真価が問われる信仰
御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。 テモテへの第2の手紙4章2節
上記の御言は、使徒パウロが彼の弟子であるテモテに宛てた手紙の中にある一節です。ここで言われている御言葉とは、いったい何を指しているのか。私たちは、御言というと、すぐに聖書を思い浮かべますが、パウロの時代には、まだ新約聖書は成立しておらす、聖書と言えば旧約聖書を指しています。
パウロは旧約聖書を決して軽んじめてはいません。神の言葉であり重要なものだと認めています。しかし、それ以上に重んじられたのがイエス・キリスト様ご自身であり、またイエス・キリスト様が伝えられた神の王国が到来したという福音でした。そして、イエス・キリスト様を主と告白する者は、このお方に繋がるキリスト者としてイエス・キリスト様の生き方に倣って生きることなのです。
ですから、ここでパウロが、「御言を宣べ伝えなさい」と言っているその「御言」とは、イエス・キリスト様ご自身のことであり、またイエス・キリスト様がもたらした神の王国の到来を告げる福音であり、また、イエス・キリスト様に倣って生きるキリスト者の生き方なのであると言えます。それを、「時が良くても悪くても」しっかりとやりなさいとパウロはその弟子に伝えるのです。
今、私たちが置かれている新型コロナウィルスの世界的感染拡大状況は、キリスト教の信仰においては最悪の事態であり、最悪の時です。それは、私たちの教会だけでなく、多くの教会が礼拝を自粛しているということが明らかにしている事実です。
しかし、そのような最悪の時であっても、私たちは、キリスト者としてしっかりと生きることが求められています。最悪の時でもキリスト者としてしっかりと生きる。それは、このような最悪の事態であっても、喜びを持って神を礼拝し、互いに祈り合い、支え合いながら生きることです。幸いなことに、現代はインターネットなどの様々な通信ツールがあり、印刷物を造り送ることができる通信システムが発達しています。ですので、かつて中世の時代にペストが流行した時代のように、感染症で人々が分断されることなく、パソコンやスマートホン、あるいは郵便を通して、教会に集まり公の礼拝を守ることができなくても、様々な工夫をし、ともに礼拝に与ると言うことができます。
もちろん、それらは、代替品であって完全なものではなく、不十分なものです。ですから、それで満足していいと言うものではありません。教会は、神と私たち一人一人の個人の交わりだけではなく、神の民である私たち一人一人の共同体の交わりでもあるからです。また、礼拝堂での公の礼拝は家庭という中では再現し難い、神の王国に呼び集められた神の民の交わりを表現するものであり、この世界に内在する神の王国の持つ超越的側面を顕ものなのです。ですから、私たちは代替品ではなく、本来あるべき姿の礼拝堂の公の礼拝に集うことを待ち望まなければなりません。代替品を本物にすり替えてはならないのです。
ですから、共に礼拝堂に集う公の礼拝が再開することを待ち望むという待望の思いを持って、今の「時が悪い」状況にあって、ネットや郵送される週報や説教原稿を用いながら神を礼拝し、このような「時が悪い」状況にあっても、何とか神を礼拝するめぐみの中に置かれていることを喜びながら、再び共に教会の礼拝堂で共に祈り、賛美し、神を礼拝する希望を持って歩んでいきましょう。今、私たちの信仰の真価が問われているのです。