2024年4月10日水曜日

神も仏もいない世界の真ん中で神の名を叫ぶ

 「神も仏もいない世界ん真ん中で叫ぶ」

 旧約聖書には、ヨブという人の人生が書かれたヨブ記というものがあります。このヨブという人物の人生は、波乱万丈の人生です。人生の前半は、神の祝福を得て、経済的のも恵まれ、また多くの子供たちにも恵まれたものだったのですが、突然、その人生が全く逆転してしまいます。

 ある日ヨブは、外国から来た略奪者やあるいは自然災害によって、ヨブの持っていた財産、その当時は牛や羊と言った家畜や、使用人たちですが、そのすべてを失い、また子供たちもみんな失ってしまったと聞かされるのです。

 しかしそれでもなお、ヨブは「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」と言って、苦しみと悲しみの出来事に出会っても、その出来事に向き合い、前向きに生きて行こうとするのです。

 ところが今度は、そのヨブ自身が病に侵されます。そして、その病の中で苦しみぬくのです。そのような中でヨブは「どうしてこのようなことが自分の身に起こるのか」を問いあます。その葛藤の中で、時に友人たちが、ヨブがこのような災難に会うのは、きっとヨブが何か罪を犯したために、その報いを受けているのだと責め立てるのです。これらの友人の言葉は、悪意があってのことではなかったでしょう。しかし、その言葉がより一層ヨブを苦しめるのです。

 実は、このヨブが経験した苦難の背後には、思いもよらない理由がありました。それは、神とサタン、日本語では悪魔と訳される存在ですが、そのサタンと神さまがヨブを巡って議論をしたという出来事です。悪魔は神に向かい言います。

「神様、あなたはヨブが立派な人間だ、見上げた信仰だと言われる。いや何ね。私は何もヨブが立派な人間でないとかいいかげんな信仰だなんていいませんよ。確かにヨブは立派な人間だ。見上げた信仰だ。でもね、そりゃ神様、ヨブはあなたから祝福を受け、多くの財産が与えられ、守られているからでさあ。ヨブだって、財産のすべて、神様あなたが祝福してくださったと思えること全部を奪ってごらんなさい。たとえヨブと言えど、手のひらを返したように、あなたを呪いはじめますぜ」

 「いやいや、サタンよ。言いたい放題言ってくれるね、だが断じてそのようなことはない。なんならヨブを試してみたらいい」。

そのようなわけで、ヨブの苦難が始まったのです。つまりこのヨブの物語は、ヨブの信仰の物語ではないのです。むしろ、神のヨブへの信頼の物語なのです。もちろん、当のヨブには、そんなことは知るよしもありません。ただただ「なぜなんだ。神を信じ、神と人も前に後ろ指を指されるようなことは一つもない私が、なんでこんな苦しみに会わなけりゃならないんだ。神様、いったいなぜなんだ」と神さまに問うのです。その問いは、ヨブの魂の叫びであり、真実なそして神への叫び声なのです。このヨブのような叫び声をあげる経験は、私たちの人生にも少なからずありように思います。

 そのような苦しみの中で、ヨブは神を呪うことはしませんでしたが、神様に激しく問うたのです。「神様、あなたは間違っている。何か間違っているのではないですか」と、ヨブは神さまを問い詰めていきます。

そのヨブに対して神は「ヨブよ、お前は知っているか?」と語り掛けるのです。

「ヨブよ、おまえは知っているか? お前はこの世界が、宇宙がどのように始まり、造られたのか。おまえは海の底を見たことがあるか。世界の果てまでいったことがあるか。知らないことだらけだろう。不思議なことだらけだろう。
 でも、おまえが知らなくても、この宇宙は存在し、私はそれを造り、天地創造からこのかた、その世界と共にあり、私が作ったこの世界を守り宇宙を守ってきた。だとすれば、おまえが苦しんだその苦しみの理由をおまえが知る必要はない。お前が知らなくても、私はちゃんと知っている。そして私はおまえ守り、おまえと共にいる。」

その時ヨブは、本当に、心の底から神を信頼したのです。そのことを聖書は次のようなヨブの言葉で表しています。

 わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います。

こうして、ヨブは、神さまを問い詰めて行った自分を悔います。そして、どんなに苦しみや試練が襲ってきても、神さまは、自分を顧み、共にいて下るのだということを信じ、神さまを前にも優って信頼するのです。そのようなヨブを、神さまは、試練や苦しみに会う以前に増して、多くの祝福を与えたというのがヨブの物語なのです。

 以前、私のパートナーがテレビを見ていて、小説家の遠藤周作が「神も仏もない」というようなところに立って、初めて私たちは本当の宗教をもとめるようになると言っていたと教えてくれました。「神も仏もない」というような苦しみの中で、私たちは初めて、本当に神を求め、神に出会い、神を信じ、神に寄り縋って生きる。遠藤周作は、そう言っているのです。

 私たちの人生にも、「神も仏もない」というような試練や苦しみや悲しみの時があります。そのようなの中で、神を求める時があるのです。その苦しみや悲しみの真ん中で、神を信じ、「私はある」という神の名を叫び生きていくならば、その神の名を叫ぶ人の人生には、神が与えたもう「義の冠」が待っています。「義の冠」は、私たち一人ひとりにも備えられており、神を人事る者に必ず与えられるものなのです。

2024年4月8日月曜日

心の中の葛藤


 15世紀にイタリアを中心としてルネッサンスと呼ばれる運動がありました。そのルネッサンスを適切に表現する言葉があります。それはラテン語の“facere quod in se est”(ファケーレ クオッド イン セ エスト/直訳では「あなたの内にあるものをなせ」、意訳すると「あなたがなりたい自分になりなさい)

 この言葉に通じるような言葉が聖書には、あります。次の言葉です。

あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである」
ピリピ人への手紙2章13節

 ここでは、私たちの心の内に神が善しとされる思いが起こる場があるというのです。そこに神が働きかける時、私たちは神が善しとされる思いを私たちの内に持つことができる。そのような場が、私たちの内にあると、聖書は言うのです。

ところが、同じ聖書でも、旧約聖書イザヤ書55章8節9節には

 わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。

と書かれています。このイザヤ書55章は、神のもとに祝福があるから、神のもとに来なさい、神のもとに帰りなさいと語りかける恵みの言葉が書かれている箇所です。神さまは、私たち人間に「悪しきものは自分の道を選び、主に帰ることをしないから、その自分の道を捨てて神に帰れと呼びかける中で「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっている」言われます。それは、私たちの心の内には、しばしば神の思いや願いとことなる自分の思いや願いが起こってくるという現実があるからだと言えます。

 このように、聖書は、私たちの内には神に善しとされる「善き思い」と神に背き、神のお心に添わない「悪しき思い」の二つがあるというのです。そして、その二つの思いが私たちの心の中に葛藤を引き起こします。パウロという人はは、その葛藤を霊の思いと肉の思いが引き起こす葛藤だと言っていますが、その霊と肉との間にあって葛藤する人間の姿を、神の御子であるイエス・キリスト様の中にも見ることができます。それは新約聖書のマタイによる福音書26章33節から44節において記されたイエス・キリスト様のゲツセマネの祈りです。

 その個所の全部を書きますと長くなりますので、イエス・キリスト様の祈りの部分だけ記しますが、このように祈るのです。


(イエス・キリスト様は)少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」
 更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。

 このゲツセマネの祈りにおいて、イエス・キリスト様の最初の祈りは、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」と祈ります。そこには、自分の中の二つのと異なる思うの狭間に立ち、葛藤する人間イエスの姿を見て取ることができます。

 それは、十字架という苦難の道を歩まそうとする神のお心とその神のお心に従って生きるものでありたいと願うイエス・キリスト様のfacere quod in se est”(ファケーレ クオッド イン セ エスト/直訳では「あなたの内にあるものをなせ」、意訳すると「あなたがなりたい自分になりなさい)とその十字架の死を避けたいと願い、すなわち「この杯を過ぎ去らせる道」を歩もうとするイエス・キリスト様の”facere quod in se est”の葛藤です。

 しかし、二度目、三度目の祈りでは、もはや自分の思いは、もはや現れ出ず、ただ、「わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」と祈られています。そこには、葛藤を突き抜けて、神のお心に従って生きることを願うイエス・キリスト様のお姿があるのです。

 みなさん。私たちは、絶えず善を求める心と、事の善悪に関わらず自分のしたいことをしたいという願いの葛藤の中にあります。そのような葛藤の中で、私はみなさんの内に在る善を求める心に従って歩んでいただきたいと願います。なぜなら、善を求める心は神さま方出てくるからです。  神さまはその御性質において、善です。私たちはその神さまの像(かたち)に似せて作られているのです。つまり、私たちは、善いことをするように作られた善い存在なのです。あなたは、善い者として造られているのです。

 では、どうすれば善いことをすることができるのでしょうか。どうすれば善を選ぶことができるのでしょうか。それは、みなさんが絶えず、そして繰り返し、受肉し、人となられて歩まれたイエス・キリスト様のご生涯を心に刻み、絶えず思い起こすことです。イエス・キリスト様は完全な神の像です。だからイエス・キリスト様に倣って生きるならば、わたしたちは善き者を求めて生きることができるのです。そして、私たちの内にも神の像が与えられている。
 だからこそ、私たちは、イエス・キリスト様の弟子を信じ、イエス・キリスト様を模範とし、このお方に倣い、このお方のように生きていく。そのようなものでありたいと願います。

2024年4月5日金曜日

努力や頑張りではなく

一生懸命頑張ったのに手ごたえがないというのはつらいものです。やれどもやれども達成感がないのです。そうなると、一体どうしたらいいのかと、途方にくれてしまうような気がします。今からお話しする青年も、実はそのような人でした。

その青年は、イエス・キリスト様に「先生、永遠の命をえるためには、どんな良いことをすればいいのでしょう。」とそう問いかけました。それに対してイエス様は戒めを守りなさいそう言われる。そして、具体的に「殺すな、姦淫するな、偽証を立てるな。父と母を敬え、」いった旧約聖書に書いてある十戒と呼ばれる神様から与えられた十の戒めに書かれている、対人関係における戒めをあげ、そして最後に「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」と言うのです。

  この言葉をきいて、青年は「そのような事は、みんな守っています。」とそう言います。「そのような事は、みんな守っています。」といわれると、私たちは「本当かな」と思います。そして、この青年はただの傲慢な人間のように感じさえしてまいます。私たちにはなかなか出来ないことだからです。

 わたしは、この青年は「本当に一生懸命、旧約聖書にかかれている戒めを、忠実に守り、守る為に一生懸命頑張っている。そういった意味では、彼は、神の戒めに誠実な人だった」のではないかと思います。と言うのも彼は、彼は「そのようなことは、みな守っております。何がまだ、かけているのでしょうか。」と問うているからなのです。一生懸命やったけれども、まだ何か足りないものがあると感じているその姿勢には真摯でまじめな態度が感じ取られるからです。
 けれども、そんな聖書の言葉に誠実な人が、どんなに一生懸命聖書の言葉を守っても、努力して頑張っても、自分の心に平安が得られない。心にやすらぎがやって来ない。達成感がないのです。そして自分は大丈夫。間違いなく神の国、天国にいけるという確信が訪れてこないのです。だからこそ、「まだ何が足りないのですか。」「何がかけているのでしょうか」と問っているのです。

それこそ、どんなに一生懸命頑張っても、神の国の平安、永遠の命を自分の手にしたという手ごたえが得られない。そして、どうしたらいいかわからないで戸惑っているのが、この青年だといえます。神の言葉である聖書の教えに従い、それを守ろうと忠実に頑張っているのに、魂に平安を得られない人が、ここにいるのです。

 このことは、実に不思議な事だといえます。頑張れば、頑張っただけの報いが受けられて然るべきです。そう思うのは、今も昔も同じ世の常のように思われます。実際彼は頑張り屋だったようですので、その結果として多くの富を得ていたようです。当時のイスラエルでは、富と言うものは、神様の祝福であると考えられていたのです。神の律法を頑張って守り、忠実に歩むものが、神様からの祝福を得て豊かにされていく。それは、誰にでも納得できるわかり易い理屈のように思われます。

ところが、イエス・キリスト様は、「富んでいるものが天国にはいるのは、ラクダが針の穴を通る方がもっとやさしい。」とそういわれるのです。この言葉に。イエス・キリスト様の弟子達は非常に驚くのです。非常に驚いて「では、だれが救われることができるだろうか。」とつぶやくざるを得なかった。
 神の言葉である聖書の言葉を一生懸命守ろうとがんばっているこの青年は、その努力に対して富をもって祝福を得ている。そのような人がが、天国に入れないとするならば、一体誰が天国には入れるのか。だれもが、あの人なら、神様の祝福を受け手も当然だと思えあれる人であってもダメだというのなら、一体救いはどこにあるのか。弟子たちの驚きは、単に驚愕するといった驚きと言うよりもは、なにか絶望感をただよわせるような響きがあります。

これ以上ないような頑張りを見せても、あなたの努力や頑張りを、イエス・キリスト様はまだまだ不完全だといわれるのです。21節の「もし完全になりたいなら」と言うイエス様の言葉は、「完全になりたいなら」という以上、この青年がまだ不完全だという事をお認めになっている言葉になります。

「殺すな、姦淫するな、偽証を立てるな。父と母を敬え、」いった十戒めにある、対人関係における戒め上げ、そして最後に「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」と言われて、すべてそれらは行なっている言う青年自身も、それだけでは不完全であることがわかっている。わかっているからこそ、イエス・キリスト様のところに尋ねにきたのです。そして、イエス・キリスト様もその不完全さをお認めになる。

 この、頑張って神の言葉を守ろうと努力すればするほど、何かかけている、これじゃダメだと感じる気持ちは、真摯に神に向き合う人が感じる心の様相であるようです。

宗教改革をおこなったマルティン・ルターは、若いころに森を散歩しているときに落雷に会うという、まさに九死に一生を得る経験をしました。そのこと通して、彼は神の裁きというものを、深い恐怖とともに実感するのです。そこで、彼は神様に祈ります。「神様、もしあなたが私を滅びから救ってくださるのなら、私は修道院に入ります。」とそう祈るのです。ルターは神に真摯に向き合うような人でしたから、その祈りにしたがって修道院に入ります。
 そしてその修道院では、一生懸命修養し、修行し過ごすのですが、頑張って、頑張って一生懸命頑張れば頑張るほど、ルターの罪の意識は深められて、心が苦しみます。そしてその罪の意識に恐れ、不安を感じてどうしようもなくなるのです。彼もまた、自分の頑張りではどうしようもない、何か欠けたものを感じたのです。

一体、人間の努力や頑張りではどうしようもない欠けとはなんなのでしょうか。誰もが、彼が天国に生けないとしたら誰が天国にいけるのだろうかと思わせるような人でも、不完全だといわれるのであれば、どうすれば完全になれるのでしょう。ましてや、私たちはどうしたらいいのか。

そんな、青年にイエス様は「あなたが完全になりたいなら、」とそういって、何が欠けているかを示しました。それが「帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすればあなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、私について来なさい。」ということです。このイエス様の言葉は、「帰って、あなたの持ち物を売り払って、貧しい人に与えなさい。そうすればあなたは天に宝を積むことになります。」と言う言葉と「私に従ってきなさい」と言う言葉の二つに分ることができます。そしてその分けられた二つの言葉の、どちらに重きをおくかによって、理解の仕方が変わってきます。

 わたしたちは、「あなたの持ち物を売り払って、貧しい人に与えなさい」と言う言葉が、非常にインパクトがありますので、そちらの言葉ばかりに目が行ってしまいます。そして。「持ち物を売り払って、貧しい人に与えなさい。」という言葉に重きをおくならば、財産を全部施しに使えという社会的な慈善活動をもっとしなさいという意味に捉えることが出来ます。言うなれば隣人愛を限りを尽くして徹底しなければならないということです。

  しかし、「私に従ってきなさい」と言う言葉に重きをおくならば、イエス・キリストの弟子となって、イエス・キリスト様の語られる言葉にじっと耳を傾けてきく」と言う意味になるでしょう。ひょっとしたら、この青年も、わたしたちと同様に「持ち物を売り払って、貧しい人に与えなさい。」という言葉の方に重きをおいて、イエス・キリスト様の言葉を聞いたのかもしれません。だから、「この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去って行ったのです。彼はたくさんの資産を持っていたからです。

 もちろん、たくさんの資産があるがゆえに、それに心が縛り付けられて、イエス様の言葉を受け入れられなかったということもあるかもしれません。しかし、それだけではないでしょう。

 人間は、これ以上ないほど一生懸命頑張っている時に、頑張れと言われるのが一番つらいことだといわれます。必死に頑張っているのに、更に鞭打たれるような感じがするそうです。一体これ以上どう頑張れというのかと言う感じがするようです。。自分のできる限りの事をしているのに、もっとそれ以上といわれると、悲しみながら帰って行くしかないのです。自分ではできる限りの事をしているのに、お前はまだできるだけの資産があるじゃないか、さあそれをやれと言われれば、悲しい顔をして去っていくしかないのです。

 それでは、イエス・キリスト様とは、もうこれ以上頑張れないという人に鞭打たれるお方なのでしょうか。いいえ、そうではありません。この青年は、「私に従ってきなさい」と言う言葉を聞き落としているのです。自分の持っているものを全部売り払って、貧しい人に施しをしてしまったならば、もはや自分の力でできる施しは何もありません。神様の前に、これこれの良いこと事をしましたということのできる材料は、もう何もなくなるのです。

  残されたものは、ただイエス・キリスト様に従っていく、イエス・キリスト様の言葉に聴き従っていくということしかないのです。イエス・キリスト様は、あなたは十分に頑張った。もうこれ以上頑張る必要などない。これからは、ただ神さまと私によりすがって生きて生きなさいと言われているのです・
 ですからイエス・キリスト様の「持ち物を売り払って、貧しい人に施しをしなさい。」という言葉や「富んでいるものが天国にはいるのは、ラクダが針の穴を通る方がもっとやさしい。」と言う言葉は、富を持っていてはいけないというような、富の否定でもなければ、頑張りに更に鞭打って頑張れと言うのでもないのです。

 むしろ、どんなに人が努力して頑張っても手に入れることが不可能な永遠の命や神の恵みといったものは、ただ神を信じ、イエス・キリスト様の十字架の死による罪の赦しといったことを信じる事だけで、手にすることが可能なのだというのです。人の頑張りや努力、残していった功績に関わらず、神の恵みや神の王国で生きる永遠の命が与えられるということは、なんとありがたいことでしょう。ですから、私たちもまた、人間の努力や功績によってではなく、ただ神様を信じる信仰によって生きていく者でありたいと思います。

 そのような生き方を見つけ出したならば、どんなに達成感が得られないようなときでも、あの青年のように、悲しみながらイエス様の前を去っていく事がないからです。むしろ、喜びに嬉々としながら、イエス様の後に従っていける者となっていけるのです。

2024年4月3日水曜日

悲しみの極み

  私は、子供が被害者になってしまった事件や事故のニュースを見聞きするのがとても苦手です。大嫌いと言ってもいい。私もまた子供がいるからです。だから被害にあったお子さんに、自分の子供達の顔が重なり合い、そして親御さんの心に、自分の心が重なり合って、なんとも心が痛み苦しくなってしまいまってやるせなくなってしまうのです。そして、無償に悲しくなる。

 聖書の中にも、いくつか、子供を亡くした親の姿が描かれています。そして、その中の一つに事例を読んでおります時にと、私ははっとさせられ、そして考えさせられたのです。と申しますのも、現実にニュースを通して子供が被害者となった事件などに触れたときには、被害に遭われたお子さん達のこと、その心を思い、また親御さんの心に自分の心を重ね合わせて、心が痛み、悲しみ、その反動のようにして、犯人や、その出来事自身に激しい憤りと、怒りを感じているのに、同じように子供を亡くした親のことが書かれている関署の記事を読んでいるときには、けっしてその悲しみや心の痛みに心を重ね合わせていない自分がそこにいたからです。

 確かに、聖書の中の出来事は2000年も前の遠いイスラエルの出来事ですから、身近な事として感じられないということもあるのかもしれません。。しかし、親の親としての心に時代や地域は関係ありません。子供を失った親の気持ちの痛みは、同じ親ならば心を重ね合わせる事ができるはずです。なのに、聖書を読むときに、私は、そこに描かれている親の心に自分の心が重なり合っていなかったです。今回だけではなく、今までもずっと、傍観者のように、そしてあたかも客観的な観察者のようにして、その記事を読んでいる。

 一体どうしてなのでしょうか。どうして、心が重なり合わなかったのでしょうか。それは、ある意味、変な話ではあるのですが、それが聖書の中の話であったからのように思うのです。聖書の中の話であるがゆえに、私の目と心は子どもを亡くした親に注がれるのではなく、イエス・キリスト様に注がれ、イエス・キリスト様がなされる御業と語られる言葉の向けられ、私の関心はその意味するところが何であるかということに注がれている。それは、ある面、キリスト教の信仰者としては仕方のない事かもしれませんし、当然のことなのかもしれません。しかし、その当然のことの中に、私たちが見落としやすく、また陥りやすい誤りがあるのです。

 それは、私たちの主であるイエス・キリスト様は、悲しみの極みの中にある人のただ中に立たれ、その人に目を向けられ手おられるということです。イエス・キリスト様の目は、それを傍観し、それが私にとってどのような意味を持ち、私の生をどのように導くかという関心を持って見ている私たちに注がれているのではない。むしろ、聖書の中にいる悲しみ・苦しんでいる心そのものに向けられているのです。それに対して、私たちは、ともすれば私とイエス・キリスト様との関係という事に目が向けられ、イエス・キリスト様が心を向けられている悲しみと苦しみの中にある人々を脇に追いやってしまう。時には、全く視野に入れないでいるということもありうるのです。いわば、交わりの中から排除してしまうという誤りを、知らず知らずのうちに犯してしまうのです。

  神の御子だるイエス・キリスト様は、確かに悲しんでいる心に目を注ぎ、悲しんでいるものの傍らに立たれておられる。同じように、イエス・キリスト様の親である神は、そのイエス・キリスト様に目を注ぎ、イエス・キリスト様を通してイエス・キリスト様が目を注いでおられる。神さまと言う存在は、いつも悲しみ、苦しむ人たちに目を注がれているのです。

 その悲しみや苦しみといったものは、しばしば深い苦悩と孤独の悲しみの極みにわたしたちを陥らせます。そして、そのような悲しみの極みの中にある人たちの傍らには、神さまがそっと寄り添っておられるのです。そして神の御子であるイエス・キリスト様も、深い悲しみの極みにある人により添ってくださるのです。

 

2024年4月1日月曜日

神さまはレッテルを貼らない

「レッテルを貼る」と言う言葉があります。これは、人のある一つの特性や特徴を抽出して、その人の外の側面をすべて捨象して、そのがどんな人であるかと言うことを断定的に判断してしまうことです。そして、この「レッテルを張る」と言う言葉は、しばしば悪い意味で使われます。

 たしかに「レッテルを貼る」と言う行為事態、良い意味で行われることはほとんどありません。たいていの場合、レッテルを張るという行為は好ましからざることなのです。そして、人を何かの範疇により分けてレッテルを貼り、それだけでその人の能力や人格、あるいは考え方といったものを含んだ存在の全てを一律的に判断してしまうことが良いことではないのは、皆さんも良くおわかりのことだろうと思います。

 私たちは、決して人にレッテルを貼って判断すべきでありません。また、人は、だれ一人として決してレッテルを貼られて見られるべきものではないのです。そして、神さまご自身もまた、聖書を通して「レッテルを貼る」と言う行為を良しとはしていません。にもかかわらず、キリスト教会の歴史に中には、人や民族にレッテルを貼り、迫害や弾圧を加えて来た過った歴史があります。そのことを、キリスト教会は大いに反省しなければなりません。その代表的な例が、ユダヤ人に対して取って来たキリスト教会の態度です。

 キリスト教会が、ユダヤ人たちを迫害してきた背景には、ユダヤ人達が旧約聖書に約束されていたキリストが来られたのに、その方を拒み、十字架で殺してしまったという出来事があります。そればかりではなく、キリスト教会のモットも原初の段階で、ユダヤ人達はイエス・キリスト様の弟子達の伝道を邪魔し迫害をしていたといったこともあります。
 そのような現実を目の当たりにして見せられますと、最も原初の教会の主要なメンバーの一人であったパウロと言う人物は、「もうユダヤ人達は神から捨てられてしまったのではないか」と問わざるを得なくなってしまうんです。しかし、神はユダヤ民族ということで、その民を捨てられたわけではありません。事実、「神さまはその民をすてたのであろうか」と、そう問いかけるパウロ自信がユダヤ人なのです。

 しかも、パウロ自身が、かつてはほかのユダヤ人と同様に、弟子達が、伝道して歩くのが気に食わず、キリスト様の弟子を捕らえ牢獄に入れ留などの、激しい迫害をしていたのです。そんなパウロが、今は救われキリストの弟子として、伝道して歩いている。この事に気付いたパウロは、神さまは、「ユダヤ人という民族に『ユダヤ人』というレッテルを貼って、全てを捨てられた訳ではないと言うことがわかるではないか」とパウロはそう言っているのです。

  まさに神さまは、人を民族や人種でレッテルを貼るのではなく、一人一人のことをちゃんと見て知っていてくださっているのです。当然、わたしたち一人ひとりの何かの特性や特徴をもってレッテルを貼り、そのレッテルで人を判断なさるようなお方ではありません。神さまは、一人一人のことをしっかりと見て知ってくださっているからこそ、民族や人種に関わらずに、一人一人を救いの恵みにお選えらびになるのです。

 だからこそ、ユダヤ人という民族が神の恵みを放棄したと思われるような状況の中であっても、神さまはそのユダヤ民族の中に、パウロのような人がいることをちゃんと見抜いておられるのです。そうやって、神さまは、たとえ人の目には民族全体が神に背を向けたと思われるような状況の中であっても、ちゃんとその中の一人一人に、丁寧に目を向け、その心の中までも見て下さって、救いの恵みに導いて下さっておられるのです。

 パウロが生きていた時代のユダヤ人たちは、イエス・キリスト様を十字架に架けろと声を挙げた人たちです。またイエス・キリスト様の弟子達を迫害し、パウロの伝道を妨害したような人たちです。表面的には、神から捨てられてしまっても仕方がないと思えるような状況なのです。 けれども、そのような人たちであっても、神さまは簡単にあきらめはしません。もう絶望的だと思われる状況の中にあっても、ほんのわずかな光が見いだせるならば、神さまは絶対にあきらめることはなさらないで、そのわずかな光を追求なさるのです。

 神さまはたとえわずかなものでも、決して見のがさず、また、そのわずかなものを決してあきらめないません。恵みの神はあきらめない神なのです。ですから、わたしたちは、私たちの内に光があることを信じ、自分自身をあきらめてはいけません。また、わたしたちの周りにいる人に対しても、その人の中に光があることを信じ、その人に「あの人はダメだ」などとレッテルを貼ってあきらめてもいけないのです。たとえそれが、どんなにわずかなひかりであったとしても、わずかな光を追求していかなければなりません。決してあきらめてはならないのです。

 それは、神さまが、決してわたしたちを、見捨てることも見放すこともなさらない神だからです。