2019年8月20日火曜日

全部忘れちゃった・・・健忘症の話じゃないですよ。


      全部忘れちゃった・・・健忘症の話じゃないですよ。


 実はね、私はこの年になっても、おもちゃ屋が大好きで、町でおもちゃ屋を見かけるとふらふらっと入って言っちゃうんですよ。そこでね、この前も、やっぱりおもちゃ屋を前を通り過ごすことができないで、誘い込まれてしまいました。

 そこは、かなり大きなおもちゃ屋でしたが、そこで、おばあちゃんが、孫娘を連れてきていました。かわいい孫に何か買ってあげようっていうんでしょうね。ほほえましい風景です。

 ところが、そのとき、その4,5歳ぐらいの女の子が、しっかりとおもちゃを握りしめて、おばあちゃんに、「この前もらったお金は、いちっばん欲しいものを買うために大切に取ってあるの」てそう言っているんです。

 用は、「自分のお金は、いっちっばん欲しいものを買うために取ってあるから、このおもちゃはおばあちゃん買って」っていいたいんでしょうね。そんな孫娘に、そのおばあちゃんは微笑を絶やさずに、「でもおまえ、この前も、そんなこと言っていたけど、その大切に取ってあるお金って、もうとっくに使っちゃたじゃない」ってそう言ってました。

 どうやら、その子は、自分がすでにお金を使い切っていることを忘れてしまっていたようです。まぁ、こんな年端の行かない子供ですから、仕方がないといえば言えないのですが、でも、子供であろうと、大人であろうと、人間、都合の悪いことは決して忘れないものですよね。借りたお金なんてけろっと忘れてしまっていたりして。

 反面、人のした悪や自分に対してされたひどい仕打ち、あるいは恨み言などは決して忘れないものです。だからこそ、そろそろこの時期になってきますと、毎年のごとく、怪談話がテレビや映画に登場してくる。「このあの世でも決して忘れず、末代までたたってやる」ってね、決して忘れない。

 ところが、聖書には、神様は、神様の心を痛め、悩ませた「私たちの犯した罪」をみんな忘れてくれるっていうんです。もちろん、私たちが、神様の心を痛め、悩ませたんだって言いたい気持ちはわらないわけではありません。

 でも、私たち人間が、人を憎んだり、恨んだり、ねたんだりするといった心。どんなに表面上は取り繕っていても、そうった心が、私たちの中にあるならば、そのことに神様は「心を痛め、悩み、悲しんでおられるのです。聖書は、そう言った心を含んで「私たちの犯した罪」って言うんですね。

 もちろん、心の中だけでなく、実際に何か犯罪を犯したり、人と激しく争ったりするようなことがあるならば、それは言うまでもないことです。

2019年8月8日木曜日


大切な失くし「者」

先日ね、私の家にあるゴジラの人形の背びれの一部分が、抜け落ちてなくなってしまったんですよ。ほんの1センチ程度の部品なんですけど、大切にしているものでしょ。だから妻と私で捜し回りました。 
妻なんて、掃除機を空けて、吸ったごみの中まで捜しまわりました。結局、カーペットの下からみつかったんですけど、大事にしているゴジラですから大騒ぎでした。もし見つからなかったら、製造元のおもちゃ屋に電話して、頼み込んででも、代わりの部品を送ってもらうことも覚悟してたぐらいですからね。 
でもこれは人形の部品ですから、仮になくなってしまっても代わりの部品で済まされます。でも、人間だとそうはいきませんよね。

私の子供がまだ小さかった頃、それこそ2歳か3歳いかない頃に、家内が着替えをさせている時に、電話は何かで、ちょっと目を離したスキに、いなくなっちゃったんですよ。 
それで、家中捜したんだけれどみつからない。どうやら外にでていってしまったらしいんです。それど、家の周りを、それこそ声をあげながら名前を呼びながら捜しまわったんです。でも見つからない。そのときの家内の顔はね、もう青ざめてましたよ。 
 それで、警察に子供がいなくなったって電話したんです。そしたら、「どんな特徴の子ですか」って聞くわけです。どんな特徴ったって、裸ですよ。これほどの特徴はないでしょだから、裸の子ですっていったら、「ああ、裸の子ね、保護してますよ」ってね。もうほっとするやら嬉しいやら。

 大切な、かけがえのない子供です。確かに私には3人子供がいます。だから、ゴジラの部品のように、代わりのものとはいきません。たとえ、他に二人子供がいたとしても、その子の代わりになるような子なんていないじゃないですか。一人一人がかけがえのない、大事な愛する「私の子供」なんです。

 あのね、聖書は、キリストを、良い羊飼いのようなものだといっています。どんな良い羊飼いかって言うと、1匹でも、羊がいなくなったら、残りの99匹をおいてでも捜し回るような羊飼いが良い羊飼いだっていうんです。
 でもおかしいでしょ。99匹を残して1匹を探し回っている内に、残りの99匹に何かあったら大損害じゃないですか。ですから、損得勘定を考えれば、本当に良い羊飼いかどうかは疑問ですよね。

 じゃぁ、どこが「良い」羊飼いなのかのかっていうと、結局、たとえ1匹でもいなくなったら、後のことも考えずに捜しに飛び出すほど、1匹1匹の羊を大事に思い、大切に思っている。そのような羊を大切に思い慈しんでいるからこそ良い羊飼いだって言うことなんでしょうね。 
つまり、キリストは、私たち一人一人を、つまりはあなたを、かけがえのない「ひとり」として大切に思い、慈しんでおられるお方だと、聖書はそういいたいんですね。キリストにとって、あなたは、かけがえのない大事な愛する「私の子」なんです。

キリストは、今日もあなたの名前を呼びながら、あなたを捜し歩いています。そういった意味では、聖書は、あなたを呼び求めるキリストの声であるといっても良いだろうと思います。
ですから、どうか聖書を通して、あなたを呼び求めるキリストの愛のこもった声を聞いて欲しいなってそう思います。