤ん坊が成長していく中で、だんだんと体も心も成長し、そして霊性も深まっていくのです。つまり、人間は霊的存在として生まれてきたからこそ、より人間らしくなっていくのです。
 「わたし」が「わたし」として存在する。「あなた」が「あなた」として存在する。これは、もはや人間の知性の領域ではなく、神さまの領域です。神様が「わたし」という存在を与えてくださった、ですから「わたし」という存在は何者なのかという問いをたてる「わたし」あるいは「あなた」という存在は神の属する存在なのです。だからこそ、「わたし」は、そして「あなた」は大切な、かけがえのない存在なのです。
 だとすれば、この神に属する「わたし」が、そして「あなた」は聖なる存在なのです。いうなれば、人間はすべからく聖なる存在として生まれてきたのです。聖なるものとして生まれてきたからこそ、より善いものになろうとする。神に属する者として生まれているからこそ、より聖なるものになろうとするのです。
 ちょっと哲学的でわかり難い文章になりましたが、私の友人の岩本遠億という牧師は、このことをよりわかりやすく「聖なるものとして」という5分程度のショートメッセージで語っています。よろしければ、その岩本牧師の説教にも耳を傾けて聴いていただければと思います。下記のアドレスをクリックしてくだされば、岩本牧師の「366日元気の出る聖書の言葉」のホームページに行くことができます。そのホームページの「聖なる者として」というメッセージの▶マークをクリックしてくだされば、そのメッセージを聞くことができます。なお『366日元気の出る聖書の言葉」にホームページのアドレスは、岩本牧師のご了解を得て、ここにリンクしてあります。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2bs4ga?fbclid=IwAR2riCMhGR9dariYUhGgQHd4NQhodEQxS3LESQ1zTwlcgVFgOlwfhTlYrKg

2023年11月13日月曜日

共感する神

  私が大学院で研究していたテーマは、15世紀後半から16世紀前半のいわゆるルネッサンスと呼ばれる時代から宗教改革に移行していく時代にエラスムスという人物の人間観でした。このエラスムスという人物の思想は、キリスト教人文主義(ヒューマニズム)です。人文主義というのは、古典の世界、すなわちギリシャ・ローマ世界の文学や思想をまなび、その中に人間のあるべき理想像を見いだし、より善い人間になろうとするものですが、キリスト教人文主義となると、単にギリシャ・ローマ世界の古典だけではなく、それに聖書をくわえて、その中に人間のあるべき姿を見いだしてより善い人間となるように生きようと考える思想です。いえ、むしろ聖書を唯一の土台とし、そこから現実の人間を捕らえ、そしてより善い人間になるようにと務めるのです、
 人間のあるべき姿を求めるということ。このことの背後には人間とは何かという問いがあります。人間を人間とする人間本来の姿、それを人間本性(ホンセイ)と言います。人間の本質と言ってもいいかもしれません。もっと平たく言えば人間らしさと言います。いったい人間の本質、人間本性とは何なのでしょう。聖書は、神の像(かたち/イメージ)だと言います。人間は神に似たものなるようにと造られており、その心には神の像(かたち/イメージ)が刻み込まれているというのです。
 しかし、神の像(かたち/イメージ)といっても漠としてそれがなにかよくわかりません。それは「わたしたち」が神様というお方をよく知らないからです。神様がどんなお方かよくわからないから神の像(かたち/イメージ)といったものを思い浮かべることができないのです。しかし、聖書を読んでいくと、だんだんと神様というお方がわかってきます。なぜならば、聖書は神様と人とが作り出す人間の歴史がそこに記されているからです。
 その神と人とが作り出す歴史は、弱く、力がない人たちが、強力な権力や武力を持った人たちに支配され、抑圧されて悩み苦しんでいる姿を見て、その支配され抑圧されている日々との悩みや苦しみに共感し、神さま自らが心を痛め、その悩みや苦しみ、そして痛みから解放してくださるという物語です。そしてそこに描き出される神の姿は、「共感する神」なのです。
 共感するという事は、同情するという事ではありません。同情するというのは、自分は悩み苦しむ人の心の痛ますその痛みとは別のところに立ち、その悩み苦しみ、心を痛める人をかわいそうにと思う想いです。しかし、共感とは、その悩み苦しむ人の心の痛みを、自分自身も同じように感じ、自分も同じように感じる熱い心です。熱情(パトス)です。つまり、悩みや苦しみ、そして心の痛める人と同じ場にたち、共に悩み、共に苦しみ、共の悲しみ、共に痛むのです。神様はそのようなお方なのです。
 神様は、「共感する神」である。それは、神様が「わたしたち」の人生に共に歩んでくださるお方であるという事です。当然、神様は「あなた」の人生と共に歩んでくださり、「あなた」が悩み苦しむときは、「あなた」と共に悩み苦しみ、「あなた」が心を痛める時は、共の心を痛め、「あなた」が悲しんでいるときは共に悲しみ、喜んでいるときは共に喜んでくださっている。「あなた」は気付いていないかもしれませんが、神様はずっと「あなた」と共に歩んでくださっているのです。
 ですから、エラスムスをはじめとするキリスト教人文主義者たちが求めてきた人間の本性(本質)。それは神が共に生きてくださっている者という事だと言って良いかもしれません。「わたしたち」人間は、神が共にいてくれる存在なのです。だから、心の中に神の像(かたち/イメージ)が刻み込まれており、それゆえに神を求めて生きる者なのです。そして、「わたしたち」が神に似たものとなるということは、「わたしたち」もまた、「共感する人」になるという事です。「同情する人」ではなく「共感する人」にです。
 この人間の本質ということについて、別の角度から私の友人の岩本遠億牧師が「人の本質を決定するもの」という3分ちょっとの短いメッセージで語っています。その岩本牧師のショートメッセージは、下記のアドレスをクリックし、新しく開かれる『366日元気の出る聖書の言葉』のページに行き、そこで「人の本質を決定するもの」というタイトルにある▶マークをクリックしていただければ聴くことができます。なお、下記のアドレスは岩本牧師の御了解をいただいて、ここに掲載しています。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2br7tu?fbclid=IwAR3qIoVjjpckBMdIEB-wFA6KuVZp2ggaqXUu7QvmyOeDl7D13MXIe9m_TaA

2023年11月12日日曜日

練られた品性を築き上げる

  


 人生の試練や困難は人間を成長させます。試練や困難を通り乗り越えることで、「わたしたち」の人間性が練り上げられるという事があるのです。しかし、そうはいっても試練や困難というものは好ましいものではありません。それを乗り越えるには忍耐が必要になります。要は耐え忍ばなければならないのです。
 聖書には、忍耐は練られた品性を産み出し、練られた品性が希望を産み出すと書かれていますが、それはまさに試練や困難が人間を成長させるという事言い表している言葉だろうと思います。とはいえ、忍耐するということにも限界があります。その忍耐の限界を超える試練は、私たちの人間性を成長させるどころか、それを壊してしまいます。ですから、私たちは、これ以上耐え忍ぶことができないと感じたならば、誰かにより頼むという事も必要になるのです。
 もちろん、そのより頼む相手が家族や友人である場合もあるでしょう。そういったより頼むことのできる家族や友人がいることは幸せなことです。しかし、その家族や友人ですら支えていくことができる限界があるのです。では、本当に誰にも支えてもらうことができないと感じたとき、いったい私たちは誰に頼ればよいのでしょうか。
 聖書は、困難や試練が私たちの四方を取り囲んだとしても、わたしたちには逃れの道が一つだけ残されていると言います。それは神様という存在です。前、後、右、左という四方を困難や試練という壁が多い、逃れの道が閉ざされているように見えても、私たちの上はいつも天に向かって開けています。その天に向かい、神により頼むのです。
 この天という逃れにみちがあるからこそ、私たちはわたしたちに襲ってくる試練や困難に向き合い、それを乗り越えようと努力することが大切なのです。天という逃れの場があるからといって、試練や困難に向き合い、困難や試練を耐え忍び、それを乗り越えていく努力をしないという事を神は望んでおられません。なぜなら、神は私たちが練られた品性を持ち希望をもって生きることができるような、人間へと成長してほしいと願っておられるからです。私たちは忍耐の限りを尽くして、試練を乗り越え、より練られた品性を持つ人になっていく必要があるのです。
それは、決して楽な事ではありません。でも大丈夫です。その忍耐の限界の先には、わたしたちを支てくれる神様がおられるからです。
 試練や困難を耐え忍び、それを乗り越えていくことの大切さを、私の友人である岩本遠億牧師が「人生の精錬」という短いめせーじの中でよりわかりやすく語っています。そのメッセージは、下記のアドレスをクリックし、新しく開かれた「366日元気の出る聖書の言葉」のホームページにある▶マークをクリック聴くことができるので、それをお聞きくださればと思います。
https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2bpq3v?fbclid=IwAR0QMwdFBT12yypL8vm3zVT4iUp9zE0aZt8yZyKTw2A-MwbrFpz5kPKkrUA

この岩本牧師のメッセージのアドレスは、岩本牧師からご許可をいただいてここに掲載しています。

2023年11月11日土曜日

人は何のために生きるのか。

  「自分が生きている意味と意義は何か」ということ、それは人生の目的といっていいのかもしれません。「自分は何のために生きているのか」は、それは「わたしたち」の永遠のテーマかもしれません。
 「わたしたち」は、自分の人生は自分のものだと思っているかもしれません。自分のものだから自分勝手に生きて良い、自分の好きなように生きて良い。「自分は自分の人生を楽しむために生きている」もしかしたらそうおもっているのかもしれません。
 しかし、だとしたら「わたしたち」は、「自分は何のために生きているのか」という問いは永遠にわからないかもしれません。「何のために生きるのか」というとき、そこには、「~のため」という関係性が前提にされています。つまり、自分以外の「何ものか」の存在があって初めて「何のために生きているのか」という問いは成り立つのです。そういった意味で私たちは社会の中で、関係の中で生きているのです。そして「あなた」が「何かのために生きている」とするならば、そこには「あなた」を必要としている存在があるのです。「あなた」との関係を必要な人がいるのです。
 どんなに「わたし」は社会から求められていない。社会の「何のためにもなっていない」と思っていても、私は絶対に「あなた」を必要としている人を知っています。「あなた」との関係することを求めている人を知っています。それは、イエス・キリスト様というお方です。そして、そのイエス・キリスト様の父なる神様です、
 イエス・キリスト様と父なる神は、「あなた」が生きて、このお方と関わりを持ってくれること本当に喜んでおられます。「あなた」はイエス・キリスト様と父なる神様にとって、本当に大切な存在なのです。だから、「あなた」の人生は、神とイエス・キリストの喜びとなるためにあるのです。「あなた」は大切な「あなた」なのです。
 そのことを、私の友人の岩本遠億牧師が「破れることのない計画」という短いメッセージで語っています。ですので、下記のアドレスをクリックし「366日元気の出る聖書の言葉」のページにある「破れることない計画」のところにある▶マークをクリックしてください。私たちに希望を与えるメッセージを聞くことができます。


https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2bp76p?fbclid=IwAR2Q_UGufyatJ-pbkuOZNHScOyLO0RuNjpn5d7iXEZM7Swe_vxjK0l7ldMU

2023年11月10日金曜日

差別と区別

 「差別と区別」

 最近、私の周辺では差別と区別という言葉をよく聞きくようになりました。それは人種差別の問題であったり、性的少数者の人たちへの差別問題であったりと様々です。そのような中で、これ「差別ではなく区別だ」と言う言葉を耳にすることがあります。それは、差別の問題には、ほとんどすべてと言っていいほど「差別する者と差別される者」という構造があるからです。
 そのような中で「差別する者」といわれると、極めて聞こえがよろしくありません。それは誰もが差別は良くないことだと思っているからです。
だから、「差別をしている」と言われたくないので「差別ではなく区別をしているのだ」と言うのでしょう。しかしそれは、一種の詭弁のようなものですが、ある種、差別と言う問題の本質をついている言葉でもあります。というのも、差別という事が起こるその根底には、人を肌の色や、国籍、性別や性的指向性、あるいは能力によって分類して区別するという事がありからです。そしてその区別にレッテルを張ることで差別が起こるのです。
 人を分類して区別すると言うのは、一見すると妥当性があるかのように思えますが、極めて乱暴で大雑把な行為です。なぜならば、私たち人間は、ある特徴や能力によってひとくくりにすることが難しいほど多様性に富んでいるからです。それこそ、ひとり一人が名前を持ち、みんな違っているのです。そのような個性を持ち、特徴を持ち、持っている能力も一人一人違う「わたしたち」を、ある一つの特性をもってひとくくりに分類し区別するという事自体、極めて乱暴なことであると言えます。
 昔聴いた話ですが、ある保育園では、毎月一回、その月に誕生日を迎える子どもたちのためにお誕生会を行っていたそうです。ところがある時、ひとりの子供の親御さんから、「確かにその月に生まれたのだけれど、生まれた日は違う。子供が生まれた人と違う日にお誕生会をするのはおかしい。生まれた日にお祝いをして欲しい」という申し出があったそうです。
 私は、その話を聞いた時に、そんなことしたら保育園の先生の負担が大きくなってします。ただですら保育の現場は大変なのにもっと大変になってしまうと、そう思いました。ところがその申し出を受けた保育園では、色々と考えて、その親御さんの申し出を受け入れて、園児一人一人が生まれた日に、その子のお誕生会をするようにしたそうです。もちろん、そうすれば保育園の先生方の負担は増えます。しかし、園児のことを考えて、大変にはなるけれど、それでも、園児一人一人が、自分が生まれてきたことが喜ばれているのだという事感じることができるようにと、ひとり一人のお祝いをしてあげることにしたと言うのです。
 私は、その話を聞いてた時に、その保育園の先生方は、本当に園児一人一人のことを大切にして愛しているのだなと思いました。けっして、その円に集う子どもたちを、何かの括りでまとめて分類し、区別するのではなく、ひとり一人の名を呼んで愛し慈しんでいる。そして、それは神様が私たちに注いでいる眼差しに通じるものです。
 神様は、私たちの何かで、それこそ性別やは肌の色といった身体的特徴で私たちを分類した区別したり、何ができて何ができないかと言う能力によっても私たちを分類し区別しないのです。当然、分類や区別しない以上差別などおこりません。神様は、わたしたちひとり一人の個性や特性を大切に思い、ひとり一人を愛し慈しんでくださっているのです。もちろん「あなた」もです。神様は、「あなた」を愛し、「あなた」を慈しみ。「あなた」の名を呼んでおられるのです。
 そのことを、私の友人の岩本遠億牧師が、「愛は分類しない」という五分弱の短いメッセージで語ります。下記のアドレスをクリックして『366日元気の出る聖書の言葉』というホームページに行き、「愛は分類しない」の▶マークをクリックしてください。なおこのメッセージのアドレスは、岩本牧師の御許可をいただいて掲載しています。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2bms0b?fbclid=IwAR1rJ0fQTwa6j4Se3SPOcI20kgW1w91f_gaMUxma_usreXb1NhZTNKcgZQQ

2023年11月9日木曜日

豊かな人生をおくるために

 人生の豊かさは何をもってきまるのでしょうか?
お金でしょうか?
なるほど、生きて行くうえでお金は大切です。食べることにも窮するような貧困は、「わたしたち」の生命を奪ってしまう危機を「わたしたち」にもたらします。しかしそれはもはや「豊かさ」と言ったこと以前の問題です。
 もっとも、この場合、お金そのものが問題なのではありません。食べ物を手に入れることができないという事が問題なのです。さらにほりさげるならば、「わたしたち」が生きて行くという事のために必要な物資が、お金というものを通して手に入ると言う経済システムが問題だと言えます。 
 しかし、「豊かさ」という事だけに絞って考えると、必ずしもお金の量自体で「豊かさ」を量ることはできないようにも思います。「豊かさ」の中には、心の「豊かさ」と言ったものがあるからです。では、心の「豊かさ」とは何なのでしょうか。「豊かな心」とは、いったいどんなものなのでしょうか。
 「豊かな心」それは、「心に余裕があること」だという事です。心が満ち足りている方、余裕がある。余裕があるから分け与えることができる。だとすれば、人に分け与えることができることが「豊かさ」の本質なのではないかと思うのです。
 もちろん、分け与えてばかりでは、いつか枯渇してしまいます。しかし、どんなに分け与えても枯渇しないものがあるのです。それは、神の愛です。神は永遠です。永遠と言うのは時間的に無限と言うだけでなく、質的にも無限です。だから、神の愛はどんなに人に分け与えてもなくなることなく、無尽蔵にあるのです。そして愛は「わたしたち」の心を満たしてくれます。そして、「わたしたち」の心に、生きる力や勇気というものをも満たしてくれるのです。
 この「神の愛」はイエス・キリスト様と言うお方によって「わたしたち」の心に注がれます。イエス・キリ様と言うお方が「あなた」の心のうちにいるならば、「神の愛」は「あなた」の心の中にいるイエス・キリスト様に溢れるほどに注がれるのです。
 このイエス・キリスト様というお方を、「あなた」が心で信じ、このお方を「あなた」の心に迎え入れ、このお方に「あなた」の心が頼るならば、イエス・キリスト様は、必ず「あなた」の心に住み、「あなた」を「心の豊な人」にし、あなたの人生を「心が満たされた」ところの豊かな人生にしてくれるのです。
 この人に分け与えることができるほどの豊かな人生を送った人の物語を、私の友人の岩本遠億と言う牧師がC


https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2bm0j7?fbclid=IwAR1ES8jwLLLMLRf-z-UCQKM8Z6gfQi4Qnj6dOVSxSTnWwnFQVwda610IZRk

2023年11月8日水曜日

怖れと不安からの脱出

 先々日、このブログで私は、ゴジラフ・リークだということをカミングアウト(告白)しましたが、映画『ゴジラ』シリーズは、アニメ版やハリウッド製作作品をいれると今回の作品で39作目になりますが、その原点は1954版の『ゴジラ』になります。

 この最初の作品のゴジラを、初代ゴジラと呼ぶとしまして、初代ゴジラが東京に来襲して街を破壊していく物語は、制作当時の人々の、核兵器に対する漠然とした不安や怖れといったものを如実に物語っているといえるでしょう。同時にゴジラの物語は、不安と怖れの源に勝利し、平安な生を回復する生き方へと私たちを誘います。つまり、そこには、ゴジラを制作した人たちの戦争に断固反対し、平和を願う熱い情熱が感じ垂れます。。その意味で、初代ゴジラは強いメッセージ性を持つ啓示的作品であると言えます。そして、前作の『シン・ゴジラ』は東日本大震災を彷彿とさせるリアリズムある怖れと不安を見事に物語化しています。
 「怖れ」というのは、私たちの生活の様々な場面に顔を出します。そして、「わたしたち」を言いようのない不安に陥れます。もちろん、その不安が何から起こっているのかという不安の原因がわかれば、その不安の原因を解決さえすれば不安は取り除けます。しかし、心の奥底にある言いようのない不安は、その原因が何であるかわかりません。ですから、「わたしたち」は、「わたしたち」自身でその不安を解消することはできません。「わたしたち」以外の誰かにより頼むことによってしか、この「わたしたち」の心の奥底に潜む不安を取り除くことができないのです。
 その言い知れぬ不安の中で生きて行く力、それは絶対者である神を信じ、神に自分自身をゆだねて生きて行く以外に道はありません。神の絶大な手によって守っていただくことで、私たちは初めて、この不安から逃れることができるのです。
 それに関することを、私に友人岩本遠億牧師が「恐れる時も」という4分弱の短いメッセージで伝えています。そのメッセージは下記のアドレスをクリックし、「366日元気の出る聖書の言葉」のホームページの▶マークをクリックしてくだされば聴くことができます。そのアドレスの記載を岩本牧師の御許可をいただいて掲載していますの、岩本牧師の書とメッセージもあわせてお聞きください。


https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2bkf05?fbclid=IwAR3HIFSuT6suUapXpah7ikEae4L2zX3RRYb8ANZq4kVgVTDNahuYLmcrrd4&%24web_only=true&_branch_match_id=943951679210878550&utm_source=web&utm_campaign=web-share&utm_medium=sharing&_branch_referrer=H4sIAAAAAAAAAwXBWwuCMBQA4F%2BUo5SKIGKQkSE%2BLBPt7exiGzM97YLlr%2B%2F7dAjoD4R4nILpfzAKPbnVrHgCiMlgRksU4WpNwyJv35yfei4GI4%2FFTFl6LS73WG99fAC2CHpnbA4qKzdLmzLW8T2tnp%2FMNq%2BmPlegY1e%2BhXMy%2BwMq1QIkdQAAAA%3D%3D

2023年11月7日火曜日

礼拝説教「神は共感する」

 23年11月第一主日召天者記念礼拝説教「神は共感する」    202311.5

旧約書:申命記4章23節24節
福音書:ヨハネによる福音書11章28節から37節
使徒書:ローマ人への手紙12章9節から15節

 今日は、召天者記念礼拝です。一年に一度、こうして教会員の方で亡くなられた方、また教会員のご家族の方で亡くなられた方のお写真を飾り、亡くなられたことを偲びつつ礼拝の時を持っています。

 もちろん、故人を偲ぶということと神を礼拝するということは直接的に結びつくものではありません。しかし、亡くなられた方々のことを偲び、亡くなられた方々のことを思うつつ、残された私たちが今を生きるということは、信仰者としての歩みとしてはとても大切な事なのです。なぜならば、聖書は、先ほどお読みした使徒書の中のローマ人への手紙12章15節に「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」とあるからです。もちろん、この言葉はローマにある教会の信徒の方に向かって語られた言葉であり、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」という言葉は、生きてそのローマの教会に集っている人々の交わりを意識してものです。

 しかし、その根底には、喜びや悲しみに共感する心というものが見据えられている。つまり、神を信じる者は、人に対して共感する心を持つことが大切なのだと言うのです。神様は、私たちに共感する心を求めておられる。その意味で、亡くなられた方を偲ぶということは、亡くなられた方を思い、その生前の思いの心を馳せるということだと言えます。それは、亡くなられた方の生前の思いの共感すると言うことでもあるのです。だからこそ、この礼拝という場で、個人のことに思いを馳せ、その心に共感するという心をもって、神の前にでて、神を信じ神を礼拝するということにふさわしいと思うのです。

 そこで共感ということですが、共感とは、共に同じ思いを感じるということです。相手の思いに自分の思いを重ねるということが共感と呼ばれる者であろうと思います。まさに、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」という言葉が、そのことを表している。ところが、実際は、本当に相手の思い感じているものと同じように感じているか、あるいは感じられるかというと、まったく同じように感じることなどいうことは、できない者です。

 例えば、深く悩み・苦しんでいる人に「その苦しみはよくわかるよ」などと声をかけますと、「本当に私の痛みや苦しみなどわかるものか」と反発を感じられることがあります。その反発はもっともなことです。私たちは、本当にその人の痛みや苦しみをおなじようにかんじることなどできないのです。
 しかしそれでも、聖書は「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」と言うのです。共感しなさいと言うのです。それは、あなたが経験した痛みや苦しみ、悩みや悲しみの経験、その経験をもって、あなたの前にいる悩み苦しむ人、悲しみ心痛めている人の思いを推し量り、その苦しみや悲しみにあなたの心を共鳴させなさいということです。

 それは、相手の方の中に、かつてのあなたの悩み苦しんだ姿を見なさい。かつてあなたが痛み悲しんだ姿を、相手の方の姿の中に見いだしなさい。そして、そこに見いだしたかつてのあなたの悩み苦しんだ姿を通して、相手に方の姿をあなたの心の中に見いだしなさいと言うことなのです。

 相手の中に自分姿を見、自分の中に相手の姿を見るとき、そのとき、「わたし」と「あなた」との関係は、決して切り離すことのできない一つに結ばれているのです。そして私たちが、ここにお写真を飾られている方のことを思い、その方の中に、「あなた」の姿を見いだし、また「あなた」の中にその方のお姿を見ることができるならば、そこには「あなた」とお写真の方とは一つに結ばれており、その方と「あなた」は共感しているのです。聖書の言う共感とは、そのようなものです。

 なぜならば、神は共感する神だからです。旧約聖書において、神はご自分を妬む神であると言われることがあります。全部で7回、出エジプト記で2回、先ほどお読みした申命記4章24節を含んで申命記で3回、ヨシュア記が1回とナホム書が1回です。

 この妬む神という表現は、神の民の心が神から離れ、偶像礼拝という過ちに陥ったことを想定して語られています。つまり、イスラエルの心が神から離れていくとすれば、神は妬む、妬むほどに神は人間を愛する神なのです。だから、神は人間が虐げられ苦しめられていると黙ってはいられない。苦しんでいる人の苦しみに共感し、悲しんでいる人の悲しみを共感し、はらわたがよじれるほどに神は痛まれるのです。

 さきほど、ヨハネによる福音書の11章28節以降をお読みしましたが、この箇所はイエス・キリスト様と親しくしていたマルタとマリヤの姉妹の兄弟ラザロが亡くなった出来事が記されている箇所です。この箇所で、ラザロの死を嘆き悲しむマリヤを見て、イエス・キリスト様が激しく感動し(他訳・憤り)心を騒がせてたとあります。神が苦しんでいる人とともに共感して苦しみ、悲しんでいる人と共に共感して悲しむように神の御子であるイエス・キリスト様もまた、マリヤと共に悲しむのです。

 この神の共感は、神のご性質です。そして私たちはその神の御性質を神の像(かたち)をとし受け継ぐものとして神から創造されているのです。そのような私たちだからこそ、私たちは「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」となるようにと求められているのです。そして私たちはそのために必要な共感する能力が与えられている。
 その共感という能力をもちいて、私たちも私たちの身近にいる人々と共感できるものになっていきましょう。そして、今日、今ここでは、ここにお写真が飾られている方々のことを思い、偲び、心を共感させましょう。それは、私たちと、ここにお写真が飾られている方々との絆を、より深く結びつけてくれるのです。

 今、しばらく静まりの時を持ち、私たちに共感する能力を与えてくださった神を見上げつつ、ここにお写真が飾られている方々のことを思いましょう。静かに目を閉じ静まりの時を持ちます。


弱さを誇ろう

 この世界の中をぐるっとみわたしても、完璧な人間、完全な人間などいません。私たち人間は、どこかに弱さというものを持っている者です。神の御子であるイエス・キリスト様でさえ、弟子たちと一緒に、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵で有名な最後の晩餐の時を終えられ、十字架に架けられて死なれるであろうと思われる状況が来たときには、「私は死ぬほど苦しい」といって、苦しみ悩みながら「父よ、できることならばこの杯を私から取ってください」と祈っているのです(新約聖書・マタイによる福音書)。それは、人となられた神であるとしても、人となられた以上、人間が負う弱さを共に負ってくださったからです。
 私たちは弱さを嫌います。ところがパウロと言う人はギリシャにあるコリントと言う町にできた教会の信徒宛に書いた手紙(新約聖書・コリントの信徒への手紙2)で「私は弱さを誇る」と言っているのです。
 それは、神様と言うお方は、私たちの弱いところに目を注がれるからです。そして弱さを持ち、その弱さの上に悩み苦しむ人を憐み、その心に溢れるほどの愛を注ぎ、弱さに中にあっても、その弱さの中で生きて行く力を与えてくださるからです。
 先ほどの最後の晩餐の後に、死ぬほど苦しいと言って、弱さの中にある自分をさらけ出したあとには、敢然と立ちあがり、十字架に死に向かって歩み始められたのです。それは、弱さの中にあって神から力が与えられたからです。
 神様は、弱さの中にある人に目を注いでおられます。弱さの中にある者、虐げられている者を決して忘れてはいないのです。むしろ、そのような人々を顧み、絶えずその人々のことを思い、その人たちが弱さの中にあっても、生きて行くことができるように、その心に力を注ごうとしておられるのです。
 そのことを、私の友人の岩本遠億牧師が「神の重大関心事」という3分程度の短いメッセージで、そのことを語っています。岩本牧師のメッセージは、下記のアドレスをクリックし、『366日元気の出る聖書の言葉』のホームページに行き、「神の代々の関心事」と言うところにある▶マークをクリックすると聞くことができます。これは、岩本牧師の同名の著書の中にある文書を岩本自身が音声化したもので、岩本牧師のご承認をいただいて、ここに掲載しています。


https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2bin31?fbclid=IwAR3p5Qp9xlPLUevOXdz_LwYZeZkN1Dpk7lzmflXaqVU2w4Y-ZrP4FJQCkiE

2023年11月6日月曜日

わけなんかないさ!

 つい先日、ゴジラ-01(マイナス・ワン)が封切られました。
実は、私はゴジラ・ファンの一人です。ゴジラ・フリークといってもいいかもしれません。ですので、わたしの書斎やリビングはゴジラのフィギュアであふれています。
 とは言え、牧師と言う仕事は決して経済的に恵まれた仕事ではありませんの、高価なフィギュアを買うこともできませんので、ほとんどが数百円で変えるものばかりです。ですから、周りの人から見れば、ほとんど価値にないものなのですが、私にとってはとても大切なものであり、宝物とも言えるです。
 そのように周りの人から見れば、価値のないどうでもいいようなものを宝物のようにして大切にしているという事はよくあることです。河原に落ちていた滑らかな石ころ、参道で見つけたちょっと変わった形をした木切れ、コーラのキャップといった人から見ればゴミのようなものを、宝物として大切にしまっておく子どもたちがいます。
 たとえ周りの人たちにとっては、どうでもよい価値のないものでも、その人にとってそれはかけがえのない宝物なのです。そこに理屈などないのです。ただ、そのどうでもよい価値のないゴミのようなものでも、限りなく愛おしく感じられる。だから大切なのです。
 神様にとって、私たちはそのような存在です。どんなに周囲の人が、あの人は何の役にも立たない価値のない人だ言おうと、神様の目にには「わたしたち」ひとり一人は、たまらなく愛おしく、大切な宝物のような存在なのです。
 私たちは、価値があるには、何か理由があるように思います。あの人は野球がうまい、サッカーが上手だ。あの人のピアノ演奏は優れている。あの人は頭がいい。兄人には技術がある。私たちが価値あるものとする理由はごまんとあります。
 しかし、本当に価値あるものは、理由などないのです。ただそれがそこにあるだけで、とても価値ある宝物となるのです理由などないのです。ただ私たちを愛おしくて愛おしてたまらないのです。そのような思いで、神様は「わたしたち」を宝の民だ、高価で尊いのだと言ってくださっているのです
 そのことを、私の友人岩本遠億牧師が「神様の宝もの」という2分ちょっとの短いメッセージでみなさんにお伝えしています。そのメッセージは下記のアドレスをクリックし、「366日元気の出る聖書の言葉」のホームページの▶マークをクリックしてくだされば聴くことができます。そのアドレスの記載を岩本牧師の御許可をいただいてけいさいしていますの、是非お聞きください。


https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2bgms8?fbclid=IwAR16wPUiVVIE5J89GTm4cuUY56h1UfN8T8l92GpmwMGOXBqxGLgvB63u9Qg

2023年11月5日日曜日

神は心で感じるもの

 昔、シュライアマハーと言う人、宗教とは「絶対依存の感情である」と言いました。またルドルフ・オットーと言う人は、「『聖なるもの』に対して、怖れを感じつつ、その『聖なるもの』に魅了され惹きつけられる感情」が宗教の根源にあると言いました。
 この二人の人は、宗教学と言う学問領域を築き上げてきた人たちですが、その基本にあるのは、感情を場とした宗教経験というものがあるのだということです。つまり、宗教とは、目で見たり、手で触ったりするとった、私たちの五感(視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚)で分かるものではなく、心で感じるものなのです。
 キリスト教も宗教です。ですから、キリスト教は目に見ることができず、触ることも、その声を耳で聴くこともできない神を言葉をもって伝えるのです。そういうわけで「神を見ててみろ」と言われても、それはしょせん無理な事なのです。
 神は見ることができません。しかし心も目で神を見ることができます。神は心で感じるこ存在なのです。なぜならば、私たちの心には、神の像(かたち)が刻まれているからです。その神の像が、神を求め、神により頼むといった心の思いを与え、憐みや愛といったものを求めさせるのです。また逆に不正を憎んで公正をもとめさせ、残虐な行為や無慈悲な行為に対して怒り正義を求めるといった心の動きの中に現れ出るのです。
 それは、私たちの心に刻まれた神の像(かたち)が、神の心に共鳴し共振しているからです。そしてそのように神の心に共鳴し共振した心が、この世界の中に神の業を表していくのです。
 もし、「あなら」の心の中に愛があり、憐みの心があり、公正をもとめ正義を求め心があるならば、その「あなた」の心は、神を求めているのです。そしてその心の先に神がおられます。もし、「あなた」が、憐みや愛に満ちた行動を見、また公正に満ち、正義に満ちた行動を見て感動するならば、「あなた」の心は、神の心に共鳴し共振しているのです。そして「あなた」の心の目は、その行動の先に神を見ているのです。神は心で感じる存在です。神の業は心の目で見るものなのです。[あなた」の心が、神を信じ、神により頼むならば「あなた」の心が感動し、震えるような思いを経験するとき、そこの神の業が現れ出ているということ見ることができるのです、

 私の友人である岩本遠億牧師が、この目に見えない神と、目に見ることのできない神の業を見るというは、信頼するという事から始まるということを、ご自身がにニューギニアの奥地に言語学の調査に行かれた経験を、4分程度のメッセージを通して語っています。そのメッセージは下記のアドレスをクリックし、「366日元気の出る聖書の言葉」のページに行き、そこにある「見えないものがみえるとき」と言うタイトルのところにある▶マークをクリックすることで聴くことができます。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2bfpr4?fbclid=IwAR1sHWmgbVPD-9yMnm6q_jttqLZWl34qV2PKPyuwLd88YoAGTpGy8HaZi4c

このメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを、岩本牧師自身が自分の声で音声にしてお伝えしているものですが、岩本牧師の御許可をいただいて転載したものです


2023年11月4日土曜日

人に役立つ者となる

 有名な宗教改革者が書いた本に『キリスト者の自由』と言う本があります。

この『キリスト者の自由』と言う本の冒頭でルターは奇妙なことを言います。それは次のような言葉です。

「キリスト者は全てもののも上に立つ自由な主人であり、何人にも従属ない。またキリスト者は全てものに奉仕する従僕であり、何人にも従属する」

 神を信じるようになったキリスト者は、誰にも縛られず拘束されず、自分が思うままに自由に生きることができるようななったとルターは言います。しかし、そのように自由なものとなったからこそ、すべての人に仕える者のようにして、人のために働くものとされたのだとルターはいうのです。
 ルターの目には、神を信じキリスト者になる前の人間の姿は自由に生きている姿には見えませんでした。なぜならば、自分自身の欲や願望に縛られてしまって、人間が本来なすべきことができなくなっているとルターは考えていたからです。そして、人間は、本来は神に仕え、人に仕えるために存在しているのだと言う人間観が垣間見られます。
 神に喜ばれ、人にために役立つ働きをするために生まれてきたはずの人間が、いつの間にか自分の欲望や願望にがんじがらめになってよいことができなくなってしまっている。そして、その欲望や願望が達成できないためにイライラしてしまったり欲求不満になってキレやすく怒やすくなってしまっている。なんだかわたしたち現代人の姿を見事に言い表している感じがします。
 私は、夢や希望を持つことは悪いことだとは思いません。自分がなりたい自分になる自由を私たちは持っていると思います。けれども、そのなりたい自分の姿が、誰からも喜ばれ、人に役立つ者であるとするならば最高だと思います。そして、それが本当に誰からも喜ばれ、人に役立つ生き方であるならば、それが達成できなくても決してイライラしたりキレっぽくなることはないはずです。なぜなら、その思いは決して自己中心ではないからです。
 ですから、たとえ夢がかなわず、希望通りにならなくても、すぐに他の道を見つけられるでしょう。またほかの道を探すことができるはずです。人に喜ばれ、人に役立つ道は、様々な分野にあり、大きな働きや小さな働きに関わらず、私たちの周りに数多くあるからです。ありふれたことの中だって、心を込めて誰かに貯めにしてあげることはある。
 信仰は、自分中心な生き方から私たちを解放してくれます。神を信じて生きるとき、私たちは神に喜ばれ、人に喜ばれる生き方を生きるものへと変えられて行きます。なぜならば、そこには人のために生きたイエス・キリスト様という私たち人間の模範となるべき愛なるお方がおられるからです。このイエス・キリスト様が、私たちを愛に生きるものへと導いてくださるのです。
 愛に生きる者、それは自分のために生きるのではなく、誰かのために生きる人です。そのことを、私の友人の岩本遠億牧師が「仕える者とは」という3分程度の短いメッセージの中で私たちに語ってくれます。そのショートメッセージは下記のアドレスをクリックし、新しく開かれた「366日元気の出る聖書の言葉」のページに行き、▶マークをクリッククリックすることで聴くことができます。なおこのメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものです。それを、岩本牧師の御許可をいただいてここに転載したものです。 


https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2bf5vn?fbclid=IwAR1ct3aEh7zImgV8Ok5O0GVIe9YNtD9nYYAyYZK4sZEZv3dMPVoz18-0N4Y

2023年11月3日金曜日

わたしは何者

わたしたちは、自分自身を自己評価するさい、しばしば何かと比較して自分自身を評価します。
中学生のこところ、私は長距離走が得意でした。中学校一年生の時の校内マラソン大会で、学年で3位でした。そんなわけで、何かの同級生と共に、学校を代表して陸上大会に出場することになったのです。私に振り当てられたには800m走でした。私は校内マラソンで3位だったことで、自分は長い距離の競争には自信を持っていましたので、その大会でも、そこそこの成績は残せるだろうと自負していました。
 ところが、結果は惨憺たるもので、ビリから2番目、いわゆるブービー賞でした。しかも、私の一つ前の選手と私との間の差はかなり開いていました。その結果に私は愕然とし、すっかり自信を失ってしまいました。そして、自分は決して早くないのだ。いやむしろ遅い法なのだと思うようになったのです。
 この自分の学校内での比較では、私は足が速いと思っていたのに、より広い世界の中に出てみると、私よりも足に速い人はたくさんいて、自分はむしろ足は決して速くないのだと思わざるをえないというのは、誰と比較して自分を見ているかということの一つの例であろうかと思います。私たちは、誰かと比較して「自分は優れている」と思ったり「自分は劣っている」と感じてしまいます。比べる相手によって評価が変わるとするならば、いったい自分は優れているのか劣っているのか。何を基準に自分と言う存在が何者かわからなくなってしまします。
 自分で自分を自己評価するときですらそうなのですから、ましてや人が私を評価する評価も、評価する人によって様々です。評価する人が何をもって評価するかによって評価が変わってくるのです。いったい私は何者なのか。わたしたちが人を比べて評価するとき、わたしたちは自分自身の価値を正しく見極めることはできません。「いったい私は何者なのか?」、人と比べているとわたしたちの自分自身の価値を見失うのです。そんな私たちに対して、「お前は価値ある優れた存在だ」と言って評価してくださるお方がいます。神様です。この世界を創造なさった神は、この世界に存在するあらゆるものに優ったすぐれたお方です。その神様の前に立つならば、どんな人でもちっぽけな存在でしかないでしょう。にもかかわらず、神様は「わたし」をそして「あなた」を、「お前は価値ある優れた存在だ」と言ってくださるのです。
 神様は嘘をつくことがありません。いつも真実なお方です。ですから、神様が「わたし」を、そして「あなた」を「お前は価値ある優れた存在だ」と言われる以上、神様は本気でそう思っているのです。「お前は価値ある優れた存在だ」。それが神様が「わたしたち」に、そして「あなた」に与えている神の評価です。
 そのように神様が「わたしたち」を評価し、「あなた」を評価してくださっているのですから、「わたしたち」は自分自身に自信をもって生きて行きたいと思います。たとえ、自信を失ってしまうようなことがあったとしても、神様が私を価値あるものと言ってくださっている。そのことを信じて歩んでいけたらいいとおもうのです。
 それに関することを、私の友人の岩本遠億牧師が「星を見に行こう」という3分ほどの短いメッセージの中でかたっていますので、ぜひそのショートメッセージをお聴きください。岩本牧師のショートメッセージは、下記のアドレスをクリックし、新しく開かれた「366日元気の出る聖書の言葉」のページに行き、▶マークをクリッククリックすることで聴くことができます。なおこのメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものです。それを、岩本牧師の御許可をいただいてここに転載したものです。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2bd1sn?fbclid=IwAR2eeUEys2K_GmtOk7driBJBqIZmQhuKXkxUAEy85e2oVhzpXSPw7M1yyOg

2023年11月2日木曜日

神の忍耐こそが希望の根源

  子供が生まれ、成長していく姿を見守りながら、ハイハイをし始める喜び、喜んだと思えばすぐに早く立てと願い、つかまり立ちをし始めると、今度は早く歩けと願いだす。そして、それが標準的な成長のプロセスと比べてちょっとでも遅いと、大丈夫だろうかと心配をし、心が騒ぎだす。そんな心境を私たち夫婦は、子育ての中で経験してきました。
 子供の成長はひとり一人違っています。それこそ私たち夫婦は3人の子育てをしてきましたが、3人が3人とも成長の歩みは違っていました。そして今、2人も孫の成長を見守っていますが、これもまた子どもたちとも違っている。子育てとは、早く大きくなれと願う思いに対してじっと忍耐が求められるものです。
 忍耐ということは、「わたしたち」人間にとっては、易しいことではありません。その言葉自体が「耐えて忍ぶ」と言う意味ですから、苦しいことだと言えます。けれそも、この忍耐を真骨頂としている存在がいます。それが神です。
 神は、私たち人間を創造なさったお方です。神が私たちをこの世界に存在させたのです。いわば神は、「わたしたち」人間の生みの親のような存在です。その神は、「わたしたち」人間が育ち成長していくのを忍耐を持って見守っておられるのです。その成長は、神の目から見れば、「早く、早く、もっと早く」と思われるような遅々としたものかもしれません。実際、「わたしたち」は、今も昔も変わらないと思われるような状態です。
 環境汚染の問題が重大な危機を迎えていると知ってはいても、自分の利益のためには生活のスタイル、産業構造、社会の在り方をなかなか変えられないでいる。戦争が良くないことだとわかっているのに、未だに戦争が起こっている。本当に「わたしたち」人間は、成長しているのかと疑わしくなります。
 「わたしたち」人間と言うと話が大きくなり、そこに「わたし」という自分自身の姿がみいださればくなりましたが、「わたし」自身も、本当に人として成長しているのか、神の目にかなうようなより善い人間となっているがと問われると心配になります。結局、「わたし」も自己中心的な人間の独りにすぎず、自分勝手な生き方をしている一人なのです。
 「あなた」はどうですか?
神は、そんな私たちを忍耐強く見守ってくださっています。その神のまなざしは、子供を愛し、慈しむ親の目に似ています。
 その神の忍耐について、私の友人の岩本遠億牧師が「まあ希望がある」という4分弱の短いメッセージで語っています。その岩本牧師のショートメッセージは、下記のアドレスをクリックし、新しく開かれたページで▶のマークをクリックすれば聴くことができます。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2bc65a?fbclid=IwAR0u12yQMTGBqVxFJwCK9YfJHUbYabZUiSL-Xf8iA6oGkONwBJZnwSw8tBA

このメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものですが、岩本牧師の御許可をいただいて転載したものです。

2023年11月1日水曜日

絶望と希望

  先日、同じ教団で牧師をしている大先輩が天に召され、その葬儀にいって来ました。キリスト教の葬儀に出たことがあると言う方は、私たちの国ではそう多くはないかもしれません。
 キリスト教の葬儀のスタイルはいろいろとあり、それこそカトリック教会やギリシャ正教会やプロテスタントの諸教会がそれぞれの教会ごとに異なったスタイルを持っています。しかし、スタイルは違っていても共通するものがあります。それは希望です。キリスト教会の葬儀であっても葬儀は葬儀ですから、亡くなった方を思い悲しみがあり涙があります。しかしその悲しみと涙の先に、やがて死から蘇るという復活の希望がその中心に流れています。そして、その希望は、イエス・キリスト様の十字架の死とよみがえりという歴事上、ただ一回だけ起こった出来事に裏付けられているのです。
 イエス・キリスト様が十字架の上で死なれたということを信じることはできるが、復活したということはとても信じられないと言われる方が少なからずおられます。そのお気持ちは痛いほどわかります。死んで甦った人などだれ一人おらず、私たち人間の知性においては考えられない出来事だからです。そういった意味では、イエス・キリスト様が死から蘇られたというのは聖書の中に記された奇跡のなかで最大の奇跡だと言えるでしょう。しかし、キリスト教会は、この信じられないような奇跡を信じ、そこに希望を置いているのです。
 死と復活という物語は、私たちにとって葬儀において語られる望みだけではありません。それは私たちの人生の様々な場面で起こる神の物語でもあります。それは挫折とその挫折から再び立ち上がる再起の物語です。絶望と希望の物語と言ってもいいのかもしれません。
 私たちは、もう立ち上がることができないと思われる状況に陥り悲嘆にくれることがあります。しかし、神は私たちをそのような悲嘆の中にいつまでもとどめて置かれません。悲嘆の中にいる私たちを慰め、力を与え、その悲嘆の中から立ち上がらせてくださるのです。
 パウロと言う人物は、キリスト教会の草創期に活躍した人物です。そのパウロがコリントと言う教会にあてた手紙が新約聖書の中に残されています。このコリントの教会の信徒への手紙一のなかで、パウロはこう言います。

新約聖書 コリント人への手紙 第一 10章 13節
「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」

 死と言う人生最大の試練に対して、復活と言う希望の道を指し示してくださった神は、私たちの人生の中に起こる様々な試練をも乗り越える力と希望を与えてくださるとパウロは言うのです。
 その希望を、私の友人、岩本遠億牧師は「私たちの望み」という3分半弱の短いショートメッセージで、自分自身の経験を比喩的事例にしてわかりやすく語ります。下記のアドレスをクリックし、新しく開かれた『366日、元気の出る聖書の言葉』というページで「私たちの望み」と言うタイトルにところにある▶のマークをクリックすることで聴くことができます。この『366日、元気の出る聖書の言葉』は本として出版されたものであり、書店でも買えます。その本に書かれたことを、岩本牧師自身が、自分の声で音声化してお伝えしたものが、下記のアドレスです。それを岩もの牧師の御許可をいただき、ここに掲載しています。


https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2bakm3?fbclid=IwAR2HzVCoq1UfipMlR2682ybe4wyHMQ8TOCxlo4B_PQf5DE0isuCwR5gaPN4

2023年10月31日火曜日

多様性の時代に語る金子みすずの詩

 私たちの周りには、様々な人がいます。見た目も様々ですし、個性も様々、そして考え方も様々です。このような違いを全部丸っとくるんで多様性と言います。一人一人が違うのです。
私には愛媛県と山口県という二つの故郷がありますが、その山口県には金子みすずという詩人がいます。その金子美鈴の作品の一つに『私と小鳥と鈴と』というものがあります。こんな詩です。

私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、
地面(じべた)を速くは走れない。

私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように、
たくさんな唄は知らないよ。

鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。

金子みすずは多少末期から昭和初期の人ですが、まさに現代に住む私たちに問いかけてくるような言葉です。
 違いがあるということは、比較ができるということです。そしてその違いが評価を伴うようになると差別や区別や偏見を産み出します。しかし、そのような差別や区別、偏見は本来あってはならないものなのです。
 神様は、すべての人を大切な存在だと言われます。そしてその人にしかできない役割を与えてくださるのです。ですから、神様の前に不必要な人間や役に立たない人などいないのです。誰もが神様の前で大切にされ、生かされ、尊ばれる。そんな世界が来ることを神様は願っておられます。そしてそのような人間社会を造るのは「わたしたち」ひとり一人なのです。なぜなら、この人間社会は私たちが作り出しているからです。
 その神様が願う人間社会を作り上げる大切な存在として、神様はあなたを招いておられうのです。
 そのことを、私の友人の岩本遠億牧師は「すべての人を生かすキリスト」という3分程度の短いメッセージで語ります。下記のアドレスをクリックし、新しく開かれたページにある▶のマークをクリックして、お聴きください。(このメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものですが、岩本牧師の御許可をいただいて転載したものです)

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2b8cqr?fbclid=IwAR3RHE_-LouWcdQ5rkQ1F6xUBDOLiXH6ebvtoz5mvSagYe8cF5ZoNAJBSHw

宗教改革記念礼拝説教・救われるための努力

2023年10月第五主日宗教改革記念聖餐礼拝「救われるための努力」     

旧約書:創世記17章1節から2節
福音書:マルコによる福音書12章28節から34節
使徒書:ピリピ人への手紙4章8節から14節

 

 10月31日というと巷ではハロウィンですが、一般的には11月の第一主日に、多くの教会、特にルター派の教会では宗教改革記念礼拝を行っています。そのように宗教改革記念礼拝を行うのは、言うまでもありませんが、私たちの教会がプロテスタントに属するからです。
 宗教改革は、1517年の10月31日付けで、宗教改革の祖でありマルティン・ルターが95ヶ条の提言というものを公に現したことをきっかけとして始まっりました。だからそのことを記念して、11月の第一主日に宗教改革記念礼拝を行うのです

 この95ヶ条の提題というのは、正式には「贖宥(しょくゆう)の効力を明らかにするための討論」と言います。この贖宥というものは、カトリック教会の罪の赦しの秘跡に関わるものです。罪の赦し秘跡というのは、昔風の表現で言えば懺悔(ざんげ)の秘跡と言った言い方になります

 カトリック教会における罪の理解は、大きく分けて原罪と自罪の二つに分かれます。原罪は、アダムとエヴァが犯した罪が先祖伝来の罪として私たちの内に宿っているというものです。それゆえに、本来私たちが持っているはずの神の前に正しいことを行う義なる性質、これを原義と呼ぶのですが、その原義が損なわれてしまっているというのです。
 ですから、カトリック教会が考える原罪はすべての人が生まれながら共通して持っている罪です。それに対して、自罪とは、ひとり一人の人間か、個々に犯してしまった罪です。その自罪が大罪と小罪とに分けられる。その大罪とは、モーセの十戒に記されている事柄や、七つの大罪といわれる事柄、すなわち傲慢・強欲・嫉妬・憤怒・色欲・暴食・怠惰といったものを、これをすれば大罪になるとわかったうえで、それを意図的に行った場合に、大罪となります。

 これら大罪は新約聖書でいう「死に至る罪」として、罪の赦しの秘跡で、神父さんにその大罪を告白し罪を犯したことを悔いていることを伝えて、神父さんから「あなたの罪は許された」という罪の赦しの宣言を受け、その罪を償うために、断食をしたり、決められた祈りの言葉を何回も唱えると言った償いのための行為をするのです。これが赦しの秘跡というものです。
 それに対して、小罪とは、意識しないで犯した罪や、非常に些細な道徳的な過ちのことであって、これらは「死に至らない罪」として赦しの秘跡の対象にはなりません。

 そこで先ほどの贖宥(しょくゆう)ですが、贖宥(しょくゆう)とは、先ほど申し上げた罪の赦しの秘跡の中の償(つぐな)いのため行為です。カトリック教会では、大罪の中にも重い軽いがあり、それぞれの大罪に対して償わなければならない内容が決められています。これをカズストリーというのですが、ルターは、このような償罪(しょうざい)の行為は、罪の赦しにおいて必要はないのではないかと言ったのです。それが、あのルターの95ヶ条の提題と呼ばれるものなのです。
 人は、罪の赦しのために償いなど必要ない。イエス・キリスト様の十字架の死によって、もはや罪の償いは完全に成し遂げられている。だとすれば、その恵みを受け取るだけで十分なのではないか。ルターはそう言ったのです。それを、プロテスタントの教会は信仰義認と言います。

 私たちは、私たちの犯した罪や過ちに対して、何の償いを求められることなく、ただ恵みによって、その罪が赦されるというルターの主張そのこと自体は、真にもってそうだと思います。少なくとも、聖書においては、イエス・キリスト様の十字架の業は、私たちにとって完全な救いの業です。その意味で、すべてが終わったのです。

 ところが聖書は、救いについて実に奇妙な言い方をします。それは、特にパウロという人の書簡の中に見ることができます。パウロという人は、救いというのを、「救われた」という過去形で語りつつ「救われている」という現在形でも語り、そして「やがて救われるであろう」という未来形でも語っているのです。
 先ほどお読みしたピリピ人への手紙4章8節から14節などは、まさにその「やがて救われるであろう」ということ、未来形の救いが言われている箇所であると言えるでしょう。この箇所において、手紙の著者であるパウロは、

13:兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、14:目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。

と言っています。このパウロが「後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ」得ようとしている「キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与」とは、文脈から読み取りと復活の出来事です。パウロは、救いの完成である完全な救いは、死から蘇る復活の出来事なのです。

 みなさん、パウロが、このピリピ人への手紙を書いていた時、彼は自分の死期が近いことを感じていました。その自分の死を意識する中で、救いの完成としての復活の出来事に希望を抱いていたのです。そして、「なんとかして死人のうちからの復活に達した」と願い、それを追い求めているというのです。しかしパウロは、同時に「そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである」というのです。
 このキリスト・イエスによって捕らえられているということは、パウロはもう既に救われているということです。にもかかわらず、彼は、救いの完成を目指して、それを追い求めているというのです。つまり、彼は救いの完成である復活の出来事を求めて、今、努力し頑張っているというのです。

 みなさん、イエス・キリスト様を信じる時、私たちに復活の出来事は約束されている確実な未来です。そうです。イエス・キリスト様の約束を信じていれば、私たちは確実に復活の恵みに与ることができる。ありがたいですね。にもかかわらず、パウロは救いの完成を目指して頑張っている。これは一体どういうことか。パウロは言います。

 それは、わたしがキリストを得るためであり、9:律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。

 「キリストの内に自分を見いだすようになる」、それはイエス・キリスト様のご人格の中に実を結んだ、錬られた品性であり、十字架の死に至るまで従順に歩まれたイエス・キリスト様の神を信じる信仰です。その品性と信仰を、今、生きているこのときの身に着けたいと願い、今を、精いっぱい努力して信仰を生きているのです。

 みなさん、信仰とは信じるものです。しかし、信じることは、信じたということで終わるものではありません。今、私たちがイエス・キリスト様に倣い、イエス・キリスト様のように、神を愛し、隣人を自分自身のように愛するものとなるために生きて行くことが信仰なのです。キリスト教における救いとは、イエス・キリスト様を信じる者となったからこそ、イエス・キリスト様のように生きることなのです。それこそが、旧約聖書に記された律法の精神を生き、律法が完成することなのです。
 もちろん、私たちは完全にイエス・キリスト様のようになることはできません。しかしだからと言ってあきらめるのではなく、少しでも、神を愛し、隣人を自分自身のように愛するものとなるように今を生き、やがて私たちが死から蘇り、復活するときに完成することを待ち望むのです。

 ルターが言うように、私たちが神を信じ救われるということは、ただ神の一方的な恵みによるものです。この神の恵みなしに私たちはかみを信じることはできません。そしてその神の恵みによって、私たちは主イエス・キリスト様に捕らえられ、このお方を知る絶大な知識を得ました。だからこそ、今、信仰を生き、イエス・キリスト様に似たものとなるという目標を目指し努めるのです。

 先ほどお読みしました。「汝わが前に歩み全かれ」と言う旧約聖書創世記17章2節の言葉は、旧約聖書の時代にイスラエルの民だけに語られた言葉ではありません。今日にあっても、神を信じる神の民に対して語られている神の言葉であり、私たちにも語られているのです。

 みなさん、聖書は一貫して、人は神の造られたものとして、神の前で生きることを求められています。そしてそれは神を愛し、隣人を自分自身のように愛するもののとして生きるということなのです。
 もちろん、そうはいっても現実に私たちが生きている場は、具体的な文化や社会環境、そして歴史においれ、世界中の様々な地域で違っています。さらには聖書の書かれた時代と今の時代という時間的差異もあります。ですから、聖書を読んでいても、聖書が語っていることがピンとこないことも少なくありません。だからこそ、私たちの意識をイエス・キリスト様に集中することが大事です。そして、イエス・キリスト様ならばどうするかに思いを馳せて、その思い浮かべたイエス・キリスト様に倣って生きればよいのです。
 そのようにして、私たちがキリストに倣いつつ生きて行くことが、神の救いの中で、救いの完成に向かって、今を生きて行く生き方を歩んでいくことなのです。

 宗教改革は救いにおける神様の恵みということを強調しました。それは決して間違っていません。正しいことであったと私も思います。しかし、それが「恵みのみ」という言葉で、人間の努力が切り捨てられていった点は反省しなければならないと思います。
 神の救いの業は、単に私たちの罪を赦すという赦しの業を集約して語られるのではないのです。もちろん、確かに救いには罪の赦しという側面もある。しかし同時に神の救いの業は、神様が人間を創造した目的にかなって、人が人として人間形成なされていくことであるのです。そこにおいては、神様がなされる神の業と同時に、私たちもまた神の業に参与し、神と共に働くのです。

 この私たちが神と共に働くものとされたということに感謝したいと思います。だって凄いことですよ。神様と私が、神様とあなたが、一緒の働くことができるのです。神の恵みというならば、それ以上の恵みはない。そのことを心に思いながら、しばらく心を静め、声も音もたてず、私たちを神と共に働く者としてくださった神を想い、神と共に働く者の模範としてこの世界に来てくださったイエス・キリスト様のことを思い廻らしたいと思います。静まりの時を持ちます。

 

2023年10月30日月曜日

糖質ダイエット?

 糖質ダイエットというダイエットの方法がありと聞きました。
 私は三つの持病を持っていますがその中の一つが糖尿病です。この病気は厄介な病気で、生活の中で厳しい糖類の制限が求められます。当然、それにともなって食事制限と食事の管理をしなければなりません。私は、この糖類の制限をきちっと守りながら生活をしています。具体的には一食の糖類の摂取量を目安ですが40グラム以下に抑えるようにしています。そのような生活を続けていると、一年ぐらいで15kgほど体重が落ちました。そんなわめで、「なるほどこれが糖質ダイエットというものか」などと思っていましたが、それでも、そのような生活をしていく中で、非常に「甘いもの」が欲しくなることがあります。体が「甘いもの」を欲しているのです。
  糖尿病に限らず、「甘いもの」というのは、あまり体によくないと言うイメージがあります。しかし、体が欲しているということは、それが体にとって必要とされているからです。何らかの理由で、今は「甘いもの」必要だと言う状況が体の中に起こっているのです。
 そんな「甘いもの」が欲しくなったときでも、私は頑張って甘いものを食べるのを我慢していました。するとなんだが、気持ちがイライラしてくるのです。そんな私の様子を見て、妻が、糖質オフもしくは糖質カットの甘いお菓子を買ってくるようになりました。それを食べると、すこし気持ちが落ち着くのです。「甘いもの」は体が欲していただけでなく、心が欲していたのです。
 ストイックに生きるということは、一見、カッコいいように見えます。しかし、ストイックに生きているなかで、ほっと息を抜く、自分を甘えさせる時が必要なのかもしれません。ストイックに生きようと思っていなくても、今の社会は生きているだけで過度なストレスがかかるような社会です。私たちは、絶えず結果を求められ、成果を期待され、そして何かをするというDoingを基本とする生活を強いられているのではないでしょうか。そう、何もしなくてもイライラが募るような社会の中で私たちは生きているのです。
 そんな中で、私たちには、ほっと息を抜き、自分を甘えさせる一時が必要なのかもしれません。それはDoingを求められる世界の中で、何もしなくても良い、あなた方が私のそばにいるだけで良いという私たちのBeingを大切にしてくださるお方のそばに身を置くときです。結果の如何に関わらず、あなたが私のそばにいてくれるだけでいい。そんな眼差しを神様は私たちに注いでくださっています。だからこそ、私たちの心に神様は安らぎを与える絶対的に必要な「甘いもの」なにのです。
 それに通じる話を、私の友人の岩本遠億牧師が、「甘いパン菓子」という岩本牧師がパプアニューギニアに行かれた時に経験を語るショートメッセージの中で語っています。そのメッセージを岩本牧師の許可を得て掲載します。下記のアドレスをクリックし、新しいページを開き、そこにある▶マークをクリックしてください。そうすれば岩本牧師のショートメッセージ(5分程度)を聴くことができます。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2b7fd2?fbclid=IwAR2xWe8v7nTX0HkOFj_eKbdHZ24fJgYCvNBPtJCeQ60YPrYGTprFhwSqygU

2023年10月29日日曜日

舌は火である

  口は災いのもとという言葉がありますが、言葉を発するということは難しいことです。
 元々悪意をもって人を卑しめ、陥れるような言葉は言語道断ですが、正義の思いを持って発した言葉でも、相手も傷つけてしまうことがありますし、悪意がなくても、言葉は容易に人を傷つけてしまうことがあります。また、たとえ自分は正しい思いを持って話していると思い、相手の非を問いただすためであると思っていても、相手を傷つけていいわけではありません。そのようなことを考えると、言葉を発信するということは、本当に難しいことです。
 言葉は剣です。しかも諸刃の剣です。ですから、使い方によってはとても恐ろしい武器になるのです。
 私は牧師という仕事をしていますが、牧師という仕事は言葉を用いる仕事です。また、牧師が用いる言葉は、自分自身の言葉であると同時に、聖書という古代に書かれた神の言葉を扱います。聖書には、様々な差別的な言葉の用い方があったり、男尊女卑的な言葉が散見されます。それは古代の人たちの間では普通に使われ、あまり問題にされなかった言葉遣いです。もちろん、そのような言葉遣いやその言葉が指し示す思想は、今と言う現代において受け入れて良いものではありません。むしろ、現代という状況の中で、その言葉の奥にある神の意図を汲み取り解釈して用いなければなりません。にもかかわらず、そのようなことに心を配ることを忘れて、誤って聖書の言葉を使うことがあるのです。そんな時には心から反省し、自分自身の配慮のなさを悔いるのです。
 昔、古代ギリシャにおいてイソクラテスという人が修辞学という学問を開きました。修辞学は、人を説得し納得させるための弁論に技術として発達していきましたが、その発祥の意図は、良い言葉は良い思想をから出ているので、良い言葉を学ぶことで同時に良い思想を見に次ようというものでした。それで、良い話し方は何かが研究したのが修辞学という学問なのです。
 聖書には、舌は火のようなもので様々な害悪をもたらすと言います。そしてその舌を制することがとても難しいと言うのです。そのように害悪をもたらすような言葉を発することがある私たちだからこそ、神様に心を整えていただき、配慮のある言葉を発するものとなりたいと思います。
 そのことについて、私の友人の岩本遠億牧師は「ことばを清める」という2分半弱の短いメッセージを語ってくれています。そのメッセージは、下記のアドレスをクリックし、新しく開かれたページの▶マークをクリックすれば聴くことができます。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2b6efp?fbclid=IwAR1ZlG54x56QiC7ulY5yzrZEjF-dZuUxB6ULCjOCv0sH1m_krHzpLU-WCoA

そこで語られるメッセージは、それを岩本牧師御自身が音声として語ったものです。それを岩本牧師の御許可をいただいて、ここに啓示させていただいています。


 


2023年10月28日土曜日

私たちは成長できるのだ

  どんなに強い人間でも、何かしらの弱さを持っています。また完全主義の人や「完璧だ」と思われる人であっても、どこかに隙があり欠点をもっているものです。そして、自らの強さを誇る人ほど、その弱さを認めることができず、「完璧」を目指す完全主義名人ほど、自分の隙や欠点を赦せなかったりします。そのような、弱さや、隙や欠点を悪いことだと思い、それを隠そうとするのです。逆に、自分は弱い人間だと認めている人や自分は欠点だらけだと思っている人は、その弱さをあきらめ、欠点を克服する努力を放棄してしまう傾向が見られます。
 このような二つのタイプに日とは、まったく相反するタイプですが、自分の弱さや欠点というものを嫌っています。それを喜んで受け入れることができないのです。だから隠したり、あきらめたりするのですそして、多くの人はこの二つのタイプの人の間にある人々であり、自分の弱さや欠点というものに折り合いをつけながら生きています。しかし、それでもなお、自分の弱さや欠点を決して好ましいと考えてはいないだろうと思うのです。
 このように、「わたし」という存在は、欠点や弱さを抱えて生きています。どんなに嫌で好ましいとは思えなくても、その欠点や弱さを含んで「わたし」は「わたし」なのです。にもかかわらず、「わたし」たちが、自分の弱さや欠点を嫌い、好ましいと思えないと言う現実は、「わたし」たちは、どこかで完全に自分自身を受容できず、完全に自分自身を愛するということができないでいるのです。もし、自分自身を完全に受容でき、完全に愛することができていたとしたら、自分の弱さや欠点をも愛することができるからです。
 ところが、神様は、そのような弱さや欠点を抱えたままで「わたし」たちを受け入れ、愛してくださるのです。「わたし」たちが弱さや欠点の中にあってなお、「わたし」たちのすべてをくるっとまとめて、「わたし」たちを価値あるかけがえのない存在だと認めてくださるのです。「あなた」は、私にとって完全な存在で愛すべき存在だと言ってくださるのです。それだけではありません。この「あなた」を愛し、あなたを立っというと言ってくださる神を信じ、心に受け入れるとき、神様は「わたし」たちの内側に、ご自身の霊である聖霊なる神を与えてくださいます。その聖霊なる神が、「わたし」たちに力を与え、少しずつ、その弱さや欠点を乗り越えていくことができるようにと育み成長させてくださるのです。
 私の友人の岩本遠億牧師が「私の弱さの中に」という3分程度の短いメッセージの中で、そのことを端的に語っています。その岩本牧師のメッセージは下記のアドレスをクリックしてくださり、「366日元気の出る聖書の言葉」のページに行き、▶マークをクリックしてくだされば聴きことができます。この「366日元気の出る聖書の言葉」というのは、岩本牧師のご著書のタイトルであり、そこで語られるメッセージは、それを岩本牧師御自身が音声として語ったものです。それを岩本牧師の御許可をいただいて、ここに啓示させていただいています。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2b5co8?fbclid=IwAR1dm7ZYhginG8e2vDWrI-7FUYTWueIi4zdh6ZERrBUteLtfz3auhngdGzU&%24web_only=true&_branch_match_id=943951679210878550&utm_source=web&utm_campaign=web-share&utm_medium=sharing&_branch_referrer=H4sIAAAAAAAAAwXB3QqDIBgA0Ccq2Q9rBGNs1ELYTTGJutPUlJV92Ocin37nGERYc0JWWNDqnbvBLD7ZlEg5QDpZ9yWK7DWwmQbQpbhrMUxW3uj2aA5yzvrOjNZVV3X8Fa2nSfZi3acNitpzlObSl41%2FMlRv1PHEg3GjrCL7A4wd9691AAAA

2023年10月27日金曜日

知性の限界

  昔、ドイツのカントという哲学者が『純粋理性批判』という本で、人間には人間の知性で知ることのできることと、人間の知性では知ることのできないものとの二つがあるということを明らかにしました。
 カントは、知りうることのできるものを後験的なものといい、知ることのできないものを先験的なものと呼びました。後験的なものは、生まれた後から経験することで理解し、認識することができるものです。しかし、先験的なものは生まれたときから人間の心に刻み込まれている概念で、人間の知性の限界を超えた先にあるものです。例えば善とか美とか真や愛といったものです。そして神もそれに相当します。神は人間の知性で知ることはできないお方なのです。
 同様に善や美や真や愛といったものは、それ自体が何かはわかりません。確かになんとなく感覚としてはわかります。というのも、善いもの、美しいもの、真実なもの、より愛おしいもの、あるいはより愛されることといったように、なにかを通してそれが存在することは感覚的(直観的)にその存在を捕らえることができるからです。しかし、善それ自体は、美それ自体、真実それ自体、相それ自体が何であるかとなると、私たちは説明することはできません、それが何であるかを知ることはできないのです。ただ、この世界にあるものや現象を通して、善や美や真といったものを感じ取るだけなのです。
 同時に、私たちはこの世界のあらゆる物事の中に、善や美や真といったものを求めます。より善いもの、より美しいもの、より真実なものが存在し、それがこの世界の中に現れ出ることを、そしてそれが「わたし」の人生の中に訪れることを求めるのです。
 実は、この善や美や真というものは、神様の御性質に属するものなのです。それで、そのような神様の御性質のことを神の属性と言います。その神の属性を私たちが「わたし」の人生に訪れることをもとめるのは、私たち人間は、生まれたときから神を求めて生きる者とし生れてきているからです。私たちは、私たちの人生に神が関わってくださることを願い求めて生きる存在なのです。しかしそれが何であるかは、私たちの思考の及ばないことなのです。そのことを、私の友人の岩本遠億牧師も、「思考の及ばないところ」という3分弱の短いメッセージで語っています。岩本牧師のメッセージは下記のアドレスをクリックしてくださり、新しく開かれた「366日の元気の出る聖書の言葉」のホームページに行き、▶のマークを再度クリックしてくだされば聴くことができます。このメッセージは、岩本牧師の著書『366日の元気の出る聖書の言葉』にあることを岩本牧師自身が音声として伝えたものですが、岩本牧師にご承認いただいてここにリンクしています。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2b385a?fbclid=IwAR2H2bzk2kKbWAXxgO7k83Ge_j1-MI5zPuZwjYTqm-d901zUxnSmbrp2r1Y

2023年10月26日木曜日

神様はあなたの伴侶となり、あなたと共に歩まれる。

 私が最も大切にしている書物は言うまでもありませんが、それです。聖書は神の言葉として、私の人生を導き、聖書を通して、神様が私を慰め、励まし、時には叱責を与えます。それは、まぎれもなく、神が私と共に歩いてくださっているという証左です。
 アブラハム・ヘシェルという人は『人は独りではない』という本を書いておられますが、それは、神様が決して私たちを見捨てず、見放しておられないということを教えています。そして確かに、神様は私たちの人生の伴侶となり、私たちに伴ってくださっているのです。
 その私の人生は、良い時もあり悪い時もあります。そのような時の善し悪しに関わらず、神は私たちと共にいて下さるのです。そのように、神が私たちと共にいてくださるのは、私たちが神にとって役立つ働きとなりからではありません。また私たちが神に有益な存在だからでもありません。むしろ、全能である神にとって、私たちは無益存在であり、神のために役立と存在ではないのです。
 もし、様様がなされようとするならば、全能の神お一人がことを進めた方がすべてよく、早く事が進みます。むしろ私たちと足並みをそろえ、私たちと共に歩いてくださることで、物事は神の完全さに対しては不十分なものとなり、その足取りも遅くなります。それでもなお、神様4は私たちの伴侶となり、私たちと共に歩いてくださるのです。それは、神様が私たちを愛しておられるからです。
 神様は、私たちを愛しておられるがゆえに、私たちを、「あなた」を決して見擦れることはなく、また見放すこともせず、私たち決して独りにはせず、私たちの人生と共に歩んでくださるのです。そして、あえて私たちを神の働きのために用いてくださるのです。
 そのことを、私の友人である岩本遠億牧師は、「神様は捨てない」という3分程度のショートメッセージ聖書に出てくる葦とほの暗い灯芯の譬えを用いながら、実に適切に表現し語っています。そのメッセージが神のアドレスで聴くことができます。下記のアドレスをクリックし、新しく開かれたページにある▶マークをクリックしてお聴きください。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2b2ckn?fbclid=IwAR2xABr9s0389RXKFJfQhoXFY3xHtyLLHJK0cVOkugBEv6AY-_Q-6p5omKM&%24web_only=true&_branch_match_id=943951679210878550&utm_source=web&utm_campaign=web-share&utm_medium=sharing&_branch_referrer=H4sIAAAAAAAAAwXB0QqDIAAAwC8yZVHUYAyDoqVj1MOwp5GWKbWUtFV%2FvzvlvXVXCJ01XsuzW4QyK9gHHnTWBrNeJjhAOjKUJVvEc36XXMy6vz123FwOnK2pQ2GSNowUlayVYUUbHqU%2FKS0rgsT7NW1jlv9i3IJPDWIbmS95%2FgHITLf7dQAAAA%3D%3D

この岩本牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものですが、岩本牧師の御許可をいただいて転載したものです

2023年10月25日水曜日

悔いのない人生

 この夏、妻の父が突然天に召されました。
日曜日の朝、主日礼拝を終えた直後、娘から電話があり、義父が亡くなったと知らされました。私も妻も牧師という仕事柄、親の死に目に会えないこともあるということは覚悟していましたが、本当に突然のことで、心の準備もできないまま義父の死を迎えることになりました。
 聞きますと、義父は亡くなる前に「もう少し長生きがしたかったが、私の人生に悔いはない」と言っていたそうです。義父はくりすちゃんでしたので、「私の人生に悔いはない」というその人生は神を信じて生きた人生です。私はその言葉を聞いた時、私は私の恩師であり、もっとも尊敬する牧師のひとりであるM牧師の最後の言葉を思い出しました。それは「神を信じて生きた私の人生は幸せだった」というものです。
 私の義父も恩師のM牧師の死も、突然訪れたものです。ですから、十分に準備して語られた言葉ではありません。しかも、義父の死は事故が直接的原因ではありませんでしたが、しかし事故が誘発した突然の死であり、M牧師の死は医療事故ではないかと思われるような突然のものでした。しかしそれでもなお、人生に「悔いはない」、「幸せだった」というのです。
 そこには、神を信じて生きた人生があります。その人生は、神を信じたから順風漫歩であったかというと、必ずしもそうとは言えません。むしろ、試練も多かったのです。しかしそれでもなお、神を信じ抜いていきた人生を、その死の間際であっても「悔いはない」「幸せだった」というのです。いえ、死の瞬間まで神を信じて生き貫いて生きてきたからこそ、「悔いはない」、「幸せだった」と言えるのでしょう。
 この言葉は、残されたものに、どれだけ慰めを与え、励ましを与えたことか。神を信じて生きた人の人生は、生きているときだけでなく、死んだ後もなお、人を慰め、励ますものなのです。
 そして、私もそのような人生を生きたいものだと思います。そしてきっと生きられるのだと思うのです。そう、私も「あなた」も神を信じる人生を生き貫くなら、必ずそのように「悔いはない」「幸せだった」と言える人生を生きることができるのです。
  今日も、私の友人の岩本遠億牧師のショートメッセージをお届けします。4分に満たない短いメッセージで、「死の備え」というタイトルのメッセージです。神のアドレスをクリックし、新しく開かれた「耳で聴く366日の元気の出る聖書の言葉」のページで、同名のタイトルの▶マークをクリックしてお聴きください。 なお岩本牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものですが、岩本牧師の御許可をいただいて転載したものです。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2b0snv?fbclid=IwAR0lKUm8w9jpg10LgXKkTDaRNWieN0weREZKzA-aHhvwrq1beP7lzW8n18s

2023年10月24日火曜日

光は闇に輝く


 人間の人生は、時を刻みながら変化していきます。それこそ、心と体とか気が付かないうちに成長していくのです。もちろん、その在り方は人それぞれですし、ひとり一人の存在の在り方は違っています。しかし、ひとり一人がその人の人生を歩いているのです。しかし、その歩みは必ずしも思うようにいかない時もあります。実際、私たちは正しい方向に向かって歩いているのかどうかもわからないのです。
 18世紀のヨーロッパに啓蒙主義という考え方が起こってきました。人間は知性を持つ存在であり、その知性をもって世界の様々を知り、理解できるというものです。そしてその延長戦上に、様々なことを知る理解することでより発展した良い社会をつくることができると言う一種の進化思想が私たちの中に刷り込まれてきました。
 実際、医療や科学の発展は、私たち人間に様々な良いものをもたらしましたが、しかし同時に、二つの大きな世界大戦は、私たち人間がどんなに知性的な存在であっても、正しく歩めない者であるということを明らかにしました。知性で考えれば戦争など良くないことだという個とは誰でもわかることだからです。また、科学の発展は産業社会に有益に用いられ多く用いられるようになりましたが、反面で自然破壊や環境問題などの地球規模の問題を引き起こしました。それを何とかしなければならないとわかっているのですが、経済の問題、つまりお金儲けが絡んでくると、そんな問題意識など吹っ飛んでしまうのです。
 これが、私たちの現実です。そしてそのような現実は世界が闇に覆われているからで、その闇の中で、私たちはどう生きたらよいかわからなくなってしまっているのです。
 暗闇の中を歩くために必要なものは光です。そして、この世の中を時々刻々過ぎてゆく時の流れの中で生きて行くために、足元を、そして未来を照らす光が必要です。神は、その光としてイエス・キリスト様というお方をこの世界に送ってくださいました。だから聖書は、イエス・キリスト様のことを「世の光」というのです。
 この「世の光」に照らされるとき、私たちは私たちの人生を生きる力を与えられ、歩む道を見いだします。その歩むべき道とはイエス・キリスト様に倣って生きるということです。このイエス・キリスト様に倣って生きるという道を歩むとき、私たちは必ず、神の愛と恵みへとたどり着くことができるのです。
 そのことを、私の友人である岩本遠億牧師が「ソーラー時計」という3分程度の短いメッセージで伝えてくれています。そのメッセージは下記のアドレスで聴くことができます。アドレスをクリックし、あたらしく開かれたページにある▶マークをクリックしてください。そうすれば、聴くことができます。


https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2aulh9?fbclid=IwAR15gEv18YN2OLgcF6XNU3bEOyxkh8lR-1ZjNUicO3WBaHJcMKuIdsHyrOA

この岩本牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものですが、岩本牧師の御許可をいただいて転載したものです。



2023年10月23日月曜日

内側にある力ではなく、外側にある力で

 
努力は必ず報われる。私たちはこのことを信じて頑張ります。確かに人間には才能と呼ばれるものがあるかもしれません。しかし、努力と頑張りがあるならば、その才能ある人に追いつくことも、場合によってはその差を乗り越えることができることもあるのです。
 その反面、私たちがどんなに努力してもどうしようもないこともあります。そのような厚い壁のぶつかった時、私たちは茫然と立ち尽くすしかありません。そして絶望するのです。
 しかし、絶望を乗り越える力があります。それは私たちの内側にある力ではありません。私たちの外側にある力が、私たちにはどうしようもないような壁の前に立ち尽くす私たちに新しい道を切り開いてくれるのです。
 才能や努力は私たちの内側にある力です。では私たちの外側にある力とは何でしょうか。それは神の力です。その神の力が私たちの前に新しい道を切り開く、その道へと導いてくれるのです。だから、目の前の壁にガッカリし、茫然と立ち尽くす必要はないのです。
 むしろ、ハーと息を噴出して、心と体とをリラックスさせ、神の力が私たちを新しい道へ導いてくれるまでゆっくり止まっていればよいのです。
それは、死という人間にとって最も絶望的な事態においてもそうです。たとえ死という私たち人間が決して乗り越えることのない現実の前に立たされたとしても、その死を乗り越える希望へと神は私たちを導いてくれるのです。
 この神の力について、私の友人岩本遠億牧師が「眠っている間に」という三分ほどの短いメッセージで語ります。そのメッセージは、下記のアドレスをクリックし、新しく開かれたページで▶マークを再度クリックすることで聴くことができます。
 なお岩本牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものですが、岩本牧師の御許可をいただいて転載したものです。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2atqjb?fbclid=IwAR0H70oG-hpjknfI4hR9ZeJ3qqz6s-WCUfmYIm2P9fLvQjFSQJx_jK3U8sk

2023年10月22日日曜日

神の愛は変わらない。

 
 私たちにとって本当につらいことの一つに裏切りがあります。信頼していた人、尊敬していた人、愛する人からから裏切られる。それは本当につらい出来事だと言えます。そのような出来事を経験すると人間不信になってまったとしても仕方がないことだと言えるでしょう。
 イエス・キリスト様はそのような裏切りを、その人生の中で、しかも立て続けに2度も経験します。一つはイスカリオテのユダがイエス・キリスト様を殺そうとしている人々に銀貨30枚と引き換えに、イエス・キリスト様の所在を教え捕らえさせると言う出来事であり、もう一つは、イエス・キリスト様の腹心ともいえるペテロが、捕らえられ裁判にかけられているときに、3度にわたってお前のイエス・キリスト様の弟子だろうととわれて、3度とも、そんな人は知らない、その人は私と何の関係もないと言った出来事です。
 どちらも、イエス・キリスト様の12弟子であり、約3年間、一緒に教えを広めるための旅をし、寝食を共にした人たちです。その二人から裏切られ、その裏切りの中でイエス・キリスト様は死んでいくのです。
 しかし、このお方は、一度もこの二人に対して恨み言を言いませんでした。逆に、この二人を変わらずに弟子として愛し続けたのです。二人はイエス・キリスト様を裏切りましたが、イエス・キリスト様はこの二人を決して裏切らず、変わらずに愛し続けたのです。ですから、イエス・キリスト様など知らない。その人は私と何の関係もないと言ったペテロは、その後、弟子として復帰し、最後は殉教するにまで至ったのです。それは、なにがあっても変わらないイエス・キリスト様の愛に触れたからです。
 この変わらないイエス・キリスト様の愛は、神のひとり子としての愛です。それゆえにその愛は神の愛です。神の愛は決して私たちを裏切ることなく、私たちと共にあるのです。その神の愛が「あなた」にも注がれているのです。
 いつもの通り、私の友人の岩本遠億牧師の3分程度のショート・メッセージを紹介します。そのショート・メッセージのタイトルは「大丈夫だ、さあ、行こう」です。それは、いつも変わらないイエス・キリスト様の愛、神の愛があなたと共にあるから、大丈夫、この世界の中で生きて行こうと言う励ましがあります。是非お聞きください。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2asm2a?fbclid=IwAR1hwloaJZdG2bIQEY0x8AybqhNSfeVJlPdTbXpPwXigWKmqC_rQTAsjOJ0

この岩本牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものですが、岩本牧師の御許可をいただいて転載したものです。

ナザレのイエスは神の御子である

 23年10月第四主日礼拝説教「ナザレのイエスは神の御子である。」

旧約書:イザヤ書61章1節から3節
福音書:ヨハネによる福音書10節22節から31節
使徒書:ピリピ人への手紙2章6節から8節

 今日の礼拝説教での中心となる箇所は、聖書箇所は先ほどお読みしましたヨハネによる福音書10章の22節から31節です。本当なら、イエス・キリスト様が、父なる神様と決して切り離すことができない一つの存在であり、永遠の命を与えるお方、つまり神の御子であるということ宣言なされたことが述べられている箇所です。

その冒頭の22節で「そのころ、エルサレムで宮きよめの祭が行われた。時は冬であった」とあります。「そのころ」というのは、おそらくイエス・キリスト様が、9章において生まれつき目の見えなかった人をお癒しになった出来事があった「そのころ」ということであろうと思われます。
 この生まれつき目の見えなかった人をお癒しになったという癒しの物語は、その話の最後において、本当に神様の間に目の見えない者は、イエス・キリスト様に見えなかった目を癒してもらった盲人ではなく、むしろ、聖書に忠実に生きていると自負し、イスラエルの民を教え、導いているパリサイ派の人たちであったという「落ち」がつき、そして、10章の1節から21節本当に、神の民を導く「良き羊飼い」は、イエス・キリスト様であるという結末に至る見事な話の展開になっています。そのような、9章から10章21節の物語が展開した「そのころ」に「宮きよめの祭り」があったというのです。みなさん。「宮きよめの祭り」というのは、イスラエルの人々ハヌカと呼ばれる祭り、別名では光の祭りと呼ばれるお祭りで、今日でも行われています。

 この宮清めの祭りの起源は、セレウコス朝・シリヤがイスラエルの民を治めていた紀元前2世紀までに遡ります。セレウコス朝・シリヤと言いますと何かアラブ民族の国のように思ってしますますが、そうではなく、マケドニアのアレキサンダー大王の末裔によって治められていたギリシャ人が支配する国家でした。そのセレウコス朝シリヤは、支配地域をギリシャ化し、ユダヤ教を迫害し、エルサレムの神殿にギリシャの神々の像を持ち込むなどしました。中でも、アンティコス・エピファネス(アンティコス4世)は、祭壇に、イスラエルの民が汚れた動物だと言って良き嫌っていた豚の血を注ぐという、まさにイスラエルの民の信仰を冒涜するようなことをしたのです。
 このことを機に、イスラエルの民の中の祭司の家系であるハスモン家のマカバイが反乱を起こし、3年間の戦いの後、マカバイが神殿を取り戻し、豚の血で汚された神殿を浄めて、再び神に捧げた。このことを祝う祭りがハヌカと呼ばれる宮清めの祭りなのです。そう言ったわけで聖書協会共同訳では、この「宮きよめの祭り」を「神殿奉献記念祭」としているのです。このマカバイの物語は、アポクリファと言われる旧約聖書外典の中にマカバイ書として納められています。

 この「宮清めの祭り」の「時は冬であった」とありますが、だいたいクリスマスの時期に八日間行わます。その八日間にハヌキヤーと呼ばれる特別な燭台に、私たちがクリスマスのアドベントに時期に、一週間ごとに蠟燭の火を一本ずつ増やしていくように一日に一本ずつ蝋燭の明かりを増やしていきます。しかも、このハヌキヤーというのは、特別な燭台です。ふつうはメノーラーという中央の種火となる蝋燭の両側に6本の枝をつけ、7本の蝋燭が建てられる燭台なのですが、ハヌキヤーはそのメノーラー種火の両側にある枝を一本ずつ増やした9本立ての燭台なのです。なぜ、このハヌカと呼ばれる宮清めの祭りの時に燭台の灯を増やすのかについては、色々調べてみましたが、よく分かりませんでした。祭りの日が八日間なので燭台の枝が八本なのかもしれませんが、なぜ8日間なのかがわからない。いずれにせよ、宮きよめには、普段と違う新しい灯の光が加えられるのです。

みなさん、私たちは先ほどイザヤ書の60章1節から3節までのみ言葉に耳を傾けました。そこには、次のように記されていました。

1:起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったから。2:見よ、暗きは地をおおい、やみはもろもろの民をおおう。しかし、あなたの上には主が朝日のごとくのぼられ、主の栄光があなたの上にあらわれる。3:もろもろの国は、あなたの光に来、もろもろの王は、のぼるあなたの輝きに来る。

 このイザヤ書は、イスラエルの民がバビロン帝国に支配される、奴隷として隷属されるという闇の時代の中にある中で、そこに神の救いの御業が現れるということを語る言葉です。バビロンの地に奴隷となり、暗い表情で希望もなく打ちひしがれている神の民に、神は、「起きよ。そして光りを放て」と言われる。それは、彼らを覆っている黒雲を打ち破って朝日のように主の光が輝き、あなた方を奴隷とする支配から解放する神の業が起こるのだ。だからあなた方は暗い顔を捨て、立ちあがって光を放て」と神は約束されるのです。
 まるで、そのことを思い出させるように、このハヌカの祭りに、新しい灯の光が加えられた。セレウコス朝シリヤのよって支配され、迫害された辛い時代に救いの業がなされ、新しい時代が始まったというかのようにして、新しい光がそこに現れ出るのです。

 みなさん、考えてみますとイスラエルという神の民の歴史は、他民族に支配され迫害されるということを繰り返してきた歴史です。そして、そのつど神の解放の業に与って来た。そのことをイスラエルの民は、過ぎ越しの祭りや宮きよめの祭りとして自分たちの記憶の中に刻んできたのです。
 そのような宮清めの祭りを背景に、「ユダヤ人、イエスを拒絶する」という物語が始まり、その冒頭でイエス・キリスト様が、父なる神様と決して切り離すことができない一つの存在であり、永遠の命を与えるお方であるということをお語りになるのです。

 この一連のスートーリは、「するとユダヤ人たちが、イエスを取り囲んで言った、「いつまでわたしたちを不安のままにしておくのか。あなたがキリストであるなら、そうとはっきり言っていただきたい」という言葉から始まります。口語訳聖書では、「いつまでわたしたちを不安のままにしておくのか」となっていますが、聖書協会共同訳は、「いつまで私たちに気をもませるのか」と訳しています。もともとのギリシャ語を見、直訳しますと、「いつまで、私たちの魂を上げるのか」あるいは「私たちの魂を高揚させるのか」となります。

ユダヤ人は、イエス・キリスト様の言動を見ると魂の高揚を感じるというのです。心が騒ぐのです。しかし、聖書の文脈を見ますと、この魂の高揚は、決して良い意味ではの高揚ではないのではないかと思うのです。なぜならば、このユダヤ人というのは、9章で言われているユダヤ人たちであり、イエス・キリスト様を快く思っていない人たちなのです。
 その人たちが「あなたがキリストであるなら、そうとはっきり言っていただきたい」という。口語訳聖書を訳した人たちは、イエス・キリスト様に尊敬の思いを持っておられるので、丁寧な言葉遣いをしていますが、実際は、もっと荒っぽい言い方だったろうと思います。その点、聖書協会共同訳は、その歴史的文脈のニュアンスを汲み取って「もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」と訳しています。

 メシアというのはヘブル語でギリシャ語のキリストということです。そしてその意味は、油注がれた者、油注がれた王という意味です。ですから、「あなたが王ならばはっきりそう言え」と言っているのです。これは、私の個人的な推測ですが、彼らはイエス・キリスト様が、「私は王だ」とはっきりといったならば、その言葉をもって、イエス・キリスト様をその当時イスラエルの国を支配していたローマ帝国に、「彼は自分自身を王だと言って、ローマ帝国に反逆しています」と訴え出るつもりだったのではないかと思うのです。そうすれば、イエス・キリスト様を抹殺できる。つまり、端からイエス・キリスト様を受け入れるつもりはないのです。そしてそれは、9章から一貫しているユダヤ人の姿勢だと言えます。
 だからこそ、イエス・キリスト様は、そのユダヤ人たちの心を見透かすかのようにして「わたしは話したのだが、あなたがたは信じようとしない。わたしの父の名によってしているすべてのわざが、わたしのことをあかししている」といい、ご自分を羊飼いに見立てて「あなた方は私の羊ではない」と言うのです。

 これは、このヨハネによる福音書を記した著者が、10章1節から21節までで、イエス・キリスト様がなさった「よい羊飼いのたとえ」を意識していたからだろうと思われます。そして、そこにある、パリサイ派のユダヤ人たちへのイエス・キリスト様の鋭い批判を見逃さなかった。そして、その上で、ご自分が、決して神と引き離すことができない一つに結ばれた存在であり、永遠の命与えるものである」というのです。
 その結果、「そこでユダヤ人たちは、イエスを打ち殺そうとして、また石を取りあげた」という事態になった。石を取り上げたということは、彼らは宗教的な理由でイエス・キリスト様に制裁を加えようとしたということです。もし、イエス・キリスト様が、私はキリスト(ヘブル語でメシア)であると宣言しますと、それは自分が王であると宣言することですから、先ほど申し上げましたように、時の支配者であるローマ帝国に訴え出て、政治的制裁を加えることができる。

 しかし、イエス・キリスト様は、そこのところはユダヤ人の思惑通りにはふるまってくれないのです。しかし、だからといってご自分の立場を明らかにしないわけではありません。「あなたたちは、わたしの父の名によってしているすべてのわざをみているだろう。それのわざが、わたしがだれであるかということことをあかししているではないか」といい「わたしは、彼らに永遠の命を与えるものだ。だから、彼らはいつまでも滅びることがなく、また、彼らをわたしの手から奪い去る者はない」といって、「私は父と一つである」と宣言なさる。

 この言葉を聞いて、ユダヤ人、主にはパリサイ派の人々だと思いますが、その人々は、イエス・キリスト様に対して、もはや政治的制裁ではなく、宗教的制裁を加えようとする。それが石を取り上げ、石を投げつけ処刑しようとする態度となって顕れるのです。みなさん、この当時のイスラエルの民には、人を処刑をする権限が与えられていませんでした。だからもし、それをすれば彼らが罰せられることになる。にもかかわらず彼らが石を取り上げたのは、もはや自制することのできないほどの憤りが彼らの心にあったからです。
 それは、イエス・キリスト様が、神を父と呼び、私は神と一つだといって、ご自分が神と切っても切り離すことができない神の子であると宣言なさったからです。そして、人々の永遠の命という神の命を与えるものであると宣言なさったのです。

 このお方を、キリスト教会は救い主であり、キリストすなわち油注がれた王として、2000年の教会の歴史の中で信じ受け入れ、そして告白してきた。そして、このお方の中に、罪と死が支配する「この世」という世界の中で、私たちを慰め、励まし、私たちに生きる力を与える希望の光を見てきたのです。そしてきょうもまた、そのお方が、私たちを慰め、励まし、希望を与えてくださっているのです。最後に、先ほどお読みしましたピリピ人への手紙2章6節から8節をお読みして、今日の説教を締めくくりたいと思います。

 6:キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、7:かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、8:おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。

静まりの時を持ちます。

2023年10月21日土曜日

神に見ていただく


私たちは、人には誰にも見せたくない自分の姿を持っています。それは「弱さ」であったり「汚さ」であったり「嫉妬深さ」や「意地悪さ」であったりします。もし仮に、そのような見せたくない姿を知られたならば、それまで築き上げた人間関係や信頼関係にひびが入り、非難されたり拒絶されてしまうかもしれません。ですから、自分自身のすべてを人前にさらけ出して見せるということなどは、とてもできないのです。そこには、自分を見る周囲の良く満たれたい意識されています。基本的に、私たちは人から良く見られたいと思う存在なのです(もちろん、ごくまれに自分を悪く見せようとする人もいないわけでありませんが…)。いずれにせよ私たちは、周囲の目を気にして生きているのです。そしてその傾向は、私たち日本人には、さらに強くあるのかもしれません。

 このような傾向は、言葉を換えて言えば、周囲の目が私たちの思いや行動を支配しているということができます。周囲の目、それは世間とも言えるものですが、この世間を恐れ、世間に受け入れられるために、私たちはありのまま間の姿をさらけ出すことができないのです。そしてそれは、自分が自分自身を受け入れることができないでいるということでもあります。
 そのような「私たち」に対して、聖書は神様は「私たち」の隠れたところを見ておられると言います。つまり、神様は私たちのすべて、ありのままの姿を知っておられるというのです。だとすれば、その神様の前に、「良い格好し」をしても何もなりません。むしろ、自分の「弱さ」や「汚さ」や「嫉妬深さ」等々の否定的な一面も全部さらけ出して見ていただくことが大切です。そして、こんな私を受け入れてくださいと訴えることが大切なのです。もちろん神様は、神様の前に自分自身のすべてを見ていただくためにさらけ出す私たちを受け入れてくれます。その時に、私たちを縛り付け支配している世間の目というものから解放されるのです。

 もちろん、世間の目から解放されたと言っても、私たちは世間の中で生きています。世間の中で生きているからこそ、私たちは人間なのです。そして人間である以上、世間のルールや法律を守りながらいきていかなければなりませんし、そのようなルールや法律をないがしろにして良いわけはありません。そして、その世間の中で頑張って生きて行かなければならないのです。そのような中で、私たちはただ神の前に進み出て、神の前に立ち、私たちのすべてをさらけ出して見ていただくとき、私たちのすべてを受け止めてくださる神の愛によって慰められ、励まされ、再び世間の中で生きて行く力を得ることができるのです。

 この「神に見ていただく」ということを、私の友人の岩本遠億牧師が四分足らずの短いメッセージで語っています。岩本遠億牧師は、私がここで書いた内容とは少し違った視点で「神に見ていただく」ということを語っています。それは、自分の力ではどうしようもないような強力な悪の力、罪の力が支配する現実を神に見ていただき、神がなしてくださることに期待をし、信頼することの大切さを伝えています。その岩本牧師のショートメッセージは、下記のアドレスをクリックし、新しく開かれたページで▶マークをクリックしてくだされば聴きことができます。なお、この岩本牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものですが、岩本牧師の御許可をいただいて転載したものです。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2arlsq?fbclid=IwAR2w_GKquYL4j46CV9zy-ZDVEwkqIHbZW6ns69_f1YGKjh4X2stQP_JNAio

2023年10月20日金曜日

自分の力で立ち上がれない者を

 
 私は、牧師になって間もない頃、「もう牧師なんてやめてしまおう」と思った時がありました。一生懸命教会に仕え、教会員の方のために働こうと思い、自分なりに精一杯頑張っていたのですが、一部の方に理解されず、むしろいろいろと批判される言葉を耳にしたからです。それで、心の糸がぷつんと切れてしまって、「もうやめてしまおう」と思ったのです。それで、妻に「やめようか?」と心のうちにあった思いを話しました。
 すると妻は「やめたら」というのです。その言葉で、私はもう一度、頑張ってみようと思いましました。妻や子供を抱えており、まがいなりにも従業員を五千人を抱える一部上場の大企業に勤めていた中、牧師になると言って会社を辞め、神学校に行き牧師になって、まだ日も浅いのに「やめようか」と言い出す私に、「やめたら」と言って、私の心中を察し寄り添ってくれる言葉に、私は「ここでやめるわけにはいかない」と思い、失意の中から立ち上がることができたのです。
 私は言葉によって打倒され、言葉によって立ち上がることができたのできました。言葉は人を殺しもし、生かしもするのです。
 しかし人間の人生には、もう立ち上がれないと思われるような経験をすることがあります。周りの人が励ましや慰めの言葉をかけてくれても、立ち上がれないと思うような時があります。そのような状態は、まさに絶望と思われるような状態です。そのような絶望の状態の中にある者にも神は、言葉をかけて立ち上がらせてくださいます。神の言葉には力があるのです。
 旧約聖書にエリヤという人物の話が書かれています。エリヤは神様のために働き、大きな成果をもたらしました。ところが、そのためにエリヤはイザベラという女王から命を狙われることになるのです。そのことに失望したエリヤは「もう自分の命を取って欲しい」と神に祈るほどに失望し、立ち上がれなくなってしまいます。そんなエリヤに神はささやくようなか細い小さな声で「お前はここで何をしているのか」と語りかけるのです。その声がエリヤを奮い立たせます。そして、エリヤは再び立ち上がるのです。
 私には、「お前はここでない荷をしているのか」という言葉で、なぜ奮い立ったのかはわかりません。何でもない言葉だからです。しかし、考えてみると、私の妻が私にかけた「やめたら」という言葉も、なんでもない一言です。なんでもない一言でも、相手を思う心が込められた一言には不思議な力があるのです。
 神が私たちに語りかける神の言葉には力があります。もはや人間の言葉の力では立ち上がれないような絶望の中にいる人であっても、神の言葉は、その人を立ち上がらせるほどの力があるのです。その神の言葉は、今日も「あなた」に語りかけています。ただその声はか細く小さいのです。だから、聴こうとして耳を傾けなければなりません。しかし、確実にその言葉は、「あなた」に臨んでいるのです。
 その人を立ち上がらせる神の言葉について、私の友人の岩本遠億牧師が「自分の力で立ち上がれない者を」という三分半程度の短いショートメッセージの中で語っています。下記のアドレスをクリックし、新しいページにある▶マークをさらにクリックしていただくとそのショートメッセージをお聞きいただけます。


https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2aq3vv?fbclid=IwAR0xdJZ2sI3pGShp9P7EhDfChlRqYGvonpxdWuQXhmZFDWGdDevOdrXJ8XA&%24web_only=true&_branch_match_id=943951679210878550&utm_source=web&utm_campaign=web-share&utm_medium=sharing&_branch_referrer=H4sIAAAAAAAAAwXBWw%2BCIBQA4F%2BUdFnXrTUXxvSl0gfJNxHosEhOQmj%2Fvu%2BDENAfCPHogtG%2Ftu%2FADbNRiaRFTKzpX0SRTeWeMWPrBRUnLTpr5DEf03I%2ByaJZ%2BnyFrALc37YZUH0GW34eLLoeJ1l%2F7xzezYXWTFIVr3LgxY6nfwBKGV11AAAA

この岩本牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものですが、岩本牧師の御許可をいただいて転載したものです。