変わらないもの
この新型コロナウィルスによる一連の騒動は、私たちの生活に大きな変化をもたらすのではないかと言われています。そして、それは教会の在り方にも変化をもたらすと言う声も聞こえてきます。たとえば、このみんなが公の礼拝に出席することを自粛する中で、これからの無理に会堂に行かなくても礼拝は、ネット礼拝でも十分やって行けるし、交わりもネットでもできるのではないかといった意見も出てき始めています。
もちろん、そのような意見に反対する意見も多くあり、ただちにキリスト教全体が、ネット礼拝に移行するということではないでしょう。礼拝というのは、私たちキリスト者の信仰生活の中心にあることですので、教会とは何か、また礼拝とは何かと言うことを十分に検討し考えることなくして、そのような重大な変更を行うことは、キリスト教の本質を損ねることにもなりかねません。だから、慎重に考えていく必要があります。
そのような中、カトリック教会は礼拝(カトリック的表現では典礼)をどう考えて来たのか、あるいは正教会(ロシア正教など)は、礼拝(正教科の表現では奉神礼)をどのように捉えているかについて、学びつつ調べています。
その中で分かったことは、カトリック教会も正教会も、礼拝において神の御言葉に耳を傾け、説教の言葉に耳を傾けるだけでなく、聖餐も説教と同じように、またある意味、聖書朗読や説教以上に礼拝において重要な役割を負っていると言うことです。また、賛美もプロテスタントの教会以上に用いられています。それは、礼拝全体の雰囲気を通して、五感のすべてを通して、神の臨在を感じ取り、神の存在に触れようとするためです。
ただ、神を知性によって知る(知解)のではなく、五感を通して全身で神に触れあうことで神というお方の存在と交わろうとしているのです。
私たちプロテスタントは、聖書主義に立ち、聖書という神の言葉を尊び、聖書の権威の前に頭を垂れてきました。それは決して悪い事でないのですが、そのために神を知ると言うことが、聖書を読み、そこから知識や知性によって理解するという面が強くなり、古代の教会から受けついてきた全身で神と交わるという側面が弱くなっていることは否めない事実です。
しかし、この新型コロナの騒動の期間を通して、私は、改めて聖餐式の大切さを教えられましたし、賛美の重要性を学びました。そして、一日も早く、みなさんと共に聖餐のパンとぶどう酒に与り、また共に賛美したいという願いがより強くなりました。