2018年8月29日水曜日

支配の構造 ーガッツポーズを巡ってー

 夏の高校野球も終わり、その余韻も少しづつ冷めて行っている。
最近は、高校野球も、プロ野球もみなくなったが、高校野球を巡る気になる記事がずっと心に引っかかっている。
 それは、甲子園で創志学園学園のピッチャーが、投球の際にガッツポーズをするのを審判から咎められ、それによって投球のリズムを壊してしまったのではないかという記事である。その記事によると、過度のガッツポーズは相手に対する礼を失するので、暗黙の了解としてあるということらしい。
 相手に対して礼を失する行為を禁じるというのは、私が経験した剣道にもある。それは審判規定にも謳われており、一本を取った際にガッツポーズをすれば、過度であろうとなかろうとその一本が取り消されるということもある。そのようなことは実例としてある。
 高校野球と違うのは、暗黙の了解ではなく、審判規定、いわゆるルールブックに明記されているという点と、過度であるかないかに関わらず、礼を失する行為が行われれば、一本は取り消されるというのだ。
 高校野球を見ている限り、ガッツポーズ自体が相手に礼を失する行為に当たるかどうかはについては熟慮が必要だ。そして声をあげて雄たけびを上げる行為も相手に礼を失する行為と言えるかどうか疑わしい。なぜなら、打者がホームランを打った、あるいはタイムリーヒットを打った跡などに、しばしばガッツポーズをするのを目にするからだ。打者には許されて投手には許されないとするならば公平性を欠く。
 けれども、打者を咎める審判を見たことがない。いや一度だけあった。水分と昔、ホームランを打って大喜びしてベースを回っている選手が咎められホームランを取り消された打者がいた。しかし、それ以後はずっと見ていない。
 また、サヨナラゲームでホームに帰ってきた選手が雄たけびを上げ、ベンチから選手が飛び出してきて大喜びしているシーンは、甲子園でしばしばみられるし、優勝したときなどは、みんな抱き合って喜んでいる。あれは負けたチームに対して礼を失していないのだろうか。
 私はガッツポーズの善し悪しを問題にしてるのではない。問題は暗黙の了解とか、あいまいな部分をもったまま、すなわち自由裁量の部分を持たせたままで絶対的権威を持つ審判に与えていることなのだ。このようなあいまいな裁量権をもったままで、権威を持つ存在がその権威をもってその裁量権を振るう時、そこには一種の支配の構造が生まれる。そのことが問題なのだ。
 あいまいなもの、暗黙の了解というものは、権威を持つものが誤った時、その権威を是正をすることができない。だから、その権威を持つものに問題を感じても、それを糾弾し是正するすべはないのだ。そしてそこに起こるのは、抗うことの出来ない権威や権力を持った者の支配の構造である。
 今回の創志学園の投手のガッツポーズの問題も、「暗黙の了解」と「過度な」いうあいまいさの中で解決されるのだろう。そこには、高校野球を支配する者の支配の構造がある。

2018年8月6日月曜日

73回目の広島原爆記念日

今日は、73回目の広島原爆記念日。
73年前の今日、広島に原子爆弾が投下され、多くの人の命が奪われた。
戦争においては、多くの人の命が奪われ、悲しい出来事が繰り返し行われている。
そのような悲惨な出来事に巻き込まれて奪われる命に優劣はなく、いずれの死も傷ましい出来事である。
 しかし、それでもなお原爆投下と言う出来事は、決して忘れてはならない出来事としてこうして毎年繰り返しこの日を記念し、その悲劇を語り継がれている。それは、73年の今日、広島で起こった出来事がいかに悲惨で、非人道的であったかということであろう。そして、この日は、戦争と言うもっとも愚かで悲惨な結果をうみだした出来事の頂点にある人間の愚かな行為の象徴でもあるのだ。

 しかし、ここで一般論的なことを言おうと言うのではない。一人のキリスト者としてこの問題について切り込んでみたいのだ。というのも、この時期にアメリカでは原爆投下の是非を問うアンケートがなされるが、半数近い人が、是とし肯定する考えを持っているからだ。いったいこれはどういうことなのか。
 私はキリスト教の信者であり、キリスト教の牧師である。福音派と呼ばれるアメリカでの大多数のキリスト者が属するグループに身を置いている。だからこそ、この結果に驚きと悲しみを禁じ得ない。
 原爆を投下していい理由などどこにもない。それをあるというのは、いじめにおいて、いじめた側がいじめられた人間にも問題があると言っているに等しい。それでもなお、あの広島における原爆投下が正しいと主張するすれば、それはアメリカ人であるということの誇りを守ろうとする自己義認であり、自己正当化ではないのか。自己義認と自己正当化は、宗教改革の際にルターが人間の罪の根源として指摘したものである。だとすれば、原爆投下を正当化するキリスト者が、その罪に陥っているということにはならないのあろうか。

 もちろん、原爆が投下されたという歴史的出来事をもって、アメリカ人が悪いとっているのではないしアメリカという国家が悪いと言っているのではない。その責任をとれとアメリカ人や、アメリカと言う国に要求するのでもない。むしろ大切なのは、原爆投下という悲惨な攻撃を行おうと意思決定したプロセスとその動機を明らかにし、その問題点を明らかにして、同様の悲劇を繰り返さないことである。
 原爆という歴史的出来事は、単に投下されたと言うことだけが歴史的事実ではない。それを投下すると言う決断がなされ実行される過程の中で、誰が、何のために、その決断をしたのかと言うことまでも含んで歴史的出来事なのである。それを歴史学的な方法論に基づきながらつまびらかに明らかにしていくことで、原爆投下という出来事が、初めて正しく評価され、責任が明らかになるのであって、民族感情やナショナリズムよって評価され、正当化されるべきではない。ましてや、その評価や正当化が自己義認や自己正当化から出ているとしたら、キリスト者としては、あってはななないことではないのか。しかし、悲しいことだが、アメリカの福音派の中から、そのような声がほとんど聞こえて来ない。

 罪を悔い、それを改め、神の前に真摯に生きて行こうとするのがキリスト者の生である。それは日本のキリスト者にもアメリカのキリスト者にも言えることである。そのように罪を悔い、それを改め、神の前に真摯に生きて行こうとするためには、原爆と言う出来事の真実を明らかされなければならない。それがあって、はじめて神の前に真摯に生きられるのではないだろうか。
 戦争は様々な悲劇を生み出した。そこにおいて、私たちは人間の持つ愚かさを露見させた。だからこ、その悲劇を民族環境やナショナリズムによって捉えるのではなく、神の前に立つ一人のキリスト者として捉え見る必要がある。